それはどの自動販売機でも売っているような、よくある商品だ。
彼に恋をしなければ、きっと一生興味を持つこともなかったであろう、そんなミネラルウォーターのボタンにそっと指を伸ばす。
もしかしたら彼も、このボタンを押したことがあるかもしれない。
そんな馬鹿げたことが頭の中に過ぎり、緊張から指先が震えた。
わずかでも彼に近づけたような気分になりながら、ようやくボタンを押し終えると、すぐさまごとりと鈍い音が響いた。
その音を聞き、おそるおそる取り出し口に手を入れれば、ひやりとしたプラスチックに触れる。
ペットボトルの容赦ない冷たさが手のひらの体温を容赦なく奪い、その感触で我に返った私は、高揚していた気分が唐突に冷めていくのを感じた。
……馬鹿げたというより、本当に馬鹿みたいだ。
これが一体何になるというのだろう。
こんなことをしていたって、彼に近づけるわけでもないのに。
遠くから見つめるだけで、私は結局、自分からは何もしていない。
このまま彼の世界に存在することも叶わず、いつか私の恋は終わるのだろうか。
それはなんて寂しく、虚しいことなのだろう。
自分の臆病さを今さらながらに苦々しく思いながら、ミネラルウォーターを抱えて踵を返す。
すると振り向きざま、いつの間にか後ろに並んでいた人にぶつかってしまった。

「悪い」

頭上から低い声が降る。
ぶつかってきたのはこちらの方だと、慌てて顔を上げながら謝ったものの、そこに立っていた予想外の人物に、私は思わず目を見開いた。
そう、ずっと見つめ続けていた彼が、なぜか私の目の前に佇んでいたのだ。

「…………」

どうして。
どうして、あなたがここに。
いつも遠くにいるはずの彼が、至近距離で私を見下ろしている。
それだけで顔は燃えるように熱くなるのに、体は氷のように固まってしまっていた。
ちょうど陸上部は休憩時間に入ったらしく、辺りには他の部員もいて、どうやら彼も自動販売機に飲み物を買いにきたようだった。

「それ」

驚きと緊張に固まったままでいると、彼は突然、私が抱えていたミネラルウォーターを指差した。

「ここの自販機でその水買ってるの、俺だけだと思ってた」

目を細めながら、可笑しそうに彼が言う。
その何気ない言葉に、初めて彼を見た日と同じく、のどの奥が熱くなるような心地がした。
あの、いつも青空を映している瞳。
その瞳で、彼が私を見ている。
彼の世界に私がいる。
嘘みたい、嘘みたい、信じられない。
夢のような光景を前にして、自分の心臓が悲鳴を上げるように、その鼓動を早めていくのが分かる。

「……これ、差し上げます」

「えっ?」

熱に浮かされた私は、勇気を振り絞って、買ったばかりのミネラルウォーターを彼に押しつけた。
受け取った彼は、驚きと困惑の混じった表情をしている。

「無理、しないでくださいね。応援してます」

たったそれだけを口にして、彼からの返事を待たずに、私は逃げるようにしてその場を走り去った。
これ以上彼に見つめられたら、本気で心臓が壊れてしまうと思った。
先ほど下りてきたばかりの階段を、勢いよく三階まで駆け上がる。
苦しいくらいに息が上がったまま、涙が溢れてくるのを止められない。
きっと彼には変な女だと思われただろう。
しかし、そのことが悲しいわけではなかった。
むしろこれは、嬉し涙だったのだ。
彼に、応援してると言えた。
それはずっと密かに募らせていた気持ちの内の、ほんの1パーセントにすぎないかもしれない。
けれども自分の想いを、初めて彼自身に伝えることができたのだ。
それだけで、私は十分幸せだった。

踊り場の窓から射し込んだ光が、私の背中を照らす。
いつもと違う夏が、もうそこまで来ていた。
風が吹いている。
あたたかくも冷たくもない、緑の匂いを含んだゆるやかな風だ。
風はたくさんの小さな花びらをまといながら、妻のひとつに結った髪を揺らし、僕の白いシャツを靡かせていた。

「この花の名前は憶えてる?」

ちょうど道の傍に咲いていた花を指差して、隣を歩く彼女に聞いてみる。

「憶えているわ。“桜”でしょう?」

すると彼女はまるで子供のように、得意げな顔で答えた。
彼女はなんでも知っている。
晴れた日の空が“青色”だということも、真っ赤に熟れた林檎が“甘い”ということも。

