『HEAVEN』主催の企画第二弾――『夏休みの学校に泊まって七不思議を検証しよう合宿』は、夏休みに入ってすぐの土曜日に開催された。
思い思いの大きな荷物を持って、夕方の学校に集合したのは総勢百名。
実はこれでも、今回は参加者を抽選にして、かなり人数を絞った。
みんなで食事をしたり七不思議を検証したりするぶんには、それ以上の人数でもまったく構わなかったのだが、寝床の確保ができなかったのである。
女子は武道場で、男子は体育館でそれぞれ雑魚寝とはいえ、暑い季節のこと、大人数を詰め込むには限界がある。
決局女子のほうの上限五十名にあわせて、男子も五十名にした。
「別に男子はもっと増やしてもいいんじゃないの?」
体育館に五十名だったら、まだかなり余裕があるのに――と思って提案してみたら、順平君にトントンと肩を叩かれた。
「琴美、そりゃひどいよ……男ばっかりで肝試しをするかわいそうな連中を作れってこと?」
「あっ……!」
なるほど、七不思議検証のグループは男女二名ずつで予定しているが、参加人数に偏りが出ると、男女比が変わってしまうのだ。
「そうか……それはちょっとお気の毒……」
おそらくは新しい出会いがないかとか、素敵な思い出ができはしないかとか、そのへんも期待して参加した人たちの、希望の芽を摘むことはできない。
「今回は泊りってことで、さすがに開催回数を増やすわけにはいかなくて、抽選に外れた人には本当申し訳ないんだけど……そのぶん、来てくれた人たちに楽しんでもらえるように頑張ろう!」
「うん!」
貴人の言葉に、みんなは決意も新たに頷いた。
私だって、私の隣にいる諒だって、もちろん普通に頷いていた。
夕方から始まった合宿のまず第一の日程――炊飯は、家庭科室を借りて、女子全員でおこなった。
メニューはキャンプの定番、カレー。
小学生だって作れる、最も簡単で誰が作っても失敗しないメニューのはずなのに、なぜか私は早々に家庭科室から追い出された。
「い、いいから……! 近藤さんは生徒会の仕事も忙しいだろうから、そっちに行ってていいよ!」
同学年の女の子たちに背中を押されて、首を捻りながらも家庭科室をあとにする。
「うん。じゃあお言葉に甘えて……」
エプロンを外し、三角巾を取りながら第一家庭科室から廊下に出たら、丁度第二家庭科室から繭香も出てきたところだった。
「藤枝さんは休んでていいからって言われたんだが……」
「私も……忙しいだろうからいいって……」
お互いに顔を見合わせて、大きなため息をついた。
「まあ……正直、私がいても何の役にも立たないからな……」
「うん。私も……」
邪魔者のいなくなった家庭科室で、調理は滞りなく進み、予定時間よりかなり早く、屋外でみんな揃って夕食の時間となった。
校内で大きな火を焚くことはできず、残念ながらキャンプファイヤーとはいかなかったが、大勢で集まって食べる食事は、ただそれだけで美味しかった。
カレーとサラダに加え、デザートのゼリーまであったのだから言うことはない。
「それって美千瑠のレシピだよ。カレー作りと平行して私とうららが作らされたんだ……」
もりもりと二杯目のカレーをほおばりながら、夏姫がそう教えてくれた。
(いかにも女の子らしいことが苦手そうな夏姫と、なんだか調理中も眠ってそうなうららでさえ、家庭科室から追い出されなかったのに……じゃあ私と繭香っていったいどれだけなの……?)
「気にするな。女の価値はそれだけじゃない」
繭香はもぐもぐとカレーを食べながら、案の定、私の表情を読んでそう言ってくれた。
けれど――。
(いや……見た目が人形みたいに綺麗な繭香はそうも言ってられるだろうけど……正直私は、ここは押さえておかないとダメでしょう……?)
