「……今死んでもいいかも」

「縁起でもないな。死んだら二度と俺の顔が見られなくなるよ」

「それはやだ、絶対やだ」

「でしょ?」

冗談を言いながら、橋野が得意げに笑う。
そんな彼を見て、私はなんだか感慨深い気持ちになった。
だってまさか、美少年であることに不満を持つあの橋野が、自分の容姿で私を釣ってくる日がくるなんて思わなかったのだ。
たぶん普段それだけ、私が橋野の容姿を褒めているせいなのだろうけれど。

「橋野、ごめんね」

「いいよ別に。誰だって調子が悪い日くらいあるでしょ」

「そうじゃなくて、私、橋野が美少年って言われるの嫌だって知ってるんだ」

感慨深さと同時に、どうしようもない罪悪感が渦巻いてきて、私は肩までかけられていた布団を口元まで引き上げた。

「筋肉をつけるためのプロテインとか、背を伸ばすための牛乳とビタミンなんとかとか、いろいろ調べてるのも知ってる。……効果はあまり見られないけど」

「うるさいな。殊勝にすんのか揶揄うのかどっちかにしてよ」

「ははっ、私ね、そうやって、橋野の綺麗な顔を崩すのが好きなの」

だってそれは、私だけに見せてくれる特別なものだったから。
けれどそんな理由で、橋野のコンプレックスを刺激していいことにはならないはずだ。
彼の優しさに触れて、私はやっと人として忘れてはいけないことに気づけていた。

「何度もいじわるしてごめん。もうしないから」

「なんで?」

そう思って、反省したのに。
橋野の気の抜けた「なんで?」の声に、私は一瞬、呆気にとられた。

「……なんでって、橋野も嫌だったでしょ」

「そんなことないよ。むしろ今はこの顔で生まれてよかったとさえ思ってるし」

「えっ? そうなの!?」

それは初耳なんですけど。
驚いた私を見て、橋野の整った唇が弧を描く。

「俺はね、いつもわざと澄ました顔をしてるんだよ。そうすれば、安達は絶対に俺のことを構ってくれるじゃん」

不敵な笑みを浮かべる橋野に、私はとうとう声を失った。
ああ、その表情は初めて見る気がする。
やっぱり美少年はどんな顔をしていても綺麗だな。
いや、っていうか“わざと澄ました顔をしてる”って、なんだそれ。
じゃあ私はずっと、橋野の手のひらの上で転がされていたってこと?
思わぬ事実を知り、けれども不思議と悪い気はしなかった。

「どうして私に構ってほしいの?」

悔し紛れに出した私の言葉に、橋野は平気な様子で瞬きをする。

「言わないと分からない?」

「分かるけど言ってほしい」

粘ってわがままを言えば、橋野は顔を赤くしながら、捨て鉢のようなため息を吐いた。
そのままその綺麗な顔が降ってきて、私の耳元で止まる。

「好きだからだよ」

囁かれた言葉は、私にとって、まるで福音だった。

橋野は美少年だ。
素直でかわいくて、意外と力持ちで、結構計算高いところもあるみたいだけど、やっぱりとても優しい。

「私も好き! 大好き! フォーエバーラブ!」

「分かったから、静かに寝てな」

私の、私だけの天使だ。
ある秋の雨の日。
所属する陸上部が雨天活動休止になってしまった安達は、暇つぶしのためか、俺の所属する美術部へとやってきていた。
とはいえこの部は在籍している内のほとんどが幽霊部員なので、今日も今日とて俺しか活動をしていない。
つまりは放課後の美術室の中で、俺と安達は二人きりの時間を過ごしていた。

「……ずっと見られてると描きづらいんだけど」

「だって見惚れるくらい絵になるんだもん。放課後の美術室で一人絵を描く美少年。もう永遠に眺めていられるね」

「そーですか」

隣に置かれたイスに腰掛け、うっとりとこちらを見つめてくる安達に向かって、辟易としたため息を吐く。
二人きりの空間とはいえ、この女といて何か色気のあるようなことが起こるはずもない。
先日の保健室での一件から、いちおうは彼氏彼女という関係になったはずなのに、俺たちの距離感はこれまでとさほど変わることはなかった。

