「暑い暑い暑ーい! こんなに暑いと、もううだっちゃうっ!」
制服の胸リボンを取って、ボタンを二つ目まで外して、下敷きで作ったうちわでパタパタと胸元に風を送りながら、夏姫が絶叫する。
放課後の『HEAVEN』。
晴れて正式な生徒会となったことで、『準備室』の文字が消えた部屋の中は、気温四十度に迫ろうかというほどの、猛烈な暑さに見舞われていた。
「叫ばないで夏姫ちゃーん……よけいに暑くなっちゃう……」
力なく机に突っ伏している可憐さんも、いつものように笑顔に余裕のない美千瑠ちゃんも、普段は背中に垂らしている長い髪をすっきりとまとめている。
きっと少しでも涼しくしようという努力なのだろう。
私はと言えば、夏姫同様最大限に風の通りを良くした制服姿で、窓から半分、体を乗り出すようにして伸びていた。
(暑い……確かに暑いわ!)
心の中では叫んでいるけれど、夏姫のように口に出す気力さえない。
ふと目を向けると、反対側の窓で一人だけまるで違う世界にいるかのように、すやすやと安らかに眠っているうららの姿が見えるが、その白い頬にだって、よく見れば汗が伝い落ちている。
(繭香ったら……自分だけさっさと避難しちゃってさ……)
体があまり丈夫でない繭香は、一歩部屋に入るなり、
「私は保健室にいるから、男どもが集まったら呼びに来てくれ」
と空調の効いた避難場所にさっさと行ってしまった。
「ねえまだ? まだあいつら来ないの?」
暑さのあまりかなりイライラしている夏姫は、私に向かって険しい顔を向ける。
「うん……ちょっと見えないねえ……」
窓から出したままの頭をぐるりとめぐらして、特別棟の入リ口に目を向けてみても、男性メンバーの姿は誰一人として見えなかった。
「だいたいなんで、自分たちだけでこそこそやってるのよ! こんな暑い所で黙って待ってる私たちの身にもなれってのよ!」
(いや夏姫……さっきから全然黙ってないから……)
怒りの火に油を注いでしまいそうな言葉は心の中でだけ呟いて、私はうんうんと夏姫に頷いてみせる。
その時思いがけない方角から声がした。
「おーい琴美! その頭だけ出てるの琴美だろ? こっち! こっち!」
起き上がって改めて窓のほうに体ごと向き直って、私はあんぐりと口を開けた。
『HEAVEN』がある特別棟に並ぶようにして建つ第二校舎の屋上で、剛毅がぶんぶんと手を振っていた。
「準備出来たから早く来いよ。そこあっついだろー?」
良く通る大きな声が聞こえるか聞こえないかのうちに、夏姫はもうダッシュで『HEAVEN』から出て行っている。
(さすが陸上部のエース!)
いそいそとお茶の道具をバスケットに詰めている美千瑠ちゃんと可憐さんの様子を横目に見ながら、私は剛毅に向かって声を張り上げた。
「来いよって言ったって……どうやって行くのよ? 屋上って立ち入り禁止じゃないの? 確か校則で禁止されてるはずよ!」
ピューッと口笛が鳴って、剛毅の後ろから順平君がひょっこり顔を出した。
「さっすが学年トップスリー! なに……? 琴美って校則も全部暗記しちゃってるわけ?」
「そんなはずないでしょ!」
私の叫び声を聞いたからか、ハハハハハッと貴人の大きな笑い声がした。
「大丈夫だと思うよ? 智史がちゃんと許可を取ったって言ってたから……そうなんだろ?」
智史君はいつものノートパソコンを小脇に抱えたまま、こちらに向かって頷いてみせた。
「ああ、大丈夫だよ」
他のみんなのように声を張り上げているわけでもない、聞こえるか聞こえないか位の小さな声だったのに、まるで条件反射のように、すやすやと眠っていたはずのうららがすっくと立ち上がって、私はかなりビックリした。
「う、うらら……?」
色素の薄い大きな瞳をパッチリと開いて、
「繭香には私が知らせるから」
言うが早いかスタスタと歩き出したところを見ると、どうやら寝ぼけているわけではないようだ。
「すごいわねえ……いつもながらにうららちゃんと智史君の絆……!」
妙に色気たっぷりなため息をつく可憐さんに、私はうんうんと頷いた。
「琴美ちゃんだって、すぐにそうなれるわよ……いつも息がぴったりだものね」
天使の微笑みで小首を傾げてみせる美千瑠ちゃんはいったい誰のことを言っているのだろう。
私にはそんな相手はいないのだけど――。
「そうねえ……」
まるで心得ているように艶やかに笑う可憐さんに問い質してみようかとした時、また違う声が窓の外から響いた。
「早く来ないと、ビリの奴は罰ゲームだって貴人が言ってるよ」
玲二君だった。
こっちこっちと手招きしてくれる様子に、美千瑠ちゃんと可憐さんはきゃあっと悲鳴を上げて駆け出す。
慌ててあとを追おうとした私に、また違う声が待ったをかけた。
「最後に部屋を出る奴はキチンと閉じまり。そんなことぐらいまさか忘れたりしないよな……? 記憶力がいいのが、お前の唯一の取り柄なんだもんな……?」
嫌みったらしく腕ぐみしながら言ってのけたのは、諒だった。
「諒! あんたねえ!」
即座に言い返してやろうとしたのに、
「早くしないと罰ゲーム」
淡々と言われたので、私は口を噤んでピシャッと大きな音をさせて窓を閉めた。
すべて開け放たれていた窓をどんどん閉めて行くたびに、向こうの校舎の屋上から大きな笑い声が聞こえ始める。
「ちょっと貴人!」
間違えようも無い笑い声の主に、抗議の声を上げると、貴人は笑いながら、
