竜太はいまにもつかみかかりそうな怒りの表情を露わにして、真名を睨んでいる。真名に強烈な恨みと怒りの念が襲いかかろうとするのを、泰明は自らの身体を楯にして守っていた。その泰明が竜太に言う。
「さあ、どうしますか? 盗聴器が出た以上、立派な事件です。警察を呼びますか。それとも白状しますか」
泰明が冷たい目で見下ろすように竜太に選択肢を突きつけた。しばらく肩をふるわせ、竜太が自白した。俺がやった、と。理由はスクナが指摘した通り、他に女性ができたからだった。
「どうして、竜太。私、いままでこんなに愛してきたじゃない」
呆然と亜紀が語りかける。小さく握った拳で、男を叩く。最初は力なく。徐々に力を込めて。
そんなことで男のわがままが変わるわけでもないのに。
男がごめんと謝る声がむなしく室内に響く。
真名の見鬼の才で、ふたりをぐるぐるにしていた黒い靄が断ち切れていくさまが見えた。その様子に真名は眉をひそめる。
あやかしでもなく、作り物でもなく、亜紀の、本当の女性のすすり泣きの声だけがいつまでも続いていた。
週が明けて、真名と泰明は編集部で昭五に今回の取材の報告をすると、昭五は面白そうに話を聞いて上機嫌にこう言った。
「うんうん。いいね、いいね。それ、載せちゃおう」
「え!?」と真名が意外そうな顔をする。「これ、悪霊やあやかしの仕業ではなかったのですよ?」
「全然いいよ」と昭五は相変わらず上機嫌だった。「泰明くんもいいよね?」
ええ、と泰明が頷くと、今度こそ真名は目を丸くする。
「どうして、ですか」と真名が理由を尋ねた。
泰明が昭五を促すと、昭五が両手を組んで笑う。
「うーん、面白そうだから?」
「……それでいいのですか?」
真名の頰が引きつっていた。昭五が頭を搔く。
「ははは。半分冗談だよ」
「半分ですか」
「だって、あやかしがらみかと思いきや、科学の力でそこまでやったんだ。最初から〝あやかしの仕業だ〟と思っている陰陽師にとっては意外と見抜けないかもしれないし、それを悪用して陰陽師をはめようとする輩が出てもいけないからね」
昭五はにこにこ顔だったが、目は笑っていなかった。なるほど、昭五の危惧することも分かる。科学技術の発展で心霊写真はそうとう擬装しやすくなったとも言われているけど、同様の問題をはらんでいたのだ。
「なるほど……」と真名が頷くと、泰明がさらに続ける。
「今回の取材はそれだけではなかったかもしれない、と俺は思っている」
「それだけではない?」
真名がおうむ返しにすると、泰明は考えをまとめながら話すように説明した。
「結論から言うと、女性の側――松山さんは最初から男の仕業だと分かっていたんじゃないかと思っている」
「本当ですか」
「神代が自分で言っただろ? あのふたり、黒い靄のような想念の煙で互いを縛り合っていた、けれども真相が分かったときには男の側の靄が消えて、松山さんだけが黒い靄に包まれていた、とね」
泰明の確認に真名はあの日のことを思い出す。
――真相が分かり、ふたりの身体をがんじがらめにしていた黒い靄はばらばらになっていった。
その靄は、涙と共に男の不実をなじる亜紀の方へ吸い寄せられ、彼女ひとりが煙が渦巻くような黒い靄に包まれていく。その姿はまるで漆黒のドレスを纏うようだった。
「でも、そんなことって……」
「俺は現場にいたから分かるけど、あの女性の目はちょっと妙だった。俺や神代さんや彼氏のことさえ見ていないかもしれない。自分の心の中の闇に閉じこもり、現実に目をつぶり、欠点だらけの男に尽くす自分を止められなくなっている目に見えた」
真名は答えの代わりにため息をついた。泰明の分析は男の立場からの解析のように見えるけど、決して的外れではないと真名も思ったからだ。
「上出来だったと思うよ、真名ちゃん」と昭五が手を叩いた。
「そう、でしょうか」
「うんうん。〝取材は命がけ〟さ。あそこできみが見つけて、取材してこんなふうに原因を見つけていなかったら、ひどい破局を迎えていたかもしれない。ただふたりが分かれる、というだけではなく、もっと決定的な――私たちが本腰で調伏にあたらなければいけないような――破局をね」
鬼にならなくてよかったね、その女の人――。