「毎年ね、春になると、君とここの桜を眺めに来ていたんだ」

「それは…………憶えていないわ」

ただ、自分のことだけは何ひとつ憶えていないのだ。

きっかけは交通事故だった。
車にはねられ、強く頭を打った彼女は、長く生死をさまよった末に、奇跡的な回復を遂げてくれたものの。
まるでそんな奇跡と引き替えたかのように、目を覚ましたときには、自分に関する全ての記憶を失っていたのだ。
名前や生い立ち、好きなものや嫌いなもの。
そして夫である僕のことも、すべて。

僕ら以外に桜の下を歩いている者はおらず、辺りは小さな風の音しかしなかった。
彼女はつま先立ちになり、桜の枝に顔を寄せて微笑んでいる。

「私、この花が好きだわ。きっと前の私もそうだったはずよ」

「うん。春に咲く花の中で、君は桜が一番好きだった」

「やっぱり。でも、そうよね。私が私であることに変わりはないんだもの」

そう、記憶をなくしたこと以外、彼女は何も変わっていない。
ゆったりとした話し方も、人の目をじっと見る癖も。
だから時々、記憶喪失なんて嘘なのではないかと錯覚することがある。
けれどやはりそんなことはなくて、悲しい現実はいつだって僕の隣にあった。

「離婚したほうがいいんじゃないか」

その言葉を言い出したのは誰だっただろうか。
僕や彼女の両親か、親しくしている友人か、はたまた周囲の者は全員だったかもしれない。
僕らは若いし、まだ子供もいなかった。
僕は彼女に忘れられてしまい、彼女の中にはもう、僕への愛情はない。
そんなものはもう夫婦とは呼べないだろうと、みな口を揃えて言った。
けれど僕から彼女に離婚を言い渡すことはできなかった。
だからこの件は、記憶を失った彼女に決めてもらうことにしたのだ。
そんな責務を負わせる代わりに、僕は彼女が選んだことは全てを尊重しようと思った。
たとえそれが、二人の別れであったとしても。

「私、いろんなことを忘れてしまったわ。きっとなくしたくない記憶だって、たくさんあったはずなのに」

桜から僕へと視線を移した彼女は、困ったような顔でそう言った。

「でもね、寂しいことや悲しいことばかりではないのよ。記憶がないおかげでね、まるで生まれ変わったみたいに、毎日を新鮮に感じるの」

まるで世界を知らない赤ん坊のような無垢な顔で、彼女は笑う。
空の青や林檎の味を知っていても、それらを好きだった自分のことは憶えていない。
だからこそ日常における普遍的な事象でも、彼女は素直に感動できるのだ。
新しく始まった人生を彼女は少しずつ受け入れ、そして楽しもうとしていた。

「お気楽な女だって、笑う?」

「いいや。僕は君のそういうところが――」

そこまで言って、僕は思い直し、口を閉ざした。
記憶を失ったとしても、僕にとって彼女が愛する女性であることに変わりはない。
しかし彼女にとっての僕は、見ず知らずの頼りない男なのだ。
夫だと言っても困らせてしまうだけだっただろう。
彼女の新しい人生にきっと、僕はいない方がいい。
それは分かってる、でも。

――傍にいたい。

――傍にいてほしい。

隠していた気持ちが溢れそうになるのを、僕は必死に抑えた。
こんな気持ちに気づいたら、優しい彼女は僕の元を去ろうとはしないだろう。
けれど彼女の良心につけ込むような真似を、僕はどうしてもしたくはなかった。

「……どうしてかしら」

押し黙った僕を不思議そうに見つめた彼女は、それから突然、僕との距離を少しずつ詰めた。
一歩二歩と近づいて、やがて人が一人入るかどうかの距離で向かい合う。
そしてその大きな目で僕をじっと見つめると、「不思議ね」と呟いた。

「あなたのことは何も憶えていないのに、あなたが笑うと私も嬉しくなるし、あなたが切ない顔をすると私まで悲しくなるのよ」

「え……?」

「だから、そんな顔しないで?」

彼女はゆっくりとした動作で、僕の頬を両手で包んだ。
冷え性のせいで、いつも冷たい彼女の手。
よく知ったその温度だって、何も変わっていない。
でも、変わってしまった。
僕たちは大きく変わってしまったのだ。
ただ、愛していただけだ。
彼女を愛していただけだったはずなのに、突きつけられる現実はどうしようもなく残酷だ。
噛みしめて耐えてみても、堪えきれなかった涙がぼたりと零れる。
そのままじわじわと溢れては、地面の色を変えていった。