「ごめんごめん」
と言ってくれる。
でもいったん始まった貴人の大笑いがなかなか収まらないことは、私だけじゃなくてみんな知っている周知の事実だ。
「もうっ!」
怒りの矛先をやっぱり諒に戻して、私は叫んだ。
「待ってなさいよ、諒! すぐに戸締りして美千瑠ちゃんたちに追いついてみせるから!」
フンと鼻で笑った諒の代わりに貴人の大笑いが、いつまでもいつまでも私を急かしてくれた。
「じゃあこれが罰ゲーム。来週の月曜日、屋上の使用結果報告書を生徒会顧問の谷先生に提出することと、入り口の鍵を職員室に返すこと」
智史君から手渡された鍵を、私は肩で大きく息をしながら受け取った。
(く、悔しい……)
『HEAVEN』の戸締りをしたらすぐに美千瑠ちゃんと夏姫を追いかけたが、全然追いつけなかった。
二人はそれぞれかなり大きなお茶道具を手に持っていたというのに――。
始めのうち遠くに見えていた背中がそのうち見えなくなったということは、三人の中で一番足が遅いのは、まさか私なのだろうか。
「体力だったら自信があるの……毎日お家のプールで泳ぐのが、日課の中に入っているから……」
美千瑠ちゃんがいかにも申し訳なさそうに両手を合わせれば、
「私も……ダンスのレッスンは毎日の積み重ねが大切だから……」
可憐さんもよしよしと私の頭を撫でてくれる。
「つまり部活もなんにもしていない上に、体を動かすこともほとんどなくって、体がなまりきっているのはお前だけってことだな……」
「諒!」
運動不足とは言っても、もともとの運動神経が悪いほうではない私のこぶしは、今日も避けようとする諒のスピードをはるかに上回って、後頭部を直撃した。
「いってえ! なにすんだよ!」
にらみ合いがつかみ合いに変わりそうな私と諒の間に、貴人がすっと割って入った。
「まあまあ……早く説明を始めないと、姫のご機嫌を損ねてしまうから……ね?」
私と諒はハッとして、同時に背後を振り返った。
一つだけ用意された椅子に腰掛けた繭香が、かなり不機嫌な顔でこちらを見ていた。
蒸し風呂のようだった『HEAVEN』よりはマシだとはいえ、クーラーの効いた保健室から移動して来た繭香にとっては、この屋上だって暑いことには変わりはないだろう。
「それで……わざわざこんな所に呼び出した理由はなんなんだ!」
怒りを込めた声が響き渡るのを、私たちはみんな息を詰めて聞いていた。
ただ一人、繭香の怒りをなんとも思っていない貴人だけが、制服の胸ポケットの中から一枚の紙を取り出す。
「これこれ……! 今日はこれを実行しようと思って!」
それは、生徒会選挙に向けて貴人が全校生徒に取ったアンケートの結果のうちの一枚だった。
『もしあなたが生徒会長になったら、この学園でどんなことがしてみたいですか?』
のアンケートで得られた回答を、貴人は自分の任期中に全部実現するのだと言い切っている。
その数実に七百以上――。
重なっている回答を考慮に入れても、一日に一つは叶えていきたいその希望書は、どうやら最初っから私たちをふり回してくれるようだ。
(いったいどんな内容なんだろう……?)
ドキドキと次の言葉を待つ私の前で、貴人がその紙を読み上げた。
「今回の実行は……『立ち入り禁止の校舎の屋上で星空観察!』……全校生徒に告知して明後日の夜には決行したいと思うから、今日から早速準備に取りかかるよ。まずチラシ作りとポスター作りはいつものように、うららに……それを使って実際に宣伝するのは玲二と剛毅と夏姫で。望遠鏡や星座板なんかの設備の調達を智史と順平。美千瑠と可憐はちょっとした夜食を検討してみてくれるかな……? 繭香は全体の監督で、俺はまたちょっと秘密行動にさせてもらうから……会場設営は諒と琴美ってことでいいかな?」
「よくない!」
「いいわけない!」
ピタリと重なった諒と私の声に、繭香がジロリと鋭い視線を向けた。
その人の心を射抜くような威圧感たっぷりの視線をまともに正面から受け止めて平気でいられる人間なんて、きっとこの世に貴人ぐらいだろうと、私は真剣に思う。
「い、いいです……」
おずおずと前言撤回した私同様、諒も渋々と貴人の提案に同意した。
「わかったよ……」
クスリとそれはそれは魅力的に笑う貴人に、私はため息をつかずにはいられなかった。
「ちょっと……何やってんのよ……?」
フラフラしながらパイプ椅子を運んでる私に背を向けて、諒は屋上のど真ん中で胡座をかいて座っている。
新生徒会としても学校側としても初めての試みで、いったいどれぐらいの生徒が参加してくれるか予想もつかないから、運べるだけの椅子を運ぼうと言い出したのは諒のほうなのに、私一人に運ばせて自分は休んでいるとは――。
じっとしていたって汗が浮かんでくるほどの気温の中。
他のみんなが帰って来る前に済ませなければと、こっちは必死になって動いているのに。
「諒!」
私の怒りの呼び声に、諒は呑気に振り返った。
「なんだ?」
「なんだじゃないでしょ! さっさと働いてよ!」
両手に持ったパイプ椅子を振り上げんばかりの剣幕の私に、諒は大きな目を眇めてちょっと意地悪な笑い方をする。
「……こわっ! そんなにカリカリすんなよ……ちょっといいこと思いついたんだ……お前も来てみろよ」
「いいこと?」
どっちにしたってこのままじゃ、私一人が疲れきるばっかりだ。
手にしていた椅子をその場において、私は座り込んでいる諒の所へと行った。