外で蟬がひどく鳴いている。わんわんと頭の中を回るような蟬の鳴き声を聞きながら、亜紀に聞こえていた〝女のすすり泣きや呻き声〟はどんな声だったのだろうと真名は突然に疑問が湧いた。
もしかしたら、その声は亜紀に似ていたのではないか、と真名は思った。
三鷹での取材を早速、真名は記事にまとめることになった。
ICレコーダーに録音した取材内容を文字に起こし、ルポルタージュ形式にまとめていく。
ルポルタージュといっても細かい定義は分からないで、とりあえず三人称の記事にしていった。
「神代、期待していなかったが文章が書けるんだな」
と取材記事を原稿にまとめたものをチェックした泰明がいつもの無表情に近いクールさで言う。
この場合の「文章が書ける」は褒め言葉だ。
「あ、ありがとうございます」
とてもうれしかった。
前半の「期待していなかったが」は無視する。
明るいところを積極的に見ていこう。
だが、チェックされて戻ってきた原稿は至るところに細かい書き込みや見たことのない記号――校正記号というらしい――が赤ペンで書き込まれ、真っ赤っかだった。
いま私は褒められたのだろうか。ただのお世辞だったのだろうか……。
「アカがずいぶん入っているように見えるだろうけど、俺が最初に記事を書いた頃よりは全然手加減している」
「そうなのでしょうか……」
真名が半分落ち込みながら、泰明の〝フォロー〟を聞いている。
「俺が初めて原稿を書いたときは、編集長に定規とカッターで〝細切れ〟にされた」
「……どういうことですか?」
「アカ入れるよりこっちの方が早いからってな。俺が書いた原稿を細かく段落で切り分けて、別の紙に貼り付けて。そこからさらにアカ入れられて……」
真名はぞっとした。
そんなことをされたら、心が折れる。
ちなみにそのような残酷な仕打ちをした昭五は、ただいま編集長席で昼寝していた。
「つらすぎませんか、それ?」
「殺してやろうかと思った」と物騒なことを言う泰明。
クールなドS陰陽師なので冗談に聞こえない。
「そこそこ文章を書ける自信もあったしな。だが、記事は大学のレポートでも私の意見発表でもない。何よりも私の書いた記事にお金をいただく。自分が書いて楽しい文章ではなく、〝読まれる文章〟でなければいけない」
「はい……」と真名が神妙に頷く。
泰明が無表情に続ける。
「その点、神代は書けている。最初なので校正記号のレクチャーもかねてアカを入れたが……。一節まるごと削除なんて指示もないだろ?」
パソコン島では、背もたれに身体を預けきってほとんど後ろに倒れるような体勢の律樹がひとりで悲鳴を上げている。
どうやら画像処理に難儀しているようだった。
「月刊陰陽師」編集部は人手が少ない。
よく言えば少数精鋭だが、慢性的な人手不足には間違いない。
真名にとって、この編集部が初めてのバイトだったから、他のバイトの繁忙期の忙しさは分からない。
ただ、先日の取材を十ページのルポ記事にまとめながら、他のページもあれこれ作っていくのは相当大変なことだった。
おかげさまで大学に入って初めて授業中に居眠りをしてしまった……。
次のバイトの時だった。
編集部に入ってみると、昭五と律樹だけがいた。
「お疲れさまでーす……」
まだ不慣れな真名がひっそり声をかけた。
「お疲れー」と律樹がモニターから目を離さずに手を振る。ヘッドホンをしているのによく聞こえるな……。
「ああ、お疲れさまー」とあくび混じりに昭五が言う。
「うんうん。泰明くんがいないと、何かこう、ゆったりしてしまうねえ。いいね、いいね。」
「あはは。編集長がそんなこと言っていいんスか」と、律樹がヘッドホンを外して伸びをしている。
「その通りなんスけど」
立ち上がった律樹が冷蔵庫から炭酸飲料を取り出し、あおる。
律樹はいたずら好きの猫のように楽しげに炭酸を飲んでいる。普段は麦茶なのに。
これも泰明がいないからなのだろうか。
「みなさんも、やっぱり、泰明さんって怖いんですか」
「当たり前じゃん」と律樹が即答し、昭五は黙ってにんまりした。
「当たり前なんですか」
「けれども、彼がいないと仕事が回らないのも事実だし、場が締まらないのも事実だからいないと困るんだけどね」
たしかにこれだけだらけていては仕事が進むまい。
「あの、それで、泰明さんは――?」
