ひょっとしてHEAVEN !? 2

 自転車を押して歩く諒と並ぶのもドキドキするし、ちょっと離れるのもなんだか不自然だ。
 これまでいったいどれくらいの距離で接していたのかが思い出せず、途方に暮れる私に向かって、諒は唐突に問いかける。

「で? 俺たちはなんの係になったんだよ?」
「は?」
 思わず間の抜けた返事を返したら、大きなため息をつかれた。

「『は?』じゃないだろ『は?』じゃ……交流会の準備ではなんの係を受け持つことになったのかって聞いてるんだよ……!」
「ああ……」

 昨日自覚したばっかりの恋心で、ドキドキしたり切なくなったり。
 私にとって今日という日は『HEAVEN』の行事なんてそっちのけの大忙しだったけれど、当然ながら諒にとってはそうではない。
 いつもどおりに、ただ方向が同じだから一緒に帰る私と交わす会話となれば、今は何をさて置き、交流会についての話題になるのは当然だ。
 シューッと風船が縮んでいくように、気持ちが萎えていく自分を感じた。

「私は……夏姫と美千瑠ちゃんと一緒に、全校生徒の出欠の確認と名簿作りよ……諒は可憐さんの手伝いだって……」
 一定のスピードで歩き続けていた諒の足が、ピタリと止まった。

 自然と置き去りにする形になってしまった諒をふり返って、私は首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
 じっと見ていた私の顔から目を逸らして、再び歩き始めた諒になんて言ったらいいのかわからない。

 一瞬心に浮かんだ「なに? 私と一緒じゃなくて残念だった?」なんてふざけたセリフ。
 これまでだったらからかうように言えたが、今はとても口に出来ない。
 なんだかぎこちない雰囲気のまま、らしくもなく黙りこんで歩き続ける自分がもどかしかった。

(なんか嫌だな……こんなの……)
 相手のあげ足を取ろうとやっきになって、文句を言い合って。
 でもその言葉の裏では、いつだってお互いを好敵手として認めあっていた。
 ――これまでの自分と諒の、ちょっと変わった信頼関係を再確認する。

 諒の言葉は、決して優しくはなかったし、ひどい言い方ばかりだったけれど、私がそれに傷つけられたことはない。
 一度もない。
 それはやっぱり私が、口で言うほど諒のことを嫌っていなかったからなんだろうなと思う。

(じゃあ諒は……?)
 心に浮かんだ疑問に、自分で首を横に振る。
(『お前バカか?』って呆れた顔が、残念ながら一番私に見せた回数が多い気がするのよね……って言うか、ほとんどそればっかり? ダメだ……恋愛感情に発展しようがない……)

 トボトボと歩を進める私の横で、また諒が歩くのを止めた。
 振り返って、もう一度「今度は何?」と聞こうとしたら、口を開く前にもの凄い形相で諒がこちらに突進して来た。
 距離の取り方をさんざん悩んでいた私を蹴散らすかのように、私の顔のすぐ目の前に顔を近づけて、体のわりに大きな手で私の口を塞ぐ。

「………………!!」
 口に出せなかった悲鳴に答えるかのように頷かれ、小声で耳元で囁かれた。
「いいから。黙って、ちょっとこっち来い」
 自転車を置き去りに、道の横の建物の陰に走りこむ諒に、腕を引かれるまま、私も懸命に走った。

 すぐ目の前で見た諒の顔にも。
 口を塞いだ手にも。
 今引かれている腕にも。
 ドキドキと高鳴る心臓が今にも口から飛び出して来そうだった。
 
 
 建物の陰に潜んで、道路の向こうに視線を向ける横顔に問いかける。
「……どうしたのよ?」
 至近距離で肩を寄せ合っていることにどうしようもなく緊張している自分を悟られないように、精一杯いつもどおりを装って言ったら、自分でもビックリするぐらい不機嫌そうな声になってしまった。

 案の定。
 諒はちょっとイラついた視線を私に向ける。
「見ればわかるだろ。あれだよ。あれ」
 細く尖った顎で示された先には、茶色い巻き髪を背中に垂らした華奢なうしろ姿が見えた。

「あ、可憐さん……」
 呟く私に諒はこっくりと頷いた。
 しかしそのあとの言葉が何もない。

(だったら別に隠れる必要なんてないじゃない。一緒に帰ればいいでしょ? ……それとも何? 私と二人で帰ってるところなんて見られたくないとか? 誤解されたくないとか?)
 説明がないものだから自分で想像するうちに、だんだん腹が立ってくる。
 と同時に悲しくなる。
 なんとも複雑な気持ち。

(いいわよ……邪魔だっていうんなら、私は一人で帰るから……)
 クルリと踵を返そうとした私の肩を、諒は両手でガシッと掴んだ。
「どこ行くんだよ! じっとしてろ!」
「だって……!」
 反論しかけた瞬間に、私を止めた諒のほうが一歩前に踏み出したので、私もつられたようにそちらをふり返った。

 歩道を歩いている可憐さんの横に、白い車がスーッと止まったところだった。
「あ! あれって!」
 運転席から降りてきたのは、スラッと背の高い男の人。
 可憐さんに何かを言っているようだが、ここからではよく聞こえない。
 可憐さんは男の人に背を向けて、そのまままた歩きだそうとする。
 男の人は何かを賢明に話す。
 可憐さんは聞く耳持たない。
 そのくり返し――。

「えーっと……」
 これまでの状況と、自分が知っている可憐さんの情報を総動員して、私は今の状況を分析した。
(あれって可憐さんの彼氏さんだよね? ……話をしようとしてるけど、可憐さんは話したくないと……それはたぶんこの間の浮気現場(?)目撃のせい……)
 
 考えている間にも、二人は問答を続けながら車からどんどん離れていく。
 と、道を渡った先に何かを見つけた可憐さんが、彼氏さんをふり切るようにして道路に飛び出した。

「可憐!」
「可憐さん!」
 私と諒は驚いて、思わず叫んで一歩を踏みだしたけれど心配はいらなかった。
 道路にはちょうど車は走っておらず、可憐さんは難なく、あっという間に道路の反対側にたどり着いた。

「び、びっくりした……!」
 諒の呟きは確かに私の思いと同じだったのに、やっぱりチクリと心のどこかが痛まずにはいられなかった。
(可憐さんがあの人とは別れるって言ってるんだから、別に諒が追いかけていってもいいんじゃない?)
 自虐めいた言葉を出そうかどうしようかと迷う私の目の前で、みるみる諒の顔つきが変わる。

「あいつ……!」
 見れば可憐さんは、道路の向こうで一人の人物に駆け寄ったところだった。
 おそらくはその人を反対の歩道に見つけたから道を横切ったのだろう。
 嬉しそうに笑いながら可憐さんに応待しているのは、ちょっと変わった濃紺の学生服姿の男の子。

(あ、あれって今度交流会をやる宝泉学園の制服だ……!)
 そう思い当たってから私は慌てて、ギリッと悔しそうに奥歯を噛みしめる諒をふり返った。
「そうだな。きっとあっちの交流会の責任者の相川とかいう奴だろうな」
 何も言ってないのに私の考えたことを正確に読み取った諒に、私はこっくりと頷いた。

「今日は実際に会って打ち合わせだから、相川君と待ち合わせしてるの」といそいそと『HEAVEN』を出て行った可憐さんの嬉しそうな様子を思い出す。
「ええっと……」
 諒に何と声をかけたらいいのかわからない私と、それっきり口を噤んでしまった諒と、棒を飲んだかのように立ち竦む彼氏さんをそのままに、可憐さんは相川君と一緒に歩きだす。

(ど、どうしよう……どうしたらいい?)
 かける言葉も行なうべき行動も思い浮かばない私は、身動きしない諒と一緒にその場所から、見えなくなっていく可憐さんをただ見送るだけだった。
 
 
「で? なんで琴美が落ちこんでるんだ?」
 昼休みの中庭。
 校庭を臨む芝生に腰を下ろして、お弁当を広げたまま深いため息をくり返す私に向かって、繭香が問いかける。

「なんでって……そりゃああんなこと言われちゃったら、私もそうするべきなのかななんて考えちゃうじゃない……」
 繭香と、彼女と並んで隣に座っていた佳世ちゃんが、顔を見合わせて首を捻った。

「ええっと……よくわからないんだけど……?」
「全然わからん!」
 口調こそ違え、二人の言わんとしていることはまったく同じだったので、私は自分でもあまり思い出したくはない昨日の顛末を、二人も含め、私の肩に頭を乗っけてスヤスヤと眠っているうららに話して聞かせることになった。
 
 
 昨日、相川君と一緒にいなくなってしまった可憐さんを呆然と見送ったあと、我に返ったかのように諒が呟いた第一声が、
「ちくしょう可憐の奴! ちゃんと話しろって言ったのに! これじゃどんどんややこしくなるだろう!」
 だった。

 ショックとか悲しいとかいう感情よりも、明らかに怒りの色が濃い発言にちょっとビックリする。
「そう言えばずっとそんなこと言ってるわよね……なんで?」
 可憐さんを好きな諒にしてみたら、このまま彼女が恋人と別れてくれたほうが好都合だろうに、諒の頭にはまったくそんな思いはないようだ。
 
 言葉を選ぶこともなく単刀直入に問いかけた私に、諒はちょっと焦ったようなそぶりを見せた。
「なんでって……そんなの可憐が勝手に誤解してるからに決まってるだろ!」
 まるで当事者ででもあるかのように、堂々と言い切られて思わずしげしげと顔を見返してしまう。

「な、なんだよ……」
 今度は逆に諒のほうが私に問いかけてくる。
「別に……ただ、ずいぶん自身満々なんだなって思って……絶対に誤解だって信じてるの?」
「当たり前だ!」
 それこそ確信を得ているかのように、諒がこの上なく真剣な顔をして叫んだ。
 その真摯な表情に、不覚にも鼓動がドキドキと早くなった。

「あんなに幸せそうに、いつもいつもノロケ話ばっかり聞かされてたんだぞ。ダメになるなんて許さない! だいたい浮気なんてする甲斐性、あいつにあるわけないだろ……あんなに惚れてんのに……」
 一部よくわからないセリフが混じっているような気もするが、そちらに意識が集中できない。
 私に真っ直ぐに目を向けて、真剣に話し続ける諒の顔から目が離せない。