「じゃあ見ててもいいからなんか喋って」

「喋ってもいいの?」

どうやら安達は絵を描くことに集中していた俺を気遣ってか、柄にもなく静かにしてくれていたらしい。
水を得た魚のように喋り出す彼女の声をBGMに、たまに気のない相槌を打ちながら、キャンバスに絵の具を乗せていく。
早朝に見た虹のこと、歳の離れた兄のこと、明日の英語の小テストのこと――とりとめなく語られる彼女の世界は相も変わらず賑やかだ。
そんは彼女に釣られて、俺が描くキャンバスも鮮やかに彩られていく。
普段の自分であれば生み出せないような色彩を認めて、俺の脳裏には安達と初めて出会ったときのことが思い起こされていた。



「ずっと思ってたんだけど、橋野くんって綺麗な顔してるよね」

高校に入学して、初めての席替えをした日のこと。
偶然にも隣の席になった女子――安達は、開口一番、大真面目にそんなことを言った。
彼女にとってみれば、それは何気ない褒め言葉のひとつだったのだろう。
けれど俺は自分の容姿が好きではなく、その言葉に対してあからさまに顔を顰めれば、彼女は意外そうに目を丸くしたのだ。

「自分の顔、好きじゃないの?」

「むしろ嫌いだよ。できればもっと屈強な男に生まれたかった」

「へぇ。こんなに綺麗なのに」

不可思議そうに目をぱちくりと瞬かせる安達に、俺の中にはじわりとした怒りが広がった。
全体的に小作りな自分の造作は、よく言えば“綺麗”なのだろうが、あまりにも軟弱で理想とは程遠い。
だからこそ、たとえ褒め言葉だったとしても揶揄されているように聞こえ、昔から容姿に言及されるのは好きではなかった。
しかし俺の心情を1ミリも掬い取ることなく、目の前の彼女は呑気に微笑んでいる。
そんな軽率さが気に障り、無視を決め込もうとすると。

「じゃあ橋野くんの代わりに私が好きでいてあげる。いつでも愛でて褒めてあげるよ」

「そうすればもっと自分のことを好きになれるよ」と屈託なく言われた言葉に、俺は思わず毒気を抜かれてしまった。
いや、別にそんなことなど望んではいない。
いつもならそう言って冷たく突っぱねられるはずなのに、なぜだかそのときは何も声にすることができず、俺はろくに言い返すこともできないまま、宣言どおり彼女に纏わりつかれるようになった。

「いやぁ、橋野は今日も綺麗だね」

「橋野の顔を見てるだけで幸せになる」

「この美しさはもはや国民栄誉賞ものだよ」

「ほんと、神が与えてくれた奇跡に感謝」
安達は顔を合わせるたび、律儀に手を替え品を替え、持てるすべての語彙をもって俺を褒めそやした。
その褒め言葉によって、彼女の言うように自分の容姿を好きになれたわけではない。
ただ、初めは鬱陶しかったその底抜けな明るさを、なぜだかだんだんと面白く感じるようになった。
くるくると変わる表情は、いつまで見ていても飽きることがない。
彼女と話をしていれば、斜に構えがちで計算高い自分でさえも、不思議と素直にさせてくれる。
いつしか「安達の好きなこの顔で生まれてよかった」と調子のいいことを考えるようになった自分に気づいたとき、俺は心の中で呆れて笑った。

「どうしたの?」

「えっ?」

「なんか嬉しそう」

ふいに安達から声をかけられ、俺はハッと我に返った。
いつの間にかゆるんでいたらしい口元を恥ずかしく思い、苦し紛れに手の甲で覆う。
するとなぜか、彼女もまた嬉しそうにからからと笑った。

「そっちこそ、何笑ってんの」

「ううん。私ね、いつもの澄ました顔も好きだけど、やっぱり橋野の表情が崩れるのを見るのが好きだなぁと思って」

安達の言葉は今日も眩しいくらいに真っ直ぐだ。
にへらと気の抜けた笑顔が、今の俺にはおそろしくかわいく見える。
まさに恋とは盲目であるらしい。
不思議だ。
初めは彼女のことをあんなにも苦手にしていたはずなのに。
何の気なしに吸い寄せられるようにして近づくと、俺が作った影が安達にぴったりと重なった。
さらに距離を詰めれば、その目が大きく見開かれていく。

