風が吹いている。
あたたかくも冷たくもない、緑の匂いを含んだゆるやかな風だ。
風はたくさんの小さな花びらをまといながら、妻のひとつに結った髪を揺らし、僕の白いシャツを靡かせていた。
「この花の名前は憶えてる?」
ちょうど道の傍に咲いていた花を指差して、隣を歩く彼女に聞いてみる。
「憶えているわ。“桜”でしょう?」
すると彼女はまるで子供のように、得意げな顔で答えた。
彼女はなんでも知っている。
晴れた日の空が“青色”だということも、真っ赤に熟れた林檎が“甘い”ということも。
「毎年ね、春になると、君とここの桜を眺めに来ていたんだ」
「それは…………憶えていないわ」
ただ、自分のことだけは何ひとつ憶えていないのだ。
きっかけは交通事故だった。
車にはねられ、強く頭を打った彼女は、長く生死をさまよった末に、奇跡的な回復を遂げてくれたものの。
まるでそんな奇跡と引き替えたかのように、目を覚ましたときには、自分に関する全ての記憶を失っていたのだ。
名前や生い立ち、好きなものや嫌いなもの。
そして夫である僕のことも、すべて。
僕ら以外に桜の下を歩いている者はおらず、辺りは小さな風の音しかしなかった。
彼女はつま先立ちになり、桜の枝に顔を寄せて微笑んでいる。
「私、この花が好きだわ。きっと前の私もそうだったはずよ」
「うん。春に咲く花の中で、君は桜が一番好きだった」
「やっぱり。でも、そうよね。私が私であることに変わりはないんだもの」
そう、記憶をなくしたこと以外、彼女は何も変わっていない。
ゆったりとした話し方も、人の目をじっと見る癖も。
だから時々、記憶喪失なんて嘘なのではないかと錯覚することがある。
けれどやはりそんなことはなくて、悲しい現実はいつだって僕の隣にあった。
「離婚したほうがいいんじゃないか」
その言葉を言い出したのは誰だっただろうか。
僕や彼女の両親か、親しくしている友人か、はたまた周囲の者は全員だったかもしれない。
僕らは若いし、まだ子供もいなかった。
僕は彼女に忘れられてしまい、彼女の中にはもう、僕への愛情はない。
そんなものはもう夫婦とは呼べないだろうと、みな口を揃えて言った。
けれど僕から彼女に離婚を言い渡すことはできなかった。
だからこの件は、記憶を失った彼女に決めてもらうことにしたのだ。
そんな責務を負わせる代わりに、僕は彼女が選んだことは全てを尊重しようと思った。
たとえそれが、二人の別れであったとしても。
「私、いろんなことを忘れてしまったわ。きっとなくしたくない記憶だって、たくさんあったはずなのに」
桜から僕へと視線を移した彼女は、困ったような顔でそう言った。
「でもね、寂しいことや悲しいことばかりではないのよ。記憶がないおかげでね、まるで生まれ変わったみたいに、毎日を新鮮に感じるの」
まるで世界を知らない赤ん坊のような無垢な顔で、彼女は笑う。
空の青や林檎の味を知っていても、それらを好きだった自分のことは憶えていない。
だからこそ日常における普遍的な事象でも、彼女は素直に感動できるのだ。
新しく始まった人生を彼女は少しずつ受け入れ、そして楽しもうとしていた。
「お気楽な女だって、笑う?」
「いいや。僕は君のそういうところが――」
そこまで言って、僕は思い直し、口を閉ざした。
あたたかくも冷たくもない、緑の匂いを含んだゆるやかな風だ。
風はたくさんの小さな花びらをまといながら、妻のひとつに結った髪を揺らし、僕の白いシャツを靡かせていた。
「この花の名前は憶えてる?」
ちょうど道の傍に咲いていた花を指差して、隣を歩く彼女に聞いてみる。
「憶えているわ。“桜”でしょう?」
すると彼女はまるで子供のように、得意げな顔で答えた。
彼女はなんでも知っている。
晴れた日の空が“青色”だということも、真っ赤に熟れた林檎が“甘い”ということも。
「毎年ね、春になると、君とここの桜を眺めに来ていたんだ」
「それは…………憶えていないわ」
ただ、自分のことだけは何ひとつ憶えていないのだ。
きっかけは交通事故だった。
車にはねられ、強く頭を打った彼女は、長く生死をさまよった末に、奇跡的な回復を遂げてくれたものの。
まるでそんな奇跡と引き替えたかのように、目を覚ましたときには、自分に関する全ての記憶を失っていたのだ。
名前や生い立ち、好きなものや嫌いなもの。
そして夫である僕のことも、すべて。
僕ら以外に桜の下を歩いている者はおらず、辺りは小さな風の音しかしなかった。
彼女はつま先立ちになり、桜の枝に顔を寄せて微笑んでいる。
「私、この花が好きだわ。きっと前の私もそうだったはずよ」
「うん。春に咲く花の中で、君は桜が一番好きだった」
「やっぱり。でも、そうよね。私が私であることに変わりはないんだもの」
そう、記憶をなくしたこと以外、彼女は何も変わっていない。
ゆったりとした話し方も、人の目をじっと見る癖も。
だから時々、記憶喪失なんて嘘なのではないかと錯覚することがある。
けれどやはりそんなことはなくて、悲しい現実はいつだって僕の隣にあった。
「離婚したほうがいいんじゃないか」
その言葉を言い出したのは誰だっただろうか。
僕や彼女の両親か、親しくしている友人か、はたまた周囲の者は全員だったかもしれない。
僕らは若いし、まだ子供もいなかった。
僕は彼女に忘れられてしまい、彼女の中にはもう、僕への愛情はない。
そんなものはもう夫婦とは呼べないだろうと、みな口を揃えて言った。
けれど僕から彼女に離婚を言い渡すことはできなかった。
だからこの件は、記憶を失った彼女に決めてもらうことにしたのだ。
そんな責務を負わせる代わりに、僕は彼女が選んだことは全てを尊重しようと思った。
たとえそれが、二人の別れであったとしても。
「私、いろんなことを忘れてしまったわ。きっとなくしたくない記憶だって、たくさんあったはずなのに」
桜から僕へと視線を移した彼女は、困ったような顔でそう言った。
「でもね、寂しいことや悲しいことばかりではないのよ。記憶がないおかげでね、まるで生まれ変わったみたいに、毎日を新鮮に感じるの」
まるで世界を知らない赤ん坊のような無垢な顔で、彼女は笑う。
空の青や林檎の味を知っていても、それらを好きだった自分のことは憶えていない。
だからこそ日常における普遍的な事象でも、彼女は素直に感動できるのだ。
新しく始まった人生を彼女は少しずつ受け入れ、そして楽しもうとしていた。
「お気楽な女だって、笑う?」
「いいや。僕は君のそういうところが――」
そこまで言って、僕は思い直し、口を閉ざした。