美術室の窓から出てきてくれたらしい橋野が、私の顔に影を落とすようにしゃがむ。
彼が声をかけてくれているのは分かるものの、頭の中がぐらぐらと揺れているように感じて、上手く声が出せない。

「立てないの? 俺の声聞こえてる?」

「うん……」

「貧血? 熱中症かな? ほら、肩に掴まって」

「うん……」

「返事が曖昧……ちょっとごめんね」

すると橋野は私の背中と膝下に腕を差し入れ、ひょいと持ち上げた。
それに驚いてる暇もなく、彼は校舎に向かってスタスタと進んでいく。

「はし、の」

「じっとしてて。保健室まで連れていくから」

冷静に言い切った橋野に、私は何も言い返すことができなかった。
橋野は美少年だ。
吹けば飛んでしまいそうな儚げな容姿をしている。
体格だって、女子の私とほとんど変わらないどころか、私より華奢に見えるくらいなのに。

「ちゃんと掴まっててよ」

だからこんなふうに、人を軽々と持ち上げられるだなんて思わなかった。
体を預けた橋野の制服から絵の具の匂いがして、なんだか胸が苦しくなる。
こんなことになるなら、もう少しダイエットをしておくんだった。
この期に及んでそんなことを考えながら、橋野に自分の鼓動が聞こえませんようにと願って、私はゆっくりと目を閉じた。

「先生、席を外しているみたい」

橋野に抱えられていた私の体は、保健室のベッドの上へと静かに下ろされてから、備えてあった布団をかけられた。
消毒液のような独特の匂いに包まれ、うっすらと目を開ける。
すると橋野が心配そうに私の顔を覗き込んでいるのが見えた。

「ありがと橋野……」

「具合はどう?」

「大丈夫……ちょっとフラついただけ」

「本当に? うーん、ちょっと熱っぽいかもしれない」

気がつくと、橋野の手が私の額に触れていた。
その冷たくかさついた感触に、思わず体が跳ねる。
それはただ驚いただけで、触れられたことが嫌だったわけではないのだけれど、橋野はそうは思わなかったのか、気まずそうな顔をして手を引っ込めてしまった。

「ごめん、仮にも女子に軽々しく触っちゃって」

「仮にもって何……正真正銘の女子だから……」

「軽口叩けるくらいなら平気か。ちょっと水飲んでて。俺、先生呼んでくる」

「待っ……」

そう言って保健室を出て行こうとする橋野のワイシャツを、気づけば私は慌てて掴んでいた。
ほとんど無意識の上での行為だったが、まるで彼に甘えているようで、どうしようもなくいたたまれない心地になる。
いや、これはその、体調不良による心細さ的なアレで、別に甘えてるとか、そういうことじゃないから。
頭の中でそんな言い訳じみた言葉を並べて、おそるおそる橋野の顔を仰ぎ見る。
するとなぜかきょとんとした顔をしていた橋野は、ふいにベッドの端へと腰をかけた。

「大丈夫だよ。ここにいるから」

日頃のお返しとばかりに揶揄われると思ったものの、橋野は私の行為を笑うことはせず、むしろ至極優しく微笑んだ。
色素の薄い彼の虹彩が、西日を受けてきらきらと光っている。
死に際に現れる天使は、もしかしたらこんな姿をしているのかもしれない。
そんな馬鹿げたことを、大真面目に考える。