籠の鳥の王女は恋をする

 彼女とは、私がクラッセ国第五王子の副官として配属された、その日に出会った。
 親族の期待を一身に背負って王城に勤めるようになってから三年。初めてついた役職が、出世とも閑職とも言えないなんとも微妙なもので、もやもやした気持ちを抱いて王宮の中庭のひとつに立ち入ったときのことだった。
 その中庭には大きな楡の木があり、私はときどきその根本に座り込んで背を幹に預けて、絵を描いていた。下には芝生が敷き詰めてあり、座るにはちょうどいい。その日もそうしようと、雑用紙を何枚かと木炭を持って立ち寄った。
 いつものように木の前に立ち、座り込もうと腰を屈めたその瞬間。
「どうしても、そこが良くて?」
 いきなり声が降ってきた。
 若い女の声だ。涼やかな風のように澄んだ声。
 私は顔を上げて慌てて辺りを見回す。だが周辺に人の姿はなかった。
 そもそもこの中庭は、高い石造りの城壁が近くにあることもあって、さして景色が良いわけでもなく、休憩用の長椅子が設置されているでもなく、色とりどりの花壇が設置されているでもない、閑散とした場所なのだ。
 だからここに入り浸っているのだ。絵を描きたいというよりは、一人になりたいときに来る場所。人がいるだなんて思ってもみなかった。
「ここよ、ここ。上」
 声の言う通り、上を見上げる。
 すると楡の枝に一人、少女がドレスの裾をはためかせながら座っていた。
 まさかそんなところに。
「ええと……」
 誰だろう。王宮にいる女性といえば、侍女たちの中の誰かか。高貴な方々は、ほとんど後宮に籠っているはずだ。
 豊かな金の髪が波打ち、金糸の縫い込まれた菫色のドレスがはためく。白い肌は透けるようで、彼女は木漏れ日の中で輝いているように見えた。
 ドレスと同じ色の瞳が、こちらをじっと見つめている。
「実は少々、困っているの」
 彼女は本当に困っているのかわからないような、ゆったりとした口調で言葉を紡ぐ。
「登ったはいいけれど、降りられなくて」
「はあ」
 どう返していいかわからなくて、そんな間抜けな返事をするしかなかった。
「それで、これはとにかく飛び降りるしかないと思っていたのだけれど、そこにあなたが座るというのなら、私はその選択肢も失くしてしまうわ」
「なるほど」
 思わず、そううなずいた。
「でも失くした代わりに、一つ、選択肢ができたのだけれど」
「あ、ああ、そうですね」
 私は両腕を広げて、待った。
「話が早くて助かるわ」
 彼女はそう言って小さく微笑むと、いきなり躊躇なく飛び降りた。
 もう少し覚悟を決めるような素振りがあるかと思っていたので慌てたが、なんとか彼女を両腕に横抱きにすることができた……が、よろけてしまい体勢を整えようともがくうち、倒れこんでしまう。彼女が怪我をしないようにと咄嗟に後ろに倒れられたのが救いだった。
「いって……」
 手がつけないので、思い切り腰を打ってしまった。
「あら、大丈夫?」
 腕の中の少女は、飄々として言う。
「大丈夫ですが……できれば、飛び降りる前に声を掛けていただきたかったかと」
 倒れ込んでしまったことが恥ずかしくて、言い訳じみたことをごちた。
 彼女はくすりと笑うと、立ち上がる。
 今まで腕の中にあったはずの重みが急になくなって、浮き上がるような感覚がした。
「ありがとう。このお礼は、またいずれ」
 ドレスについた砂や葉っぱを手で払いながら、彼女は言う。
「いえ、お礼など。それより、女性が木登りなんて……」
 私の言葉に、彼女は眉をひそめた。
「お説教? 私、お説教は嫌いよ」
 そう言って唇を尖らせる。
「いや、説教というか……危ないですし」
「ほら、お説教だわ」
 そしてそっぽを向く。
 これくらいで説教などと、どんなわがまま娘なんだ。こんなので、王宮の侍女が勤まるのか。
 なにか言ってやろうと口を開いた瞬間、彼女が地面に散らばった紙と木炭を見て言った。
「絵を描くの?」
 その言葉に、私の不満は行き先を失う。
「え、ええ、拙いですが……」
「ふうん」
 彼女は興味なさげにそう返してくると、ふらっと踵を返す。
「あ、あの……」
 なにを言うでもなかったが、なんとなく呼び止めてしまう。
 彼女はくるりとこちらに振り向いて、言った。
「私、忙しいの。お説教を聞いている暇はなくてよ」
 それだけ吐き棄てるように言ったあと、ふわふわとした足取りで王宮のほうに向かっていく。
「な……」
 どうしてそんなことを言われなければならなかったのか。忙しい? 木登りしていたくせに?
「なんだ、あの女!」
 それが、私たちの初めての出会いだった。
 私の上司となる第五王子との面談は、その次の日に行われた。
 ここで待つように、と言われた王子の執務室の隣にある小さな面談室には、窓を背にした机と椅子、そしてその向かいにぽつんと椅子が一つしか置かれていない。
 私は、明らかに王子が腰掛けるであろう豪奢な机と椅子の前に置かれた、質素な木製の椅子に座る。
 面談をするはずの王子はなかなか現れなくて、私は一人、昨日のことを思い起こしていた。
 いつ思い出しても腹が立つ。我ながら根に持ちすぎとは思うが、あの女に今度会ったらなんと言ってやろうかと、あれからずっと考えを巡らせている。
 あの中庭は私のお気に入りの場所で、第五王子の執務室の裏手にあるから、今回の人事で近くになる、とそれだけが楽しみだったのに。
 あの女が中庭に入り浸るならまた別の場所を見つけなければ、とため息が漏れた。
「待たせたね。君が新しく配属された?」
 考え込んでいて扉が開く音にも気付かなかった。急に部屋に現れた第五王子の声に、跳ね上がるように椅子から立ち上がる。
「は、ジルと申します、アレス殿下」
「ああ、そんなに畏まらなくともいいよ。まあ座って」
「は」
「私はなるべく自分の周りにいる人間のことは知っていたいと思っていてね。気軽になんでもしゃべってほしい。ああ、査定やなにかに響くことはないよ」
 そう言って柔らかな笑みを浮かべる。初めて間近で見る第五王子は、どうやら気さくな人物のようだった。
 だが、はいそうですか、と態度を崩すこともできず、私は膝の上で両手をぎゅっと握って置いたままだった。
 そのへんの心情はわかっているのか、王子はそれ以上は言わなかった。
 不躾かと思いつつも、王子をまじまじと眺める。
 端正な顔立ちをしている。どちらかというと女性的だ。線は細いが、つくべきところに筋肉はついている。金色の髪は、昨日のあの女を思い出すほどに美しく輝いていた。
 自分のぼさぼさの栗色の髪と、骨太な身体が、酷くみすぼらしく思えた。
「私は基本的には軍の一部隊を任されているだけで、大したことはしていない。というか、軍というのも性分に合わない気はしているのだけれど、陛下の仰せだから」
「いえ、そんな」
 軍の仕事のほうはともかく、外交の場や国内視察など、見目の良い第五王子がいろいろ駆り出されているのは知っている。
 でもだからと言って、彼が王位継承に名乗りを挙げることは決してない。それに付く者もまた、王宮の中枢に行くことはない。
 配属が決まったとき、同期の者に言われた。
「そちらはずいぶん気楽らしいぞ。出世争いでギスギスすることもないし、外の仕事が多い方だから城に閉じこもりっぱなしということもないし、なによりアレス殿下は温厚な方だから」
 気楽と言えば気楽なのだろうが、立身出世を期待されて城にやってきた身にすれば、複雑な思いだ。
「ここには、希望してやってきたのではないよね?」
「えっ」
 単純に、配属されたからやってきた。それだけだ。そもそも希望など訊かれてもいない。
 なんと答えれば及第点なのか。下手なことを言って、王子の機嫌を損ねはしないか。
「大丈夫、この部屋の会話は他の部屋には聞こえない」
 そう言ってちらりと横の壁を見やる。
 隣は、正規の王子の執務室。侍女も他の副官も、皆そこで待機しているはずだ。
 だが、彼らに聞かれようとも問題はない。問題なのは、質問をしてきた目の前の人だ。
「私は若輩者ゆえ、いただいた仕事を懸命にこなすだけでございます。思いがけず殿下の元で働けることになり、身に過ぎた光栄に思っております」
「なるほど、真面目な人柄のようだね」
 そう言うと、王子は苦笑した。
「どうしてここに配属されたと思う?」
 どうして?
