「私……諒が智史君と話してる姿を、あんまり見たことないんだけど……?」
なんだそんなことかと言わんばかりに、諒は肩を竦めた。
「そりゃそうだろ。実際話してないんだから……」
当たり前のように言われるのでここぞとばかりに切りこむ。
「どうして?」
「どうしてって……」
いつものように大きなため息をつかれるのか。
それとも呆れたような目を向けられるのか。
待ち構える私の目の前で、諒は今までにない反応をみせた。
「なんていうのか……根本的に何もかもが違う気がするんだよな……だから話したって俺は頭にくるばっかりだろうし、智史は智史できっとそんこと事まったく気にしないんだろう……で、その態度に俺はますます腹が立つと……それってただの悪循環だと思わないか?」
まるで相談事を持ちかけるかのように、私に真正面から問いかけてくるから、なんだか調子が狂ってしまう。
「で、でも……実際に話してみたらそうはならないかもしれないでしょ?」
「いいや。最初から最後まで俺にははっきりと想像できる! 一人でイライラして疲れきるのは俺のほうだけだってことまでしっかりと! ……だから無駄な時間と体力を使わないためにも、智史とは今ぐらいの距離感がちょうどいいんだと俺は思ってる……」
「なんだかなあ……」
心の中だけには収まりきれず、ついつい感想が声に出てしまった。
(まあいいや……どうせどんなに隠そうとしたって、私の考えていることはみんなに筒抜けなんだから……)
気を取り直して、フェンスに寄りかかる。
笹に短冊をつけ終えた人たちは次々と屋上から帰り始めたところで、私たちの今日の任務はほとんど終わりかけている。
繭香と智史君は屋上のほぼ反対側にいて、私たちには背を向けている。
だから私と諒の会話に耳を傾けている人物などどこにもいない。
その事実に少し力を得て、私は諒に思ったことをそのまま伝えた。
「諒がそこまで計算高く他人との距離を計る奴だとは思ってなかった……」
「なんだよ、それ……褒めてんのか、けなしてんのか……どっちだよ?」
「うーん……軽く失望かな……?」
半ば冗談の返事だったのに、諒はかなり本気の声を出した。
「なんで俺がお前に失望されなきゃいけないんだよ!」
一瞬、周りの視線が全て私たちに集まった。
「ほら……こんなふうにわりと後先考えないほうだと思ってたのよ……私と一緒で……」
「お前と一緒にすんな!」
「事実、あんまり変わんないじゃない!」
屋上の反対側から静かな怒りに満ちた声が地を這うように響いてきた。
「お前たち……ちゃんと仕事しろよ?」
呪いでもかけられてしまいそうな繭香の眼差しに小さく息をのんで、私と諒は体は後片付けのために忙しく動かしながら、その後の会話は小声で続けることにした。
「俺だっていつもいつもこんなややこしいこと考えてるわけじゃないよ……智史に関してだけだよ……!」
「だから!その智史君にこだわってる理由がわからないのよ……ねえなんで?」
はああっと今度は本当に、諒は大きな大きなため息をついた。
「お前さ……いくらなんでも、貴人が『王子』って呼ばれてんのぐらいは知ってるだろ? じゃあ俺と智史はなんて言われてると思う?」
「えっ? 諒と智史君にも呼び名があるの? 知らないよ! なに? 教えて!」
がぜん興味を持った私の顔から、諒は目を逸らした。
「…………やっぱやめた」
私が「えええっ?」と非難の声を上げると同時に、背後から静かな声がかかった。
「『姫』だよ?『白姫』と『黒姫』。どっちがどっちだか説明しようか?」
いつの間に私の後ろに来ていたんだか、智史君にニッコリと微笑まれて、なぜか背筋がゾクッとした。
普段は天使のように見えるその微笑が、少しの毒を含んで小悪魔のように見えたのはなぜだろう。
ひょっとしたら私の隣で敢然と智史君を睨み返した諒のせいかもしれない。
「……だから、こいつのこういうところが理解不能なんだ。『姫』なんて呼ばれて、普通男が喜ぶか? そこは力の限りに抵抗するところだろ? なのにこいつは……」
「だって、別に嫌じゃないし……みんな面白がってるだけでしょ?」
「こうなんだ! ぜんっぜん平気なんだ! わかんないよ! 俺には絶対わからない!」
こぶしを握り締めて絶叫した諒には悪いが、私はもう笑い出さずにはいられなかった。
「ハハハッ、確かに『白』と『黒』なんて言って二人をセットにして、並び賞したい気持ちはよくわかったわ。面白すぎるっ!」
「なんだと!?」
今だって力の限りに非難の声を上げた諒と、クスリと笑った智史君ではまるで反応が間逆なのだ。
――そう、まさしく『白』と『黒』のように。
外見から言うと、色白で髪の色も目の色も薄い智史君が『白姫』で、黒髪に大きな黒い目をした諒が『黒姫』にまちがいないんだろうが、本当に一番最初に言い出したのは誰なんだろう。
どちらかと言えば、可愛らしい美少年系の二人が『姫』とは、あまりにピッタリ過ぎる。
「だいたい……可愛いって言われて嬉しいか? 俺は嬉しくないぞ! 断じて嬉しくない!」
「そう? 別にいいじゃない。褒められてることには変わりないんだし」
「……嬉しくもないのに笑えるはずがない……! 笑顔の大安売りなんて俺には理解不能だ!」
「相手に喜んでもらえるんなら、僕はそれぐらいお安い御用だけどね……」
確かに諒があらかじめ予想していたとおり、二人の会話はあまりに不毛だ。
考え方からやり方まであまりに違いすぎて、もう笑い話にしかなりはしない。
聞いているこちらは面白い限りだが、さぞや諒はストレスがたまることだろう。
あっけらかんと笑ってる智史君とは裏腹に――。
(諒には悪いけど……二人のやり取りって面白すぎる……!)
そう感じているのは私だけではなかったようだ。
もうとっくに帰路につき始めていたはずの生徒たちが、いつの間にかちらほらと私たちを遠巻きに取り囲みつつある。
「珍しく『姫』が一緒にいる……」
なんて囁きが漏れ聞こえて来るところをみると、諒と智史君が揃っているだけで、希少価値があがるようだ。
(そっか! いつも智史君の隣に必ずいるうららがいないだけでも、これって珍しい光景なんだよね……?)
あちらこちらでスマホのフラッシュが光り始める気配を感じて、私はそっと二人の傍から後退りで逃げ始めた。
(『邪魔なのよ近藤!』って叫びが聞こえて来る前に、ここは逃げさせてもらうわよ)
人垣の輪を抜けた途端、脱兎の如く逃げ出そうとした私の腕を、誰かがガシッとつかんだ。
繭香だった。
「どこに行くんだ、琴美」
「ど、どこって……みなさんの観賞の邪魔にならない位置まで下がろうかなーなんて……」
へへへと笑ってみせる私に、繭香も笑った。
それはあの、唇の両端を吊り上げるような、繭香独特の笑い方だった。
「『星空観察会』に参加したおかげで、綺麗な星空ばかりか、いつもは見れない『姫』二人のやり取りが見れた……これって生徒会の催しにこれからも参加したいって思わせるいいネタなんじゃないか? 気がついていない連中も、まだたくさんいるだろう……行って呼びこんで来い! それが今夜の琴美の真の仕事だ!」
「えええええっ!」
叫ぶ私に、繭香はいよいよニタリと笑いかける。
「急げ! 琴美の頑張りに、第二回以降の催しの集客率アップがかかってる! ……って……これは会長からの伝言だ……!」
(貴人の!)
最後の一言を耳にするや否や、勝手に私の足は走り出していた。
「わかった! 出来るだけ頑張る!」
「頼んだぞ!」
大きく手を振って見送ってくれている繭香の笑顔が、いつもよりはじけているような気がするが、そんなこと気にしている時間はない。
(貴人!)
自分もいつかああなりたいと、敬愛してやまない我が会長のため、私は全力で走り続けた。
結局、初日の『星空観察会』が終了したのは、予定の時間を大幅に過ぎた午後十時近くだった。
学校側への屋上使用許可の申請書に、あらかじめ放課後から午後十時までと書きこんでいた貴人は、まさかこうなることを見越していたんだろうか。
だとしたら凄すぎる。
繭香にそう耳打ちしたら、ズバッと一刀両断にされた。
「そんなはずはない。『姫』の揃い踏みをみんなに宣伝して来いって貴人が言ったなんて……そんなの私のでっち上げだからな」
「……はい?」
「琴美の力を最大限に引き出すために、一番役に立つと思う嘘をついてみた。これがいわゆる『嘘も方便』って奴だ。悪く思うな」
「わ、悪く思うなって……」
息を切らして走り回って、こっちはあの後しばらく動けないくらいだったのに――!
「繭香……」
恨みをこめて、その日本人形のようによく整った顔を軽く睨んだ瞬間、私はハッとした。
(そうか! 諒と智史君の関係って、なんだか私と繭香の関係と似てるんだ……!)
一見正反対の二人。
片方は余裕たっぷりで、反対側の私たちばかりが損をしているような気さえする。
でも私は、一度繭香ととことん向き合ったからこそ、自分たちがとても似ている所も持っているということを知っている。
だから考え方が違っても、やり方が違っても、少なくとも私は繭香に反発心を感じたりはしない。
大切にしたいこと。
どうしてもゆずれないもの。
それが私たちは一緒だって知っているから。
(ああ……やっぱり諒……一度智史君ととことん話してみたほうがいいよ……)
経験者としてしみじみとそう思い、腕組みしながら頷いた私に、繭香も同意した。
「まあ確かにいい機会だから、腹を割って話してみたらいいだろうな……もっとも……白と見せかけておいて中身は限りなく黒に近い『姫』のほうが、簡単に自分を曝け出すとも思えないが……」
お願いだから、表情だけで私の考えていることを読むのは、いいかげんやめてくれないだろうか。
このままではおちおち秘密の悩みで悩むこともできはしない。
――もっとも私にそんなものなんてないけれど。
ブツブツと考え続ける私の隣に来て、思いがけず繭香が私の手を取った。
「まったく損をしてるよな……こうしたら勇気が二倍にも三倍にもなるのにな……そうだろ?」
それは以前、私が繭香と手を繋ぎながら言った言葉だった。
「覚えてたんだ……!」
「当たり前だ」
ぎゅっと手を繋ぎあって、私たちはまた自分たちが同士だという事を確認しあった。
だから願わくば――諒と智史君もそんな関係になれたらいいのにと思う。
「絶対! 絶対! お前の考えてることだけは理解できない!」
「そうかな……? 僕には諒がよくわかる気がするんだけど……」
遠くでまだまだ続いている不毛な戦いを横目に見ながら、私と繭香は顔を見合わせてちょっと笑った。
諒たちよりほんの少し先輩として、小さく胸を張って笑った。
三日間の『星空観察会』は大盛況のうちに幕を閉じた。
一日目より二日目、二日目より三日目目と参加者は増え続け、総参加数は最終的に合計七百人にもなった。
結局三日間通して、実に全校生徒のほとんどが夜の学校に集まった計算になる。
「はああ……すごかったねぇ……」
放課後の『HEAVEN』。
いつもの窓際の席で、私は美千瑠ちゃんの淹れてくれたお茶を片手にしみじみと呟く。
積もり積もった三日分の疲れがやっと抜けていく気分だった。
「何がすごいって、あれだけの人数が集まったのにトラブルが一件もなかったってこと。そして予想以上にみんなが星を見るのを楽しんでたってこと。そして極めつけは……最後の貴人のサプライズ!」
指折り数えながら、今回の催しの成功ぶりを挙げ連ねていた順平君は、最後の言葉と同時に、貴人にクルッと向き直った。
「秘密行動だとは言ってたけどさ……まさかあんなことまでするとは思わなかった!」
「確かに!」
部屋のあちこちから次々と同意の声があがる。
「ビックリして、その上喜んでもらえたんだったら……それが本望だよ」
嬉しそうに笑う貴人に、私は急いで返答した。
「驚いたよ!そして嬉しかった!」
「うん……OK」
魅力的な笑顔につられるように、思わず私の頬まで綻んだ。
『星空観察会』の最終日。
人でごった返す屋上には危険防止のため、ついに端のフェンス周りにロープが張られた。
あまりにも人数が増えたため、押されたりして、もしものことがあったらいけないからだとばかり思っていたが、実は最後の仕掛けに興奮したみんなが、誤って屋上から落ちてしまわないためだった。
最終日のラスト。
「間もなく閉会十分前です」の美千瑠ちゃんのアナウンスと共に、私と諒が汗かいて取り付けたスピーカーからは、貴人の声が流れ出した。
「たくさんの星々をしっかりと観察してもらったところで、ここからは『HEAVEN』からのサプライズです。夏の夜空を彩る花をご覧下さい」
軽やかな声にうっとりと聞きほれながら、私はフフフと笑った。
(貴人ったら……それじゃ花火大会の常套句だよ……)
いったいどんな花を貴人は準備したんだろうかと、ワクワクしながら待つ私の耳に、聞き覚えのある音が聞こえた。
そう。
火を点火された花火が夜空に上っていく時の、あのヒューッという音が聞こえたのだ。
「えっ! 嘘?」
三日間の中でも格別綺麗に輝いていた満天の星空の真ん中に、貴人の用意した『花』は大きく大きく開いた。
「本当に花火!?」
屋上で次々と上がり始めた驚きの声の中でも、私の声は特別大きかったと思われる。
人垣の向こうでマイクを握っていたはずの貴人が、マイクの電源がONのまま
「琴美っ……!」
と大笑いを始め、慌てて近くにいた剛毅か礼二君がマイクを取り上げている騒ぎが聞こえてくる。
そんな中でも、貴人の『花』は一つまた一つと、夜空に次々と打ち上げられていた。
「凄いねぇ……」
始めはきゃあきゃあと歓声を上げていたみんなが、次第に静かに夜空を見上げるようになり、いつの間にか夏祭りででもあるかのように、みんなが息を詰めて夜空の芸術を見る事に集中している。
もちろん私も例外ではなかった。
「綺麗だね……」
星を見ていた時とはまた違ったため息が、屋上のあちらこちらから聞こえる。
その声を聞いているだけで嬉しかった。
貴人の言葉を借りるならば、「これぞ本望」だった。
「だけどさ……卒業生に花火師がいて、練習に作った花火を打ち上げてもらったんじゃなきゃ、絶対出来ない企画だったよな……」
隣に座る諒が腕組みしながら、もっともらしく頷くので目を向ける。
「どうして?」
「どうしてってお前……」
諒は驚いたような呆れたような複雑な表情で、私の顔を見返した。
「正規の物を買おうと思ったら、ものすごくお金が必要だからだろ! 花火って一発何万円もするんじゃなかったか?」
「何万円!」
息をのむ私に、諒は大きな大きなため息をついた。
「貴人……生徒会の役職、考え直したほうがいいぞ……こいつに会計は無理がある……」
「なんですって!」
「だからって、他に何の役が出来るのかって聞かれても、俺には答えられないけど……」
「諒!」
ふり上げたこぶしは珍しくかわされてしまったけれど、隣に座っているんだから大丈夫だ。
諒が油断した隙に、いつか報復する。
きっと。
「ハハハッそれはさて置き……そろそろ次の企画に向かいたいと思うんだけど……いいかな?」
(そろそろって……『星空観察会』の終了からまだ二日しか経ってないんですけど!?)
