自分の背丈よりも遥かに高いバーの上に向かってふわりと飛び立つ彼の姿は、まるで獲物を狩りに羽ばたく鷹のように気高く見えて、私はのどの奥が熱くなるくらいの衝撃を覚えた。
しなる筋肉も浅黒く灼けた肌も眩しいくらいに美しくて、思わず涙を溢れさせた自分に呆然とした。
こんなにも高ぶるような気持ちになるのは、生まれて初めてのことだった。
高校一年生の夏。
偶然彼を見かけたあの日、私の人生は大きく変えられてしまった。
彼のことを知りたいと思ったのは、あの日の私を鑑みれば当然のことだと思う。
それからというもの、私は暇を見つけては陸上部のグラウンド練習を影から眺めるようになった。
大会のときは、こっそり会場まで足を運んだことだってある。
少々行きすぎな行動をしている自覚はあったが、それでも彼の姿を追うことはやめられなかった。
今日も今日とて彼が見ているものと同じ景色を見たくて、晴れた空を仰いでいる。
汗で後れ毛がうなじにくっつくのを払うと、吹き抜ける風が一際涼しく感じられた。
彼はいつも、この空の青色をどんな気持ちで見ているのだろう。
そんなことを考えながら、小さくため息を吐く。
私の世界はこんなにも彼でいっぱいなのに、彼の世界に、私はこれっぽっちだって存在していない。
彼はスポーツ科期待のハイジャンパー。
それに比べて私は普通科の、ただの平凡な女子。
そんな私たちに接点などあるはずもないし、私のような凡人が彼とお近づきになりたいだなんて、そもそもが分不相応な話なのだ。
けれど、いつか知り合うことができたなら、私は彼に伝えてみたかった。
あなたは私の世界を変えてくれた。
それからずっと、あなたを応援している。
そして――あなたに恋をしているのだと。
そんなふうに夢を見ながらも、現実はそう甘くはない。
彼に近づけるきっかけが簡単に訪れるわけもなく、季節は廻り、一方的に彼を見つめ始めてから、私はついに二度目の夏を迎えようとしていた。
放課後。
いつものように校舎の三階からグラウンドを見下ろしながら、私は陸上部の練習を眺めていた。
目線の先には、もちろん彼がいる。
ランニングや柔軟体操を終えた彼は、さっそく高跳びの練習を始めるようだった。
スタートの合図に手を挙げ、助走を始める。
最初の方の歩幅が長いのは彼の癖だ。
そのままスピードを速めて踏み切れば、まるで羽が生えているかのように、いとも簡単に体が浮き上がる。
そう思わざるを得ないほど、彼の動きは鮮やかで、何度見ても飽きることがない。
しかし。
「ああっ」
軽々と跳躍したように見えた彼だったが、最後の最後で足をバーに引っ掛けてしまい、私は落胆の声を上げた。
バーが地面に落下する派手な音が響き、マットの上に着地した彼が、仰向けのまま片手で頭を抱える。
どうやら最近、彼は不調が続いているらしい。
ここのところ同じような失敗をしているのを、私は何度も目撃していた。
練習着の袖で汗を拭いながら、悔しそうな表情を浮かべる彼に、私までもが居ても立っても居られないような心地になる。
できるのなら、今すぐここから叫んで、彼に伝えたい。
焦らないでね。
あなたならきっと大丈夫。
そう信じている人間がここにいるよ。
喉元まで出かかったそんな言葉を、けれども私は必死で飲み込んだ。
見知らぬ女から突然そんなことを言われたって、彼も気味が悪いだけだろうから。
その代わりに両手を強く組んで、祈りながら彼を見守る。
こんなことしかできない自分に、どうにもならない歯がゆさを感じながら。
それから小一時間ほど練習を眺め続けたころ、ふいにのどが渇いた私は、一階の生徒玄関の傍にある自動販売機へと向かうことにした。
お目当てのミルクティーは、そこの自動販売機でしか売っていない限定品なのだ。
だからわざわざ一階まで下りてきたというのに、気がつけば私は、彼がよく飲んでいるミネラルウォーターに目を奪われてしまっていた。
それはどの自動販売機でも売っているような、よくある商品だ。
