それから数週間後、長年飼っていた猫が死んだ。けれど、不思議と涙が出てくることも、悲しく思うこともなかった。
彼女が、死ぬということがあまりにも遠かった。
物心が着いた頃にはもういた彼女が、この家から消えた。
今この世界に存在しないこと、それが私の想像の範疇を超えてやっぱり、よく分からない出来事だったんだと、そう思う。
数週間前の高尾圭介の死と同じように、私からすれば、死はあまりにも遠すぎるのだ。
でも、やっぱり、私の家の一匹の猫が死んだって、他の人はそれを知らないし、誰もそんなことを予測しているわけが無い。
結局、いつも通りの生活をして、いつもと同じように生きていくのだ。
何も入っていない、綺麗なままの彼女の皿もそのままにして。

朝、いつも一番最初に教室に入る。
その教室に行く廊下を歩いていると必ず、高尾とすれ違う。何故か、いつもすれ違う。
高尾は三組だったらしい、なのに何故いつもすれ違っていたのだろう。
どうしてなのか分からない。今となっては聞くすべもない。
私は、今日も彼が横を通り過ぎない廊下を歩く。
そのちっぽけな、違和感と喪失感とぼんやりとしていく彼の顔を孕んだ廊下の空気は、結局いつも通りの廊下だった。
彼が死んだことを、十年後覚えている人はこの学年にどのくらいいるのか。
そういえば、高校の時誰か死んだよなくらいに思うのか、それとも、その事すらすっかり忘れてしまうのか。
いつか、みんなその事を忘れてしまうだろう。私が彼の顔をはっきりと思い出せないように。
彼と同じクラスだった人も同じ委員会だった人も彼のことを忘れて、普通に生きていくのだ。
私の家の猫が死んだって、誰も知らないように。
この学校にいない別の誰かが、高尾圭介という存在を知らないように。
今の一瞬で、死んだ人がいたって、私たちにとってそれは顔も知らない他人であって、私たちの生活に何も影響をおよぼさないから。