(そうなのよ……『勝浦諒なんて大嫌い!』って思ってたあの頃から、私、諒の顔だけは好みのど真ん中だったのよ……)
 そんな自分を情けなく思っているものだから、頭のどこか上っ面だけでしか物事を考えられない状況の私に向かって、諒は真剣に語り続ける。

「このままずっと一緒にいるんだろうって! あいつらだったらきっとそうするんだろうって、俺は信じてるんだからな! こんなことぐらいでダメになるなんて嫌だ!」
 でもいくら魂を吸い取られていても、きっぱりと言い切る諒の決意の強さだけは伝わった。
 心ここにあらずの状態の私にだって伝わった。

(そうか……自分の想いはあと回しにしてでも、可憐さんの幸せを願うんだね……!そんなにそんなに大好きなんだね!)
 涙が浮かんで来そうなくらいの思いで感動して、そうして自分もそうするべきじゃないのかと、私は思ったのだった。
 
 
「だから私も、自分の想いよりも諒の幸せを願わなくちゃって思うんだよね……」
 しみじみと呟く私を見て、繭香はギュッと眉根を寄せて難しい顔をした。
 佳世ちゃんは困ったように、小首を傾げて小さく笑う。
「あのね琴美ちゃん……それって……」

 瞬間、私の肩の上で眠っているとばかり思っていたうららが体を起こし、スッと佳世ちゃんの唇に細い人差し指を当てた。
「ダメ。佳代……琴美が自分で気がつかないと意味がない……」
 慌てて佳世ちゃんが口をつぐんだ途端、うららはまた私の肩の上に頭を乗っけてスヤスヤと寝息をたてる。
 とても寝たフリとは思えないその熟睡っぷりに、私は驚いた。

「なに今の? 寝言? どういう意味?」
 繭香と佳世ちゃんはもう一度顔を見合わせ、何事かを確認しあっている。
 しばらくしてから繭香のほうが私に向き直り、きっぱりと言い切った。

「気にするな。琴美はもう自分の思うようにやればいい」
 激励されているのか突き放されているのか。
 どちらとも取れる口調に私はちょっとむくれる。

「なによそれ……相談にぐらい乗ってくれたっていいじゃない……」
「いや。どうせ人の話のほとんどは聞いてなくて、妄想だけでつっ走るんだから、壁にぶち当たるまでそのまま行けばいい。どうにも行き詰まったら相談してくれ。じゃ」
 軽く手を上げて立ち上がる繭香と共に、佳世ちゃんまで立ち上がる。

「ごめんね琴美ちゃん……でも本当にこればっかりは誰かの口から聞くよりも、自分で気がついたほうが良いと思う……その方がきっと、ずっとずっと嬉しいと思う」
「こら!」
 余計なことを言うなとばかりに目を剥いた繭香に肩を竦めてみせ、佳世ちゃんは繭香と並んで私に背を向け歩きだす。

「ちょ、ちょっと? 私だけ話が全然見えないんですけど?」
 私はと言えば、二人を追いかけて立ち上がろうにも、うららに寄り掛かられているので、そうすることもできない。
 いつも重さなんて全然感じないうららの華奢すぎる体が、急にずしりと私に体重をかけてきたような気がした。

「うらら?」
 呼びかけてみても返ってくるのは規則正しい寝息の返事だけ。
 でも、まあいいかとその場に残ることを決意した途端、小さな小さな声が私に語りかけた。
「頑張れ頑張れ」
 昨日と同じ、まったく抑揚の感じられない一本調子な声援が、私にまた勇気をくれる。
「うん。頑張る」
 うららの薄い色の髪の頭が、私の肩の上でかすかに頷いたような気がした。
 窓から吹きこんできた冷たい北風に、机の上にうずたかく盛られていた巨大な紙の山が、無残にも崩されてしまいそうになった。
「ちょ、ちょっと! 窓閉めてよ!」
 ヒラヒラと舞う紙を追いかけながら血相を変える私をふり返り、窓際に立っていた諒は淡々と返事する。
「あ、わりい……空気入れ替えたかっただけなんだけど……今日さ、この部屋暑くないか?」
「べ、べ、別に、暑くないわよ!」
 額に汗かきそうな思いなのは、決して部屋が暑いからではない。
 放課後の『HEAVEN』に、なぜかまだ諒と二人きりだからだ。

「そうか?」
 ちょっと怪しむように諒は首を傾げ、床に落ちてしまった紙を拾い上げる。
「ほら」
 手渡しでそれを受け取ると思うだけで、妙な緊張感に包まれる。
 そんな自分をなんとか落ち着けようと、私は一人で必死だった。
「あ、ありがと……」
 ひったくるように受け取った紙を、机の上の山のてっぺんに乗っけた。

 なんだか落ち着かずに、ウロウロと行ったり来たりをくり返している私を、自分の席についた諒がじっと見ている気配がする。
 無視して仕事に集中しようとしていたが、そのうち我慢できなくなった。
「なによ?」
 いつもの調子で、ちょっと怒ったように問いかけたら、思いがけず笑顔が返ってきた。
 その表情に私が更に動揺したことなんて、きっと諒は全然気がついていない。

「いや……ほんと見てて飽きないなと思って……」
 思わずボッと頭に血がのぼった。
(な、な……! それってどういう意味……?)
 しかし喜び過ぎる必要はまったくなかった。
 諒はまるで繭香みたいに唇の端を上げて、意地悪そうに微笑んだ。
「檻の中のサルみてぇ……餌探してるんだよな……?」

 手を伸ばせば届く距離にあった濡れたような黒髪の頭を、思わず力の限りにげんこつで殴りつけてしまった。
「痛ってえ! 何すんだよ!」
 すかさず両手で頭を押さえた諒に、さっきまでときめいていた思いなんてどこへやら、私は本気で怒鳴りつける。
「こっちのセリフよ! 女の子に向かって、サ、サルって……!」
「この非常識! バカ!」とでも続けようと思っていたのに、思いがけず息が上がってしまった。

 言葉が途切れた瞬間に、「ヒック」としゃっくりにも似た嗚咽が漏れて、そんな自分に自分でビックリする。
 ポロリと目から一粒、涙が零れ落ちたので慌てて諒に背中を向けた。
(な……に……? なんで泣いちゃってるの、私?)
 自分でも全然わからない。
 諒が私に意地悪言うのなんて、まるで今までどおりなのに、過剰反応し過ぎて涙がこみあげてきた自分に驚く。
(だって……こんなのおかしいでしょ?)

 諒に気づかれる前に、ここはひとまず部屋から一度出て、顔でも洗ってこようかと考えていたら、先に諒のほうが椅子から立ち上がった。
「ごめん」
 小さな声で一言だけ謝って、部屋を出て行こうとするから、私は慌てて問いかける。
「どこ行くのよ?」
 今回の仕事では、諒の受け持ちは私と同じではないのだし、どこへ行こうと諒の勝手なのだが、ついつい逃げるのは許さないとでも言うような偉そうな言い方をしてしまう。

 諒は私の大きすぎる態度には文句も言わず、『HEAVEN』の扉を開けながら、背中のままで言った。
「……すぐ帰ってくるよ」
 ちょっと優しげなその声音に、私がどれほどホッとしたか。
 と同時に「また二人きりになるの?」とどれだけ頭を抱えたい気持ちになったか。
 きっと諒は知らない。
 遠くなって行く足音を聞きながら、私は全身から力が抜けて、ヘナヘナと自分の椅子に座りこんだ。


(疲れる……とにかく疲れるわ……!)
 決して、私の身長ほども積まれた交流会参加申込書の仕分け作業のことを言っているのではない。
 部屋に諒と二人きりなことを指して言っているのだ。
(なんで今日に限って誰も来ないわけ?)
 そこにはみんなの策略的なものを感じずにはいられない。

 でも「今日は部活のほうに顔を出さないといけないから!」と私に向かって両手を合わせた夏姫は、本当に運動場を走っているし。
「ごめんなさい琴美ちゃん……私も今日はピアノのレッスンなの」と麗しい顔を曇らせた美千瑠ちゃんは、校門で待っている黒塗りの高級自家用送迎車に、いそいそと乗りこんだ。

「いいよ、いいよ。今日は一人で出来るところまでやっておくから」と安請けあいしたのは確かに自分だが、まさか諒が「だったら俺が手伝おうか?」なんて言い出すとは思ってもいなかった。
 結果――おそらくは勝手に気を利かしてくれた他のメンバーのおかげで、きっと今日はもう最後まで、この部屋に諒と二人きりなのだろう。

(これって嬉しいことなのかな……? とてもそうは思えない……)
 私はまだ、自分は諒のことが好きなんだと自覚したばかりで、相手にどんなふうに接したらいいのかも全然わからない。
 不安定な状態のこんな時に、なにも二人きりにしなくてもいいのにと――そんな苦情じみた思いばかりが募る。
(あーあ……どうしよう?)
 珍しく弱気に肩を落とした瞬間、予言どおり諒がもう一度部屋に帰ってきた。
 私は慌てて、それまで手もつけていなかった出欠票の仕分けに、励んでいるフリをする。

「おい」
 呼ばれるから目だけを諒に向ける。
 瞬間、諒が手に持っていた四角い物をポンと軽く放ってよこした。
 両手で受け止めてみたら、紙パックのジュースだった。
「自分のぶんだけ買って! って怒られる前にお裾分けしとく……だからさっきのことはもう許せよ……」
 ちょっと照れたようにそっぽを向きながら、そんなことを言うから、私のほうが照れてしまう。
「ありがと……」

 らしくもなく消え入りそうな声でやっとそれだけを告げたら、こちらに顔を向け直した諒に、真顔で尋ねられた。
「なあ? ……やっぱお前だって暑いんじゃないか? 顔真っ赤だぞ?」
「私はただ単に、諒の何気ない一言で、勝手に一喜一憂させられているだけです!」とは、とても本人には言えなかった。


 年に一度催される宝泉学園との交流会は、全員参加の強制的なものではない。
 しかし今年は、内容が『ダンスパーティー』ということもあって、出席希望者は例年よりもかなり多かった。
 ほぼ全校生徒ぶんの出席票を、根気強く学年とクラス毎に分けながら、諒が愚痴る。
「どいつもこいつも! ちゃんと相手に許可を貰ってからパートナーの名前を書け!」
 グシャグシャッと、なかば握り潰すようにして机に叩きつけている用紙には、有り得ないことにパートナーの名前が重複しているものが多い。

