はい、こちら「月刊陰陽師」編集部です。



次のバイトの時だった。

編集部に入ってみると、昭五と律樹だけがいた。

「お疲れさまでーす……」

 まだ不慣れな真名がひっそり声をかけた。

「お疲れー」と律樹がモニターから目を離さずに手を振る。ヘッドホンをしているのによく聞こえるな……。

「ああ、お疲れさまー」とあくび混じりに昭五が言う。
「うんうん。泰明くんがいないと、何かこう、ゆったりしてしまうねえ。いいね、いいね。」

「あはは。編集長がそんなこと言っていいんスか」と、律樹がヘッドホンを外して伸びをしている。
「その通りなんスけど」

 立ち上がった律樹が冷蔵庫から炭酸飲料を取り出し、あおる。
 律樹はいたずら好きの猫のように楽しげに炭酸を飲んでいる。普段は麦茶なのに。
 これも泰明がいないからなのだろうか。

「みなさんも、やっぱり、泰明さんって怖いんですか」

「当たり前じゃん」と律樹が即答し、昭五は黙ってにんまりした。

「当たり前なんですか」

「けれども、彼がいないと仕事が回らないのも事実だし、場が締まらないのも事実だからいないと困るんだけどね」

 たしかにこれだけだらけていては仕事が進むまい。

「あの、それで、泰明さんは――?」

「うんうん。補足取材が発生して出てる。もう少ししたら戻ると思うから、ゆっくりしてて。鬼の居ぬ間に何とやらだよ。いいねえ……」

 昭五が背もたれにのけぞるように身体を伸ばした。
 まるで家でくつろぐ犬みたいだ。

 はあ、とだけ答えて、真名は自分の席につく。
 遅刻しそうになって駅から早足だったから少し汗をかいていた。
 真名はハンカチを取りだして額の生え際の辺りを押さえた。

 ふと、隣の泰明の席を見ると、机の上に小さくてまるっこいぺんぎんの赤ちゃんのぬいぐるみが置いてあって『離席中』という札がかかっている。

「かわいい……」

 思わず真名は口をついて出てしまった。
 ついでもう一度、席を確認する。
 
 泰明の席にどうしてこんなかわいらしいものが置かれているのだろうか。
 ひょっとして見てはいけないものを見てしまったのだろうか。
 あとで裏に呼ばれて妙な術を施されてしまうような……。

「うんうん。それね、泰明くんの趣味」

「趣味ぃ!?」

 昭五の意外な説明に、真名が叫んだ。

「そうそう。彼ね、かわいくて小さいもの大好きなんだよ。マジでぶち切れさせちゃったときには、その手のぬいぐるみとで平謝りするといいよ」

「本当ですか!?」

 意外すぎる話に真名の混乱は続く。

「ははは。ちなみにそれマジだからね。編集長の実話」

 律樹と昭五が顔を合わせ、声を上げて笑っていた。
 笑い事なのだろうか。

 それにしても。

 ドS陰陽師とぺんぎんの赤ちゃんの取り合わせ。

 かわいいのに、見てはいけないもの感が先行するのはなぜだろう。

 とりあえず、かわいいからとあのぬいぐるみを軽々しく手に取らなくてよかった。

「うんうん。本当に真名ちゃんはよくやっているよ」と昭五。

「いえいえ。まだ働き出したばかりですし」

「正直、どうかなとは思ったんだ。真名ちゃんではなく、泰明くんの方がね」

 昭五の声が少し憂いを帯びた。律樹がヘッドホンをつけ直し、作業に戻る。真名は内心ぞっとなった。

「編集長。泰明さんに私、そんなにご迷惑をおかけしていますか」

 昭五はぬるくなったコーヒーで唇を湿らせる。

「いやいや。そんなことはないよ。私がいったのはね、泰明くんが真名ちゃんときちんと向き合えるかと思ったのさ」

「…………」

 ますます分からなくなった真名が黙っていると、昭五が苦笑した。

「泰明くんには倉橋家に仲のいいいとこの女の子がいてね。彼より三つくらい年下だったかな。ひとりっ子だった泰明くんはその子のことを妹のようにかわいがっていて、彼女の方も泰明くんを兄のように慕っていた」

「はあ――」

 そのようなあり方は、何千年もの人間の出会い方と関わり方にはよくある話だろう。
 けれども、自分の隣の席の人物の話となると、真名は――先ほどのぺんぎんのぬいぐるみよりも遥かに――重大な覗き見をしているような気持ちになった。