この子が好きだなぁ、と思うのだ。
ただ単純に、ひたすらに。

「……なっ、まっ、待ってっ!」

あと少しで唇が重なる瞬間。
間抜けな声を出して静止を求めた安達に、俺はがっかりしつつも素直に彼女から離れた。
いや、なんとなくこうなることは予想していたけれど。

「今キスするタイミングっぽくなかった?」

「そうかもしれないけど!」

「けど?」

「顔が綺麗すぎる! このままだとあまりの美しさに目が潰れてしまう!」

この期に及んでまだそんな言い訳をする安達を白い目で見つめる。
しかし珍しく顔を赤らめて閉口した彼女に、不思議と自分の心が満たされていくのを感じた。
安達の言葉を借りれば、“自分だけに見せてくれる特別な顔”を見れたせいなのかもしれない。
なるほど、たしかにこれは面白い。

「俺とこういうことするの、嫌?」

「嫌なわけないじゃん……! でもいきなりだったからちょっと毛穴とか産毛とか気になっちゃって」

「俺あんまり視力よくないから、ぜんぜん分からないけど」

「そういう問題じゃないんだよ! ていうか橋野はなんなの!? いつでも“剥きたまごです”みたいな肌しやがって!」

「ごめんね。生まれつき肌まで綺麗で」

「そのとおりだけどなんかムカつく!」

ポカポカと飛んできた安達の拳をたやすく受け止め、自分が心の底から笑っていることに気づく。

俺は安達が好きだ。
そして安達といるときの自分が好きだ。
こんなことを口走ったら調子に乗るに決まってるから、絶対に言ってやらないけれど。

「頑張って朝ドラ女優並みの透明感を手に入れるので、それまでちょっと待ってて」

「別に今のままで十分かわいいのに」

「うわあ! そういうこと言う!」

きっと彼女こそ、俺だけの天使だ。
オフィスのエントランスを抜けた瞬間、ふいに雨の気配を感じた。
この少し埃っぽくて湿度のある、どこか懐かしい匂いのせいだ。
テレビの中のキャスターが今日は一日中くもりだと言っていたのに、どうやら天気予報は外れてしまったらしい。
とはいえ遠くの空は晴れているようだし、きっとただの通り雨なのだろう。

鞄に入れていた折りたたみ傘を広げて外へ出ると、よりいっそう雨の匂いが強くなった。
しかしこの匂いは雨そのものではなく、雨が降ることによって地面からわき上がる香りなのだという。
私がそれを知ったのは、遠い昔の学生時代のことだった。



その日は最悪の1日だった。
数学の小テストの日を間違えて覚えていたため、ほとんど答えることができなかったり。
気になっていた先輩に恋人ができたということが判明したり。
帰る間際に生徒指導の先生に捕まって、スカートの長さについて説教をされたり。

「ほんと最悪……」

挙げ句の果てには土砂降りの雨だというのに、自分の傘が見当たらないのだ。
今朝、きちんとこの傘立てに立てかけたはずなのに。
もう一度目を凝らしても、他クラスの傘立てを探しても、やはりどこにも見当たらない。
誰かが間違えて持っていってしまったのだろうか。

いっこうに止みそうにない雨を眺めてため息を吐く。
どうやら今日はとことんツイていないらしい。

みーお()

どうすることもできずに生徒玄関で立ち尽くしていると、やけに間延びした声で名前を呼ばれた。
振り向けば、そこには一人の男子生徒の姿があった。

「びっくりした。晴人(はると)か」

「今帰り?」

「うん。そっちこそ部活は?」

「グラウンドが使えないから、ウエイトだけやってすぐに終わった」

「鍵閉めしてたら置いてかれてさー。ひどくね?」と言いながら、晴人が襟足をかく。
そんな彼を見て、私は思わず笑みをこぼしてしまった。

晴人とは小中高と同じ学校に通う腐れ縁の仲だ。
陸上部に所属していて、部内でも期待のスプリンターらしい。
けれどとてもそんなふうには見えないくらい、普段の彼はのんびりとしている。
今日も今日とて、ゆっくり鍵閉めをしていたら、いつの間にか部員たちに置いていかれてしまったのだそうだ。
少しかわいそうではあるけれど、なんとも彼らしいことだと思う。