この夏休みは、母に習って料理を始めてみようと、私はこっそり決意した。
今回『七不思議』の検証に際して、貴人と智史君を中心に我々『HEAVEN』が立てた計画はこうだ。
まず『HEAVEN』の十二人はそれぞれ受け持ちを決めて、その箇所にずっと待機している。
一般の参加者は、チェックシートを持って七つの箇所を好きな順番でまわる。
待機している役員に『来ましたよ』のサインさえもらえば、全てを駆け足でまわっても、ひとつの場所に長居してもそれは全然構わない。
百人――二十五組が一斉にスタートするとして、用意されている時間は三時間。
その時間内に、特別棟最上階の音楽室から、体育館裏の倉庫まで、参加者は急いでまわらなくてはならない。
「ごめん……本当はあまり知りたくないんだけど……生徒会としての仕事だから、知識として聞いておくわ……七不思議って何と何と何……?」
指折り数えながら質問した私に、智史君はニッコリ笑って一枚の紙をくれた。
それは、『七不思議の検証』に参加する人たちに配られたチェックシートだった。
校内の簡単な見取り図の上に、『七不思議』と呼ばれる箇所が記入してあり、ご丁寧に説明書きが施してある。
・夜中に勝手に鳴り出す音楽室のピアノ
・上りの時と下りの時で段数が異なる第一校舎二階から三階への階段
・階段の踊り場の鏡に映る人影
・人の話し声が聞こえる鍵がかかったままのトイレの個室
・誰もいないはずなのに人影が見える体育倉庫
・塗り込められた使用不可の扉
・二年一組の黒板に出て来る手形
ザッと見ただけで、背筋がゾクッとした。
「ご、ごめん……私やっぱり……」
宿泊場所の武道館で、明かりを煌々と点けて待っていたいと言いたかったのに、その用紙をよくよく見たら、言葉の途中で思わず違う悲鳴をあげてしまった。
「に、二年一組っ!? 本当に? 一学年六クラスで……全部で三十も普通教室はあるっていうのに……よりによってうちのクラス?」
眩暈を覚える私に、智史君はもう一度ニッコリと笑った。
「かなり有名な話なんだけど……やっぱり琴美は知らなかった?」
(やっぱりってなんだろう……やっぱりって……)
周りから見た自分という人間を、知れば知るほど悲しくなる。
「大丈夫だよ。琴美は俺が守るから」
背後から快活な声をかけられて、なんとも複雑な心境になった。
(違う!)
大声で叫んでしまいたいのを、必死に我慢する。
満面の笑みで私を見ている諒をふり返って、改めて腹が立った。
(諒は絶対にそんなこと言わない! 言うはずないもの!)
『お前……やっぱりバカだろう?』
こういう時には決まって私をバカにしていた諒の口癖。
心底呆れたような表情も、思い出すだけで腹が立つ言い方も、しっかりと私の記憶に残っている。
でも今はいない。
どこにもいない。
(この……諒の中に入ってる『誰か』のせいで!)
決意を込めて見つめる視線になどまったく気がつかず、諒なのに諒じゃないその『誰か』は、私の手をひっぱって歩き始めた。
「俺たちの受け持ちの音楽室って、ここから一番遠いじゃないか……早く行ってスタンバらなきゃ……な?」
スタスタと歩き続ける背中の後ろを歩きながら、私は唇を噛みしめた。
「ああっ! しまった!」
すでに特別棟四階――つまり『HEAVEN』と同じ階にある音楽室に到着してから、私は重大なことに気がついた。
(早く早くって急がせるもんだから……せっかく買ったお守りや護符を荷物の中に忘れてきちゃったじゃないのよ!)
諒じゃない諒への対応策としてわざわざ購入したんだったのに、これでは全然意味がない。
(どうしよう……取りに行く? でもなんて言って?)
葛藤しているうちに最初のグループがもう音楽室に来てしまって、私はその場から動けなくなった。
「はい、チェックシート下さい。チェックします」
おざなりに言いながら音楽室の箇所に丸をつけている諒を横目に見ながら、私は隅に座っていた。
到着したグループは一年生だろうか。
きゃあきゃあと恐がっている女の子たちを、男の子たちがちょっぴり頑張って先導していて実に初々しい。
(うん……これは確かに良いところ見せれたら、恋の一つや二つ生まれるかもしれないわね……)
頬杖をつきながら、私はそんなことを考えていた。
実際、私たちの仕事は『七不思議』の検証にやって来た人たちが危険な目にあったりしないように見張ることで、その他には特にやることもない。
誰も来ない時間帯が長く続くと、暇すぎて眠くなってくるほどだ。
なるべく諒と関わらないために、離れた所に座って会話もしないようにしているからなおさら――。
諒も諒で、やって来る参加者に応待している時以外は、黙って座っている。
きっと何かとんでもないことを言ったりしたりするんじゃないかと、心の準備をしていた私にとっては拍子抜けするほどだった。
「なんだ……やっぱりピアノなんて鳴り出さないじゃん……」
大方の参加者は音楽室にしばらく滞在した後、ホッとしたように、ガッカリしたようにそう言いながら出て行く。
教室の前の方に置かれたグランドピアノは蓋も閉まっているし、さすがにこれが鳴ることはないだろうと、私自身も思っていた。
(七不思議って言ったって……一つ一つ確かめていけば、どれも全部ただの噂でしたってことになるんじゃないかな……?)
