「んんぅ〜〜、疲れた！」
大学の図書館で大きく伸びをしながらそんな独り言を漏らすと、思っていた以上に大きな声だったらしくて、周りで私と同じように勉強していた他の学生に睨まれてしまった。私は小さく頭を下げて、再び机に広げたテキストに向き直る。
私は今、大学二年生。
教養科目ばかりだった一年生の時とは違い、専門的なことを学ぶ科目がどっと増えた。その分、勉強だって大変になる。授業のたびに課題のレポートを出さなきゃいけなかったり、しょっちゅう行われる小テストのために復習をしたり。それに、一週間後に迫った定期試験の対策！ 今期は受けている科目数が多いから、その分試験も多い。これで成績が悪くて単位でも落としたら……考えるだけで恐ろしい。
一息つきたくて、私は鞄の中から手帳を取り出した。そっと開くと、すぐに一枚の写真が現れる。ランドセルを背負って満面の笑みを浮かべる私と、お母さんが並んで写っている写真……この直後、お母さんは交通事故で死んでしまった。
私のお母さんは、とても料理が上手な人だった。どんなに苦い野菜でもたちまち美味しい料理に変えてしまう。そのおかげで、小さな頃にあった私の好き嫌いは小学校に入学する前にほとんどなくなってしまい、その後もとても健康的な生活を送ることが出来ている。
私はそんなお母さんに憧れて、どんなに偏食がひどい子どもでもペロッと食べることができて、栄養満点な料理が作れるようになりたく、今は大学の栄養学科に通っている。管理栄養士の資格取得を目指して、日々勉強中の毎日だ。
（やっぱだめ、ちょっと休憩しよ）
私は机にうなだれて、テキストに顔をうずめる。昨日行ったボランティアの疲れが今になって体に響いてきているのだ。
将来子ども向けの仕事をしたいと大学の先生に相談したら、保育園でのボランティアを勧められた。子どものお世話だけじゃなくて、調理の仕事の手伝いもできると聞いて喜んで向かったのはいいものを、想像していた以上にハードだった。
（体力もつけなきゃダメかー。でも、全力で鬼ごっこしたあとに大量の野菜の皮むきはきついって……）
子どもは可愛かったからいいけれど、と私はため息をつく。そうこうしている内に、抗うことのできない眠気がやってきた。私は10分だけ……とスマートフォンでタイマーを設定して、目を閉じる。
夢の世界は、私のすぐ近くにあった。
台所を覗き込むと、お母さんが鼻歌を歌いながらリズミカルに包丁で何かを切っている。久しぶりにお母さんが夢に出てきてくれた、私はそれが嬉しくて、小走りで近寄る。
「おかーさん！」
夢の中の私は、いつだって小さな子どものままだ。
「あら、小雪。お腹空いたの？」
お母さんにそんな風に聞かれると、何だかお腹が空っぽのような気がしてきた。私は元気いっぱいに「うん！」と頷く。
「待っててね。今、小雪の好きな鯖の味噌煮と、大根とさつま揚げの煮物作っているから」
子どもの頃からの好物が、それだった。我ながら渋い子どもだった。お母さんの作る鯖の味噌煮は臭みもなくしっとりしていて、大根の煮物は中まで味がじんわりと染み込んでいて、私はそれが好きだった。お母さんが亡くなった後、その味を再現しようと何度も挑戦するくらい。……まだ、それはできていないのだけど。
「ねえ、お母さん。私、頑張ってるんだよ」
日々の勉強に保育園のボランティア。疲れることは確かに多いけれど、学べることもずっと多い。
「いっぱい勉強して……、好き嫌いがたくさんある子に楽しくて栄養満点な食事を作って、いつかその子の偏食がなくすことができるような、そんなご飯を発案できるような栄養士になりたいの。昔、お母さんが私にしてくれたみたいに！」
私がそう言うと、お母さんは私を見てにっこりとほほ笑んだ。いつの間にか、お母さんの顔が目の前にある……ちがう、私が子どもの姿から大人へといつの間にか変わっていたのだ。
「いつの間に、そんな風に夢を語る大人になったのかしら」
お母さんは包丁をまな板の上において、私の頬を撫でた。その触れられた感触が妙にリアルで、何だかくすぐったい。
「でもね、小雪」
「ん？ なあに？」
「小雪の事を【今】必要としている人が、もしかしたらいるかもしれないよ」
「そうかな？ 私なんかまだまだ見習いだよ。この前の保育園のボランティアだって、本格的に調理に加わることだってできなかったんだし……もっと勉強しないと！」
「ほら、それが【この世界】だけとは言ってないでしょう？」
お母さんの手のひらが、私の胸をドン！と強く押す。バランスを崩した私は、そのまま奈落の底に落ちていく。
「お、お母さん！」
助けて、と私は手を伸ばす。でも、どんどん姿が小さくなっていくお母さんはただ手を振って、「いってらっしゃい。がんばってね」と繰り返すだけだった。
そして私はどんどん落ちていって――「痛っ！」
そのまま、石畳の床に叩きつけられていた。
