「待てよ、可憐! 待てって!」
 諒がいくら呼んでも、走る速度を落とすことのなかった可憐さんの背中は、
「ちょっと待って! 可憐さん!」
 私の叫びに、ピタリと止まった。

 ためらうようにしばらく右往左往したあと、クルッと回れ右をして、今度は私に向かって一目散に駆けて来る。
「琴美ちゃん!」
 自分の胸に飛びこんで来たいい香りのする華奢な体を、私は慌てて抱き止めた。

「もう嫌だよ! 本当はこんなの嫌なの……!」
 涙混じりに叫ばれた言葉こそ、可憐さんの本音だと思った。
 だから、私は彼女の体をなおいっそうギュッと強く抱き締める。
「うん……私じゃあんまり役に立たないかもしれないけど、一生懸命考える……だから、可憐さんが今どんなことで悩んでるのか……教えて?」
「うん……」
 心の中に溜め込んだものを、誰かに聞いてもらうだけで楽になることもある。
 以前、貴人に教えてもらったその大事なことを、私はまだ忘れてはいなかった。
 
 
「最初は彼のほうからアプローチしてきたの。五つも年上なんて問題外だって思ってたから、私はさんざん無視したんだけど、そんなこと、全然気にしない人で……」
 宝泉学園から一番近かったという理由で、私と可憐さんは諒の家にお邪魔することになった。
 もちろん、初めて入った諒の部屋。
 ドキドキする気持ちはあるけれど、今はとにかく可憐さんの話を聞くことが大切だ。

 家に帰る早々「俺はちょっと……」といなくなった諒のことなんて無視で、私は可憐さんの話を真剣に聞いていた。
「あんまり毎日会いに来てくれてたものだから……ある日、姿が見えなかった時には、もう気になってしょうがなかった……計算なんかじゃなかったって、今でも信じてるけど……きっとあの時から、私のほうが彼にはまっちゃってたんだろうな……」

 ポロリと涙を零しながらも、小さく笑ってみせる可憐さんの様子が胸に痛い。
 口ではどんなに「もういい!」なんて言ったって、本当はその恋を手放したくなくて。
 でも絶望的な状況の中じゃ、どうする事も出来なくて。
 苦しくてたまらない思いなら、私はよく知っている。
 もう半年以上も前のことなのに、ついこの間のことにように思い出すことができる。

「わかるよ、可憐さんの気持ち……でも、彼氏さんが本当に大切だったら、勝手に決めつけないで、ちゃんと話をしたほうがいいと思う。ひょっとしたら、何かの間違いかもしれないし、理由があるのかもしれないし……」
 自分自身はまったくできなかったことを、人に勧めるのもどうかと思うが、あの時、そうできなかった自分を悔いているからこそ、ここは声を大にして叫びたい。

「そのほうが、こうやって逃げ回ってるよりはずっといいと思うよ……?」
 可憐さんが、涙に濡れた長い睫毛の目を私に向けた。
 きゅっとひき結んでいた桜色の唇を開いて、意を決したように私に答えるには――。

「いやよ」

 てっきりいい答えが返ってくるものだとばかり思っていたので、思わずガクッと前のめりに倒れるところだった。
「い、いやよって……」
「嫌なの! 私のほうから確かめるのも、彰人さんの言い訳を聞くのも嫌!」
 長い髪を左右に揺らしながら、小さな子供が駄々を捏ねるように、何度も首を横に振る可憐さんの様子に、呆気に取られてしまう。

「だからってこうやって逃げてばかりの自分も嫌! もうこのまま、彰人さんに会えなくなるのも嫌! 今こうしてる間にも、他の人が彼の傍にいるかもなんて、考えるだけで嫌なの!」
 あまりの『嫌』の連発に、だんだん笑いがこみ上げてきた。
 なんのことはない。
 なんだかんだ言ったってやっぱり可憐さんは彼氏さんのことが大好きなのだ。
 好きすぎて、いろんな感情を自分で持て余してしまっているのだろう。

(本当に……一回会っちゃえば、それで元の鞘に収まりそう……彼氏さんのほうだって、『あんなに惚れてるんだぞ!』って諒に言わせちゃうくらいなんだし……)
 そう考えて、ふと首を捻った。

(うん? でもその言い方だと、まるで諒が可憐さんの彼氏さんのことを、よく知ってるみたいじゃない……?)
 実際に耳にした時は気にも留めなかったセリフに、ひっかかりを感じる。
(あれ? ……なんでだろ?)
 記憶力と想像力を駆使して、私がいつものように考えを巡らし始めた途端に、バタンと大きな音をさせて背後のドアが開いた。