「うんうん。補足取材が発生して出てる。もう少ししたら戻ると思うから、ゆっくりしてて。鬼の居ぬ間に何とやらだよ。いいねえ……」
昭五が背もたれにのけぞるように身体を伸ばした。
まるで家でくつろぐ犬みたいだ。
はあ、とだけ答えて、真名は自分の席につく。
遅刻しそうになって駅から早足だったから少し汗をかいていた。
真名はハンカチを取りだして額の生え際の辺りを押さえた。
ふと、隣の泰明の席を見ると、机の上に小さくてまるっこいぺんぎんの赤ちゃんのぬいぐるみが置いてあって『離席中』という札がかかっている。
「かわいい……」
思わず真名は口をついて出てしまった。
ついでもう一度、席を確認する。
泰明の席にどうしてこんなかわいらしいものが置かれているのだろうか。
ひょっとして見てはいけないものを見てしまったのだろうか。
あとで裏に呼ばれて妙な術を施されてしまうような……。
「うんうん。それね、泰明くんの趣味」
「趣味ぃ!?」
昭五の意外な説明に、真名が叫んだ。
「そうそう。彼ね、かわいくて小さいもの大好きなんだよ。マジでぶち切れさせちゃったときには、その手のぬいぐるみとで平謝りするといいよ」
「本当ですか!?」
意外すぎる話に真名の混乱は続く。
「ははは。ちなみにそれマジだからね。編集長の実話」
律樹と昭五が顔を合わせ、声を上げて笑っていた。
笑い事なのだろうか。
それにしても。
ドS陰陽師とぺんぎんの赤ちゃんの取り合わせ。
かわいいのに、見てはいけないもの感が先行するのはなぜだろう。
とりあえず、かわいいからとあのぬいぐるみを軽々しく手に取らなくてよかった。
「うんうん。本当に真名ちゃんはよくやっているよ」と昭五。
「いえいえ。まだ働き出したばかりですし」
「正直、どうかなとは思ったんだ。真名ちゃんではなく、泰明くんの方がね」
昭五の声が少し憂いを帯びた。律樹がヘッドホンをつけ直し、作業に戻る。真名は内心ぞっとなった。
「編集長。泰明さんに私、そんなにご迷惑をおかけしていますか」
昭五はぬるくなったコーヒーで唇を湿らせる。
「いやいや。そんなことはないよ。私がいったのはね、泰明くんが真名ちゃんときちんと向き合えるかと思ったのさ」
「…………」
ますます分からなくなった真名が黙っていると、昭五が苦笑した。
「泰明くんには倉橋家に仲のいいいとこの女の子がいてね。彼より三つくらい年下だったかな。ひとりっ子だった泰明くんはその子のことを妹のようにかわいがっていて、彼女の方も泰明くんを兄のように慕っていた」
「はあ――」
そのようなあり方は、何千年もの人間の出会い方と関わり方にはよくある話だろう。
けれども、自分の隣の席の人物の話となると、真名は――先ほどのぺんぎんのぬいぐるみよりも遥かに――重大な覗き見をしているような気持ちになった。
同時に妙な落ち着きのなさを感じる――。
「うんうん。いまから六年前かな。まだ泰明くんが大学生だった頃に、その女の子が強烈なあやかしに攻撃をされてね」
「え……?」
「倉橋家の一員だったから、としか言いようがない。うん。彼女にはまったく非がないのに、百鬼夜行並の総攻撃を受けて、心を壊されて倒れた」
あやかしや魔の世界は凶暴だ。
弱いところ、ここだけは失いたくないところを、一点集中で総攻撃してくる。
そうすることで、将来の有力陰陽師、偉大な霊能者を未熟なうちに潰そうとしてくるのだった。
「そんなことが……」
「うんうん。狙いは泰明くんだったのは明確なんだよ。彼は小さい頃から才能があった。倉橋家の中興の祖になれるのではないかと期待されていた。うん。だからこそ、泰明くんが陰陽師の修行を断念してしまうように、彼の身近な人を狙ったんだ」
真名は、最初の出会いで〝倉橋家〟のレッテルをひどく嫌っていた泰明を思い出す。
「泰明さん、つらかったでしょうね」
昭五が小さく何度も頷き、下にずれたメガネを直した。
「うんうん。彼もいろいろ悩んだと思う。彼の心を揺らすために、従兄妹の女の子の容体も一進一退を繰り返した。けれども最後、泰明くんは陰陽師として生きることを選んだ」
「……それで、その従兄妹さんはどうなったんですか?」
昭五が、らしくもなく重いため息をつく。