彼に恋をしなければ、きっと一生興味を持つこともなかったであろう、そんなミネラルウォーターのボタンにそっと指を伸ばす。
もしかしたら彼も、このボタンを押したことがあるかもしれない。
そんな馬鹿げたことが頭の中に過ぎり、緊張から指先が震えた。
わずかでも彼に近づけたような気分になりながら、ようやくボタンを押し終えると、すぐさまごとりと鈍い音が響いた。
その音を聞き、おそるおそる取り出し口に手を入れれば、ひやりとしたプラスチックに触れる。
ペットボトルの容赦ない冷たさが手のひらの体温を容赦なく奪い、その感触で我に返った私は、高揚していた気分が唐突に冷めていくのを感じた。
……馬鹿げたというより、本当に馬鹿みたいだ。
これが一体何になるというのだろう。
こんなことをしていたって、彼に近づけるわけでもないのに。
遠くから見つめるだけで、私は結局、自分からは何もしていない。
このまま彼の世界に存在することも叶わず、いつか私の恋は終わるのだろうか。
それはなんて寂しく、虚しいことなのだろう。
自分の臆病さを今さらながらに苦々しく思いながら、ミネラルウォーターを抱えて踵を返す。
すると振り向きざま、いつの間にか後ろに並んでいた人にぶつかってしまった。
「悪い」
頭上から低い声が降る。
ぶつかってきたのはこちらの方だと、慌てて顔を上げながら謝ったものの、そこに立っていた予想外の人物に、私は思わず目を見開いた。
そう、ずっと見つめ続けていた彼が、なぜか私の目の前に佇んでいたのだ。
「…………」
どうして。
どうして、あなたがここに。
いつも遠くにいるはずの彼が、至近距離で私を見下ろしている。
それだけで顔は燃えるように熱くなるのに、体は氷のように固まってしまっていた。
ちょうど陸上部は休憩時間に入ったらしく、辺りには他の部員もいて、どうやら彼も自動販売機に飲み物を買いにきたようだった。
「それ」
驚きと緊張に固まったままでいると、彼は突然、私が抱えていたミネラルウォーターを指差した。
「ここの自販機でその水買ってるの、俺だけだと思ってた」
目を細めながら、可笑しそうに彼が言う。
その何気ない言葉に、初めて彼を見た日と同じく、のどの奥が熱くなるような心地がした。
あの、いつも青空を映している瞳。
その瞳で、彼が私を見ている。
彼の世界に私がいる。
嘘みたい、嘘みたい、信じられない。
夢のような光景を前にして、自分の心臓が悲鳴を上げるように、その鼓動を早めていくのが分かる。
「……これ、差し上げます」
「えっ?」
熱に浮かされた私は、勇気を振り絞って、買ったばかりのミネラルウォーターを彼に押しつけた。
受け取った彼は、驚きと困惑の混じった表情をしている。
「無理、しないでくださいね。応援してます」
たったそれだけを口にして、彼からの返事を待たずに、私は逃げるようにしてその場を走り去った。
これ以上彼に見つめられたら、本気で心臓が壊れてしまうと思った。
先ほど下りてきたばかりの階段を、勢いよく三階まで駆け上がる。
苦しいくらいに息が上がったまま、涙が溢れてくるのを止められない。
きっと彼には変な女だと思われただろう。
しかし、そのことが悲しいわけではなかった。
むしろこれは、嬉し涙だったのだ。
彼に、応援してると言えた。
それはずっと密かに募らせていた気持ちの内の、ほんの1パーセントにすぎないかもしれない。
けれども自分の想いを、初めて彼自身に伝えることができたのだ。
それだけで、私は十分幸せだった。
踊り場の窓から射し込んだ光が、私の背中を照らす。
いつもと違う夏が、もうそこまで来ていた。
風が吹いている。
あたたかくも冷たくもない、緑の匂いを含んだゆるやかな風だ。
風はたくさんの小さな花びらをまといながら、妻のひとつに結った髪を揺らし、僕の白いシャツを靡かせていた。
「この花の名前は憶えてる?」
ちょうど道の傍に咲いていた花を指差して、隣を歩く彼女に聞いてみる。
