ある秋の雨の日。
所属する陸上部が雨天活動休止になってしまった安達は、暇つぶしのためか、俺の所属する美術部へとやってきていた。
とはいえこの部は在籍している内のほとんどが幽霊部員なので、今日も今日とて俺しか活動をしていない。
つまりは放課後の美術室の中で、俺と安達は二人きりの時間を過ごしていた。

「……ずっと見られてると描きづらいんだけど」

「だって見惚れるくらい絵になるんだもん。放課後の美術室で一人絵を描く美少年。もう永遠に眺めていられるね」

「そーですか」

隣に置かれたイスに腰掛け、うっとりとこちらを見つめてくる安達に向かって、辟易としたため息を吐く。
二人きりの空間とはいえ、この女といて何か色気のあるようなことが起こるはずもない。
先日の保健室での一件から、いちおうは彼氏彼女という関係になったはずなのに、俺たちの距離感はこれまでとさほど変わることはなかった。

「じゃあ見ててもいいからなんか喋って」

「喋ってもいいの?」

どうやら安達は絵を描くことに集中していた俺を気遣ってか、柄にもなく静かにしてくれていたらしい。
水を得た魚のように喋り出す彼女の声をBGMに、たまに気のない相槌を打ちながら、キャンバスに絵の具を乗せていく。
早朝に見た虹のこと、歳の離れた兄のこと、明日の英語の小テストのこと――とりとめなく語られる彼女の世界は相も変わらず賑やかだ。
そんは彼女に釣られて、俺が描くキャンバスも鮮やかに彩られていく。
普段の自分であれば生み出せないような色彩を認めて、俺の脳裏には安達と初めて出会ったときのことが思い起こされていた。



「ずっと思ってたんだけど、橋野くんって綺麗な顔してるよね」

高校に入学して、初めての席替えをした日のこと。
偶然にも隣の席になった女子――安達は、開口一番、大真面目にそんなことを言った。
彼女にとってみれば、それは何気ない褒め言葉のひとつだったのだろう。
けれど俺は自分の容姿が好きではなく、その言葉に対してあからさまに顔を顰めれば、彼女は意外そうに目を丸くしたのだ。

「自分の顔、好きじゃないの?」

「むしろ嫌いだよ。できればもっと屈強な男に生まれたかった」

「へぇ。こんなに綺麗なのに」

不可思議そうに目をぱちくりと瞬かせる安達に、俺の中にはじわりとした怒りが広がった。
全体的に小作りな自分の造作は、よく言えば“綺麗”なのだろうが、あまりにも軟弱で理想とは程遠い。
だからこそ、たとえ褒め言葉だったとしても揶揄されているように聞こえ、昔から容姿に言及されるのは好きではなかった。
しかし俺の心情を1ミリも掬い取ることなく、目の前の彼女は呑気に微笑んでいる。
そんな軽率さが気に障り、無視を決め込もうとすると。

「じゃあ橋野くんの代わりに私が好きでいてあげる。いつでも愛でて褒めてあげるよ」

「そうすればもっと自分のことを好きになれるよ」と屈託なく言われた言葉に、俺は思わず毒気を抜かれてしまった。
いや、別にそんなことなど望んではいない。
いつもならそう言って冷たく突っぱねられるはずなのに、なぜだかそのときは何も声にすることができず、俺はろくに言い返すこともできないまま、宣言どおり彼女に纏わりつかれるようになった。

「いやぁ、橋野は今日も綺麗だね」

「橋野の顔を見てるだけで幸せになる」

「この美しさはもはや国民栄誉賞ものだよ」

「ほんと、神が与えてくれた奇跡に感謝」