能勢電鉄鶯の森駅は、静かな住宅街に佇む無人駅だ。ウグイスが囀る森があったことからその名がつけられ、ホームの床を始め駅の構内は鶯色で統一されている。近年は、再開発が進み、森はその姿をほとんど消したが、狸やリスと言った動物たちが時折姿を見せ、春になれば由来にもなった鶯が長閑な静寂を賑わす。わずかに残った猪名川の渓谷と駅から続く急な斜面がかつての町の面影を今に知らせてくれている。
みなこと七海がホームへ出れば、春らしい囀りが駅舎に響いていた。きっと普段は気にもとめない日常の音が鮮やかに感じるのは、新生活が始まり、心が豊かになっているからだろう。この町の空気や匂い、吹き抜ける風は、ここにしかない世界で唯一のものだと思えば、全てが美しく色めき立って見えてくる。
そんな風に日々の鮮やかさに浸っているみなこの傍らで、なんの気もなしに七海は欠伸をしていた。細めた目で見つめてみるが、薄っすらと涙を浮かべた瞳は、ぼやっと改札の方を向いていた。
「七海は呑気でええなぁ」
もうひとつ、大きな欠伸をして「何がぁ」と七海は腑抜けた声を出す。春の陽気のせいだろう。だけど、みなこが日常の鮮やかさに気づいたのも春のせいなのだ。呑気なのはお互い様かもしれない。
マルーン色の車体はゆっくりと動き出し、ウグイスの囀りをかき消して行く。桜の木々を抜けて、猪名川に抜けるトンネルへと車両は消えていった。
「あれ、高橋ちゃう?」
改札を抜けたところで、七海が坂を登っていく男子生徒を見つけた。紺色のブレザーは宝塚南のものだ。
「ホンマや、航平やなぁ」
「おーい、高橋」
「ちょ、なんで呼ぶん」
「いや、だって見つけたから」
どういう理屈や、とみなこは肩を落とす。別に構いはしないのだけれど。七海の呼びかけに気づいた航平は歩くのをやめ、こちらに向かい手を上げた。
「おぉ、みなこと大西やん」
「そっか、高橋も宝塚南やったんやな」
「まぁそうやけど、うちの中学から宝塚南行ったやつ少ないんやから、覚えといてぇや」
「悪い悪い」
ケラケラと七海は喉を鳴らした。
「みなこと大西も今、帰りか?」
坂の上側にいる航平の背はみなこよりも随分高い。中学の時よりも伸びているかもしれない。最後にクラスが同じになったのは小学校五年生の時だっただろうか。親同士の仲が良く、幼稚園に入る前から知っている幼馴染だが、思春期の頃になってからどうも話すのが恥ずかしい。異性として好きだとか嫌いだとかそういう感情ではない。ただ無償に気まずいのだ。それを感じているのはみなこの一方的なものかもしれないが。
その気まずさはみなこの言葉に棘を生やす。
「どう見たってそうやろ」
「高校生なんやから、寄り道したって怒られはせんのに素直に帰って来て」
入学式初日から、同級生を誘い遊びに出る勇気はみなこにはない。気の合いそうな友人を見つけた子たちは、梅田に出ようやら西宮に買い物に行こうやらと話ているところを聞いたが。
「そうかもしらんけど……航平やって素直に帰って来てるやん」
「俺は真面目やし?」
「どの口が言ってんの」
確かに中学時代の航平は、勉強に関しては真面目に取り組んでいた方だろう。宝塚南だって、進学校というわけではないが、遊び呆けていた生徒が来られるほど簡単な高校ではないはずだ。だけど、サッカー部だった航平がマネージャーの女の子と良く遊びに行っていたことをみなこは知っている。
もちろん、それがどうだというわけではない。どうだというわけではないが、妙に面白くないのだ。その噂を聞くたびに、もやもやとした煙たいものが胸を曇らせる。
「俺、不良ではないやろ」
「不良ではないかもしれんけどさ。……あー、クラスの可愛い子と梅田にでも遊びに行けばいんじゃないですか?」
「いや、お前なぁ……。人をまるで遊び人みたいに」
「はいはい。どうせ、またサッカー部のマネージャーと付き合うんやろ」
「は? 別に付き合ってへんし」