 同時に妙な落ち着きのなさを感じる――。

「うんうん。いまから六年前かな。まだ泰明くんが大学生だった頃に、その女の子が強烈なあやかしに攻撃をされてね」

「え……?」

「倉橋家の一員だったから、としか言いようがない。うん。彼女にはまったく非がないのに、百鬼夜行並の総攻撃を受けて、心を壊されて倒れた」

 あやかしや魔の世界は凶暴だ。
 弱いところ、ここだけは失いたくないところを、一点集中で総攻撃してくる。
 そうすることで、将来の有力陰陽師、偉大な霊能者を未熟なうちに潰そうとしてくるのだった。

「そんなことが……」

「うんうん。狙いは泰明くんだったのは明確なんだよ。彼は小さい頃から才能があった。倉橋家の中興の祖になれるのではないかと期待されていた。うん。だからこそ、泰明くんが陰陽師の修行を断念してしまうように、彼の身近な人を狙ったんだ」

 真名は、最初の出会いで〝倉橋家〟のレッテルをひどく嫌っていた泰明を思い出す。

「泰明さん、つらかったでしょうね」

 昭五が小さく何度も頷き、下にずれたメガネを直した。

「うんうん。彼もいろいろ悩んだと思う。彼の心を揺らすために、従兄妹の女の子の容体も一進一退を繰り返した。けれども最後、泰明くんは陰陽師として生きることを選んだ」

「……それで、その従兄妹さんはどうなったんですか?」

 昭五が、らしくもなく重いため息をつく。

「うん。……その女の子が狙われたのは、泰明くんに陰陽師の修行に専念してほしくなかったからだ。ところが泰明くんは陰陽師の修行に決定(けつじょう)してしまった。あやかしどもにとってはその子は用なしであり,目的を果たせなかった〝役立たず〟の駒」

 もう一度、あやかしの総攻撃を受けて狂い死に近い自殺をしたという。

「そんな……」

「かすかに元気になって泰明くんに希望を持たせ、すぐに悪化しては絶望させ、を繰り返していたが。うん。最後はやはり見せしめとして取り殺したんだよ」

「…………」

 あまりにも重く、救いのない話の終わりに、真名は言葉が見つからない。

「だから、泰明くんは自分に厳しい。彼女を救えなかった自分を許せないんだよ」

「そんなのって……」

 真名の目頭が熱くなった。

「陰陽師ってそんなもんなんだよ。救えた人のことより、救えなかった人の魂の声がいつまでも心に残る。私たちはそれを背負って生きていく。いまの泰明くんだったら、あのあやかしにも勝てたかもしれない。あのときでは無理だったんだ。ただ、自分がもっともっとすぐれた陰陽師となって、これから出会う人たちを救えれば――彼女の死は無駄にならない」

 そうやって生きるしか、ないじゃないか――昭五はメガネを外して、目元を拭う。

 パソコン島で律樹がキーボードを打つ音だけがしていた。
 しばらく沈黙していたが、真名がふと重大な事に思い至る。

「あの、こんな個人的で重要な話、私が聞いてしまってよかったんでしょうか」

「うーん」と昭五がメガネをかけ直した。
「あんまりよろしくないかもしれないね。うんうん」

「いやいやいや」

 陰陽師というものは人の裏情報を握っているのが仕事のようなものだから、と昭五が笑う。これこそ笑い事ではないのだが。

 けれども、昭五はくるりと表情を変えて真面目な顔になった。

「いえね。似てるんだよ。真名ちゃんとその女の子」

「え……?」

 そう言って昭五が苦笑いする。

「うんうん。〝他人のそら似〟とはよく言ったものだよ。ほら、真名ちゃんのお父さんから紹介されたときには真名ちゃんの顔知らなかったからさ、初めてここに来たとき、泰明くんと私、めちゃくちゃ驚いていたんだよ?」

「そんなふうには、あまり見えませんでしたが……」

「そんなふうに見せないのが陰陽師だからね。うんうん。だから泰明くん、真名ちゃんにあの記事を見せたあと、私に食ってかかってたでしょ」

 真名が〝自称・霊能者〟の記事に見鬼の才を使ったときに、深く入りすぎて暴走気味になったときのことだった。

「そういえば……」

「うんうん。いいね、いいね。ま、そういうわけだから、泰明くんのドSなところは大目に見てよ。彼なりに真名ちゃんの顔を見るたびに過去と向き合うような気持ちになっているんだろうから。まあ、九十九パーセントは彼の性格だろうけど」