「うん。……その女の子が狙われたのは、泰明くんに陰陽師の修行に専念してほしくなかったからだ。ところが泰明くんは陰陽師の修行に決定してしまった。あやかしどもにとってはその子は用なしであり,目的を果たせなかった〝役立たず〟の駒」
もう一度、あやかしの総攻撃を受けて狂い死に近い自殺をしたという。
「そんな……」
「かすかに元気になって泰明くんに希望を持たせ、すぐに悪化しては絶望させ、を繰り返していたが。うん。最後はやはり見せしめとして取り殺したんだよ」
「…………」
あまりにも重く、救いのない話の終わりに、真名は言葉が見つからない。
「だから、泰明くんは自分に厳しい。彼女を救えなかった自分を許せないんだよ」
「そんなのって……」
真名の目頭が熱くなった。
「陰陽師ってそんなもんなんだよ。救えた人のことより、救えなかった人の魂の声がいつまでも心に残る。私たちはそれを背負って生きていく。いまの泰明くんだったら、あのあやかしにも勝てたかもしれない。あのときでは無理だったんだ。ただ、自分がもっともっとすぐれた陰陽師となって、これから出会う人たちを救えれば――彼女の死は無駄にならない」
そうやって生きるしか、ないじゃないか――昭五はメガネを外して、目元を拭う。
パソコン島で律樹がキーボードを打つ音だけがしていた。
しばらく沈黙していたが、真名がふと重大な事に思い至る。
「あの、こんな個人的で重要な話、私が聞いてしまってよかったんでしょうか」
「うーん」と昭五がメガネをかけ直した。
「あんまりよろしくないかもしれないね。うんうん」
「いやいやいや」
陰陽師というものは人の裏情報を握っているのが仕事のようなものだから、と昭五が笑う。これこそ笑い事ではないのだが。
けれども、昭五はくるりと表情を変えて真面目な顔になった。
「いえね。似てるんだよ。真名ちゃんとその女の子」
「え……?」
そう言って昭五が苦笑いする。
「うんうん。〝他人のそら似〟とはよく言ったものだよ。ほら、真名ちゃんのお父さんから紹介されたときには真名ちゃんの顔知らなかったからさ、初めてここに来たとき、泰明くんと私、めちゃくちゃ驚いていたんだよ?」
「そんなふうには、あまり見えませんでしたが……」
「そんなふうに見せないのが陰陽師だからね。うんうん。だから泰明くん、真名ちゃんにあの記事を見せたあと、私に食ってかかってたでしょ」
真名が〝自称・霊能者〟の記事に見鬼の才を使ったときに、深く入りすぎて暴走気味になったときのことだった。
「そういえば……」
「うんうん。いいね、いいね。ま、そういうわけだから、泰明くんのドSなところは大目に見てよ。彼なりに真名ちゃんの顔を見るたびに過去と向き合うような気持ちになっているんだろうから。まあ、九十九パーセントは彼の性格だろうけど」
昭五が人懐っこい笑みで頼む。
昭五まで〝ドS〟と泰明を評したのがちょっとだけ面白かった。
そのとき、受付の方から人が入ってくる気配がした。
「ただいま戻りました」
と泰明が入ってきた。北風のように冷たい表情でコートを脱ぎながら、真名に「もう来てたのか」と一言声をかける。
先ほどの話を聞く前の真名だったら、氷水をかけられたように震え上がったかもしれないが、いまは違っていた。
「はい。泰明さん、今日もよろしくお願いします」
と、満面の笑顔で頭を下げる。
重い過去に厳しく生きようと決意した泰明に、真名は何も出来ないけどせめて笑顔だけは差し出そう。そんなふうに真名は思った。
なぜって――たぶん亡くなった従兄妹もそう思っているだろうから。
これは真名の勝手な思い込みかもしれないけど、格好つければ〝女の勘〟だった。
大学、就活、そしてバイト。なかなかハードである。
ハードになったのは言うまでもなく「月刊陰陽師」の仕事のせいだった。
けれども、これまで淡々と授業をこなすだけの毎日だった真名にとって、生まれて初めてのバイトで居眠りをしてしまうのは三年生にしてやっと大学生らしい生活になった気がして愉快だ。
授業中バレないように眠る技は、実は高校時代に習得済みだし。
午前中の授業を終えた真名が学食へ向かう。知り合いはみな就活か選択授業が違うかで、真名ひとりだった。
「いつ来てもここは賑やかじゃな」
