見慣れない校舎は、着慣れない制服を着た生徒たちのぎこちない緊張感で満たされていた。この辺りでは可愛いともっぱらの評判の紺色のブレザーは男女共通。チェック柄のスカートとスラックスは、わずかに女子の生足の方が目立っている。真新しい制服に身を包んだ生徒たちの間を抜けていく心地よい春の風を胸いっぱいに吸い込み、清瀬みなこは新しい生活への期待と不安を同時に膨らませた。
入学式を終えて、ぞろぞろと教室へ戻る人の波は、皆同じような雰囲気だ。自分たちはもう子どもではない、とはしゃぎ過ぎないよう周りを警戒しながらも、友人作りのチャンスを逃さないように機会を伺っている。つい先日まで中学生だった同級生たちの気がこうして引き締まっているのは、PTA会長のやる気のある祝辞を聞いたせいだろうか? どことなく大人っぽく見える皆に負けないようにと、みなこは小さな胸を張ってみた。
「みーなこ」
元気のいい弾んだ声に呼ばれたかと思えば、肩に絡みつくように腕が伸びてきた。その腕が大西七海のものだとすぐに分かる。短い髪の毛先はピンとハネていて、みなこの鼻をくすぐった。それが寝癖ではないことをみなこは知っている。
「七海ってば、暑いしひっつかんといて」
「ケチー」
「ほら、みんながこっち見てるやんか」
入学早々、スキンシップを取っていることが珍しいのだろう。廊下を行く生徒の目が一斉にこちらを向いた。七海は気にしないらしいが、みなこは少し照れくさく周りの目も気になる。
「ええやんかー、中学の時はなんも言わんかったくせに」
「もう高校生やから」
七海は、みなこと同じ小中学校出身で、小さいころからずっと仲が良く毎日のように遊んでいた。つまり親友だ。友達作りに自信のなかったみなこは、七海と同じクラスで安心したのだが、彼女は少々積極的すぎる。周りを気にせずにすぐに行動に移すタイプなのだ。それが吉と出ることもあるが、危うい場面も何度かみなこは知っている。
「高校生になったらなんで抱きついたらあかんの?」
「恥ずかしいし……それに」
「恥ずかしがることなんかないんやでー」
それは七海が決めることじゃない! そう言おうとしたやさき、廊下の掲示板に部活紹介のポスターが張り出されているのを見つけた。サッカー部、野球部、バレー部などの体育会系の部活を中心に、漫研や美術部、吹奏楽部など文化系の部活のポスターも掲示されている。みなこが視線を掲示板に向けたことに気づいた七海もこちらを向き、無意識的な声を出した。
「やっぱ美術部のポスターって凝ってんなぁ」
「そうやな。漫研も可愛いキャラクター描いてあるで」
「ほんまや! ってちゃうやろみなこ! うちらのお目当ての部活のポスターは?」
「そっか、えーっと」
――バンドを組もう。
そう七海と約束したのは中学二年の夏。何がきっかけだったのか、七海の突然の思いつきだった。飽きっぽい彼女の性格もあり、始めはみなこも聞き流していたのだが、その熱心さと情熱に負け、バンドを組むことを承諾した。それから親にねだって買ってもらったギター。七海は電子ドラムセット。高校生になったら軽音部に入ろう。そう約束し、二人で練習を重ねてきたのだ。
「あれどこやろ。軽音部のポスターある?」
「いやいや、みなこ冗談はええって」
「いや本当に見つからんのやけど」
「もー、軽音部がないなんてあるわけないやんか」
七海は冗談交じりに笑っているが、見つからないのは本当だ。ちゃんと探して、と言いたげに七海の手がポンポンとみなこの頭を軽く弾く。
――だけど軽音部がないなんてことがるのだろうか。
「あのぉ」
突然、声をかけられ、みなこと七海は同時に振り向いた。
