眠れない夜は、きみの声が聴きたくて








田植え作業から一週間が経っていた。俺と響のやり取りは今も継続している。メールも楽しいけど、そろそろ電話もしたくなってきた。

今日の夜に電話をかけていいか聞こうとすると……。

「旭ー。アイス買ってきたから一緒に食べよう!」

ドタバタと騒がしく部屋に入ってきたのは早坂だった。俺はベッドに横になったまま顔だけをドアに向ける。はあ……とため息をついて、すかさずスマホに視線を戻した。

「アイスなんて頼んだっけ?」

「私が食べたいから買ってきたの!」

母さんが会いたがっているからうちに来ればと言ったのは俺だけど、最近の早坂は連絡もなしにこうして上がり込んでくることが増えた。

まあ、この町ではプライバシーなんてないに等しいから驚くことでもない。

早坂が買ってきたのは、棒つきのアイスだった。溶けたら無駄になるので、俺は行儀悪くベッドにあぐらを掻いて、アイスを口に入れた。

「見て! 私のアイス当たりなんだけど!」

「あ、俺も」

「うっそ! すごくない? こんなことある?」

「全部当たりなんじゃねーの?」

「あとで壱にいんとこに交換しにいこう」

「んー」

早坂は学校以外では先生のことを〝壱にい〟と呼んでいる。もちろんふたりは教師と生徒になる前からの知り合いなので、早坂いわく先生って呼ぶと負けた気がするんだとか。

俺は当たり棒を口にくわえたまま、しきりにスマホを見ていた。響から返事が来ない。

女々しくやり取りを見返していると、早坂にスマホを奪われた。


「おい、なにすんだよ!」

「ねえ、写真見せてよ」

「なんの?」

「響の写真!」

なんで勝手に名前で呼んでんだよと呆れつつ、早坂の手からスマホを取り返す。

「写真なんてねーよ」

「あるでしょ。いつもフォルダを見ながらニヤニヤしてんじゃん」

「え、俺、ニヤニヤしてんの?」

……ヤバい、気をつけようと思っている横で、早坂は「しゃ・し・ん!」と催促することを止めない。

たしかにスマホには響の写真がある。ほとんどが不意討ちで撮影したものだ。そのたびに消してと強く怒られたけれど、もったいなくてどれも消していない。

「見てどうすんだよ」

「だって気になるじゃん」

こうなったら早坂は引かない。こういうところがワガママで面倒くさい。

「……たく、わかったよ」

俺は嫌々、彼女の写真を選んで見せた。初めて一緒に出かけた時にオムライスを美味しそうに食べている姿だ。

「ふーん。まあ、普通よりは上って感じだね」

「なに目線だよ」

「旭はこういう顔がいいんだ」

「……べつに顔とかで好きになったんじゃない」

「あ、今好きって言った! やっぱり好きなんじゃん! 響のこと!」

「お前さっきからなんなの?」

早坂の金切り声はよく通るから、鼓膜が刺激されて痛い。そろそろ帰ってほしいな……と思っていると、ノックもなしに再びドアが開いた。

「旭、環ちゃん……」

それは電話の子機を握りしめている母さんだった。



その顔色は青く、手も震えている。なにか良くないことが起きたんだと察した俺たちは顔を見合わせた。

「冷静に聞いてね。横田さんがさっき亡くなったそうよ」

「え?」

「心筋梗塞だって。今娘さんがこっちに向かってるらしいわ」

穏やかな日常が一瞬でひっくり返った。

死はとても身近にある。他人事ではないし、命の儚さもわかっていたつもりだったけれど、悲しみとともに現実を再認識させられたような気分だった。


なあ、響。

俺はお前としたいことがいっぱいあって、伝えていないことも数えきれないくらいある。

本当は今すぐにでも会いにいきたい。

でも再会して〝また明日〟って言った次の日に俺はもういないかもしれない。

こんなことなら十四歳の時に言っておけばよかった。

何回言っても足りないくらいの「好き」を響に伝えていればよかったって強くそう思うよ。




あれから一度も切っていない髪の毛は二十センチくらいに伸びた。

きみを想っていた月日ぶん、なんて可愛いことは言わない。でも……。

『またな』

最後に撫でられた温もりが残っているとでも思っていたのかな。

暑くて鬱陶しいだけなのに、今ではますます意地になって切ることができない。


朝起きると、時刻は十時になろうとしていた。夏休みに入ってから数週間が経過したというのに、遅刻だとぎょっとしてしまう習慣をなんとかしたい。

学校は好きじゃないし、行かなくてもいいものならば多分とっくに辞めている。けれどこうして頭はしっかりと夏休みでも登校しようとしていて、なんだかんだ言いながら自分の生活の一部になっているんだなと感じる。