と頭の上のスクナが、いつ見ても楽しげに眺めている。
スクナとは話し合いの末、大学や寮では一緒にいてもらい、「月刊陰陽師」の仕事をしているときには真名が呼ばない限りは姿を消していてもらうことにした。
いつも一緒にいてくれるのはありがたいけれども、それでは真名自身の〝社会勉強〟にならないだろうと思ったからだった。
泰明の過去を昭五から聞いて、自分もしっかりしなければと思ったのだ。
ただし、仕事中にスクナが非常事態だと判断したときには守り神として降臨してくれるという。
真名はスクナのやさしさに感謝した。
「お弁当を持ってきたりパンを買ってきたりして中庭で食べる人もいますけどね」
今日の真名は日替わり定食を選んだ。
おかずが、ハンバーグの上にチーズをのせてトマトソースをかけたイタリアンハンバーグだったからである。
いままでならうどんとかにしていたのだが、編集のバイトのおかげで食べるようになったと思う。
「しっかり食べることはよいことじゃ。天地の恵みに感謝を忘れるでないぞ」
「食べないと力が出ないって本当に感じます。――いただきます」
熱々のハンバーグにナイフを入れると肉汁が溢れた。
とろけるチーズとトマトソースを肉汁と共に切ったハンバーグにたっぷりと塗り込むようにして口に運ぶ。
熱いけれども、肉の脂の旨みと甘みが口いっぱいに広がった。
さらにチーズの濃厚な味わいとトマトソースの酸味が舌で踊る。
噛みしめるほどに身体に染みこむようなおいしさだった。
ライスによく合う。
コンソメスープも塩気がちょうどいい。
あのバイトを始めて学食でがっつりしたものも食べるようになって気づいたのだが――学食のメニュー、侮れない。
さすが吉祥寺界隈の女子大だった。
真名が昼ごはんに専念してると、ふと目の前に人の立つ気配がした。友達か准教授の栗原浩子かと思って顔を上げると、案の定、浩子だった。
「おいしそうに食べるねー」
「あ、先生」慌てて真名が食べ物を飲み込む。
「先生もお昼ですか」
「ああ、ごめん。あんまりおいしそうに食べているから、ちょっと声をかけただけ」
「はあ」そんな食べ方をしていただろうか。ちょっと恥ずかしい……。
「私はまだちょっと仕事があるからあとで食べるわ。ほら最近、ボヤ騒ぎとかあったでしょ?」
「え、そんなことがあったんですか?」
真名が驚きの声を上げると、浩子が呆れ顔になった。
「知らなかったの? 三日前にサークル棟でボヤ騒ぎがあったの」
「知らなかった、です」
三日前と言えば、授業は午前中だけであとは「月刊陰陽師」編集部へ行ってしまっていた。
浩子が、やれやれという顔になっている。
「真名ちゃんがのんびり学生生活を送れるよう、先生は忙しくしているのです」
「……申し訳ありません」
「そういうわけでお昼はもう少しあとでにするわ。――真名ちゃんほど若くないからもう少し軽めのものを」
浩子の冗談に真名が「先生!」と突っ込みを入れる。浩子は笑いながら去っていった。浩子を目で見送り、真名は再びごはんに戻る。
また、人の気配がした。浩子が戻ってきたのかと気軽に顔を上げたが、そこには浩子の代わりにメガネをかけた髪の長い女性が立っている。
面識はない。
しかし、向こうは明らかに真名を見つめていた。
真名は口の中のものを慌てて飲み下し、軽く頭を下げた。
するとメガネの女性がはにかむように微笑みながら深く頭を下げてきた。
「食事中、ごめんなさい。私、経済学部二年の霧島留美と申します。神代真名さんですか」
「は、はい」
と真名が思わず立ち上がってもう一度頭を下げる。
留美の方もまた頭を下げ、真名がまた頭を下げて、何度か応酬が繰り返された。
「大概にしておけ」とスクナが呆れたような声を上げる。
留美の方にその声が聞こえたわけではないと思うが、真名と留美は同じタイミングで頭を上げ、どちらからともなく吹き出した。
「ごめんなさい。初めての方だと、緊張してしまって」と留美がメガネを直している。
「やっぱり〝初めまして〟ですよね」
「ええ。同じ専攻の友達が神代さんのことを教えてくれて」
と言って留美が学食の入り口を見やった。
真名はその視線の先を追い、どきりとする。
そこにいたのは先日取材した佐山亜紀だった。
「あ……」
同じ学校だったのか。