悲鳴は心の中だけに止めておいた。
私にだってわかってる。
我が生徒会はやらなければならないことが多すぎて、時間が足りないのだ。
私の心の中の動揺を見透かしたかのように、繭香が向けて来るどこか面白がってるふうの視線を痛いくらいに感じながら、私は静かに貴人の次の言葉を待った。
「時期的に夏休みに入るし……普段は実施出来ないような企画を、この際いっぺんにやってしまえたら……って思ってる……」
貴人はそう言いながら、胸ポケットから例のアンケート用紙を数枚取り出した。
「みんなで旅行とか、合宿とか、キャンプとか……ようは宿泊系の希望をまとめようと思うんだ……そしてメインはこれ!『星章学園の七不思議の検証』だな……」
部屋のあちこちから「ひっ!」という小さな悲鳴が聞こえた気がしたのは気のせいだろうか。
私自身だって、そっち系はあまり得意ではない。
「うん決めた!『夏休みの学校に泊まって、七不思議を検証しよう合宿』だ。遠くに行くわけじゃないし、キャンプファイヤーだってできないけど、キャンプの醍醐味である肝試しは十分にできるわけだから、いいんじゃないかな?」
笑顔で提案する貴人に、私はすぐに賛成することができなかった。
(き、肝試し! ……だからそっち系はあんまり得意じゃないのよ……!)
頭を抱えてしまいたい気持ちのメンバーは思ったより多かったようだ。
汗ばむほどの陽気だというのに、部屋の中の空気が凍りついている。
沈黙を破ったのは夏姫だった。
「ふーん、いいんじゃない……? 学校に泊まるってのも、ちょっと珍しいし、お金使わないでどっか行った気分にもなれるし……」
私がいる席のちょうど反対側で、智史君もノートパソコンを開きながらおもむろに眼鏡をかけた。
「じゃあ早速、七不思議とやらをピックアップするね……」
つられたようにそろそろと、まるで金縛りが解けたかのようにみんなが動きだした。
「しょうがないな……肝試しするから、お化け役をやれって言われるよりはまだましか……この場合、お化けは本物にお任せするわけだからな」
腕組みする剛毅に向かって、可憐さんが綺麗な眉を寄せた。
「やだ、ヘンなこと言わないでよ……お化けなんているわけないって思ってないと、夜の学校になんてとても泊まれないわ……」
「だよな! いないって! 絶対いない! ……俺はそう信じることにする!」
「私もだ」
順平君の叫びに繭香が同意した。
(ち、ちょっと待って……待ってよ?)
私は必死の思いで、まだ賛成を表明していないメンバーの顔を見回す。
明らかに青い顔をしている玲二君は、きっと私と同じ思いのはずだ。
助けを求めるような視線に小さく頷き返す。
同盟成立。
隣で石になってしまっている諒は、私の記憶が確かなら、中学時代、修学旅行の旅館で酷い目にあってから、確かそっち系はまったく駄目なはず。
その証拠に、もうどうしようもなく硬直している。
そして部屋の入り口に近い席で俯いている美千瑠ちゃんに目を向けた。
見るからにおとなしくて恐がりのような美千瑠ちゃんに、この企画はそうとう辛いはずだ。
(そうよね……百歩譲って私たちは我慢するにしたって、やっぱり美千瑠ちゃんが可愛そう……ここは心を鬼にして貴人に異議を唱えないと!)
勇気をふり絞って私が声を上げようとした時、俯きっぱなしだった美千瑠ちゃんが顔を上げた。
私の予想に反して、その顔は喜びに満ち溢れ、女神のような笑顔だった。
「すごく楽しそうな企画ね。私、恐い話とかお化け屋敷とか大好きなの……! とっても楽しみだわ!」
コロコロと声を立てて笑いながら、拍手まで送っている姿を見て、正直、
(終わったわ……)
と思った。
悲しげな表情で私を見ている玲二君と頷きあう。
これはもうしょうがない。
最後の砦だと思った美千瑠ちゃんが、あっち側の人間だった今、私たちに反旗を翻すチャンスはなくなった。
(我慢しよう……)
不本意ながらそう気持ちを固めた時、隣で諒が動いた。
まるで力が抜け切ったかのように、受身も取らないでそのまま顔面から机に突っ伏しそうになるから、思わず腕を伸ばして抱き止める。
「ちょっと諒?」
まさか気を失うほど肝試しが恐かったんだろうか。
一瞬そんな考えが頭に浮かんだが、私はすぐにそれを消し去った。
抱き止めた諒の体は、驚くほどに熱かった。
「ちょっと諒! 熱があるんじゃないの!?」
私の叫びにみんなはガタガタガタと椅子を鳴らして立ち上がったけれど、当の本人は身動き一つしなかった。
腕の中でピクリとも動かない諒に、私はこっちまで血の気が引く思いだった。
剛毅の手によって保健室へと運ばれた諒は、電子体温計が故障しているんじゃないかと疑うぐらいの高熱をマークした。
「よ、四十度!?」
さすがにそれはマズイんじゃないかと焦る私たちの目の前で、ウンウン唸っていたかと思ったら、しばらくすると安らかな寝息をたててすやすやと眠り始めた。
さっきまで真っ赤だった顔があっという間にいつもの顔色に戻ったことを不審に思い、諒の額に触ってみて、思わず驚きの声が出る。
「さ、下がってる……!」
次々とみんなも諒の額に触れた。
「……本当だ」
「なんで……? ねえ、おかしくない?」
「おかしいよ……! もちろんこの上なくおかしいよ!」
ざわめくみんなの中で、私は必死に記憶の糸を手繰り寄せていた。
(待って……待ってよ……? なんかこれって、前にも覚えがない? ……多分中学時代……それもきっと私ができるだけ思い出したくないようなことに関係しているような……?)
意識の深いところで、考えることを拒否しようとする自分の心と戦いながら、私は懸命に思い出そうと努力する。
(なんで突然倒れたんだろ? 確か今日、『HEAVEN』に集まったばかりの頃は、諒だって普通だったよね……私に喧嘩を売る余裕があったんだもん……そのあと何があったっけ……?)
順を追って考えてみたら、答えはすぐに見つかった。
(まさか……!『肝だめし』の話……?)
ハッとしながら、ベッドに眠る諒の顔を見た。
長い睫毛をピッタリと閉じて眠る顔はどちらかと言えば童顔で、中学時代とそんなに変わってはいない。
中学時代もずっと諒と同じクラスだった私は、忘れもしない修学旅行での事件を思い出した。
――諒の巻き添えとなってクラス全員、いや、学年全員がどんなに酷い目にあったのかを。
まるで眠る諒から逃げようとするかのように、自然と私の足は後退る。
ふとベッドを挟んで向こう側にいる繭香と目が合ったので、すがるように叫んだ。
「ま、繭香! お祓い! お祓いはできないの?」
「は?」
何を言われたのかわからないとばかりに、文字どおり繭香は目が点になった。
そして次の瞬間――。
「……私がやるのは占いだけだ! お祓いなんて……そんなもの、出来るわけないだろう!」
大きな瞳でグワッと睨まれて、私は小さく飛び上がった。
「そ、そうだよね……できるわけないよね! ……ごめん……なんか混乱してて……」
しどろもどろに言い訳を始めた私に、貴人が歩み寄って来た。
「琴美、どうしたの? なにか……お祓いをお願いしたいようなことがあるの?」
努めて真剣な顔で尋ねてくれるけれど、目が笑ってる。
本当はどうしようもないくらい大笑いしたいのを、必死に我慢してるってことが、ありありと顔に書かれている。
「確かに笑い話みたいだけど……これは本当に切実な願いなのよ……!」
私の叫びにやっぱり予想どおり、貴人は肩を揺すって大笑いし始めた。
中学生の修学旅行と言えば、その行き先はたいてい決まっている。
名所遺跡めぐりや、歴史の教科書に出てくるような建造物の見学など、およそ普段は家族でも友達同士でも行きそうにない所に行くのが、お約束だ。
私が卒業した中学でもご多分に漏れず、三日間の行程中、バスに詰め込まれて、たくさんのお寺や古墳を見て回った。
その途中で諒が倒れたのは、二日目の夕方だった。
ちょうど今日みたいに突然の原因不明の高熱に倒れた諒は、一人別行動となって旅館に連れ帰られるとすぐに、熱も引いたのだそうだ。
なんだ、たいしたことはなかったのかと、担任らが安心したのも束の間、目を覚ました諒は、およそ人間業とは思えないスピードと身のこなしで、旅館中を駆け巡りだしたらしい。
『こら勝浦! なにやってんだ!』
『やめなさい! 何がしたいんだ……? とにかく止まりなさい!』
担任や学年主任の声をまったく無視して、壁と言わず床と言わず四つん這いになって無茶苦茶に走り続けた諒は、二時間ほどが経つと、またコロッと丸くなって眠り始めた。
その姿は、まるで野生の獣のようだったという。
おかしな奴だと呆れながらも、ひとまずホッとした担任たちの思いを裏切って、きっちり二時間後にまた諒は起き上がった。
その後どうなったのかだったら、実際に私もその場にいて見て聞いていたのだから、少しの恨みをこめてもっと詳細に説明することができる。
私たち他の生徒が旅館に帰って来た時は、ちょうど諒の三回目の走り回りが始まったところだった。
四つん這いでもの凄いスピードで走り続ける諒は、小さく息を弾ませながらもまるで疲れているようには見えなかったが、髪振り乱して追いかける担任や学年主任や旅館の従業員は、それはそれは可哀相なことになっていた。
『ま……待て……待ちなさい……!』
息も絶え絶えの大人たちを気の毒に思った陸上部員や他の運動部員らが捕獲役をかってでて、諒を追い込もうとしたが、それでも捕獲することは無理だった。
結局、二時間後に電池が切れたように丸くなったところを捕らえ、次はもう起き上がれないように縛っておいた。
なのに、さらに二時間後に目を覚ました諒は、自分の体にぐるぐるに巻かれたその縄をなんなくスルリと解いてしまい、また走り出したのだった。
『なんなのよ、もう!』
『いつまで続くんだよ、これ!』
驚くばかりの思いはとっくに通り越して、次第に疲れで、みんなのイライラが増していく。
二時間ごとの全力疾走は旅館内をくまなく廻るので、男子も女子も、夜中になっても誰一人眠りにつくことができない。
旅館を貸切っていたことが幸いだったとはいえ、先生方の疲労と困りようは、見ているほうが気の毒になるほどだった。
いったい何が起こっているのか。
訳もわからないまま夜は明け、ほとんど寝ていない修学旅行生を乗せたバスは、諒が眠りについた隙をついて、最後の観光地めぐりに出発した。
行き着いた先のお寺で、死んだように眠りこんでいるバージョンの諒を見たお坊さんが、
『これはいけません! 今すぐ除霊しなければ!』
と顔色を変え、そこでようやく私たちは、諒に何が起こっていたのかを知ったのだった。
――どうやら何か動物の霊に取り付かれていたのらしい。
「そんな事あるもんか」とか、「信じられない」といったセリフは、あの時の諒を見ていない人だから言える言葉だと思う。
見るからに霊験あらたかなお坊さんの言葉を、教師をまじえた学年一同、誰も疑いはしなかった。
大きな大きな安堵のため息でもって、しっかりと受け入れた。
その後の旅行の日程は大きく変更されて、何はともあれ、そのお寺で諒にとり憑いた霊の除霊が始まった。
お坊さんの唱えるお経と振り撒かれる清めの塩にのた打ち回る諒の姿は、確かに人間のものとは思えず、叫び声は両手で耳を塞ぎたいほど恐ろしいものだった。
私たちの昨夜の苦労はなんだったのかと思うほど呆気なく、諒の除霊は終わった。
いつもの状態に戻った諒が、
『なあ……なんだかすっごく体中が痛いんだけど……なんで?』
霊にとり憑かれていた間のことは何も覚えておらず、同級生一同がついつい殺意を覚えてしまったことと、
『どうやら霊に気に入られやすい方のようですので、今後もお気をつけください……』
というお坊さんの、ゾッとするようなアドバイスは、今でもハッキリと覚えている。
「だから……これは本当に、恐ろしい事態なのよ!」
放課後の保健室ですやすやと眠る諒を見下ろしながら、私は必死に叫んだ。
「うーん、そうは言われても……やっぱりそう簡単に、『はいそうですか』とは信じられないなよなぁ……」