スラっとした可憐な少女。それが第一印象だった。黒いハイソックスの上に伸びる細くも肉付きのいい脚。細い体躯に、みなこや七海よりも十センチほど高い身長。長い髪が少しだけカールして、陽の光に照らされたせいかわずかに明るい色をしている。
その可愛さに思わず見惚れていたみなこは、はっと我に返った。
「ごめん、邪魔やった」
「いえ。そうじゃなくて、この学校、軽音部はないと思うよ」
「軽音部がないってどういうこと?」
肩に掴まっていた七海が、みなこから離れて一歩前に出る。ぐいぐいと来る七海に驚いたのか、可憐な少女は細い肩をすぼませた。
「理由は分からないけど。ここ宝塚南高校に軽音部はないはずだよ」
「それホンマ?」
「うん。入学式で配られた冊子の部活紹介のページに軽音部は書いてなかったよ。でも、その代わりジャズ研はあるけど」
「ジャズ研?」
七海の首がコクリと傾く。それを見て、彼女の指が掲示板の隅の方に伸びた。大きな吹奏楽部のポスターの下。ギターとサックスを持ったなんとも言えない猫のキャラクターに「いざ! ジャズ研」とセリフが添えられていた。
「ほんまや。ジャズ研や」
「七海、どうしよう軽音部ないなんて」
「うーん」
どうしたものかと、困り顔で七海は考え込む。その様子を見た彼女が小さな口を開いた。
「ジャズ研じゃだめなの?」
「うん。うちらは、バンドがしたかったからなぁ……ていうか、あんた標準語やな」
「あ、私、中学二年の時に東京からこっちに引っ越して来たから」
みんなと違うところを指摘されて、恥ずかしそうに白い頬を赤く染めた。怖がっていそうだと、いたたまれなくなり、みなこは前かがみの七海の肩を軽く引っ張った。
「七海、そもそも名前もまだ聞いてないんやから」
「ほんまや。ごめん、ごめん。うちは七海で、こっちがみなこ。それであんたの名前は?」
「私は谷川奏」
「奏かー、綺麗な見た目に似合ったええ名前やなぁ」
「そうかな。ありがとう」
「美しい音を奏でてそうなお嬢様って感じの雰囲気がする!」
「そ、そうかな?」
「いやぁーでも、これでもうお友達やな。良かったぁ、みなこ以外に友達出来るか不安やってんなぁ」
どの口がいっとんねん、と心の中でツッコむが、みなこも七海のこういった誰彼構わない性格がありがたかった。奏もいやな顔をしていないところを見るに、同じ気持ちだったらしい。「お友達か……よろしくね!」と奏は可愛らしく口端を緩めた。
「やった! お友達ゲット!」
そう言って、七海は奏に手を差し伸べる。その言い方はどうなのだろう。だけど、奏ではとても嬉しそうにその手をぐっと掴んだ。
そのタイミングで、みなこはふと周りの人通りがまばらになってきていることに気がついた。入学式終わりの移動中なので、時間としてはまだ授業中のはずだ。
「七海、そろそろ教室に戻らなやばいんちゃう?」
「ほんまやな。奏は何組なん?」
「私、三組だよ」
「ほんなら一緒やん」
七海のもう一方の手がみなこの手を掴む。空いた手を互いに見つめながら、みなこと奏は思わず苦笑いを浮かべた。
「ほら、二人とも繋いで! 友達の証」
「いや、奏ちゃんも照れてるから」
本当は自分が照れくさかったのだけど。「もうーはよ戻らんと先生に怒られるで」と七海に急かされ、みなこは奏の手を取った。
奏の手は細い体躯わりに大きく温かった。身長が大きいせいもあるのだろうけど。みなこの手は奏の手に包み込まれる。手を繋いだことに満足したのか、すぐに手を解くと七海は少し早歩きで教室の方へ歩き出した。
「ほら戻るで」
「……もう。ごめんね奏ちゃん」
「ううん。みなこちゃんも軽音部希望だったの?」
「そうなんやけど、どうしよっかな」
軽音部がないとは予想外だった。七海との約束を叶えようとこれまで練習してきたのに。
