はい、こちら「月刊陰陽師」編集部です。



 その日の夜のこと。
 吉祥寺駅からほど近いアーケード、サンロードを大きなトートバッグを持った中年の女性が急いでいた。

 占星術部の顧問である寺沢和子助教だった。

 それほど高くはないがヒールを鳴らしながら駅へ急ぐ。帰るところらしかった。

 吉祥寺駅前は飲み屋も多い。酔っ払いは苦手なのでなるべく飲み屋の少ない道を選ぶと自然にじぐざぐ歩きになった。

 ふと見れば、細面の若い男が小さなテーブルを出して道に座っている。若い男の後ろには手のひらを書いた絵が数枚張られていた。占い師らしい。寺沢と目が合った。若い男はにっこり微笑んで「いかがですか」と声をかけてくる。甘い笑顔はまるで干すとのようだった。

「そうね……。たまにはいいかしらね」

 女子大勤めで若い男からの笑顔になれていない寺沢は、その若い占い師の笑顔にころりと捕まった。左手を出し、若い占い師は笑顔を絶やさず、寺沢の手をやさしく両手で触れた。思ったよりも若い占い師の指先の感触が柔らかく、寺沢は驚く。それと同時に心の中にねっとりとした感情――この若い男を少しいじめてやりたいという気持ちが湧いてきた。

「お姉さんは、普段、人間関係で困っているんじゃないですか?」
 と若い占い師が言ってくる。教授たちのお使いでいらいらすることはあった。けれども〝人間関係〟は多少なりとも誰しも悩むことだ。

「あなた、占いは長いの?」

「自分ですか? そんなに長くないっす」

「でしょうね。まだまだぎこちないし、人間関係で困っているなんて当たり障りのないところから指摘するのだもの」

 そう言うと寺沢は逆に占い師の左手を自分の両手で摑んで開いた。

「お、お姉さん?」
 と若い占い師の顔が引きつる。いい顔だ、と寺沢はぞくぞくした。

 手相見も寺沢は得意なのだ。

「もう五十過ぎなんだからおばさんでいいわよ。――で、あなたの手相は……長生きはしそうね。財運はあまりなさそうだけど、病気一つしないと出ているわ。結婚はあきらめなさい」

 それから寺沢は若い占い師の手を見ながら、それぞれの手相を細かに指摘していった。古い文献に当たらなければ絶対出てこないような専門的な言い回しを入れて。若い占い師が知らないというと、その都度、指摘し、もっと勉強しなさいと付け加える。 

 たまらない快感だった。教授たちなどという俗物の知らない、神のように冴え渡る占いの力を自分は持っているのだ。若い男の占い師など足元にも及ばない。一丁前に占い師の看板を立てているが、私の方が知識も経験も占いの腕も全部上なのだと言うことを教えてやる――。

 そのときだった。寺沢の背後から冷ややかな男の声がする。

「ずいぶんとお詳しいんですね。寺沢助教」

 ぎょっとなって振り返ると、そこに怜悧な顔立ちの若い男とメガネをかけたぼさぼさ頭の中年が立っていた。泰明と昭五だった。

「失礼ですが、どうして私の名前を。どちらかでお会いしましたでしょうか」

 するとぼさぼさ頭の昭五が、いつもと違う厳しい表情で応える。

「寺沢和子助教。占星術部のサークル顧問。あなた、先日のぼや騒ぎでサークルに所属している霊媒体質の女子大生にあやかしをけしかけて操り、しまったはずの水晶玉を出させて収斂火災を起こさせた」

「何を言っているのですか」

「ぼやになって消火されたときに、あなたがなぜ都合よく部室の側にいたか。それは第一発見者になって水晶玉をさりげなくしまっておくためでしょう? そうすればどうやってぼやになったか分からない。分からないなら、サークルの女子大生から部室を取り挙げることができる」