「ちょっとここ。ここに座って」
隣を指されるから、素直に腰を下ろす。
諒と仲良く並んでこんな所に座っているなんて、なんだか変な気分だった。
長い沈黙。
諒がなんにも言わないので、私が口を開く。
「何? ……ここがなんなの?」
諒はやっぱりなんにも言わないまましばらく私の顔を見ていたけれど、そのうちにはああっと大きなため息をついた。
「お前に想像力ってもんはないのかよ……今、俺たちがなんのために働いてんのかを考えれば、気づくと思うんだけどなあ……」
頭を抱える諒は、呆れたというよりは悲しんでいるようにさえ見える。
あからさまに馬鹿にした顔をされるのも腹が立つが、憐れまれるのだってやっぱり腹が立つ。
「あのね……今は時間がなくって、私だってかなり焦ってるの……まったくこの忙しい時に……なに? 言いたいことがあるんだったらもったいぶらずにさっさと言ってよ!」
諒が私に負けず劣らずムッとしたことは、すぐにわかった。
「ああ、そうだな……お前に期待した俺がバカだった……! だからお前と組むのだけは嫌だったんだよ!」
「それはこっちのセリフなのよ!」
立ち上がってもとの作業に戻ろうとした私の肩を、諒がグイッとつかんだ。
そのまま右側を向かされる。
「いいか? こっちが西。それでこっちが南。東。北」
順番に無理やり四方を確認させてから、諒が私に尋ねた。
「どうだ? 何が見えた?」
「何って……」
聞かれるまでもない。
市街地の外れに建てられた星章学園の周りには、四階建ての校舎以上に背の高い建物なんて存在しない。
「何も見えないわよ……」
「だろ?」
ほんのついさっきまで私に負けないくらい怒っていたはずなのに、ふいに笑いかけられるから、一瞬ドキッとする。
諒のファンの斎藤さんたちじゃないけれど、諒は顔だけ見ているぶんには可愛い。
確かに可愛い。
いかにも嬉しそうに、楽しそうに輝きだす表情に思わず見惚れそうになってしまうから、私はそんな自分を必死で振り払う。
「つまりさ。ここだったら椅子なんかに座んないでも、こうやって座ってるだけでほぼ全方向の星が見れるってこと……! 誰が希望を出したのか分からないけど、本当に星の観察にはうってつけの場所だよ、この屋上!」
なんでそんなに嬉しそうなんだろう。
どちらかといえば文系科目が得意な私とは対照的に、理系科目に強い諒だから、きっと天文関係も好きには違いないんだろうけど、それにしたって楽しそうだ。
ゴロンとそのまま後ろに転がって、頭の下で両手を組む。
「こうやって寝転がったらもっと凄い! 360度……視界全部が星空だ!」
大いばりの諒がおかしくって、思わず私も笑ってしまった。
さっきまで口喧嘩していたことはこの際水に流して、隣にゴロンと横になる。
「ほんとだ! ……ねえ、このほうがいいんじゃない? 下手に椅子なんか用意するよりも、屋上中どこにでも座ったり転がったり出来るようにしておいて、好きな格好で観察すればいいのよ!」
「やっぱり、そうだよな!」
喧嘩したって、文句を言いあったって、次の瞬間には笑いあうこともできる。
諒と私の間には遠慮なんてないから。
いつだって本心と本心をぶつけあってるから。
よく似たもの同士なゆえに喧嘩も多いが、こうしておんなじ思いで笑いあうことだってできる。
(隣にいてラクだなんて言ったら……どんな顔されるだろ? だって急にそんなこと言われたって……私だって困るもの!)
すっかり西の空に傾きかけているというのに、太陽はまだジリジリと照りつけるように暑かった。
じっとその場に転がっていたって、やっぱり汗が浮かんでくる。
でもこんなふうにちょっと作業を中断して、空を仰いで見るのは悪くなかった。
「うん……悪くない! きっといいはずだよ!」
隣にいる諒のほうは見ないまま。
空を見上げて私は叫んだ。
「それで二人仲良く昼寝をしてたっていうんだな……?」
「な、仲良くなんかないわよ! それに昼寝って言ったって……みんなが来るまでほんのちょっとの間、うつらうつらしちゃっただけで……」
「……それを昼寝って言うんだよ」
「ごめんなさい……」
「ごめん……」
呆れきった顔の剛毅に、私と諒は首を竦めて頭を下げた。
「べつに謝ることはないよ……」
貴人がニッコリと微笑む。
「確かに諒と琴美が身を持って実験してくれたように、ここは椅子なんかなしで観察したほうが良さそうだ……だったらビニールシートを敷くだけで、たいした準備も必要なくなるし……」
いつもながらに朗らかな声で取り成してくれるから、ホッとする。
貴人は顎に軽く人差し指を当てて考えるようなポーズを取りながら、次々と私たちに指示を出した。
「じゃあ剛毅は体育主任に、体育祭の時のシートを使わせてもらえるかどうか確認して来て。諒は悪いんだけど……途中まで運んだ椅子を戻しておいて。琴美……それから他の女性陣も……手が空いたんならちょっとお願いがある……」
貴人のお願いとあらば、聞かないわけにはいかない。
喜んで顔を出した私同様、繭香も美千瑠ちゃんも可憐さんも夏姫もうららも揃った。
貴人はどこから準備して来たのか、たくさんの色紙と糊やはさみを私たちにさし出す。
この時期にその道具を見れば、貴人が私たちに何を頼みたいのかは一目瞭然だった。