 そこしかなかったからではないのか。
 故郷では神童と言われた身でも、いざ王城に入ってしまえば、自分程度の人間はごろごろいることを知る。更に言えばこの程度は当たり前で、上には上がいて、そこに追いつくには何年かかるのか見当もつかない。その上、血筋やら身分やらが絡んでくると目も当てられない。
 自分の夢を諦めてまで王城にやってきたのに、ここには未来がないような気がしていた。
 そこに、第五王子の副官なる仕事である。
 そこそこの頭脳で、そこそこの身分で。でも真面目な堅物は、それなりに役職をつけていかなければならなくて。
 それで配属されたのだろうと勝手に推測していたのだが、違うのだろうか。
「申し訳ありません、私では理由までは」
「では、教えてあげよう。君が、私と年が近いからだよ。私が二十二で君が二十一だから」
「年……? それが理由ですか」
「そう。話し相手にどうか、ということだろうね」
 肩が落ちる。それは、私の推測よりも酷い。
 何ひとつ、認められはしなかった。年齢が近い。ただそれだけ。
 故郷に置いてきた筆が思い出された。どうして置いてきてしまったのだろう。
「単純に話し相手になればいいというものでもないよ。私と切磋琢磨できる人物でなければ」
 王子はそう言葉を重ねたが、それだけでは私の心の中に浮かんだ筆は、消せそうになかった。
 そのとき、部屋の扉がノックされた。
 王子のために相手を確認せねばと立ち上がろうとするのを、手で制される。
 私は、王子がさっさと扉に向かって歩いていき自分で応対するのを、目で追った。
「どうした?」
「それが……」
 ノックした侍従が声を抑えて何かを言っている。
 王子は小さく肩をすくめて、こちらに振り返った。
「すまない、私に来客だ。少々待っていてもらえるかな」
「はい」
 私がそう答えると同時に、部屋の中に入ってきた者がいる。ここにいないかのように振舞ったほうがいいかと、真正面に向き直った。
 だが。
「お仕事中ごめんなさい、アレスお兄さま」
 聞き覚えのある声。私は再び扉に振り返る。
「あっ!」
 思わず出た声に、その人もこちらを見る。
「あら、あなた」
 そこにいたのは、あの木登り女だ。
「おや、知り合いかい?」
「ええ、少し」
 王子の質問には、木登り女が答えた。
 いやちょっと待て。彼女は今、なんと言ったか。
 アレスお兄さま? では当然、妹ということだ。となれば。
「も、申し訳ありません!」
 慌てて立ち上がる。勢いで、今まで座っていた椅子を蹴倒してしまったが、それどころではない。私はとにかく頭を下げた。
 侍女などではない。王女殿下だったのだ。
 どうして王宮に。普通、王族の女性たちは後宮に閉じこもって、出てくることはほとんどない。出てくるにしても、たくさんの侍女たちを侍らせている。
 まさか、木登りをする王女がいるだなんて。
「知らぬこととはいえ、昨日は失礼を」
 言いながら、昨日の出来事を頭の中でぐるぐると思い返す。自分は彼女に何をした?