 昭五が人懐っこい笑みで頼む。
 昭五まで〝ドS〟と泰明を評したのがちょっとだけ面白かった。

 そのとき、受付の方から人が入ってくる気配がした。

「ただいま戻りました」
 と泰明が入ってきた。北風のように冷たい表情でコートを脱ぎながら、真名に「もう来てたのか」と一言声をかける。
 先ほどの話を聞く前の真名だったら、氷水をかけられたように震え上がったかもしれないが、いまは違っていた。

「はい。泰明さん、今日もよろしくお願いします」
 と、満面の笑顔で頭を下げる。

 重い過去に厳しく生きようと決意した泰明に、真名は何も出来ないけどせめて笑顔だけは差し出そう。そんなふうに真名は思った。

 なぜって――たぶん亡くなった従兄妹もそう思っているだろうから。
 これは真名の勝手な思い込みかもしれないけど、格好つければ〝女の勘〟だった。

 大学、就活、そしてバイト。なかなかハードである。
 ハードになったのは言うまでもなく「月刊陰陽師」の仕事のせいだった。

 けれども、これまで淡々と授業をこなすだけの毎日だった真名にとって、生まれて初めてのバイトで居眠りをしてしまうのは三年生にしてやっと大学生らしい生活になった気がして愉快だ。

 授業中バレないように眠る技は、実は高校時代に習得済みだし。

 午前中の授業を終えた真名が学食へ向かう。知り合いはみな就活か選択授業が違うかで、真名ひとりだった。

「いつ来てもここは賑やかじゃな」
 と頭の上のスクナが、いつ見ても楽しげに眺めている。

 スクナとは話し合いの末、大学や寮では一緒にいてもらい、「月刊陰陽師」の仕事をしているときには真名が呼ばない限りは姿を消していてもらうことにした。
 いつも一緒にいてくれるのはありがたいけれども、それでは真名自身の〝社会勉強〟にならないだろうと思ったからだった。

 泰明の過去を昭五から聞いて、自分もしっかりしなければと思ったのだ。

 ただし、仕事中にスクナが非常事態だと判断したときには守り神として降臨してくれるという。
 真名はスクナのやさしさに感謝した。

「お弁当を持ってきたりパンを買ってきたりして中庭で食べる人もいますけどね」

 今日の真名は日替わり定食を選んだ。
 おかずが、ハンバーグの上にチーズをのせてトマトソースをかけたイタリアンハンバーグだったからである。

 いままでならうどんとかにしていたのだが、編集のバイトのおかげで食べるようになったと思う。

「しっかり食べることはよいことじゃ。天地の恵みに感謝を忘れるでないぞ」

「食べないと力が出ないって本当に感じます。――いただきます」

 熱々のハンバーグにナイフを入れると肉汁が溢れた。
 とろけるチーズとトマトソースを肉汁と共に切ったハンバーグにたっぷりと塗り込むようにして口に運ぶ。
 熱いけれども、肉の脂の旨みと甘みが口いっぱいに広がった。