「とびっきり大きな笹を準備したからさ……なるべくたくさん、派手に頼むよ。実際に星空から見たって、『おっ! あそこの願いごとを一番に聞いてあげよう!』って思ってもらえるくらいに……!」
「ってことは……願いごとをみんなに書いてもらうのね?」
小首を傾げて笑う美千瑠ちゃんに、貴人もニッコリと笑い返す。
「そう! 当日、みんなで飾り付けたいと思うんだけど……どう?」
「賛成!」
「私も良いと思う。学校で七夕なんて、小学校どころか幼稚園以来かも知れないけど……きっとみんな喜ぶわよ」
可憐さんにも太鼓判を押されて、貴人はうんうんと何度も頷いた。
「じゃあ、とびっきり豪勢で見栄え良い吹流しをよろしく!」
にこやかに手を振りながら、本人曰く――まだまだ秘密行動――に走って行ってしまった。
「元気だな……」
思わず呟く私に、繭香が間髪入れずに口を開く。
「誰かのために何かをしてる時が、一番幸せっていう奇特な人間だからな……」
言い方には多少問題があるが、人のために働く貴人を好意的に見守っている繭香の心境はよく伝わってきて、ついつい私まで笑顔になってしまう。
「確かに……!」
「貴人だったらきっと短冊に書く願いごとだって『みんなの願いを叶えてください』なんて書きそうだよね」
どうやら冗談のつもりで笑う夏姫に、繭香は真顔を向ける。
「一言一句違わずに、幼稚園の頃そう書いてた。間違いない……!」
一瞬の沈黙のあとに、辺りには私たちの大爆笑が響き渡ったのだった。
蓋を開けてみれば、『HEAVEN』主催の『屋上星空観察会』への参加希望者は、全校生徒の二分の一を超えていた。
「どうすんの? 三百人以上なんて、屋上に入りきれるわけないでしょ……?」
溢れ返る参加希望書の山を整理しながら、私は貴人に目を向ける。
「そうだね……また来週準備をするっていうのも二度手間だし……どうする? 三日間ぐらいに分けて連続開催にする?」
ひいっと悲鳴を上げたのは順平君だった。
「他校に彼女持ってる俺の身になってくれ! それでなくたって貴重なデートの時間を毎日割いてんだからさー……俺、そろそろフラレちゃうよ?」
いつも元気な彼が、本当に困り切ったような表情で両手を合わせていることが、なんだかおかしい。
「ハハハッ、いいよ。じゃあみんなで受け持ちの日を分担しよう。基本的に用事がない日は入ってもらうってことで……」
笑う貴人に向かって真っ先に手を上げたのは可憐さん。
「はーい。それじゃ、私も日曜日はデート」
「私も……日曜日の夜に家を出てくるのは難しいかな……」
美千瑠ちゃんもゴメンねというふうに貴人に手を合わせる。
「うんうん。いいよ」
貴人はニコニコ笑っている。
「ちょっと待って! 私も日曜日は大会があるんですけど?」
夏姫が慌てて割って入れば、
「あ、俺も練習試合だ!」
「俺も……」
剛毅と玲二君も顔を見合わせる。
私はだんだん怪しくなってくる雲行きを感じ始めた。
「OK。OK」
まだニコニコと笑っている貴人に、繭香が訝しげな目を向ける。
「本当にわかっているのか? 今の時点で、すでに日曜日は半分の人数だぞ……?」
パソコンの画面に目を落としていた智史君が、「あのさ……」と繭香のほうを見た。
「僕は数に入れてもらっても全然構わないんだけど……うららは夜八時を過ぎたら眠っちゃうから、数えないでいてくれる?」
「……はい?」
思わず聞き返してしまった私へ視線を向け直すと、智史君はかけていた眼鏡をわざわざ外して、ニッコリと微笑む。
「八時になると寝ちゃうんだ……それはもう、そのへんの時計なんかよりもかなり正確に! それ以降は何があっても絶対に起きない。だから今回の『星空観察会』の時だけじゃなく、夜の活動の時は、数に入れても無駄かも……?」
私はビックリして、今も智史君の肩に頭を乗せてすやすやと寝入っているうららを見た。
(だって……昼間だってほとんど眠ってるじゃない! なんでそんなに眠れるのよ?)
心の中だけで叫んだつもりが、いつもどおり、私の考えは表情に全部描かれていたらしい。
智史君はくすっと笑いながら、それはそれは愛しそうに隣に座るうららを見つめる。
「どうしてだろうね……それは僕にもわからないんだけど……」
その眼差しだけで、ただでさえ暑い部屋の気温がさらに上がったような気がした。
暑さで次第に苛立ち始めている繭香が、
「じゃあ日曜日は、五人だけだな……」
少しの怒りをこめて呟く。
そこに、
「あっ……! そう言えば……!」
なんて呑気な声を発することが出来るのは、やっぱり貴人――彼しかいない。
「次に助っ人に行くのはサッカー部なんだよ……じゃあ玲二が試合ってことは……」
「当然お前も試合だな!」
怒りに瞳を燃やして叫んだ繭香に、私は焦った。
「ま、繭香! 興奮しない……ね? 興奮しないで!」
ここで繭香に倒れられて、ただでさえ少ない人数がより減ってしまってはたまらない。
「みんな他の日は来てくれるから! ね? ね?」
同意を求めるように周囲を見回すと、みんな必死になって首を縦に振ってくれる。
「私は用事なんて全然ないから! 三日間とも来れるから!」
勢いこんで叫んだ私の声に、諒の声が続いた。
「俺も……別に用はないから来れるぞ?」
繭香はさっきまでの怒りの形相はどこへやら、並んで座る私と諒に憐れむような目を向けた。
「お前たち……勉強以外にも夢中になれること……見つけたほうがいいぞ?」
(よけいなお世話よっ!)
