振り向くと、先ほど講義棟で会った大下教授が汗を拭きながら歩いてくる。どこか人のいい表情が染みついていた。

「大下教授」と、真名が立ち止まって大下が来るのを待つ。

「いやー、夏みたいな暑さだね」と大下がうんざりしたような表情を見せた。その表情が面白くて、真名は少し微笑んだ。
「えっと、朝倉くんのところの神代さん、だったっけ?」

「はい」

「あー、こういうことを僕があんまり口を出すべきじゃないとは思っているんだけどね、どうも気になってね」

「はあ……」

 真名が無意識のうちに緊張する。

「いやね? さっき、朝倉くんとちょっと言い合っていたみたいじゃない?」

「あ……すみませんでした。うるさくしてしまって。朝倉先生とは、ケンカとかそう言うのではなくてですね……」

 就活が微妙な真名であるが、不良素行で教授に単位を取り消されるのは避けたい。誤解のないように説明をせねば。ところが、大下の方は真名の予想していない話題に飛んだ。

「そのときにさ、言ってたでしょ。……名前」

「名前?」

 大下が真名を急かすような表情になる。

「ほら。あの、女の子の――」

「〝栗原浩子〟……?」

 真名がその名前を口にすると、大下が慌てて人差し指を口の前に立てた。周囲を気にしている。思わず真名も一緒になって首を引っ込める仕草をした。特に誰もいないし、守衛もこちらに注目している様子はない。

「その栗原さんだったかな? その人のこと、どこで知ったの?」

「あ、図書館で、古い雑誌を見つけて……」

「ああ……」

 大下は真名の腕を引いて校門から少し遠ざかり、声を潜めた。

「その栗原さんって学生がどうなったかは――?」

「知ってます」

 大下は真名の答えに痛ましそうにしながら、汗を拭いている。

「その栗原さんと朝倉くん、当時の噂だといろいろあったらしいんだよ」

「いろいろ……」

 もう一度、大下が辺りを窺った。

「――朝倉くんの子供をね、妊娠していたらしいんだ」

 真名も周りを気にしながら、それでもいま聞き捨てならない言葉が出てきてびっくりする。

「本当ですか。そんなこと記事には――」

「プライベートでデリケートなことだからね。記事に書かれなかったのだろうよ。でも、僕もね、当時聞いてたんだよ。――子供を堕ろす堕ろさないで揉めてる二人の言い合いをさ」

「それで、浩子せ――浩子さんは自殺された?」

 大下が苦しげに何度か頷いた。

「そういうわけだからさ。何があったか分からないけど、できれば朝倉くんのことはそっとしておいてあげてほしいんだよね」

 朝倉と浩子にそんなことが――?

 真名はどっと疲れがこみ上げた。唇がしびれる。指先が震えた。

 そのあと、大下と簡単に言葉を交わしたはずなのだけど、内容は覚えていない。気がつけば大下は大学に戻ってく後ろ姿が見えた。

 トラックが大きな音を立てて通りを走っている。