 指さしながらずばずばと指摘する昭五に寺沢は不快な表情を見せた。

「あんまりいい加減なことをいわない方がいいわよ」

「いえいえ。あなたがあの女子学生にしたことと比べれば、よほどまともですよ。ちんけな霊能者さん」

 昭五が淡々と悪口を並べる。普段の人の好い昭五とは別人のようだった。寺沢の顔が怒気に固まる。

「何ですって!?」

「ああ、失礼。ちんけな霊能者なんて言い方……もったいなかったですね。ごみ同然の霊能力で人を惑わずか占い師に勝って悦に浸るしかできないごみ霊能者さん」

 いらいら顔の寺沢が、酷薄な笑みを浮かべた。

「そう。私が霊能者だと分かっているわけか。あなた嫉妬しているのね。私は神の心に心の針を合わせることで力を手にした。千里の彼方を手に取るように見られ、諸行無常の理を悟った。古代からの聖者たちと同じ聖なる奥義を手にしたのよ」

 自画自賛する寺沢に、泰明が厳しい目つきで言う。

「それはただの禅魔の仕業。あんたの霊能力はことごとく悪霊悪魔の障りによる悪霊能力だ」

「侮辱するにも程があるわよ!?」

「おまけに、自分より霊的な才能がある学生――霧島留美さんに、邪な精神統一を指導し,霊媒体質に貶めて悪霊を送り込んで操り人形にすることで、自分のちっぽけなプライドを保っている――たいしたセンセイだよ」

 今度こそ寺沢が怒りと憎しみをむき出しにした。

「な、なぜそれを……」

「ぼや騒ぎの話を聞いたときに、霊媒体質で霊に身体を乗っ取られて水晶玉を取り出したのだろうとはすぐに分かった。けれども、霧島さんは元から霊媒体質だったわけではない。あんたが指導した水晶玉リーディングの精神統一であの体質になった。つまり、あんたは彼女に悪霊能力を授けようとしていたんだ」

 怒りを爆発させそうになっていた寺沢がふと肩の力を抜き、かわいそうなものを見る目で泰明たちを見る。

「何あんたたち。私の霊能力に嫉妬しているの? 大学の助教という知的職業でしかも霊能者。あんたたちとは格が違うの。霧島は私の霊能力を継げなかった凡人なだけでしょ」

 泰明が顔色一つ変えず言った。

「謝罪の言葉が出れば多少は考えてやるつもりだったけど……昭五、やれ」

「はい。本家の命令だ。悪く思わないでくださいね?」と冷たい口調で告げると、さすがに寺沢が恐怖に顔を歪める。

「な、何をするつもり!?」

 寺沢に逃げる隙を与えず、昭五が刀印に結んだ右手を縦横に動かした。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

 九字の呪法だった。

 昭五が最後に縦横に切った格子の中心に刀印を突き出すと、寺沢の髪が強風になぶられるように暴れる。昭五は相変わらず刀印を突きつけたまま冷たく見下ろしていた。
 護身に使われるが、いまの昭五は別の目的のために使っている。

 寺沢は占いには詳しいのだろうが、九字などの呪法には知識がないようで、激しく動揺していた。

「い、いま何をしたの」

「さあ? 聖なる奥義とやらを手にしているならお分かりでしょうに」と辛辣に昭五が突き放し、先ほどの若い占い師の方に目を向けた。
「ご自慢の千里眼でこの占い師のことをもっと言い当ててやったらどうですか? たとえば彼の両親の名前とか。そうしたらあなたの霊能力を崇めてあげましょう」

