「諒! 諒!」
 叫びながら駆け寄った窓の桟をつかみ、遥か遠い地面を見下ろす。

 そこにもし、見るも無残になった諒の姿があったら――と背筋が凍るような思いだったのに、窓から勢いよく上半身を乗り出した私とおでこがくっつきそうなほど近くに、諒の顔はあった。
「やあハニー……」

「きゃああああ!」
 何が起こったのだか、よくわからない。
 諒がいきなり窓から飛び下りて。
 ここが特別棟の四階である以上、そんなことをしたらとんでもないことになるはずで。
 なのにその諒は、私の目の前で、何事もなかったかのように元気に手を振る。

 目の前の可愛い笑顔からゆるゆると彼の足元に視線を下ろして、私はようやくことの真相を知った。
 諒は、三階の窓の上に幅1メートルくらいの広さで造られた庇の上に立っていた。
 外から見たら真四角で、どこを見ても窓の外には何もないと思っていた特別棟だったが、どうやら三階の南向きの窓にだけは、庇があったのらしい。

(三階は……ええっと、視聴覚室? そうか……暗室を作る時のために、あらかじめ庇で光を遮ってあるのかな?)
 いつのまにか悠長にそんなことを考えている自分を、私はハッと追い払う。

(いや……そうじゃなくって!)
 キッと鋭い眼差しを諒に向けた。
「あのね……急に何を……!」
「するのよ! ビックリするじゃない!」と大声で怒鳴りつけたかったのに、そうは出来なかった。

 私とほぼ同時に窓に駆け寄っていた三年生のまどかさんが、私の隣で両手で顔を覆って泣き出したのだ。
「柿崎先輩……!」
 
 そのまどかさんに向かって、諒は下から手を差し伸べた。
「泣くなよ澤上……」

 聞こえて来たのは確かに諒の声だったのに。
 差し伸べられた手も確かに諒の手だったのに。
 ちょっと悲しそうな表情で彼女を見上げる顔はとても諒には見えなかった。 
 諒の体であるにもかかわらず、そこに立っていたのは、明らかに他の『誰か』だった。

「俺ってほんっとバカだよな……この庇が付いてるのは、南側の窓全部だと思ってたんだ……だからちょっと驚かしてやろうと思って、空き部屋の掃除をしてた時に、友達の前で今みたいに飛んで見せたんだ……」
 苦笑いのような表情から、彼はキュッと唇を噛みしめた。
「でも、一番西端の部屋の下には庇がなかった……」

 私の心臓がドキリと跳ねた。
(一番西端って……今、私たちが『HEAVEN』として使ってる部屋じゃないのよ……!)
 驚きの事実に息をのむ。

「だから澤上が言ってくれたみたいに、自殺なんかじゃないから! 絶対に違うから!」
 キリッと彼女を見上げる諒に向かって、まどかさんは頷いた。
「うん。うん」
 泣きながら何度も何度も頷いた。

「コンクールの本選に残って……ようやく澤上も同じ学校に進学して来るって時に、俺が自殺なんてするはずない……!」
「うん……うん……!」
「ごめんな……俺、ほんっとバカでごめん……」
 まどかさんは俯きながら長い髪を揺らして、何度も何度も首を横に振った。

 その場にいて二人の話を聞いているのは、なんだか違うような気がして、私は自然と後ろに下がった。
 まどかさんと一緒に来た三年生の男の人も、廊下から教室の中に入って来たところで、呆然と立ち尽くしている。
 彼も今にも泣き出しそうな表情をしていた。

「裕太、そこにいるだろ? ……ごめんちょっとここから引き上げて」
 窓の外から呼びかけられて、ハッとしたように裕太さんは動き出した。
 まどかさんの隣に立って手を伸ばし、真っ暗な窓の向こうから諒を――いや、諒の中にいる『柿崎さん』という人を引き上げる。

「ありがとう」
 再び音楽室の中に帰って来た柿崎さんは、にっこりと笑ってそう言ってから、三年生の二人に向かって深々と頭を下げた。

「話ができてよかった……どうしても二人にだけは伝えたかったんだ……俺が俺だってわかってくれて……話を聞いてくれてありがとう……」
「先輩!」
 ポロポロと涙を零すまどかさんの隣で、裕太さんもこぶしを握り締めて深く俯いた。
 
 
「やあ……なんだか恥ずかしいところを見せちゃったね……」
 しばらく話をした後、三年生の二人が音楽室を出て行ってから、諒の中の『柿崎さん』は、おもむろに私に向き直った。