 いきなり、彼女を腕の中に受け止めた場面が浮かぶ。
 ああ、もう駄目だ。あれだけでもう、ありえない。
 終わった。
 そう思った。
「何か無礼を受けたかしら? 覚えがないのだけれど」
 王女は昨日と同じように、のんびりとした口調で言う。
 もしかしたら寛大な王女は、なにもかもなかったことにしてくれようとしているのかもしれない。だが私は頭を上げられなかった。
「ジル、頭を上げてくれないか」
「は」
 他ならぬ王子の言葉を受けて、私はおそるおそる身体を起こす。王女は小首を傾げていた。本当に心当たりがなさそうな感じだ。
「エイラ、どういった知り合いだい?」
 エイラ殿下。ならば第四王女。確か先日、輿入れが決まったはずだ。だったらなおさら後宮でおとなしくしていればいいものを。そうしたら、私もあんな場面に立ち会わなくて済んだのに。
「助けていただいたのよ。無礼なことは何もしていらっしゃらないわ」
 王女の言葉に、自分の卑しさが引き立った気がした。
「そういうことらしいよ。何があったか知らないけれど、気にする必要はない」
 王子はそう言って軽く肩をすくめる。
「で、今日はどういった用事だい?」
 もうその件は終わった、とばかりに王子は王女に向き直った。
「本当はね、時間が空いたから、お兄さまの馬を貸していただきたかったの」
「わざわざ訊きにこなくとも、勝手に乗っても構わないよ」
「いいえ、きちんとお伺いを立てなくては」
 馬? 木登りに続き、馬とは。
 いや、たしなみとして乗馬をするのは珍しくはないが、おっとりとした雰囲気の王女に、それらは似合わないような気がした。
「でもそうねえ、馬はもういいわ」
「ほう?」
「その代わり、彼を貸してくださらない?」
 そう言って、王女はいきなり私のほうを指差してきた。
「はっ?」
 いきなり、何の話だ。何が起こった。
「おや、彼を気に入った?」
 狼狽している私とは対照的に、王子は落ち着いた口調で、微笑みながら言った。
「彼、絵を描くのよ」
「へえ、それは知らなかった。本当かい?」
 王子はこちらに振り返る。
「え、ええ。でも、素人ですし、拙いものです」
「彼がいいのよ、お兄さま。私、彼に私の絵を描いて欲しいわ」
 あまりの展開に、私はあんぐりと口を開けてしまった。
 ちょっと待て。彼女は私の画材を見ただけで、描いた絵を見たわけではない。間違いない、あのとき持っていた紙はすべて白紙だった。なのにどうして私なんだ。
「なるほど。では彼には私からお願いしておこう。それでいいかい?」
「ええ。私、昨日の中庭で待っているわ」
 王女は私のほうに振り返りそう言うと、部屋を出て行ってしまった。
 何がどうしてそうなった。
 私は呆然として立ちすくむ。
 扉を閉めて部屋の中に引き返してきた王子は、再び自分の椅子に腰掛けると、小さくため息をつく。
「そういうわけで、彼女に付き合ってやってくれ」
 お願いではない。命令だ。当然、私に選択の余地は残されていない。
「でも、あの、本当に拙くて。エイラ殿下のご期待に沿えるかどうか」
 少しずつ落ち着いてきて、私はとりあえず倒れた椅子を元通りにし、腰掛ける。
「そういうことは問題ではないんだよ。さて、参考までに、昨日何があったか聞かせてもらおうか」
 王子がそう言うので、私は仕方なくかいつまんで昨日の出来事を語った。
 抱きとめた、ということに懸念を示されるだろうかと思ったが、王子は私の話に声を出して笑う。
「今度は木登りか。何をしでかすかわからないな」
「今度は?」
 すると王子は頬杖をついて、ぽつりと話し出した。
「エイラが先日婚約したのは、知っているよね」
「はい。セイラスの国王陛下とか。おめでとうございます」
 私はそう祝辞を述べたが、対して王子はため息をついた。
「めでたいかどうかは、少々、微妙なんだ」
 それは知っている。かの国王は王女の二十四歳ほど上。王女が十七歳で、国王が四十一歳。国王としてはまだ若い。だが夫としては親子ほど離れた年の差は、王女にとっては辛いものだろう。
「まあ、我々にとっては珍しくはない話だ。それより、あそこの王室は少しばかり揉めていてね」
 王子は大きくため息をついた。
「セイラス王は、まず初めに侍女上がりの女性を娶った。彼女は女の子を産んだ。セイラスも我が国と同じく、王女には王位継承権はないからこの子は世継ぎにはなれない」
 確認するように王子がこちらを見たので、一度うなずく。
「その後、正室としてギルト王女を迎えた。だが正室には子どもが産まれない。けれど現正室はずいぶんと気性の激しい女性のようで……。噂だけれど、最初の妃である側室殿は毒で身体が動かなくなったとか、侍女たちの中で死者が何人も出たとか」
 それが事実ならば、なんという荒んだ後宮か。
 他人事ながら、息を呑む。そんなところに嫁がねばならないのか。
「でも、もうそろそろ世継ぎがいないとね」
「それで、エイラ殿下ですか」
「そう。現正室を黙らせるには、彼女よりも後ろ盾の強い女性でなければならない。ギルトよりは我が国のほうが大きいからね」
「ああ、はい」
「我が国としても、セイラスと縁を繋いでおくのは悪いことではない。我が国とセイラスの間には、キルシー国がある」
 キルシーと我が国は、かつて領土問題で戦った。であれば、挟み撃ちにもできる、という牽制の意味もあるこの縁談は、こちらの利もあるということだ。
「ただ、エイラのことを考えるとね」
 王子はそう言って、再びため息をついた。
 すさんだ後宮。親子ほどの年の差の夫。世継ぎを産むことが絶対条件である生活。
 なるほど、めでたいと手放しで喜べる婚姻ではない。
「とまあ、ここまで前置きだ」
 そう言って、王子は口の端を上げた。
「輿入れの日まで、あと三月。それまではせめて、許される範囲内のことならば叶えてあげようと、そういうことなんだよ」
「わかりました。私などでよろしければ」
 私の返事に、王子はうなずく。
「少々のわがままは多めにみてやって欲しい。大丈夫だね?」
 少々のわがまま。それは果たしてどれくらいのものなのか。私は一抹の不安を覚えた。
「エイラはとにかく、『輿入れしたらもうできないこと』にこだわっているんだ。まあ我々から見たら可愛いものだよ」
 私の表情を読んだらしい。私は慌てて、かしこまりました、と答える。
 王子は満足げに微笑んだ。
 紙と木炭を持って中庭に行くと、待っていたのは王女だけではなかった。侍女二人が付き添っている。
 そうだよな、これが普通だ、と妙に納得した。昨日のように王女が一人でうろうろするほうが異常なのだ。
 楡の木の下に座り込んでいる王女に、二人がなにかを言っているようだ。
 おそるおそる近付くと、侍女たちの声が聞こえた。
「なりません、エイラ殿下」
「そうですわ、これだけは」
 どうやらなにかを反対されているようだ。まさかまた木登りか、と耳をそばだてつつ、近寄ってみる。
「殿方と二人きりなんて」
「陛下だって反対されるでしょう」
 思わず足を止めた。
 これは間違いなく、私と二人きりなど言語道断、という話だ。
 これはいったいどうするべきか。私は侍女たちの話を聞かなかったことにして前へ進むべきか、それとも自ら辞退して後ろへ下がるべきか。
「あら、いらしたわ、彼よ」
 だが私が決断をするより先に、王女がこちらに気が付いた。
 王女ののんびりした口調とは対照的に、侍女二人はこちらに勢いよく振り返り睨みつけてくる。突っ立っているわけにもいかないので、仕方なく三人の傍に寄った。
 すると侍女たちが私に言葉を浴びせ始める。
「あなた、アレス殿下の副官だとか」
「アレス殿下のことはもちろん信頼しておりますが、あなたを信頼できるかは別問題ですわ」
「エイラ殿下はお輿入れ前の大事な御身体。ここのところお一人になりたいようですから私どもも気を利かせておりますが、殿方とご一緒ということは看過できませんの」
「それを理解なさっているのかしら?」
 矢継ぎ早に繰り出される甲高い声に、私はただ小さくうなずき続けるしかできない。
 だがそこで、王女が口を挟んできた。
「心配してくれるのはありがたいわ。けれど、皆に見られながらじっとしているのは気まずいもの」
「でもエイラ殿下、やはりこれは」
 侍女たちは王女の言葉にも引き下がらない。
「彼だって、人に見られながら絵を描くのは嫌なのではないかしら?」
 いきなり話を振られ、思わず身体が硬直する。二人の侍女は当然、こちらに振り返った。
「いえ、私はどちらでも」
 この場で「見られたくない」などと言える勇気がある者がいたら、ぜひお目にかかりたい。
「ほらエイラ殿下、この方もそう仰られていることですし」
「今回は私たちのお願い事を聞いてくださいませ」
 そう言い募る侍女たちに根負けしたのか、王女は小さくため息をついた。
「わかったわ。でも少し離れたところでね? 近くだと緊張してしまうわ」
「かしこまりました」
 自分たちの要望が聞き入れられたと知るや、侍女たちは深く礼をして散っていった。
 なるほどよくしたもので、目障りにならぬよう気をつけながら、位置取りをしている。
「もう、過保護で困ってしまうわ」
 王女は変わらずのんびりした口調でそう言う。
「お待たせしてしまったわね。ではお願いするわ。……ええと」
「ジルと申します、エイラ殿下」
「そう、ジルというの。よろしく」
 当然のことだが、私の名前すらも知らない。どうして絵を描いて欲しいなどと思ったのだろう。
「あの、その前に確認を」
「なにかしら」
「場所はここでいいのでしょうか?」
 楡の木が一本あるだけの、殺風景な場所。座ってのんびりするにはいいかもしれないが、絵に描くとなると、少々物足りない場所だろう。ましてや王女だ。背景に高貴な身分であることを証明するものを入れるのは、肖像画を描くには常識だ。
 だがそれより何より、ここは、屋外。
「なにか問題があって?」
「絵の具が乾きます」
 瓶に入った絵の具は屋外だとすぐに乾いて使い物にならなくなる。それに屋外では日差しによって彼女が纏う色は刻々と変わっていく。
 肖像画を描くならば、屋内しか考えられない。
「絵の具? その木炭ではいけないの?」
 王女は私の手の中にある木炭を見つめながら言った。
「えっと……肖像画、なんですよね」
「そんな堅苦しいものである必要はなくてよ。ちゃんとした肖像画が欲しいなら、王宮の絵師に頼むわ」
 確かに。
「多少のおしゃべりをしながら絵を描いて欲しいの。それだけよ」
「はあ、そういうことでしたら」
 彼女の意図はさっぱり見えないが、とりあえずはそう答えた。
 王女は私の絵を見たわけではない。単純に習作を見て、実力を見極めたいだけなのかもしれない。
「では、失礼いたします」
 私は王女の斜め向かいに座り、木炭を手に取る。
 透けるような白い肌、たおやかな腕、王女とはかくや、と思わせる気品。木炭を持つ手が震えそうだ。私は一つ、深呼吸をする。
 まずは落ち着かなければ。
 そして紙に一つ、線を落とす。すると急に楽に手が動き始めた。
 王女は楡の木を見上げる。
「私が木登りをしていたことは、お兄さまに言った?」
「えっ、あっ……申し訳ありません」
「いえ、別にいいのだけれど」
 言って欲しくなかったのか。だが、あの流れでは言わざるを得なかった。
 そんなことを思いながら、一心不乱に木炭を動かす。
 だがしばらくして、王女の言葉を思い出す。確か、多少のおしゃべりを、と言っていた。
「あの、エイラ殿下」
「なにかしら?」
「なぜ私などに絵を描いて欲しいと?」
 最大の疑問だ。どうせなら訊いてみよう。
「そうねえ……なんとなく、ではいけないかしら?」
「いえ、いけなくはないです」
 少しばかり勇気を出して訊いたのだが、あっさりとかわされてしまった。
 それからまた沈黙が落ちる。王女はぼうっと遠くの景色を眺めていた。動かないのはありがたいが、これでいいのだろうか。多少のおしゃべりとはどれくらいなのだろう、と考えを巡らせていると、ふと王女が手を伸ばしてきた。
「見せて。なんだかずいぶん描けた風ではなくて?」
「ええと、途中ですが」
「構わなくてよ」
 言われて素直に画板と紙を差し出す。どんな風に描かれているのか気になるのだろう。
 受け取った絵を見て王女は、まあ、と声を上げた。
「驚いたわ。こんなに上手いだなんて思っていなかったもの」
 ではまったく期待していなかったのか。ならばなぜ絵を描いて欲しいと思ったのか、ますます謎は深まった。
「ねえ、ちょっと見てちょうだい」
 王女は声を張り上げて、控えていた侍女たちを呼ぶ。王女が画板を二人に預けると、侍女たちも、まあ、と一様に言った。
「お上手でいらっしゃるのねえ」
「どうして副官に、と思っておりましたけれど、さすがは殿下、見る目がありますわ」
「素晴らしいわ、殿下の気品が滲み出ておりますもの」
 私の絵を褒めるというより、王女のほうを褒めたいようだ。
「王宮の絵師と比べて、遜色なくてよ」
 王女が微笑んでそう言う。
「光栄です」
 さすがに王宮の絵師と比べるなどとは、言いすぎだ。だが絵の腕前を褒められて久々に心が躍った。
「楽しそうだね。私も混ぜてくれないかな」
 ふと声がして、そちらに振り向く。王宮の執務室の方角から、第五王子がゆっくりと歩いてきていた。
「アレスお兄さま!」
 王女が満面の笑みを浮かべる。侍女たちは王子の姿を認めるや否や、深く頭を下げると、さきほど控えていた位置に戻った。
「お兄さま、見てくださる?」
 王子が脇に腰掛けるとすぐ、王女はさきほどの絵を見せた。
「ああ、これはいいね。エイラの美しさがよく表現されている」
「まあお兄さま、嬉しがらせを」
 そう言ってころころと笑う。
 これが王族の兄妹というものの会話なのかと、こそばゆかった。
 私にも故郷に妹がいるが、美しいなどとは口が裂けても言えない。もちろん可愛くないわけではないが、照れくさくて口になどできない。
「ジル、驚いたよ。まさかこんな腕前を隠しているとは」
「は、ありがとうございます」
「これは世辞ではないよ。どうして絵師を目指さなかった? これは戯れに描いていたというものではないだろう? 私は絵を見る目はあるつもりだよ。習作としても十分だ」
 そこまで褒めてもらえると、話半分としても、やはり嬉しい。
「絵師を目指すほどの才能は私には」
 私はそう答えた。
 だが違う。目指していた。いつかは絵師になりたいと。
 けれど、自分からその夢を棄てたのだ。家のため、それが一番だと思った。周りもそれを望んでいた。
 妹だけが、「兄さまのいくじなし」と私をなじった。
 私はその言葉に何も言い返せず、ぷいと去っていく妹の背中を眺めるだけだった。
「やはり絵師となると、特別な才能を求められるものですし、実はもうずいぶん絵筆を握っていないのです」
「そうかい? 今からでも遅くはないと思うけれど」
 言いながら、王子は絵をこちらに返してきた。私はそれを受け取ると、最後の仕上げにいくらか線を入れ、そして新しい紙を取り出す。
 まさしく、絵になる二人がここにいるのだ。これを描かずして何を描けというのだ。
「アレスお兄さま、お仕事は?」
「元々大した仕事は持っていないよ。そんなものはできるだけ副官たちに任せて、エイラに会ったほうがいい」
「まあお兄さま、お父さまにいいつけましてよ」
 相変わらずこそばゆい会話が続いているが、私はとにかく手を動かした。
 しかし、おや、と思う。
 さきほどと、ずいぶん印象が違う。直に見ているときは気付かなかったが、こうして絵にしようとすると、王女の雰囲気がまるで違うのがわかる。
 今は、とても落ち着いている。柔らかな表情で、そして楽しそうで。
 王子を前にした王女は、普通の少女のようにあどけなかった。
 やはり他人に囲まれて過ごしていると、なかなか緊張は解けないものなのだな、と思った。
 それからも何度も呼び出されて、絵を描く日々が続いた。
 王子の副官としての仕事もあるにはあったが、最優先で絵を描くことを求められたので、私の仕事はほとんど同僚たちが請け負っていた。
 申し訳ないとは思うが、「大変だな」と声をかけられたことも一度や二度ではないので、王女のわがままに付きあわされているのだと皆思ってくれているようだ。
 だが、それは違う。私は嫌々やっているわけではなかった。本格的な肖像画でないにしろ、堂々と絵が描けるのだ。それは何よりも心躍る仕事だった。
 しかし、少々のおしゃべり、だけはどうにも上手くいかなかった。なにしろ環境が違いすぎて、どんな話なら王女が満足するのかわからない。
 そしていつものように、今日は何を話そうか、と頭を悩ませながら中庭に向かうと、王女が一人、楡の木の下で腰掛けていた。
 いつも傍に控えている侍女たちの姿が見えない。
「あの、侍女の方は」
 王女にそう訊ねると、彼女は軽く肩をすくめた。
「もう大丈夫だと思ったようだったから、下がってもらったのよ。よかったかしら?」
「え、ええ。私はどちらでも構いませんから」
 要は、この男は安全だ、と信頼されたということだろう。それに、何もせずにずっと絵を描いているのを見ている、というのは苦痛な仕事に違いない。
「失礼します」
 私はいつものように王女の斜め前に腰掛けて、紙を取り出し、絵を描き始めた。
「ねえ、ジル」
「なんでございましょう」
 珍しく、王女のほうから話しかけてきた。侍女がいなくなったから気が抜けたのか。これは今日は楽かもしれない、などと心の中で安堵の息をつく。
「あなた、どうしてアレスお兄さまの副官をしているの?」
 どうしてと言われても。
「私が特に希望をしたわけではないのです。ただ、思いがけず光栄な仕事をいただいて」
「そうではなくて。本当に絵師になる気はないの?」
 手が止まる。
「あなた、絵を描くとき楽しそうだわ。私だけでなく、他の絵も描いてみたいのではなくて?」
 読まれている。なんだかいつものんびりしている雰囲気だが、きちんと人間観察はしているのだ。
「いえ、他のなによりも殿下の絵を描かせていただけることを嬉しく思います」
 そう答えると、王女は唇を尖らせた。
「つまらないことを、言うのね」
 優等生な答えをしたつもりだったが、王女の気に障ったらしい。
「せっかく誰もいないのに、そんな世辞はいらないわ。たまには本音を聞かせてちょうだい」
 本音。王女を前に? 無理だ。
 私たちは王城に勤めている。王族に仕えている。彼らの機嫌を損ねるようなことは、一つたりとも許されない。
 私が言葉に詰まったのを見て、王女はため息をついた。
「わかったわ。では、命令しましょう」
「えっ」
「私といるとき、これからは本音で語ること。もちろんお兄さまには言わないわ。約束してよ」
「いや、本音と言われましても……」
「私、世辞には飽き飽きしているの。そしてこれからもそんな生活が続くことは目に見えているわ」
 王女は本音で語りあう親友ごっこでもしたいのだろうか。
 だとしたらこれは王女が望む、『輿入れしたらもうできないこと』なのだろう。
 さすがに不敬罪に当たるようなことはできないし、思ってもいないが、自分のことくらいは語ってもいいだろう、と判断する。
「……私は本当は、絵師になりたいと思っておりました」
 私がぽつりと語りだしたのを見て、王女は身を乗り出してきた。
「なのに、どうして王城に?」
「うちは田舎貴族でして。親族の中で誰か一人でも王城の中枢にいれば、と皆が思っているんですよ。そこそこ学業の成績が良いもので、私が皆の期待を一身に背負ってしまいました。それで絵師の夢は諦めてしまったのです」
「まあ」
 王女はそう声をあげた。
「私と似ているわね」
「そうですか?」
 思わず顔を上げて、王女を見つめる。私と王女が似ている? どこが。なにもかも違いすぎて、何が似ているのか想像もつかない。
「私も、皆の期待を一身に背負っている」
 王女はぽつりと言った。
 そうだ。国と国の繋がりのため、彼女は嫁ごうとしている。
「嫌だと……思ったことはないのですか」
 思わず、こう訊いてしまった。
 王女は背筋を伸ばす。
「私は、王女ですもの」
 毅然とした声だった。
「私一人の言動が、何万という人の命を左右することもある。王族というものは、そうしたものだわ」
 いつもののんびりした口調とは違った。それは責任を持った人間の言葉だった。
 その言葉でわかる。
 彼女は自分で選んだ。自分で覚悟を決めたのだ。
 だが私はといえば、そうではない。流されたのだ。
「エイラ殿下は……ご立派でいらっしゃる」
 頭が下がる。わがまま王女などと思った自分が恥ずかしい。今やっている『輿入れしたらもうできないこと』など可愛いものではないか。
「やはり私などとは似ておりません。殿下はとてもしっかりしていらっしゃる」
 私の言葉に王女は首を傾げた。
「それは、本音?」
「命令を受けました。もちろんそうです」
「そうなの。私は、褒められるのは好きよ」
 そう言って笑った。可愛らしい笑みだった。
 少しばかり打ち解けてきたのかな、と思った。
 絵を描いている最中に、第五王子がやってくることもしばしばだった。
 もうすぐ嫁いでしまう妹と少しでも長く過ごしたかったのかもしれないし、自分自身も堅苦しい執務室を抜け出したかったのかもしれない。
 二人での会話は弾むようで、王女の表情はとても和やかだ。ころころとよく笑う。
 手を動かしながら、思わず言った。
「仲がよろしいんですね」
 ふいに湧いた声に驚いたのか、二人は同時に口を止め、こちらに振り向いた。
「あ、申し訳ありません、不躾なことを」
 たじろいで、頭を下げる。
 王子のほうが、いやいや、と手を振った。
「そうだね、私たちは王族の中では仲が良いほうかな。第一王子と第二王子はあからさまに仲が悪いしね」
 そう言って、いたずらっ子のようににやりと笑う。隣の王女が、お兄さまったら、と咎めたが、強く止める気はないらしい。
「母は違うけれど、私とエイラは年が近いからかな、割と仲が良いほうだよ。母親が違ったり同じだったりするけれど、皆父上の血を受け継いだ兄弟だから仲良くすればいいのだろうが、人の感情ばかりはどうにもね」
 そう言って肩をすくめる。
「こんな風に仲がいいのは、珍しい?」
 真顔でそう言うから、嫌味とか皮肉とかそういう類ではなく、本気で一般的な兄弟のことを訊いているのだろう。
「どうでしょうか。ただ、うちはこんな風ではないですね。いつも喧嘩ばかりです」
 苦笑する。故郷の妹が思い出される。そんな風だったが、私が王城に出るときには涙を浮かべてくれていた。
「そうか、やはり普通とは違うのかもしれないね。今は考えられないけれど、昔は兄妹で結婚することもあった一族だし」
「ああ……」
 それは、王の系図を見れば一目瞭然だ。血の尊さを求めた結果なのだろう。今では兄妹での婚姻はないが、従兄妹くらいならば普通に見受けられる。
「まあ、当時はそれが普通だったんだろう。私たちはその血をひいているし、王城にずっといるから、なにがしかおかしいのかもしれないな」
「そんなことは」
「アレスお兄さま」
 そこで、王女が口を出してきた。
「そろそろお口が過ぎてきていてよ」
 珍しく厳しい表情で、王子を睨んでいる。
「ああ、そうだな」
 言われて王子は肩をすくめる。
「ジルの前だと安心してしまうのかな。ついしゃべりすぎてしまった」
「そのお気持ちはわかりますわ、お兄さま」
「おや、そうなのか。ずいぶん信頼されたのだな、ジルは」
 そう笑顔で言われて、光栄です、と頭を下げる。
 どうだろう。確かに最初の頃よりは、かなり打ち解けてきているとは思う。
 けれど、王子といるときの王女の表情は、私といるときには決して見せない穏やかで美しい表情で、王子がいると私の筆は進む。
「邪魔したね。ではまた」
 王子がそう言って立ち去ったあと王女の顔を見ると、やはりどこかぎこちなくて、心の中でそっとため息を漏らした。
 王女の絵を、もう何枚描いただろう。数え切れないほどの絵は王女が後宮に持ち帰っているので、正確に何枚あるかはわからない。
 だが、輿入れまであと二十日、というところまできても、王女の絵を描くという仕事は変わらずにあった。
 輿入れの準備がいろいろと忙しいのか、時間はかなり減ったけれど、それでもなんとか時間を作っては、第五王子の執務室に王女が顔を出す。
 そして。どうも最近、周りの私を見る目がかなり変わってきたように思う。
 同期の者が、わざわざ居住区の私の部屋までやってきて、ぽんと肩を叩く。
「なんというか……がんばれよ」
「は?」
「いや……あのな、変な気を起こすなよ」
「変な気?」
「いや、いいんだ、わからないのなら」
 それだけ言って去っていく、などということもあった。
 王女の侍女たちが王女のいないところで私を呼び止めることもあった。
「あと少しでございますから、どうかできるだけエイラ殿下の傍にいてあげてくださいませね。私どもは殿下の幸せを願うばかりで」
 などと言って目頭を押さえ、私はその前で呆然と立ち尽くすこともあった。
 ここまで来れば、いくらそういうことに疎い私でもわかる。
 誤解されている。
 どうやら、私たちは禁断の恋をしていると思われているようだ。
 私はただ、王女が望むまま絵を描いているだけだというのに。
「なあに、ため息?」
 はっとして顔を上げる。いつものように絵を描いている途中だったのだ。
 目の前の王女は、唇を尖らせている。
「私と一緒にいるのがそんなに嫌なのかしら? だったら強制はしなくてよ」
 そう言って、ぷいと横を向いてしまう。どうやら機嫌を損ねたらしい。
「す、すみません。つい、考え事をしてしまいまして」
「考え事ってなあに?」
 身を乗り出してそう問うてくる。どうやら王女と一緒にいること以上に関心のある、その考え事とやらが知りたいようだ。
「その……」
 だが、これを王女の耳に入れていいものか。下賎な噂話で彼女の耳を汚すのには抵抗がある。
 なかなか口に出せないでいる私を見て、王女は痺れを切らしたように言った。
「早く仰いなさい」
「は、はいっ。ええと、私がですね……その……エイラ殿下に……」
「私に?」
「あの……懸想していると……思っている者がいるようで……」
「あら」
 王女はその言葉は予想していなかったのか、少々弾んだ口調になる。
「ずいぶん艶っぽい話だわ」
 まるで他人事だ。いや、他人事なのか。
「それでその……、ここにくるのはこれからは遠慮したほうがいいのかと」
「まあ、それは困るわ」
「いや、でも……そんな話が広まるとですね、殿下のご迷惑ではないかと」
「私は構わなくてよ」
 飄々としている。本当にまったく気にしていないようだ。そんな戯言を真に受けるほうがおかしい、とでも思っているのかもしれない。
 いや。
 それは本当に戯言か?
「輿入れ前の王女と従者の禁断の恋、あら、なにか物語にでもなりそうだわ。素敵ね」
「いや、素敵とか……あらぬ誤解を受けているんですよ、私だけじゃなく、殿下も」
「構わないと言ったではないの。いいのよ、放っておけば。それとも、ジルはこんな噂話の元になるのは嫌なの?」
「い、いえ、嫌というわけでは」
「じゃあ、いいじゃない」
 王女は微笑んでそう言う。まったく意に介していない。そう思うと、ふいに胸をぎゅっと押さえつけられるような感覚がした。
 その噂は、本当に戯言か?
 絵を描くことは楽しい。だが、本当にそれだけで王女を描くことが嬉しいと思うのか?
 王女が執務室に顔を出すたび、心躍る自分はいなかったか?
 ……いや、戯言だ。
 王女はもうすぐこの城からいなくなる。そしてセイラス王妃となる。
 それ以前にまず、王女である彼女と今こうして一緒にいること自体が奇跡で、私は本来ならば顔を見ることすら叶わぬ立場の人間なのだ。
 王女に懸想などと、決してあってはならない。
 あってはならないことなのだ。
 輿入れの日まで、あと十日。あと十日で王女はこの城からいなくなる。
 寂しいと思ってはいけない。元々、王女と一緒に過ごした時間は、あるはずのない時間だったのだ。
 だが、王女の前でこうして絵を描いていると、欲深くなる。
 もっと長い時間、共にいられればと。
 そんなことは、思うだけでも許されないことなのに。
 目の前の王女が、ふいに言う。
「あと十日ね」
「……そうですね」
 きちんと王女を見て描かなければならないのに、頭を上げられなかった。自分がどんな表情をしているのか、その表情を見て王女がどう思うのか、それを考えると怖かった。
「もうジルとも会えなくなるわね。寂しいわ」
 寂しい?
 私は顔を上げる。彼女は遠くを眺めている。
 ……寂しいと思ってくれるのか。
 私は沸きあがってくる気持ちを気力でなんとか押さえ込み、口元に笑みを浮かべて言う。上手く笑えているかどうかはわからない。
「セイラスはどんな国でしょうね」
「どんなかしらね。いろいろと学んではいるけれど、行かなければわからないこともたくさんあるのでしょうね」
 これから嫁ぐ国だというのに、関心のないような、抑揚のない声。
「セイラス王とは、お会いしたことは」
「ないわ」
 王女はふるふると首を横に振った。
 では彼女は、顔も知らない人間のところに嫁ぐのか。
 そうしたことが王族の常だとは知っていても、目の前のこの少女がそういう現実にある、というのは受け入れ難かった。
「……お優しい方だといいですね」
 否定的な言葉は、ここでは必要ないだろう。私がそう言うと、王女は小さく笑った。
「誠実な方よ、とても」
「ご存知なのですか。でもお会いしたことはないと」
「文をくださるの。それはもう、何度も」
 王女は、遠くを見るような目で、彼方を見やる。先にあるのは、まだ見ぬセイラスだろうか。
「私の部屋に置く調度品はどんなものがいいか訊いてくださったり、折に触れ、あちらの文化や習慣を教えてくださるわ。丁寧な文字を書かれる方よ」
「殿下を大切に想われているのですね」
 すると王女は自嘲的に口の端を上げた。
「知っていて? セイラス王がなぜ私を選んだか」
「ええと……現王妃よりも後ろ盾が強い方を、という話は聞いております。でもエイラ殿下がお美しいという噂なども聞いておられるのでは」
「世辞はいいと言ったのに」
「いえ、世辞ではなく」
「あらそう、ありがとう。でもね、それは違うわ」
 そして王女は淡々と言葉を紡いでいく。
「後ろ盾が強い、というのはもちろんだけれど、なおかつ、決まった婚約者がいない、すぐにでも世継ぎが産める年齢の女性、となると私しかいなかったの。かの後宮は揉めていらっしゃるから、候補の姫たちはさっさと他にお決めになったようよ。要は、私は逃げ遅れた」
 王女の言葉になんと返していいかわからなくて、私は口をつぐむ。
「せめて、美しいから、とかそんな理由でもあればよかったかしら、とは思うわ」
 そうして目を伏せる。長い睫が頬に影を落とした。
「あの、エイラ殿下」
 王女は私の言葉に顔を上げる。
「殿下は、私がなぜアレス殿下の副官となったかご存知ですか」
「あら、何か特別な理由があるの?」
 小首を傾げてこちらの話に耳を傾けている。
「私がアレス殿下と年が近いからだそうです」
「まあ」
「せめて、仕事ができるから、とかそういう理由が欲しかったと思います」
 王女はそれを聞くと、ころころと笑った。
「私たち、こんなところでも似ていたわ」
「理由としては似ていますが、立場はかなり違います」
「でも気持ちはわかってくれて?」
「ええ、わかります」
「よかった」
 そう言った王女は、微笑んだ。綺麗な笑みだった。第五王子と一緒にいるときのような、そんな安心した笑みだったというのは、言いすぎだろうか。
「エイラ殿下、もう『輿入れするとできないこと』はすべてされましたか?」
「そうねえ、思いつくままやったとは思うけれど」
「けれど?」
 王女は少し考え込むように、頬に手を当てた。
「したいけれどできないこと、は結構多いものだわ」
「たとえば?」
「城下を歩いてみたい」
 息を呑む。
 それは確かに、彼女の立場では軽々しくできることではない。
「私、城から出たこと自体、あまりないの。公務で出たとしても自由に見て回れたわけではないし」
「そう……ですか」
「ねえジル。この城は、とても広いわよね」
 唐突に話が切り替わったことに驚きつつ、うなずく。
「ええ、近隣諸国と比べても、広い王城だと聞いています」
「そうね。だから私、わからなかったの。わからないままのほうが良かったのに。どうして気付いてしまったのかしら」
 王女は空を見上げる。ちょうど王女の背後の楡の木に、一羽の鳥が羽休めか、降り立ったところだった。
「この城は、大きな鳥籠なの。大きすぎて気付かなくて、この鳥籠の中でわがままを振りかざすけれど、それは所詮、鳥籠の中。でもね、餌と十分な広さを飼い主に与えられて、きっとそれで幸せなのよ」
 それはいつもののんびりとした口調ではあったが、どこか寂しい響きがあった。虚無。そんな言葉が浮かんだ。
「幸せ……」
 それは本当に幸せなのか。幸せと思うなら、なぜ彼女は今、そんな話をしたのか。
 それではいけない。彼女は笑っていないといけない。彼女は幸せになるべき人なのだ。
 私は衝動的に立ち上がる。急に動いた私に驚いたように、王女は身じろぎし、留まっていた鳥は飛び立った。
「ど、どうかして?」
「行きましょう」
「え? どこに?」
「城下に。行きましょう」
 自分の口からこんな言葉が出ていることが、私自身信じられなかった。
「そんなこと……許されないわ」
 王女は目を伏せた。
 そう、許されるはずはない。言わなければ。そうですね許されないことです残念です、と。
 頭では理解しているのに、私の口がその思いとはうらはらに動く。
「私も、あなたの本音を聞きたいのです」
 王女から私に与えられた、命令。
「……たい」
 俯いたままの王女から、声が発せられた。小さな、小さな、声。
 だが彼女は次の瞬間には顔を上げて、はっきりと言った。
「行きたい!」
 私はその希望に満ちた菫色の瞳を見て、決めた。何があろうと彼女の希望を叶えよう、これからどんなことが起きても臆せず、彼女のために動こう、と。
 私たちはそれからすぐに動いた。
 王女は一旦後宮に戻り、私も自室に帰った。
 出る前に思いついて故郷に手紙を書いてから、軽装に着替える。
 こういうお忍びは夜のほうがいいと思われるが、それはきっと間違いだ。
 夜は城を出入りするには目立ちすぎる。それより、まだ人の行き来が多い日中のほうがいい。
 城内の居住区に住む者は大抵は独身だが、たまに外に屋敷がある者も泊まったりしている。妻のいる屋敷には帰らず、愛人を城に招くのだ。そして門番たちも暗黙の了解で通してしまっている。
 要は、それらの人たちと同じ動きをすればいいのだ。
「お待たせしたわね」
 外出の準備をこっそり整えた王女が中庭にやってきた。腕に外套を掛けている。
「見咎められませんでしたか?」
「私、後宮を抜け出すのは得意なの」
 そう言って笑う。得意というより、ここのところは侍女や衛兵たちは、多少のことは見逃しているということだろう。
「どうするの?」
「厩舎から出ようかと思います。城門はどれも警備が厳しいですから」
「そうなの」
 王女は感心したようにうなずいた。
 だが私も、こっそり城内から抜け出た経験はない。成功するかはわからない。
「なんだか、緊張するわ」
「私もです」
 緊張どころではない。正直、身体の震えが止まらない。自分は何ということをしでかそうとしているのか。けれど、ここまできて引き返すことはできない。決めたのだ、彼女の望みを叶えると。
 王女は外套を羽織り、髪とドレスを隠す。
 彼女の見事な金髪は、隠さなければ目立って仕方ない。外套のおかげで整った顔は覗き込まなければ見えなくなった。この城に忍び込む女性たちも皆そんな感じだから、大丈夫だろう。
「行きましょう」
 私たちは厩舎に向かう。王女は私の背に隠れるようにして歩いていた。
 厩舎に着くと、まず私だけが厩舎番に話しかけた。王女は陰に身をひそめている。
「馬を一頭、貸してもらえるかい?」
 厩舎番は隅のほうにひっそりと立っている誰かには気付いたようだが、それが王女とは夢にも思っていないようだった。
「ああ、いいよ。鞍を着けるから、ちょっと待っていてくれ。そちらのお嬢さんも」
 やはりこういうことには慣れているようで、手早く用意をしてくれた。今まで城に誰かを連れ込んでいたが、今から帰すところ、と思っているようだった。帰りはまた厩舎番は交代するだろうから、おそらくは大丈夫だ。
 お礼、ということでいくらかの金銭をこっそり握らせる。他言は無用、というのはわかっているようだった。
 馬を引いて厩舎の門を出る。王女は何も言わずおとなしく私の後ろをついてきた。
 しばらく歩いたところで振り返ると、厩舎番が門を閉めているところだった。完全に門が閉まり、そこでやっと息を吐く。
「どきどきしたわ!」
 隣の王女が声を上げる。頬が少し紅潮していた。
「いろいろと考えていたのよ、見つかったら何て言おうかとか! でもすんなり外に出られたわ!」
「そうですね、では行きましょうか」
 私は先に馬に乗り、王女を引っ張り上げる。彼女は横向きに座り、きょろきょろと辺りを見回していた。
「すごい、すごいわ! もう城の外なのね! 信じられない!」
 興奮して、叫びだしそうにならんばかりだ。私はもうそれだけで満足しそうになったが、自分を奮い立たせるように、何度か首を横に振った。
「とりあえず、城下の街を歩きましょうか」
「そうね! それがいいわ!」
 手綱を握る私の両腕の中に王女がいる。私にはそのことが信じられなかった。
 城下の一つの通りに到着すると、私は通りの端にある店に馬を預ける。ここは馬を預かったり引き渡したりすることを生業としているところだった。
 店主が言う。
「お忍び、というやつかい?」
「えっ」
 急にそんなことを言われて、血の気が引いた。どうして。なぜわかった。なにがいけないのか。
「よくいるんだ。どこの貴族のお嬢様か知らないけど、従者を連れてやってくる。まあ気をつけることだね。何を買うにもふっかけられるから。皆、金の臭いには敏感だよ」
 笑いながらそう言う。話をしている当の本人も、臭いに敏感な人間なのだろう。仕方なく、少し多めに銅貨を渡す。
 店の外で私たちのやりとりをじっと見つめていた王女は、首を傾げていた。
 私が傍に寄ると、口を開く。
「あの人に、何を渡していたの?」
「え……馬を預かってもらう代金ですが」
「お金がいるの?」
 そうか。王女はこんな風にお金のやり取りをしたことがないのだろう。
「ええ、土地代、というものですね」
「……まあ、大変だわ」
「何がですか?」
「私はお金を持っていないもの」
 不安げにそう言う。私は城を出るときに真っ先に財布を握ったが、彼女にはそういう感覚がないのだ。
「私のお金は王城にいただいたものです。遠慮なさらず、欲しいものがあれば買いましょう。せっかくですから」
 王女は、そう? と首を傾げる。よくはわかっていないようだったから、私はとにかく話を逸らす。
「とりあえず、歩いてみましょうか」
「そうね、そのために来たのですもの」
 広く平坦な一本道の両側に、さまざまな店がずらりと並んでいる。その道を行き交う人々、荷馬車。客引きを行う店主、活気に溢れた声。
 ここは一般的な城下街と言えた。
 そしてそれはどれも、王城にはないものだった。
 王女は何もかもが珍しいのか、とにかくきょろきょろしていた。急に走り出しそうになるから、怖くなって外套の端を持つ。
「なにかしら?」
 怪訝そうに訊ねてくる。
「あの……迷子になりそうなので」
「まあ、私、そんなに子どもではなくてよ」
 そう言って唇を尖らせるが、彼女はこの街では子ども同然だ。
 私の心の中を読んだのか、王女はため息をついて手を差し出してきた。
「え?」
「手を繋ぎましょう。それなら迷わないわ」
「えっ」
「早く」
 私はおずおずと手を差し出す。王女はそれを力強く握ってきた。柔らかな手だった。私の心臓はもう、身体の外に飛び出そうだ。
「これでいいかしら?」
「は、はい。ええと、それと」
「なあに?」
「あの……殿下……とは呼べないので、なにか呼び方を」
 声をひそめる。馬宿の店主同様、お忍びだと気付く者もいるだろうしそこまでは構わないが、それが王女だとばれるのは怖ろしい。
「エイラでよくてよ。名前もいけないの?」
 王女が生まれたとき、それにあやかろうとエイラという名前を付けられた娘は多くいるという。ならば、問題はないはずだ。
「い、いえっ。殿下さえよければ」
「……殿下とは呼ばないのではなかったの」
「す、すみません……あの……エイラ」
「よろしい」
 そう茶目っ気たっぷりに言うと、王女は笑った。開放感に満ちた笑顔だった。