「……芳村貴人と杉原美千瑠はこの学校に何人いるんだよ?」
 ため息混じりにそう呟かれて、思わず声を上げて笑ってしまった。

「笑いごとじゃない! 今ザッと見ただけでも何枚あったと思ってるんだ? 可憐と智史まで合わせたら、一クラス作れるぞ?」
「そんなにっ?」
 反射的に叫んでしまってから、ふと気になったことがあった。

『白姫と黒姫』と対になって称される智史君が、そんなに名前を書かれているんなら諒自身はどうなのだろう。
(実際、文化祭の後夜祭では、長い行列ができたくらいだったんだし……)
 ざわっと胸がザワついた。

 諒のことが好きだと自覚した途端、あの時はどうも思わなかった光景にさえ、チクリと胸が痛むから不思議だ。
(それに諒は、パートナーに誰の名前を書くんだろう? 可憐さんはもう向こうの実行委員長の相川君と組むって決めてるし……申し込んできた誰かにOKを出すのかな……?)
 考えているうちになんだかまた落ち着かなくなってきた。
 いつの間にか諒が、仕分けの手を止めて私の顔をまじまじと見ているからなおさら緊張する。

「お前さあ……」
 ふいに呼びかけられて、椅子から飛び上がりそうにビックリした。
「早めに申し込んどいたほうがいいんじゃないか?」
「は?」 
 思わず間抜けな声が出てしまった。

 それとは裏腹に、頭の中はパニック寸前のごとく混乱している。
(なに!?  なんで!?  いつバレたの? ……っていうか、私が申し込んでいいの? お前、さっさと俺に申し込んだほうがいいぞって……それって何様?)
 キョロキョロと怪しげに目を泳がせる私を見て、諒は間が悪そうにフッと目を逸らした。

「まああとで……呪いの手紙とか、上履きに画鋲とか、不特定多数から嫌がらせを受けるのは必至だけど……取りあえず仲間なんだからOKしてもらえる確立は高いんじゃないか? ……貴人に」
 最後の言葉を聞いて、ガクッと肘が机から落ちてしまった。

(なんで貴人!)
 諒はまだ、私が貴人のことを好きだと信じていたのかと思ったら、だんだん腹が立ってきた。
(好きだけど! 大好きだけど! その『好き』は違うの!)
 自分自身、ついこの間知ったばかりの想いの違いなのに、諒のかん違いが歯痒くてたまらない。

「私が好きなのは貴人じゃないわよ!」
 思わず声に出して叫んでしまったら、この上なく驚いた顔をされた。
「えっ? じゃあ……誰?」
 ただでさえ大きな目をそんなに見開いて、まるで子供みたいに純粋な表情で問いかけないで欲しい。
 もともと「諒だよ」なんて言えっこないのに、ますます間違った方向に意地を張ってしまう。

「り、諒には関係ないでしょ!」
 瞬間。
 今まで無防備に感情を曝け出してくれていた諒の表情が、傍目にもわかるくらい明らかに強張った。
「……まあ、そうだけどな」
 一気に近寄り難い無表情に覆われてしまう、可愛い顔。

 すぐ近くにいるのに、あきらかに私との間に諒が高い心の壁を築きあげたことが、一瞬にしてわかった。
(どうしよう! 私ったらバカだ!)
 今さら後悔したってもう遅い。
「ごめん」と謝るのも変だし。
「実は私の好きな人はね……」なんて語ることなんて、もちろんできるはずがない。

 なんとも気まずい雰囲気のまま、私たちはそれっきり一言も口をきかず、黙々と参加希望書を仕分けし続けた。
 二人っきりの『HEAVEN』には、カサカサという紙の音だけが、虚しく響いていた。
『交流会』への参加希望者は、ほぼ全校生徒の数にまで膨れ上がりつつあった。
 パートナー制のダンスパーティー。
 参加するには相手がいることが大前提なのに、諒が指摘したとおり、なぜか参加申込書のパートナー欄には一部の人の名前が重複している。

 その一方で、学校中で今、大きな盛り上がりをみせているのが、これを機に好きな相手に告白してしまおうという風潮だった。
 気がつけば廊下のそこかしこで、はたまた体育館裏で、中庭の木の下で、大告白大会が催されている。

(なんだかなあ……)
 日頃は予習復習とライバルを蹴落とすことしか頭にないわが二年一組のクラスメートたちも、教室で妙に浮き足立ってる様子なのが意外だった。
(えっ? 江藤君と笠原さん? ……こっちは鈴木君と椎名さんかぁ……へえ……)
 ついこの間までまったくそんな気配もなかった二人が、いつの間にか仲良く肩を並べて勉強しているものだからビックリしてしまう。

(まあ、それでも『一緒に勉強』ってあたりがね……)
 最前列の席に座ったままうしろをふり返って、頬杖をつきながら教室の様子を眺めていたら、隣にやってきた佳世ちゃんに小さな声で耳打ちされた。
「琴美ちゃんは勝浦君を誘ってみなくていいの……?」
 思わずガタリと椅子の背もたれから肘が落ちて、そのまま体ごと床まで転がり落ちるところだった。

 朝早い教室。
 隣の席の諒はまだ登校して来ていなかったのが幸い。
「そ、そんっなことできるはずないでしょう!」
 思わず立ち上がった私に、教室中の視線が集まる。

「ああ、また近藤が騒いでる」とでも言いたげな冷たい視線は、次々と逸らされていったけれど、中にはなかなか外れてくれないものもあった。
(私の宿敵! ――柏木!)
 二学期の中間考査で見事学年トップ10に返り咲いた柏木は、今は私の斜めうしろの席にいる。
 その位置からじっと視線を送られ続けるのは、さずがに居心地が悪い。

(私のことを嫌ってるんだったら、とことん無視すればいいのに……すぐに絡んでくるから嫌なのよね……!)
 今日もいつもどおり、表面上は温和な笑顔を浮かべながら、人の神経を逆なでするような声で話しかけてくる。

「朝から賑やかだね、近藤さん……何ができないの……?」
 どうせ嫌味を言われるばかりなのだから、このまま無視してしまいたい。
 でもそういうわけにはいかない。
 こちらが返事をしないと見ると、どんどん自分勝手に話を進めてしまうのだ。
 ――この柏木という男は。

「交流会の準備? 期末考査に向けての追いこみ? ああ……ダンスのパートナー探しかな……?」
 適当な予想が、あながち外れでもないからますます嫌になる。
「違うわよ!」と叫び返すタイミングを、私はすっかり逃してしまった。

「君もこれをきっかけに告白したらいいじゃない。いとしの芳村君に……!」
「…………!」
 目を剥いて睨みつけたら、私の目の前にスッと学生鞄が降りてきた。
 視界から柏木の顔が消えると同時に、頭上から聞こえてきたのは、ちょっとお怒り気味のよく聞き慣れた声――。

「こいつの好きな相手は貴人じゃないんだってさ……からかい甲斐がなくなって残念だったな」
 ドキリと心臓が跳ねる。
 恐る恐る顔を上げた先では、諒が私の頭を軽く顎で示しながら、柏木と視線を戦わせていた。

「へえ……」
 あまり驚いたふうでもない興味なさげな返事を、柏木は返す。
 諒がそのまま前の席に腰を下ろそうとした途端、背中に向かってボソッと柏木は呟いた。
「だったら君なんじゃないの? ……勝浦君?」
「………………!」
 ギャーッと叫んでしまいたかった声を、私は必死の思いで呑みこんだ。

(なんってこと言うのよ! 本人だって自覚したばっかりで……そう簡単には伝えられそうにもない想いを……! よりによってあんたが、冗談のように言うんじゃないわよ!)
 口には出せない思いを目にこめて、ギンと柏木を睨みつける私に、隣から注がれている視線がある。
 恐る恐る横を向くと、諒がこちらを見ていた。
 ドンッと心臓が跳ね上がる。

「は? え? な、なに?」
 焦ってしまって上手く言葉も返せない私からフッと視線を逸らすと、諒は大きなため息をつきながら半身ふり返り、柏木を睨んだ。
「……んなわけあるかよ……」
「……まあね」
 意地悪く笑いながらの返答に、私の全身は硬直した。

(……なに? ……悪趣味な冗談だったってこと……? その結果私は、まだ告白してもいないのに、諒に完全拒否されたってこと……?)
「………………!!」
 考えるだけで、頭に血が上ってクラクラした。
(よくも! 柏木ーっ! 覚えてなさいよっ!!)
 おかげでますます、諒に「実は、私……」なんて言えるような雰囲気ではなくなってしまったことを感じた。


 あまり「やる気のある」とは言い難いポーズで、なかば机につっ伏すようにしながら、クリップで留められた紙をめくる。
「一年八組 長山裕太……参加……パートナーは同じクラスの友岡さん……おー……お熱いことで……」
「ちょっと琴美! 余計なコメントはいらないから、さっさと進んでよ! さっさと!」
 夏姫に声をはり上げられて、私はしゅんとなった。

「……ごめん」
「だってうらやましいんだもん」なんて正直な思いは、とても口に出しては言えない。
 放課後の『HEAVEN』。
 交流会の参加者の名簿作りは、いよいよ佳境にさしかかっていた。
 集まった参加希望書の仕分けも終わり、今はパソコンに入力しているところだ。
 夏姫も美千瑠ちゃんもいる今日のうちに、できるだけ済ましておいたほうがいいのはわかっているが、なにしろやる気が出ない。

 学校中でどんどん新しく誕生している交流会用のカップルを確認していく一方で、自分自身はと言うと、参加さえ危ぶまれる状態なのだ。
「夏姫はいいよね……」
「は?」
 思わず本音が漏れてしまって、パソコンに向かっていた夏姫から訝しげな目を向けられた。
 なかばヤケクソ気味に、私はこれまで言いたくても胸に秘めていたことを、もうこの際だから全部口に出してしまう。

「だって玲二君と組むんでしょ? ……いいな。決まった相手がいる人は……これって私みたいに相手がいない人間には、実はかなりキツイ行事なんじゃない? ……まあ私の場合は、当日、裏方に徹すればいいだけの話だけど……」
 一瞬真っ赤になって反論しようというそぶりを見せた夏姫だったが、美千瑠ちゃんに首を振って止められ、机を挟んだ私の真向かいに座り直した。

「琴美……あんたねぇ……」
 何かを言いかけた夏姫に向かって、部屋の中央から鋭い声が飛んでくる。
「夏姫。甘やかすな。放っておけ」
 いかにも尊大な物言いは、そこでさっきから熱心に何かを作っていた繭香だ。