三鷹に住んでいて女子大生、となればこの大学の可能性はあったが、と驚く一方で、真名は〝目〟をこらす。
亜紀の身体の周りには、相変わらず黒い靄が少し見えるが……。
亜紀はこちらに軽く頭を下げただけで、違う方向を向き、スマホをいじっていた。
あれから一週間。竜太とはどうなったのだろうと真名が考えていると、留美が苦笑しながら言った。
「亜紀、何だか最近悩んでいたらしいんですけど、神代さんの相談を受けて、同棲していた彼氏ときっぱり別れることができたって」
「あ……そうでしたか」
別れたのか。
ずいぶんあっさりしたものだなと思う。
しかし、真名は内心で首をかしげた。
別れたのだとしたら、なぜまだ黒い靄が見えるのか。
まだ竜太に執着しているのだろうか……。
「まあ、亜紀は男の人がいないとダメみたいで。前の彼と別れて、すぐに別の人と付き合い始めましたけどね」
「はあ……」
これで黒い靄の合点はいったが……今回のお付き合いが幸福なものになりますようにと真名は祈った。
テーブルの上のスクナは「やれやれ。また馬鹿な男を選んでなければいいのじゃが」とため息をついている。
「それで、私にどんなご用でしょうか」
と真名が尋ねると、留美が少し声を潜めた。
「亜紀から、神代さんの相談というのは結構スピリチュアルだったと聞いて」
真名の頰が強張る。
「月刊陰陽師」の存在は亜紀も知らないからそちらに心配はない。
だが、同じ学校の学生から〝霊能者〟として認知されるのは避けたいところだった。
いやむしろ、これまで真名は自分が霊能者であり陰陽師であることは隠してきた。
知られたところで友人関係が深まることはなかったからだ。経験上、霊能力が友情によい働きをしたことは、ない。
とりあえず真名自身が落ち着くためにも留美を向かいの席に座らせる。
あと一口残っていたイタリアンハンバーグはすっかり冷めていた。
「西山さんからはどんなふうに聞いてらっしゃるんですか」
声に緊張の色が混じる。
しかし、スクナは「そんなに緊張しては相手に悪いぞ?」と鷹揚に構えていた。
スクナのおかげで多少心が軽くなったところへ、留美が不意にまた頭を下げた。
「ありがとうございました」
「え?」
「実は私、大学の占星術部に入っているんです。それで亜紀の彼があんまりよくない――いいえ、かなり悪い結果になりそうだって占いで出てて。別れるように話をしていたんですけど、私の説得では聞いていくれないで困っていたんです」
「ああ、そうだったんですね……」
占いでそこまできちんと見ていたという留美の実力に、真名は驚くと同時に今回の取材の前に自分こそ陰陽師として占を立てておくべきだったと反省する。
やったことはないけれども、お父さんに教えてもらおう……。
留美と亜紀は中学時代からの友達だったらしい。
ずっと一緒にいた友人の気安さゆえに、亜紀は留美のアドバイスを真剣に聞けなかったのかもしれない。
「それが、神代さんの言葉で別れるって決意できたのは、すごいなって。……ちょっと悔しいですけど」
と言って留美が苦笑いした。
その飾らなさが真名には好意的に思えた。
「本当は私のやったことなんてほとんどないんですよ? 一緒に同行した人の力もあって……」
真名がそう言うと留美が感心したような表情になる。
「なるほど。謙虚な方なのですね」
「いいえ、そんなこと……」
泰明の力がなければ解決できなかったのは事実だ。
「こういうのって、人に言えない秘伝みたいなのがあると思うので、私も細かい話は聞きません」と留美が言ってくれて、真名は目に見えてほっとした。
ところがそのあと、留美はこう続けた。
「けれども、力を貸していただきたいのです」
留美の言葉に、真名がどうしようかと考えていると、スクナがテーブルの上で神託のように告げる。
「この者は先日の女のような邪気はないようじゃ。助けてやれ」
真名はスクナの言葉に従うことにした。
こちらもすっかり冷めたコンソメスープを飲み干し、留美の先を促す。
留美は向こうにいる亜紀に手を振る。
亜紀は留美に笑顔を、真名に一礼を残して出ていった。
真名に向き直った留美が持ちかけてきた相談事は、留美にも真名にも予想できない方向へと進んでいくのだった。
いまから数日前のこと。