「ねぇ。私ね、分かったことがあるの」

悲愴的な僕とは対照的に、穏やかなままの彼女は、場にそぐわないくらいの明るい声で呟いた。
僕の頬に手を添えたまま、流れ落ちる涙を親指でぬぐってくれている。

「分かったこと……?」

「ええ。私、思い出せなくったって、好きだったものはもう一度好きになるのよ。空も、林檎も、桜もそう」

すると突然、緩やかだった風が、ぶわりと大きく吹き荒れた。
桜の木々が盛大に揺れ、わさわさと音を立てる。

「だからね」

彼女の声が、そんな木々の音にかき消されそうになり、僕は慌てて耳を澄ました。
泣き顔のまま、真剣な表情になった僕が面白かったのだろうか。
彼女は、くすりと笑うと。

「きっと私は、あなたのことも、もう一度好きになるの」

一呼吸置いてから、確信めいたようにそう言った。
風に煽られたたくさんの花びらが、ひらひらと舞い落ちてくる。
薄紅の世界で照れたように笑う彼女の姿が、涙で滲んだ。
曖昧になりそうな彼女の輪郭を、確かめるように抱きしめる。

耳元で響く、楽しげな声。
それは確かに紛れもない、愛する彼女のものだった。
橋野(はしの)は美少年だ。
そう言うと彼は決まって不満げな顔をするのだけれど(橋野はボクサーやレスラーのような、自分とは違う猛々しい男に憧れているからだ)、それでも美しいものは美しいのだから仕方がない。
色素の薄い髪色も、小柄で線の細い体形も、橋野を形作るものすべてが、私には繊細で尊いもののように思えた。

「橋野って綺麗な顔してるよね」

「またその話?」

脈絡もなく前の席の私から話しかけられた橋野は、眉根を寄せながら、その整った顔を思いきり歪めた。
そんな表情さえ麗しいのだから、やはり彼は本物の美少年だと思う。

安達(あだち)は本当に俺の顔が好きだね」

「好きって言うか、もはや信仰してるんだよね。神々しくて宗教画の中の天使みたい。たまに拝みたくなるもん」

「何それ頭ダイジョウブ?」

本気で憐んでいるような目をしながら、橋野が気だるげに頬杖をつく。
まばたきのたびに音がしそうなほど長いまつげが、彼の顔に影を落としていた。

「あっ、でも顔だけじゃなくて、もちろん中身も好きだよ」

「はあっ!?」

橋野の白い頬がほのかに染まっていくのを、ただ、綺麗だなと思いながら見つめる。
彼はいつも澄ました顔をしているけれど、私の発言だけで、こんなふうにころころと表情を変えてくれるのだ。
そんな彼を見るのが、私はとても好きだった。

「好き好き大好きあいらーびゅー」

私のふざけた返答に、橋野があからさまなため息を吐く。
橋野は美少年だ。
それに素直で、とてもかわいい。



「はっしのー!」

私は基本的に、いついかなる場合でも、橋野の姿を見かけたら話しかけずにはいられない。
もうここまでくると、己に課せられた使命のようなものだと思っている。
放課後、美術室の窓際で絵を描く橋野を見つけた私は、陸上部の部活中であるにもかかわらず彼の元へと駆け寄った。

「やっぱ美少年は何をしてても美しいね!」

「別に、絵を描いてるだけでしょ。安達は何してんの?」

「私は外周をランニング中」

「じゃあサボってないで走りなよ」

「橋野を見かけたら話しかけずにいられなくて」

そう言うと、橋野は私から視線を逸らして黙り込んだ。
あ、その照れて困ったような顔もかわいい。
こんな表情を見ることができたのだから話しかけた甲斐があったなぁと、私は一人でほくそ笑む。

「馬鹿なこと言ってないで。はい、サヨナラ。部活ガンバッテ」

「もう冷たい! そんなところも好きっ!」

冷たくあしらわれたことに文句を垂れるものの、たしかにこれ以上は絵を描くことに集中している橋野に悪いだろう。
そう思い、ふたたび炎天下の外周ランニングに戻ろうと、素直に踵を返す。
しかし先ほどまで軽快に動いていたはずの足は、なぜだか絡まるようにもつれてしまった。
そのまま激しくすっ転び、右腕を下にして倒れる。