 寺沢は奥歯を噛みしめながら、先ほどの若い占い師を霊視しようと試みる。

 寺沢にもう少し冷静さが残っていれば、昭五の言った通りに行動している自分の振る舞いに違和感を感じたはずなのだが……。

「この占い師の両親の名前は……名前……名前は――」

 寺沢が震え出す。

「どうしました?」と昭五がわざとらしく尋ねた。

「み、見えない――この占い師の親の名前どころか、親の姿も子供の頃の様子も、見えない」

 さっきまで見えていたのに――。

「昭五に命じて、先ほどの九字によってあんたの霊能力を封印させてもらった」
 と泰明が告げると寺沢が豹変した。

「噓よ、噓。そんなことできるわけが――」

 すると昭五が三日月のように笑う。

「できるのですよ、私なら。――あまりにも霊能力が強すぎて、普段は天気予報以外のすべてを本家の坊ちゃんに封印されている、私ならね」

「…………ッ」

「ついでにそこの禅魔も地獄に叩き落としておきましょう。――喝ッ」

 昭五が刀印を振り下ろす。それだけで寺沢は上から重いものを投げつけられたように膝をついた。

 寺沢の霊能力――悪霊能力を授けていた、禅魔が根こそぎ地獄に叩き落とされる。自分の霊能力が完全になくなったことが分かったのか、寺沢はよろよろと立ち上がった。

「あんたたち、見てなさいよ。もう一度霊能力を手に入れて復讐してやる――」

「三十七」と、いきなり泰明が言う。
「あんたに声をかけてからいままで、さっきの九字の呪法と合わせて、この男は三十七の呪術をあんたにかけている。二度と再びあんたが霊能力を使えないようにな。――術にかかってたから、さっきも言われるままにこの占い師の親の名前を言い当てようとしただろ?」

 寺沢の顔色が悪くなる。噓だと否定しようとするが、先ほどの九字の手並み、振り下ろされた刀印の霊圧はただ者ではなかった。
 悔しいが、占い師の親の名前を当ててみろと言われ、ほいほいと従ってしまったのも事実だ……。

「本家の坊ちゃまがいまおっしゃった通り、三十七の呪術をすでにあなたにはかけてあります。私は陰陽師ですが陰陽師にまったく関係のない、アフリカのブードゥーやドイツのゲルマンの森の魔術も含まれていますし、文献に一切出てこない口伝秘伝も駆使してあります。私以外に解ける人間はいません」

 寺沢の目が激しく動いている。自慢の千里眼を試みているがうまくいっていないのは明らかだった。

「分かっただろう。これが本物の霊能力だ。以後、まやかしの霊能力なしで普通の人間として生きていくんだな。――三十八個目の術だ。『さっさと帰れ』」
と泰明が腹の底から命じる。

 寺沢は顔を真っ赤にして拳を握りしめたが、ふっと肩の力が抜けると泰明たちに背を向けた。そのままとぼとぼと歩いて帰っていく。その顔は呆けたようで、急に十歳以上も老け込んだようにも見えた。


 寺沢の家路につく姿を見送りながら占い師の若い男が被っていたカツラを取る。明るい茶髪と、占い師には不釣り合いな整っていながら軽そうな顔が現れた。占い師に扮していた若い男――律樹が苦笑している。

「やれやれ。馬鹿だねえ。式神の僕に両親なんて最初っからいないのに」

「人間か式神かを見抜けなかった段階で、プロ霊能者失格だ」と泰明が冷たく言った。

「それにしても三十七の呪術とは気張ったねぇ」
 と律樹が笑うと、昭五も声に出して笑った。

「くくく。正直なところいくつ呪術をかけたのか、覚えていませんよ。久しぶりに全力を出していいとお坊ちゃまから――泰明さんから言われてうれしかったもので」

「〝三十七の呪術をかけ、三十八個目で帰らせた〟というのが、言ってみれば三十九個目の呪術かもしれないな」と泰明があくびしている。

 昭五がすっかりいつもの人の好い顔に戻って言った。

「それにしても、泰明さんはおやさしい」

「あ?」

 昭五の意外な言葉に、泰明は変な声が出る。

「だってそうでしょ? 泰明さんはぼやの真犯人が誰か分かっていた。けしかけた顧問を懲らしめてやりたいけれども、騙された女子大生の気持ちを考えるとかわいそうにも思うし、呪術の闇の面をあの明るい真名ちゃんに見せるのもできれば避けたい。だから、真名ちゃんのスマホを切るや、男三人で汚れ役の計画をすぐさま考えたんでしょ?」

 昭五の勘ぐりに泰明は嫌悪感を丸出しにした表情でこう言った。

「倉橋の名において、美馬昭五の霊能力は天気予報以外また封印」

「そんなぁ~」

 昭五が情けない顔をしている。

「くだらないないことを言った報いだ。――あと、俺と律樹の時間外労働分の給料、がっつり請求させてもらうので」

「あはは。さすが泰明。ついでに危険手当もつけてもらおう」

「ええー……」

呪術でもなく、燃える炎でもなく、昭五の情けない声が一件落着のしるしだった。どこかで酔っ払った女性の高い笑い声が聞こえてきた。
 占星術部のぼや騒動の原因を突き止めて三日後、真名は「月刊陰陽師」編集部のレーザープリンタから吐き出される無数のページ見本と四苦八苦していた。