腕組みしながら首を捻る剛毅を、私は敢然と見上げる。
「もちろんよ! 私だって、霊なんて信じたくないし、この上なく現実主義者なのよ! でもあの時の諒は、確かにもの凄かったの! なんて言うか……他には理由がつけようがないくらいおかしかったのよ!」
本当はさっさと諒のそばから逃げ出してしまいたい気持ちを必死にこらえ、私はみんなに訴える。
――今、ひょっとしたら私たちはかなり危ない状況にあるのかもしれないということ。
しかしみんなはなかなか、諒をそこに放っておいて逃げようという気持ちにまではならないようだ。
「まあとりあえず……諒が目を覚ましてからでもいいんじゃない?」
順平君の提案に、貴人がもう一度私の顔を見た。
「琴美……それでもいい?」
ダメだと叫びたいけれど、今この場でみんなの賛同を得ることは難しそうだ。
それに今回は私の思い過ごしという可能性もある。
「…………うん」
渋々頷いた瞬間に、諒が、
「うーん……」
と目を覚ました。
一瞬、緊張で身を硬くした私をよそに、ごそごそとベッドの上に起き上がると、
「あれ? みんな何してんだ?」
とぐるりと周りを取り囲んだ私たちを見回す。
「何してんだじゃないわよ……! 急に倒れたくせに! ……まあ、もう平気そうだからいいけど……じゃあ、これでもう私は部活のほうに行くから!」
夏姫がさっさと保健室から出て行くと、剛毅と玲二君もおもむろに動き始めた。
「俺も行くかな……貴人、例の件はまた後日計画を詰めよう……諒! 遅くまで勉強ばっかりしてないで早く寝ろよ!」
「……なんだよ、それ?」
諒は訝しげに首を捻っている。
『HEAVEN』に残っている智史君とうららに、諒が無事だったと教えに美千瑠ちゃんは向かい、順平君と可憐さんはそれぞれに今日はもう帰路についた。
「なんだ……なんでもないじゃないか」
ちょっと咎めるように私を見つめる繭香の視線が痛い。
「うん、そうだね……ごめん」
あまりにもあの時と状況が似ていたため、先走りしすぎてしまったのだろうか。
私の早とちりは今に始まったことではないけれど、さすがにこれはことがことだけに少し恥ずかしい。
「でも、中学時代の話は本当に本当なんだよ?」
「はいはい」
繭香の適当な相槌に貴人がクスリと微笑む。
「そういう事があったってことを、知っておくのは悪くないよ……大丈夫だよ。琴美」
「うん」
いつもながらに貴人の言葉に救われるような気持ちになり、ようやく私も笑うことができた。
「おい! なんだよ? 俺にもわかるように説明しろよ……」
ちょっと怒ったようにベッドから下りる諒に背を向けて、貴人と繭香は保健室の扉から出て行く。
「帰りながらゆっくり話すよ」
笑い含みの貴人の声を追おうとした途端、私はふいに諒に腕をつかまれた。
「待てよ、マイハニー」
「……………………はい?」
なんだか今、とてつもなくおかしな言葉が聞こえた気がする。
この場にそぐわないとか、私たちには似合わないとかいった次元ではなくて、ただもうひたすら有り得ない。
有り得なさ過ぎるセリフを諒が言ったような――そんな気がする。
(ええっと……なんの聞きまちがいかな?)
そう問いかけようとして諒の顔を見て、私は全身が硬直した。
熱を帯びたように妙に色香の漂う瞳で、諒が真っ直ぐに私の顔を見ていた。
頬を薄っすらと赤く染めて。
優しげな微笑を唇に浮かべて。
(ちょ、ちょっと待って…………誰? この人?)
思わずそう思わずにはいられないほど、彼は今、普段の無愛想この上ない諒とはかけ離れた表情をしている。
「琴美……」
甘く名前を呼ばれて、鳥肌が立った。
(諒は私を名前で呼んだりしないわよ……!『お前』とか『おい』とかいつも適当に失礼な呼び方しかしないんだから……!)
いかにも美少年然としたキラキラの瞳で、私を真正面から見つめている諒に、恐る恐る尋ねてみる。
「諒……どこか頭でもおかしくなった?」
いつもなら絶対に怒るはずなのに。ほんのついさっき、みんなといつもどおりの会話を交わしていた諒だったらまちがいなく
「なんだと!」
と私にくってかかるはずなのに。
彼は微笑みを崩さないままに、やんわりと首を横に振った。
「いいや……俺はいつもどおりだよ?」
(いや……そのしゃべり方からしておかしいから! 私にそんな顔で笑いかけてる時点で、すでにおかしすぎるから!)
鋭い訂正の言葉を実際に口に出すより先に、諒がぐいっと私の腕を引き寄せた。
バランスを失って、ヨロヨロと諒のほうに倒れそうになった私を反対の腕で受け止めて、彼は私の頬にそっと唇を寄せた。
(……………………はい?)
すでに頭の中でまったく理解できないその行動と、
「アイラブユー」
耳元で囁かれた声に、私は我慢できずに悲鳴を上げた。
「ぎゃああああああ!」
驚天動地の私の叫びは、保健室がある第一校舎中に響き渡った。
「どうした琴美!」
「なんだ?」
さすがに保健室から出て行ったばかりの貴人と繭香は、駆けつけて来るのが早かった。
「な、なに?」
「どうかしたのか?」
ユニフォーム姿の玲二君と剛毅は、どうやら部活途中にグラウンドから走って来てくれたのらしい。
ということは、私の悲鳴は校庭にまで轟いていたということだ。
「ど、どうもこうも……諒が……!」
涙を浮かべながらみんなに訴えようとした私の目の前に、その諒が立ちはだかった。
「ちょっと悪戯したら、こいつがもの凄い悲鳴上げたんだよ……悪い……なんでもないから……」
肩を竦めながらそんなふうに弁解してしまったので、みんな「なあんだ」と言わんばかりの視線を私に向ける。
(悪戯って! 悪戯って……!)
怒りと驚きのあまり、口をパクパクさせるしかない私をふり返り、諒はひどく魅惑的に微笑んだ。
「なんだよ……そんなに騒ぐほどのことでもないだろ?」
(どこが? 私にとっては、もの凄く大騒ぎするべきことなんですけど!)
すぐに叫び返せなかった。
私を見つめる視線と真正面から向きあった途端、なにかピンとくるものがあった。
――これはきっと諒じゃない。
見た目にはどこをどう見ても諒だし、体は確かに諒のものに違いないが、『中身』が違う。
絶対に違うと思う。
(中身が違うってどういうことだろう……?)
自分で思いついた考えに自分で首を捻る。
その瞬間、ほんのついさっき他ならぬ自分が血相を変えてみんなに話したことが、脳裏に甦った。
中学の修学旅行の時にお坊さんがくれた忠告――。
『どうやらとり憑かれやすい方のようですので、今後もお気をつけください……』
(やっぱり! ……あの時みたいに、中に『何か』が入っちゃってんじゃないのよ! 諒!)
キッと睨みつける私に向かって、諒なのに諒ではない『誰か』は、ニコリと笑いかけた。
「帰るよ、琴美。そんなに怒んなよ……話は帰りながらでいいだろ……?」
あきらかにさっきの貴人の言葉を模倣したセリフ。
私はその人物に向かって敢然と顎を上げた。
「そうね。そうするわ!」
(まったく世話がかかるったらありゃしない! いっつも私を馬鹿にしてるわりには、自分だってこんな変な癖があるんだから……!)
クルリと私に背を向けて歩き出す背中を追う。
(もとに戻ったらたっぷり文句言わせてもらうわよ! 私のおかげで助かったんだって……ここは大きな貸しを作っておかなくっちゃ……!)
これまで自分が諒にさんざん助けてもらったことは棚に上げて、そんなふうに考える。
だけど淡々と歩き続ける諒じゃない誰かの背中を見ているうちに、ふと不安な気持ちが過ぎった。
(でも……どうやって助けるんだろう? 修学旅行の時みたいにお祓いしてもらったらいいのかな? どこで? 誰に?)
残念ながらそっち系の知りあいは私にはいない。
『HEAVEN』のみんなに助けを求めたいけれど、今この場で「これは諒じゃないわよ!」なんて突然言い出したら、この『誰か』に諒の体ごと逃げられてしまいそうだ。
少なくとも今はまだ、私が違和感に気がついたということを知られるわけにはいかない。
ここは油断させておいたほうが得策だと、私の人よりちょっとだけ回転の速い頭は結論づけた。
「待ってよ、諒!」
できるだけ普段どおりを心がけながら、背中に呼びかけた。
ニッコリと笑ってふり返る相手に、心の中だけで舌を出す。
(諒は私相手にそんな優しい反応はしません! もっとずっと失礼な態度で、いつだって半分怒ったような顔しかしないんだから……!)
そう、眉間に皺を寄せている顔か、目を吊り上げた顔しかとっさに思い浮かばない。
それぐらい私に対する諒の態度は失礼極まりない。
今向けられている美少年そのままの笑顔なんて、きっと私相手には一生見せることはないはずなんだ。
だけど――。
それでもなんでもいいから、もとの諒に戻って欲しいと、私は思う。
(だって……なんか調子狂うじゃない? ニコニコ愛想のいい諒なんて……)
ゆるい決意とは裏腹に、握り締めたこぶしは固かった。
諒をとり戻さなきゃと思う気持ちだって、本当はとてつもなく強かった。
一人の人間が他の人間に成り代わろうとする時、一番困るのはなんだろう。
おそらく、その人がこれから何をするところだったのかとか。
周りの人に対する接し方とか。
傍から見ているだけではわからない、感情に関わる心の機微だと思う。
なのに諒の中に入っている『何か』は、本当は本人なんじゃないかと疑うぐらい、そのあたりまで完璧だった。
『夏休みの学校に泊まって、七不思議を検証しよう合宿』――通称『七不思議合宿』の告知に共に廻りながら、女の子にニコニコと説明をする智史君に、いい顔をしないところまで完璧。
なのに、なぜかそこだけスコーンと抜け落ちてしまったかのように、私に対する態度だけが大間違いのままだった。
「琴美!」
ニッコリと笑顔で呼ばれて、始めは背筋がゾッとしていたのが、次第に慣れてきている自分が恐ろしい。
(まずいわ……このままじゃ、本物の諒をとり戻さなきゃって使命まで、そのうち忘れてしまいそう!)
単純な自分の順応力に危機を感じて、他のみんなにそれとなく話をしてみようとするのだが、なんと言っていいのか私にはわからない。
諒は傍目には何の変化もないし、行動にもどこもおかしなところはない。
じゃあいったいどこがおかしいのかと言うと、それはもうただ一点――私に対する態度だけなのだ。
「琴美の気のせいじゃないの?」と言われてしまえば、私自身まで思わずそれで納得してしまいそう。
――でも違う。
サラサラの髪をかき上げながら、私に片目をつむり、「やあ、マイスイートハニー」なんて耳元で囁いてしまう諒は、絶対に諒じゃない。
「絶対に違うのよ!!」
頭の中だけでぐるぐると考えていたはずだったのに、いつの間にか声に出して叫んでしまっていた私に、『HEAVEN』中の視線が集まった。
「何が違うんだ……!」
怒りに満ち満ちて冴え渡る繭香の声。
どうやら『七不思議合宿』について、それぞれの持ち場など細かなことを決める会議の真っ最中に、私は完全に自分の世界に入ってしまっていたようだ。
「琴美は諒と二人で『夜中の音楽室でひとりでに鳴り出すピアノ』の係だ……一人で一つの場所を受け持つ者だっているんだから、二人いるだけでありがたいと思え!」
完全に、受け持ちが気に入らなくて異議の声を上げたとばかり思われている。
「い、いやそうじゃなくって……受け持ちは別にそれでいいんだけど……って……諒と二人!?」
「ああ」
無情にも繭香はコックリと頷いた。
「さっき諒が、琴美と二人で受け持つからって自分から言い出しただろ……まさか聞いてなかったのか?」
爛々と輝き始めた繭香の大きな瞳に恐れをなして、私は慌てて首を横に振った。
「ううん! 聞いてた! 聞いてた! まあそれでいいっか……ハハハ」
力なく笑う私にほんの少し体を寄せ、隣に座る諒じゃない諒は小さな小さな声で囁く。
「楽しみだねハニー」
夜中の学校。
七不思議に数えられる怪奇現象が起こる音楽室。
どうやら何かにとり憑かれているらしい諒と二人きり。
どう考えても『楽しみ』とは思えない状況に、心の中だけで、
(楽しみなはずないでしょ!)