ちょうど、真名が「月刊陰陽師」編集部の仕事をしていた日のことだ。
授業が一コマ休講になった留美はひとりで落ち着いた時間を取ろうと、部室に入った。
占星術部の部室はそれほど広くない。
文化系で少人数サークルだから最低限の広さの部室をあてがわれているだけだ。
けれども、留美はそれで満足していた。
大教室のような広い部室では占いの気分にならない。
昨年までは部員が五人いたのだけど、皆卒業してしまい、留美と、サークルを維持するための名簿上の部員四人だけ。
早い話が留美だけの部室だった。
「いやー、落ち着くよねー」
と、留美は部室のカーテンを閉め、雰囲気のある電気のランプをつけた。
ロッカーにはより深く占いに入れるようにローブもあるが、九十分の空き時間だからいまは着替えない。
鍵のかかる棚から大事なタロットを取り出し、さらに水晶玉を机の上に並べた。
「かわいいタロットちゃんだねぇ」
タロット占いは中学生の頃からやっている。
部員が実質自分だけになってしまって、家から持ってきた私物で、使い込んであった。いろいろな声も聞かせてくれる。
水晶玉は高校から始めた。
スクライングという、物体を凝視して心を集中させることで幻視を得る練習をしているが、なかなかうまく成果を実感しない。
ただ、集中力はあるから気がつけば一時間くらい平気で水晶玉を見つめていた。
「水晶玉でリーディングできたら、いいなぁ」
と、ひとりでぶつぶつ呟きながら呼吸を整える。
卒業した先輩は逆に水晶玉によるリーディングは得意だったがタロットは苦手だった。
もっとも、その水晶玉リーディングも部活顧問の寺沢和子助教が指導してくれたからできるようになったと言っていたから、いつか教えてもらいたいと思っている。
けれども、寺沢は最近、教授会の手伝いで忙しいらしく、部活にほとんど顔を出さない。
高校と違って大学の文化系部活に顧問が顔を出すのはまずないのだろうけど。
集中に入る前にスマホのアラームを用意する。
準備が整い、留美は水晶に意識を集中させた。
……………。
軽やかなアラームが鳴った。
はっとなってアラームを止める。やはり留美はどっぷりと瞑想に入っていたらしい。
「今日も何も見えなかったなあ」
細切れの時間では成果は上がらないのだろう。今度の休日にゆっくり時間を作ろう。
水晶玉とタロットをしまい、ロッカーの鍵を閉めた。
鍵は留美だけが持っている。
留美は戸締まりを確認すると次の授業の教室へ急いだ。
その数時間後、大学の構内に消防車サイレンが鳴り響いた。
占星術部の部室から火が出た、という。隣の部室にいた学生がすぐに煙に気づいてくれて消火器とマスターキーを持って駆け付けてくれたのですぐに消し止められた。
おかげでぼやで済んだものの、当分の間、部室は使用禁止。占星術部のサークル活動もストップがかかってしまった。
問題は燃えたものだ。
火がついて焼けてしまったのは、は部室のカーテンと留美のタロットカードだった。
消防署の話だと、カーテンの側にタロットカードがあり、カーテンに引火した火がタロットカードにも燃え移ったようだ、とのことだった。
他には被害はない。ロッカーの中にあった過去の部誌などはひとつも燃えていない。
留美はぞくりとした。長年親しんできたタロットカードを失ったことが留美にはひどくショックだったこともあるが、それ以上にとても重大な事があったからだ。
タロットカードは水晶玉と共にきちんとロッカーに入れて鍵をかけていたはずなのだ。
しかも、その鍵は留美自身がいまも持っている。
誰かに貸したこともない。
だとしたら、どうやってタロットカードは燃やされたのだろうか……。
留美の話が終わると、真名が申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさいね、同じ話を二回もしてもらっちゃって」
「いいえ。大丈夫です」と、留美が手元のコーヒーを飲んで喉を潤す。
「こちらこそ、わざわざ編集部の方にまでご足労いただいて……」
留美の視線が真名の横にいる涼やかな顔の美男子――泰明に向けられていた。
ここは高田馬場駅そばのカフェである。