繭香をまた興奮させてしまわないため。
そしてあの眼力でまともに睨まれることが恐かったため。
心の中だけで叫んだのは、きっと私だけではなかったはず――。
諒が小さく舌打ちしたのを、私は聞き逃さなかった。
すぐ隣にいた私だけは聞き逃さなかった。
結局、『星空観察会』の初日の日曜日は、私と諒と繭香と智史君しか集まることは出来なかった。
(なんだかおかしな組み合わせ……)
そう思わずにいられなかったのは、私が口を開かなければこのメンバーでは会話が成立しないと気がついたからだ。
諒と智史君が繭香に微妙に距離を取っているのは無理もないこととはいえ、なぜ諒と智史君まであまり話をしないのだろう。
思ったことを口に出さずにいられない私は、にこやかに参加者たちに応待している智史君に、手が空いた時に尋ねてみた。
「どうして僕と諒があまり話をしないのかって? ……うーん……それはあっちに聞いてもらったほうがいいんじゃないかな……?」
今夜は最初から眼鏡をかけていない智史君は、にこやかに笑って答えてくれる。
夜目にも艶やかな笑顔。
本当に天使みたいな美少年だ。
「まあ……大方の予想はつくけどね……」
ほんの少しだけ意地悪な要素を残した苦笑も、簡易照明しかない薄暗い場所ではかえって魅力が増す。
どうして自分の口から言ってくれないのかと、少々首を傾げながらも、本来の仕事に終われ、そのあと私は、諒に近づくことがなかなか出来なかった。
『星空観察会』に参加してくれた生徒たちに、私と諒が考案したビニールシートの上で座ったり寝転がったりして星を見るというスタイルは好評だった。
「こういうのってなんか良いよね」
「星空全体が見渡せるしね」
聞こえて来る声が誇らしくって、胸を張る。
でも――。
「あーあ。こんな綺麗な星空……男同士じゃなくって好きな子と見たかったな……」
「それはこっちのセリフだよ!」
男の子同士の会話には、思わずそれはもっともだろうと頷く。
その途端――。
「……琴美」
まるでいつでも私のことを監視しているかのような早さで繭香が名前を呼ぶから、心臓がドキリと飛び跳ねた。
「な、なに?」
恐る恐るふり返ると、闇の中の大型肉食獣のように、繭香が大きな瞳をギラギラと輝かせている。
「わかってる……だろうな?」
「わかってる! もちろんわかってるよ!」
私は慌てて、自分にあてがわれた監視場所――ビニールシートの南端に戻った。
東西南北にそれぞれわかれて、私たちが何を見張っているかというと、『星空観察』に関係ない生徒が、ここにいないかどうかだ。
要するに、生徒会主催の行事にかこつけて、夜の学校で必要以上にイチャついているような生徒がいないように見張っている。
私自身は、
(何もそこまでする必要は……)
と思わないでもなかったが、
『俺たちは生徒がはめを外す機会を作るために、行事を催しているわけじゃない』とか。
『最初の一回目で先生方からの信頼を失ってしまったら、後の行事が何も出来なくなってしまう』とか。
大きな体のわりに、細かな気配りのできる剛毅の言葉には、確かに説得力があった。
(だってこれは、あくまでも純粋に星を見るための行事なんだもんね……)
それぞれ星座版を手に持って、「あれが琴座?」とか「わし座?」とか、みんなが確認しあっている姿は微笑ましい。
「すっごく綺麗だね……こんなにたくさんの星、今まで見たことなかったや……」
感動してくれている声が聞こえてくるのも嬉しい。
(うん……だからやっぱりこれは、純粋に星空を楽しんでもらうための企画で、まちがいはないんだよ……!)
使命感に燃えながら、私は監視役に徹していた。
「それじゃあ最後に……願い事を書いてきた短冊を、中央の笹に吊るしていってくださーい」
『星空観察会』終了の時間となる九時前に、私たちは近くの生徒たちにそう声かけを始め、みんながいっぺんに移動し始めた。
(ちょっとまずいかな?)
一瞬過ぎった悪い予感は的中で、百人近い人間で、あっという間に笹の周りは埋め尽くされてしまう。
「ちょ、ちょっと押さないで! 順番に! 順番にー!」
こんな時ばかりは、カリスマ性のカの字もない自分が嫌になる。
私がいくら声をはり上げたって、みんな全然聞いてくれないのだ。
それなのに――。
「順番にお願いします。危ないから押さないで」
智史君がニッコリ微笑んでいる西側と、
「静かに! ちゃんと順番を守って進んでくれ!」
繭香が目を光らせている東側の生徒たちは、比較的スムーズに行動している。
諒が受け持っている北側だって、
「お前らいいかげんにしろよ! ちゃんと並べ!」
「なんだ……勝浦。そんなところにいたのかよ……小さくって今まで気がつかなかった」
「なんだと!」
「ハハハハッ。冗談だよ。冗談……」
顔見知りの連中に多少遊ばれている傾向にあるとは言え、ちゃんと諒の指示どおりにみんなが動いてくれている。
なのに私の受け持っている場所だけ、上手くいかないのだ。
「押さないでー。危ないから順番にー!」
声を上げ続けている私を見かねて、隣の区画から智史君が来てくれた。
「みなさん。危ないから並んでください」
女の子が比率が高い場所だったとはいえ、智史君のたった一言で、みんながちゃんと動き出してくれるものだから、なんだか複雑な心境になる。
「きゃっ! 近くで見ちゃった」
「可愛いよねー」
小声ではあるが明らかに黄色い声が私の耳にも入ってくる。
智史君は声の主たちにニッコリを笑顔をふり撒いていた。
その時――。
「……絶対俺には真似できない!」
いつの間に隣に来ていたんだか、諒の呟きが耳に飛びこんできた。
「絶対無理だ……! なんであんなことができるんだ……? あいつだけは本当に理解不能……」
呆れたような途方に暮れたような声が、妙に気になった。
(そう言えば智史君も、なんで智史君と諒があまり口を利かないんだか、諒のほうに聞いてみてって言ってた……)
意を決して今尋ねてみることにする。
「ねえ……諒?」
呼ばれるままに諒が、ちょっと苛立ちの混じった大きな瞳を、私に向けた。
「私……諒が智史君と話してる姿を、あんまり見たことないんだけど……?」