奏と手を繋ぎっぱなしだったことに気づき、みなこは慌ててそれを解く。廊下を行く生徒が本当にいなくなり始めて、これはまずいと二人は新しい自分たちの教室を目指した。
入学式を終えて、ぞろぞろと教室へ戻る人の波は、皆同じような雰囲気だ。自分たちはもう子どもではない、とはしゃぎ過ぎないよう周りを警戒しながらも、友人作りのチャンスを逃さないように機会を伺っている。つい先日まで中学生だった同級生たちの気がこうして引き締まっているのは、PTA会長のやる気のある祝辞を聞いたせいだろうか? どことなく大人っぽく見える皆に負けないようにと、みなこは小さな胸を張ってみた。
「みーなこ」
元気のいい弾んだ声に呼ばれたかと思えば、肩に絡みつくように腕が伸びてきた。その腕が大西七海のものだとすぐに分かる。短い髪の毛先はピンとハネていて、みなこの鼻をくすぐった。それが寝癖ではないことをみなこは知っている。
「七海ってば、暑いしひっつかんといて」
「ケチー」
「ほら、みんながこっち見てるやんか」
入学早々、スキンシップを取っていることが珍しいのだろう。廊下を行く生徒の目が一斉にこちらを向いた。七海は気にしないらしいが、みなこは少し照れくさく周りの目も気になる。
「ええやんかー、中学の時はなんも言わんかったくせに」
「もう高校生やから」
七海は、みなこと同じ小中学校出身で、小さいころからずっと仲が良く毎日のように遊んでいた。つまり親友だ。友達作りに自信のなかったみなこは、七海と同じクラスで安心したのだが、彼女は少々積極的すぎる。周りを気にせずにすぐに行動に移すタイプなのだ。それが吉と出ることもあるが、危うい場面も何度かみなこは知っている。
「高校生になったらなんで抱きついたらあかんの?」
「恥ずかしいし……それに」
「恥ずかしがることなんかないんやでー」
それは七海が決めることじゃない! そう言おうとしたやさき、廊下の掲示板に部活紹介のポスターが張り出されているのを見つけた。サッカー部、野球部、バレー部などの体育会系の部活を中心に、漫研や美術部、吹奏楽部など文化系の部活のポスターも掲示されている。みなこが視線を掲示板に向けたことに気づいた七海もこちらを向き、無意識的な声を出した。
「やっぱ美術部のポスターって凝ってんなぁ」
「そうやな。漫研も可愛いキャラクター描いてあるで」
「ほんまや! ってちゃうやろみなこ! うちらのお目当ての部活のポスターは?」
「そっか、えーっと」
――バンドを組もう。
そう七海と約束したのは中学二年の夏。何がきっかけだったのか、七海の突然の思いつきだった。飽きっぽい彼女の性格もあり、始めはみなこも聞き流していたのだが、その熱心さと情熱に負け、バンドを組むことを承諾した。それから親にねだって買ってもらったギター。七海は電子ドラムセット。高校生になったら軽音部に入ろう。そう約束し、二人で練習を重ねてきたのだ。
「あれどこやろ。軽音部のポスターある?」
「いやいや、みなこ冗談はええって」
「いや本当に見つからんのやけど」
「もー、軽音部がないなんてあるわけないやんか」
七海は冗談交じりに笑っているが、見つからないのは本当だ。ちゃんと探して、と言いたげに七海の手がポンポンとみなこの頭を軽く弾く。
――だけど軽音部がないなんてことがるのだろうか。
「あのぉ」
突然、声をかけられ、みなこと七海は同時に振り向いた。
スラっとした可憐な少女。それが第一印象だった。黒いハイソックスの上に伸びる細くも肉付きのいい脚。細い体躯に、みなこや七海よりも十センチほど高い身長。長い髪が少しだけカールして、陽の光に照らされたせいかわずかに明るい色をしている。