留美から占星術部のボヤについて聞いた真名は、一通り聞いて自分の手に余る話だと察した。なぜなら留美相談は火災の原因調査だったからだ。それは消防署の仕事のはずである。
けれども――スクナが真名に言ったのだ。
「この件、放っておいたらボヤでは済まなくなるぞ。悪しきモノの匂いがするわい」と。
つい先日も、留美の有人である亜紀の〝怪異事件〟にかかわったばかりだ。
この一件もいろいろな評価はできるが、「月刊陰陽師」編集部としての見解は「あの時点でかかわったのには意味があった」だった。
いまスクナがこのように言ってきたのも無視してよいはずがない。そもそもスクナは神さまなのだから、そのお告げに意味は重く考えなければいけない。
……のだが、火災の原因調査などどうやればいいか分からない。陰陽師として占をすればいいのだろうか。スクナの言葉通りなら悪霊やあやかしの力も及んでいる可能性がある。
そこで真名は泰明に応援を求めた。
泰明は男だから、女子大には入ってこられない。
そこで今回も、某有名スピリチュアル雑誌の編集者に力を借りようということで、真名は留美を高田馬場まで連れてきたのだった。
「それで、霧島さんは〝火災の原因を探ってほしい〟ということなんだな?」
泰明がほっそりした白い指を顎に当てながら確認する。
「はい」と留美が頷く。
「ぼやのためにいま部室は使用禁止になり、サークル活動も当面停止処分になっているのです。個人でも占いはできるのですけど、やはりこの状態がそのままというのは……」
「消防署では分からなかったのか?」
すると留美がうつむいた。メガネが一緒にずり落ちそうになっている。
「カーテンから発火したそうなのですが、引火の原因が分からないそうです」
「それはつまり、部室に火の気がなかった、と?」
「はい。ガスコンロのようなものはありませんでしたし、コンセントがたこ足配線になっていたり埃をかぶっていたりして火花が散るような状態でもありませんでした」
留美の答えを、泰明がメモを取りながら聞いている。取材の体を取っているからだった。隣の真名は泰明のノートをちらちらと眺めている。どんなことをメモしているのかを見たい。どんな顔で取材をしているのかも見たい――。
「……神代、何か?」
「あ? い、いいえ?」
泰明と思い切り目が合って、変な汗が出た。
亜紀が化粧直しで席を外すと、真名は一段と硬直する。……間が持たない。
すると泰明の方から話しかけてきた。
「神代、大丈夫か」
「は、はい――?」
「何だか固いようだが。ひょっとしてまた見鬼の才が意図しないところまで発揮されているとかか?」
真名は思わず隣の席の泰明に目を向ける。泰明がこっちを向いていた。目線が真正面でぶつかり、緊張する。いつも通りの絶対零度な美青年なのだが――心配してくれた?
「いえ。そんなことはないです。いたって正常で」
「そうか。ならいいが……」
そう言って泰明は鞄からお札のようなものを取り出した。スクナを呼び出したときの霊符にちょっと似ている。
「これは……?」
「まあ、お守りみたいなものだ。五年以上前、やっぱり神代みたいに霊能力が安定しない知り合いがいてな。そのときには本人の修行程度で考えていたが、いまの仕事でいろいろと教わって作った制御の霊符だ」
「泰明さんが作ったんですか!?」
と真名が驚いた。泰明は真名から目線を外す。
「ああ。精度はそれなりにあるはずだ」
同時に、真名には先ほどの泰明の言葉が引っかかった。五年以上前。以前、昭五から聞いた泰明の従妹がまだ元気だった頃のはずだ。その頃〝いた〟霊能力が安定しない知り合い。それは従妹のことではないだろうか。
根拠はない。ただの真名の勘だ。
けれども、それが当たっているような気がした。
「ありがとうございます」と真名は受け取った。
――私はその従妹さんみたいにはなりません。スクナさまもいるし、両親も編集部のみなさんもいるし。だから、そんなに心配しないでください。何より過去のつらい思い出に引きずられないでください。
本当ならそう言ってあげたかったが、泰明は真名が自分の従妹のことを聞いているとは思っていないはずだ。
だから、言えない。
仮に知っていたとしても、真名の実力では大丈夫というのはあまりにも根拠が薄かった。かえって泰明に、「慢心するな」と怒られるだけだろう。