「憶えているわ。“桜”でしょう?」
すると彼女はまるで子供のように、得意げな顔で答えた。
彼女はなんでも知っている。
晴れた日の空が“青色”だということも、真っ赤に熟れた林檎が“甘い”ということも。
「毎年ね、春になると、君とここの桜を眺めに来ていたんだ」
「それは…………憶えていないわ」
ただ、自分のことだけは何ひとつ憶えていないのだ。
きっかけは交通事故だった。
車にはねられ、強く頭を打った彼女は、長く生死をさまよった末に、奇跡的な回復を遂げてくれたものの。
まるでそんな奇跡と引き替えたかのように、目を覚ましたときには、自分に関する全ての記憶を失っていたのだ。
名前や生い立ち、好きなものや嫌いなもの。
そして夫である僕のことも、すべて。
僕ら以外に桜の下を歩いている者はおらず、辺りは小さな風の音しかしなかった。
彼女はつま先立ちになり、桜の枝に顔を寄せて微笑んでいる。
「私、この花が好きだわ。きっと前の私もそうだったはずよ」
「うん。春に咲く花の中で、君は桜が一番好きだった」
「やっぱり。でも、そうよね。私が私であることに変わりはないんだもの」
そう、記憶をなくしたこと以外、彼女は何も変わっていない。
ゆったりとした話し方も、人の目をじっと見る癖も。
だから時々、記憶喪失なんて嘘なのではないかと錯覚することがある。
けれどやはりそんなことはなくて、悲しい現実はいつだって僕の隣にあった。
「離婚したほうがいいんじゃないか」
その言葉を言い出したのは誰だっただろうか。
僕や彼女の両親か、親しくしている友人か、はたまた周囲の者は全員だったかもしれない。
僕らは若いし、まだ子供もいなかった。
僕は彼女に忘れられてしまい、彼女の中にはもう、僕への愛情はない。
そんなものはもう夫婦とは呼べないだろうと、みな口を揃えて言った。
けれど僕から彼女に離婚を言い渡すことはできなかった。
だからこの件は、記憶を失った彼女に決めてもらうことにしたのだ。
そんな責務を負わせる代わりに、僕は彼女が選んだことは全てを尊重しようと思った。
たとえそれが、二人の別れであったとしても。
「私、いろんなことを忘れてしまったわ。きっとなくしたくない記憶だって、たくさんあったはずなのに」
桜から僕へと視線を移した彼女は、困ったような顔でそう言った。
「でもね、寂しいことや悲しいことばかりではないのよ。記憶がないおかげでね、まるで生まれ変わったみたいに、毎日を新鮮に感じるの」
まるで世界を知らない赤ん坊のような無垢な顔で、彼女は笑う。
空の青や林檎の味を知っていても、それらを好きだった自分のことは憶えていない。
だからこそ日常における普遍的な事象でも、彼女は素直に感動できるのだ。
新しく始まった人生を彼女は少しずつ受け入れ、そして楽しもうとしていた。
「お気楽な女だって、笑う?」
「いいや。僕は君のそういうところが――」
そこまで言って、僕は思い直し、口を閉ざした。
記憶を失ったとしても、僕にとって彼女が愛する女性であることに変わりはない。
しかし彼女にとっての僕は、見ず知らずの頼りない男なのだ。
夫だと言っても困らせてしまうだけだっただろう。
彼女の新しい人生にきっと、僕はいない方がいい。
それは分かってる、でも。
――傍にいたい。
――傍にいてほしい。
隠していた気持ちが溢れそうになるのを、僕は必死に抑えた。
こんな気持ちに気づいたら、優しい彼女は僕の元を去ろうとはしないだろう。
けれど彼女の良心につけ込むような真似を、僕はどうしてもしたくはなかった。
「……どうしてかしら」
押し黙った僕を不思議そうに見つめた彼女は、それから突然、僕との距離を少しずつ詰めた。
一歩二歩と近づいて、やがて人が一人入るかどうかの距離で向かい合う。
そしてその大きな目で僕をじっと見つめると、「不思議ね」と呟いた。
「あなたのことは何も憶えていないのに、あなたが笑うと私も嬉しくなるし、あなたが切ない顔をすると私まで悲しくなるのよ」