「学年的には君より三つ上になるのかな……? 柿崎真也です……」
 ペコリと頭を下げられたので、私も思わず頭を下げる。

「あ……近藤琴美です……」
 中身は別の人だとわかっていても、私の名前なんてあきあきするぐらいに知っている諒相手に自己紹介しているみたいで、なんだか妙な気分だった。

「話はだいたいわかったと思うんだけど……そういうわけで、君にも、この『諒君』にも迷惑をかけた……あとでよろしく言っといてね……」
 パチリと片目をつむって見せられて複雑な心境になる。

「それって……もう先輩は諒の中からいなくなるってことですか……?」
 柿崎先輩は笑いながら小首を傾げた。
「うーん。確信があるわけじゃないんだけど……こういう場合は心残りが解消されたら成仏するもんなんじゃないの……? だから多分、もうすぐお迎えが来るんじゃないかなあ……?」
「そうですか……」
 沈んだ声を出した私に、先輩はニッコリ微笑んだ。

「何? ひょっとして寂しくなっちゃった……?」
「そんなことはないです!」
 憤然と顔を上げたら、冗談ぽく肩を竦められた。

「ただ……本当に、もうこれでいいのかなって思って……」
 先を促すように私の顔をじっと見つめている視線から目を逸らさずに、私はさっきから考えていたことを彼に告げた。

「だって先輩……まどか先輩たちと昔話で盛り上がっただけで、肝心なこと言ってないじゃないですか……」
「肝心なこと……?」
「はい……好きだったんじゃないんですか? まどか先輩のこと……それなのにそんなこと一言も……」
 先輩はすっと人差し指を伸ばして、私の唇に当て、「それ以上は言わないように」という意志を示した。

「俺はもう死んでる人間なんだ……今さら言ったってどうにもならないこともある……」
「でも……!」
 真っ暗な音楽室の中に射しこんでくる月の光を背に受けて、先輩は寂しそうに笑った。

「伝えたって悲しくさせるだけの想いなら、伝えないほうがいい……」
「………………」
 それ以上食い下がることは、私にはできなかった。
 
 
 柿崎先輩とまどか先輩と裕太先輩は、幼馴染だったんだそうだ。
 二つ年下の二人を、柿崎先輩は同じぐらい大好きだと笑った。

「裕太が俺と一緒で、まどかのことを好きなのは子供の頃から知ってた……いつかは殴りあいでもするかななんて、冗談みたいに考えてた……こんなことになって、すごく悔しくもあるけど、ホッとしてもいる……どうしたって俺に遠慮しちゃう裕太相手じゃ、ほんとは喧嘩だってできなかっただろうし……だからいいんだ。もう余計なことは何も言わなくていい……」
「先輩……」
 彼は寂しそうに切なそうに、でも本当に綺麗に笑った。

「大切なのは、できる時に精一杯のことをやっておくことだよな……変な意地張ったりしないで、プライドなんか捨てて、正直な気持ちを相手に伝えておくことなんだって、今だからわかるよ……だから体を貸してもらったお礼に、この『諒君』を俺なりに手伝ってやったつもりなんだけど……」
「…………?」
 首を傾げる私に向かって、先輩は一歩ずつ近づいてくる。

 全身から漂うなんだか変な雰囲気と、たった今聞かされたばっかりの意味深な言葉に、どうしようもなく胸がドキドキする。
「だからハニー……」
 背中がむず痒くなるようなセリフも、こんな幻想的な月光の中じゃ、あまり場違いには思えないのはなぜだろう。

 でも人選がまちがってる。
 こんな素敵なシュチュエーションで、見つめあっているのが私と諒だってのが、どう考えてもおかしい。
「あの、先輩……?」

 恐る恐る呼びかけた私の両肩を、先輩がガシッとつかんだ。
「アイラブユー。ハニー」

(この上なく真面目な顔で諒が私にそんなことを言うなんて、絶対に違うから!)
 さっさと逃げ出そうとするのになかなかそうはできない。
 小柄なくせに諒のやつ、結構力がある。

「ちょ、ちょっと待って!」
 必要以上に近づいてくる可愛い顔に心底焦って、私は諒の体を押し戻そうとするのだが、ピクリとも動かない。

「先輩! 先輩ってば! ぎゃああああ!」
 自分のすぐ目の前で目を閉じた諒の長い睫毛を見つめながら、私は悲鳴を上げた。

 その瞬間、私と諒の顔の間に大きなてのひらが割って入った。
「ストップ。さすがにこれはやりすぎでしょ、先輩」
 諒の顔を大きな手が押し戻す様子を、呆然と見つめる私の耳に、よく知る声が聞こえてくる。

