オフィスのエントランスを抜けた瞬間、ふいに雨の気配を感じた。
この少し埃っぽくて湿度のある、どこか懐かしい匂いのせいだ。
テレビの中のキャスターが今日は一日中くもりだと言っていたのに、どうやら天気予報は外れてしまったらしい。
とはいえ遠くの空は晴れているようだし、きっとただの通り雨なのだろう。
鞄に入れていた折りたたみ傘を広げて外へ出ると、よりいっそう雨の匂いが強くなった。
しかしこの匂いは雨そのものではなく、雨が降ることによって地面からわき上がる香りなのだという。
私がそれを知ったのは、遠い昔の学生時代のことだった。
その日は最悪の1日だった。
数学の小テストの日を間違えて覚えていたため、ほとんど答えることができなかったり。
気になっていた先輩に恋人ができたということが判明したり。
帰る間際に生徒指導の先生に捕まって、スカートの長さについて説教をされたり。
「ほんと最悪……」
挙げ句の果てには土砂降りの雨だというのに、自分の傘が見当たらないのだ。
今朝、きちんとこの傘立てに立てかけたはずなのに。
もう一度目を凝らしても、他クラスの傘立てを探しても、やはりどこにも見当たらない。
誰かが間違えて持っていってしまったのだろうか。
いっこうに止みそうにない雨を眺めてため息を吐く。
どうやら今日はとことんツイていないらしい。
「みーお」
どうすることもできずに生徒玄関で立ち尽くしていると、やけに間延びした声で名前を呼ばれた。
振り向けば、そこには一人の男子生徒の姿があった。
「びっくりした。晴人か」
「今帰り?」
「うん。そっちこそ部活は?」
「グラウンドが使えないから、ウエイトだけやってすぐに終わった」
「鍵閉めしてたら置いてかれてさー。ひどくね?」と言いながら、晴人が襟足をかく。
そんな彼を見て、私は思わず笑みをこぼしてしまった。
晴人とは小中高と同じ学校に通う腐れ縁の仲だ。
陸上部に所属していて、部内でも期待のスプリンターらしい。
けれどとてもそんなふうには見えないくらい、普段の彼はのんびりとしている。
今日も今日とて、ゆっくり鍵閉めをしていたら、いつの間にか部員たちに置いていかれてしまったのだそうだ。
少しかわいそうではあるけれど、なんとも彼らしいことだと思う。
「澪はそんなとこで何してんの?」
「いや、ちょっと傘が見当たらなくてさ」
「どんなやつ?」
「透明のビニール傘。持ち手のところに目印のシールが貼ってあるんだけど」
「あー。間違って持っていかれたか、パクられたかもな」
「だよね。今日ほんとにツイてない」
そもそも学校にありふれたビニール傘を持ってきてしまったのが間違いだったのだ。
そんなの「どうぞ間違ってください」と言っているようなものではないか。
今さら後悔したところでどうにもならないのだけれど。
軒から滴り落ちる雨だれを呆然と見つめる。
雨の勢いは少し弱まったものの、やはりいまだに止みそうにはない。
今日一日の不運も思い出してやるせなく俯くと、ふいに顔に影が落ちた。
それは目の前の晴人が傘を差し出してくれたからだと気づいたのは、一瞬遅れてのことだった。
この少し埃っぽくて湿度のある、どこか懐かしい匂いのせいだ。
テレビの中のキャスターが今日は一日中くもりだと言っていたのに、どうやら天気予報は外れてしまったらしい。
とはいえ遠くの空は晴れているようだし、きっとただの通り雨なのだろう。
鞄に入れていた折りたたみ傘を広げて外へ出ると、よりいっそう雨の匂いが強くなった。
しかしこの匂いは雨そのものではなく、雨が降ることによって地面からわき上がる香りなのだという。
私がそれを知ったのは、遠い昔の学生時代のことだった。
その日は最悪の1日だった。
数学の小テストの日を間違えて覚えていたため、ほとんど答えることができなかったり。
気になっていた先輩に恋人ができたということが判明したり。
帰る間際に生徒指導の先生に捕まって、スカートの長さについて説教をされたり。
「ほんと最悪……」
挙げ句の果てには土砂降りの雨だというのに、自分の傘が見当たらないのだ。
今朝、きちんとこの傘立てに立てかけたはずなのに。
もう一度目を凝らしても、他クラスの傘立てを探しても、やはりどこにも見当たらない。
誰かが間違えて持っていってしまったのだろうか。
いっこうに止みそうにない雨を眺めてため息を吐く。
どうやら今日はとことんツイていないらしい。
「みーお」
どうすることもできずに生徒玄関で立ち尽くしていると、やけに間延びした声で名前を呼ばれた。
振り向けば、そこには一人の男子生徒の姿があった。
「びっくりした。晴人か」
「今帰り?」
「うん。そっちこそ部活は?」
「グラウンドが使えないから、ウエイトだけやってすぐに終わった」
「鍵閉めしてたら置いてかれてさー。ひどくね?」と言いながら、晴人が襟足をかく。
そんな彼を見て、私は思わず笑みをこぼしてしまった。
晴人とは小中高と同じ学校に通う腐れ縁の仲だ。
陸上部に所属していて、部内でも期待のスプリンターらしい。
けれどとてもそんなふうには見えないくらい、普段の彼はのんびりとしている。
今日も今日とて、ゆっくり鍵閉めをしていたら、いつの間にか部員たちに置いていかれてしまったのだそうだ。
少しかわいそうではあるけれど、なんとも彼らしいことだと思う。
「澪はそんなとこで何してんの?」
「いや、ちょっと傘が見当たらなくてさ」
「どんなやつ?」
「透明のビニール傘。持ち手のところに目印のシールが貼ってあるんだけど」
「あー。間違って持っていかれたか、パクられたかもな」
「だよね。今日ほんとにツイてない」
そもそも学校にありふれたビニール傘を持ってきてしまったのが間違いだったのだ。
そんなの「どうぞ間違ってください」と言っているようなものではないか。
今さら後悔したところでどうにもならないのだけれど。
軒から滴り落ちる雨だれを呆然と見つめる。
雨の勢いは少し弱まったものの、やはりいまだに止みそうにはない。
今日一日の不運も思い出してやるせなく俯くと、ふいに顔に影が落ちた。
それは目の前の晴人が傘を差し出してくれたからだと気づいたのは、一瞬遅れてのことだった。