「うだうだ悩んだって、どうせ道は一つしかないんだ。決心をつける手伝いなんてしてやることはない……琴美はきっと、自分でもわかってる……」
 褒められているんだか突き放されているんだかよくわからない言い方に、それでも私はちょっぴり泣きそうな気持ちになった。

「繭香……」
 繭香はプイッと、わざわざそんな私から顔を背けてみせる。
「らしくもない……!ごちゃごちゃにこんがらかってわけがわからなくなる前に、さっさと言ってしまえ!」
 夏姫の言葉は止めたくせに、自分は結局私の背中を押してしまっている。
 そんな繭香が可笑しくて、少し気持ちが浮上した。
 だけど――。

「こればっかりは、そう簡単にはいかないわよ……」
 なかなかいつものような「よーし頑張るぞ!」というやる気は湧いてこない。
 しょうがない奴だとばかりに、繭香はため息をついた。
「じゃあもう気にするな! あいつが他の女をパートナーにしたって、交流会で他の女ととっかえひっかえ踊ってたって、気にしないで仕事に打ち込め!」
「そんなの……」
 頭の中でありありとその光景を想像してみたら、涙声になってしまった。
「……嫌だよ…………」

 あーあ、こんなに好きなんだなと思う。
 諒はいつの間にか私の中で、こんなに大きな存在になっていた。
 うららの言葉ではないけれど、確かに『誰にも譲りたくはない』。
 ほとんど喧嘩ばかりだけど、それでも諒の隣のあの場所に、自分以外の人が立つのは嫌だ。
 でもだからといって、この想いを本人に伝えることは、私にとってはとてつもなく難しい。

(どうしよう……どうしたらいいんだろう……?)
 自分に注がれる繭香たちの視線を一つ一つ受け止めながら、私は懸命に頭を捻った。
 私の人よりちょっと回転の早い頭が、もっとも自分を追いこむ方法を導き出す。

(……自分一人だって思うからいけないんじゃない? 他の人も巻き添えにしちゃえば……そしたら、今さらあとには引けなくなるかもよ……?)
 繭香と夏姫と美千瑠ちゃんの顔を順に見ながら、私は恐る恐る口を開いた。
「じゃあ……みんなも……自分から誰かに、パートナーになることを申し込んでくれる? みんなと一緒だったら、私も覚悟を決めるから……」
 私の提案に、三人は実に対照的な反応を示した。

「は? なんで私が?」と、椅子ごとひっくり返らんばかりに動揺する夏姫。
「ええいいわよ」とニッコリ微笑んで、あっさりと頷いた美千瑠ちゃん。
「私にはそんな相手はいない!」と怒りにこぶしを握り締めた繭香。
 三人三様の返事が面白くて、こんな時だというのに、思わず笑いがこみ上げる。

「じゃあさっそく行きましょうか?」
 真っ先に席から立ち上がった美千瑠ちゃんが、扉に向かって歩きながら私たちを手招いた。
「早くしないとサッカー部の練習が終わっちゃうわよ。夏姫ちゃん」
「ちょっと美千瑠!」
 焦った夏姫は、ガタンと椅子を鳴らして立ちあがった。

「無理! 無理だから!」
 顔を真っ赤にして叫ぶ夏姫を、美千瑠ちゃんは天使の笑顔でふり返る。
「無理じゃないわ。夏姫ちゃんの誘いを玲二君が断わるわけないでしょ? すぐにOKが出るわよ」
「そうじゃなくって!! ……だ、だいたい自分は? 美千瑠はどうすんの? 誘いたい奴なんていないでしょ?」
 なぜか自分に向いた話の矛先を変えてしまいたくて、夏姫はもう必死だ。

(やっぱり夏姫だって私と一緒じゃない……日頃はポンポン文句を言えたって……ううん。だからこそ……肝心な事は言いづらいのよね……)
 夏姫に同情する気持ちすら浮かんできた私の耳に、美千瑠ちゃんの思いがけない言葉が飛びこんでくる。

「私は大丈夫よ。こんな時にお願いする相手は昔っから決まってるの。繭香だってそうでしょ? 私たちはものの2、3秒で終わる……だから、夏姫ちゃんも琴美ちゃんもちゃんと心の準備をしておいてね?」
「……ああ。そういうことか」
 呆気に取られる私と夏姫を尻目に、繭香が何事かを得心したようで、美千瑠ちゃんを追って歩きだした。

 腰まである長い髪をサラッと揺らしながら、硬直している私と夏姫をふり返る。
「それならおやすい御用だ。どうやら貧乏くじを引いたのは、夏姫と……琴美……お前本人だけだぞ?」
 よっぽど面白いことを思いついたとでも言わんばかりに、唇の端を吊り上げて、繭香はニヤリと微笑む。

「だからちょっと待ってってば!」
 叫ぶ夏姫に、繭香は大きな黒目がちの目をグワッと見開いた。
「四の五の言わずに早くしろ! 仕事だってまだ全然終わってないんだぞ!」
 その大迫力の目力を受けて、まだ文句が言える人間が貴人以外にいるんだったらぜひお目にかかってみたいものだ。
「はい……」
 しおらしく頷いた夏姫と悲しみに満ちた視線を交しあって、私たちは『HEAVEN』をあとにした。
 もとは自分で言い出したこととは言え、私はまるで戦場に向かう兵士、断頭台へと上る死刑囚の気分だった。
(繭香がパートナーにするっていったら、やっぱり貴人よね……いったいどうやって頼むんだろう?)
 その瞬間を想像しては、まるで自分のことのようにドキドキした私の思いは、まったくの無駄だった。

 特別棟を出るところで偶然貴人と出会った繭香は、彼に唐突に人差し指をつきつけた。
「貴人! 私のパートナーはお前だからな!」
「うん、わかった。でも意外だな……繭香、参加するの? ……ダンスは嫌いじゃなかった?」
 繭香の尊大な態度にも驚きだったが、貴人のあまりの迷いのなさにも驚いた。
 本当に時間にして二秒。
 まさしく阿吽の呼吸には脱帽だ。

「うるさい! 私にも事情というものがあるのだ!」
 腕組みしたまま胸を反らす繭香を見下ろして、貴人はどこか楽しそうに笑う。
「事情ね……あとで教えてもらえるのかな?」
 ハッと息を呑む私をふり返って、繭香は燃えるように激しい視線を貴人に向けた。
「教えぬ! 女性陣だけの秘密だ!」
「そう」

 あっさりと頷いて私たちとすれ違う瞬間、貴人がふと私に目を向ける。
「何?」
 ドキリとしながら問いかけたら、耳元で小さく囁かれた。
「琴美は俺を誘ってはくれないの?」
「…………!」
 真っ赤になって絶句した私を見て、貴人はそれはそれは満足そうに笑う。
「と言っても……俺はもう繭香にOK出したあとなんだけどね……」
 ハハハッと声に出して笑いながら去って行く貴人の真意がわからない。

(からかってるの……? なに……?)
 立ち止まったまま、後ろ姿の貴人を見送っていたら、繭香に呼ばれた。
「早く来い、琴美! 時間がないんだぞ!」
 刻一刻と近づいてくる自分の順番を思い出して、冷や汗をかくような気持ちで、私はみんなのあとを追った。


「こんな時にお願いする相手は昔っから決まってるの」と笑った美千瑠ちゃんが、パートナーに選ぶ相手は、はたして誰なのか――。
 それは少なくとも私にとっては、予想もしていなかった相手だった。

 真っ直ぐに運動場へと向かった美千瑠ちゃんは、目の上に手で庇を作って、懸命に誰かを探しているようだ。
「えっと……」
 しばらくキョロキョロと視線をさまよわせたあとで、ニッコリ笑ってパチンと手を叩く。
「あっ、いた! 剛毅ー!」
 大きく手を振りながら、可愛らしい声で呼ばれた名前を聞いて、私は思わず全力で美千瑠ちゃんをふり返ってしまった。

「は? なに? 剛毅!?」
 運動場の遥か向こうから、ラグビーのユニフォーム姿の大きな男が、こちらに向かって全力ダッシュして来る。
「どうした? 何があった?」
 強面の顔をますます険しくして、凄みのある声で尋ねるから、私は思わず身を引いてしまったのに、美千瑠ちゃんはまったく動じない。
 それどころかニッコリと微笑んで、可愛らしく小首を傾げる。

「ごめんね。何かあったわけじゃないの……交流会のパートナーの欄、剛毅の名前を書いていい?」
「……? ああ、いいけど……?」
 さも当然とばかりに返事したあとも、剛毅は美千瑠ちゃんの次の言葉を待っている。
 どうやら本当に、それだけの用件でわざわざ呼ばれたとは思っていないようだ。

(それぐらい……剛毅にとっては美千瑠ちゃんのパートナーになるって、当然のことなの?)
 まるで理由のわからない私は、とうとう我慢できずに口を開いた。
「ねえ……二人はどういう関係? 恋人同士じゃないわよね……?」
 以前美千瑠ちゃんの家に行った時に、彼女といいムードだった蒼衣さんのことを思い出しながら、恐る恐る尋ねてみる。

「違うわよ」と美千瑠ちゃんはコロコロと無邪気に笑い、
「そんなわけあるか!」と剛毅には、目を剥いて怒鳴られた。
 思わず2、3歩飛び退ざった私の肩を、ちょいちょいと夏姫がつつく。

「やっぱり知らなかったんだ……本当に、琴美の他人に対する興味の無さは、表彰ものだわ……」
 とても褒められているとは思えないその表現に、私はちょっとムッとした。
「なによ! ……何の話よ……?」
「美千瑠と剛毅の関係だ!」
 繭香の怒鳴り声には背筋がピンと伸びた。
 繭香は小柄な体を精一杯大きく見せようとでもするかのように、ふんぞり返って腕組みをして、私の前に立った。
「剛毅は美千瑠のボディガードだ。事件や事故から守る為と、悪い虫がつかないようにする為、両方の意味合いを兼ねて、美千瑠を守る為だけにこの学園に通っている。……本当に知らなかったのか?」

 何か悪いことをしたわけでもないのに、繭香の咎めるような口調に、そしてまったくの初耳の話に、ついついうな垂れてしまう。
「知らなかった……」
 ハアアッと大きなため息をついて、剛毅は私の肩をポンと叩いた。
「琴美……諒だけじゃない、お前もやっぱり、もうちょっと勉強以外のこともやったほうがいいぞ?」
 もっともだと思う。
 うんと頷いた私を励ますようにもう一度肩を叩き、剛毅は運動場の向こうへと帰って行った。