 ビックリしてふり返った先に立っていたのは、思いがけない人だった。
 てっきり諒が返って来たのだとばかり思ったのに、諒よりはゆうに十五センチは背が高い男の人。
 モデルばりの長身に、均整のとれた体。
 キリッとした精悍な顔の、たいそうなイケメン。

(どっかで会ったような……誰だっけ?)
 首を傾げた途端に、反対方向から可憐さんの悲鳴が聞こえた。
「彰人さん!」
 それでようやく、いつも車に乗ってる横顔ばかりを見ていた、可憐さんの彼氏さんなんだと思い当る。

(まさにグッドタイミング! ……でもなんで? ここ、諒の家だよ?)
 わけもわからず首を捻る私の目に、その時、彼氏さんの背後からひょっこりと顔を出す諒の姿が映った。
 私に向かって人差し指を向け、こっちに来いとでもいうように急いで手招きする。

(え? なに?)
 意味がよくわからずにポカンとしたら、すぐに諒はムッとしたような顔になった。
「いいから! はやく! こっちにこい!」
 大きく口を開けて、口パクでそう伝えられたから、これ以上機嫌を損ねないうちに、私は急いで立ち上がった。
「やだ……琴美ちゃん、どこに行くの?」
 焦って声を上げる可憐さんに心の中で手を合わせながら、急いでドアの向こうの廊下に向かう。
 だって、「早くしろ!」と口パクで叫ぶ諒の形相は、今言うことを聞かないとあとでどんな目にあわされるのかと不安になるくらい、もの凄い怒りがこもっているのだ。

 部屋に入ってすぐの所で立ち竦んでいた彰人さんと入れ替わるように、私がドアから廊下に出た途端、諒は私の腕を掴んで自分のほうへ引き寄せ、目の前のドアをガチャンと閉めた。
「諒!?」
「諒ちゃん!」
 可憐さんと彰人さんの驚きの声なんて完全無視で、諒はドアに付けられた南京錠をガチリとロックすると、私の手を引き歩き始める。

「これでよし! 母さんの付けたお仕置き用の鍵が初めて俺の役に立った! あとは本人たちでなんとかしてくれ……まったくいつになっても、世話の焼ける……!」
 私にはよくわからないセリフをブツブツと呟きながら、そのまま階段を下り、諒は私を一階のリビングへと連れて行った。

「しばらく時間がかかるだろうから、待ってるか? それとも先に帰る?」
 尋ねられるままに、
「えっと……待ってる……」
 と答えて、思わず自分の右手首を凝視してしまった。
 だってさっきからずっと、諒は私の腕をぎゅっと掴んだままだ。

「あ、わりい……じゃあなんか飲むか?」
 慌てて私の手を放してキッチンへと向かっていく諒の頬が、ほのかに赤い気がするのは、私の気のせいだろうか。
「うん。でもそれよりまず、何がどうなってるのか、説明してくれない?」 
 ちょっと強めの口調でそう言ったら、諒は私をふり返って、眉を寄せた。
「わかってるよ。そのへんに座ってろよ」
 可憐さんの相談に乗るつもりでここに来たのに、思いがけず諒と二人きりで過ごすことになってしまった。 
 頭の片隅をかすめる「今日、諒を待っていた私の本来の目的」に、本当はたまらなくドキドキしていた。
 
 
「彰人兄ちゃんは、うちの近所の兄ちゃん。俺の中学の頃の家庭教師でもある。あんな顔してて、オクテで口下手で……だから可憐に一目ぼれした時は、最初のうち俺がいろいろ手伝ったんだよ……まあ……相手が自分と同じ中学生だとは、とても見えなかったからな……高校に行ったら同学年にいるんで、すげえビックリした……」
「そう……」
 淡々とした私の返事は、どうやら諒のお気に召さなかったらしい。
 ムッとしたような視線を向けられる。

「今のは笑うところだろ。なんだよ……お前、なんか反応おかしくないか……?」 
「だって……」
 言いかけて私は、諒に淹れてもらったコーヒーのカップに視線を落として、口をつぐんだ。

(てっきり諒は可憐さんのことを好きなんだと思ってた。だからあんなに彼女のことに一生懸命なんだろうって……それを気にして、泣いたり悩んだり……私のこの数日間はいったい何だったわけ?)
 怒っていいのか、喜んでいいのか、なんとも複雑な心境で次の言葉が見つからない。
 そんな私に向かって、諒は問いかける。