「良く遊びに行ってたんやん」
「あれは、部活の集まりでやな。別に二人っきりで遊んでたわけとちゃうし」
「あーダブルデートでもトリプルデートでもすればええやん」
「やからちゃうって」
目を細めるみなこに、航平は肩をすくめる。ギスギスする二人のことなどつゆ知らず、七海は無邪気に話題を変えた。
「そういや、高橋はまたサッカー部に入るつもりなん?」
「いや、サッカー部は人数そこまで多くないし、大会目指して頑張ってるっていうよりも仲良くやってるみたいな空気らしいから、高校は別の部活に入ろうかなって」
「へぇ。なんか別のスポーツ?」
「いや、ジャズ研とかええかもって」
航平の口から思いがけない部活名が飛び出し、みなこは目を見開く。
「は? なんでジャズ研」
「別にええやろ。俺がなんの部活入ったって」
「そ、そうやけど」
「みなここそ、軽音部に入ってバンド組むんや、って中学の頃に大西と言ってたけど、どうするつもりなん? うちの学校軽音部ないやろ?」
「なんで航平、私らが軽音部に入りたがってんの知ってんの?」
仲のいい友人に話したことはあるが、クラス中に言いふらしていたわけではない。どうして別クラスの航平が知っているのか。七海は何も考えないタチだが、そういう約束事を簡単に言いふらす性格ではない。
「ほら、おかんが! みなこがギター買ったって話をお前んとこの親から聞いたって聞いて」
「ふーん」
どこか慌てた様子の航平は、みなこから視線をそらした。同時に彼のスマートフォンが鳴る。スラックスのポケットから、入学祝いにでも買って貰ったであろう真新しいスマートフォンが出てきた。そういえば、みなこは航平の連絡先を知らない。
「あー、おかんに買いもん頼まれたわ。ほんならな」
面倒くさい、と顔に出ているが素直に従うところは彼のいいところなのか、それとも反抗期を越えて大人になったからなのか。航平は少しだけ早足で長い坂を登って行った。
「ちょー、もうー、航平もジャズ研ってなんなん」
「あれ、みなこは嬉しんちゃうん?」
「なんで私が嬉しがらなあかんの?」
不思議そうな顔を見合わせ、お互いに首を傾ける。坂の傾斜が垂直に見えた。
みなこと七海がホームへ出れば、春らしい囀りが駅舎に響いていた。きっと普段は気にもとめない日常の音が鮮やかに感じるのは、新生活が始まり、心が豊かになっているからだろう。この町の空気や匂い、吹き抜ける風は、ここにしかない世界で唯一のものだと思えば、全てが美しく色めき立って見えてくる。
そんな風に日々の鮮やかさに浸っているみなこの傍らで、なんの気もなしに七海は欠伸をしていた。細めた目で見つめてみるが、薄っすらと涙を浮かべた瞳は、ぼやっと改札の方を向いていた。
「七海は呑気でええなぁ」
もうひとつ、大きな欠伸をして「何がぁ」と七海は腑抜けた声を出す。春の陽気のせいだろう。だけど、みなこが日常の鮮やかさに気づいたのも春のせいなのだ。呑気なのはお互い様かもしれない。
マルーン色の車体はゆっくりと動き出し、ウグイスの囀りをかき消して行く。桜の木々を抜けて、猪名川に抜けるトンネルへと車両は消えていった。
「あれ、高橋ちゃう?」
改札を抜けたところで、七海が坂を登っていく男子生徒を見つけた。紺色のブレザーは宝塚南のものだ。
「ホンマや、航平やなぁ」
「おーい、高橋」
「ちょ、なんで呼ぶん」
「いや、だって見つけたから」
どういう理屈や、とみなこは肩を落とす。別に構いはしないのだけれど。七海の呼びかけに気づいた航平は歩くのをやめ、こちらに向かい手を上げた。
「おぉ、みなこと大西やん」
「そっか、高橋も宝塚南やったんやな」
「まぁそうやけど、うちの中学から宝塚南行ったやつ少ないんやから、覚えといてぇや」
「悪い悪い」
ケラケラと七海は喉を鳴らした。
「みなこと大西も今、帰りか?」