なんだそんなことかと言わんばかりに、諒は肩を竦めた。
「そりゃそうだろ。実際話してないんだから……」
当たり前のように言われるのでここぞとばかりに切りこむ。
「どうして?」
「どうしてって……」
いつものように大きなため息をつかれるのか。
それとも呆れたような目を向けられるのか。
待ち構える私の目の前で、諒は今までにない反応をみせた。
「なんていうのか……根本的に何もかもが違う気がするんだよな……だから話したって俺は頭にくるばっかりだろうし、智史は智史できっとそんこと事まったく気にしないんだろう……で、その態度に俺はますます腹が立つと……それってただの悪循環だと思わないか?」
まるで相談事を持ちかけるかのように、私に真正面から問いかけてくるから、なんだか調子が狂ってしまう。
「で、でも……実際に話してみたらそうはならないかもしれないでしょ?」
「いいや。最初から最後まで俺にははっきりと想像できる! 一人でイライラして疲れきるのは俺のほうだけだってことまでしっかりと! ……だから無駄な時間と体力を使わないためにも、智史とは今ぐらいの距離感がちょうどいいんだと俺は思ってる……」
「なんだかなあ……」
心の中だけには収まりきれず、ついつい感想が声に出てしまった。
(まあいいや……どうせどんなに隠そうとしたって、私の考えていることはみんなに筒抜けなんだから……)
気を取り直して、フェンスに寄りかかる。
笹に短冊をつけ終えた人たちは次々と屋上から帰り始めたところで、私たちの今日の任務はほとんど終わりかけている。
繭香と智史君は屋上のほぼ反対側にいて、私たちには背を向けている。
だから私と諒の会話に耳を傾けている人物などどこにもいない。
その事実に少し力を得て、私は諒に思ったことをそのまま伝えた。
「諒がそこまで計算高く他人との距離を計る奴だとは思ってなかった……」
「なんだよ、それ……褒めてんのか、けなしてんのか……どっちだよ?」
「うーん……軽く失望かな……?」
半ば冗談の返事だったのに、諒はかなり本気の声を出した。
「なんで俺がお前に失望されなきゃいけないんだよ!」
一瞬、周りの視線が全て私たちに集まった。
「ほら……こんなふうにわりと後先考えないほうだと思ってたのよ……私と一緒で……」
「お前と一緒にすんな!」
「事実、あんまり変わんないじゃない!」
屋上の反対側から静かな怒りに満ちた声が地を這うように響いてきた。
「お前たち……ちゃんと仕事しろよ?」
呪いでもかけられてしまいそうな繭香の眼差しに小さく息をのんで、私と諒は体は後片付けのために忙しく動かしながら、その後の会話は小声で続けることにした。
「俺だっていつもいつもこんなややこしいこと考えてるわけじゃないよ……智史に関してだけだよ……!」
「だから!その智史君にこだわってる理由がわからないのよ……ねえなんで?」
はああっと今度は本当に、諒は大きな大きなため息をついた。
「お前さ……いくらなんでも、貴人が『王子』って呼ばれてんのぐらいは知ってるだろ? じゃあ俺と智史はなんて言われてると思う?」
「えっ? 諒と智史君にも呼び名があるの? 知らないよ! なに? 教えて!」
がぜん興味を持った私の顔から、諒は目を逸らした。
「…………やっぱやめた」
私が「えええっ?」と非難の声を上げると同時に、背後から静かな声がかかった。
「『姫』だよ?『白姫』と『黒姫』。どっちがどっちだか説明しようか?」
いつの間に私の後ろに来ていたんだか、智史君にニッコリと微笑まれて、なぜか背筋がゾクッとした。
普段は天使のように見えるその微笑が、少しの毒を含んで小悪魔のように見えたのはなぜだろう。
ひょっとしたら私の隣で敢然と智史君を睨み返した諒のせいかもしれない。
「……だから、こいつのこういうところが理解不能なんだ。『姫』なんて呼ばれて、普通男が喜ぶか? そこは力の限りに抵抗するところだろ? なのにこいつは……」
「だって、別に嫌じゃないし……みんな面白がってるだけでしょ?」
「こうなんだ! ぜんっぜん平気なんだ! わかんないよ! 俺には絶対わからない!」
こぶしを握り締めて絶叫した諒には悪いが、私はもう笑い出さずにはいられなかった。
「ハハハッ、確かに『白』と『黒』なんて言って二人をセットにして、並び賞したい気持ちはよくわかったわ。面白すぎるっ!」
「なんだと!?」
今だって力の限りに非難の声を上げた諒と、クスリと笑った智史君ではまるで反応が間逆なのだ。
――そう、まさしく『白』と『黒』のように。
外見から言うと、色白で髪の色も目の色も薄い智史君が『白姫』で、黒髪に大きな黒い目をした諒が『黒姫』にまちがいないんだろうが、本当に一番最初に言い出したのは誰なんだろう。
どちらかと言えば、可愛らしい美少年系の二人が『姫』とは、あまりにピッタリ過ぎる。
「だいたい……可愛いって言われて嬉しいか? 俺は嬉しくないぞ! 断じて嬉しくない!」
「そう? 別にいいじゃない。褒められてることには変わりないんだし」
「……嬉しくもないのに笑えるはずがない……! 笑顔の大安売りなんて俺には理解不能だ!」
「相手に喜んでもらえるんなら、僕はそれぐらいお安い御用だけどね……」
確かに諒があらかじめ予想していたとおり、二人の会話はあまりに不毛だ。
考え方からやり方まであまりに違いすぎて、もう笑い話にしかなりはしない。
聞いているこちらは面白い限りだが、さぞや諒はストレスがたまることだろう。
あっけらかんと笑ってる智史君とは裏腹に――。
(諒には悪いけど……二人のやり取りって面白すぎる……!)
そう感じているのは私だけではなかったようだ。
もうとっくに帰路につき始めていたはずの生徒たちが、いつの間にかちらほらと私たちを遠巻きに取り囲みつつある。
「珍しく『姫』が一緒にいる……」
なんて囁きが漏れ聞こえて来るところをみると、諒と智史君が揃っているだけで、希少価値があがるようだ。
(そっか! いつも智史君の隣に必ずいるうららがいないだけでも、これって珍しい光景なんだよね……?)
