もしも、人生の最後を選べるのなら、私はきみがいた二年前がいい。
なにをするにも一緒で、なんにも気を使わなくて、私が私らしくいられた唯一の日々だ。
ねえ、きみはもしも、人生の最後を選べるなら、いつがいい?
学校の帰り道。市川響こと私は夕焼けが色濃い歩道橋の上で足を止めた。
忙しなく行き交う車やバイクの音。ツンとする排気ガスの匂いにむせそうになりながら、ピンク色のなにかが空中で舞っていた。偶然にも手のひらに乗ったのは、桜の花びらだった。
ああ、今年も咲いてたんだ。
毎日ここを通っているはずなのに、視界に入らないわけがないというのに、今の今まで満開の桜に気づかなかった。
……ピロン。
制服のポケットに入れていたスマホが鳴ったかと思えば、いつも一緒にいる友達でやっているメッセージグループが絶え間なく動いている。
内容は彼氏がどうとか、テストがどうとか、美味しいものを食べた報告とか、最近買ったものの写真とか、これといった話題がなくても次々とメッセージが送られてくる。
私は内容もろくに読まずに目に入ったスタンプを押した。それは桜が地面に落ちていくよりも早く画面から流れていった。
私はきっと、人と群れるのが得意ではない。
けれど弾かれてはいけないという危機管理能力だけは立派に育っている。
はあ……と深いため息をついたところで、【ごめん。仕事が終わりそうにないから未央のお迎えお願いできる?】と、お母さんから連絡がきた。
未央とは、二歳になる私の妹だ。そういえば今日は預かり保育だって言ってた気がする。
母は育児休暇を経て、この四月からウェブデザインの仕事に復帰した。自宅のパソコンを使ってできる作業とはいえ、すぐさま締め切りに追われる生活となり、こうして妹の世話を任されることも増えていた。
母から連絡していたこともあって迎えはスムーズに行うことができた。なのに未央は園を出てからずっとふて腐れたままだ。
「お迎え、ねーねじゃなくて、お母しゃんがよかった……」
さっきから同じ言葉を繰り返して、鼻をぐすんと啜っている。
「私もそうしたかったけど仕方ないでしょ」
「お母しゃんのこと待ってたのに」
まだ辿々しい部分があるとはいえ、いつの間にこんなに意思表示をするようになったんだろう。
髪の毛も結べるほどの長さになってるし、身長も少し伸びてる。これじゃ、桜も見逃すはずだ。同じ家に住んでる妹の成長すら気づけていないのだから。
「あ、見て! ちょーちょーがいるよ!」
未央は拗ねていた表情を変えて、飛んでいる蝶々に夢中になっていた。その切り替えの早さが羨ましいと感じながら、またスマホが鳴っていた。
画面を見ると、知らない十一桁の番号からの着信だ。
……誰だろう。ぼんやりと眺めているうちに電話は切れてしまった。
家に着くと、お母さんはまだパソコンと向き合っていた。締め切りでも近いんだろうか。そういうことも聞ける雰囲気でもない。
「あつい! さくらんぼがついた洋服にする!」
歩くだけで音を立てまくる妹を追いかけて、私は自分の制服を脱ぐことよりも先に着替えさせた。
うちの家族構成は私と母と父と妹。ちなみにお父さんとの血は繋がっていなくて、ふたりが再婚したことで五年前に家族になり、そして二年前に妹が生まれた。
お父さんは現在、単身赴任をしてるので別々に暮らしている。
しょっちゅう連絡はくるけれど、変わりはないか?とか、勉強はどうだ?とか、聞いてくることはいつも同じ。それで、私も心配しないでって返すのがお決まりのパターンになりつつある。
「うわ、ごめん。響。集中しすぎて時間忘れてた。もしかして晩ごはんの支度までしてくれたの?」
黙々と野菜を切っていると、お母さんが慌ててキッチンにやってきた。
「うん、カレーにしようかなって」
「じゃあ、続きはやるから、その間に未央をお風呂に入れてくれない?」
……え、と、言いかけたけれど、口には出さなかった。まだ自分の部屋にも行ってないし、腰だって下ろしてない。けれど私には〝お姉ちゃん〟っていう役割が振り分けられている。それはこっちが望んでいなくても、断ることはできない。
「うん。わかったよ」
私は不満を喉の奥へと追いやって、妹を脱衣場へと連れていった。
ずっとギリギリのところで、自分が苦手としてることをやっている気がする。
いつか、いつか、限界がくるかもしれない。
もうずいぶん前から、心が潰れていくような感覚に襲われている。
「ほら、じっとしてて」
私は湯船を使いながら妹の体を洗う。アヒルのオモチャで気を引いているうちに髪の毛にもシャンプーを付けた。
「……うう、やだあ……っ」
髪を洗いはじめるとグズるのはいつものことだ。
「めめが痛い……っ!」
「動くからでしょ」
「ふえっ……」
ついには大泣きしてしまった未央を無視して洗い続ける。こういう小さなことでも自分の世界が壊れていく音は聞こえてくる。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
火がついたように泣きじゃくる未央を心配して、お母さんが様子を見にきた。
「うん。目にシャンプーが入ったみたい」
「もう、気をつけてあげてよ」
「………」
なんで私が悪いみたいに言われなきゃいけないんだろうか。本当は私だってゆっくりお風呂に入りたいし、家に帰ってきて妹の世話を手伝うことだってしたくないのに。