「安達っ」

体中に衝撃が走ったのと同時に、背後から橋野の焦った声が聞こえた。
やばい、橋野に心配かけちゃう。
早く立ち上がらないとと思うものの、私の体は糸の切れた操り人形のようにぴくりとも動かせなかった。

「安達、大丈夫っ? 怪我してない!?」
美術室の窓から出てきてくれたらしい橋野が、私の顔に影を落とすようにしゃがむ。
彼が声をかけてくれているのは分かるものの、頭の中がぐらぐらと揺れているように感じて、上手く声が出せない。

「立てないの? 俺の声聞こえてる?」

「うん……」

「貧血? 熱中症かな? ほら、肩に掴まって」

「うん……」

「返事が曖昧……ちょっとごめんね」

すると橋野は私の背中と膝下に腕を差し入れ、ひょいと持ち上げた。
それに驚いてる暇もなく、彼は校舎に向かってスタスタと進んでいく。

「はし、の」

「じっとしてて。保健室まで連れていくから」

冷静に言い切った橋野に、私は何も言い返すことができなかった。
橋野は美少年だ。
吹けば飛んでしまいそうな儚げな容姿をしている。
体格だって、女子の私とほとんど変わらないどころか、私より華奢に見えるくらいなのに。

「ちゃんと掴まっててよ」

だからこんなふうに、人を軽々と持ち上げられるだなんて思わなかった。
体を預けた橋野の制服から絵の具の匂いがして、なんだか胸が苦しくなる。
こんなことになるなら、もう少しダイエットをしておくんだった。
この期に及んでそんなことを考えながら、橋野に自分の鼓動が聞こえませんようにと願って、私はゆっくりと目を閉じた。

「先生、席を外しているみたい」

橋野に抱えられていた私の体は、保健室のベッドの上へと静かに下ろされてから、備えてあった布団をかけられた。
消毒液のような独特の匂いに包まれ、うっすらと目を開ける。
すると橋野が心配そうに私の顔を覗き込んでいるのが見えた。

「ありがと橋野……」

「具合はどう?」

「大丈夫……ちょっとフラついただけ」

「本当に? うーん、ちょっと熱っぽいかもしれない」

気がつくと、橋野の手が私の額に触れていた。
その冷たくかさついた感触に、思わず体が跳ねる。
それはただ驚いただけで、触れられたことが嫌だったわけではないのだけれど、橋野はそうは思わなかったのか、気まずそうな顔をして手を引っ込めてしまった。

「ごめん、仮にも女子に軽々しく触っちゃって」

「仮にもって何……正真正銘の女子だから……」

「軽口叩けるくらいなら平気か。ちょっと水飲んでて。俺、先生呼んでくる」

「待っ……」

そう言って保健室を出て行こうとする橋野のワイシャツを、気づけば私は慌てて掴んでいた。
ほとんど無意識の上での行為だったが、まるで彼に甘えているようで、どうしようもなくいたたまれない心地になる。
いや、これはその、体調不良による心細さ的なアレで、別に甘えてるとか、そういうことじゃないから。
頭の中でそんな言い訳じみた言葉を並べて、おそるおそる橋野の顔を仰ぎ見る。
するとなぜかきょとんとした顔をしていた橋野は、ふいにベッドの端へと腰をかけた。

「大丈夫だよ。ここにいるから」

日頃のお返しとばかりに揶揄われると思ったものの、橋野は私の行為を笑うことはせず、むしろ至極優しく微笑んだ。
色素の薄い彼の虹彩が、西日を受けてきらきらと光っている。
死に際に現れる天使は、もしかしたらこんな姿をしているのかもしれない。
そんな馬鹿げたことを、大真面目に考える。
「……今死んでもいいかも」

「縁起でもないな。死んだら二度と俺の顔が見られなくなるよ」

「それはやだ、絶対やだ」

「でしょ?」

冗談を言いながら、橋野が得意げに笑う。
そんな彼を見て、私はなんだか感慨深い気持ちになった。
だってまさか、美少年であることに不満を持つあの橋野が、自分の容姿で私を釣ってくる日がくるなんて思わなかったのだ。
たぶん普段それだけ、私が橋野の容姿を褒めているせいなのだろうけれど。