あちらこちらでスマホのフラッシュが光り始める気配を感じて、私はそっと二人の傍から後退りで逃げ始めた。
(『邪魔なのよ近藤!』って叫びが聞こえて来る前に、ここは逃げさせてもらうわよ)
人垣の輪を抜けた途端、脱兎の如く逃げ出そうとした私の腕を、誰かがガシッとつかんだ。
繭香だった。
「どこに行くんだ、琴美」
「ど、どこって……みなさんの観賞の邪魔にならない位置まで下がろうかなーなんて……」
へへへと笑ってみせる私に、繭香も笑った。
それはあの、唇の両端を吊り上げるような、繭香独特の笑い方だった。
「『星空観察会』に参加したおかげで、綺麗な星空ばかりか、いつもは見れない『姫』二人のやり取りが見れた……これって生徒会の催しにこれからも参加したいって思わせるいいネタなんじゃないか? 気がついていない連中も、まだたくさんいるだろう……行って呼びこんで来い! それが今夜の琴美の真の仕事だ!」
「えええええっ!」
叫ぶ私に、繭香はいよいよニタリと笑いかける。
「急げ! 琴美の頑張りに、第二回以降の催しの集客率アップがかかってる! ……って……これは会長からの伝言だ……!」
(貴人の!)
最後の一言を耳にするや否や、勝手に私の足は走り出していた。
「わかった! 出来るだけ頑張る!」
「頼んだぞ!」
大きく手を振って見送ってくれている繭香の笑顔が、いつもよりはじけているような気がするが、そんなこと気にしている時間はない。
(貴人!)
自分もいつかああなりたいと、敬愛してやまない我が会長のため、私は全力で走り続けた。
結局、初日の『星空観察会』が終了したのは、予定の時間を大幅に過ぎた午後十時近くだった。
学校側への屋上使用許可の申請書に、あらかじめ放課後から午後十時までと書きこんでいた貴人は、まさかこうなることを見越していたんだろうか。
だとしたら凄すぎる。
繭香にそう耳打ちしたら、ズバッと一刀両断にされた。
「そんなはずはない。『姫』の揃い踏みをみんなに宣伝して来いって貴人が言ったなんて……そんなの私のでっち上げだからな」
「……はい?」
「琴美の力を最大限に引き出すために、一番役に立つと思う嘘をついてみた。これがいわゆる『嘘も方便』って奴だ。悪く思うな」
「わ、悪く思うなって……」
息を切らして走り回って、こっちはあの後しばらく動けないくらいだったのに――!
「繭香……」
恨みをこめて、その日本人形のようによく整った顔を軽く睨んだ瞬間、私はハッとした。
(そうか! 諒と智史君の関係って、なんだか私と繭香の関係と似てるんだ……!)
一見正反対の二人。
片方は余裕たっぷりで、反対側の私たちばかりが損をしているような気さえする。
でも私は、一度繭香ととことん向き合ったからこそ、自分たちがとても似ている所も持っているということを知っている。
だから考え方が違っても、やり方が違っても、少なくとも私は繭香に反発心を感じたりはしない。
大切にしたいこと。
どうしてもゆずれないもの。
それが私たちは一緒だって知っているから。
(ああ……やっぱり諒……一度智史君ととことん話してみたほうがいいよ……)
経験者としてしみじみとそう思い、腕組みしながら頷いた私に、繭香も同意した。
「まあ確かにいい機会だから、腹を割って話してみたらいいだろうな……もっとも……白と見せかけておいて中身は限りなく黒に近い『姫』のほうが、簡単に自分を曝け出すとも思えないが……」
お願いだから、表情だけで私の考えていることを読むのは、いいかげんやめてくれないだろうか。
このままではおちおち秘密の悩みで悩むこともできはしない。
――もっとも私にそんなものなんてないけれど。
ブツブツと考え続ける私の隣に来て、思いがけず繭香が私の手を取った。
「まったく損をしてるよな……こうしたら勇気が二倍にも三倍にもなるのにな……そうだろ?」
それは以前、私が繭香と手を繋ぎながら言った言葉だった。
「覚えてたんだ……!」
「当たり前だ」
ぎゅっと手を繋ぎあって、私たちはまた自分たちが同士だという事を確認しあった。
だから願わくば――諒と智史君もそんな関係になれたらいいのにと思う。
「絶対! 絶対! お前の考えてることだけは理解できない!」
「そうかな……? 僕には諒がよくわかる気がするんだけど……」
遠くでまだまだ続いている不毛な戦いを横目に見ながら、私と繭香は顔を見合わせてちょっと笑った。
諒たちよりほんの少し先輩として、小さく胸を張って笑った。
三日間の『星空観察会』は大盛況のうちに幕を閉じた。
一日目より二日目、二日目より三日目目と参加者は増え続け、総参加数は最終的に合計七百人にもなった。
結局三日間通して、実に全校生徒のほとんどが夜の学校に集まった計算になる。
「はああ……すごかったねぇ……」
放課後の『HEAVEN』。
いつもの窓際の席で、私は美千瑠ちゃんの淹れてくれたお茶を片手にしみじみと呟く。
積もり積もった三日分の疲れがやっと抜けていく気分だった。
「何がすごいって、あれだけの人数が集まったのにトラブルが一件もなかったってこと。そして予想以上にみんなが星を見るのを楽しんでたってこと。そして極めつけは……最後の貴人のサプライズ!」
指折り数えながら、今回の催しの成功ぶりを挙げ連ねていた順平君は、最後の言葉と同時に、貴人にクルッと向き直った。
「秘密行動だとは言ってたけどさ……まさかあんなことまでするとは思わなかった!」
「確かに!」
部屋のあちこちから次々と同意の声があがる。
「ビックリして、その上喜んでもらえたんだったら……それが本望だよ」
嬉しそうに笑う貴人に、私は急いで返答した。
「驚いたよ!そして嬉しかった!」
「うん……OK」