その可愛さに思わず見惚れていたみなこは、はっと我に返った。
「ごめん、邪魔やった」
「いえ。そうじゃなくて、この学校、軽音部はないと思うよ」
「軽音部がないってどういうこと?」
肩に掴まっていた七海が、みなこから離れて一歩前に出る。ぐいぐいと来る七海に驚いたのか、可憐な少女は細い肩をすぼませた。
「理由は分からないけど。ここ宝塚南高校に軽音部はないはずだよ」
「それホンマ?」
「うん。入学式で配られた冊子の部活紹介のページに軽音部は書いてなかったよ。でも、その代わりジャズ研はあるけど」
「ジャズ研?」
七海の首がコクリと傾く。それを見て、彼女の指が掲示板の隅の方に伸びた。大きな吹奏楽部のポスターの下。ギターとサックスを持ったなんとも言えない猫のキャラクターに「いざ! ジャズ研」とセリフが添えられていた。
「ほんまや。ジャズ研や」
「七海、どうしよう軽音部ないなんて」
「うーん」
どうしたものかと、困り顔で七海は考え込む。その様子を見た彼女が小さな口を開いた。
「ジャズ研じゃだめなの?」
「うん。うちらは、バンドがしたかったからなぁ……ていうか、あんた標準語やな」
「あ、私、中学二年の時に東京からこっちに引っ越して来たから」
みんなと違うところを指摘されて、恥ずかしそうに白い頬を赤く染めた。怖がっていそうだと、いたたまれなくなり、みなこは前かがみの七海の肩を軽く引っ張った。
「七海、そもそも名前もまだ聞いてないんやから」
「ほんまや。ごめん、ごめん。うちは七海で、こっちがみなこ。それであんたの名前は?」
「私は谷川奏」
「奏かー、綺麗な見た目に似合ったええ名前やなぁ」
「そうかな。ありがとう」
「美しい音を奏でてそうなお嬢様って感じの雰囲気がする!」
「そ、そうかな?」
「いやぁーでも、これでもうお友達やな。良かったぁ、みなこ以外に友達出来るか不安やってんなぁ」
どの口がいっとんねん、と心の中でツッコむが、みなこも七海のこういった誰彼構わない性格がありがたかった。奏もいやな顔をしていないところを見るに、同じ気持ちだったらしい。「お友達か……よろしくね!」と奏は可愛らしく口端を緩めた。
「やった! お友達ゲット!」
そう言って、七海は奏に手を差し伸べる。その言い方はどうなのだろう。だけど、奏ではとても嬉しそうにその手をぐっと掴んだ。
そのタイミングで、みなこはふと周りの人通りがまばらになってきていることに気がついた。入学式終わりの移動中なので、時間としてはまだ授業中のはずだ。
「七海、そろそろ教室に戻らなやばいんちゃう?」
「ほんまやな。奏は何組なん?」
「私、三組だよ」
「ほんなら一緒やん」
七海のもう一方の手がみなこの手を掴む。空いた手を互いに見つめながら、みなこと奏は思わず苦笑いを浮かべた。
「ほら、二人とも繋いで! 友達の証」
「いや、奏ちゃんも照れてるから」
本当は自分が照れくさかったのだけど。「もうーはよ戻らんと先生に怒られるで」と七海に急かされ、みなこは奏の手を取った。
奏の手は細い体躯わりに大きく温かった。身長が大きいせいもあるのだろうけど。みなこの手は奏の手に包み込まれる。手を繋いだことに満足したのか、すぐに手を解くと七海は少し早歩きで教室の方へ歩き出した。
「ほら戻るで」
「……もう。ごめんね奏ちゃん」
「ううん。みなこちゃんも軽音部希望だったの?」
「そうなんやけど、どうしよっかな」
軽音部がないとは予想外だった。七海との約束を叶えようとこれまで練習してきたのに。
奏と手を繋ぎっぱなしだったことに気づき、みなこは慌ててそれを解く。廊下を行く生徒が本当にいなくなり始めて、これはまずいと二人は新しい自分たちの教室を目指した。