「橋野、ごめんね」

「いいよ別に。誰だって調子が悪い日くらいあるでしょ」

「そうじゃなくて、私、橋野が美少年って言われるの嫌だって知ってるんだ」

感慨深さと同時に、どうしようもない罪悪感が渦巻いてきて、私は肩までかけられていた布団を口元まで引き上げた。

「筋肉をつけるためのプロテインとか、背を伸ばすための牛乳とビタミンなんとかとか、いろいろ調べてるのも知ってる。……効果はあまり見られないけど」

「うるさいな。殊勝にすんのか揶揄うのかどっちかにしてよ」

「ははっ、私ね、そうやって、橋野の綺麗な顔を崩すのが好きなの」

だってそれは、私だけに見せてくれる特別なものだったから。
けれどそんな理由で、橋野のコンプレックスを刺激していいことにはならないはずだ。
彼の優しさに触れて、私はやっと人として忘れてはいけないことに気づけていた。

「何度もいじわるしてごめん。もうしないから」

「なんで?」

そう思って、反省したのに。
橋野の気の抜けた「なんで?」の声に、私は一瞬、呆気にとられた。

「……なんでって、橋野も嫌だったでしょ」

「そんなことないよ。むしろ今はこの顔で生まれてよかったとさえ思ってるし」

「えっ? そうなの!?」

それは初耳なんですけど。
驚いた私を見て、橋野の整った唇が弧を描く。

「俺はね、いつもわざと澄ました顔をしてるんだよ。そうすれば、安達は絶対に俺のことを構ってくれるじゃん」

不敵な笑みを浮かべる橋野に、私はとうとう声を失った。
ああ、その表情は初めて見る気がする。
やっぱり美少年はどんな顔をしていても綺麗だな。
いや、っていうか“わざと澄ました顔をしてる”って、なんだそれ。
じゃあ私はずっと、橋野の手のひらの上で転がされていたってこと?
思わぬ事実を知り、けれども不思議と悪い気はしなかった。

「どうして私に構ってほしいの?」

悔し紛れに出した私の言葉に、橋野は平気な様子で瞬きをする。

「言わないと分からない?」

「分かるけど言ってほしい」

粘ってわがままを言えば、橋野は顔を赤くしながら、捨て鉢のようなため息を吐いた。
そのままその綺麗な顔が降ってきて、私の耳元で止まる。

「好きだからだよ」

囁かれた言葉は、私にとって、まるで福音だった。

橋野は美少年だ。
素直でかわいくて、意外と力持ちで、結構計算高いところもあるみたいだけど、やっぱりとても優しい。

「私も好き! 大好き! フォーエバーラブ!」

「分かったから、静かに寝てな」

私の、私だけの天使だ。
ある秋の雨の日。
所属する陸上部が雨天活動休止になってしまった安達は、暇つぶしのためか、俺の所属する美術部へとやってきていた。
とはいえこの部は在籍している内のほとんどが幽霊部員なので、今日も今日とて俺しか活動をしていない。
つまりは放課後の美術室の中で、俺と安達は二人きりの時間を過ごしていた。

「……ずっと見られてると描きづらいんだけど」

「だって見惚れるくらい絵になるんだもん。放課後の美術室で一人絵を描く美少年。もう永遠に眺めていられるね」

「そーですか」

隣に置かれたイスに腰掛け、うっとりとこちらを見つめてくる安達に向かって、辟易としたため息を吐く。
二人きりの空間とはいえ、この女といて何か色気のあるようなことが起こるはずもない。
先日の保健室での一件から、いちおうは彼氏彼女という関係になったはずなのに、俺たちの距離感はこれまでとさほど変わることはなかった。

「じゃあ見ててもいいからなんか喋って」

「喋ってもいいの?」

どうやら安達は絵を描くことに集中していた俺を気遣ってか、柄にもなく静かにしてくれていたらしい。
水を得た魚のように喋り出す彼女の声をBGMに、たまに気のない相槌を打ちながら、キャンバスに絵の具を乗せていく。
早朝に見た虹のこと、歳の離れた兄のこと、明日の英語の小テストのこと――とりとめなく語られる彼女の世界は相も変わらず賑やかだ。
そんは彼女に釣られて、俺が描くキャンバスも鮮やかに彩られていく。
普段の自分であれば生み出せないような色彩を認めて、俺の脳裏には安達と初めて出会ったときのことが思い起こされていた。