 さらにチーズの濃厚な味わいとトマトソースの酸味が舌で踊る。

 噛みしめるほどに身体に染みこむようなおいしさだった。
 ライスによく合う。
 コンソメスープも塩気がちょうどいい。

 あのバイトを始めて学食でがっつりしたものも食べるようになって気づいたのだが――学食のメニュー、侮れない。
 さすが吉祥寺界隈の女子大だった。


 真名が昼ごはんに専念してると、ふと目の前に人の立つ気配がした。友達か准教授の栗原浩子かと思って顔を上げると、案の定、浩子だった。

「おいしそうに食べるねー」

「あ、先生」慌てて真名が食べ物を飲み込む。
「先生もお昼ですか」

「ああ、ごめん。あんまりおいしそうに食べているから、ちょっと声をかけただけ」

「はあ」そんな食べ方をしていただろうか。ちょっと恥ずかしい……。

「私はまだちょっと仕事があるからあとで食べるわ。ほら最近、ボヤ騒ぎとかあったでしょ?」

「え、そんなことがあったんですか?」

 真名が驚きの声を上げると、浩子が呆れ顔になった。

「知らなかったの? 三日前にサークル棟でボヤ騒ぎがあったの」

「知らなかった、です」

 三日前と言えば、授業は午前中だけであとは「月刊陰陽師」編集部へ行ってしまっていた。
 浩子が、やれやれという顔になっている。

「真名ちゃんがのんびり学生生活を送れるよう、先生は忙しくしているのです」

「……申し訳ありません」

「そういうわけでお昼はもう少しあとでにするわ。――真名ちゃんほど若くないからもう少し軽めのものを」

 浩子の冗談に真名が「先生!」と突っ込みを入れる。浩子は笑いながら去っていった。浩子を目で見送り、真名は再びごはんに戻る。

 また、人の気配がした。浩子が戻ってきたのかと気軽に顔を上げたが、そこには浩子の代わりにメガネをかけた髪の長い女性が立っている。

 面識はない。

 しかし、向こうは明らかに真名を見つめていた。

 真名は口の中のものを慌てて飲み下し、軽く頭を下げた。
 するとメガネの女性がはにかむように微笑みながら深く頭を下げてきた。

「食事中、ごめんなさい。私、経済学部二年の霧島留美と申します。神代真名さんですか」

「は、はい」
 と真名が思わず立ち上がってもう一度頭を下げる。

 留美の方もまた頭を下げ、真名がまた頭を下げて、何度か応酬が繰り返された。

「大概にしておけ」とスクナが呆れたような声を上げる。
 留美の方にその声が聞こえたわけではないと思うが、真名と留美は同じタイミングで頭を上げ、どちらからともなく吹き出した。

「ごめんなさい。初めての方だと、緊張してしまって」と留美がメガネを直している。

「やっぱり〝初めまして〟ですよね」

「ええ。同じ専攻の友達が神代さんのことを教えてくれて」
 と言って留美が学食の入り口を見やった。

 真名はその視線の先を追い、どきりとする。

 そこにいたのは先日取材した佐山亜紀だった。

「あ……」

 同じ学校だったのか。

 三鷹に住んでいて女子大生、となればこの大学の可能性はあったが、と驚く一方で、真名は〝目〟をこらす。

 亜紀の身体の周りには、相変わらず黒い靄が少し見えるが……。
 亜紀はこちらに軽く頭を下げただけで、違う方向を向き、スマホをいじっていた。
 あれから一週間。竜太とはどうなったのだろうと真名が考えていると、留美が苦笑しながら言った。

「亜紀、何だか最近悩んでいたらしいんですけど、神代さんの相談を受けて、同棲していた彼氏ときっぱり別れることができたって」

「あ……そうでしたか」

 別れたのか。
 ずいぶんあっさりしたものだなと思う。

 しかし、真名は内心で首をかしげた。
 別れたのだとしたら、なぜまだ黒い靄が見えるのか。
 まだ竜太に執着しているのだろうか……。

「まあ、亜紀は男の人がいないとダメみたいで。前の彼と別れて、すぐに別の人と付き合い始めましたけどね」

「はあ……」

 これで黒い靄の合点はいったが……今回のお付き合いが幸福なものになりますようにと真名は祈った。
 テーブルの上のスクナは「やれやれ。また馬鹿な男を選んでなければいいのじゃが」とため息をついている。

「それで、私にどんなご用でしょうか」
 と真名が尋ねると、留美が少し声を潜めた。

「亜紀から、神代さんの相談というのは結構スピリチュアルだったと聞いて」

 真名の頰が強張る。

「月刊陰陽師」の存在は亜紀も知らないからそちらに心配はない。

 だが、同じ学校の学生から〝霊能者〟として認知されるのは避けたいところだった。
 いやむしろ、これまで真名は自分が霊能者であり陰陽師であることは隠してきた。
 知られたところで友人関係が深まることはなかったからだ。経験上、霊能力が友情によい働きをしたことは、ない。

 とりあえず真名自身が落ち着くためにも留美を向かいの席に座らせる。

 あと一口残っていたイタリアンハンバーグはすっかり冷めていた。

「西山さんからはどんなふうに聞いてらっしゃるんですか」

 声に緊張の色が混じる。
 しかし、スクナは「そんなに緊張しては相手に悪いぞ?」と鷹揚に構えていた。
 スクナのおかげで多少心が軽くなったところへ、留美が不意にまた頭を下げた。

「ありがとうございました」

「え?」

「実は私、大学の占星術部に入っているんです。それで亜紀の彼があんまりよくない――いいえ、かなり悪い結果になりそうだって占いで出てて。別れるように話をしていたんですけど、私の説得では聞いていくれないで困っていたんです」

「ああ、そうだったんですね……」

 占いでそこまできちんと見ていたという留美の実力に、真名は驚くと同時に今回の取材の前に自分こそ陰陽師として占を立てておくべきだったと反省する。
 やったことはないけれども、お父さんに教えてもらおう……。

 留美と亜紀は中学時代からの友達だったらしい。
 ずっと一緒にいた友人の気安さゆえに、亜紀は留美のアドバイスを真剣に聞けなかったのかもしれない。

「それが、神代さんの言葉で別れるって決意できたのは、すごいなって。……ちょっと悔しいですけど」
 と言って留美が苦笑いした。
 その飾らなさが真名には好意的に思えた。