(これってまさか……!)
 ガバッと背後をふり返った私は、色素の薄い綺麗な瞳とバッチリ目があって、慌ててその広い背中の向こうに逃げ込んだ。

「貴人!」
 ギュッと上着の背中の部分を力任せにつかむと、貴人が小さく息を吐く。
「すっかり恐がっちゃってるじゃないですか……遊ばないで下さいよ……」
 諒の中の柿崎先輩は、貴人の右手一本で後ろに下げられて悔しそうに手足をバタバタさせていた。

「遊びなんかじゃないさ。ほんとに、お礼にと思ったんだ……! だってこの『諒君』の頭の中って、彼女のことでいっぱいなんだよ……?」
「だけど実際……諒と琴美は恋人同士なんかじゃないです……」
「えっ? まさか片思い中だったの? ……じゃあ悪いことしたかな……?」
「……先輩」
 深々とため息をついた貴人の声が、いつもより棘があるような気がするのは気のせいだろうか。
 うしろ姿しか見えない私には、なんとも判断がつかない。

「そういうことは、本人にしかわからないんだし……もしたとえそうだとしても、先輩だったらそれを他の人に代弁して欲しいですか?」
「絶対に嫌だね」
「でしょう……? だったら少し察してあげて下さい……」
 柿崎先輩はハッとしたように瞳を瞬かせると、貴人に向かって頷いた。
 それからおもむろに私に向かって頭を下げた。

「ごめん。今まで俺が言ったことは全部忘れて下さい」
 私だってそんなことはわかってる。
 諒が私のことで頭がいっぱいなんて、悪口を考えてるのか、今度の試験でも勝ってやるぞと闘争心剥き出しなのか、おおかたそんなところだ。

(だけど散々私を振り回しておいて、『全部忘れて下さい』はないでしょう!)
「じょ、冗談じゃないわよ!!」
 叫ぶ私の声を背中に聞きながら、貴人の肩が小刻みに揺れ出す。

「ちょっと、貴人……?」
 つかんでいた上着を軽くひっぱりながら訝しげに問いかけたら、声に出して大笑いを始められた。

「もう! 貴人っ!」
 彼が現われた瞬間、どんなに嬉しかったかなんてことも忘れて、肩を揺すって大笑いする貴人に、私は抗議の声を上げた。
 
 
「で? 何がどうなって、俺は音楽室のピアノの前で寝てたんだよ?」
 無理な体勢で寝たためにすっかり凝り固まってしまった首をコリコリと鳴らしながら、諒は私たちにそう問いかけた。

 『七不思議合宿』二日目の朝。
 みんなで朝食を食べながら、今日これからの解散式について話を詰めていた『HEAVEN』のみんなは、全員がキッと寝不足の目を諒に向けた。

「いいよ、知らなくて! ……っていうか知らないほうがいいんじゃないの?」
 夏姫に冷たく言い放たれて、諒は不審げに首を捻る。

「なんだよそれ……どういう意味だよ?」
「だから! あんたは何も知らなくっていいってことよ!」
 力の限りに叫んだ私に向かって、諒はこの上なく嫌な顔をしてみせた。

「なんでお前にそんなこと言われなきゃなんないんだよ!」
 態度は劣悪そのものだったのに、不覚にもぐっと来た。

(あっ……いつもの諒だ……!)
 そう思っただけでホッとして、思わず気が緩んだ。

「げっ! なんで泣くんだ? お、おかしいだろ、おい……お前らしくないぞ……?」
「うるさい! なんとでも言って! あんたなんて……あんたなんて……!」
 涙が止まらない。
 悪態つかれて嬉しいなんて、自分でおかしいと思うけれども、しょうがない。
 約二週間ぶりに、本当の諒が帰ってきたようなものなんだから仕方がない。

「琴美……」
 隣に擦り寄ってきたうららを抱き締めて、私はポロポロと涙を零した。
「おい……」
 諒はすっかり気をそがれてしまったらしく、それ以上はもう文句を言わなかった。
 
 
 貴人が音楽室へと来てくれたあの後、待てど暮らせど『その時』は来なかった。
 ――本望を遂げた柿崎先輩が天に召され、諒の体から出て行ってくれる瞬間。

「おかしいな……なんでかな……?」
 首を捻る先輩に、貴人はニッコリ笑って提案した。

「先輩。ピアノ弾いたらどうですか? 参加出来なかったコンクール本選だって、かなり心残りだったんじゃないですか?」
「そうか! そうだな」

 嬉しそうにピアノの前に座った先輩の演奏は、夜が明けるまでずっと続いた。
 とっくに終わった『七不思議検証』の持ち場から、ピアノの音に惹かれて音楽室へと集まって来た『HEAVEN』の仲間たちは、私と貴人に付き合って、先輩のピアノを一緒に聞いてくれた。
 しかし先輩の膨大なレパートリーがなくなっても、諒の体にはまだ何の変化もない。