「え……?」
「だから、そんな顔しないで?」
彼女はゆっくりとした動作で、僕の頬を両手で包んだ。
冷え性のせいで、いつも冷たい彼女の手。
よく知ったその温度だって、何も変わっていない。
でも、変わってしまった。
僕たちは大きく変わってしまったのだ。
ただ、愛していただけだ。
彼女を愛していただけだったはずなのに、突きつけられる現実はどうしようもなく残酷だ。
噛みしめて耐えてみても、堪えきれなかった涙がぼたりと零れる。
そのままじわじわと溢れては、地面の色を変えていった。
「ねぇ。私ね、分かったことがあるの」
悲愴的な僕とは対照的に、穏やかなままの彼女は、場にそぐわないくらいの明るい声で呟いた。
僕の頬に手を添えたまま、流れ落ちる涙を親指でぬぐってくれている。
「分かったこと……?」
「ええ。私、思い出せなくったって、好きだったものはもう一度好きになるのよ。空も、林檎も、桜もそう」
すると突然、緩やかだった風が、ぶわりと大きく吹き荒れた。
桜の木々が盛大に揺れ、わさわさと音を立てる。
「だからね」
彼女の声が、そんな木々の音にかき消されそうになり、僕は慌てて耳を澄ました。
泣き顔のまま、真剣な表情になった僕が面白かったのだろうか。
彼女は、くすりと笑うと。
「きっと私は、あなたのことも、もう一度好きになるの」
一呼吸置いてから、確信めいたようにそう言った。
風に煽られたたくさんの花びらが、ひらひらと舞い落ちてくる。
薄紅の世界で照れたように笑う彼女の姿が、涙で滲んだ。
曖昧になりそうな彼女の輪郭を、確かめるように抱きしめる。
耳元で響く、楽しげな声。
それは確かに紛れもない、愛する彼女のものだった。
橋野は美少年だ。
そう言うと彼は決まって不満げな顔をするのだけれど(橋野はボクサーやレスラーのような、自分とは違う猛々しい男に憧れているからだ)、それでも美しいものは美しいのだから仕方がない。
色素の薄い髪色も、小柄で線の細い体形も、橋野を形作るものすべてが、私には繊細で尊いもののように思えた。
「橋野って綺麗な顔してるよね」
「またその話?」
脈絡もなく前の席の私から話しかけられた橋野は、眉根を寄せながら、その整った顔を思いきり歪めた。
そんな表情さえ麗しいのだから、やはり彼は本物の美少年だと思う。
「安達は本当に俺の顔が好きだね」
「好きって言うか、もはや信仰してるんだよね。神々しくて宗教画の中の天使みたい。たまに拝みたくなるもん」
「何それ頭ダイジョウブ?」
本気で憐んでいるような目をしながら、橋野が気だるげに頬杖をつく。
まばたきのたびに音がしそうなほど長いまつげが、彼の顔に影を落としていた。
「あっ、でも顔だけじゃなくて、もちろん中身も好きだよ」
「はあっ!?」
橋野の白い頬がほのかに染まっていくのを、ただ、綺麗だなと思いながら見つめる。
彼はいつも澄ました顔をしているけれど、私の発言だけで、こんなふうにころころと表情を変えてくれるのだ。
そんな彼を見るのが、私はとても好きだった。
「好き好き大好きあいらーびゅー」
私のふざけた返答に、橋野があからさまなため息を吐く。
橋野は美少年だ。
それに素直で、とてもかわいい。
「はっしのー!」
私は基本的に、いついかなる場合でも、橋野の姿を見かけたら話しかけずにはいられない。
もうここまでくると、己に課せられた使命のようなものだと思っている。
放課後、美術室の窓際で絵を描く橋野を見つけた私は、陸上部の部活中であるにもかかわらず彼の元へと駆け寄った。
「やっぱ美少年は何をしてても美しいね!」
「別に、絵を描いてるだけでしょ。安達は何してんの?」
「私は外周をランニング中」
「じゃあサボってないで走りなよ」
「橋野を見かけたら話しかけずにいられなくて」
そう言うと、橋野は私から視線を逸らして黙り込んだ。
あ、その照れて困ったような顔もかわいい。
こんな表情を見ることができたのだから話しかけた甲斐があったなぁと、私は一人でほくそ笑む。