「本当は私のやったことなんてほとんどないんですよ? 一緒に同行した人の力もあって……」

 真名がそう言うと留美が感心したような表情になる。

「なるほど。謙虚な方なのですね」

「いいえ、そんなこと……」

 泰明の力がなければ解決できなかったのは事実だ。

「こういうのって、人に言えない秘伝みたいなのがあると思うので、私も細かい話は聞きません」と留美が言ってくれて、真名は目に見えてほっとした。
 ところがそのあと、留美はこう続けた。
「けれども、力を貸していただきたいのです」

 留美の言葉に、真名がどうしようかと考えていると、スクナがテーブルの上で神託のように告げる。

「この者は先日の女のような邪気はないようじゃ。助けてやれ」

 真名はスクナの言葉に従うことにした。
 こちらもすっかり冷めたコンソメスープを飲み干し、留美の先を促す。
 留美は向こうにいる亜紀に手を振る。
 亜紀は留美に笑顔を、真名に一礼を残して出ていった。

 真名に向き直った留美が持ちかけてきた相談事は、留美にも真名にも予想できない方向へと進んでいくのだった。


 いまから数日前のこと。
 ちょうど、真名が「月刊陰陽師」編集部の仕事をしていた日のことだ。
 授業が一コマ休講になった留美はひとりで落ち着いた時間を取ろうと、部室に入った。

 占星術部の部室はそれほど広くない。
 文化系で少人数サークルだから最低限の広さの部室をあてがわれているだけだ。

 けれども、留美はそれで満足していた。
 大教室のような広い部室では占いの気分にならない。
 昨年までは部員が五人いたのだけど、皆卒業してしまい、留美と、サークルを維持するための名簿上の部員四人だけ。

 早い話が留美だけの部室だった。

「いやー、落ち着くよねー」
 と、留美は部室のカーテンを閉め、雰囲気のある電気のランプをつけた。
 ロッカーにはより深く占いに入れるようにローブもあるが、九十分の空き時間だからいまは着替えない。
 鍵のかかる棚から大事なタロットを取り出し、さらに水晶玉を机の上に並べた。

「かわいいタロットちゃんだねぇ」

 タロット占いは中学生の頃からやっている。
 部員が実質自分だけになってしまって、家から持ってきた私物で、使い込んであった。いろいろな声も聞かせてくれる。

 水晶玉は高校から始めた。
 スクライングという、物体を凝視して心を集中させることで幻視を得る練習をしているが、なかなかうまく成果を実感しない。
 ただ、集中力はあるから気がつけば一時間くらい平気で水晶玉を見つめていた。

「水晶玉でリーディングできたら、いいなぁ」
 と、ひとりでぶつぶつ呟きながら呼吸を整える。
 卒業した先輩は逆に水晶玉によるリーディングは得意だったがタロットは苦手だった。

 もっとも、その水晶玉リーディングも部活顧問の寺沢和子助教が指導してくれたからできるようになったと言っていたから、いつか教えてもらいたいと思っている。

 けれども、寺沢は最近、教授会の手伝いで忙しいらしく、部活にほとんど顔を出さない。
 高校と違って大学の文化系部活に顧問が顔を出すのはまずないのだろうけど。

 集中に入る前にスマホのアラームを用意する。

 準備が整い、留美は水晶に意識を集中させた。

 ……………。

 軽やかなアラームが鳴った。

 はっとなってアラームを止める。やはり留美はどっぷりと瞑想に入っていたらしい。

「今日も何も見えなかったなあ」

 細切れの時間では成果は上がらないのだろう。今度の休日にゆっくり時間を作ろう。

 水晶玉とタロットをしまい、ロッカーの鍵を閉めた。
 鍵は留美だけが持っている。
 留美は戸締まりを確認すると次の授業の教室へ急いだ。


 その数時間後、大学の構内に消防車サイレンが鳴り響いた。

 占星術部の部室から火が出た、という。隣の部室にいた学生がすぐに煙に気づいてくれて消火器とマスターキーを持って駆け付けてくれたのですぐに消し止められた。
 おかげでぼやで済んだものの、当分の間、部室は使用禁止。占星術部のサークル活動もストップがかかってしまった。

 問題は燃えたものだ。

 火がついて焼けてしまったのは、は部室のカーテンと留美のタロットカードだった。
 消防署の話だと、カーテンの側にタロットカードがあり、カーテンに引火した火がタロットカードにも燃え移ったようだ、とのことだった。