「もう少ししたら、帰るからねー」
 美千瑠ちゃんが手を振りながら叫んでいるところを見ると、今日は一緒に帰るのだろうか。
「それはやっぱり、剛毅にとっては仕事なわけ?」
 尋ねてみたら、どうとでも取れるような笑顔で美千瑠ちゃんに笑われた。
「……どうかな? 私にとっては、剛毅は小さな頃からずっと傍にいてくれる友達なんだけど……」
「そっか……」
 はたして剛毅のほうは、どう思っているのか。
 珍しく今頃好奇心が沸いてきたが、射るように投げかけられている背後からの視線のほうが、今はもう無視できない状況だった。

「じゃあ次! 行くぞ、夏姫!」
 繭香の声に、夏姫が飛び上がる。
「ほ、本当に? 本当に行くの?」
「往生際が悪いぞ!」
「はい……」
 がっくりとうな垂れた夏姫を叱咤しながら、サッカー部の練習場所へと追い立てていく繭香が、私の目から見たら妙に嬉しそうだった。


 実際には両想いなのに、今でも片想いと変わらないような扱いを受けている玲二君を、私だって気の毒だとは思う。
「もう少し優しくしたら」とか「もっと素直になったら」とか、夏姫に言いたいことは山ほどあるが、その言葉はそのまま自分にも当てはまるものだから、私には何も言えない。

 だが、どうやら私と同じく繭香だって、美千瑠ちゃんだって、たまには玲二君にいい思いをさせてあげようと考えたらしかった。
 呼びつけられて、練習を抜けて来た玲二君と夏姫を二人きりにして、私たちは少し離れた場所から見守る。
 真っ赤になった夏姫と、それにも負けないくらい赤くなった玲二君が、どんな会話をしているのかは聞き取れないが、上手くいってはいるようだ。
 見ているこちらが恥ずかしくなるほど、二人からは甘い雰囲気が漂っている。

「いいな……」
 思わず声に出てしまった。
 意地っ張りの夏姫が自分から誘うのをいくら嫌がったって、玲二君の答えは最初からわかっているのだ。
 話を切り出すのは、私よりは格段に楽なはずだ。

(それにひきかえ私は……)
 玉砕覚悟の上で、敢えて申し込まなければならない。
 決心を固めるにはきっかけが必要だと思って、自分から三人に話を持ちかけはしたが、確かにこの集団告白(?)。
 貧乏くじを引いたのは私のようだ。

「ねえ……やっぱり……」
 いつの間にかなんだかいいムードの夏姫と玲二君を遠くに見ながら、怖気づいて口を開きかけたら、繭香に睨まれた。
「今さら辞退など受つ付けん! みんな琴美の為に、時間を割いたんだ!」
「だよね……」
 それでもこれからの事を思うと、憂鬱にならずにはいられなかった。


 諒は今日は可憐さんに付き添って、宝泉学園での打ち合わせに参加していた。
 女の子四人に剛毅まで加わったメンバーで、他校の校門前に立っていると、目立って目立ってしょうがない。
「いっそのこと呼び出してもらって、さっさと片づけるか?」
「無理! 絶対にそれは無理だから!!」
 繭香の無情な提案に、大慌てで抗議して、ようやくそれだけは勘弁してもらった。

 しかし、時間だけが過ぎて行く中、赤い煉瓦の塀に寄りかかるようにして立っていると、ため息ばかりが出てくる。
(なんでこんなことになっちゃったんだろう……よく考えたら、拒否されそうなのって、最初から私だけだったんじゃない!)
 みんなが難なくパートナーを得たところで、私だけが断わられるなんて、そんなの悲し過ぎる。

(でも可憐さんとは組めないわけだからひょっとして……?)
 かすかに希望を繋げる思いと、
(だからって、私となんて組むかな……?)
 やっぱり無理だと思う気持ちが、代わる代わるに湧き上がって、とてもじっとしてなどいられない。

 そわそわと落ち着かない私を、みんなは笑って見ている。
「意味もなく動き回るな!」
「……しゃがみ込んでも意味ないって……」
「琴美ちゃん、落ち着いて……ね?」
 三人から一斉に声をかけられた瞬間、一人だけ塀の上から顔が出ていた剛毅が、校舎のほうを見ながら呟いた。
「来たぞ、諒……」
 ドキンと跳ね上がった心臓を制服の上から押さえつけて息を整える。

「もう少しだ。あと二十メートル……十メートル……」
 剛毅の言葉で、諒との距離をより鮮明にイメージする為に、私は目を瞑る。
「三、二、一!」
 合図に従って門から飛び出した私は、ぎゅっと目を瞑ったまま、諒に向かって言った。
「話があるんだけど! ちょっと来て!」
 言い終わってから目を開けてみてギョッとなった。
 私の目の前に立っていたのは、諒ではなくて可憐さんで、驚いたように長い睫毛の目を見開いている。
 可憐さんの半歩後ろにいた諒は、「なんでお前がここにいるんだ?」とでも言うように、ビックリした顔でポカンと私の顔を見ていた。

(剛毅!!)
 心の中では、曖昧な合図をくれた剛毅に怒り狂っていたが、今はそんな場合ではない。
 たっぷり十秒ぐらい固まっていた可憐さんは、突然物陰から飛び出してきて自分に声をかけたのが私だと見て取ると、ホッとしたように微笑んだ。
「なんだ。びっくりしちゃった! 琴美ちゃんじゃない! ……何? 話って……」
「ええっと……」
「間違えました。用があるのは諒です」なんて、とても言えない。
 諒だって可憐さんの前で、意味深に私に呼び出されるなんてあまりいい気はしないだろう。

(どうしよう……)
 悩む私の目の前で、可憐さんが何かに驚いたようにビクリと肩を揺らした。
 大きく見開かれている目の見つめる先を辿って、一台の車にたどり着く。
 流線型のフォルムの白いスポーツカー。

(可憐さんの彼氏だ!)
 私がそう思うと同時に、可憐さんは車の進行方向とは別のほうへ駆けだした。
「可憐!」
 以前と同じように、諒が走る彼女を追いかけていく。
(ああまただ……)
 ガックリと脱力した思いでそう考えた時、私の中で何かが切り替わった。

(あんなに悩んで……それでもなけなしの勇気をかき集めて……ようやく決心をつけてここまで来たのに、また諦めてしまうなんて……そんなの、もう嫌だ!)
 そう思ったら、私の足も走りだしていた。

「諒! 待って!」
 声の限りに叫んだら、諒が本当に足を止めてくれる。
 それから可憐さんの背中と、彼氏さんの白い車と、私を交互に見て、私に向かって手をさし伸べた。
「しょうがないな……ほら! 行くぞ!」
 思ってもいなかった反応にとまどいながらも、私はしっかりとその手を掴んだ。

(繭香の言うとおり! うだうだ悩んでるなんて私らしくない! こうなったらもう、絶対に言ってやる! どうなったって構うもんか!)
 それはかなりやけっぱちの。
 けれど私にとっては、ようやくたどり着いた、実に私らしい決断だった。
「待てよ、可憐! 待てって!」
 諒がいくら呼んでも、走る速度を落とすことのなかった可憐さんの背中は、
「ちょっと待って! 可憐さん!」
 私の叫びに、ピタリと止まった。

 ためらうようにしばらく右往左往したあと、クルッと回れ右をして、今度は私に向かって一目散に駆けて来る。
「琴美ちゃん!」
 自分の胸に飛びこんで来たいい香りのする華奢な体を、私は慌てて抱き止めた。

「もう嫌だよ! 本当はこんなの嫌なの……!」
 涙混じりに叫ばれた言葉こそ、可憐さんの本音だと思った。
 だから、私は彼女の体をなおいっそうギュッと強く抱き締める。
「うん……私じゃあんまり役に立たないかもしれないけど、一生懸命考える……だから、可憐さんが今どんなことで悩んでるのか……教えて?」
「うん……」
 心の中に溜め込んだものを、誰かに聞いてもらうだけで楽になることもある。
 以前、貴人に教えてもらったその大事なことを、私はまだ忘れてはいなかった。
 
 
「最初は彼のほうからアプローチしてきたの。五つも年上なんて問題外だって思ってたから、私はさんざん無視したんだけど、そんなこと、全然気にしない人で……」
 宝泉学園から一番近かったという理由で、私と可憐さんは諒の家にお邪魔することになった。
 もちろん、初めて入った諒の部屋。
 ドキドキする気持ちはあるけれど、今はとにかく可憐さんの話を聞くことが大切だ。

 家に帰る早々「俺はちょっと……」といなくなった諒のことなんて無視で、私は可憐さんの話を真剣に聞いていた。
「あんまり毎日会いに来てくれてたものだから……ある日、姿が見えなかった時には、もう気になってしょうがなかった……計算なんかじゃなかったって、今でも信じてるけど……きっとあの時から、私のほうが彼にはまっちゃってたんだろうな……」

 ポロリと涙を零しながらも、小さく笑ってみせる可憐さんの様子が胸に痛い。
 口ではどんなに「もういい!」なんて言ったって、本当はその恋を手放したくなくて。
 でも絶望的な状況の中じゃ、どうする事も出来なくて。
 苦しくてたまらない思いなら、私はよく知っている。
 もう半年以上も前のことなのに、ついこの間のことにように思い出すことができる。

「わかるよ、可憐さんの気持ち……でも、彼氏さんが本当に大切だったら、勝手に決めつけないで、ちゃんと話をしたほうがいいと思う。ひょっとしたら、何かの間違いかもしれないし、理由があるのかもしれないし……」
 自分自身はまったくできなかったことを、人に勧めるのもどうかと思うが、あの時、そうできなかった自分を悔いているからこそ、ここは声を大にして叫びたい。

「そのほうが、こうやって逃げ回ってるよりはずっといいと思うよ……?」
 可憐さんが、涙に濡れた長い睫毛の目を私に向けた。
 きゅっとひき結んでいた桜色の唇を開いて、意を決したように私に答えるには――。

「いやよ」

 てっきりいい答えが返ってくるものだとばかり思っていたので、思わずガクッと前のめりに倒れるところだった。
「い、いやよって……」
「嫌なの! 私のほうから確かめるのも、彰人さんの言い訳を聞くのも嫌!」
 長い髪を左右に揺らしながら、小さな子供が駄々を捏ねるように、何度も首を横に振る可憐さんの様子に、呆気に取られてしまう。