「馬鹿なこと言ってないで。はい、サヨナラ。部活ガンバッテ」
「もう冷たい! そんなところも好きっ!」
冷たくあしらわれたことに文句を垂れるものの、たしかにこれ以上は絵を描くことに集中している橋野に悪いだろう。
そう思い、ふたたび炎天下の外周ランニングに戻ろうと、素直に踵を返す。
しかし先ほどまで軽快に動いていたはずの足は、なぜだか絡まるようにもつれてしまった。
そのまま激しくすっ転び、右腕を下にして倒れる。
「安達っ」
体中に衝撃が走ったのと同時に、背後から橋野の焦った声が聞こえた。
やばい、橋野に心配かけちゃう。
早く立ち上がらないとと思うものの、私の体は糸の切れた操り人形のようにぴくりとも動かせなかった。
「安達、大丈夫っ? 怪我してない!?」
美術室の窓から出てきてくれたらしい橋野が、私の顔に影を落とすようにしゃがむ。
彼が声をかけてくれているのは分かるものの、頭の中がぐらぐらと揺れているように感じて、上手く声が出せない。
「立てないの? 俺の声聞こえてる?」
「うん……」
「貧血? 熱中症かな? ほら、肩に掴まって」
「うん……」
「返事が曖昧……ちょっとごめんね」
すると橋野は私の背中と膝下に腕を差し入れ、ひょいと持ち上げた。
それに驚いてる暇もなく、彼は校舎に向かってスタスタと進んでいく。
「はし、の」
「じっとしてて。保健室まで連れていくから」
冷静に言い切った橋野に、私は何も言い返すことができなかった。
橋野は美少年だ。
吹けば飛んでしまいそうな儚げな容姿をしている。
体格だって、女子の私とほとんど変わらないどころか、私より華奢に見えるくらいなのに。
「ちゃんと掴まっててよ」
だからこんなふうに、人を軽々と持ち上げられるだなんて思わなかった。
体を預けた橋野の制服から絵の具の匂いがして、なんだか胸が苦しくなる。
こんなことになるなら、もう少しダイエットをしておくんだった。
この期に及んでそんなことを考えながら、橋野に自分の鼓動が聞こえませんようにと願って、私はゆっくりと目を閉じた。
「先生、席を外しているみたい」
橋野に抱えられていた私の体は、保健室のベッドの上へと静かに下ろされてから、備えてあった布団をかけられた。
消毒液のような独特の匂いに包まれ、うっすらと目を開ける。
すると橋野が心配そうに私の顔を覗き込んでいるのが見えた。
「ありがと橋野……」
「具合はどう?」
「大丈夫……ちょっとフラついただけ」
「本当に? うーん、ちょっと熱っぽいかもしれない」
気がつくと、橋野の手が私の額に触れていた。
その冷たくかさついた感触に、思わず体が跳ねる。
それはただ驚いただけで、触れられたことが嫌だったわけではないのだけれど、橋野はそうは思わなかったのか、気まずそうな顔をして手を引っ込めてしまった。
「ごめん、仮にも女子に軽々しく触っちゃって」
「仮にもって何……正真正銘の女子だから……」
「軽口叩けるくらいなら平気か。ちょっと水飲んでて。俺、先生呼んでくる」
「待っ……」
そう言って保健室を出て行こうとする橋野のワイシャツを、気づけば私は慌てて掴んでいた。
ほとんど無意識の上での行為だったが、まるで彼に甘えているようで、どうしようもなくいたたまれない心地になる。
いや、これはその、体調不良による心細さ的なアレで、別に甘えてるとか、そういうことじゃないから。
頭の中でそんな言い訳じみた言葉を並べて、おそるおそる橋野の顔を仰ぎ見る。
するとなぜかきょとんとした顔をしていた橋野は、ふいにベッドの端へと腰をかけた。
「大丈夫だよ。ここにいるから」
日頃のお返しとばかりに揶揄われると思ったものの、橋野は私の行為を笑うことはせず、むしろ至極優しく微笑んだ。
色素の薄い彼の虹彩が、西日を受けてきらきらと光っている。
死に際に現れる天使は、もしかしたらこんな姿をしているのかもしれない。
そんな馬鹿げたことを、大真面目に考える。