理想の結婚お断りします~干物女と溺愛男のラブバトル~


『朝だよ、紺子』

甘く低い声が耳元で響く。うっすら瞼を開けた私は、優しく微笑む端麗な瞳をまだ夢うつつにぼんやりと見つめ返した。

道行く女性の誰もが振り返るイケメンで、とびきりのエリートで、めちゃくちゃもてるのに私しか眼中にない、私の理想の旦那様。

『まだ眠い? ごめんね。ゆうべ僕が熱くなりすぎたから』

恥ずかしい話題に頬を染め、そっとシーツを引き上げる。

『ほら、朝食だよ』

サイドテーブルに置かれたトレーには薫り高いコーヒーに、焼き立てのクロックムッシュ。そう、彼は私をお姫様みたいに大切にしてくれるのだ。

『美味しそう……ありがとう』

身を起こした私は彼に微笑みかけ、腕を伸ばした。いつもの〝おはようのキス〟のおねだりだ。
でも、どこか遠くから耳障りなベルの音が聞こえてくる。

『あれは何の音?』

そう尋ねながら彼に手を伸ばすのに、なぜか彼は身をかわした。

『あなたがかけたアラームです。ふやけたことをやっていないでさっさと身支度してください』

『へ』

『ただし朝食はきちんと食べてください。仕事の集中力が低下します』

『ど、どうして急にそんな口調に……』

『あとお忘れではないでしょうが、今日は人事面談があります。十一時二十分、時間厳守ですので』


「え? あ……あれ……?」

目覚めた私ががっしりと抱き締めているのは理想の旦那様……ではなく、枕だった。視界に広がるのはタワマンの豪華な寝室ではなく、いつもの自分の一DK。ベッド脇の床では目覚まし時計代わりのスマホが震動しながら盛大な音を立てている。
(なんだ、夢か……)
ていうか、あのスパルタ口調、どこかで……。

「うわ、スヌーズになってる! 起きなきゃ」

ベッドから飛び出すジャージ姿の干物女子、二十八歳。
吉か凶か、運命が転がり始めるまであと五時間。


桜の蕾が膨らみ始めた三月下旬。
私は弾む足取りで菱沼ホールディングス本社ビル三十二階、人事本部の面談室に向かっていた。

丸の内のランドマークであるこのビルは低層階が商業施設になっていて、日本初上陸のブランドショップやカフェが集まる旬のスポットだ。高層階は菱沼グループ各社のオフィスが入り、高速で上昇するガラス張りのエレベーターからは首都の街並みを遥か眼下に見渡すことができる。

国立T大学を卒業後、総合商社の名門である菱沼ホールディングスに入社してこの春で丸六年になる。これから初めての異動辞令を受けるのだけど、通常なら職場の上司から言い渡されるそれを、私は人事部で直接受けるよう伝えられた。
ということは──。

(普通の辞令じゃないってことよね)

期待で頬を緩ませながらエレベーターを降りる。
人事部へと続く廊下は両側が曇りガラスの壁になっていて、菱沼が拠点を置く世界各都市の美しい街並みのパネルが飾られている。ライトアップされた凱旋門の荘厳な姿を横目に見ながら考えた。

七年目なら海外赴任の声がかかるタイミングだ。最近はパリやミラノへの出張も入ってきたし、可能性は濃厚だと思う。

(パリか……いいなぁ)

うっとりしながら廊下を歩いていた私の歩調がだんだんと鈍くなり、やがて止まった。頭の中では理想と現実を両翼に乗せた天秤が揺れている。

(この歳で海外に行ったらまずいって)

今から数年間海外赴任なんかしたら婚期を逃すのは確実だ。

(いや、だから行った方が良くない?)

海外赴任すれば結婚レースから体裁よく逃げられる。だってこのままだとみんなの笑い者になるのは見えてるじゃない……。


溜息をつき、曇りガラスに映る自分を眺めた。
ファッションビジネス部のチームリーダーに相応しい、隙のないコーディネート。でも着飾った女がリア充しているかと言うと、実際は逆だと思う。

実は二十八年間の人生、一度も男性とお付き合いしたことがない。私が選り好みしているのではなく、男性がまったく手を出してくれないのだ。

なぜ咲かずの干物なのか。思い当たる原因はいくつかある。


一つは学歴。合コンで意地の悪い友人が私の出身大学を明かしたりすると最悪だ。モーゼの海割りよろしく私の前に座る男はいない。

二つ目は外見。顔は少なくとも不細工ではないと思う。クール美女系の某女優に似ていると褒められたりもする。でも、美人だと言われても可愛いねと言われたことは一度もない。要するに、学歴と相まって可愛げがないのだ。

そこに拍車をかけるのが物干竿のような体型。開き直ってヒールの靴を履いているけれど、背が高いことは昔からずっとコンプレックスだった。さらに胸ときたらカップ付きインナーのおかげでかろうじて〝こっちが前〟とわかるものの、中身はほぼ空洞だ。

