剛毅の手によって保健室へと運ばれた諒は、電子体温計が故障しているんじゃないかと疑うぐらいの高熱をマークした。
「よ、四十度!?」
さすがにそれはマズイんじゃないかと焦る私たちの目の前で、ウンウン唸っていたかと思ったら、しばらくすると安らかな寝息をたててすやすやと眠り始めた。
さっきまで真っ赤だった顔があっという間にいつもの顔色に戻ったことを不審に思い、諒の額に触ってみて、思わず驚きの声が出る。
「さ、下がってる……!」
次々とみんなも諒の額に触れた。
「……本当だ」
「なんで……? ねえ、おかしくない?」
「おかしいよ……! もちろんこの上なくおかしいよ!」
ざわめくみんなの中で、私は必死に記憶の糸を手繰り寄せていた。
(待って……待ってよ……? なんかこれって、前にも覚えがない? ……多分中学時代……それもきっと私ができるだけ思い出したくないようなことに関係しているような……?)
意識の深いところで、考えることを拒否しようとする自分の心と戦いながら、私は懸命に思い出そうと努力する。
(なんで突然倒れたんだろ? 確か今日、『HEAVEN』に集まったばかりの頃は、諒だって普通だったよね……私に喧嘩を売る余裕があったんだもん……そのあと何があったっけ……?)
順を追って考えてみたら、答えはすぐに見つかった。
(まさか……!『肝だめし』の話……?)
ハッとしながら、ベッドに眠る諒の顔を見た。
長い睫毛をピッタリと閉じて眠る顔はどちらかと言えば童顔で、中学時代とそんなに変わってはいない。
中学時代もずっと諒と同じクラスだった私は、忘れもしない修学旅行での事件を思い出した。
――諒の巻き添えとなってクラス全員、いや、学年全員がどんなに酷い目にあったのかを。
まるで眠る諒から逃げようとするかのように、自然と私の足は後退る。
ふとベッドを挟んで向こう側にいる繭香と目が合ったので、すがるように叫んだ。
「ま、繭香! お祓い! お祓いはできないの?」
「は?」
何を言われたのかわからないとばかりに、文字どおり繭香は目が点になった。
そして次の瞬間――。
「……私がやるのは占いだけだ! お祓いなんて……そんなもの、出来るわけないだろう!」
大きな瞳でグワッと睨まれて、私は小さく飛び上がった。
「そ、そうだよね……できるわけないよね! ……ごめん……なんか混乱してて……」
しどろもどろに言い訳を始めた私に、貴人が歩み寄って来た。
「琴美、どうしたの? なにか……お祓いをお願いしたいようなことがあるの?」
努めて真剣な顔で尋ねてくれるけれど、目が笑ってる。
本当はどうしようもないくらい大笑いしたいのを、必死に我慢してるってことが、ありありと顔に書かれている。
「確かに笑い話みたいだけど……これは本当に切実な願いなのよ……!」
私の叫びにやっぱり予想どおり、貴人は肩を揺すって大笑いし始めた。
中学生の修学旅行と言えば、その行き先はたいてい決まっている。
名所遺跡めぐりや、歴史の教科書に出てくるような建造物の見学など、およそ普段は家族でも友達同士でも行きそうにない所に行くのが、お約束だ。
私が卒業した中学でもご多分に漏れず、三日間の行程中、バスに詰め込まれて、たくさんのお寺や古墳を見て回った。
その途中で諒が倒れたのは、二日目の夕方だった。
ちょうど今日みたいに突然の原因不明の高熱に倒れた諒は、一人別行動となって旅館に連れ帰られるとすぐに、熱も引いたのだそうだ。
なんだ、たいしたことはなかったのかと、担任らが安心したのも束の間、目を覚ました諒は、およそ人間業とは思えないスピードと身のこなしで、旅館中を駆け巡りだしたらしい。
『こら勝浦! なにやってんだ!』
『やめなさい! 何がしたいんだ……? とにかく止まりなさい!』
担任や学年主任の声をまったく無視して、壁と言わず床と言わず四つん這いになって無茶苦茶に走り続けた諒は、二時間ほどが経つと、またコロッと丸くなって眠り始めた。
その姿は、まるで野生の獣のようだったという。
