「…菜穂?」


異変に気付いてその名を呼べば、淵に溜まった大粒の涙がさびしく零れ落ちる。それが頬を伝って顎に行き着いた時、菜穂はゆっくりと唇を動かした。


「私…お母さんになりたかったの」


紡がれた言葉は、言わずとも知れた事だった。菜穂がどれだけその未来に思いを馳せていたのか、きっとこの世界で俺が一番それを知っていると思う。


「優しい、お母さんになりたかった」


ぽつりぽつりと、雨音のように降り注ぐ小さな声を、聞き逃さないように耳を傾けた。「なのに」とすぐに言葉を続けた菜穂は、苦しそうに顔を歪める。


「いつも優しくしたいのに、優しくできない時があるの」

「飲み物を零されたり、出かけ先で帰りたくないって駄々捏ねられたり、与えるもの全部いやだって突き返されたり」

「そういう時、手を、上げてしまいそうになる」


嗚咽を零さまいとしながら発せられる声は、聴いている方が苦しくなる音だった。今にも崩れてしまいそうな姿に、思わず足が動く。


「あんなに欲しかったのに、なのに…っ」

「菜穂、」



片腕でしっかりと太陽を抱きながら、堪らずにもう片方の手を伸ばした。俺の手が届く一歩手前で、まるで空気が抜けたように菜穂の身体がぺしゃりと床に崩れる。






「時々すごく…ひとりに、なりたく、なる」


吐露された思いは、今までずっと自分の中に秘めていたものだったんだろう。


張りつめていた糸が切れるように、菜穂は嗚咽を漏らしながら、止め処なく溢れる涙を隠すように両手で顔を覆った。