もちろんそれで全然構わない。
参加者だってそのへんのところはきっとわかっているだろう。
ところが――。
予定の三時間も半分が過ぎ、思ったよりも多くの参加者が音楽室を訪れて、そろそろ残りは数組かという頃になって、諒が突然動き出した。
問題のピアノの前に行って、椅子に座ると鍵盤の蓋を開く。
なるべく二人きりの時には話しかけないでおこうと決意していた私も、さすがにこれを見逃すわけにはいかなかった。
「ちょっと諒……なにやってんの?」
諒――正確には諒なのに諒じゃない『誰か』は、こちらをふり返ろうともしない。
そのまま流れるような手つきでピアノを弾き始めた。
「ちょ、ちょっと!」
焦る私なんかまったく無視で、かなり難しそうな綺麗な曲を、悠々と弾いていく。
私はその突然の行動にもだが、あまりの上手さにも呆気にとられた。
(す、凄い! これって絶対に諒の実力じゃないわ……なに? 中にいる人はいったい何者なの?)
やめさせることも忘れて、しばし呆然と立ち尽くした私の後ろで、突然音楽室の扉がガラッと開き、飛び上がるほどにビックリした。
(ひええええっ!)
息を切らして駆け込んで来たのは、ついさっきまで音楽室でしばらく粘っていた三年生の女の人だった。
グループの人たちが先に進もうと言っても、「私は音楽室のピアノが鳴り出すまでここにいる」と主張して、かなりの時間滞在していた人。
それでも最後は仕方なく移動していったんだったのに――。
(諒がピアノ弾いたりするから、勘違いして戻って来ちゃったんだ!)
私は申し訳ない思いで頭を下げた。
「す、すみません……」
女の人の後を追って来たらしい同じグループの人は、呆れたように扉の向こうから音楽室の中を覗きこんだ。
「なんだよ……生徒会のヤツが弾いてるんじゃん……おどかすなよ……な? まどか。やっぱり幽霊なんかいないって……」
まどかと呼ばれた小柄な三年生の女の人は、ブルブルと首を横に振った。
「だって先輩が最後に練習してたソナタなんだもん……あなた誰? ひょっとして柿崎先輩?」
ピアノの前に座ったまま微動だにしていなかった諒の肩が、あからさまにビクリと跳ねた。
(…………諒?)
それでも何か口を開こうとはしない。
重苦しい沈黙を破ったのは、扉の向こうの三年生の男の人だった。
「まどか……そいつはどう見たって生徒会の二年だろ? 柿崎先輩は死んだんだって……音楽室のピアノの噂を聞いた時には、俺もひょっとして? って思ったりもしたけど……覚悟の自殺だったんだから、今さら出て来たりするはずないだろ?」
「「違う!!」」
否定の叫びは二方向から同時に聞こえた。
まどかという女の人と諒と。
「自殺なんかじゃない!」
ピアノを弾くのを止めて立ち上がった諒は、キッと扉の向こうの男の人を睨んだが、その大きな瞳にはみるみる涙が盛り上がった。
「そんな……そんなつもりじゃなかったんだ……!」
男の人から女の人へと視線を移すと、二人にクルリと背を向けて歩き出した。
音楽室の南側の窓に近づいていって鍵を開け、窓を開く。
「諒?」
嫌な予感に名前を呼ぶ私のほうをふり返って、ポロポロと涙を零しながら笑った。
「さよならハニー」
「…………は? ちょっと諒?」
反射的に思わず走り出した私が窓に到達する前に、開いた窓の上にひょいっと飛び乗ると、向こう側に向かって一歩を踏み出す。
――真っ暗な窓の外に向かって。
「諒!!」
私の叫びも虚しく、諒の体は四階の窓から外へと消えていった。
思い思いの大きな荷物を持って、夕方の学校に集合したのは総勢百名。