「ずっと思ってたんだけど、橋野くんって綺麗な顔してるよね」

高校に入学して、初めての席替えをした日のこと。
偶然にも隣の席になった女子――安達は、開口一番、大真面目にそんなことを言った。
彼女にとってみれば、それは何気ない褒め言葉のひとつだったのだろう。
けれど俺は自分の容姿が好きではなく、その言葉に対してあからさまに顔を顰めれば、彼女は意外そうに目を丸くしたのだ。

「自分の顔、好きじゃないの?」

「むしろ嫌いだよ。できればもっと屈強な男に生まれたかった」

「へぇ。こんなに綺麗なのに」

不可思議そうに目をぱちくりと瞬かせる安達に、俺の中にはじわりとした怒りが広がった。
全体的に小作りな自分の造作は、よく言えば“綺麗”なのだろうが、あまりにも軟弱で理想とは程遠い。
だからこそ、たとえ褒め言葉だったとしても揶揄されているように聞こえ、昔から容姿に言及されるのは好きではなかった。
しかし俺の心情を1ミリも掬い取ることなく、目の前の彼女は呑気に微笑んでいる。
そんな軽率さが気に障り、無視を決め込もうとすると。

「じゃあ橋野くんの代わりに私が好きでいてあげる。いつでも愛でて褒めてあげるよ」

「そうすればもっと自分のことを好きになれるよ」と屈託なく言われた言葉に、俺は思わず毒気を抜かれてしまった。
いや、別にそんなことなど望んではいない。
いつもならそう言って冷たく突っぱねられるはずなのに、なぜだかそのときは何も声にすることができず、俺はろくに言い返すこともできないまま、宣言どおり彼女に纏わりつかれるようになった。

「いやぁ、橋野は今日も綺麗だね」

「橋野の顔を見てるだけで幸せになる」

「この美しさはもはや国民栄誉賞ものだよ」

「ほんと、神が与えてくれた奇跡に感謝」
安達は顔を合わせるたび、律儀に手を替え品を替え、持てるすべての語彙をもって俺を褒めそやした。
その褒め言葉によって、彼女の言うように自分の容姿を好きになれたわけではない。
ただ、初めは鬱陶しかったその底抜けな明るさを、なぜだかだんだんと面白く感じるようになった。
くるくると変わる表情は、いつまで見ていても飽きることがない。
彼女と話をしていれば、斜に構えがちで計算高い自分でさえも、不思議と素直にさせてくれる。
いつしか「安達の好きなこの顔で生まれてよかった」と調子のいいことを考えるようになった自分に気づいたとき、俺は心の中で呆れて笑った。

「どうしたの?」

「えっ?」

「なんか嬉しそう」

ふいに安達から声をかけられ、俺はハッと我に返った。
いつの間にかゆるんでいたらしい口元を恥ずかしく思い、苦し紛れに手の甲で覆う。
するとなぜか、彼女もまた嬉しそうにからからと笑った。

「そっちこそ、何笑ってんの」

「ううん。私ね、いつもの澄ました顔も好きだけど、やっぱり橋野の表情が崩れるのを見るのが好きだなぁと思って」

安達の言葉は今日も眩しいくらいに真っ直ぐだ。
にへらと気の抜けた笑顔が、今の俺にはおそろしくかわいく見える。
まさに恋とは盲目であるらしい。
不思議だ。
初めは彼女のことをあんなにも苦手にしていたはずなのに。
何の気なしに吸い寄せられるようにして近づくと、俺が作った影が安達にぴったりと重なった。
さらに距離を詰めれば、その目が大きく見開かれていく。

この子が好きだなぁ、と思うのだ。
ただ単純に、ひたすらに。

「……なっ、まっ、待ってっ!」

あと少しで唇が重なる瞬間。
間抜けな声を出して静止を求めた安達に、俺はがっかりしつつも素直に彼女から離れた。
いや、なんとなくこうなることは予想していたけれど。

「今キスするタイミングっぽくなかった?」

「そうかもしれないけど!」

「けど?」

「顔が綺麗すぎる! このままだとあまりの美しさに目が潰れてしまう!」

この期に及んでまだそんな言い訳をする安達を白い目で見つめる。
しかし珍しく顔を赤らめて閉口した彼女に、不思議と自分の心が満たされていくのを感じた。
安達の言葉を借りれば、“自分だけに見せてくれる特別な顔”を見れたせいなのかもしれない。
なるほど、たしかにこれは面白い。