「澪はそんなとこで何してんの?」

「いや、ちょっと傘が見当たらなくてさ」

「どんなやつ?」

「透明のビニール傘。持ち手のところに目印のシールが貼ってあるんだけど」

「あー。間違って持っていかれたか、パクられたかもな」

「だよね。今日ほんとにツイてない」

そもそも学校にありふれたビニール傘を持ってきてしまったのが間違いだったのだ。
そんなの「どうぞ間違ってください」と言っているようなものではないか。
今さら後悔したところでどうにもならないのだけれど。

軒から滴り落ちる雨だれを呆然と見つめる。
雨の勢いは少し弱まったものの、やはりいまだに止みそうにはない。
今日一日の不運も思い出してやるせなく俯くと、ふいに顔に影が落ちた。
それは目の前の晴人が傘を差し出してくれたからだと気づいたのは、一瞬遅れてのことだった。
「えっ……?」

「入ってけよ。どーせ同じ方向なんだから」

何食わぬ顔で晴人が私を傘の中に誘う。
けれどそれは一般的に相合傘と呼ばれるもので、付き合ってもいない高校生がやるには少しハードルが高い行為だ。
晴人もそれを知らないわけではないだろうに。

「いや、ダメだよ」

「何がダメなんだよ。俺がいいって言ってるのに」

「だってもし誰かに見られたら私と噂されるよ。そんなの困るでしょ」

「別にそんなことで困ったりなんかしない」

「それより雨に濡れたら風邪ひくぞ」と有無を言わせないような強さで腕を掴まれ、傘の中へと引っ張り込まれる。
困ったりしないと断言されれば、それ以上言い募ることなんてできなかった。
いつのまにか私よりもずっと背丈が伸びていた晴人を見上げる。
彼は昔から無邪気でのんびりな少年だったはずだ。
だからこんなふうに堂々とかっこよく振る舞うことができるだなんて知らなかった。
「晴人のくせに生意気だ」と八つ当たりじみたことを考えて、緊張や動揺が悟られないよう、意を決して彼の隣を歩く。
狭い傘の中でたまに触れる肩はとても熱くて、その温度を感じる度に私の鼓動を速めた。

「すげー雨の匂い」

私の気持ちを知らずに、晴人がいつもの間延びした声で呟く。
会話がないのも気まずかったため、私はすぐに「だね」と相槌を打った。

「ちょっと埃っぽいけど、不思議と嫌じゃないのってなんでなのかな」

「なー。そういえば知ってるか? この匂いってペトリコールっていうらしいぜ」

「ぺとりこーる?」

「雨そのものじゃなくて、雨によって地面からわき上がる匂いなんだって、今日の国語の授業で言ってた。たしかどっかの国の言葉で、なんとかって意味らしいんだけど」

「なにそれ。ぜんぜん覚えてないじゃん」

曖昧な晴人の話に笑って、それから私は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
少し埃っぽくて湿度のある、懐かしい匂いがする。

「ペトリコールかぁ」

雨はまだ止まない。
けれど煩わしく思っていたはずの雨の景色を、今度はどこか嬉しく思いながら眺めた。
この先大人になって、たとえ晴人とも離れ離れになったとしても、きっとこの匂いを感じるたび、私は今日のことを思い出すだろう。
陰鬱な雨の中で香るペトリコールのように、最悪な一日の最後に起こった、清く懐かしい記憶として。

なんだか、そんな予感がする。



「みーお」

高校時代の記憶を思い出していると、聞き慣れた声で名前を呼ばれた。
振り向けば、恋人が申し訳なさそうな顔で駆け寄ってくる。

「わりー、待たせた?」

「ううん。私もさっき来たとこ」

「そっか、よかった」

ホッとした様子で襟足をかく恋人は、それから私の顔をまじまじと見つめた。
何かついているだろうかと不思議に思えば、「なんかいいことでもあった?」と問われる。

「どうして?」

「嬉しそうな顔してるから」

「ううん、違うの――」

雲間から差した光が私たちを照らす。

「――ちょっと昔のことを思い出してたんだ」

街を濡らしていた通り雨は、いつのまにか上がっていたようだった。

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