(ま、まだかしら……?)
 窓の向こうから眩しい朝日が射しこむようになった頃、じっと耐え続けているみんなの辛そうな様子を見ながら、智史君が口を開いた。

「どうですか……? もう、心残りはないですか?」
 額に汗を浮かべながら、肩で大きく息を繰り返している諒(中身は柿崎先輩)は、うんうんと頷いた。
「そんなもの、もうとっくにないよ!」  

 智史君はニッコリと微笑んだ。
 いつもは天使のようなその微笑みが、今日は眼鏡をかけていないにも関わらず、ちょっと黒いような気がしたのは、私の気のせいだろうか。
「じゃあ、そろそろ時間なんでうららを起こしますね」

(それが先輩といったいどんな関係が?)
 首を捻る私の目の前で、智史君は大事に腕に抱えていたうららの耳に口を寄せ囁いた。

「うらら。朝だよ……起きて」
 ピクリとうららの真っ白な頬が震えたかと思うと、パッチリと目も開いた。
「おはよう、うらら」
「おはよう、智史」
 あまりにも良すぎるうららの寝起きだが、完全な二人の世界を邪魔する気は私にはない。

 いつものことだと思って見て見ぬフリをしていた私の前を通り過ぎ、立ち上がったうららは真っ直ぐに柿崎先輩に近付いて行った。
 ピアノの前の椅子に座る先輩をチラリと見下ろし、智史君をふり返る。

「もう帰してもいいの?」
「ああ。本人がそう言ってたから」
 笑顔で答えた智史君に、うららは小さく頷くと、すっと柿崎先輩の額に手を当てた。

「帰りなさい。本来あるべき場所に」
 フッと諒の体から力が抜けるのが、見た目にもよくわかった。
 崩れるように床に倒れそうになった体を、剛毅が抱き止める。
 同時のに倒れたうららも、いつの間にか再び目を閉じ、智史君に抱きかかえられている。

「ごくろうさま……」
 眠るうららに向けられた智史君の笑顔が実はちょっと恐くて、私は言いたかった言葉を何ひとつ言えなかった。

(う、うららがお祓いみたいなことができるんだったら……最初っからそう言ってよ! 私の苦労はなに……? お小遣いはたいて買いこんだお守りと護符は、いったいなんだったの!)
 怒りの言葉は、一言も口には出せなかった。
 
 
「まあいいか……準備段階から全然覚えてないんだけど、企画が一つ終わったんだったら、それでいいってことで……」
 誰にも詳細を教えてもらえない諒は、どうやら開き直ることにしたようだ。

「キャンプだとか、旅行だとか、肝試しとかって希望はもう聞いたことになるんだろ? だったら結構、数も減っただろう……よしよし」
 腕組みする諒の目の前に、貴人が一枚の用紙を取り出した。

「それにこれもね……」
 用紙を貴人から受け取った諒は、声に出して読み上げる。

「なんだよ……『柿崎先輩に会いたい……』って……なんだこれ?」
「………………!」
 私は思わず貴人の顔を仰ぎ見た。

 貴人はニッコリと笑いながら頷いてくれた。
「叶ったよ……ね?」

「そうね……本当に良かったわ……」
 美千瑠ちゃんの呟きに、あちこちから賛同の声があがる。

「そうね……」
「そうだね」
 しみじみと言葉を交し合う仲間の中で、諒だけがムッと口を尖らす。

「なんだよ! 俺だけ仲間外れかよ!」
 繭香がチラリと諒に視線を向けた。

「どうしても知りたいんだったら琴美に聞け! それ以外の人間は教えることを禁じる!」
 いったいどんな権限での発言なのだろう。
 冷静に考えればおかしな話なのに、『HEAVEN』のみんなは繭香に逆らう気はない。
 ――それはグッと息をのみこんだ諒も一緒。

「わ、わかったよ!」
 クルリとみんなに背を向けた諒を大きな声で笑いながら、貴人は私に囁いた。
「いつか話してあげてよ」
「うん……」
 寝不足の頭は重く、体はクタクタだけれど、いつもどおりの貴人の笑顔と、いつもどおりの諒のむくれた顔が、妙に眩しい、爽やかな夏の朝だった。