「だって、なんだよ?」
 明らかにイライラしている様子に、ため息が出そうだった。
 腐れ縁の上に、なぜか一緒に組まされることの多い諒には、私の感情が、実は一番ごまかしが利かない。
 表情だけで心理状態を読み取ってしまう繭香以上に、全然騙されてくれないということを、私は知っていた。

(だめだ……このままじゃ、また喧嘩になる)
 長年の経験からそう悟った私は、諒がこれ以上機嫌を損ねる前に、さっさと言ってしまうことにした。
 でなければ、そのあとに続くべき、私の本来の目的なんて、口に出すことさえできなくなってしまう。
「私、諒は可憐さんを好きなんだと思ってたのよ……」
 渋々言葉にした、私のとんでもない勘違いに、諒は呆気に取られた顔をした。

「は?」
 無防備なその表情は、なんとも可愛くて、私がこっそりと胸を高鳴らせたのも束の間、すぐに諒は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「お前なあ! 何をどうやったらそうなるんだよ……ほんっとに、信じらんねえ!」
 心底呆れ切ったような声に、悪いのは自分のほうだと重々わかっているのに、ついつい負けん気が出てきてしまう。

「だってそう思ったんだもん! 諒だって、あんなに一生懸命可憐さんのこと追いかけてたじゃない!」
「だからそれは彰人兄ちゃんのためだろ!」
「そんなこと、私が知るわけないでしょ! だから……!」
 このままどんどん険悪になっていく前に、不毛な言い争いはもう終わりにしたい。
 そう思っているのに、口も体も、まったく私のいうことをきいてくれない。
 なのに――。

「ふざけるなよ! 俺が好きなのは、中学の頃からずっと……!」
 諒がそう叫んだ途端、間近で諒と向き合ったまま、私の体の全機能が停止した。

(中学の頃から? ……嘘? ……嫌だ! ……誰?)
 その先の言葉が聞きたくて。
 聞きたくなくて。
 私の両手は勝手に自分の両耳を塞いでしまっている。
 それなのに、諒を見つめる両目には、ぶわっと涙が浮かんでくる。
 ――まるで絵に描いたように情緒不安定な女。

 私のあまりに挙動不審な反応に、激高のあまり我を忘れかけていた諒が、ふと正気に返った。
「な……んだよ? ……どうした?」
 ほんのついさっきまで怒ってたくせに、そんなに心配そうな顔で私を見ないでほしい。
 まさに世紀の大失恋の直前だというのに、また不覚にもときめいてしまう。

「なんでもないわよ……ごめん、やっぱり私もう帰る!」
「えっ? おい! 待て……!」
 焦る諒をふり切って、私は諒の家から逃げ出した。
 
 
 その足でそのまま繭香の家に向かい、洗いざらいぶちまけて、大泣きして、諒のことはもう諦めようと思ったのに、それは実行できなかった。
 私が鳴らした玄関のチャイムを聞いて応対に出て来てくれた繭香は、なんと私を玄関先で追い返した。

「約束をちゃんと守れ! 次は琴美が諒を誘う番だっただろう!」
「だからそれはもうできないの! 可憐さんのことは誤解だったけど、諒には中学の頃からの好きな人がいるんだって!」
 繭香は心底呆れたような顔で私を見上げ、よく意味のわからない言葉を呟いた。

「そこまで聞いて、まだ……? よっぽど有り得ないって、はなっから頭の中で排除してるんだな……奴も気の毒に……」
「………………?」
 首を傾げる私に向かって、今度は明らかに棘を含んだ言葉を放つ。

「とにかく! この用紙に署名を貰って来い! 成功するかしないかは問わないが……もし実行に移さなかったら、その時は、私はもう琴美とは縁を切る!」
「そんなあ!」
 涙でぐしょぐしょに濡れながら、私は繭香が自分に押し付けた用紙に、目を落とした。
 それは、全校生徒何百人分も私がこの手で仕分けした、交流会の参加希望書に他ならない。

「無理だよ!」
「無理じゃない! 騙されたと思ってやれ! じゃあな!」
 泣いてすがる私を突き放して、ガチャリと玄関扉を閉じた繭香は、本当に鬼なんじゃないかと思った。

(なによお……友だちだったらこんな時は、慰めてくれるのが普通じゃない! 繭香の馬鹿ぁ!)
 流石にそれを口に出して言うことはしなかったが、こうなったら明日は学校を休んでしまおうと、私は心に誓った。
 