と叫び、私は諒の顔を睨んだ。
ちょっと見慣れてきた可愛らしい笑顔の中に、なにやら押し殺したような別の感情が垣間見える。
――何かを決意しているような、意欲に満ち満ちた表情。
(な、何? ……まさか何かするつもり……?)
何の武器も持たず、対抗する術もない私には、拭い去りようのない不安だけが募った。
「それで……何がどうなったら、神社でお守りや護符を大量購入する気になるわけ?」
放課後、『HEAVEN』からの帰り道。
私は同じ方向に帰る可憐さんについて来てもらって、通学路途中の神社へと寄った。
財布の中にあったお小遣いを全部使って、最低限自分の身を守るための装備を購入した私を、可憐さんは綺麗に手入れされた眉をひそめて見つめる。
「そんなに嫌だったら、七不思議のところだけでも抜けさせてもらえばよかったのに……」
心配してくれる可憐さんには悪いが、これらの装備は、まちがっても『対七不思議』用ではない。
それよりもっと切実な『諒の中の何か』用なのだ。
お守りや護符を手にとって、裏返したり、持ち上げて日にすかしてみたり。
正直これが役にたつのか、たたないのかさえ私には半信半疑だが、途中まで一緒に帰っていた諒が、私が神社に寄ると言い出した途端、
『お、俺は用があるから……じゃあここで』
なんていなくなってしまったところを見る限り、どうやら少しは効き目があるようだ。
(何かが起こるって決まっているわけじゃないけれど……備えあれば憂いなしって言うもんね!)
まるで動物的としか言いようのない私の勘どおり、諒の中の『誰か』が行動を起こしたのは、やっぱり『七不思議合宿』の夜だった。
『HEAVEN』主催の企画第二弾――『夏休みの学校に泊まって七不思議を検証しよう合宿』は、夏休みに入ってすぐの土曜日に開催された。
思い思いの大きな荷物を持って、夕方の学校に集合したのは総勢百名。
実はこれでも、今回は参加者を抽選にして、かなり人数を絞った。
みんなで食事をしたり七不思議を検証したりするぶんには、それ以上の人数でもまったく構わなかったのだが、寝床の確保ができなかったのである。
女子は武道場で、男子は体育館でそれぞれ雑魚寝とはいえ、暑い季節のこと、大人数を詰め込むには限界がある。
決局女子のほうの上限五十名にあわせて、男子も五十名にした。
「別に男子はもっと増やしてもいいんじゃないの?」
体育館に五十名だったら、まだかなり余裕があるのに――と思って提案してみたら、順平君にトントンと肩を叩かれた。
「琴美、そりゃひどいよ……男ばっかりで肝試しをするかわいそうな連中を作れってこと?」
「あっ……!」
なるほど、七不思議検証のグループは男女二名ずつで予定しているが、参加人数に偏りが出ると、男女比が変わってしまうのだ。
「そうか……それはちょっとお気の毒……」
おそらくは新しい出会いがないかとか、素敵な思い出ができはしないかとか、そのへんも期待して参加した人たちの、希望の芽を摘むことはできない。
「今回は泊りってことで、さすがに開催回数を増やすわけにはいかなくて、抽選に外れた人には本当申し訳ないんだけど……そのぶん、来てくれた人たちに楽しんでもらえるように頑張ろう!」
「うん!」
貴人の言葉に、みんなは決意も新たに頷いた。
私だって、私の隣にいる諒だって、もちろん普通に頷いていた。
夕方から始まった合宿のまず第一の日程――炊飯は、家庭科室を借りて、女子全員でおこなった。
メニューはキャンプの定番、カレー。
小学生だって作れる、最も簡単で誰が作っても失敗しないメニューのはずなのに、なぜか私は早々に家庭科室から追い出された。
「い、いいから……! 近藤さんは生徒会の仕事も忙しいだろうから、そっちに行ってていいよ!」
同学年の女の子たちに背中を押されて、首を捻りながらも家庭科室をあとにする。
「うん。じゃあお言葉に甘えて……」
エプロンを外し、三角巾を取りながら第一家庭科室から廊下に出たら、丁度第二家庭科室から繭香も出てきたところだった。
「藤枝さんは休んでていいからって言われたんだが……」
「私も……忙しいだろうからいいって……」
お互いに顔を見合わせて、大きなため息をついた。
「まあ……正直、私がいても何の役にも立たないからな……」
「うん。私も……」
邪魔者のいなくなった家庭科室で、調理は滞りなく進み、予定時間よりかなり早く、屋外でみんな揃って夕食の時間となった。
校内で大きな火を焚くことはできず、残念ながらキャンプファイヤーとはいかなかったが、大勢で集まって食べる食事は、ただそれだけで美味しかった。
カレーとサラダに加え、デザートのゼリーまであったのだから言うことはない。
「それって美千瑠のレシピだよ。カレー作りと平行して私とうららが作らされたんだ……」
もりもりと二杯目のカレーをほおばりながら、夏姫がそう教えてくれた。
(いかにも女の子らしいことが苦手そうな夏姫と、なんだか調理中も眠ってそうなうららでさえ、家庭科室から追い出されなかったのに……じゃあ私と繭香っていったいどれだけなの……?)
「気にするな。女の価値はそれだけじゃない」
繭香はもぐもぐとカレーを食べながら、案の定、私の表情を読んでそう言ってくれた。
けれど――。
(いや……見た目が人形みたいに綺麗な繭香はそうも言ってられるだろうけど……正直私は、ここは押さえておかないとダメでしょう……?)
この夏休みは、母に習って料理を始めてみようと、私はこっそり決意した。
今回『七不思議』の検証に際して、貴人と智史君を中心に我々『HEAVEN』が立てた計画はこうだ。
まず『HEAVEN』の十二人はそれぞれ受け持ちを決めて、その箇所にずっと待機している。
一般の参加者は、チェックシートを持って七つの箇所を好きな順番でまわる。
待機している役員に『来ましたよ』のサインさえもらえば、全てを駆け足でまわっても、ひとつの場所に長居してもそれは全然構わない。
百人――二十五組が一斉にスタートするとして、用意されている時間は三時間。
その時間内に、特別棟最上階の音楽室から、体育館裏の倉庫まで、参加者は急いでまわらなくてはならない。
「ごめん……本当はあまり知りたくないんだけど……生徒会としての仕事だから、知識として聞いておくわ……七不思議って何と何と何……?」
指折り数えながら質問した私に、智史君はニッコリ笑って一枚の紙をくれた。
それは、『七不思議の検証』に参加する人たちに配られたチェックシートだった。
校内の簡単な見取り図の上に、『七不思議』と呼ばれる箇所が記入してあり、ご丁寧に説明書きが施してある。
・夜中に勝手に鳴り出す音楽室のピアノ
・上りの時と下りの時で段数が異なる第一校舎二階から三階への階段
・階段の踊り場の鏡に映る人影
・人の話し声が聞こえる鍵がかかったままのトイレの個室
・誰もいないはずなのに人影が見える体育倉庫
・塗り込められた使用不可の扉
・二年一組の黒板に出て来る手形
ザッと見ただけで、背筋がゾクッとした。
「ご、ごめん……私やっぱり……」
宿泊場所の武道館で、明かりを煌々と点けて待っていたいと言いたかったのに、その用紙をよくよく見たら、言葉の途中で思わず違う悲鳴をあげてしまった。
「に、二年一組っ!? 本当に? 一学年六クラスで……全部で三十も普通教室はあるっていうのに……よりによってうちのクラス?」
眩暈を覚える私に、智史君はもう一度ニッコリと笑った。
「かなり有名な話なんだけど……やっぱり琴美は知らなかった?」
(やっぱりってなんだろう……やっぱりって……)
周りから見た自分という人間を、知れば知るほど悲しくなる。
「大丈夫だよ。琴美は俺が守るから」
背後から快活な声をかけられて、なんとも複雑な心境になった。
(違う!)
大声で叫んでしまいたいのを、必死に我慢する。
満面の笑みで私を見ている諒をふり返って、改めて腹が立った。
(諒は絶対にそんなこと言わない! 言うはずないもの!)
『お前……やっぱりバカだろう?』
こういう時には決まって私をバカにしていた諒の口癖。
心底呆れたような表情も、思い出すだけで腹が立つ言い方も、しっかりと私の記憶に残っている。
でも今はいない。
どこにもいない。
(この……諒の中に入ってる『誰か』のせいで!)
決意を込めて見つめる視線になどまったく気がつかず、諒なのに諒じゃないその『誰か』は、私の手をひっぱって歩き始めた。
「俺たちの受け持ちの音楽室って、ここから一番遠いじゃないか……早く行ってスタンバらなきゃ……な?」
スタスタと歩き続ける背中の後ろを歩きながら、私は唇を噛みしめた。
「ああっ! しまった!」
すでに特別棟四階――つまり『HEAVEN』と同じ階にある音楽室に到着してから、私は重大なことに気がついた。
(早く早くって急がせるもんだから……せっかく買ったお守りや護符を荷物の中に忘れてきちゃったじゃないのよ!)
諒じゃない諒への対応策としてわざわざ購入したんだったのに、これでは全然意味がない。
(どうしよう……取りに行く? でもなんて言って?)
葛藤しているうちに最初のグループがもう音楽室に来てしまって、私はその場から動けなくなった。
「はい、チェックシート下さい。チェックします」
おざなりに言いながら音楽室の箇所に丸をつけている諒を横目に見ながら、私は隅に座っていた。
到着したグループは一年生だろうか。
きゃあきゃあと恐がっている女の子たちを、男の子たちがちょっぴり頑張って先導していて実に初々しい。
(うん……これは確かに良いところ見せれたら、恋の一つや二つ生まれるかもしれないわね……)
頬杖をつきながら、私はそんなことを考えていた。
実際、私たちの仕事は『七不思議』の検証にやって来た人たちが危険な目にあったりしないように見張ることで、その他には特にやることもない。
誰も来ない時間帯が長く続くと、暇すぎて眠くなってくるほどだ。
なるべく諒と関わらないために、離れた所に座って会話もしないようにしているからなおさら――。
諒も諒で、やって来る参加者に応待している時以外は、黙って座っている。
きっと何かとんでもないことを言ったりしたりするんじゃないかと、心の準備をしていた私にとっては拍子抜けするほどだった。
「なんだ……やっぱりピアノなんて鳴り出さないじゃん……」
大方の参加者は音楽室にしばらく滞在した後、ホッとしたように、ガッカリしたようにそう言いながら出て行く。
教室の前の方に置かれたグランドピアノは蓋も閉まっているし、さすがにこれが鳴ることはないだろうと、私自身も思っていた。
(七不思議って言ったって……一つ一つ確かめていけば、どれも全部ただの噂でしたってことになるんじゃないかな……?)
もちろんそれで全然構わない。
参加者だってそのへんのところはきっとわかっているだろう。
ところが――。
予定の三時間も半分が過ぎ、思ったよりも多くの参加者が音楽室を訪れて、そろそろ残りは数組かという頃になって、諒が突然動き出した。
問題のピアノの前に行って、椅子に座ると鍵盤の蓋を開く。
なるべく二人きりの時には話しかけないでおこうと決意していた私も、さすがにこれを見逃すわけにはいかなかった。
「ちょっと諒……なにやってんの?」
諒――正確には諒なのに諒じゃない『誰か』は、こちらをふり返ろうともしない。
そのまま流れるような手つきでピアノを弾き始めた。
「ちょ、ちょっと!」
焦る私なんかまったく無視で、かなり難しそうな綺麗な曲を、悠々と弾いていく。
私はその突然の行動にもだが、あまりの上手さにも呆気にとられた。
(す、凄い! これって絶対に諒の実力じゃないわ……なに? 中にいる人はいったい何者なの?)
やめさせることも忘れて、しばし呆然と立ち尽くした私の後ろで、突然音楽室の扉がガラッと開き、飛び上がるほどにビックリした。
(ひええええっ!)
息を切らして駆け込んで来たのは、ついさっきまで音楽室でしばらく粘っていた三年生の女の人だった。
グループの人たちが先に進もうと言っても、「私は音楽室のピアノが鳴り出すまでここにいる」と主張して、かなりの時間滞在していた人。
それでも最後は仕方なく移動していったんだったのに――。
(諒がピアノ弾いたりするから、勘違いして戻って来ちゃったんだ!)
私は申し訳ない思いで頭を下げた。
「す、すみません……」
女の人の後を追って来たらしい同じグループの人は、呆れたように扉の向こうから音楽室の中を覗きこんだ。
「なんだよ……生徒会のヤツが弾いてるんじゃん……おどかすなよ……な? まどか。やっぱり幽霊なんかいないって……」
まどかと呼ばれた小柄な三年生の女の人は、ブルブルと首を横に振った。
「だって先輩が最後に練習してたソナタなんだもん……あなた誰? ひょっとして柿崎先輩?」
ピアノの前に座ったまま微動だにしていなかった諒の肩が、あからさまにビクリと跳ねた。
(…………諒?)
それでも何か口を開こうとはしない。
重苦しい沈黙を破ったのは、扉の向こうの三年生の男の人だった。
「まどか……そいつはどう見たって生徒会の二年だろ? 柿崎先輩は死んだんだって……音楽室のピアノの噂を聞いた時には、俺もひょっとして? って思ったりもしたけど……覚悟の自殺だったんだから、今さら出て来たりするはずないだろ?」
「「違う!!」」
否定の叫びは二方向から同時に聞こえた。
まどかという女の人と諒と。
「自殺なんかじゃない!」
ピアノを弾くのを止めて立ち上がった諒は、キッと扉の向こうの男の人を睨んだが、その大きな瞳にはみるみる涙が盛り上がった。
「そんな……そんなつもりじゃなかったんだ……!」
男の人から女の人へと視線を移すと、二人にクルリと背を向けて歩き出した。
音楽室の南側の窓に近づいていって鍵を開け、窓を開く。
「諒?」
嫌な予感に名前を呼ぶ私のほうをふり返って、ポロポロと涙を零しながら笑った。
「さよならハニー」
「…………は? ちょっと諒?」
反射的に思わず走り出した私が窓に到達する前に、開いた窓の上にひょいっと飛び乗ると、向こう側に向かって一歩を踏み出す。
――真っ暗な窓の外に向かって。
「諒!!」
私の叫びも虚しく、諒の体は四階の窓から外へと消えていった。
「諒! 諒!」
叫びながら駆け寄った窓の桟をつかみ、遥か遠い地面を見下ろす。
そこにもし、見るも無残になった諒の姿があったら――と背筋が凍るような思いだったのに、窓から勢いよく上半身を乗り出した私とおでこがくっつきそうなほど近くに、諒の顔はあった。
「やあハニー……」
「きゃああああ!」
何が起こったのだか、よくわからない。
諒がいきなり窓から飛び下りて。
ここが特別棟の四階である以上、そんなことをしたらとんでもないことになるはずで。
なのにその諒は、私の目の前で、何事もなかったかのように元気に手を振る。
目の前の可愛い笑顔からゆるゆると彼の足元に視線を下ろして、私はようやくことの真相を知った。
諒は、三階の窓の上に幅1メートルくらいの広さで造られた庇の上に立っていた。
外から見たら真四角で、どこを見ても窓の外には何もないと思っていた特別棟だったが、どうやら三階の南向きの窓にだけは、庇があったのらしい。
(三階は……ええっと、視聴覚室? そうか……暗室を作る時のために、あらかじめ庇で光を遮ってあるのかな?)
いつのまにか悠長にそんなことを考えている自分を、私はハッと追い払う。
(いや……そうじゃなくって!)
キッと鋭い眼差しを諒に向けた。
「あのね……急に何を……!」
「するのよ! ビックリするじゃない!」と大声で怒鳴りつけたかったのに、そうは出来なかった。
私とほぼ同時に窓に駆け寄っていた三年生のまどかさんが、私の隣で両手で顔を覆って泣き出したのだ。
「柿崎先輩……!」
そのまどかさんに向かって、諒は下から手を差し伸べた。
「泣くなよ澤上……」
聞こえて来たのは確かに諒の声だったのに。
差し伸べられた手も確かに諒の手だったのに。
ちょっと悲しそうな表情で彼女を見上げる顔はとても諒には見えなかった。
諒の体であるにもかかわらず、そこに立っていたのは、明らかに他の『誰か』だった。
「俺ってほんっとバカだよな……この庇が付いてるのは、南側の窓全部だと思ってたんだ……だからちょっと驚かしてやろうと思って、空き部屋の掃除をしてた時に、友達の前で今みたいに飛んで見せたんだ……」
苦笑いのような表情から、彼はキュッと唇を噛みしめた。
「でも、一番西端の部屋の下には庇がなかった……」
私の心臓がドキリと跳ねた。
(一番西端って……今、私たちが『HEAVEN』として使ってる部屋じゃないのよ……!)
驚きの事実に息をのむ。
「だから澤上が言ってくれたみたいに、自殺なんかじゃないから! 絶対に違うから!」
キリッと彼女を見上げる諒に向かって、まどかさんは頷いた。
「うん。うん」
泣きながら何度も何度も頷いた。
「コンクールの本選に残って……ようやく澤上も同じ学校に進学して来るって時に、俺が自殺なんてするはずない……!」
「うん……うん……!」
「ごめんな……俺、ほんっとバカでごめん……」
まどかさんは俯きながら長い髪を揺らして、何度も何度も首を横に振った。
その場にいて二人の話を聞いているのは、なんだか違うような気がして、私は自然と後ろに下がった。
まどかさんと一緒に来た三年生の男の人も、廊下から教室の中に入って来たところで、呆然と立ち尽くしている。
彼も今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「裕太、そこにいるだろ? ……ごめんちょっとここから引き上げて」
窓の外から呼びかけられて、ハッとしたように裕太さんは動き出した。
まどかさんの隣に立って手を伸ばし、真っ暗な窓の向こうから諒を――いや、諒の中にいる『柿崎さん』という人を引き上げる。
「ありがとう」
再び音楽室の中に帰って来た柿崎さんは、にっこりと笑ってそう言ってから、三年生の二人に向かって深々と頭を下げた。
「話ができてよかった……どうしても二人にだけは伝えたかったんだ……俺が俺だってわかってくれて……話を聞いてくれてありがとう……」
「先輩!」
ポロポロと涙を零すまどかさんの隣で、裕太さんもこぶしを握り締めて深く俯いた。
「やあ……なんだか恥ずかしいところを見せちゃったね……」
しばらく話をした後、三年生の二人が音楽室を出て行ってから、諒の中の『柿崎さん』は、おもむろに私に向き直った。
「学年的には君より三つ上になるのかな……? 柿崎真也です……」
ペコリと頭を下げられたので、私も思わず頭を下げる。
「あ……近藤琴美です……」
中身は別の人だとわかっていても、私の名前なんてあきあきするぐらいに知っている諒相手に自己紹介しているみたいで、なんだか妙な気分だった。
「話はだいたいわかったと思うんだけど……そういうわけで、君にも、この『諒君』にも迷惑をかけた……あとでよろしく言っといてね……」
パチリと片目をつむって見せられて複雑な心境になる。
「それって……もう先輩は諒の中からいなくなるってことですか……?」
柿崎先輩は笑いながら小首を傾げた。
「うーん。確信があるわけじゃないんだけど……こういう場合は心残りが解消されたら成仏するもんなんじゃないの……? だから多分、もうすぐお迎えが来るんじゃないかなあ……?」
「そうですか……」
沈んだ声を出した私に、先輩はニッコリ微笑んだ。
「何? ひょっとして寂しくなっちゃった……?」
「そんなことはないです!」
憤然と顔を上げたら、冗談ぽく肩を竦められた。
「ただ……本当に、もうこれでいいのかなって思って……」
先を促すように私の顔をじっと見つめている視線から目を逸らさずに、私はさっきから考えていたことを彼に告げた。
「だって先輩……まどか先輩たちと昔話で盛り上がっただけで、肝心なこと言ってないじゃないですか……」
「肝心なこと……?」
「はい……好きだったんじゃないんですか? まどか先輩のこと……それなのにそんなこと一言も……」
先輩はすっと人差し指を伸ばして、私の唇に当て、「それ以上は言わないように」という意志を示した。
「俺はもう死んでる人間なんだ……今さら言ったってどうにもならないこともある……」
「でも……!」
真っ暗な音楽室の中に射しこんでくる月の光を背に受けて、先輩は寂しそうに笑った。
「伝えたって悲しくさせるだけの想いなら、伝えないほうがいい……」
「………………」
それ以上食い下がることは、私にはできなかった。
柿崎先輩とまどか先輩と裕太先輩は、幼馴染だったんだそうだ。
二つ年下の二人を、柿崎先輩は同じぐらい大好きだと笑った。
「裕太が俺と一緒で、まどかのことを好きなのは子供の頃から知ってた……いつかは殴りあいでもするかななんて、冗談みたいに考えてた……こんなことになって、すごく悔しくもあるけど、ホッとしてもいる……どうしたって俺に遠慮しちゃう裕太相手じゃ、ほんとは喧嘩だってできなかっただろうし……だからいいんだ。もう余計なことは何も言わなくていい……」
「先輩……」
彼は寂しそうに切なそうに、でも本当に綺麗に笑った。
「大切なのは、できる時に精一杯のことをやっておくことだよな……変な意地張ったりしないで、プライドなんか捨てて、正直な気持ちを相手に伝えておくことなんだって、今だからわかるよ……だから体を貸してもらったお礼に、この『諒君』を俺なりに手伝ってやったつもりなんだけど……」
「…………?」
首を傾げる私に向かって、先輩は一歩ずつ近づいてくる。
全身から漂うなんだか変な雰囲気と、たった今聞かされたばっかりの意味深な言葉に、どうしようもなく胸がドキドキする。
「だからハニー……」
背中がむず痒くなるようなセリフも、こんな幻想的な月光の中じゃ、あまり場違いには思えないのはなぜだろう。
でも人選がまちがってる。
こんな素敵なシュチュエーションで、見つめあっているのが私と諒だってのが、どう考えてもおかしい。
「あの、先輩……?」
恐る恐る呼びかけた私の両肩を、先輩がガシッとつかんだ。
「アイラブユー。ハニー」
(この上なく真面目な顔で諒が私にそんなことを言うなんて、絶対に違うから!)
さっさと逃げ出そうとするのになかなかそうはできない。
小柄なくせに諒のやつ、結構力がある。
「ちょ、ちょっと待って!」
必要以上に近づいてくる可愛い顔に心底焦って、私は諒の体を押し戻そうとするのだが、ピクリとも動かない。
「先輩! 先輩ってば! ぎゃああああ!」
自分のすぐ目の前で目を閉じた諒の長い睫毛を見つめながら、私は悲鳴を上げた。
その瞬間、私と諒の顔の間に大きなてのひらが割って入った。
「ストップ。さすがにこれはやりすぎでしょ、先輩」
諒の顔を大きな手が押し戻す様子を、呆然と見つめる私の耳に、よく知る声が聞こえてくる。
(これってまさか……!)
ガバッと背後をふり返った私は、色素の薄い綺麗な瞳とバッチリ目があって、慌ててその広い背中の向こうに逃げ込んだ。
「貴人!」
ギュッと上着の背中の部分を力任せにつかむと、貴人が小さく息を吐く。
「すっかり恐がっちゃってるじゃないですか……遊ばないで下さいよ……」
諒の中の柿崎先輩は、貴人の右手一本で後ろに下げられて悔しそうに手足をバタバタさせていた。
「遊びなんかじゃないさ。ほんとに、お礼にと思ったんだ……! だってこの『諒君』の頭の中って、彼女のことでいっぱいなんだよ……?」
「だけど実際……諒と琴美は恋人同士なんかじゃないです……」
「えっ? まさか片思い中だったの? ……じゃあ悪いことしたかな……?」
「……先輩」
深々とため息をついた貴人の声が、いつもより棘があるような気がするのは気のせいだろうか。
うしろ姿しか見えない私には、なんとも判断がつかない。
「そういうことは、本人にしかわからないんだし……もしたとえそうだとしても、先輩だったらそれを他の人に代弁して欲しいですか?」
「絶対に嫌だね」
「でしょう……? だったら少し察してあげて下さい……」
柿崎先輩はハッとしたように瞳を瞬かせると、貴人に向かって頷いた。
それからおもむろに私に向かって頭を下げた。
「ごめん。今まで俺が言ったことは全部忘れて下さい」
私だってそんなことはわかってる。
諒が私のことで頭がいっぱいなんて、悪口を考えてるのか、今度の試験でも勝ってやるぞと闘争心剥き出しなのか、おおかたそんなところだ。
(だけど散々私を振り回しておいて、『全部忘れて下さい』はないでしょう!)
「じょ、冗談じゃないわよ!!」
叫ぶ私の声を背中に聞きながら、貴人の肩が小刻みに揺れ出す。
「ちょっと、貴人……?」
つかんでいた上着を軽くひっぱりながら訝しげに問いかけたら、声に出して大笑いを始められた。
「もう! 貴人っ!」
彼が現われた瞬間、どんなに嬉しかったかなんてことも忘れて、肩を揺すって大笑いする貴人に、私は抗議の声を上げた。
「で? 何がどうなって、俺は音楽室のピアノの前で寝てたんだよ?」
無理な体勢で寝たためにすっかり凝り固まってしまった首をコリコリと鳴らしながら、諒は私たちにそう問いかけた。
『七不思議合宿』二日目の朝。
みんなで朝食を食べながら、今日これからの解散式について話を詰めていた『HEAVEN』のみんなは、全員がキッと寝不足の目を諒に向けた。
「いいよ、知らなくて! ……っていうか知らないほうがいいんじゃないの?」
夏姫に冷たく言い放たれて、諒は不審げに首を捻る。
「なんだよそれ……どういう意味だよ?」
「だから! あんたは何も知らなくっていいってことよ!」
力の限りに叫んだ私に向かって、諒はこの上なく嫌な顔をしてみせた。
「なんでお前にそんなこと言われなきゃなんないんだよ!」
態度は劣悪そのものだったのに、不覚にもぐっと来た。
(あっ……いつもの諒だ……!)
そう思っただけでホッとして、思わず気が緩んだ。
「げっ! なんで泣くんだ? お、おかしいだろ、おい……お前らしくないぞ……?」
「うるさい! なんとでも言って! あんたなんて……あんたなんて……!」
涙が止まらない。
悪態つかれて嬉しいなんて、自分でおかしいと思うけれども、しょうがない。
約二週間ぶりに、本当の諒が帰ってきたようなものなんだから仕方がない。
「琴美……」
隣に擦り寄ってきたうららを抱き締めて、私はポロポロと涙を零した。
「おい……」
諒はすっかり気をそがれてしまったらしく、それ以上はもう文句を言わなかった。
貴人が音楽室へと来てくれたあの後、待てど暮らせど『その時』は来なかった。
――本望を遂げた柿崎先輩が天に召され、諒の体から出て行ってくれる瞬間。
「おかしいな……なんでかな……?」
首を捻る先輩に、貴人はニッコリ笑って提案した。
「先輩。ピアノ弾いたらどうですか? 参加出来なかったコンクール本選だって、かなり心残りだったんじゃないですか?」
「そうか! そうだな」
嬉しそうにピアノの前に座った先輩の演奏は、夜が明けるまでずっと続いた。
とっくに終わった『七不思議検証』の持ち場から、ピアノの音に惹かれて音楽室へと集まって来た『HEAVEN』の仲間たちは、私と貴人に付き合って、先輩のピアノを一緒に聞いてくれた。
しかし先輩の膨大なレパートリーがなくなっても、諒の体にはまだ何の変化もない。
(ま、まだかしら……?)
窓の向こうから眩しい朝日が射しこむようになった頃、じっと耐え続けているみんなの辛そうな様子を見ながら、智史君が口を開いた。
「どうですか……? もう、心残りはないですか?」
額に汗を浮かべながら、肩で大きく息を繰り返している諒(中身は柿崎先輩)は、うんうんと頷いた。
「そんなもの、もうとっくにないよ!」
智史君はニッコリと微笑んだ。
いつもは天使のようなその微笑みが、今日は眼鏡をかけていないにも関わらず、ちょっと黒いような気がしたのは、私の気のせいだろうか。
「じゃあ、そろそろ時間なんでうららを起こしますね」
(それが先輩といったいどんな関係が?)
首を捻る私の目の前で、智史君は大事に腕に抱えていたうららの耳に口を寄せ囁いた。
「うらら。朝だよ……起きて」
ピクリとうららの真っ白な頬が震えたかと思うと、パッチリと目も開いた。
「おはよう、うらら」
「おはよう、智史」
あまりにも良すぎるうららの寝起きだが、完全な二人の世界を邪魔する気は私にはない。
いつものことだと思って見て見ぬフリをしていた私の前を通り過ぎ、立ち上がったうららは真っ直ぐに柿崎先輩に近付いて行った。
ピアノの前の椅子に座る先輩をチラリと見下ろし、智史君をふり返る。
「もう帰してもいいの?」
「ああ。本人がそう言ってたから」
笑顔で答えた智史君に、うららは小さく頷くと、すっと柿崎先輩の額に手を当てた。
「帰りなさい。本来あるべき場所に」
フッと諒の体から力が抜けるのが、見た目にもよくわかった。
崩れるように床に倒れそうになった体を、剛毅が抱き止める。
同時のに倒れたうららも、いつの間にか再び目を閉じ、智史君に抱きかかえられている。
「ごくろうさま……」
眠るうららに向けられた智史君の笑顔が実はちょっと恐くて、私は言いたかった言葉を何ひとつ言えなかった。
(う、うららがお祓いみたいなことができるんだったら……最初っからそう言ってよ! 私の苦労はなに……? お小遣いはたいて買いこんだお守りと護符は、いったいなんだったの!)
怒りの言葉は、一言も口には出せなかった。
「まあいいか……準備段階から全然覚えてないんだけど、企画が一つ終わったんだったら、それでいいってことで……」
誰にも詳細を教えてもらえない諒は、どうやら開き直ることにしたようだ。
「キャンプだとか、旅行だとか、肝試しとかって希望はもう聞いたことになるんだろ? だったら結構、数も減っただろう……よしよし」
腕組みする諒の目の前に、貴人が一枚の用紙を取り出した。
「それにこれもね……」
用紙を貴人から受け取った諒は、声に出して読み上げる。
「なんだよ……『柿崎先輩に会いたい……』って……なんだこれ?」
「………………!」
私は思わず貴人の顔を仰ぎ見た。
貴人はニッコリと笑いながら頷いてくれた。
「叶ったよ……ね?」
「そうね……本当に良かったわ……」
美千瑠ちゃんの呟きに、あちこちから賛同の声があがる。
「そうね……」
「そうだね」
しみじみと言葉を交し合う仲間の中で、諒だけがムッと口を尖らす。
「なんだよ! 俺だけ仲間外れかよ!」
繭香がチラリと諒に視線を向けた。
「どうしても知りたいんだったら琴美に聞け! それ以外の人間は教えることを禁じる!」
いったいどんな権限での発言なのだろう。
冷静に考えればおかしな話なのに、『HEAVEN』のみんなは繭香に逆らう気はない。
――それはグッと息をのみこんだ諒も一緒。
「わ、わかったよ!」
クルリとみんなに背を向けた諒を大きな声で笑いながら、貴人は私に囁いた。
「いつか話してあげてよ」
「うん……」
寝不足の頭は重く、体はクタクタだけれど、いつもどおりの貴人の笑顔と、いつもどおりの諒のむくれた顔が、妙に眩しい、爽やかな夏の朝だった。
夏休みとは名ばかりの、課外授業の毎日。
一日四時間の授業は、クーラーのない真夏の教室が殺人的な気温に到達しないうちに、朝早い時間から開始され、昼には終わるように計画されている。
なのに私は毎日、授業が終わるとお昼ご飯を持って、結局午後からは『HEAVEN』にいるのだから、今がまだ休み中であるという感覚はほとんどない。
「あーあ……結局プールにも海にもいけないまま、夏休みが終わるのか……」
窓際の自分の席で、いつものように開けっ放しの窓から頭だけ外に出してため息をつくと、隣の席で机に突っ伏していた諒が、チラリと冷たい視線をこちらに向けた。
「プールならお前……合宿の時にも泳いでただろ……」
「学校のプールの話じゃないわよ! こういう場合のプールは、ちょっと大きな遊泳施設に決まってるでしょ! 波のプールやウォータースライダーなんかがあるところよ……!」
私がすかさず反論すると、むっくりと頭を起こして、諒は顔ごとこちらを向いた。
「とかなんとか言いながら……合宿二日目の日は散々昼寝したあとに、ガンガン泳いでたじゃないか。波もウォータースライダーもありゃしない学校の二十五メートルプールで……全力遊泳!」
皮肉たっぷりの言葉に、私はこぶしを握り締めた。
「いいじゃないのよ! あれはあれでスッキリしたかったの! 思いっきり体を動かして、きれいさっぱり忘れたいことが……私にだってあるのよ!」
「だいだい全部諒のせいじゃないのよ!」
とは、今は言わないでおく。
合宿の夜に諒の身に何が起こったのか。
まだ本人には何も話していない。
繭香が「琴美以外の人間は教える事を禁じる」宣言をした以上、教えてあげられるのは私だけなのだが、諒の方が聞いてこないのでそのままにしている。
夏休みに入る前から記憶がほとんどないことなんかを考えて、諒も自分でおおかた見当はついているのだろう。
あまりそういう関係の話が得意じゃないのはお互いさまだ。
もう蒸し返す必要もないだろうと、私は諒の心理を勝手にそう解釈している。
「別にいいじゃないか、また学校のプールででも泳げば……部活の連中だって、たまには練習のあとに泳いでるぞ? 見つかったら水泳部と先生に、二重で怒られるけどな……」
部屋のほぼ中央の席で汗を拭き拭き領収書の整理をしていた剛毅が、淡々と言ってのけた。
私はがっくりと肩を落とす。
「そうじゃなくって……」
そう。
私が言いたかったのはそういうことではないのだ。
プールや海というのは、言わばものの例え。
本当に言いたかったのは――。
「なあ……特にすることもなくって毎日暇じゃねえ? 新しい企画、まだかな? 貴人は何も言ってなかった……?」
毎日『HEAVEN』に顔を出しているわけでもない順平君の、アイスクリームを食べながらの問いかけに、「そう! それよ!」と駆け寄って握手したい気分だった。
なんとなく集まって、なんとなくこの間の企画の事務処理を続けてはきたが、そろそろこの部屋で、暑さにうだりながらやる仕事もなくなってきた。
(何かやることないのかなー。何もないんだったらみんなで遊びに行くんでもいいんだけど……)
その思いが、きっと私に、海とかプールとかいう言葉を出させたのだ。
しかし――。
『HEAVEN』に今日集まっているのは、私と諒と剛毅と順平君と玲二君だけ。
いつも以上に参加人数が少ない上に、肝心の貴人まで珍しくまだ来ていない。
順平君の問いかけにみんなが首を横に振って、貴人からは何も聞いていないと返事する様子を確かめてから、私はガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。
「暑いから暴れんな……」
隣で呟いた諒の頭は、一発殴っておく。
「繭香だったら何か知ってるかも……! 私、ちょっと聞いてくるね!」
やること発見、とばかりに歩き出した背中に、諒の声がかかった。
「あまりにも暑いからってお前……自分だけ繭香のいる保健室に涼みに行こうとしてるんじゃないだろうな?」
「違うわよっ!」
ふり向きざまに叫んだら、ちょうど部屋に入って来た人物とドシンとぶつかった。
「ごめん! ……あれっ、琴美? どこ行くの?」
貴人だった。
両手で肩をつかまれ、顔を覗きこまれた格好のまま、私は静かに首を振る。
「いや……どこにも行く必要はなくなったわ。たった今……」
プッと吹き出した貴人が大笑いを始めないうちに、さっさと背を向けて自分の席に帰る。
「残念でした」
諒が嫌味に笑いながらこちらを見るので、もう一度殴ろうとしたが、今度は上手くかわされてしまった。
そんな様子を微笑んで見ながら、貴人は部屋の最奥の自分の席についた。
「夏休みもあと一週間なわけだけど、そろそろ文化祭の準備を始めたほうがいいと思って……」
言いながらバサバサと大量の書類を机に積み始める貴人に、みんな一斉に驚きの声をあげた。
「文化祭!!」
私ももちろん、一番大きな声で叫んでいた。
「だ、だってまだ二ヶ月も先の話だろ?」
玲二君の言葉に、同意の意味でみんながうんうんと頷く。
文化祭がおこなわれるのは、例年十月の終り。
しかも我が星颯学園の文化祭は、文化祭とは名ばかりの、自由参加の文化部発表会なのだ。
各教室に展示されているのは、美術部や写真部の作品か、科学部や○○同好会の活動報告なんかだけ。
各クラスごとの取り組みはないから、お化け屋敷はもちろん、模擬店だってない。
舞台発表のほうも、吹奏楽部や演劇部や合唱部ぐらいしか参加しないから、午前中で終わってしまう。
観客は、自分も舞台に立つ文化部員だけ、という悲しさ。
生徒の多くは無欠席の記録を残すために学校に来るには来るが、自分の教室か図書室で勉強をしているという実に意味のない文化祭を、実は私も去年は過ごした。
しかし――。
「うん。せっかくだからこれまでとはいろいろと変えようと思って……そうすると準備に時間がかかるから、早めに始めなくちゃね……!」
楽しげな貴人の声に、諒がむっくりと体を起こした。
剛毅も玲二君も順平君も姿勢を正して、貴人の次の言葉を待ち構えている。
私だって、待ってましたとばかりに期待の目を向けた。
貴人はそんなみんなの顔を見渡して、満足げに微笑む。
「今年は各クラスごとに展示を一つ、舞台発表を一つやってもらおうと思ってる。せっかく二日間もあるんだから、一日交代でできるだろ? 舞台発表は有志の参加も受け付けて……それから後夜祭。そこでダンスパーティー。告白タイムを設けてくれって意見もあるな……ミスコンにミスターコン。学校中使ってのトレジャーゲーム……ってこれを、生徒会の展示にすればいいか……後は仮装行列……これは来年の体育祭にまわすとして……」
延々とどこまでも続きそうな話に、私は恐る恐る途中で口を挟んだ。
「あ、あの……貴人? 今、言ったやつ全部やるの? 二ヵ月後の今年の文化祭で?」
「ああ」
さも当然だと言わんばかりに、貴人は力強く頷いた。
手には例のアンケート用紙が何枚も握られている。
「まだまだあるよ。『美千瑠さんのドレス姿が見たい』とか、『智史君の写真が欲しい』とか個人に的を絞った希望もかなり寄せられてるから、それを全部含めて、生徒会の舞台発表は劇をしようかと思ってる……」
「ち、ちょっと待って……!」
ざっと聞いただけでも、完全に私の行動可能範囲を越えている。
私の人よりちょっと回転の速い頭が、フルスピードでまわり始めた。
(つまり……何?『HEAVEN』として文化祭の準備をしながら、自分のクラスの展示と舞台発表にも参加し、その上『HEAVEN』でも展示と舞台発表をするってこと? ……無理! 何よりもまず、学校一クラスの仲が悪い二年一組がみんなで何かを作り上げるってことが、絶対に無理!)
心の動揺はいつもどおり、すっかり顔に出てしまっていたようだ。
「大丈夫だよ」
貴人は笑い、諒はため息をついた。
「俺だって嫌だよ……お前がクラスの連中ともめるのを仲裁してまわるのは……」
「毎回毎回そんなことしないわよ! 失礼ね!」
私は憤然と諒を睨みつけた。
(私だっていつも柏木たちともめてるわけじゃないわよ! あっちが何もしてこなかったら、大人しくしてるわ……きっと……多分……)
だんだん自分で自分に自信がなくなっていく心理も、どうやら余すことなく顔に書いてあったらしい。
貴人は肩を揺すって大笑いを始めた。
「大丈夫だよ、琴美……ハハハッ、大丈夫」
お腹を抱えて大笑いされると、いかに貴人の言葉とは言え、あまりにも信憑性がない。
ムッとむくれる私に、貴人は涙を拭き拭き謝った。
「ごめんごめん……『HEAVEN』でやる劇の内容だったらもう決めてあるから、そんなに大変じゃないと思うよ。『白雪姫』をベースにアレンジして、お姫様や王子様が出てくる童話チックな話をやるんだ。主役の姫は夏姫に決定……!」
「夏姫!?」
叫んだのは私ではない。
剛毅と玲二君が同時だった。
「無理! ……無理無理! っていうか、それ……本人が聞いたら怒り狂うぞ?」
「なんで夏姫? いかにも『姫』が似合いそうな女子が、うちには他に何人もいるじゃないか……!」
部屋の中を見回そうとして、玲二君はそれをやめて、もう一度貴人に視線を戻した。
確かに今日は女子の出席率が悪いが、私だけはここにいるのだが――。
口に出して言うと虚しくなりそうな言葉は、心の中だけに止めておいた。
「ちゃんと理由はあるよ。でも例によって俺の秘密行動の分野だから、それはまだ教えられない……夏姫の説得はちゃんと俺がやるから……」
自身満々に貴人は笑うけれど、夏姫の嫌そうな顔は私にだって見える気がした。
「ひょっとしてそれも……例のアンケートに関係あるのか?」
諒の問いかけに、貴人は悠然と微笑んだ。
「だからまだ内緒だよ。……美千瑠は文化祭実行委員長として、もう学校側との話し合いに参加している。智史は各文化部に連絡を取り始めた。うららはポスター作成。今回はいろいろと作るものが多いだろうから、みんなも手伝ってやって……順平は『HEAVEN』の展示・トレジャーハントの担当。後夜祭は可憐。剛毅と玲二が舞台のタイムスケジュールを組んで、仕切って、展示の方の場所の割り振りは琴美と諒。繭香はいつもどおり、総監督。俺は秘密行動。そして今回、夏姫は……舞台に向けての練習と役作りに集中。……これでいいかな?」
次々と述べられた鮮やかな役割分担に、条件反射のようにうんうんと頷き続けていて、今回はうっかり「なんでまた諒とペアなのよ!」と声をあげそびれてしまった。
隣に座る諒も、それどころではないような表情でため息をついている。
「絶対に嫌だって言うと思うぞ……夏姫……」
「大丈夫。きっと説得してみせるから」
貴人はもう一度自信満々に言って、瞳を煌かせた。
貴人の笑顔で「何もすることない」という不満が吹き飛んだ途端、とけそうな暑ささえ気にならなくなり、ドキドキするような期待と不安がいっぺんにやって来た八月の午後だった。
「は? なんであたし? ……冗談でしょ?」
翌日、部活に行く前にちょっとだけと『HEAVEN』にやって来た夏姫に、二ヵ月後の文化祭で劇の主役に決まったと伝えたが、怒り狂うどころか、ちっとも信じてもらなかった。
「だってお姫様でしょ? 美千瑠は? 繭香だって可憐だっているじゃない……うららだっていいし……あたしなんかお呼びじゃないわよ!」
(どうしてそこで私の名前だけあげないの……!)
口に出すと虚しさだけがつのるセリフは、心の中だけで叫ぶ。
「でも貴人はそう決めたって言ってたよ? ……まあ確かになんかわけはありそうな感じだったけど……貴人が決めたんなら決定でしょ?」
「いやよ」
夏姫の拒否の言葉は極めて速く、なんの迷いもなかった。
「そんなこと言ったって……」
口ごもる私の肩を、トントンと剛毅が叩く。
「いくら言ったって無駄だって……貴人が自分で説得するって言ってたんだから、任せとけばいいんだよ……」
「なんて言って頼まれたって、絶対にあたしはやらないわよ!」
肩を竦める剛毅に向かって、夏姫がキリッと眼差しを強くした瞬間、部屋の入り口のほうから声がした。
「でも……頼みじゃなくって取り引きだったら、夏姫は応じるだろ?」
貴人だった。
いつものように余裕の笑顔で、トゲトゲに態度を硬化させている夏姫にも、なんのためらいもなく歩み寄る。
「夏姫が劇で主役をやったら、来年のインターハイ予選に俺も参加するよ」
「ほんとにっ?」
拒否が速かった夏姫は、食いつきも速かった。
「水泳部のほうに……とか、サッカーの試合が……とか言わない?」
「ああ。今度はちゃんと陸上部に参加する。だから……」
「わかった」
「ええええっ?」
私は思わず驚きの大声を上げてしまった。
(あ、あんなにきっぱりはっきりと断ってたくせに、いいの? こんなに簡単にひき受けちゃうの?)
心の中で叫んだだけだったのに、夏姫は私に向かっていとも簡単にこっくりと頷いてみせた。
「来年の夏の貴人を今から予約できるんだったら、これくらい安いものよ……ほんとは嫌だけど、しょうがないから受けてたつわ!」
「受けてたつって……」
頼もしい言い回しに微妙に不安にならずにいられない私に向かって、夏姫は右手をL字型に曲げ、細い腕に出来た立派な力こぶをポンポンと叩いてみせる。
「姫でもなんでもやってやろうじゃない! 気合いでやり切ってみせるわ!」
「うん。頼むよ」
笑顔で頷く貴人以外は、その場にいた全員、微妙に不安にならずにはいられない夏姫の意気ごみだった。
夏休みが終わるとすぐに文化祭の計画は全校生徒に発表され、まだ二ヶ月もあるというのに、すでに学校中が文化祭一色の雰囲気だった。
「後夜祭もあるんだって」
「ついに模擬店も出るんだね……楽しみ」
「初代ミス星颯は誰だと思う?」
聞こえてくる声はどれも今回の計画を喜んでくれているようで、やることは多くてたいへんだが、私の心も浮き立つ。
しかしワクワクとする気持ちも、一歩自分の教室に踏みこむと、穴のあいた風船みたいにシューッとしぼんでしまうのだった。
「なんで全クラスが参加しいないといけないわけ?」
「文化祭なんてやりたい奴らだけやればいいんだよ」
「図書室で勉強してるほうがよっぽど有意義だ」
嫌味ったらしく私の近くで囁かれる否定的な意見に、バアアンと机を叩いて立ち上がったり、「あんたたちねぇ!」と叫び出したい思いを私は必死でこらえていた。
隣の席の諒があからさまに「大丈夫か、お前?」と言うような目を向けるので、なおさらここで自分の短気に負けるわけにはいかない。
「だ、大丈夫よ……」
引きつった笑顔を向けたら、ブッと吹き出された。
まったく失礼な奴だ。
「とりあえず……展示のほうは何か簡単に調べられる物を教室に展示して、舞台のほうは歌でも歌っておけばいいんじゃないか?」
文化祭での出し物を決めようという話し合いでも、おざなりに誰かが提案したもの以外には他に意見もなくて、我が二年一組の演目は、実にやる気のないものに決定しようとしている。
(あのねえ……いくらなんでもそれはないでしょ!)
やっぱり我慢できなくて、満を持して立ち上がろうとしたのに、諒に先を越された。
「あらかじめ参加者を募っておいて、当日、舞台でクイズ大会でもやれば? そこで優勝した奴が、この学園で一番知識多い人間ってわけだ……まあ与えられる称号はクイズ王でも雑学王でもいいけどさ……」
キラーンと、二年一組三十六名中三十名以上の目つきが変わった気がした。
「この学園で一番……! 王……!」
とにかく周りよりも一つでも成績の順位を上げることに余念がない我がクラスで、みんなが注目せずにはいられない言葉の使い方を、諒はよくわかっている。
クラス委員をしている柏木一派の黒田君も、まるでもうそれが決定事項であるかのように、黒板にでかでかと『クイズ大会』と板書する。
「予選はやっぱりペーパーテスト?」
「もちろん俺たちだって出場できるようにするよなあ?」
「希望者ばかりじゃなくて、こいつはって奴には出場を打診することにすれば?」
途端に活発に交わされ始める意見。
放っておいても、どうやら熱のこもった舞台発表ができそうだ。
(やるじゃない……!)
素直に功績を称える気持ちで視線を向けると、諒は偉そうに顎をつんと上向けて胸を反らした。
「俺は出場者にまわるからな……お前も出ろよ? 絶対に貴人も出場させてやる!」
「諒……前回、一学期の期末テストで負けたもんだから、ひょっとして自分が貴人と勝負したいだけ……?」
まさかと思って尋ねてみると、諒はただでさえ大きな目をくわっと見開いて、私を睨んだ。
「悪いか?」
「…………別に悪くは無いわよ……」
諒の本来の目的を知る由もなく、クイズ大会の細かな内容を詰めるための話し合いは、どんどん進んでいくのだった。
お昼休み、三組からふらっとやって来たうららと佳代ちゃんと共に、繭香も誘って、中庭の芝生でお弁当を食べた。
九月になったばかりでまだまだ陽射しは暑く、じっとしているだけで汗ばんできそうなのは、教室にいたって外に出たって同じ。
だったら外のほうが風が吹くだけましなんじゃないかと移動してみたのだったが、正解だった。
木陰に入っていればかなり涼しい。
「だけど良かった……舞台発表が合唱にならなくて……」
佳代ちゃんの呟きに繭香が訝しげに首を傾げる。
佳代ちゃんはちょっと困ったように、照れたように小さく笑った。
「私、よくピアノ伴奏を頼まれるから……でも大きな舞台に上がると緊張しちゃうし、今回はもう別のところでやらなきゃいけないことがあるから、いくつもいっぺんに練習するのは難しいし……」
納得したようにコクコクと頷く繭香の横で、私は何気なく尋ねた。
「へえー、もう何か決まってるんだ……どこの手伝いをするの?」
佳代ちゃんは私の顔と繭香の顔とうららの顔を順番に見た。
「本当は関係者以外には秘密って言われてるんだけど……三人とも『HEAVEN』のメンバーなわけだから、各クラスの出し物は結局把握するんだもんね……」
「ああそうだな」
繭香の言葉を聞いて、ホッとしたように佳代ちゃんは続けた。
「二年五組よ。吹奏楽部の部員が多いから、生演奏でミュージカルをやるんだって……」
(なるほど……)
納得した。
きっと渉づての依頼なのだろう。
頬をちょっと染めて、そのくせ私のことを気にして表情をひき締めて、佳代ちゃんは早口で簡単に告げた。
「ミュージカル? しかも生演奏? そんなものやるのか五組……?」
呆れる繭香に向かって佳代ちゃんはニッコリと笑う。
「うん。主役は杉浦さんだって言ってたよ……」
「美千瑠! そうか……私たちの劇では主役を張らなくていいわけだからな……」
「うん」
「それにしたってたいへんだと思うよ? 美千瑠ちゃん、文化祭の実行委員長なんだし……」
私の心配に答えるように、これまで話を聞きながら黙々とお弁当を食べていたうららが突然口を開いた。
「美千瑠だけじゃない。六組のバンド演奏は順平が中心。三組のゲーム喫茶は智史が監修。きっと二組も……」
クルリと首を向けたうららに対して、繭香は忌々しげに頷いた。
「ああ、もちろん貴人を中心に展示も舞台もやるだろうな。とうの本人がノリノリだからな」
「凄っ!」
みんないったいどこにそんな余裕があるんだろう。
私なんて『HEAVEN』の出し物のほうも、クラスの出し物のほうも、その他大勢として参加するだけでいっぱいいっぱいなのに。
「でも今のところ一番凄いのはうららだ。ポスターもパンフレットも、一人で全部の原画を描いている……」
繭香の指摘に、思わずビックリしてうららの顔をマジマジと見てしまった。
「そ、そうなのうらら?」
「うん。だからあまり寝ていない。今朝起きたのは四時」
「四時!」
夜八時には眠ってしまううららのことだから、せめて早く起きて作業しようということなのだろうが、それにしても四時は早いと思う。
思わず叫んだ私の顔を真っ直ぐに見つめるうららの瞳には、実際には何が映っているのかよくわからない。
それぐらいに綺麗で不思議な色をしている。
「琴美……眠い……」
ガックリと細い首を折って、うららが私の肩の上に頭を乗せてきた。
いつでもどこでも寝れる特技を、今この場所で実行するように決めたようだ。
「ち、ちょっとうらら?」
とまどう私に繭香は言った。
「寝かしてやれ。起こすのは簡単だ。智史が声をかければ、それでいい。わざわざ呼びに行かなくても、うららがどこにいるのかだったらきっと把握してるだろう」
促されるまま第一校舎の二階を見上げると、三組の窓から智史君がニコニコと手を振っている。
(ほんとだ……)
私も手を振り返して、うららはしばらく休ませてあげることにした。
すうすうと軽い寝息をたてる彼女の頭を、不思議なことに私はいつだって重いと感じたことはなかった。
「違う! 違う! ちっがーう!!」
体育館の舞台に上がっての立ち稽古の真っ最中。
ようやく形になりつつある劇の雰囲気をぶち壊しにするような声が、もう何度目か、私たち『HEAVEN』の『白雪姫』の劇の練習を中断させる。
叫んでいるのは、脚本と演出を一手に引き受けた貴人ではない。
主演女優の夏姫――その人である。
「そうじゃないのよ! 白雪姫ってのは、絶対にこんなキャラじゃないのよ!」
主役である自分の役柄がどうにも納得いかないらしく、頭をガシガシとかきむしりながら、今日何度目かわからないセリフを必死で叫ぶ。
「ねえ……白雪姫ってもっと可愛らしくて女の子女の子した姫でしょ? 小人と一緒に畑で鍬を奮ったり、訪ねて来た継母を素手で撃退するような姫じゃないわよね?」
夏姫の戸惑いと困惑はもっともだった。
劇の台本と言って貴人がみんなに手渡した冊子には、こと細かにセリフが書いてあるわけではない。
その場面に誰がいるのかの人物名と、話の流れだけが大まかに記してある。
ページのほとんどに「セリフと動きは個人の判断で」とか「その場の雰囲気で」とか書かれており、出演者の解釈次第でどうとでもなる内容だ。
書かれたとおりに自由にやった結果、思った方向とはどんどんかけ離れていくようで、夏姫のイライラは募り続けている。
「ねえ……小人がもっと優しく守ってくれたら、私の姫だってもっと可愛らしくなるんじゃない?」
七人の小人に扮した私たちに向かって、夏姫は仁王立ちで腕組みをしながらそんなことを言った。
(いや……そのポーズからして『可愛らしい』にはほど遠いから……)
面と向かって突っこむ勇気がなく、さり気なく目を逸らす私とは真逆に、隣にいた順平君は素直な声を上げた。
「だってさあ……例え森の中で熊に襲われたって、腕の立つ殺し屋が家に忍びこんできたって、絶対俺らより夏姫のほうが強いぜ?」
(こ、この正直者!)
夏姫はちょっと目尻の上がった勝気そうな瞳を、ずらりと横一列に並んだ私たちに順番に注いだ。
「確かに……私の白雪姫より頼りになりそうな小人なんていないわね……」
七人の小人の役になっているのは、右から順に美千瑠ちゃん、可憐さん、順平君、私、うらら、智史君、諒。
繭香を除いて身長の低いほうから七人を選んであるので、私たちに囲まれると、ただでさえ等身が高くて背が高く見える夏姫は、なおさら大きく見える。
しかも小人の七人はほとんどが文化部系なので、順平君の言うとおり、よく日に焼けた夏姫が一番腕っぷしが強く見えるのは確かだった。
「しかも王子まで……体だけ大きくって赤面症の内気王子だし……」
舞台袖で、ドキドキする胸を押さえながら出番を待っている玲二君に目を向けて、夏姫は大きな大きなため息をついた。
「ねえ貴人……やっぱり……」
「ダメだよ。キャスト変更も脚本変更も受けつけない。夏姫が主役を降りたら、その時点で俺との約束もなしだから……!」
舞台正面に置いたパイプ椅子に深々と座り腕を組んで、まさに『監督』というようなポーズで私たちの稽古を黙って見ていた貴人は、夏姫の不満をニッコリ笑いながら一刀両断にした。
「うっ……」
貴人ととりつけた、来年の夏陸上部に参加するいう約束だけは、どうやら夏姫にとってどうしても譲れないものらしい。
気分を変えようとするかのようにブンブンと肩を回して、再び私たちに向き直った。
「しょうがない……もう一度、最初からやるわよ……!」
「う、うん……」
慌てて所定の位置に移動しながらも、こんな調子で本当に文化祭にまにあうのかと、不安にならずにはいられない私だった。
『白雪姫』の劇をやるに際して、貴人は設定をいじったり、特に話の筋を変えたりはしないと言った。
「同じ役でも、誰がやるかによって自然と違ってくるものだからね」という言い分は確かに正しいが、夏姫が気にしているとおり、話がだんだん原作からズレていっているのは確かである。
物語の序盤で、剛毅扮する猟師に姫が殺されようとする場面でも、当の姫が恐がっている様子はない。
それどころか猟師を返り討ちにしそうな貫禄である。
繭香扮する継母が姿を変えて訪問しても、妙に落ち着いてどうどうとしている夏姫の姫は、とてもそんな変装に騙されそうには見えない。
あっさりと継母の企みを看破してしまいそうだ。
「違うってば! こうじゃなーい!」
夏姫の叫びを笑いながら見ている貴人は、すでに肩を揺すって大笑いを始めている。
「いいんだよ。夏姫は夏姫らしく姫を演じれば……それで……!」
そのため、一見良いことを言ってそうな言葉にも実に信憑性がない。
「もういいっ! 今日は終りにするっ!」
夏姫が怒って舞台から降り、体育館を出て行ってしまうまで、結局私たちは何も為す術がなかった。
「なあ貴人……」
涙を拭き拭きようやく笑うのを止めた貴人に、今日はとうとう出番のなかった玲二君が歩み寄る。
「怒ってるようにしか見えないだろうけど……あれって結構困ってるんだよ、夏姫は……できるならもうちょっと、助けてあげてもらえないかな……?」
貴人はふっと真顔になって、真っ直ぐに玲二君を見つめた。
「それはきっと俺の仕事じゃないと思うよ……どう?」
逆に尋ねられて玲二君はとまどったような顔をしている。
「どうって……」
「誰が見たって怒っているようにしか見えない夏姫の様子を、『困ってるんだ』と言い切ってしまえるんだね、玲二……助けてあげられるのはきっと俺じゃないと思うよ……どう?」
途端に玲二君は顔から火が出そうなくらいに真っ赤になった。
「ど、どうって……」
いつも以上に動揺して、立派なスポーツマン体型にそぐわずうろうろし始めながら口ごもってしまう。
(あれれ? ひょっとして……?)
ピンと来たのはどうやら私だけではなかったようだ。
可憐さんと美千瑠ちゃんは何事かを囁きあっているし、繭香はさも嬉しそうに大きな瞳を爛々と輝かせて玲二君を見ている。
「玲二……もし良かったら私が占って……」
滅多に良い結果が出る事のない繭香の占いによって、玲二君がショックを受ける前に、私は急いで救済に出た。
「とりあえず夏姫を追いかけてみよう! ね、そうしよう玲二君!」
王子のマント代わりにと、玲二君が首に巻いていた長い布を引っ張りながら叫ぶと、背後で諒が小声で呟いた。
「出た……! これぞ余計なお節介……」
「なんですって?」
一発ゴツンと殴っておきたいところだけど、今は無理だ。
ぐずぐずしてたら玲二君が繭香につかまってしまう。
「とにかく……今は行くわよ玲二君! ……諒! あとで見てなさいよ!」
バタバタバタと体育シューズの音を響かせて走り去る私の背中を見送りながら、
「人のことには敏感なくせに、なんだって自分のこととなるとあんなに鈍感なんだ……? ……あーあ……なんかまた疲れてきた……」
諒が呟いた言葉は、息せききって走る私の耳には届かなかった。
「夏姫!」
姫のスカート代わりに腰に巻いていた長い布を取って、すでに部活用の短パン姿になってしまっていた夏姫は、軽い準備運動をしながら、グラウンドまで追いかけてきた私と玲二君をふり返った。
「何?」
別に悪気があってぶっきらぼうに答えているわけではないと、私も玲二君もわかっているから気にしないが、知らない人だったら話をする気もなくなってしまいそうなくらい、夏姫の返答はつれない。
「何って……」
特に今言いたいことがあったわけではなく、繭香の呪いまがいの占いから玲二君を救い出すためだけに夏姫を追ってきた私は、一瞬返答に困った。
「やっぱりもうちょっと……劇の練習したほうがよくない……?」
苦し紛れに言葉を搾り出すと、夏姫はぷいっと顔を背けた。
「時間の無駄よ。どうせやるたびに違う内容になるんだし、どんどんもとの話からは遠ざかって行くんだし……もう、本番さえちゃんとやればいいって気がする!」
それはもっともだと納得する自分の気持ちを奮い立たせて、私は言い募った。
「でもほら……まだ練習してない部分だってあるでしょ? 王子が登場してからの場面とか……?」
ふり向いて見てみたら、急に話を振られた玲二君が青くなっていた。
赤くなったり青くなったり、彼は実に心理状態がわかりやすい。
考えていることが顔に書いてあるといつもみんなに言われる私は、ついつい親近感が湧いた。
「やっぱりちょっとくらいは練習しとかないと……ね?」
助け舟を出すように、玲二君の気持ちを代弁したつもりだったのに、彼は青い顔のまま、ブルブルと首を横に振っている。
(え? 何? 違うの?)
訝しく思う私の顔を、それまで背を向けながら柔軟を続けていた夏姫がふり返った。
その表情は、気のせいばかりではなく本当に、かなり怒っているように見えた。
「それこそ、練習の必要ないわ。いくら練習したって上手くいきっこないもの!」
言うが早いか、クルリと背を向けてさっさと走って行ってしまう身軽な背中。
「夏姫!」
さらに言い募ろうとする私を、玲二君がそっと制止した。
「いいよ琴美……今はいくら言ったって意地になるだけだ……」
「そうなの……?」
やっぱり玲二君はかなり夏姫のことを理解している気がする。
(それってやっぱり……そういうこと?)
思った事を口に出さずにはいられない私は、思い切って本人に問い質してみることにした。
「玲二君って……夏姫が好きなの?」
グラウンドの隅に置かれたベンチに並んで座り、販売機で買ったジュースを片手に、部活に励む夏姫の姿を見ながら、私は単刀直入に玲二君に切り出した。
彼は口にしかけていたジュースをブッと吹き出して、かわいそうなくらいに赤くなった。
「そ、そ、そんなことはないよ」
「ごめん。そう言われても、もうとても信じられそうにない……」
真正直に答えた私の言葉を聞いて、玲二君はガックリと肩を落とした。
「いや、謝らなくってもいいよ……俺も別に秘密にしてるわけじゃないし……」
「そうなの?」
「うん。ただまったく気付いてもらえないだけだから……」
「まったく?」
「そう……まったく……」
言いながらしゅんと肩を落としていく姿がかわいそうで、それ以上はなんだか聞きづらい。
夏姫とその手の話はしたことがないが、はたして玲二君のことをどう思っているのかと、自分の頭の中だけで考えてみる。
(体だけ大きくって頼りないって、いつも叱ってばっかりの気がするなあ……)
あまり相手に気を遣わず、言いたい事を言ってしまう夏姫だが、玲二君には特にそれが顕著な気がする。
(でも……『私が玲二だったら、もっとこうするのに!』って悔しがってるところを見ると、もともとの能力の高さは買ってるのかも? それが上手く発揮されないことにイライラしてるわけで……)
パチンと答えが出た。
(うん。これは望みがないわけじゃないわね。きっと玲二君の努力次第だわ!)
すっくとベンチから立ち上がった私を、玲二君が驚いたように見上げた。
「な、なんだよ……急に……?」
「大丈夫! 私にまかせておいて!」
どーんと胸を叩く私の姿を、見つめる玲二君の目は途端に不安に揺れ始める。
「いや……特にどうにかしたいってことはないんだけど……」
迷子のように頼りなげな視線に、ちょっと夏姫の気持ちがわかるような気がする。
玲二君は背だって高いし、サッカー部では不動のストライカーだし、もっと自信を持ってプレイすれば、プロになるのも夢じゃないなんて言われているらしい。
なのに弱気な性格が災いして、学校生活じゃほとんど目立たないし、試合中でも競り合いになったらちょっと引いてしまうところがあるのだ。
(あれ? ちょっと待って……私が知ってるこの情報って、ほとんど夏姫から聞いたものじゃない……)
ピンと何かが心に響いた気がした。
(いける気がする! 私の腕次第では!)
「こ、琴美……なんか企んでそうな凄い顔してるけど……」
本当に人の様子を観察することにおいては、玲二君は一流だ。
「俺は別に、今のままでも……」
おろおろと意思表明されてしまう前に、私はガバッと玲二君を真正面から見据えた。
「後夜祭のダンス! 夏姫が他の人と踊ってもいい?」
「…………!」
瞬間息をのんだ玲二君に素早く頷いて、先に言葉を継ぐ。
「OK。私が協力するわ!」
「お、おい……」
遠回しに断られる前に、体育館に向かって走り出す。
(やっぱり誰かに協力してもらわなくっちゃ……私が気付くくらいだから、きっと他のみんなだって気付いてるはずだもんね)
さて誰がいいのだろうと思案する頭の中に、諒の呟きが甦る。
『出た……! これぞ余計なお節介……』
ムッとして、その声を頭からふり払った。
(絶対あいつにだけは知られないようにしなくちゃ!)
決意を込めて力強く走り続ける私には、
「おおーい琴美! 待てってば!」
玲二君の悲愴な叫びも聞こえてはいなかった。