「だからってこうやって逃げてばかりの自分も嫌! もうこのまま、彰人さんに会えなくなるのも嫌! 今こうしてる間にも、他の人が彼の傍にいるかもなんて、考えるだけで嫌なの!」
 あまりの『嫌』の連発に、だんだん笑いがこみ上げてきた。
 なんのことはない。
 なんだかんだ言ったってやっぱり可憐さんは彼氏さんのことが大好きなのだ。
 好きすぎて、いろんな感情を自分で持て余してしまっているのだろう。

(本当に……一回会っちゃえば、それで元の鞘に収まりそう……彼氏さんのほうだって、『あんなに惚れてるんだぞ!』って諒に言わせちゃうくらいなんだし……)
 そう考えて、ふと首を捻った。

(うん? でもその言い方だと、まるで諒が可憐さんの彼氏さんのことを、よく知ってるみたいじゃない……?)
 実際に耳にした時は気にも留めなかったセリフに、ひっかかりを感じる。
(あれ? ……なんでだろ?)
 記憶力と想像力を駆使して、私がいつものように考えを巡らし始めた途端に、バタンと大きな音をさせて背後のドアが開いた。

 ビックリしてふり返った先に立っていたのは、思いがけない人だった。
 てっきり諒が返って来たのだとばかり思ったのに、諒よりはゆうに十五センチは背が高い男の人。
 モデルばりの長身に、均整のとれた体。
 キリッとした精悍な顔の、たいそうなイケメン。

(どっかで会ったような……誰だっけ?)
 首を傾げた途端に、反対方向から可憐さんの悲鳴が聞こえた。
「彰人さん!」
 それでようやく、いつも車に乗ってる横顔ばかりを見ていた、可憐さんの彼氏さんなんだと思い当る。

(まさにグッドタイミング! ……でもなんで? ここ、諒の家だよ?)
 わけもわからず首を捻る私の目に、その時、彼氏さんの背後からひょっこりと顔を出す諒の姿が映った。
 私に向かって人差し指を向け、こっちに来いとでもいうように急いで手招きする。

(え? なに?)
 意味がよくわからずにポカンとしたら、すぐに諒はムッとしたような顔になった。
「いいから! はやく! こっちにこい!」
 大きく口を開けて、口パクでそう伝えられたから、これ以上機嫌を損ねないうちに、私は急いで立ち上がった。
「やだ……琴美ちゃん、どこに行くの?」
 焦って声を上げる可憐さんに心の中で手を合わせながら、急いでドアの向こうの廊下に向かう。
 だって、「早くしろ!」と口パクで叫ぶ諒の形相は、今言うことを聞かないとあとでどんな目にあわされるのかと不安になるくらい、もの凄い怒りがこもっているのだ。

 部屋に入ってすぐの所で立ち竦んでいた彰人さんと入れ替わるように、私がドアから廊下に出た途端、諒は私の腕を掴んで自分のほうへ引き寄せ、目の前のドアをガチャンと閉めた。
「諒!?」
「諒ちゃん!」
 可憐さんと彰人さんの驚きの声なんて完全無視で、諒はドアに付けられた南京錠をガチリとロックすると、私の手を引き歩き始める。

「これでよし! 母さんの付けたお仕置き用の鍵が初めて俺の役に立った! あとは本人たちでなんとかしてくれ……まったくいつになっても、世話の焼ける……!」
 私にはよくわからないセリフをブツブツと呟きながら、そのまま階段を下り、諒は私を一階のリビングへと連れて行った。

「しばらく時間がかかるだろうから、待ってるか? それとも先に帰る?」
 尋ねられるままに、
「えっと……待ってる……」
 と答えて、思わず自分の右手首を凝視してしまった。
 だってさっきからずっと、諒は私の腕をぎゅっと掴んだままだ。

「あ、わりい……じゃあなんか飲むか?」
 慌てて私の手を放してキッチンへと向かっていく諒の頬が、ほのかに赤い気がするのは、私の気のせいだろうか。
「うん。でもそれよりまず、何がどうなってるのか、説明してくれない?」 
 ちょっと強めの口調でそう言ったら、諒は私をふり返って、眉を寄せた。
「わかってるよ。そのへんに座ってろよ」
 可憐さんの相談に乗るつもりでここに来たのに、思いがけず諒と二人きりで過ごすことになってしまった。 
 頭の片隅をかすめる「今日、諒を待っていた私の本来の目的」に、本当はたまらなくドキドキしていた。
 
 
「彰人兄ちゃんは、うちの近所の兄ちゃん。俺の中学の頃の家庭教師でもある。あんな顔してて、オクテで口下手で……だから可憐に一目ぼれした時は、最初のうち俺がいろいろ手伝ったんだよ……まあ……相手が自分と同じ中学生だとは、とても見えなかったからな……高校に行ったら同学年にいるんで、すげえビックリした……」
「そう……」
 淡々とした私の返事は、どうやら諒のお気に召さなかったらしい。
 ムッとしたような視線を向けられる。

「今のは笑うところだろ。なんだよ……お前、なんか反応おかしくないか……?」 
「だって……」
 言いかけて私は、諒に淹れてもらったコーヒーのカップに視線を落として、口をつぐんだ。

(てっきり諒は可憐さんのことを好きなんだと思ってた。だからあんなに彼女のことに一生懸命なんだろうって……それを気にして、泣いたり悩んだり……私のこの数日間はいったい何だったわけ?)
 怒っていいのか、喜んでいいのか、なんとも複雑な心境で次の言葉が見つからない。
 そんな私に向かって、諒は問いかける。

「だって、なんだよ?」
 明らかにイライラしている様子に、ため息が出そうだった。
 腐れ縁の上に、なぜか一緒に組まされることの多い諒には、私の感情が、実は一番ごまかしが利かない。
 表情だけで心理状態を読み取ってしまう繭香以上に、全然騙されてくれないということを、私は知っていた。

(だめだ……このままじゃ、また喧嘩になる)
 長年の経験からそう悟った私は、諒がこれ以上機嫌を損ねる前に、さっさと言ってしまうことにした。
 でなければ、そのあとに続くべき、私の本来の目的なんて、口に出すことさえできなくなってしまう。
「私、諒は可憐さんを好きなんだと思ってたのよ……」
 渋々言葉にした、私のとんでもない勘違いに、諒は呆気に取られた顔をした。

「は?」
 無防備なその表情は、なんとも可愛くて、私がこっそりと胸を高鳴らせたのも束の間、すぐに諒は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「お前なあ! 何をどうやったらそうなるんだよ……ほんっとに、信じらんねえ!」
 心底呆れ切ったような声に、悪いのは自分のほうだと重々わかっているのに、ついつい負けん気が出てきてしまう。

「だってそう思ったんだもん! 諒だって、あんなに一生懸命可憐さんのこと追いかけてたじゃない!」
「だからそれは彰人兄ちゃんのためだろ!」
「そんなこと、私が知るわけないでしょ! だから……!」
 このままどんどん険悪になっていく前に、不毛な言い争いはもう終わりにしたい。
 そう思っているのに、口も体も、まったく私のいうことをきいてくれない。
 なのに――。

「ふざけるなよ! 俺が好きなのは、中学の頃からずっと……!」
 諒がそう叫んだ途端、間近で諒と向き合ったまま、私の体の全機能が停止した。

(中学の頃から? ……嘘? ……嫌だ! ……誰?)
 その先の言葉が聞きたくて。
 聞きたくなくて。
 私の両手は勝手に自分の両耳を塞いでしまっている。
 それなのに、諒を見つめる両目には、ぶわっと涙が浮かんでくる。
 ――まるで絵に描いたように情緒不安定な女。

 私のあまりに挙動不審な反応に、激高のあまり我を忘れかけていた諒が、ふと正気に返った。
「な……んだよ? ……どうした?」
 ほんのついさっきまで怒ってたくせに、そんなに心配そうな顔で私を見ないでほしい。
 まさに世紀の大失恋の直前だというのに、また不覚にもときめいてしまう。

「なんでもないわよ……ごめん、やっぱり私もう帰る!」
「えっ? おい! 待て……!」
 焦る諒をふり切って、私は諒の家から逃げ出した。
 
 
 その足でそのまま繭香の家に向かい、洗いざらいぶちまけて、大泣きして、諒のことはもう諦めようと思ったのに、それは実行できなかった。
 私が鳴らした玄関のチャイムを聞いて応対に出て来てくれた繭香は、なんと私を玄関先で追い返した。

「約束をちゃんと守れ! 次は琴美が諒を誘う番だっただろう!」
「だからそれはもうできないの! 可憐さんのことは誤解だったけど、諒には中学の頃からの好きな人がいるんだって!」
 繭香は心底呆れたような顔で私を見上げ、よく意味のわからない言葉を呟いた。

「そこまで聞いて、まだ……? よっぽど有り得ないって、はなっから頭の中で排除してるんだな……奴も気の毒に……」
「………………?」
 首を傾げる私に向かって、今度は明らかに棘を含んだ言葉を放つ。

「とにかく! この用紙に署名を貰って来い! 成功するかしないかは問わないが……もし実行に移さなかったら、その時は、私はもう琴美とは縁を切る!」
「そんなあ!」
 涙でぐしょぐしょに濡れながら、私は繭香が自分に押し付けた用紙に、目を落とした。
 それは、全校生徒何百人分も私がこの手で仕分けした、交流会の参加希望書に他ならない。

「無理だよ!」
「無理じゃない! 騙されたと思ってやれ! じゃあな!」
 泣いてすがる私を突き放して、ガチャリと玄関扉を閉じた繭香は、本当に鬼なんじゃないかと思った。

(なによお……友だちだったらこんな時は、慰めてくれるのが普通じゃない! 繭香の馬鹿ぁ!)
 流石にそれを口に出して言うことはしなかったが、こうなったら明日は学校を休んでしまおうと、私は心に誓った。
 
 
 しかし、内申書もパーフェクトの内容で大学受験に望もうと思っている私には、学校をズル休みしようなんて、どだい無理な話だった。
 いつもの時間に家を出て、いつもどおりに登校した最前列の自分の席で、机につっ伏していると、背後から嫌な声がかかる。