 
 しかし、内申書もパーフェクトの内容で大学受験に望もうと思っている私には、学校をズル休みしようなんて、どだい無理な話だった。
 いつもの時間に家を出て、いつもどおりに登校した最前列の自分の席で、机につっ伏していると、背後から嫌な声がかかる。

「どうしたの近藤さん? やっぱり悩みごと?」
 本当に、心から放っておいてほしいのに、柏木は今日はわざわざ自分の席を立って、私の前へと回りこんできた。
 どうしたらいいのかと途方に暮れて、私が机の上に投げ出していた参加希望書をさっさと取り上げる。

「ちょっと! なにすんのよ!」
 怒って顔を上げた私を、それはそれは気の毒そうな顔で見下ろした。
「なんだ……やっぱりパートナーがいなくて困ってるんじゃないか……」
 嬉しそうに笑うと、制服の胸ポケットからおもむろにボールペンを取り出す。

「ちょ、ちょっと……? 何するつもり?」
 嫌な予感に苛まれて、私が立ち上がった時にはもう遅かった。
 私にはとうてい手の届かない高さで、柏木が勝手に用紙に何かを書きこもうとしている。
「しょうがないな……期末考査の直前だし、参加するつもりなんてなかったんだけど……ボランティアだと思って、ここは僕が……」
「どんな嫌がらせなのよ、それは!」

 慌てて用紙を取り返そうとしても、女子の中でも前から数えたほうが早いくらいの私の身長じゃ、長身の柏木の手に握られた物なんて届くはずがない。
 ぶざまにピョンピョン跳ねる私の姿を見て、柏木もその取り巻き連中も、面白そうに笑っている。
「返してよ! ちょっと!」
 怒りに肩を震わせながら柏木に向かって突進する私の目の前で、意地悪な笑顔を浮かべた柏木の顔に、もの凄い勢いで校内履きのスリッパが命中した。

「うおっ!!」
 スッパーンという音と共に体勢を崩した柏木の手から、私は交流会の参加希望書を取り戻そうとする。
 しかしそれよりも先に、隣に歩いて来た誰かが、ひったくるようにその用紙を柏木から奪った。

 ゆるゆると視線を上げた先では諒が、床に倒れた柏木の横に転がるスリッパに足をつっこみながら、用紙に何かを書き入れている。
「ほら」
 自分に向かってつき返されたその用紙を見て、私は心臓が止まるかと思った。

 そこにはちょっと癖のある右肩上がりの諒の筆跡で、確かに『勝浦諒』と書きこまれていた。
「残念だったな。こいつのパートナーは、当日の持ち場の関係で、最初っから俺だって決まってるんだよ」
 ドサリと鞄を机の上に投げ出しながら、諒が柏木に言った言葉にドキリとした。

(え? 今回は私と諒って、持ち場が違うよね……?)
 けれど、問い質すように視線を向けた途端、諒にギンと大迫力で睨まれてしまったので、もう口を開けなくなった。

「だよな?」
 真正面から見据えられたまま、念を押されればもう頷くしかない。
「うん。そう……確かにそうです!」
 シュタッと右手を上げて、声高らかに宣言した私に、満足そうに頷いたあと、視線を逸らした諒が肩を震わせて笑っているように見えるのは気のせいだろうか。

「別に……全然、残念なんかじゃないけどね……」
 しばらく呆気に取られていた柏木が、忌々しげに言いながら自分の席へと帰るのを見て、諒が小さな声で呟く。
「どうも絡んでくると思ったら、そういうことだったのかよ……まったく油断ならない……!」
「…………?」
 その意味はよくわからないけど、思いがけず手にした諒のパートナーの権利に、私は心から感動していた。

(よかった! これで繭香に絶交されずに済む!)
 詳しい経緯を語れば、これでOKにしてもらえるのかははなはだ疑問だが、ひとまず昨夜眠れないほど私を悩ませた問題の一つは解決した。
(可憐さんは、きっともう彼氏さんとなかなおりしただろうから、問題ないとして……)
 私はこっそりと隣に座る横顔に視線を向ける。

「なんだよ?」
 呼びかけたわけでもないのに、本当に諒は、毎回毎回ものすごい速さで反応を返してくる。
「な、なんでもない!」
 助けてくれてありがとうと言えばいいだけなのに、心のどこかにやっぱり『諒の好きな人』のことがひっかかって、上手く言葉が出て来ない。

 諒とパートナーになれて嬉しい反面、
(本当に私と組んじゃってよかったのかな……?)
 という思いが、どうしても私の胸からは消えなかった。