実はこれでも、今回は参加者を抽選にして、かなり人数を絞った。
みんなで食事をしたり七不思議を検証したりするぶんには、それ以上の人数でもまったく構わなかったのだが、寝床の確保ができなかったのである。
女子は武道場で、男子は体育館でそれぞれ雑魚寝とはいえ、暑い季節のこと、大人数を詰め込むには限界がある。
決局女子のほうの上限五十名にあわせて、男子も五十名にした。
「別に男子はもっと増やしてもいいんじゃないの?」
体育館に五十名だったら、まだかなり余裕があるのに――と思って提案してみたら、順平君にトントンと肩を叩かれた。
「琴美、そりゃひどいよ……男ばっかりで肝試しをするかわいそうな連中を作れってこと?」
「あっ……!」
なるほど、七不思議検証のグループは男女二名ずつで予定しているが、参加人数に偏りが出ると、男女比が変わってしまうのだ。
「そうか……それはちょっとお気の毒……」
おそらくは新しい出会いがないかとか、素敵な思い出ができはしないかとか、そのへんも期待して参加した人たちの、希望の芽を摘むことはできない。
「今回は泊りってことで、さすがに開催回数を増やすわけにはいかなくて、抽選に外れた人には本当申し訳ないんだけど……そのぶん、来てくれた人たちに楽しんでもらえるように頑張ろう!」
「うん!」
貴人の言葉に、みんなは決意も新たに頷いた。
私だって、私の隣にいる諒だって、もちろん普通に頷いていた。
夕方から始まった合宿のまず第一の日程――炊飯は、家庭科室を借りて、女子全員でおこなった。
メニューはキャンプの定番、カレー。
小学生だって作れる、最も簡単で誰が作っても失敗しないメニューのはずなのに、なぜか私は早々に家庭科室から追い出された。
「い、いいから……! 近藤さんは生徒会の仕事も忙しいだろうから、そっちに行ってていいよ!」
同学年の女の子たちに背中を押されて、首を捻りながらも家庭科室をあとにする。
「うん。じゃあお言葉に甘えて……」
エプロンを外し、三角巾を取りながら第一家庭科室から廊下に出たら、丁度第二家庭科室から繭香も出てきたところだった。
「藤枝さんは休んでていいからって言われたんだが……」
「私も……忙しいだろうからいいって……」
お互いに顔を見合わせて、大きなため息をついた。
「まあ……正直、私がいても何の役にも立たないからな……」
「うん。私も……」
邪魔者のいなくなった家庭科室で、調理は滞りなく進み、予定時間よりかなり早く、屋外でみんな揃って夕食の時間となった。
校内で大きな火を焚くことはできず、残念ながらキャンプファイヤーとはいかなかったが、大勢で集まって食べる食事は、ただそれだけで美味しかった。
カレーとサラダに加え、デザートのゼリーまであったのだから言うことはない。
「それって美千瑠のレシピだよ。カレー作りと平行して私とうららが作らされたんだ……」
もりもりと二杯目のカレーをほおばりながら、夏姫がそう教えてくれた。
(いかにも女の子らしいことが苦手そうな夏姫と、なんだか調理中も眠ってそうなうららでさえ、家庭科室から追い出されなかったのに……じゃあ私と繭香っていったいどれだけなの……?)
「気にするな。女の価値はそれだけじゃない」
繭香はもぐもぐとカレーを食べながら、案の定、私の表情を読んでそう言ってくれた。
けれど――。
(いや……見た目が人形みたいに綺麗な繭香はそうも言ってられるだろうけど……正直私は、ここは押さえておかないとダメでしょう……?)