大学の図書館で大きく伸びをしながらそんな独り言を漏らすと、思っていた以上に大きな声だったらしくて、周りで私と同じように勉強していた他の学生に睨まれてしまった。私は小さく頭を下げて、再び机に広げたテキストに向き直る。
私は今、大学二年生。
教養科目ばかりだった一年生の時とは違い、専門的なことを学ぶ科目がどっと増えた。その分、勉強だって大変になる。授業のたびに課題のレポートを出さなきゃいけなかったり、しょっちゅう行われる小テストのために復習をしたり。それに、一週間後に迫った定期試験の対策！ 今期は受けている科目数が多いから、その分試験も多い。これで成績が悪くて単位でも落としたら……考えるだけで恐ろしい。
一息つきたくて、私は鞄の中から手帳を取り出した。そっと開くと、すぐに一枚の写真が現れる。ランドセルを背負って満面の笑みを浮かべる私と、お母さんが並んで写っている写真……この直後、お母さんは交通事故で死んでしまった。
私のお母さんは、とても料理が上手な人だった。どんなに苦い野菜でもたちまち美味しい料理に変えてしまう。そのおかげで、小さな頃にあった私の好き嫌いは小学校に入学する前にほとんどなくなってしまい、その後もとても健康的な生活を送ることが出来ている。
私はそんなお母さんに憧れて、どんなに偏食がひどい子どもでもペロッと食べることができて、栄養満点な料理が作れるようになりたく、今は大学の栄養学科に通っている。管理栄養士の資格取得を目指して、日々勉強中の毎日だ。
（やっぱだめ、ちょっと休憩しよ）
私は机にうなだれて、テキストに顔をうずめる。昨日行ったボランティアの疲れが今になって体に響いてきているのだ。
将来子ども向けの仕事をしたいと大学の先生に相談したら、保育園でのボランティアを勧められた。子どものお世話だけじゃなくて、調理の仕事の手伝いもできると聞いて喜んで向かったのはいいものを、想像していた以上にハードだった。
（体力もつけなきゃダメかー。でも、全力で鬼ごっこしたあとに大量の野菜の皮むきはきついって……）
子どもは可愛かったからいいけれど、と私はため息をつく。そうこうしている内に、抗うことのできない眠気がやってきた。私は10分だけ……とスマートフォンでタイマーを設定して、目を閉じる。
夢の世界は、私のすぐ近くにあった。
台所を覗き込むと、お母さんが鼻歌を歌いながらリズミカルに包丁で何かを切っている。久しぶりにお母さんが夢に出てきてくれた、私はそれが嬉しくて、小走りで近寄る。
「おかーさん！」
夢の中の私は、いつだって小さな子どものままだ。
「あら、小雪。お腹空いたの？」
お母さんにそんな風に聞かれると、何だかお腹が空っぽのような気がしてきた。私は元気いっぱいに「うん！」と頷く。
「待っててね。今、小雪の好きな鯖の味噌煮と、大根とさつま揚げの煮物作っているから」
子どもの頃からの好物が、それだった。我ながら渋い子どもだった。お母さんの作る鯖の味噌煮は臭みもなくしっとりしていて、大根の煮物は中まで味がじんわりと染み込んでいて、私はそれが好きだった。お母さんが亡くなった後、その味を再現しようと何度も挑戦するくらい。……まだ、それはできていないのだけど。
「ねえ、お母さん。私、頑張ってるんだよ」
日々の勉強に保育園のボランティア。疲れることは確かに多いけれど、学べることもずっと多い。
「いっぱい勉強して……、好き嫌いがたくさんある子に楽しくて栄養満点な食事を作って、いつかその子の偏食がなくすことができるような、そんなご飯を発案できるような栄養士になりたいの。昔、お母さんが私にしてくれたみたいに！」
私がそう言うと、お母さんは私を見てにっこりとほほ笑んだ。いつの間にか、お母さんの顔が目の前にある……ちがう、私が子どもの姿から大人へといつの間にか変わっていたのだ。
「いつの間に、そんな風に夢を語る大人になったのかしら」
お母さんは包丁をまな板の上において、私の頬を撫でた。その触れられた感触が妙にリアルで、何だかくすぐったい。
「でもね、小雪」
「ん？ なあに？」
「小雪の事を【今】必要としている人が、もしかしたらいるかもしれないよ」
「そうかな？ 私なんかまだまだ見習いだよ。この前の保育園のボランティアだって、本格的に調理に加わることだってできなかったんだし……もっと勉強しないと！」
「ほら、それが【この世界】だけとは言ってないでしょう？」
お母さんの手のひらが、私の胸をドン！と強く押す。バランスを崩した私は、そのまま奈落の底に落ちていく。
「お、お母さん！」
助けて、と私は手を伸ばす。でも、どんどん姿が小さくなっていくお母さんはただ手を振って、「いってらっしゃい。がんばってね」と繰り返すだけだった。
そして私はどんどん落ちていって――「痛っ！」
そのまま、石畳の床に叩きつけられていた。
