杏奈の目の前に湯気のくゆるマグカップがコトリと置かれた。
漂うコーヒーの香りが鼻をくすぐる。

「一緒に朝食にしませんか?」

そう言って広人はパンののった皿を差し出す。
今さら遠慮をするのもおかしいかなと、杏奈は大人しく受け取った。

「……いただきます。」

コーヒーに口をつけると、とたんに胃にしみわたる。
少し苦いのが今の杏奈にはちょうどいい。

「杏奈さん、お化粧落とされたんですね。」

「あ、そういえば。」

広人に指摘され、杏奈は慌てて頬を覆った。すっかり忘れていたが、シャワーを浴びたときに顔もザブザブ洗い、そのままファンデーションも塗らず素っぴんのままだった。
そんなことすら頭が回っていないとは、杏奈はガクリと肩を落とす。

「はー最悪。」

「杏奈さんは化粧しててもしてなくてもお綺麗ですね。」

「…ありがとうございます。」

本気かお世辞かよくわからない言葉に、一応お礼を言っておく。
にこりと笑う広人に何となく照れてしまい、居たたまれなくなって杏奈は目の前のパンを掴むとひと口かじった。

「このパン…。」

パンを口に入れた瞬間なにか懐かしい感じがして、杏奈はパンをまじまじと見る。

「パンよりご飯がよかったですか?」

「いえ、そうじゃなくて、もしかしてこれ、minamiのパンですか?」

杏奈は懐かしさとパンの見た目から、以前気に入って買っていたパン屋minamiの名前を挙げた。
パン屋minamiは前に働いていた早瀬設計事務所の近くにあり、美味しくてよく購入していたのだ。

「よくわかりましたね!ここのパン美味しいですよね。」

「広人さん何でminamiを知っているんですか?」

「え?うちの近所ですよ。」

驚く杏奈に、広人はさも当然かのごとく言ってのけた。

まさか広人が住んでいるところがminamiの近所で。ということは杏奈の前の職場も近いということで。何という巡り合わせか。

世間は狭いとはこういうことをいうのかと、杏奈は軽く衝撃を受けた。