この夏休みは、母に習って料理を始めてみようと、私はこっそり決意した。
今回『七不思議』の検証に際して、貴人と智史君を中心に我々『HEAVEN』が立てた計画はこうだ。
まず『HEAVEN』の十二人はそれぞれ受け持ちを決めて、その箇所にずっと待機している。
一般の参加者は、チェックシートを持って七つの箇所を好きな順番でまわる。
待機している役員に『来ましたよ』のサインさえもらえば、全てを駆け足でまわっても、ひとつの場所に長居してもそれは全然構わない。
百人――二十五組が一斉にスタートするとして、用意されている時間は三時間。
その時間内に、特別棟最上階の音楽室から、体育館裏の倉庫まで、参加者は急いでまわらなくてはならない。
「ごめん……本当はあまり知りたくないんだけど……生徒会としての仕事だから、知識として聞いておくわ……七不思議って何と何と何……?」
指折り数えながら質問した私に、智史君はニッコリ笑って一枚の紙をくれた。
それは、『七不思議の検証』に参加する人たちに配られたチェックシートだった。
校内の簡単な見取り図の上に、『七不思議』と呼ばれる箇所が記入してあり、ご丁寧に説明書きが施してある。
・夜中に勝手に鳴り出す音楽室のピアノ
・上りの時と下りの時で段数が異なる第一校舎二階から三階への階段
・階段の踊り場の鏡に映る人影
・人の話し声が聞こえる鍵がかかったままのトイレの個室
・誰もいないはずなのに人影が見える体育倉庫
・塗り込められた使用不可の扉
・二年一組の黒板に出て来る手形
ザッと見ただけで、背筋がゾクッとした。
「ご、ごめん……私やっぱり……」
宿泊場所の武道館で、明かりを煌々と点けて待っていたいと言いたかったのに、その用紙をよくよく見たら、言葉の途中で思わず違う悲鳴をあげてしまった。
「に、二年一組っ!? 本当に? 一学年六クラスで……全部で三十も普通教室はあるっていうのに……よりによってうちのクラス?」
眩暈を覚える私に、智史君はもう一度ニッコリと笑った。
「かなり有名な話なんだけど……やっぱり琴美は知らなかった?」
(やっぱりってなんだろう……やっぱりって……)
周りから見た自分という人間を、知れば知るほど悲しくなる。
「大丈夫だよ。琴美は俺が守るから」
背後から快活な声をかけられて、なんとも複雑な心境になった。
(違う!)
大声で叫んでしまいたいのを、必死に我慢する。
満面の笑みで私を見ている諒をふり返って、改めて腹が立った。
(諒は絶対にそんなこと言わない! 言うはずないもの!)
『お前……やっぱりバカだろう?』
こういう時には決まって私をバカにしていた諒の口癖。
心底呆れたような表情も、思い出すだけで腹が立つ言い方も、しっかりと私の記憶に残っている。
でも今はいない。
どこにもいない。
(この……諒の中に入ってる『誰か』のせいで!)
決意を込めて見つめる視線になどまったく気がつかず、諒なのに諒じゃないその『誰か』は、私の手をひっぱって歩き始めた。
「俺たちの受け持ちの音楽室って、ここから一番遠いじゃないか……早く行ってスタンバらなきゃ……な?」
スタスタと歩き続ける背中の後ろを歩きながら、私は唇を噛みしめた。
「ああっ! しまった!」
すでに特別棟四階――つまり『HEAVEN』と同じ階にある音楽室に到着してから、私は重大なことに気がついた。
(早く早くって急がせるもんだから……せっかく買ったお守りや護符を荷物の中に忘れてきちゃったじゃないのよ!)
諒じゃない諒への対応策としてわざわざ購入したんだったのに、これでは全然意味がない。
(どうしよう……取りに行く? でもなんて言って?)
葛藤しているうちに最初のグループがもう音楽室に来てしまって、私はその場から動けなくなった。
「はい、チェックシート下さい。チェックします」
おざなりに言いながら音楽室の箇所に丸をつけている諒を横目に見ながら、私は隅に座っていた。
到着したグループは一年生だろうか。
きゃあきゃあと恐がっている女の子たちを、男の子たちがちょっぴり頑張って先導していて実に初々しい。
(うん……これは確かに良いところ見せれたら、恋の一つや二つ生まれるかもしれないわね……)
頬杖をつきながら、私はそんなことを考えていた。
実際、私たちの仕事は『七不思議』の検証にやって来た人たちが危険な目にあったりしないように見張ることで、その他には特にやることもない。
誰も来ない時間帯が長く続くと、暇すぎて眠くなってくるほどだ。
なるべく諒と関わらないために、離れた所に座って会話もしないようにしているからなおさら――。
諒も諒で、やって来る参加者に応待している時以外は、黙って座っている。
きっと何かとんでもないことを言ったりしたりするんじゃないかと、心の準備をしていた私にとっては拍子抜けするほどだった。
「なんだ……やっぱりピアノなんて鳴り出さないじゃん……」
大方の参加者は音楽室にしばらく滞在した後、ホッとしたように、ガッカリしたようにそう言いながら出て行く。
教室の前の方に置かれたグランドピアノは蓋も閉まっているし、さすがにこれが鳴ることはないだろうと、私自身も思っていた。
(七不思議って言ったって……一つ一つ確かめていけば、どれも全部ただの噂でしたってことになるんじゃないかな……?)
