「――藤谷」



掛けられた声にふと視線を上げる。ああ、そうか。もう“真島 菜穂”はどこにも居ないのか、と。その響きを他人事のように聞いた。


「飲みすぎなんじゃないか?」


隣に座る男の人は心配そうな面持ちで私の顔を覗き込む。ふるふると首を横に振り「まだ飲み足りないです」と途切れそうな声を紡いだ私に、その人は眉を下げて笑った。


「そうか。なら、たくさん飲め。いろいろ、しんどかっただろ」


優しく頭を撫でられて、不覚にも泣きそうになった。

次は何飲む?と柔らかく聞いてくるこの人は、会社の上司だった。気難しい一面もあるから謙遜している人も多いけれど、私はこの人に苦手意識を持った事はなかった。

入社当初からいろいろと気にかけてくれていて、不妊に悩んでいた時も、離婚して心身共に疲弊しきっている今も、この人は親身に話しを聞いてくれた。


今日だって、あまりにも落ち込んでいる私を見兼ねて『飲みに行くか』と誘ってくれた。優しい人だと思う。