「どうしたの近藤さん? やっぱり悩みごと?」
 本当に、心から放っておいてほしいのに、柏木は今日はわざわざ自分の席を立って、私の前へと回りこんできた。
 どうしたらいいのかと途方に暮れて、私が机の上に投げ出していた参加希望書をさっさと取り上げる。

「ちょっと! なにすんのよ!」
 怒って顔を上げた私を、それはそれは気の毒そうな顔で見下ろした。
「なんだ……やっぱりパートナーがいなくて困ってるんじゃないか……」
 嬉しそうに笑うと、制服の胸ポケットからおもむろにボールペンを取り出す。

「ちょ、ちょっと……? 何するつもり?」
 嫌な予感に苛まれて、私が立ち上がった時にはもう遅かった。
 私にはとうてい手の届かない高さで、柏木が勝手に用紙に何かを書きこもうとしている。
「しょうがないな……期末考査の直前だし、参加するつもりなんてなかったんだけど……ボランティアだと思って、ここは僕が……」
「どんな嫌がらせなのよ、それは!」

 慌てて用紙を取り返そうとしても、女子の中でも前から数えたほうが早いくらいの私の身長じゃ、長身の柏木の手に握られた物なんて届くはずがない。
 ぶざまにピョンピョン跳ねる私の姿を見て、柏木もその取り巻き連中も、面白そうに笑っている。
「返してよ! ちょっと!」
 怒りに肩を震わせながら柏木に向かって突進する私の目の前で、意地悪な笑顔を浮かべた柏木の顔に、もの凄い勢いで校内履きのスリッパが命中した。

「うおっ!!」
 スッパーンという音と共に体勢を崩した柏木の手から、私は交流会の参加希望書を取り戻そうとする。
 しかしそれよりも先に、隣に歩いて来た誰かが、ひったくるようにその用紙を柏木から奪った。

 ゆるゆると視線を上げた先では諒が、床に倒れた柏木の横に転がるスリッパに足をつっこみながら、用紙に何かを書き入れている。
「ほら」
 自分に向かってつき返されたその用紙を見て、私は心臓が止まるかと思った。

 そこにはちょっと癖のある右肩上がりの諒の筆跡で、確かに『勝浦諒』と書きこまれていた。
「残念だったな。こいつのパートナーは、当日の持ち場の関係で、最初っから俺だって決まってるんだよ」
 ドサリと鞄を机の上に投げ出しながら、諒が柏木に言った言葉にドキリとした。

(え? 今回は私と諒って、持ち場が違うよね……?)
 けれど、問い質すように視線を向けた途端、諒にギンと大迫力で睨まれてしまったので、もう口を開けなくなった。

「だよな?」
 真正面から見据えられたまま、念を押されればもう頷くしかない。
「うん。そう……確かにそうです!」
 シュタッと右手を上げて、声高らかに宣言した私に、満足そうに頷いたあと、視線を逸らした諒が肩を震わせて笑っているように見えるのは気のせいだろうか。

「別に……全然、残念なんかじゃないけどね……」
 しばらく呆気に取られていた柏木が、忌々しげに言いながら自分の席へと帰るのを見て、諒が小さな声で呟く。
「どうも絡んでくると思ったら、そういうことだったのかよ……まったく油断ならない……!」
「…………?」
 その意味はよくわからないけど、思いがけず手にした諒のパートナーの権利に、私は心から感動していた。

(よかった! これで繭香に絶交されずに済む!)
 詳しい経緯を語れば、これでOKにしてもらえるのかははなはだ疑問だが、ひとまず昨夜眠れないほど私を悩ませた問題の一つは解決した。
(可憐さんは、きっともう彼氏さんとなかなおりしただろうから、問題ないとして……)
 私はこっそりと隣に座る横顔に視線を向ける。

「なんだよ?」
 呼びかけたわけでもないのに、本当に諒は、毎回毎回ものすごい速さで反応を返してくる。
「な、なんでもない!」
 助けてくれてありがとうと言えばいいだけなのに、心のどこかにやっぱり『諒の好きな人』のことがひっかかって、上手く言葉が出て来ない。

 諒とパートナーになれて嬉しい反面、
(本当に私と組んじゃってよかったのかな……?)
 という思いが、どうしても私の胸からは消えなかった。
 
 煉瓦造りの正門から会場まで、真っ直ぐに敷かれているのは真紅の絨毯。
 大きな窓を隠すように垂れ下がるのは、ドレープたっぷりのベルベットのカーテンと色とりどりの生花。
 極めつけは、天井から釣り下がったいくつもの大きなシャンデリア。

「ここ……体育館よね……?」
 主催者側に属する私でさえ思わず首を捻ってしまうほどに、交流会当日、ダンスパーティー会場となった宝泉学園の体育館は普段とはまるで違うビックリ空間になっていた。
 
 しかもそぞろ歩いている生徒たちの服装まで、どこの結婚式場から逃げ出して来た花嫁と花婿なのかと思ってしまうくらい、見事に正装なのである。
「ありえない……!」
 どうせ裏方なのだからと制服のままで来てしまった私の背後に、まるでお姫さまのように着飾った可憐さんが、いつの間にか音も立てずに近づいていた。

「ありえないのは、琴美ちゃんよ! どうして制服なの!」
 ガシッと両肩をつかまれ、そのままどこかに連れて行かれる。
「えっ? ちょっ……私、今から受け付けをやんなくちゃいけないんだけど?」
 会場の入り口付近の、長テーブルにクロスを掛けた私の持ち場には、可憐さんにも負けないくらいの華やかなドレスに身を包んだ美千瑠ちゃんとうららが、さっさと入ってしまう。

「ここはいいから、行ってらっしゃーい」
「……がんばれ……琴美……」
 体育館の片隅に設けられた『女子支度室』という名の更衣室からは、ちょうど夏姫と繭香が出て来たところだった。
 普段はジャージばかりの夏姫も、ドレスよりは着物が似合いそうな繭香も、ふんわり膨らんだドレスに身を包んで、ほんのりとメイクなんかもされちゃって全然イメージが違う。

「わっ……可愛い……!」
 思わず呟いたら、真っ赤になって怒られた。
「なんで私までこんな格好しなくちゃいけないのよ?」
「そうだ! 主催者なのだから、当日の雑務に相応しい格好というものがあるだろう!」
「主催者だからこそです!!」
 繭香も口をつぐんでしまうほどの勢いで、可憐さんが私の背後で叫んだ。

 彼女がどんな表情なのかは私からは見えないが、あきらかに硬直してしまった夏姫と、いつものような傲慢な返事をできない繭香の様子を見ていると、よっぽどの状態なのはよくわかる。
「いくら服装は自由だからって……根本的にはダンスパーティーなのに! ……正装するのは当然です! 私たちが率先して手本を示さなくてどうするの……!」

 不本意そうに表情は崩しながらも、夏姫も繭香も可憐さんに反論しない。
 そのまま大人しく、美千瑠ちゃんたちが待っている受付へと行ってしまう。
 そのうしろ姿を見送りながら、満足そうにフフと笑う声が背後から聞こえた。

「さあ……後は琴美ちゃんだけよ」
 実に嬉しそうに私の手を引いて、支度室へと向かう可憐さんは、これまでのどんな時よりも活き活きとしている。
「みんなのドレスも全部私が見立てたの! 琴美ちゃんのも……きっと似合うと思うわ!」
 まるで檻にでも放りこまれるかのように、無理やり押し込まれた支度室には、可憐さんとそっくりな三人の女の人が、私を待ち構えていた。

「?????」
 呆気にとられて入り口で立ち止まった私の背中を、可憐さんがドンと押す。
「ママ! お姉ちゃんたち! この子で終わりよ! 腕によりをかけて、よろしくね!」
「まかせておいて!!」
 ニコニコしながら近づいてきた可憐さん似の女の人たちに、私はワッと取り囲まれて、制服を脱がされる。
「なっ! なにすんですかっ!!」
「なにって……もちろんお着替えよ!」
 私の悲鳴は、支度室という名の狭い更衣室ばかりではなく、体育館全体にまで響いていたと、あとでみんなが教えてくれた。
 
 
 鏡に映るのは紛れもなく自分のはずなのに――。
(なるほど! 馬子にも衣裳というのは、こういう状態のことを言うのか……!)
 すでに誰もいなくなった支度室で、私は自分に対する虚しい評価を笑顔で下していた。

 可憐さんのお母さんとお姉さんたちも、もう体育館へと出て行ってしまった。
 交流会の開始時間も間近に迫り、私も早く行かなければならないのはわかっているが、なかなか踏ん切りがつかない。
 淡い朱色のドレスを着て、長い髪を結い上げた私は、自分の目から見てもかなり気合いが入っている。

 特にこのダンスパーティーに思い入れがあったわけでもないのに、みんなの目にはどう映るだろうと、ついつい思ってしまう。
 特に、成り行きでパートナーになってしまった諒の反応は――。

(やっぱり制服に着替えようかな……? もともと踊るつもりなんてないんだし、だったらこの格好ってやっぱりおかしいよね……?)
 しかし、どこからどう脱いだらいいのかわからないドレスに、私が手をかけた瞬間、まるで心の声が聞こえたかのように、入り口のドアがガチャリと開いた。

「琴美ちゃん、まだ? ……ってあれ? もうできてるじゃない!」
 いつもより二倍増しぐらいの睫毛に覆われた目を細めて、可憐さんが実に嬉しそうに笑う。
「いい! いいわ! とっても可愛い!」
 ここに連れて来た時と同じように私の手をむんずとつかむと、さっさと歩き出す。
「早く! もうみんな集まってるから!」

 決して普段から着慣れているわけではないのに、歩き出せば、ドレスの裾を踏み付けてしまわないようにちょっと持ち上げる自分が恥ずかしい。
 照れ臭くてたまらないのに、綺麗に着飾って、「可愛い」と言われて、やっぱり嬉しい気持ちも確かにある。

 でも他人の目から見たらはたしてどうなのか。
 可憐さんに手を引かれて歩きながら、私は誰の視線もまともに受け止めることはできず、ずっと俯いたままだった。
 なのにそんな私を、可憐さんは無情にも、迷うことなくその人の前へ連れて行く。
「諒ちゃん! 琴美ちゃん、できたわよ!」
 弾むような声で呼ばれた名前に、心臓が口から飛び出しそうなくらいに跳ねた。
 