もちろんそれで全然構わない。
参加者だってそのへんのところはきっとわかっているだろう。
ところが――。
予定の三時間も半分が過ぎ、思ったよりも多くの参加者が音楽室を訪れて、そろそろ残りは数組かという頃になって、諒が突然動き出した。
問題のピアノの前に行って、椅子に座ると鍵盤の蓋を開く。
なるべく二人きりの時には話しかけないでおこうと決意していた私も、さすがにこれを見逃すわけにはいかなかった。
「ちょっと諒……なにやってんの?」
諒――正確には諒なのに諒じゃない『誰か』は、こちらをふり返ろうともしない。
そのまま流れるような手つきでピアノを弾き始めた。
「ちょ、ちょっと!」
焦る私なんかまったく無視で、かなり難しそうな綺麗な曲を、悠々と弾いていく。
私はその突然の行動にもだが、あまりの上手さにも呆気にとられた。
(す、凄い! これって絶対に諒の実力じゃないわ……なに? 中にいる人はいったい何者なの?)
やめさせることも忘れて、しばし呆然と立ち尽くした私の後ろで、突然音楽室の扉がガラッと開き、飛び上がるほどにビックリした。
(ひええええっ!)
息を切らして駆け込んで来たのは、ついさっきまで音楽室でしばらく粘っていた三年生の女の人だった。
グループの人たちが先に進もうと言っても、「私は音楽室のピアノが鳴り出すまでここにいる」と主張して、かなりの時間滞在していた人。
それでも最後は仕方なく移動していったんだったのに――。
(諒がピアノ弾いたりするから、勘違いして戻って来ちゃったんだ!)
私は申し訳ない思いで頭を下げた。
「す、すみません……」
女の人の後を追って来たらしい同じグループの人は、呆れたように扉の向こうから音楽室の中を覗きこんだ。
「なんだよ……生徒会のヤツが弾いてるんじゃん……おどかすなよ……な? まどか。やっぱり幽霊なんかいないって……」
まどかと呼ばれた小柄な三年生の女の人は、ブルブルと首を横に振った。
「だって先輩が最後に練習してたソナタなんだもん……あなた誰? ひょっとして柿崎先輩?」
ピアノの前に座ったまま微動だにしていなかった諒の肩が、あからさまにビクリと跳ねた。
(…………諒?)
それでも何か口を開こうとはしない。
重苦しい沈黙を破ったのは、扉の向こうの三年生の男の人だった。
「まどか……そいつはどう見たって生徒会の二年だろ? 柿崎先輩は死んだんだって……音楽室のピアノの噂を聞いた時には、俺もひょっとして? って思ったりもしたけど……覚悟の自殺だったんだから、今さら出て来たりするはずないだろ?」
「「違う!!」」
否定の叫びは二方向から同時に聞こえた。
まどかという女の人と諒と。
「自殺なんかじゃない!」
ピアノを弾くのを止めて立ち上がった諒は、キッと扉の向こうの男の人を睨んだが、その大きな瞳にはみるみる涙が盛り上がった。
「そんな……そんなつもりじゃなかったんだ……!」
男の人から女の人へと視線を移すと、二人にクルリと背を向けて歩き出した。
音楽室の南側の窓に近づいていって鍵を開け、窓を開く。
「諒?」
嫌な予感に名前を呼ぶ私のほうをふり返って、ポロポロと涙を零しながら笑った。
「さよならハニー」
「…………は? ちょっと諒?」
反射的に思わず走り出した私が窓に到達する前に、開いた窓の上にひょいっと飛び乗ると、向こう側に向かって一歩を踏み出す。
――真っ暗な窓の外に向かって。
「諒!!」
私の叫びも虚しく、諒の体は四階の窓から外へと消えていった。