「ねえ、響。お父さん夕方にはこっちに着くみたいだから、今のうちにケーキでも買ってきてくれる?」

リビングに向かうと、いつもより物が片付いていて、観葉植物もどことなく生き生きとしてるように見えた。

お母さんが言ったとおり、今日お父さんが赴任先から帰ってくる。と言っても滞在期間は三日間だけだ。

「昨日も話したけど、今夜はお寿司の出前を取って、唐揚げとサラダは作る予定だからね」

「うん。私も手伝おうか?」

「ありがとう。でも、唐揚げはもう漬け込んでるから平気よ」

「そっか」

すでにお母さんはお父さんのために化粧をしていて、オシャレな格好をしていた。

たしか前にお父さんが帰ってきたのは私の入学式の日だったから、遡って計算すると約三カ月振りだ。

私はお母さんと違って楽しみというより、ドキドキしてる。

第一声はお帰りなさい。次は久しぶり。その次は……と、考えなくてもいいようなシミュレーションばかりをしていた。

「ケーキはホールじゃなくて、美味しそうなものを人数ぶん選んできてくれたらいいからね」

「うん、わかった」

お母さんから五千円を受け取ると、「未央も行くー!」と妹が寄ってきた。

「暑いから待ってな」

「やだやだ! ケーキ屋さん行く!」

……はあ、また始まった。いくらダメだと伝えても、駄々をこねて言うことをきかない。

するとお母さんから「連れていってあげてよ。私もその間に色々できるし。あ、帽子だけは被せてね」と、こっちの意見も聞かずにまた押し付けられてしまった。

ひとりで行ったほうが早いのに……と思いながらも、未央と出掛けることになった。



外は予想以上に蒸していて、歩くだけで汗が滲んでくるほどだった。

「あつい!」

手を繋いでいた未央が、おもむろに麦わら帽子を脱ぎ始める。

「だから家で待ってなって言ったじゃん。ほら、帽子は被ってな」

「帽子は痛いからいや!」

「ゴムも付いてないのになにが痛いわけ?」

暑さのせいもあって、余計に苛立っていた。未央と喧嘩しても仕方ない。まだ私の言ってることをすべて理解できる歳じゃない。そうわかっていても感情的になってしまう。

「……もう、面倒くさい」

なんでも否定したがる妹に嫌気が差して、被らないと言う帽子を無理やりカバンに突っ込んだ。

そして夕方。お父さんが予定どおりに帰ってきた。テーブルに並んでいるお寿司と唐揚げをつまみながら久しぶりに家族団らんの時間が流れていた。

「響は課題とか出てるのか?」

「うん、少しね」

「ちゃんとやってるか?」

「まあまあ、やってるよ」

お父さんはビールを片手に、たくさん質問してくる。あれこれと予想していた会話なんてなにひとつ当てはまらない。けれど、私は肩に力を入れずに受け答えができていた。



お父さんは三カ月前と体型も含めてなんにも変わっていなかった。

思えば、中学に上がったばかりの頃にお母さんから紹介された時から、柔らかい雰囲気は変わらない。

ただ最初は正直、おじさんだと思った。

優しそうだけどメガネで小太りというどこにでもいそうな見た目だったし、お世辞でもカッコいいと言えないくらい普通だった。

だから、そのおじさんがお父さんになるなんて嫌だった。

ひとつ屋根の下で暮らすのも嫌だった。

馴れ馴れしく名前で呼ばれるのも嫌だった。

全部が嫌すぎたあの頃は、今の未央よりもひどかったかもしれない。

「もし友達と遊ぶお小遣いが足りなくなったら、こっそり言うんだぞ」

けれど、今はそんなに嫌ではない。

「あなた、聞こえてますよ」

「いいじゃないか。響がいてくれるから僕だって安心して出張に行けてるんだから」

ふたりの会話に私がいる。この感覚は久しぶりのことだった。