 他には被害はない。ロッカーの中にあった過去の部誌などはひとつも燃えていない。

 留美はぞくりとした。長年親しんできたタロットカードを失ったことが留美にはひどくショックだったこともあるが、それ以上にとても重大な事があったからだ。

 タロットカードは水晶玉と共にきちんとロッカーに入れて鍵をかけていたはずなのだ。

 しかも、その鍵は留美自身がいまも持っている。

 誰かに貸したこともない。

 だとしたら、どうやってタロットカードは燃やされたのだろうか……。
 留美の話が終わると、真名が申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさいね、同じ話を二回もしてもらっちゃって」

「いいえ。大丈夫です」と、留美が手元のコーヒーを飲んで喉を潤す。
「こちらこそ、わざわざ編集部の方にまでご足労いただいて……」

 留美の視線が真名の横にいる涼やかな顔の美男子――泰明に向けられていた。

 ここは高田馬場駅そばのカフェである。

 留美から占星術部のボヤについて聞いた真名は、一通り聞いて自分の手に余る話だと察した。なぜなら留美相談は火災の原因調査だったからだ。それは消防署の仕事のはずである。
 けれども――スクナが真名に言ったのだ。
「この件、放っておいたらボヤでは済まなくなるぞ。悪しきモノの匂いがするわい」と。

 つい先日も、留美の有人である亜紀の〝怪異事件〟にかかわったばかりだ。
 この一件もいろいろな評価はできるが、「月刊陰陽師」編集部としての見解は「あの時点でかかわったのには意味があった」だった。

 いまスクナがこのように言ってきたのも無視してよいはずがない。そもそもスクナは神さまなのだから、そのお告げに意味は重く考えなければいけない。
 ……のだが、火災の原因調査などどうやればいいか分からない。陰陽師として占をすればいいのだろうか。スクナの言葉通りなら悪霊やあやかしの力も及んでいる可能性がある。

 そこで真名は泰明に応援を求めた。

 泰明は男だから、女子大には入ってこられない。
 そこで今回も、某有名スピリチュアル雑誌の編集者に力を借りようということで、真名は留美を高田馬場まで連れてきたのだった。

「それで、霧島さんは〝火災の原因を探ってほしい〟ということなんだな?」

 泰明がほっそりした白い指を顎に当てながら確認する。

「はい」と留美が頷く。
「ぼやのためにいま部室は使用禁止になり、サークル活動も当面停止処分になっているのです。個人でも占いはできるのですけど、やはりこの状態がそのままというのは……」

「消防署では分からなかったのか?」

 すると留美がうつむいた。メガネが一緒にずり落ちそうになっている。

「カーテンから発火したそうなのですが、引火の原因が分からないそうです」

「それはつまり、部室に火の気がなかった、と?」

「はい。ガスコンロのようなものはありませんでしたし、コンセントがたこ足配線になっていたり埃をかぶっていたりして火花が散るような状態でもありませんでした」

 留美の答えを、泰明がメモを取りながら聞いている。取材の体を取っているからだった。隣の真名は泰明のノートをちらちらと眺めている。どんなことをメモしているのかを見たい。どんな顔で取材をしているのかも見たい――。

「……神代、何か?」

「あ? い、いいえ?」

 泰明と思い切り目が合って、変な汗が出た。

 亜紀が化粧直しで席を外すと、真名は一段と硬直する。……間が持たない。

 すると泰明の方から話しかけてきた。

「神代、大丈夫か」

「は、はい――?」

「何だか固いようだが。ひょっとしてまた見鬼の才が意図しないところまで発揮されているとかか?」

 真名は思わず隣の席の泰明に目を向ける。泰明がこっちを向いていた。目線が真正面でぶつかり、緊張する。いつも通りの絶対零度な美青年なのだが――心配してくれた?

「いえ。そんなことはないです。いたって正常で」

「そうか。ならいいが……」

 そう言って泰明は鞄からお札のようなものを取り出した。スクナを呼び出したときの霊符にちょっと似ている。

「これは……?」

「まあ、お守りみたいなものだ。五年以上前、やっぱり神代みたいに霊能力が安定しない知り合いがいてな。そのときには本人の修行程度で考えていたが、いまの仕事でいろいろと教わって作った制御の霊符だ」

「泰明さんが作ったんですか!?」
 と真名が驚いた。泰明は真名から目線を外す。

「ああ。精度はそれなりにあるはずだ」

 同時に、真名には先ほどの泰明の言葉が引っかかった。五年以上前。以前、昭五から聞いた泰明の従妹がまだ元気だった頃のはずだ。その頃〝いた〟霊能力が安定しない知り合い。それは従妹のことではないだろうか。