 
(いくら私たちがドレスを着たって、男の子たちが普段着だったらおかしいんじゃない?)
 可憐さんのお母さんとお姉さんたちに支度してもらいながら、私が心の中でこっそりと心配していたことはまったくの杞憂だった。
 体育館のステージの前に、ズラリと並んだ我が『HEAVEN』の男子たちと、宝泉学園の役員の皆さんは、全員見事に正装していた。
 たとえ何を着ていたって、普段から王子さま然としている貴人はもちろん、剛毅も玲二君も、順平君も智史君も、――そしてもちろん諒も。

 女の子のように可愛い顔をしている諒に、キラキラとした装飾の付いたゴージャスな王子服はよく似合っていて、目が離せない。
 ついつい食い入るように見つめてしまって、
「なんだよ? なんか文句でもあるのか?」
 と不機嫌にさせてしまう。
 慌てて「何も」と首を横に振った私は、視線を自分のつま先に向けて、そしたらもう顔を上げることさえ難しくなった。

「へえ、よく似あってんじゃん!」
 今日は他校生の彼女をわざわざ招待しているという順平君には、「そんなことないよ!」としかめっ面を向けることができる。
「ほう、馬子にも衣装だな」
 自分でもさっき思ったことを、口に出して言ってくれた剛毅には、「なんですって!」とこぶしをふり上げることもできる。

 でもダメだ。
 肝心の諒には、なんと言って声をかけていいのかすらわからない。

 困り果てて俯く私の目の前に、白い手袋をしたままの手がぬっとさし出された。
 首を傾げるようにして、私の顔を覗きこんだのは貴人だった。
「あとで一曲お願いしてもいいですか?」
 スマートな動作で優雅に手袋を脱いで、そっと私の手を下からすくい取る。
 完璧なお姫様扱いに恥ずかしくなりながらも、私は頷いた。

「ははは、はい!」
 慌てたあまりにどもってしまったら、諒にブッと吹き出された。
 それでなんだか肩の力が抜けた。
 何を着てたって私はいつもの私だし、諒はいつもの諒なのに、いったい何をそんなに気にしてたんだろう。

「……失礼ね! 最初のエスコートはパートナーがやるって、ちゃんとわかってるんでしょうね?」
 普段の調子で尋ねたら、諒はなんだか嬉しそうに目を輝かせた。
「もちろんわかってるよ! 男ども全員、可憐にさんざん仕込まれたんだからな!」
 私の手を引いて、突如として体育館に現われた巨大なダンスホールの中央に向かって、さっさと歩き出す。
 ちょっとでも動けば隣の人にぶつかりそうなほどの大人数の中、私の手を取って最初の位置取りをした諒の姿には、やっぱりドキドキした。

(なんか……成り行きでこうなっちゃったけど、やっぱり嬉しい……これは柏木にお礼を言うべきかしら?)
 音楽が始まると同時に、滑るように踊りだした姿にも、不覚にも惚れ惚れとする。
 だけど――。

「足踏むな! ヨロヨロすんな! 顔はこっち!」
 耳元近くで囁かれる言葉は、およそロマンチックなムードとはほど遠い。
「わかってるわ! そっちこそ、右と左をまちがえんじゃないわよ!」
 でもこれでいいと思った。
 お互いに言いたいことを言いあって、それでも手を離さずに、ダンスという未知の領域でも共に戦っていけるんなら、私はそれで本望だ。
「絶対……絶対、この一曲を踊り終えたら、俺はもういなくなるからな……!」
「私だって……!」
 心に秘めた決意さえ、今はまったく同じなことが嬉しかった。
 
 
 日頃が運動不足な体には、いくら曲がスローなテンポとはいえ、続けて踊るのは3曲が限界だ。
 最初の誓いも虚しく、一曲目で体育館から逃げそびれた私と諒は、ようやく音楽が途切れた三曲目で顔を見あわせた。

 周りの人たちがせわしく動き回っているところを見ると、どうやらここでパートナーを変えるタイミングでもあるらしい。
「お前さあ……」
 ちょっと息を切らしながら突然話しかけられるので、思わず緊張する。
「な、なに……?」
 ここからは他の奴と踊れとでも言われるのかと身構えた私を、しげしげと見ながら、諒は次の言葉を出しあぐねている。
「ほら……あれだよ……あれ……」
「…………?」
 相手が何を言いたいんだか見当もつかず、首を捻る私を見ながら、諒はなんだか困ったように視線をさまよわせる。

 その目が、私の背後に何かを発見したらしく、みるみるうちに表情が険しくなった。
「あいつ……! こんなもの参加するかって言ってたくせに……やっぱりそうかよ!」
「…………?」
 諒の視線をたどって、私が自分のうしろをふり返ろうとした瞬間、諒は私の腕をガシッとつかんだ。
「ちょっと来い!」
 言うなり、私の手を引いて駆け出す。
「え? なに? どうしたの?」

 周りの人にぶつからないように気をつけるのが精一杯で、背後の確認もできない私に、諒は何の説明もしてくれない。
「いいから、ちょっと黙ってろ!」
 偉そうに命令されて、強引に手を引かれて、それでも全然嫌じゃない自分が、なんだか可笑しかった。
 
 
 交流会がおこなわれている体育館からは遠く離れた建物の陰で、諒はようやく足を止め、私の手を離した。
「いったいどうしたのよ?」
 はあはあと肩で大きく息をしている私の顔を、諒は同じように息を切らしながら、膝に両手をついた体勢から見上げる。
「お前……柏木と踊ってもよかったか?」

「は?」
 思いもかけない名前の登場に思わず目が点になったが、次の瞬間には、私は声を大にして叫んでいた。
「いいわけないじゃない! 誰が……あんな天敵と!」
「だろ? だから逃げて来たんだよ……!」
 思わず息をのんだ。
 それはつまり、柏木が私と踊ろうとしていたということだろうか。

 一歩後退った私を見て、諒は大きくため息をつき、忌々しげに前髪をかき上げた。
「真っ直ぐお前に向かって歩いて来てたぞ。俺が気がつかなかったら、まあ……今頃はまちがいなく捕まってたな……」
「…………!」
 想像しただけでゾッとした。

(この間のパートナー欄のことといい……なんなの? ……私に精神的ダメージを与えるための新しい嫌がらせ……?)
 何はともあれ、諒のおかげで、そんな酷い目にあわずにすんだわけだ。
「助かったわ!」
 両手を握りあわせて叫んだら、思いがけない反応をされた。
 きっと偉そうに自分の手柄を述べ立てられるとばかり思っていたのに、諒はちょっと顔を赤らめて俯いた。
「ああ……」
 その態度に、精一杯普通に接しようとしていた私の心が、大きくかき乱される。

 思いがけずこんなところで二人きりになってしまったことに、今さらながらにドキドキしてきた。
 これ以上何を話したらいいのかわからず、息が詰まりそうなほどに緊張した私を、再び混乱させたのは諒の唐突な言葉だった。
「それ……結構似あってるぞ……」
「え?」
 こちらに目を向けないままに言われたので、一瞬何のことだかわからなかった。

 でもすぐに、はたと思い当って、私は自分が着ているドレスを握り締めて真っ赤になった。
 諒は、そんな私にも負けないくらい赤くなった。
「あ、彰人兄ちゃんが……パートナーになった子には、開口一番そう言うのが礼儀だって何度も念を押したから! ……だから言ったんだからな! 他意はないぞ!」
 早口でまくし立てる間にも、諒の横顔はどんどん赤くなっていく。
「わ、わかった! 社交辞令ってやつね、きっと! ……そうか、ダンスパーティーってそんなことにも気を遣わなくちゃいけないんだ……やっぱ私には向いてないわ、ハハハ……」
 大慌ててそう結論付けて、無理やり乾いた笑いを出したら、諒も同じように笑った。

「俺もだ、ハハハ……」
 キラキラの王子服も気にしないで、脱力したようにその場に座りこむから、私もドレスの裾をちょっとたくし上げて、その隣に座る。
「おい、いいのかよ? 俺はもうここにいるけど、お前は少し経ったらあそこに戻るんだろ? ……貴人と踊る約束してただろ?」
 そういえばそうだったと思いながらも、私は思い切ってそのままドレスを地面に下ろした。

「いいの。貴人と踊りたい人なら、きっと今頃はもう行列を作ってるわ。私が戻らなくたってなんの問題もないわよ……」
「そうか。じゃあまあ、勝手にしろよ……」
 呆れたように言い放ちながらも、諒が心持ち自分の隣に場所を空けてくれたから、私はその場所に収まった。

 ようやく落ち着いて、ゆっくり出来る時間と場所を手に入れた気がして、ため息が漏れる。
「ああ、疲れた……」
「ほんとに……」
 思わず呟いたら、心底疲れきった声で諒も返事するから、ちょっと笑いが込み上げる。
 ――その瞬間、クシュンとくしゃみが出た。

(ああ、そっか……肩が大きく空いたこんな服のまま、真冬の室外にいるのは自殺行為かな……?)
 そんなことを考えた瞬間、諒が自分の上着を脱いで、私の肩に掛けた。
 まるで当たり前のようなその行為に、思わず泣きそうになった。
(そうだ……もういったい何度、こんなふうに諒に助けてもらっただろう……! そのたびにきっと、どんどん好きになっていった……)

 私を慰める為。
 元気付ける為。
 みんなの目から守る為。
 何度も貸してもらった諒の制服の上着と今日の王子服の上着は違うけれど、やっぱり同じように諒の匂いがする。
 
 自分の中でどんどん大きくなった想いを告げるなんて――そんなことは、まだとてもできそうにないけど、この間からずっと言いたくて言えなかったことが、今なら言えるような気がした。

「諒……いろいろとありがとう……」
 肩に乗った上着を襟元で合わせながら、そっと呟いたら、
「おう」
 私の顔は見ずに、諒が軽く右手を上げた。
 その頬がちょっと赤くなっていて、私はもっと真っ赤になる。

(風が冷たいから……だから赤くなったんでしょ?)
 そうであって欲しいような。
 欲しくないような。
 よくわからない感情を抱えたまま、私はずっと諒の隣にいた。
 今はただ、その場所に居られることが嬉しかった。
 

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:3

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

それは絶対ありえない

総文字数/20,101

青春・恋愛8ページ

本棚に入れる
表紙を見る
もう一度『初めまして』から始めよう

総文字数/80,057

青春・恋愛44ページ

本棚に入れる
表紙を見る
恋愛魔法薬~あべこべの騎士と姫の場合~

総文字数/23,774

異世界ファンタジー23ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア