「あっくん」


そう呼んだのは菜穂じゃない。目の前で悲しい涙に濡れている、菜穂の小さな分身だ。意思を持つ瞳に捉われて、胸が苦しくなる。穢れや淀みを知らなくとも、悲しみや苦しみが分からないわけじゃない。

最後にもう一度、涙に濡れた頬を撫でてから、ゆっくりと腰を上げた。真っ直ぐに此方を見ていた菜穂の瞳と視線が重なった瞬間、勝手に口が動いていた。



「何もしない」


何もしないからって、なんでもしていいわけじゃない。分かっているけど、分かっていない振りをした。



「今日だけ」


言い聞かせるようにそう言った俺に、菜穂はゆっくりと頷きながら下唇を噛む。泣きそうになった時に出る癖だと気づいて、目を逸らす。



視線を下ろせば、当たり前のように俺を見つめてる太陽がいた。


輝くほどの光が似合うこいつに、泣いてほしくない。理不尽な現実に自分を責めてほしくない。偽善のようなものを取り繕った思考の中に並べていたけれど、結局はエゴでしかなかったのかもしれない。




いつか手にするはずだった未来を、一度だけ。



「一緒に帰ろう、太陽」



一度だけでいいから、この目で見てみたかった。