 根拠はない。ただの真名の勘だ。
 けれども、それが当たっているような気がした。

「ありがとうございます」と真名は受け取った。

 ――私はその従妹さんみたいにはなりません。スクナさまもいるし、両親も編集部のみなさんもいるし。だから、そんなに心配しないでください。何より過去のつらい思い出に引きずられないでください。

 本当ならそう言ってあげたかったが、泰明は真名が自分の従妹のことを聞いているとは思っていないはずだ。

 だから、言えない。

 仮に知っていたとしても、真名の実力では大丈夫というのはあまりにも根拠が薄かった。かえって泰明に、「慢心するな」と怒られるだけだろう。

 霊符の効き目は如実だった。
 手にした途端にほのかに身体全体が温かくなる。薄手のシャツを一枚多く着込んだような感覚だった。

「この霊符を持っていれば、神代の霊能力を低い辺りで押さることになる。例外的に俺が側にいるとき、俺が力を与えているときは霊符の力をキャンセルして見鬼の才を発揮できるだろうが、まあそれはオマケみたいなものだ」

「何だか一枚、シャツを余分に着たか、ヴェールを被ったようにも感じます」

「神代自身がどれだけ霊能力があることを普通に感じていたか分からないから、違和感があったら言ってくれ」

 霊能力と言っても霊的なものへの五感だから、一部セーブで不具合が生じないかと泰明は気にしているのだった。

「たぶん大丈夫だと思いますけど」

「遠視の人が視力をやや押さえるためにメガネをかけるようなものだから、多少負担があるかもしれないからな」

 なるほど、と真名は納得すると共に、何だか笑いがこみ上げてきた。

「ふふ」

「何だ?」と泰明が険しい顔で一瞥する。

「やさしいんですね。泰明さんは」

 言ってしまって真名は失言に気づいた。泰明の目がつり上がり、いまにも呪を叩きつけてきそうな迫力になる。

「妙なことを言うな」

「は、はい……」

 ちょうど亜紀が化粧直しから帰ってきてくれたので、真名は事なきを得た。泰明が舌打ちする。泰明は真名から目をそらすと、ボールペンで頭を搔いた。

「うちの編集長、陰陽師が好きで。〝占星術と言えば西洋の陰陽師みたいなところもあるから、手伝ってやりなさい〟と乗り気なんだけど……」

「本当ですか」と真名の方が驚いてしまう。

「ああ。もちろんあやかしがらみだったら記事にする前提ではあるけど」さすが昭五、押さえるところは押さえている。
「何となく、だいたい分かった」

 泰明がそう言うと、留美がメガネのレンズのように目を丸くする。

「ぼやの原因が分かったのですか?」

「その前に確認しておきたいけど、ぼやの原因について自分で占った?」

「はい。けれども、私がいままで使っていたカードが焼けてしまい、新しいカードを用意したのでいまいちぴんとこなくて……」

 その感覚は真名にも理解できるように思った。陰陽師の場合、占をするときには六壬式盤という道具を使う。天盤と地盤というふたつの部分からなるものだが、昔から使い慣れている式盤でないと占に自信が持てないという感覚は分かる気がした。

「あやふやだった?」

「〝魔のもの〟による、というくらいしか分からなくて……。それで、亜紀から神代さんの話を聞いて相談したんです」

 なるほど、と頷いた泰明がコーヒーを飲んで一息つく。

「けれども、ここに最大の問題があってね」

「何でしょうか」と真名が質問し、亜紀と顔を見合わせた。

 コーヒーを飲んでいた泰明の手が止まる。「本気で言っているのか?」

「え? はい……」

 泰明は大仰にため息をついた。

「俺、男。――女子大に入れっこないだろ」
 と、苦虫をかみつぶしたような顔で泰明が自分の顔を指さした。真名は血の気が引いた。肝心かなめのところで泰明に同行してもらえないではないか。

「親族として中に入るのは……?」

「身分証明を偽造するのか? 余裕で犯罪だろ」

「じゃ、じゃあ、編集者として――」

 すると泰明は真名を見下ろすようにした。

「大学に取材を正式に申し込もうとしたら大学広報を通さないといけない。門前払いを喰らったらそれまでだぞ」

「そっか……」真名は頭を抱えた。
「いっそ、女装してみるとかは」

「俺、帰るぞ」

 ほんの軽い冗談だったのだが、泰明は本気で帰ろうとしている。

 泰明をなだめるために、真名はコーヒーのおかわりとモンブランを購入・贈呈するはめになった。
 翌日、真名は「月刊陰陽師」のバイトのお休みをもらった。正確には〝取材扱い〟でお金は出るが、高田馬場の事務所には顔を出さない。大学に残り、サークル棟へ行って占星術部の部室を見てくるように言われていた。