おかしな奴だと呆れながらも、ひとまずホッとした担任たちの思いを裏切って、きっちり二時間後にまた諒は起き上がった。
その後どうなったのかだったら、実際に私もその場にいて見て聞いていたのだから、少しの恨みをこめてもっと詳細に説明することができる。
私たち他の生徒が旅館に帰って来た時は、ちょうど諒の三回目の走り回りが始まったところだった。
四つん這いでもの凄いスピードで走り続ける諒は、小さく息を弾ませながらもまるで疲れているようには見えなかったが、髪振り乱して追いかける担任や学年主任や旅館の従業員は、それはそれは可哀相なことになっていた。
『ま……待て……待ちなさい……!』
息も絶え絶えの大人たちを気の毒に思った陸上部員や他の運動部員らが捕獲役をかってでて、諒を追い込もうとしたが、それでも捕獲することは無理だった。
結局、二時間後に電池が切れたように丸くなったところを捕らえ、次はもう起き上がれないように縛っておいた。
なのに、さらに二時間後に目を覚ました諒は、自分の体にぐるぐるに巻かれたその縄をなんなくスルリと解いてしまい、また走り出したのだった。
『なんなのよ、もう!』
『いつまで続くんだよ、これ!』
驚くばかりの思いはとっくに通り越して、次第に疲れで、みんなのイライラが増していく。
二時間ごとの全力疾走は旅館内をくまなく廻るので、男子も女子も、夜中になっても誰一人眠りにつくことができない。
旅館を貸切っていたことが幸いだったとはいえ、先生方の疲労と困りようは、見ているほうが気の毒になるほどだった。
いったい何が起こっているのか。
訳もわからないまま夜は明け、ほとんど寝ていない修学旅行生を乗せたバスは、諒が眠りについた隙をついて、最後の観光地めぐりに出発した。
行き着いた先のお寺で、死んだように眠りこんでいるバージョンの諒を見たお坊さんが、
『これはいけません! 今すぐ除霊しなければ!』
と顔色を変え、そこでようやく私たちは、諒に何が起こっていたのかを知ったのだった。
――どうやら何か動物の霊に取り付かれていたのらしい。
「そんな事あるもんか」とか、「信じられない」といったセリフは、あの時の諒を見ていない人だから言える言葉だと思う。
見るからに霊験あらたかなお坊さんの言葉を、教師をまじえた学年一同、誰も疑いはしなかった。
大きな大きな安堵のため息でもって、しっかりと受け入れた。
その後の旅行の日程は大きく変更されて、何はともあれ、そのお寺で諒にとり憑いた霊の除霊が始まった。
お坊さんの唱えるお経と振り撒かれる清めの塩にのた打ち回る諒の姿は、確かに人間のものとは思えず、叫び声は両手で耳を塞ぎたいほど恐ろしいものだった。
私たちの昨夜の苦労はなんだったのかと思うほど呆気なく、諒の除霊は終わった。
いつもの状態に戻った諒が、
『なあ……なんだかすっごく体中が痛いんだけど……なんで?』
霊にとり憑かれていた間のことは何も覚えておらず、同級生一同がついつい殺意を覚えてしまったことと、
『どうやら霊に気に入られやすい方のようですので、今後もお気をつけください……』
というお坊さんの、ゾッとするようなアドバイスは、今でもハッキリと覚えている。
「だから……これは本当に、恐ろしい事態なのよ!」
放課後の保健室ですやすやと眠る諒を見下ろしながら、私は必死に叫んだ。
「うーん、そうは言われても……やっぱりそう簡単に、『はいそうですか』とは信じられないなよなぁ……」
腕組みしながら首を捻る剛毅を、私は敢然と見上げる。
「もちろんよ! 私だって、霊なんて信じたくないし、この上なく現実主義者なのよ! でもあの時の諒は、確かにもの凄かったの! なんて言うか……他には理由がつけようがないくらいおかしかったのよ!」
本当はさっさと諒のそばから逃げ出してしまいたい気持ちを必死にこらえ、私はみんなに訴える。
――今、ひょっとしたら私たちはかなり危ない状況にあるのかもしれないということ。
しかしみんなはなかなか、諒をそこに放っておいて逃げようという気持ちにまではならないようだ。