結局、未央は湯船には浸からずに、そのままお母さんが連れていった。私がお風呂から上がる頃には、リビングの隣にある寝室で未央のことを寝かしつけていた。
「カレーできてるから、自分でよそって食べてね」
「……うん」
ウトウトしている妹を起こさないように、私は音を立てずにダイニングテーブルの椅子に座る。カレーをスプーンを黙々と食べながらも、気を使ってテレビは付けなかった。
【響、全然返信ないけど忙しいのかな?】
スマホを確認すると、友達たちのやり取りはまだ続いていて、私の話題になっていた。
学校でも行動を共にしてる友達はみんないい人だし、人の悪口も言わない。
でも私はうまくやれているのか、わからない。仲良く……できている自信もない。
妹の世話をしていたなんて言えば明るい雰囲気を壊してしまうかもしれないので【寝てた】と、返事をした。みんなから一斉におはよう!という可愛らしいスタンプが届く。
……よかった。答えはこっちで合ってたみたい。
やっと部屋に向かって横になれた時には十時を過ぎていた。なんだかいつも同じ毎日を繰り返してる気がする。
だんだんとまぶたが重くなってきて意識が途切れそうになる頃、枕元にあるスマホが鳴っていた。
電話帳に登録していない番号が暗がりの中で表示されている。これは夕方にもかけてきた人だ。
誰なんだろうと不審に思いながらも、二回かけてくるということは間違い電話ではなさそうだと思い、着信を取った。
『もしもし、俺だけど、元気?』
私が声を発する前に聞こえてきた声。一気に眠気が吹っ飛んで、慌てて横になっていた体を起こした。
なんで? どうして? まさか?
そんなはずはないと思っているのに、耳が彼の声を覚えている。
『響?』
二年振りに名前を呼ばれて、胸が無条件に苦しくなった。とてもじゃないけど声が出ない。なんて言っていいのかわからない。喉がきゅっと絞まるのと同時に、気づけばベッドの上で正座になっていた。
彼の名前は、三浦旭。こんなことを言えば大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、私の人生においてもっとも影響を与えた人物であり、一番多感だった十四歳を一緒に過ごした人だ。
私と同じように十七歳になっている彼の声はほんの少しだけ大人っぽくなっていた。
『あれ、もしかして、響じゃない?』
私がなにも言わないから不安に思ったのだろう。スマホを耳から離しながら番号を確認してる様子が目に浮かぶ。
「……響だよ」
どんなテンションで話せばいいのかわからなくて、なんだか不機嫌な言い方をしてしまった。
『番号変わってなくてよかった。元気?』
「……うん、そっちは?」
『俺も元気』
本当に私は今、旭と喋っているの?
全然実感がないというのに、不思議と久しぶりという感覚はなかった。
だって私は彼のことを忘れたことなんて一度もない。
頭の中で何度旭との思い出を振り返っただろうか。
もう少しうまく喋れてもいいはずなのに緊張が先立ってしまい、声の震えを隠すことで精いっぱいだった。
『悪い、こんな時間に。夕方に一回かけたんだけど出なかったから』
「なんで……かけてきたの?」
十四歳の冬に遠くへ引っ越してから、一度も連絡はなかった。
当たり前に近況報告のやり取りができるだろうと考えていた私の気持ちは簡単に押し潰された。
きっと新しい土地で、新しい仲間たちと楽しくやっているんだろうと。私のことなんてもうとっくに忘れてしまっていると思っていた。
『なんかお前の声が聞きたくなってさ』
……こういうところ、本当に変わらない。自分の発言がどれだけの力を持っているかも知らないで、ストレートに物を言ってくる。
『学校はどう?』
「……べつに普通。そっちは?」
『明るいやつらばっかりだから毎日うるさいよ。響は共学?』
「うん」
『同中の誰かと連絡取ったりしてる?』
「してない。そっちは?」
『俺も最近は全然。最初の頃は取り合ってる人もいたけど、やっぱり高校に入ると色々忙しくなるもんな』
……じゃあ、なんで最初の頃に私には連絡してくれなかったんだろう、なんて、そんな考えが浮かんでしまった自分に呆れた。
あの頃、私が一番親しくしていたのは旭だった。私には……旭しかいなかった。
彼が引っ越してしまった時、自分を照らしてくれるものがなにもなくなったような気持ちだった。不安というより寂しくて。寂しいというより苦しかった。
『なんで、連絡してくれなかったの?』
……なにそれ。それを旭が言うの?
「……あのあとすぐにスマホが壊れて、データが全部消えたから」
だから、リセットされた気がしていた。
恋しく思うくらいならスマホと一緒に心もそうしてしまおうと思った。
それでいいんだと言い聞かせながらも、どこかで旭からの連絡を期待してる自分もいた。
自分で連絡できないことを理由にして……ずっとずっと待っていた。
なのに、なんで今さら。この二年間なんにもなかったのに、なんで……。
「あのさ、もう寝るから」
彼のことを身勝手だと思う自分が一番身勝手だ。
『そうだよな。こんな時間に本当にごめんな。でも少しでも喋れて嬉しかったよ』
ほら、またこっちの気持ちも知らないでそういうことを言う。だんだんと腹がたってきて電話を切ろうとした寸前で、声が飛んできた。
『また連絡してもいい?』
いいもダメも言えなかった。その代わりに、聞こえなかったふりをして一方的に電話を切ってしまった。