窓から吹きこんできた冷たい北風に、机の上にうずたかく盛られていた巨大な紙の山が、無残にも崩されてしまいそうになった。
「ちょ、ちょっと! 窓閉めてよ!」
 ヒラヒラと舞う紙を追いかけながら血相を変える私をふり返り、窓際に立っていた諒は淡々と返事する。
「あ、わりい……空気入れ替えたかっただけなんだけど……今日さ、この部屋暑くないか?」
「べ、べ、別に、暑くないわよ!」
 額に汗かきそうな思いなのは、決して部屋が暑いからではない。
 放課後の『HEAVEN』に、なぜかまだ諒と二人きりだからだ。

「そうか?」
 ちょっと怪しむように諒は首を傾げ、床に落ちてしまった紙を拾い上げる。
「ほら」
 手渡しでそれを受け取ると思うだけで、妙な緊張感に包まれる。
 そんな自分をなんとか落ち着けようと、私は一人で必死だった。
「あ、ありがと……」
 ひったくるように受け取った紙を、机の上の山のてっぺんに乗っけた。

 なんだか落ち着かずに、ウロウロと行ったり来たりをくり返している私を、自分の席についた諒がじっと見ている気配がする。
 無視して仕事に集中しようとしていたが、そのうち我慢できなくなった。
「なによ?」
 いつもの調子で、ちょっと怒ったように問いかけたら、思いがけず笑顔が返ってきた。
 その表情に私が更に動揺したことなんて、きっと諒は全然気がついていない。

「いや……ほんと見てて飽きないなと思って……」
 思わずボッと頭に血がのぼった。
(な、な……! それってどういう意味……?)
 しかし喜び過ぎる必要はまったくなかった。
 諒はまるで繭香みたいに唇の端を上げて、意地悪そうに微笑んだ。
「檻の中のサルみてぇ……餌探してるんだよな……?」

 手を伸ばせば届く距離にあった濡れたような黒髪の頭を、思わず力の限りにげんこつで殴りつけてしまった。
「痛ってえ! 何すんだよ!」
 すかさず両手で頭を押さえた諒に、さっきまでときめいていた思いなんてどこへやら、私は本気で怒鳴りつける。
「こっちのセリフよ! 女の子に向かって、サ、サルって……!」
「この非常識! バカ!」とでも続けようと思っていたのに、思いがけず息が上がってしまった。

 言葉が途切れた瞬間に、「ヒック」としゃっくりにも似た嗚咽が漏れて、そんな自分に自分でビックリする。
 ポロリと目から一粒、涙が零れ落ちたので慌てて諒に背中を向けた。
(な……に……? なんで泣いちゃってるの、私?)
 自分でも全然わからない。
 諒が私に意地悪言うのなんて、まるで今までどおりなのに、過剰反応し過ぎて涙がこみあげてきた自分に驚く。
(だって……こんなのおかしいでしょ?)

 諒に気づかれる前に、ここはひとまず部屋から一度出て、顔でも洗ってこようかと考えていたら、先に諒のほうが椅子から立ち上がった。
「ごめん」
 小さな声で一言だけ謝って、部屋を出て行こうとするから、私は慌てて問いかける。
「どこ行くのよ?」
 今回の仕事では、諒の受け持ちは私と同じではないのだし、どこへ行こうと諒の勝手なのだが、ついつい逃げるのは許さないとでも言うような偉そうな言い方をしてしまう。

 諒は私の大きすぎる態度には文句も言わず、『HEAVEN』の扉を開けながら、背中のままで言った。
「……すぐ帰ってくるよ」
 ちょっと優しげなその声音に、私がどれほどホッとしたか。
 と同時に「また二人きりになるの?」とどれだけ頭を抱えたい気持ちになったか。
 きっと諒は知らない。
 遠くなって行く足音を聞きながら、私は全身から力が抜けて、ヘナヘナと自分の椅子に座りこんだ。


(疲れる……とにかく疲れるわ……!)
 決して、私の身長ほども積まれた交流会参加申込書の仕分け作業のことを言っているのではない。
 部屋に諒と二人きりなことを指して言っているのだ。
(なんで今日に限って誰も来ないわけ?)
 そこにはみんなの策略的なものを感じずにはいられない。

 でも「今日は部活のほうに顔を出さないといけないから!」と私に向かって両手を合わせた夏姫は、本当に運動場を走っているし。
「ごめんなさい琴美ちゃん……私も今日はピアノのレッスンなの」と麗しい顔を曇らせた美千瑠ちゃんは、校門で待っている黒塗りの高級自家用送迎車に、いそいそと乗りこんだ。

「いいよ、いいよ。今日は一人で出来るところまでやっておくから」と安請けあいしたのは確かに自分だが、まさか諒が「だったら俺が手伝おうか?」なんて言い出すとは思ってもいなかった。
 結果――おそらくは勝手に気を利かしてくれた他のメンバーのおかげで、きっと今日はもう最後まで、この部屋に諒と二人きりなのだろう。

(これって嬉しいことなのかな……? とてもそうは思えない……)
 私はまだ、自分は諒のことが好きなんだと自覚したばかりで、相手にどんなふうに接したらいいのかも全然わからない。
 不安定な状態のこんな時に、なにも二人きりにしなくてもいいのにと――そんな苦情じみた思いばかりが募る。
(あーあ……どうしよう?)
 珍しく弱気に肩を落とした瞬間、予言どおり諒がもう一度部屋に帰ってきた。
 私は慌てて、それまで手もつけていなかった出欠票の仕分けに、励んでいるフリをする。