「まあとりあえず……諒が目を覚ましてからでもいいんじゃない?」
順平君の提案に、貴人がもう一度私の顔を見た。
「琴美……それでもいい?」
ダメだと叫びたいけれど、今この場でみんなの賛同を得ることは難しそうだ。
それに今回は私の思い過ごしという可能性もある。
「…………うん」
渋々頷いた瞬間に、諒が、
「うーん……」
と目を覚ました。
一瞬、緊張で身を硬くした私をよそに、ごそごそとベッドの上に起き上がると、
「あれ? みんな何してんだ?」
とぐるりと周りを取り囲んだ私たちを見回す。
「何してんだじゃないわよ……! 急に倒れたくせに! ……まあ、もう平気そうだからいいけど……じゃあ、これでもう私は部活のほうに行くから!」
夏姫がさっさと保健室から出て行くと、剛毅と玲二君もおもむろに動き始めた。
「俺も行くかな……貴人、例の件はまた後日計画を詰めよう……諒! 遅くまで勉強ばっかりしてないで早く寝ろよ!」
「……なんだよ、それ?」
諒は訝しげに首を捻っている。
『HEAVEN』に残っている智史君とうららに、諒が無事だったと教えに美千瑠ちゃんは向かい、順平君と可憐さんはそれぞれに今日はもう帰路についた。
「なんだ……なんでもないじゃないか」
ちょっと咎めるように私を見つめる繭香の視線が痛い。
「うん、そうだね……ごめん」
あまりにもあの時と状況が似ていたため、先走りしすぎてしまったのだろうか。
私の早とちりは今に始まったことではないけれど、さすがにこれはことがことだけに少し恥ずかしい。
「でも、中学時代の話は本当に本当なんだよ?」
「はいはい」
繭香の適当な相槌に貴人がクスリと微笑む。
「そういう事があったってことを、知っておくのは悪くないよ……大丈夫だよ。琴美」
「うん」
いつもながらに貴人の言葉に救われるような気持ちになり、ようやく私も笑うことができた。
「おい! なんだよ? 俺にもわかるように説明しろよ……」
ちょっと怒ったようにベッドから下りる諒に背を向けて、貴人と繭香は保健室の扉から出て行く。
「帰りながらゆっくり話すよ」
笑い含みの貴人の声を追おうとした途端、私はふいに諒に腕をつかまれた。
「待てよ、マイハニー」
「……………………はい?」
なんだか今、とてつもなくおかしな言葉が聞こえた気がする。
この場にそぐわないとか、私たちには似合わないとかいった次元ではなくて、ただもうひたすら有り得ない。
有り得なさ過ぎるセリフを諒が言ったような――そんな気がする。
(ええっと……なんの聞きまちがいかな?)
そう問いかけようとして諒の顔を見て、私は全身が硬直した。
熱を帯びたように妙に色香の漂う瞳で、諒が真っ直ぐに私の顔を見ていた。
頬を薄っすらと赤く染めて。
優しげな微笑を唇に浮かべて。
(ちょ、ちょっと待って…………誰? この人?)
思わずそう思わずにはいられないほど、彼は今、普段の無愛想この上ない諒とはかけ離れた表情をしている。
「琴美……」
甘く名前を呼ばれて、鳥肌が立った。
(諒は私を名前で呼んだりしないわよ……!『お前』とか『おい』とかいつも適当に失礼な呼び方しかしないんだから……!)
いかにも美少年然としたキラキラの瞳で、私を真正面から見つめている諒に、恐る恐る尋ねてみる。
「諒……どこか頭でもおかしくなった?」
いつもなら絶対に怒るはずなのに。ほんのついさっき、みんなといつもどおりの会話を交わしていた諒だったらまちがいなく
「なんだと!」
と私にくってかかるはずなのに。
彼は微笑みを崩さないままに、やんわりと首を横に振った。
「いいや……俺はいつもどおりだよ?」
(いや……そのしゃべり方からしておかしいから! 私にそんな顔で笑いかけてる時点で、すでにおかしすぎるから!)
鋭い訂正の言葉を実際に口に出すより先に、諒がぐいっと私の腕を引き寄せた。
バランスを失って、ヨロヨロと諒のほうに倒れそうになった私を反対の腕で受け止めて、彼は私の頬にそっと唇を寄せた。
(……………………はい?)