嬉しくて食事の箸が進む中で、未央が大人しいことに気づいた。ご飯じゃなくてプリンが食べたいと言って先にデザートを食べているけれど、そのスプーンも止まっている。

「どうしたの?」

声をかけると妹は真っ白な顔をして、食べ物をテーブルに吐いた。

「み、未央……!?」

お母さんとお父さんが慌てて傍に寄る。



「う、うわああん……っ」

未央は泣きながら、また気持ち悪そうに次々と物を戻した。

私は急いで大きめのタオルとバケツを洗面所から取ってくる。未央はお母さんにしがみつきながらぐったりとしていた。顔が赤く火照っているから、もしかしたら熱があるかもしれない。

ふたりともお酒を飲んでいたこともあり、急いでタクシーを呼んで未央を病院へと連れていくことにした。

慌ただしく出払った家で、私は留守を頼まれていた。

未央が吐いたものを片付けて、食べかけだったお寿司にはラップをかけた。一通り綺麗にし終わる頃に、ガチャリと玄関の鍵が開いてお母さんだけが帰ってきた。

「……未央、熱中症だって」

「ね、熱中症?」

「症状は軽度だけど、大事(だいじ)を取って今夜は入院になった。私も付き添いで泊まるから」

どうやらお父さんではわからないからと、未央と自分の着替えを取りに来たようだ。



「どうして熱中症に……」

お母さんの顔色も心配で悪くなっていた。妹は今日私以外とは出掛けていない。となると、熱中症になった原因に心当たりがあった。

「……ケーキを買いに行った時、帽子を嫌がってすぐに取っちゃったの」

「被せてくれなかったの?」

「痛いから嫌だって。それで早く買って帰ろうって言ったんだけど、帰りに公園で遊びたいって……」

炎天下の中、滑り台を三回、シーソーを一回、ブランコを押してと言うので十分ほど背中を押してあげた。

「未央はまだ自分で体温調整ができないのよ? どうして気をつけてくれなかったの?」

「気をつけてたよ……」

「気をつけてないからこうなったんでしょう!」

お母さんに怒鳴られて、私はぐっと唇を噛む。

「なんで……なんで私が責められなきゃいけないの? そもそもお母さんが一緒に連れていけって言ったんじゃん!」

気乗りしなかったのに、押し付けるだけ押し付けて私のせいにするなんて納得できない。

「妹の面倒を見るのはお姉ちゃんなんだから当たり前のことでしょう!」

「……当たり前?」

「そうよ。よそのおうちを見なさい。もっと小さい子でも妹の面倒を見てる人がたくさんいるでしょ?」

そんなの知らない。見たことない。

「響はもう十七歳なんだから、もうちょっとしっかりしてよ」

お母さんに余裕がない状態とはいえ、その言葉はナイフみたいに私の心に刺さった。



……しっかりしてよって、私、しっかりやってなかった?

預り保育に迎えに行ったり、お風呂に入れたり、絵本を読んで寝かしつけたり、自分なりにお母さんの助けになるのならと頑張ってきた。

なのにこんなひとつのミスで今までのことがなかったみたいな言い方をされて、もっとしっかり面倒を見ろと言ってくる。

こんなのは……もううんざりだ。

「……好きでお姉ちゃんになったんじゃない」

「え?」

「お母さんこそ、私のことなんにも見てないくせに!」

私はバタバタと自分の部屋に駆け込んだ。

心が潰れていく。息もうまく吸えない。誰かにすがらないと壊れてしまいそうで、とっさにスマホを手に取り、旭に電話をかけていた。

……プルルル、プルルル、ガチャ。

「あ、旭……」

『こちらは留守番電話サービスセンターです。発信音のあとにお名前と電話番号を――』

その音声に崩れるようにして、耳からスマホを離した。それからお母さんが部屋を訪ねてくることはなく、代わりに再び出掛けていく音だけがした。