 サークル棟の前で真名は留美と合流して中へ入る。

「私、サークル棟って初めて入ります」
 と真名がうきうきしている。

「あ、そうなんですか。じゃあ、サークルには入っていない」

「はい」

「占星術部なんかどうですか?」

 女子大といえどもサークル棟だ。体育会系サークルの辺りは散らかっている。真名は軽いカルチャーショックを受けた。ベニヤを切っている学生もいる。何をやっているのだろう……。

「何か、すごいですね……」

「ああ、あれは演劇部。大道具を自分たちで作るから」

 のこぎり引きの音や釘を打つ音が響いていた。不思議なものを見る想いだ。けれども、向こうから見たら不思議なのはきっと自分なのだとすぐに考えた。真名は授業をきちんと受け、終われば図書館か書店か古本屋に寄って寮に戻る。悪いことをしているわけではないが――何かしら熱中することに打ち込んでいるわけでもなかった。

 自分はこのサークルの人たちのように、何かに徹底して打ち込んだ経験があっただろうか。問うまでもない。スポーツにしろ、文化系にしろ、真名はこれまで青春すべてをぶつけるようなことはしてこなかった。

 原因は、陰陽師という自分の家柄であり、悪霊やあやかしなどが見えるという自分の霊能力のせいなのだが――果たしてそれで正しかったのだろうか。

 汗だらけに成ながら演劇の道具を作っている学生の横を、泥まみれのユニフォームを着たソフトボールサークルが数人通り過ぎた。
 突然、どこかの部屋からジャズ音楽とステップの振動が溢れ、どのこサークルか分からないけれども元気な笑顔の女の子がふたり階段を駆け上っていく。

 彼女達の姿に自分の顔を置き換えて考えてみた。
 いまからではちょっと無理かな、という違和感が先に立つ。
 でも、心のどこかで不燃焼感がくすぶっていた。

「周りの連中の〝せいしゅん〟とやらがうらやましいのなら、いまからでも遅くないじゃろ?」

 真名の心を見透かした一言が、頭上のスクナから降ってきた。

『いまからサークルなんてできませんよ』

「そういうわけではない。いま、ここ、目の前に真名の〝せいしゅん〟はあるのではないのか?」

『目の前、ですか……』

 いまの真名の目の前にあるのは「月刊陰陽師」のバイトだ。アルバイトが青春、というのもあるだろうが……。

「目の前の現実で一生懸命になれない人間には道は開けないものじゃぞ?」

 スクナの言葉が耳に痛い。言われるまでもなく、分かっているのだ。

 真名は自分の霊能力にかこつけて、人と世界から距離を取ってきた。

 就活がうまく行かないのは、霊能力のせいもあるが――面接官の肩から真っ黒で血まみれの悪霊が這いずりだしてきて冷静でいられるものか――学生という時代が終わって、社会の中に飛び込まなければいけなくなり、その距離の取り方がまったく分からないせいもあるのだ。

 いままでは〝世界対自分〟でよかった。
 これからはその世界の中で自分が役目を果たし、〝世界の一部としての自分〟にならなければいけない。
 自分は社会の歯車になんかなりたくない、というような子供じみた言い訳をするつもりはない。
 ただ単に距離が摑めないのだ。

 まるで期日直前に発掘されたレポード課題のように、真名は人と社会に対しての態度を考えなければいけないといきなり突きつけられ、焦っている。

「月刊陰陽師」編集部で仕事をし始めたことで何かが変わろうとしているのは感じてはいた。バッグの中には自分の霊能力の暴走を押さえるための霊符が入っている。泰明が作ってくれたものだ。この霊符があれば、ひょっとしたら一般企業に勤められるかもしれない。

 けれども、就活を再開する気にはなれないでいた。

 最初こそ、このまま〝特殊な世界〟で完結してしまうかもしれない「月刊陰陽師」編集部には深入りしない気持ちでいた。
 深入りしない気持ちから、いまはむしろ深入りしてみたい気持ちに変わりつつある。
 それはきっと、そこにいる人たちとの出会いがあったからだ。

 編集長以下、みな陰陽師関連。
 なのに、霊能力がほとんどないうえになくても犬のように人懐っこい昭五に、霊能力なしでもドSな泰明に、霊能力なしでも仔猫みたいな律樹。
〝霊能力をとっても〟気の置けない人間関係を構築できそうだという発見が真名にはうれしいのである。