すでに頭の中でまったく理解できないその行動と、
「アイラブユー」
耳元で囁かれた声に、私は我慢できずに悲鳴を上げた。
「ぎゃああああああ!」
驚天動地の私の叫びは、保健室がある第一校舎中に響き渡った。
「よ、四十度!?」
さすがにそれはマズイんじゃないかと焦る私たちの目の前で、ウンウン唸っていたかと思ったら、しばらくすると安らかな寝息をたててすやすやと眠り始めた。
さっきまで真っ赤だった顔があっという間にいつもの顔色に戻ったことを不審に思い、諒の額に触ってみて、思わず驚きの声が出る。
「さ、下がってる……!」
次々とみんなも諒の額に触れた。
「……本当だ」
「なんで……? ねえ、おかしくない?」
「おかしいよ……! もちろんこの上なくおかしいよ!」
ざわめくみんなの中で、私は必死に記憶の糸を手繰り寄せていた。
(待って……待ってよ……? なんかこれって、前にも覚えがない? ……多分中学時代……それもきっと私ができるだけ思い出したくないようなことに関係しているような……?)
意識の深いところで、考えることを拒否しようとする自分の心と戦いながら、私は懸命に思い出そうと努力する。
(なんで突然倒れたんだろ? 確か今日、『HEAVEN』に集まったばかりの頃は、諒だって普通だったよね……私に喧嘩を売る余裕があったんだもん……そのあと何があったっけ……?)
順を追って考えてみたら、答えはすぐに見つかった。
(まさか……!『肝だめし』の話……?)
ハッとしながら、ベッドに眠る諒の顔を見た。
長い睫毛をピッタリと閉じて眠る顔はどちらかと言えば童顔で、中学時代とそんなに変わってはいない。
中学時代もずっと諒と同じクラスだった私は、忘れもしない修学旅行での事件を思い出した。
――諒の巻き添えとなってクラス全員、いや、学年全員がどんなに酷い目にあったのかを。
まるで眠る諒から逃げようとするかのように、自然と私の足は後退る。
ふとベッドを挟んで向こう側にいる繭香と目が合ったので、すがるように叫んだ。
「ま、繭香! お祓い! お祓いはできないの?」
「は?」
何を言われたのかわからないとばかりに、文字どおり繭香は目が点になった。
そして次の瞬間――。
「……私がやるのは占いだけだ! お祓いなんて……そんなもの、出来るわけないだろう!」
大きな瞳でグワッと睨まれて、私は小さく飛び上がった。
「そ、そうだよね……できるわけないよね! ……ごめん……なんか混乱してて……」
しどろもどろに言い訳を始めた私に、貴人が歩み寄って来た。
「琴美、どうしたの? なにか……お祓いをお願いしたいようなことがあるの?」
努めて真剣な顔で尋ねてくれるけれど、目が笑ってる。
本当はどうしようもないくらい大笑いしたいのを、必死に我慢してるってことが、ありありと顔に書かれている。
「確かに笑い話みたいだけど……これは本当に切実な願いなのよ……!」
私の叫びにやっぱり予想どおり、貴人は肩を揺すって大笑いし始めた。
中学生の修学旅行と言えば、その行き先はたいてい決まっている。
名所遺跡めぐりや、歴史の教科書に出てくるような建造物の見学など、およそ普段は家族でも友達同士でも行きそうにない所に行くのが、お約束だ。
私が卒業した中学でもご多分に漏れず、三日間の行程中、バスに詰め込まれて、たくさんのお寺や古墳を見て回った。
その途中で諒が倒れたのは、二日目の夕方だった。
ちょうど今日みたいに突然の原因不明の高熱に倒れた諒は、一人別行動となって旅館に連れ帰られるとすぐに、熱も引いたのだそうだ。
なんだ、たいしたことはなかったのかと、担任らが安心したのも束の間、目を覚ました諒は、およそ人間業とは思えないスピードと身のこなしで、旅館中を駆け巡りだしたらしい。
『こら勝浦! なにやってんだ!』
『やめなさい! 何がしたいんだ……? とにかく止まりなさい!』
担任や学年主任の声をまったく無視して、壁と言わず床と言わず四つん這いになって無茶苦茶に走り続けた諒は、二時間ほどが経つと、またコロッと丸くなって眠り始めた。
その姿は、まるで野生の獣のようだったという。