坂の上側にいる航平の背はみなこよりも随分高い。中学の時よりも伸びているかもしれない。最後にクラスが同じになったのは小学校五年生の時だっただろうか。親同士の仲が良く、幼稚園に入る前から知っている幼馴染だが、思春期の頃になってからどうも話すのが恥ずかしい。異性として好きだとか嫌いだとかそういう感情ではない。ただ無償に気まずいのだ。それを感じているのはみなこの一方的なものかもしれないが。
その気まずさはみなこの言葉に棘を生やす。
「どう見たってそうやろ」
「高校生なんやから、寄り道したって怒られはせんのに素直に帰って来て」
入学式初日から、同級生を誘い遊びに出る勇気はみなこにはない。気の合いそうな友人を見つけた子たちは、梅田に出ようやら西宮に買い物に行こうやらと話ているところを聞いたが。
「そうかもしらんけど……航平やって素直に帰って来てるやん」
「俺は真面目やし?」
「どの口が言ってんの」
確かに中学時代の航平は、勉強に関しては真面目に取り組んでいた方だろう。宝塚南だって、進学校というわけではないが、遊び呆けていた生徒が来られるほど簡単な高校ではないはずだ。だけど、サッカー部だった航平がマネージャーの女の子と良く遊びに行っていたことをみなこは知っている。
もちろん、それがどうだというわけではない。どうだというわけではないが、妙に面白くないのだ。その噂を聞くたびに、もやもやとした煙たいものが胸を曇らせる。
「俺、不良ではないやろ」
「不良ではないかもしれんけどさ。……あー、クラスの可愛い子と梅田にでも遊びに行けばいんじゃないですか?」
「いや、お前なぁ……。人をまるで遊び人みたいに」
「はいはい。どうせ、またサッカー部のマネージャーと付き合うんやろ」
「は? 別に付き合ってへんし」
「良く遊びに行ってたんやん」
「あれは、部活の集まりでやな。別に二人っきりで遊んでたわけとちゃうし」
「あーダブルデートでもトリプルデートでもすればええやん」
「やからちゃうって」
目を細めるみなこに、航平は肩をすくめる。ギスギスする二人のことなどつゆ知らず、七海は無邪気に話題を変えた。
「そういや、高橋はまたサッカー部に入るつもりなん?」
「いや、サッカー部は人数そこまで多くないし、大会目指して頑張ってるっていうよりも仲良くやってるみたいな空気らしいから、高校は別の部活に入ろうかなって」
「へぇ。なんか別のスポーツ?」
「いや、ジャズ研とかええかもって」
航平の口から思いがけない部活名が飛び出し、みなこは目を見開く。
「は? なんでジャズ研」
「別にええやろ。俺がなんの部活入ったって」
「そ、そうやけど」
「みなここそ、軽音部に入ってバンド組むんや、って中学の頃に大西と言ってたけど、どうするつもりなん? うちの学校軽音部ないやろ?」
「なんで航平、私らが軽音部に入りたがってんの知ってんの?」
仲のいい友人に話したことはあるが、クラス中に言いふらしていたわけではない。どうして別クラスの航平が知っているのか。七海は何も考えないタチだが、そういう約束事を簡単に言いふらす性格ではない。
「ほら、おかんが! みなこがギター買ったって話をお前んとこの親から聞いたって聞いて」
「ふーん」
どこか慌てた様子の航平は、みなこから視線をそらした。同時に彼のスマートフォンが鳴る。スラックスのポケットから、入学祝いにでも買って貰ったであろう真新しいスマートフォンが出てきた。そういえば、みなこは航平の連絡先を知らない。
「あー、おかんに買いもん頼まれたわ。ほんならな」
面倒くさい、と顔に出ているが素直に従うところは彼のいいところなのか、それとも反抗期を越えて大人になったからなのか。航平は少しだけ早足で長い坂を登って行った。
「ちょー、もうー、航平もジャズ研ってなんなん」
「あれ、みなこは嬉しんちゃうん?」
「なんで私が嬉しがらなあかんの?」
不思議そうな顔を見合わせ、お互いに首を傾ける。坂の傾斜が垂直に見えた。