「おい」
 呼ばれるから目だけを諒に向ける。
 瞬間、諒が手に持っていた四角い物をポンと軽く放ってよこした。
 両手で受け止めてみたら、紙パックのジュースだった。
「自分のぶんだけ買って! って怒られる前にお裾分けしとく……だからさっきのことはもう許せよ……」
 ちょっと照れたようにそっぽを向きながら、そんなことを言うから、私のほうが照れてしまう。
「ありがと……」

 らしくもなく消え入りそうな声でやっとそれだけを告げたら、こちらに顔を向け直した諒に、真顔で尋ねられた。
「なあ? ……やっぱお前だって暑いんじゃないか? 顔真っ赤だぞ?」
「私はただ単に、諒の何気ない一言で、勝手に一喜一憂させられているだけです!」とは、とても本人には言えなかった。


 年に一度催される宝泉学園との交流会は、全員参加の強制的なものではない。
 しかし今年は、内容が『ダンスパーティー』ということもあって、出席希望者は例年よりもかなり多かった。
 ほぼ全校生徒ぶんの出席票を、根気強く学年とクラス毎に分けながら、諒が愚痴る。
「どいつもこいつも! ちゃんと相手に許可を貰ってからパートナーの名前を書け!」
 グシャグシャッと、なかば握り潰すようにして机に叩きつけている用紙には、有り得ないことにパートナーの名前が重複しているものが多い。

「……芳村貴人と杉原美千瑠はこの学校に何人いるんだよ?」
 ため息混じりにそう呟かれて、思わず声を上げて笑ってしまった。

「笑いごとじゃない! 今ザッと見ただけでも何枚あったと思ってるんだ? 可憐と智史まで合わせたら、一クラス作れるぞ?」
「そんなにっ?」
 反射的に叫んでしまってから、ふと気になったことがあった。

『白姫と黒姫』と対になって称される智史君が、そんなに名前を書かれているんなら諒自身はどうなのだろう。
(実際、文化祭の後夜祭では、長い行列ができたくらいだったんだし……)
 ざわっと胸がザワついた。

 諒のことが好きだと自覚した途端、あの時はどうも思わなかった光景にさえ、チクリと胸が痛むから不思議だ。
(それに諒は、パートナーに誰の名前を書くんだろう? 可憐さんはもう向こうの実行委員長の相川君と組むって決めてるし……申し込んできた誰かにOKを出すのかな……?)
 考えているうちになんだかまた落ち着かなくなってきた。
 いつの間にか諒が、仕分けの手を止めて私の顔をまじまじと見ているからなおさら緊張する。

「お前さあ……」
 ふいに呼びかけられて、椅子から飛び上がりそうにビックリした。
「早めに申し込んどいたほうがいいんじゃないか?」
「は?」 
 思わず間抜けな声が出てしまった。

 それとは裏腹に、頭の中はパニック寸前のごとく混乱している。
(なに!?  なんで!?  いつバレたの? ……っていうか、私が申し込んでいいの? お前、さっさと俺に申し込んだほうがいいぞって……それって何様?)
 キョロキョロと怪しげに目を泳がせる私を見て、諒は間が悪そうにフッと目を逸らした。

「まああとで……呪いの手紙とか、上履きに画鋲とか、不特定多数から嫌がらせを受けるのは必至だけど……取りあえず仲間なんだからOKしてもらえる確立は高いんじゃないか? ……貴人に」
 最後の言葉を聞いて、ガクッと肘が机から落ちてしまった。

(なんで貴人!)
 諒はまだ、私が貴人のことを好きだと信じていたのかと思ったら、だんだん腹が立ってきた。
(好きだけど! 大好きだけど! その『好き』は違うの!)
 自分自身、ついこの間知ったばかりの想いの違いなのに、諒のかん違いが歯痒くてたまらない。

「私が好きなのは貴人じゃないわよ!」
 思わず声に出して叫んでしまったら、この上なく驚いた顔をされた。
「えっ? じゃあ……誰?」
 ただでさえ大きな目をそんなに見開いて、まるで子供みたいに純粋な表情で問いかけないで欲しい。
 もともと「諒だよ」なんて言えっこないのに、ますます間違った方向に意地を張ってしまう。

「り、諒には関係ないでしょ!」
 瞬間。
 今まで無防備に感情を曝け出してくれていた諒の表情が、傍目にもわかるくらい明らかに強張った。
「……まあ、そうだけどな」
 一気に近寄り難い無表情に覆われてしまう、可愛い顔。

 すぐ近くにいるのに、あきらかに私との間に諒が高い心の壁を築きあげたことが、一瞬にしてわかった。
(どうしよう! 私ったらバカだ!)
 今さら後悔したってもう遅い。
「ごめん」と謝るのも変だし。
「実は私の好きな人はね……」なんて語ることなんて、もちろんできるはずがない。

 なんとも気まずい雰囲気のまま、私たちはそれっきり一言も口をきかず、黙々と参加希望書を仕分けし続けた。
 二人っきりの『HEAVEN』には、カサカサという紙の音だけが、虚しく響いていた。