おかしな奴だと呆れながらも、ひとまずホッとした担任たちの思いを裏切って、きっちり二時間後にまた諒は起き上がった。
その後どうなったのかだったら、実際に私もその場にいて見て聞いていたのだから、少しの恨みをこめてもっと詳細に説明することができる。
私たち他の生徒が旅館に帰って来た時は、ちょうど諒の三回目の走り回りが始まったところだった。
四つん這いでもの凄いスピードで走り続ける諒は、小さく息を弾ませながらもまるで疲れているようには見えなかったが、髪振り乱して追いかける担任や学年主任や旅館の従業員は、それはそれは可哀相なことになっていた。
『ま……待て……待ちなさい……!』
息も絶え絶えの大人たちを気の毒に思った陸上部員や他の運動部員らが捕獲役をかってでて、諒を追い込もうとしたが、それでも捕獲することは無理だった。
結局、二時間後に電池が切れたように丸くなったところを捕らえ、次はもう起き上がれないように縛っておいた。
なのに、さらに二時間後に目を覚ました諒は、自分の体にぐるぐるに巻かれたその縄をなんなくスルリと解いてしまい、また走り出したのだった。
『なんなのよ、もう!』
『いつまで続くんだよ、これ!』
驚くばかりの思いはとっくに通り越して、次第に疲れで、みんなのイライラが増していく。
二時間ごとの全力疾走は旅館内をくまなく廻るので、男子も女子も、夜中になっても誰一人眠りにつくことができない。
旅館を貸切っていたことが幸いだったとはいえ、先生方の疲労と困りようは、見ているほうが気の毒になるほどだった。
いったい何が起こっているのか。
訳もわからないまま夜は明け、ほとんど寝ていない修学旅行生を乗せたバスは、諒が眠りについた隙をついて、最後の観光地めぐりに出発した。
行き着いた先のお寺で、死んだように眠りこんでいるバージョンの諒を見たお坊さんが、
『これはいけません! 今すぐ除霊しなければ!』
と顔色を変え、そこでようやく私たちは、諒に何が起こっていたのかを知ったのだった。
――どうやら何か動物の霊に取り付かれていたのらしい。
「そんな事あるもんか」とか、「信じられない」といったセリフは、あの時の諒を見ていない人だから言える言葉だと思う。
見るからに霊験あらたかなお坊さんの言葉を、教師をまじえた学年一同、誰も疑いはしなかった。
大きな大きな安堵のため息でもって、しっかりと受け入れた。
その後の旅行の日程は大きく変更されて、何はともあれ、そのお寺で諒にとり憑いた霊の除霊が始まった。
お坊さんの唱えるお経と振り撒かれる清めの塩にのた打ち回る諒の姿は、確かに人間のものとは思えず、叫び声は両手で耳を塞ぎたいほど恐ろしいものだった。
私たちの昨夜の苦労はなんだったのかと思うほど呆気なく、諒の除霊は終わった。
いつもの状態に戻った諒が、
『なあ……なんだかすっごく体中が痛いんだけど……なんで?』
霊にとり憑かれていた間のことは何も覚えておらず、同級生一同がついつい殺意を覚えてしまったことと、
『どうやら霊に気に入られやすい方のようですので、今後もお気をつけください……』
というお坊さんの、ゾッとするようなアドバイスは、今でもハッキリと覚えている。
「だから……これは本当に、恐ろしい事態なのよ!」
放課後の保健室ですやすやと眠る諒を見下ろしながら、私は必死に叫んだ。
「うーん、そうは言われても……やっぱりそう簡単に、『はいそうですか』とは信じられないなよなぁ……」
腕組みしながら首を捻る剛毅を、私は敢然と見上げる。
「もちろんよ! 私だって、霊なんて信じたくないし、この上なく現実主義者なのよ! でもあの時の諒は、確かにもの凄かったの! なんて言うか……他には理由がつけようがないくらいおかしかったのよ!」
本当はさっさと諒のそばから逃げ出してしまいたい気持ちを必死にこらえ、私はみんなに訴える。
――今、ひょっとしたら私たちはかなり危ない状況にあるのかもしれないということ。
しかしみんなはなかなか、諒をそこに放っておいて逃げようという気持ちにまではならないようだ。
「まあとりあえず……諒が目を覚ましてからでもいいんじゃない?」
順平君の提案に、貴人がもう一度私の顔を見た。
「琴美……それでもいい?」
ダメだと叫びたいけれど、今この場でみんなの賛同を得ることは難しそうだ。
それに今回は私の思い過ごしという可能性もある。
「…………うん」
渋々頷いた瞬間に、諒が、
「うーん……」
と目を覚ました。
一瞬、緊張で身を硬くした私をよそに、ごそごそとベッドの上に起き上がると、
「あれ? みんな何してんだ?」
とぐるりと周りを取り囲んだ私たちを見回す。
「何してんだじゃないわよ……! 急に倒れたくせに! ……まあ、もう平気そうだからいいけど……じゃあ、これでもう私は部活のほうに行くから!」
夏姫がさっさと保健室から出て行くと、剛毅と玲二君もおもむろに動き始めた。
「俺も行くかな……貴人、例の件はまた後日計画を詰めよう……諒! 遅くまで勉強ばっかりしてないで早く寝ろよ!」
「……なんだよ、それ?」
諒は訝しげに首を捻っている。
『HEAVEN』に残っている智史君とうららに、諒が無事だったと教えに美千瑠ちゃんは向かい、順平君と可憐さんはそれぞれに今日はもう帰路についた。
「なんだ……なんでもないじゃないか」
ちょっと咎めるように私を見つめる繭香の視線が痛い。
「うん、そうだね……ごめん」
あまりにもあの時と状況が似ていたため、先走りしすぎてしまったのだろうか。
私の早とちりは今に始まったことではないけれど、さすがにこれはことがことだけに少し恥ずかしい。
「でも、中学時代の話は本当に本当なんだよ?」
「はいはい」
繭香の適当な相槌に貴人がクスリと微笑む。
「そういう事があったってことを、知っておくのは悪くないよ……大丈夫だよ。琴美」
「うん」
いつもながらに貴人の言葉に救われるような気持ちになり、ようやく私も笑うことができた。
「おい! なんだよ? 俺にもわかるように説明しろよ……」
ちょっと怒ったようにベッドから下りる諒に背を向けて、貴人と繭香は保健室の扉から出て行く。
「帰りながらゆっくり話すよ」
笑い含みの貴人の声を追おうとした途端、私はふいに諒に腕をつかまれた。
「待てよ、マイハニー」
「……………………はい?」
なんだか今、とてつもなくおかしな言葉が聞こえた気がする。
この場にそぐわないとか、私たちには似合わないとかいった次元ではなくて、ただもうひたすら有り得ない。
有り得なさ過ぎるセリフを諒が言ったような――そんな気がする。
(ええっと……なんの聞きまちがいかな?)
そう問いかけようとして諒の顔を見て、私は全身が硬直した。
熱を帯びたように妙に色香の漂う瞳で、諒が真っ直ぐに私の顔を見ていた。
頬を薄っすらと赤く染めて。
優しげな微笑を唇に浮かべて。
(ちょ、ちょっと待って…………誰? この人?)
思わずそう思わずにはいられないほど、彼は今、普段の無愛想この上ない諒とはかけ離れた表情をしている。
「琴美……」
甘く名前を呼ばれて、鳥肌が立った。
(諒は私を名前で呼んだりしないわよ……!『お前』とか『おい』とかいつも適当に失礼な呼び方しかしないんだから……!)
いかにも美少年然としたキラキラの瞳で、私を真正面から見つめている諒に、恐る恐る尋ねてみる。
「諒……どこか頭でもおかしくなった?」
いつもなら絶対に怒るはずなのに。ほんのついさっき、みんなといつもどおりの会話を交わしていた諒だったらまちがいなく
「なんだと!」
と私にくってかかるはずなのに。
彼は微笑みを崩さないままに、やんわりと首を横に振った。
「いいや……俺はいつもどおりだよ?」
(いや……そのしゃべり方からしておかしいから! 私にそんな顔で笑いかけてる時点で、すでにおかしすぎるから!)
鋭い訂正の言葉を実際に口に出すより先に、諒がぐいっと私の腕を引き寄せた。
バランスを失って、ヨロヨロと諒のほうに倒れそうになった私を反対の腕で受け止めて、彼は私の頬にそっと唇を寄せた。
(……………………はい?)
すでに頭の中でまったく理解できないその行動と、
「アイラブユー」
耳元で囁かれた声に、私は我慢できずに悲鳴を上げた。
「ぎゃああああああ!」
驚天動地の私の叫びは、保健室がある第一校舎中に響き渡った。