「真名ちゃーん、この校正記号、向きが逆だよ~」
 と、律樹がパソコン島で軽い声を上げている。真名が、校正の指示を記号化した校正記号を書き込んだページ見本が間違っていたのだった。

「きゃー、すみませーん」

 真名が慌てて自分の席から立ち上がり、律樹の席へ急ぐ。今日の編集部には珍しく昭五も含めて全員が集合している。そろそろ入稿日が近づいてきているからだ。

 パソコン島では、背もたれに思い切り状態を預け、反り返るような姿勢でマウスとキーボードを操作しながら、律樹が片方の目をつぶる。

「ま、慣れないうちはこんなもんさ」

「すみませんでした」と真名がしょげる。

「人は失敗を通して大きくなるのじゃ。どんと構えておればよい」
 とスクナがひょっこり現れて真名を励ました。スクナ的にはいまは真名のピンチと認定したらしい。

「でも、今日一日ですでに三回目の校正記号間違いです……」

「……どんどんいくのじゃ」

 自分の席で原稿――某女子大占星術サークルのぼや騒動――を書いていた泰明が顔を上げる。

「校正されることなしに一発でデザインを仕上げない律樹が悪い」

「ちょっと待て、泰明。いまの一言はすべてのデザイナーを敵に回したぞ。そんな一発で完璧な者が仕上がるならもう神さまだよ。人間じゃないって。そんなことが可能ならそもそも校正記号なんて存在しないよ?」

「俺はおまえに限定して言っている。その口数の多さを少し減らしてついでにミスも減らせ」

 律樹が口をへの字にしている。

「ったく、真名ちゃんには甘いんだから」
 という律樹の言葉に、真名は「え?」とか思う。ちょっと頰が熱くなった。護ってくれたのだろうか……。

 律樹の減らず口に対して、泰明は指を弾いた。途端に律樹がフリーズする。

「泰明くーん。律樹くんを止めちゃうと仕事が滞るからやめて~」
 と昭五が情けない声を発した。例によって頭は爆発している。泰明はため息をついてもう一度指を弾き、式神の律樹を再起動させた。

「んだよ、泰明。図星かよ」
 と、よせばいいのに律樹がさらに茶化そうとする。

「ああ!?」

 人を殺せるような目つきで泰明が聞き返した。

「何でもありません」と律樹が直立し、敬礼している。

 やっぱり泰明さんは怖いかも、と真名が思ったら、その念が伝わったのか、泰明が真名のことまで睨んできた。

「神代もよく使う校正記号はさっさと覚えろ」

「はいっ」

 真名は冷や汗を吹き出しながら背筋を伸ばした。


 本日の学び――ドS陰陽師は締め切りが近くなるともっと激しくなる。


 そういうわけで、真名は授業の休み時間などを使って校正記号の本を何度も目を通していた。
 無機質な記号ばかり見ていると訳が分からなくなってくる。
 だからといって、雑誌の性質上、見本をこっそり持ち出して勉強できないから仕方のないことだった。

 二限目を自主的に休講にする。
 出席日数は大丈夫だなはずだった。それよりもいまは泰明の役に立ちたいし、入校日に向けてみんなの足を引っ張ることもしたくない。
 構内のカフェで紅茶を飲みながら校正記号を眺めたり、「実践・初めての取材」みたいな本をぱらぱらやっていると、LINEが通知を告げた。
 留美だった。
 昼食を一緒にしないかと書いてある。
 このタイミングでLINEが来るなら、留美も二限が休みだったのだろう。カフェにいると返すと、すぐに既読がついた。

「こんにちは、真名さん」
 と、返信の代わりに留美のやさしげな声がした。

「こんにちは。早かったですね」

「近くにいたので。――お勉強中でしたか?」

「ううん。例の雑誌編集のアルバイトのだから、大学の勉強じゃないですよ」

 留美の話では、占星術部の方はあっさりと辞められたらしい。他の、名前だけ在籍していたクラスメイトも一緒に辞めたそうだから、このままなら廃部になるだろう。サークルを辞めるときに一応、顧問の寺沢に知らせに行ったが、寺沢は妙に疲れていたそうだった。教授にこき使われているのだろうと留美は同情している。

 留美も真名も、顧問の寺沢の〝不調〟の本当の理由が泰明たちの調伏によるとはつゆほども気づいていなかった。

 荷物をまとめた真名が伸びをして立ち上がる。

「ごはん行きましょうか」

 すると留美が笑った。

「ふふ。真名さん、面白い」

「え? そうですか」

「だって、お昼ごはんがすごく楽しみみたいな感じで」

 真名はちょっと顔が熱くなる。

「あ……そんなにお腹がすいていたってわけじゃないんだけど、あんまり友達がいないから誰かと一緒にごはんが食べるのがちょっとうれしくって」

「何言ってるんですか、そんなにきれいなのに。私こそ、一緒できてうれしいです」と留美が苦笑いした。真名も照れたように笑うしかない。陰陽師の家に生まれた特殊性を離しても始まらないからだった。

 二限がまだ終わっていないので、食堂は空いていた。
 今日の日替わりは油淋鶏定食で、ふたりともそれにする。ランチのトレイを持って向かい合う席に座ると、何だかとても仲のいい友達ができたみたいでうれしくなった。

「いただきます」と手を合わせてふたりは食べ始める。

 からりと揚がった油淋鶏にネギだれをたっぷりからめて口に入れた。
 歯を立てると衣はかりっと、肉はやわらかくてジューシーだった。
 鶏肉の旨みとたれの甘み、ネギの風味に舌が喜び、ごはんが進む。
 ワカメスープのごまも香ばしく、付け合わせのキャベツの千切りもたれが絡んでおいしかった。

 おしゃべりをしながらランチを楽しんでいると、留美が何気ない顔で直球を放ってくる。

「泰明さんとはどういう関係なんですか」

「や、泰明さん!?」

 口の中の油淋鶏をよく噛まないで丸呑みして喉が痛くなった。

「ほら、私、占い好きじゃないですか。占いの定番と言えば恋占いですし。いやー、何かいい感じじゃないですか」

 サークルは辞めたが根っこの所は変わっていないらしい。

「えー。そ、そうですかぁ……」

 根っこの所が単純な真名は、満更でもなく思ってしまった。

「ああいうツンケンしたタイプは母性に弱いんですよ?」

「本当ですか」

「タロットで出てました」と留美が重々しく頷いた。

 ふと気になって頭上のスクナに意識を向ける。

「うん? 母性と言われてもスクナにはよく分からんのじゃが、少なくとも若い真名にはまだまだ母親の如き包容力はないじゃろ」

 だよなぁ、と自分でも思う。むしろ真名の方がまだお母さんに甘えたい。

「母性かぁ……」と真名が唸ると、留美が無責任に応援した。

「目指せ、男のわがままを包み込む大人の女、ですよ」

 ドS陰陽師を包み込めるような懐の深い自分を想像しようとして、真名は失敗する。

「どうやったらそんな大人の女性になれるのでせうか」

「タロットには出ていません」

 留美の無慈悲な返答に真名がくずおれたときだった。

「あら、今日はお友だちと一緒?」
 と、落ち着いた大人の女性の声がした。声のした方を見ると、資料をたくさん抱えたメガネ姿の浩子が立っていた。

「ああ、すみません……」

 真名が慌てて椅子に座り直し、髪を直す。そんな真名を見て、浩子がやれやれという氷上で見下ろした。

「聞いたわよ、真名ちゃん。最近授業をサボりがちだって」

「…………」と、真名は無言で目をそらした。

「いまも英文学Ⅱの授業中じゃなかった?」

「バイトでまだまだ半人前で……」

 そのために勉強を今日もしていたのだと言おうとしたのだが、

「バイトより授業が学生の本分でしょ?」

 浩子がメガネを直しながら言う。浩子のメガネがきらりと光った。真名はちらりと留美を伺う。留美が不思議そうな顔でこちらを見ていた。とんだ赤っ恥に耳まで赤くなってしまった……。

 食堂に華やかな声が一気に増えた。午前中の授業が終わったらしい。

 浩子が研究室に戻っていくのを見送ると、早めに食事を取っていた真名たちはしばらく食後のおしゃべりをしたあと、ほどほどのところで食堂を出た。
 そのあとふたりで大学の書店を歩いて小説を一冊買い、留美と別れた。
 浩子にあんなふうに釘を刺されてしまったのだ。午後の授業は真面目に出よう……。

 午後の授業は民俗学である。家のこともあるし、専攻以外の自由選択科目として取ってみたのだ。

 准教授が大学院生に研究発表をさせることになっていた。その院生は、フィールドワークと称して各地のパワースポットを巡ってまとめたという。簡単なパワーポイントの資料を配り、ホワイトボードに画面を移してレポートの内容を発表していた。
 ボブヘアで目の大きい、姉御肌を感じさせる活動的なイメージの院生でいかにも戸外での研究が似合っている。明るく笑顔で資料を配っていた。きっと合コンでもおモテになることでしょう。

 ところが、だった。

 発表の流れがだんだん怪しくなっていく。

 最初は各地のパワースポットの紹介だったのだが、それにまつわる具体的な神話伝承をさらったあと、実際にその地を訪れた人へのインタビュー、自分自身のパワースポット訪問記になっていくと院生の発表内容は明確になっていた。

 この発表は〝パワースポットは噓である〟という結論になるように論を立てているのだ。曰く、多少の磁気の変化、近くにある温泉と地熱の影響、偽薬のプラシーボ効果にも似た思い込み……。

 どうしてこの授業でその結論にいけるのか、真名としてはまったく理解不能だった。実際に霊的世界を知っている真名――頭の上には神さまも乗っている――からみれば、この院生の発表は目の前にいる烏をいかに「この烏の色は黒ではなく、白である」と強引に証明を試みているようにしか見えなかった。

「うーむ。ずいぶんたくさん憑けてきたのう」

 頭の上のスクナがしみじみと言う。呆れるを通り越して、感心していた。真名はスクナの言葉の真意を確かめようと、見鬼の才に集中する。

 すると――。

「うっわぁー……」

 思わず嫌悪感を含んだ声を出してしまい、周りに白い目で見られた。真名は恥ずかしくなって首を引っ込める。

 姉御肌の颯爽とした院生の身体中におびただしい数の虫と爬虫類がしがみついていた。特定のあやかしではないと思う。しかし、これだけの数の虫や爬虫類の憑依を背負うとはどういうことなのか。

「ぱわーすぽっと巡りとやらをしたせいじゃよ」
 とスクナが真名の心の中の疑問に答えてくれた。

(パワースポットって神さまのお力をいただけるんじゃないんですか)

「基本はそうじゃ。ただそれは信仰心ある者が正式な作法に則って参拝した場合じゃよ。真名だって、見ず知らずの人が横柄な態度で家に来て食事を要求してきても従わんじゃろ? ましてや家を積極的に荒らしに来たヤツならどうする?」

{警察を呼びます}

 スクナが頭の上から机――真名の目の前に飛び降りた。

「スクナたちがあのような虫や爬虫類の邪霊をけしかけるのではない。参拝する者の心が違っていれば、その心に応じた答えが与えられる。あの大量の虫と爬虫類の邪霊は、あの女が神々へ抱いている疑いと嘲笑がそのまま跳ね返った姿じゃよ」

 壇上ではそんな憑依を背負っているとは無自覚な院生が次々と日本各地のパワースポットの写真をホワイトボードに写して、「これも噓、ここも科学的に偽物」と説明している。その表情が真面目であればあるほど、真名には何とも心が痛んだ……。

 そのときふと、真名は現在、絶賛入稿準備中の「月刊陰陽師」の特集記事を思い出した。バッグから台割を取り出し、確認する。今月号の特集は「決定版・パワースポット対策――ここを護れば霊場は荒らされない」。

 出来上がったあかつきには、この特集だけでもコピーで渡せないだろうか。根がお人好しな真名はそんなことを考えている。

 隣の教室では何をやっているのか、どっと学生たちが笑う声がした。
 

 高田馬場の「月刊陰陽師」編集部に行き、真名が今日の授業であったことを話して一部記事の内容をその院生に渡せないだろうかと言うと、泰明はこう言った。

「却下だ」

 さすがドS陰陽師の面目躍如といったところだ。

「はは……。ですよねー」

 絶対零度の眼差しで斬り捨てられた真名が乾いた笑いを浮かべる。けれども、泰明が真名の言い分を却下した理由は、想像していたこととはやや違っていた。

「そもそも最初から否定している人には何を見せても無駄だ。目の前で霊現象を起こしても適当に理由をつけるか、偶然と思うか、『でも、信じない』とかたくなに否定する。そういう連中の無明をかち割るためにモーセは海を割ったし、イエスは死から復活したし、陰陽師は式神を使うのだけど」

 泰明がため息をついた。編集長席の昭五が付け加える。

「今回の特集は、結局、明確に神仏やあの世を信じていないけれども、パワースポット程度は信じている、というごく普通の〝パワースポット巡り〟の人たちで困っている現場への助言だからね。真名ちゃんが話したレポートをまとめた院生のような確信犯は本当に困るんだよね」

「打つ手がない、みたいな?」

「そうそう。聖域を荒らされるからね。締め出すしかないかもなあ」

 真名は入稿準備が整ってきたページのうち、例のパワースポット特集を手に取った。

「パワースポットになったとき、神さまを怒らせないために気をつけること」「パワースポットで観光客が増えたときの磁場の守り方」などの見出しが躍っている。
 近くのコンビニで売っている雑誌ではまず取り上げないテーマだった。
 さすが業界紙である。物事は切り込み方や角度でずいぶん印象の違う記事になるのだなあと真名は妙な感心をしながらも、ふつふつと疑問が湧いてきた。

「パワースポットになって人がたくさん来るようになると、神さまって嫌なんですか?」

 原稿の手を休めた泰明が、真名の方に椅子を回転させる。

「神さまによる。人間と一緒で神さまにだって個性があるからな。来る者拒まずで人をもてなすのが好きな神さまもいれば、神さまは静寂で聖なる空間で神さまらしい威厳を保つべきだと考える神さまもいる。今回の特集にも書いてあるけど、特に問題なのは峻厳で威厳のある神さまを祭っている場所が〝パワースポット〟となること」

 真名が手元の紙束をめくった。威厳のある神さまの場合は、やはり人間が礼節を護らなくなったら〝神罰〟が下ることもあるとさらっと書いてある。

「〝神罰〟が来るんですか」真名は戦慄した。

「こういうのはうちじゃないと書けないからなあ」と泰明がすっかりぬるくなったコーヒーを一口ふくんだ。
「神罰を与える神さまなんて神さまじゃないなんていう思い上がった人間が山のようにいるからな。そういうヤツらほど神さま信じてないし。メディアの影響は大きい」

 泰明が苦々しい顔で説明する。

「でもでも、積極的に人間をいじめようとしているわけではないんですよね?」

 真名が確認するように尋ねると今度は昭五が答えた。

「それはそうさ。ただ日本のような美しい国土で、四季にも恵まれ、豊かな稲の実りもあるのだから、まず私たち人間はそれに感謝をすべきだってことだよ。感謝の気持ちもないのに、〝パワースポット〟と称して神さまの力を自分のために抜いていこうとする連中は――やさしい神さまはそれでも力を貸してくれることもあるけど――まるで自分たちが大きくなったのは自分たちの力で、親なんて最初からいなかったんだと威張ってる子供のように見えるんだよ」

 昭五に言われた感謝の部分が真名も身につまされる。今日のランチだって、白いごはんをおいしくいただいたけど、神さまに深く感謝したかと聞かれれば、米粒一粒ほどもしていない……。

「そうしたら、パワースポットとかって行かない方がいいのでしょうか」

 これ以上、神さまから〝奪って〟はいけないのではないかと思ったのだ。けれども、昭五はいつもの犬のような愛嬌のまま首を横に振った。

「うんうん。いいね、いいね。そういう気持ちがある人は、まあ大丈夫さ。神さまも信じている。神さまにも感謝している。神さまたちは、そういう人にこそ神さまのパワースポットでもっと元気になって、もっと幸せになってほしいと思っているんだよ。そういう人が遠慮して、反対の人がパワースポットに押し寄せてばかりではかえって神さまがかわいそうさ」

「ああ、なるほど……」

「要するに〝感謝を忘れて、自分のことばかり考えるなよ〟ということだ。――これ、これチェックよろしく」
 と泰明が記事を一つよこした。