『どうしましょうね……検査しないわけにはいかないし』

先日受けた会社の健康診断では技師さんが困り果てていた。どう頑張ってもマンモで挟めない胸なんて、そうないと思う。

でも、もし私がもう少し可愛い大学を出ていて、背が低くて人並みに胸があっても、やっぱり男性は寄ってこない気もする。

普通の干物なら過去であれ現役時代があっただけまだマシだ。女を放棄しているわけでもないのに一度も食べてもらえない場合はどうすればいいのか。

この悩みは最近いよいよ切実になってきた。
これまで大学だ就職だと騒いでいた親や友人たちが、二十代半ばからにわかに結婚へとシフトチェンジしたのだ。

『結局、女の格付って結婚でしょ?』

これは先日セレブ男性を捕まえて結婚した〝勝ち組〟の発言だ。
私ときたら結婚はおろか恋愛経験ゼロ。恥ずかしくて内緒にしているけれど、たぶん友人たちは勘づいていると思う。これまでの学歴とキャリアレースでは私がトップだっただけに、意地悪な友人たちはマウンティングの標的にしてやろうと手ぐすねを引いている。

そんな訳で、先日は友人たちの追及をかわそうとしてつい「菱沼で社内恋愛中」と大嘘をついてしまった。

「はぁ……」

 自分のプライドの高さが嫌になる。溜息をつき、人事部に向かってとぼとぼと歩き始めた。

あの嘘、どうやって回収しよう?
これから菱沼で恋が生まれるなんて都合のいい展開はあり得ない。だって六年も過ごしてきたのに、社内の男性は誰一人として私に見向きもしなかったんだもの。

菱沼の男性はエリート揃いなので女性には不自由しておらず、目が肥えている。頭でっかちの物干竿などお呼びではないのだ。そもそもほとんどが売約済で、独身男性自体ほとんどいない。
唯一、社内中の女子が狙う一番人気の独身男性が残ってはいるけれど──。

(あれは……関係ないわ)

パンドラの箱の隙間から嫌な記憶が続々と湧いて出てきたので、急いでしっかりと蓋を締め直した。

凱旋門の次に掛かっているのは摩天楼を背にする金髪碧眼ビジネスエリートの写真だった。その写真を見て唇を引き結ぶ。

(やっぱり勇気を出して新天地に行くべきよね……)

こうなったらキャリアを極めるしかない。それに恋だって新展開があるかもしれない。高学歴も高身長も海外に行けばノープロブレムだし、貧乳だってパリコレのモデルはみんな少年のような胸だし。そもそも日本の男の巨乳信仰がおかしいのだ。


その時、廊下の遠くにある目的のドアから誰かが出てくるが見えた。
同じ繊維カンパニーの別部門、ブランドビジネス部の女性だ。私より一つ年下で、噂ではどこかの社長令嬢だそうだけど、なぜか本人はどの会社なのか絶対に言わないらしい。

彼女は高級ブランドを担当しているというだけでやたらと上から目線なので、女子社員の間での評判はあまり良くない。でもそれより私が気になるのは、いつも彼女が大きな胸を強調する服ばかり着ていることだ。

その彼女が見るからに不機嫌そうな顔で歩いてくる。どうやら不本意な異動を言い渡されたらしい。

「お疲れ様です」

私が会釈をすると彼女はツンと顔を逸らし、無言ですれ違った。
ちょっと失礼だけど、まあそんなことは今どうでもいい。いざ面談室の前に立ち、迷いを振り切るように大きく深呼吸してノックした。

「繊維カンパニー、ファッションビジネス部一課、仁科紺子です」

「どうぞ」

中から男性の声の短い応答が聞こえ、背筋を伸ばしてドアを開ける。

(……げぇ)

正面に座る人物を見た瞬間、反射的にドアを閉めそうになった。
まさに〝社内中の女子が狙う一番人気〟の男がいたのだ。

涼やかな切れ長の目、高く通った鼻梁、薄く理知的な唇。
百九十センチ近くあろうかという体躯はすっきりと引き締まり、幅のある肩、恐ろしく長い脚とすべての理想形を備えている。

わが社のクール系美男子といえば誰もが筆頭にその名を挙げるだろう。
菱沼ホールディングス人事本部人材開発課課長、北条怜二。

名前まで寒々し……、いやクール系だ。
でも私は名前を聞くだけで背筋がぞわぞわするほどこの男が苦手だったりする。

北条怜二はその美麗なルックスとは裏腹に「ヘビ男」という異名をとるリストラ執行人だ。にも拘わらず彼は大層おモテになるが、よほど理想が高いとみえて、言い寄ってくる女はどんな美人でも片っ端からバッサリ断ることで有名だ。

でもそれらは私が彼を嫌っている理由にあまり関係ない。私は他の女子のようにこの男と個人的にお近づきになりたいなんて露ほども思っていないのだから。

私が北条怜二を避けまくっているのは、彼が私の黒歴史の生き証人だからだ。ちなみに彼は一度目にした人事データは絶対に忘れないという執念深い記憶力の持ち主らしい。


その黒歴史はかなり昔に遡る。