記憶を失ったとしても、僕にとって彼女が愛する女性であることに変わりはない。
しかし彼女にとっての僕は、見ず知らずの頼りない男なのだ。
夫だと言っても困らせてしまうだけだっただろう。
彼女の新しい人生にきっと、僕はいない方がいい。
それは分かってる、でも。

――傍にいたい。

――傍にいてほしい。

隠していた気持ちが溢れそうになるのを、僕は必死に抑えた。
こんな気持ちに気づいたら、優しい彼女は僕の元を去ろうとはしないだろう。
けれど彼女の良心につけ込むような真似を、僕はどうしてもしたくはなかった。

「……どうしてかしら」

押し黙った僕を不思議そうに見つめた彼女は、それから突然、僕との距離を少しずつ詰めた。
一歩二歩と近づいて、やがて人が一人入るかどうかの距離で向かい合う。
そしてその大きな目で僕をじっと見つめると、「不思議ね」と呟いた。

「あなたのことは何も憶えていないのに、あなたが笑うと私も嬉しくなるし、あなたが切ない顔をすると私まで悲しくなるのよ」

「え……?」

「だから、そんな顔しないで?」

彼女はゆっくりとした動作で、僕の頬を両手で包んだ。
冷え性のせいで、いつも冷たい彼女の手。
よく知ったその温度だって、何も変わっていない。
でも、変わってしまった。
僕たちは大きく変わってしまったのだ。
ただ、愛していただけだ。
彼女を愛していただけだったはずなのに、突きつけられる現実はどうしようもなく残酷だ。
噛みしめて耐えてみても、堪えきれなかった涙がぼたりと零れる。
そのままじわじわと溢れては、地面の色を変えていった。

「ねぇ。私ね、分かったことがあるの」

悲愴的な僕とは対照的に、穏やかなままの彼女は、場にそぐわないくらいの明るい声で呟いた。
僕の頬に手を添えたまま、流れ落ちる涙を親指でぬぐってくれている。

「分かったこと……?」

「ええ。私、思い出せなくったって、好きだったものはもう一度好きになるのよ。空も、林檎も、桜もそう」

すると突然、緩やかだった風が、ぶわりと大きく吹き荒れた。
桜の木々が盛大に揺れ、わさわさと音を立てる。

「だからね」

彼女の声が、そんな木々の音にかき消されそうになり、僕は慌てて耳を澄ました。
泣き顔のまま、真剣な表情になった僕が面白かったのだろうか。
彼女は、くすりと笑うと。

「きっと私は、あなたのことも、もう一度好きになるの」

一呼吸置いてから、確信めいたようにそう言った。
風に煽られたたくさんの花びらが、ひらひらと舞い落ちてくる。
薄紅の世界で照れたように笑う彼女の姿が、涙で滲んだ。
曖昧になりそうな彼女の輪郭を、確かめるように抱きしめる。

耳元で響く、楽しげな声。
それは確かに紛れもない、愛する彼女のものだった。