「俺とこういうことするの、嫌?」

「嫌なわけないじゃん……! でもいきなりだったからちょっと毛穴とか産毛とか気になっちゃって」

「俺あんまり視力よくないから、ぜんぜん分からないけど」

「そういう問題じゃないんだよ! ていうか橋野はなんなの!? いつでも“剥きたまごです”みたいな肌しやがって!」

「ごめんね。生まれつき肌まで綺麗で」

「そのとおりだけどなんかムカつく!」

ポカポカと飛んできた安達の拳をたやすく受け止め、自分が心の底から笑っていることに気づく。

俺は安達が好きだ。
そして安達といるときの自分が好きだ。
こんなことを口走ったら調子に乗るに決まってるから、絶対に言ってやらないけれど。

「頑張って朝ドラ女優並みの透明感を手に入れるので、それまでちょっと待ってて」

「別に今のままで十分かわいいのに」

「うわあ! そういうこと言う!」

きっと彼女こそ、俺だけの天使だ。
オフィスのエントランスを抜けた瞬間、ふいに雨の気配を感じた。
この少し埃っぽくて湿度のある、どこか懐かしい匂いのせいだ。
テレビの中のキャスターが今日は一日中くもりだと言っていたのに、どうやら天気予報は外れてしまったらしい。
とはいえ遠くの空は晴れているようだし、きっとただの通り雨なのだろう。

鞄に入れていた折りたたみ傘を広げて外へ出ると、よりいっそう雨の匂いが強くなった。
しかしこの匂いは雨そのものではなく、雨が降ることによって地面からわき上がる香りなのだという。
私がそれを知ったのは、遠い昔の学生時代のことだった。



その日は最悪の1日だった。
数学の小テストの日を間違えて覚えていたため、ほとんど答えることができなかったり。
気になっていた先輩に恋人ができたということが判明したり。
帰る間際に生徒指導の先生に捕まって、スカートの長さについて説教をされたり。

「ほんと最悪……」

挙げ句の果てには土砂降りの雨だというのに、自分の傘が見当たらないのだ。
今朝、きちんとこの傘立てに立てかけたはずなのに。
もう一度目を凝らしても、他クラスの傘立てを探しても、やはりどこにも見当たらない。
誰かが間違えて持っていってしまったのだろうか。

いっこうに止みそうにない雨を眺めてため息を吐く。
どうやら今日はとことんツイていないらしい。

みーお()

どうすることもできずに生徒玄関で立ち尽くしていると、やけに間延びした声で名前を呼ばれた。
振り向けば、そこには一人の男子生徒の姿があった。

「びっくりした。晴人(はると)か」

「今帰り?」

「うん。そっちこそ部活は?」

「グラウンドが使えないから、ウエイトだけやってすぐに終わった」

「鍵閉めしてたら置いてかれてさー。ひどくね?」と言いながら、晴人が襟足をかく。
そんな彼を見て、私は思わず笑みをこぼしてしまった。

晴人とは小中高と同じ学校に通う腐れ縁の仲だ。
陸上部に所属していて、部内でも期待のスプリンターらしい。
けれどとてもそんなふうには見えないくらい、普段の彼はのんびりとしている。
今日も今日とて、ゆっくり鍵閉めをしていたら、いつの間にか部員たちに置いていかれてしまったのだそうだ。
少しかわいそうではあるけれど、なんとも彼らしいことだと思う。

「澪はそんなとこで何してんの?」

「いや、ちょっと傘が見当たらなくてさ」

「どんなやつ?」

「透明のビニール傘。持ち手のところに目印のシールが貼ってあるんだけど」

「あー。間違って持っていかれたか、パクられたかもな」

「だよね。今日ほんとにツイてない」

そもそも学校にありふれたビニール傘を持ってきてしまったのが間違いだったのだ。
そんなの「どうぞ間違ってください」と言っているようなものではないか。
今さら後悔したところでどうにもならないのだけれど。

軒から滴り落ちる雨だれを呆然と見つめる。
雨の勢いは少し弱まったものの、やはりいまだに止みそうにはない。
今日一日の不運も思い出してやるせなく俯くと、ふいに顔に影が落ちた。
それは目の前の晴人が傘を差し出してくれたからだと気づいたのは、一瞬遅れてのことだった。