魅力的な笑顔につられるように、思わず私の頬まで綻んだ。
『星空観察会』の最終日。
人でごった返す屋上には危険防止のため、ついに端のフェンス周りにロープが張られた。
あまりにも人数が増えたため、押されたりして、もしものことがあったらいけないからだとばかり思っていたが、実は最後の仕掛けに興奮したみんなが、誤って屋上から落ちてしまわないためだった。
最終日のラスト。
「間もなく閉会十分前です」の美千瑠ちゃんのアナウンスと共に、私と諒が汗かいて取り付けたスピーカーからは、貴人の声が流れ出した。
「たくさんの星々をしっかりと観察してもらったところで、ここからは『HEAVEN』からのサプライズです。夏の夜空を彩る花をご覧下さい」
軽やかな声にうっとりと聞きほれながら、私はフフフと笑った。
(貴人ったら……それじゃ花火大会の常套句だよ……)
いったいどんな花を貴人は準備したんだろうかと、ワクワクしながら待つ私の耳に、聞き覚えのある音が聞こえた。
そう。
火を点火された花火が夜空に上っていく時の、あのヒューッという音が聞こえたのだ。
「えっ! 嘘?」
三日間の中でも格別綺麗に輝いていた満天の星空の真ん中に、貴人の用意した『花』は大きく大きく開いた。
「本当に花火!?」
屋上で次々と上がり始めた驚きの声の中でも、私の声は特別大きかったと思われる。
人垣の向こうでマイクを握っていたはずの貴人が、マイクの電源がONのまま
「琴美っ……!」
と大笑いを始め、慌てて近くにいた剛毅か礼二君がマイクを取り上げている騒ぎが聞こえてくる。
そんな中でも、貴人の『花』は一つまた一つと、夜空に次々と打ち上げられていた。
「凄いねぇ……」
始めはきゃあきゃあと歓声を上げていたみんなが、次第に静かに夜空を見上げるようになり、いつの間にか夏祭りででもあるかのように、みんなが息を詰めて夜空の芸術を見る事に集中している。
もちろん私も例外ではなかった。
「綺麗だね……」
星を見ていた時とはまた違ったため息が、屋上のあちらこちらから聞こえる。
その声を聞いているだけで嬉しかった。
貴人の言葉を借りるならば、「これぞ本望」だった。
「だけどさ……卒業生に花火師がいて、練習に作った花火を打ち上げてもらったんじゃなきゃ、絶対出来ない企画だったよな……」
隣に座る諒が腕組みしながら、もっともらしく頷くので目を向ける。
「どうして?」
「どうしてってお前……」
諒は驚いたような呆れたような複雑な表情で、私の顔を見返した。
「正規の物を買おうと思ったら、ものすごくお金が必要だからだろ! 花火って一発何万円もするんじゃなかったか?」
「何万円!」
息をのむ私に、諒は大きな大きなため息をついた。
「貴人……生徒会の役職、考え直したほうがいいぞ……こいつに会計は無理がある……」
「なんですって!」
「だからって、他に何の役が出来るのかって聞かれても、俺には答えられないけど……」
「諒!」
ふり上げたこぶしは珍しくかわされてしまったけれど、隣に座っているんだから大丈夫だ。
諒が油断した隙に、いつか報復する。
きっと。
「ハハハッそれはさて置き……そろそろ次の企画に向かいたいと思うんだけど……いいかな?」
(そろそろって……『星空観察会』の終了からまだ二日しか経ってないんですけど!?)
悲鳴は心の中だけに止めておいた。
私にだってわかってる。
我が生徒会はやらなければならないことが多すぎて、時間が足りないのだ。
私の心の中の動揺を見透かしたかのように、繭香が向けて来るどこか面白がってるふうの視線を痛いくらいに感じながら、私は静かに貴人の次の言葉を待った。
「時期的に夏休みに入るし……普段は実施出来ないような企画を、この際いっぺんにやってしまえたら……って思ってる……」
貴人はそう言いながら、胸ポケットから例のアンケート用紙を数枚取り出した。
「みんなで旅行とか、合宿とか、キャンプとか……ようは宿泊系の希望をまとめようと思うんだ……そしてメインはこれ!『星章学園の七不思議の検証』だな……」
部屋のあちこちから「ひっ!」という小さな悲鳴が聞こえた気がしたのは気のせいだろうか。
私自身だって、そっち系はあまり得意ではない。
「うん決めた!『夏休みの学校に泊まって、七不思議を検証しよう合宿』だ。遠くに行くわけじゃないし、キャンプファイヤーだってできないけど、キャンプの醍醐味である肝試しは十分にできるわけだから、いいんじゃないかな?」
笑顔で提案する貴人に、私はすぐに賛成することができなかった。
(き、肝試し! ……だからそっち系はあんまり得意じゃないのよ……!)
頭を抱えてしまいたい気持ちのメンバーは思ったより多かったようだ。
汗ばむほどの陽気だというのに、部屋の中の空気が凍りついている。
沈黙を破ったのは夏姫だった。
「ふーん、いいんじゃない……? 学校に泊まるってのも、ちょっと珍しいし、お金使わないでどっか行った気分にもなれるし……」
私がいる席のちょうど反対側で、智史君もノートパソコンを開きながらおもむろに眼鏡をかけた。
「じゃあ早速、七不思議とやらをピックアップするね……」
つられたようにそろそろと、まるで金縛りが解けたかのようにみんなが動きだした。
「しょうがないな……肝試しするから、お化け役をやれって言われるよりはまだましか……この場合、お化けは本物にお任せするわけだからな」
腕組みする剛毅に向かって、可憐さんが綺麗な眉を寄せた。
「やだ、ヘンなこと言わないでよ……お化けなんているわけないって思ってないと、夜の学校になんてとても泊まれないわ……」
「だよな! いないって! 絶対いない! ……俺はそう信じることにする!」
「私もだ」
順平君の叫びに繭香が同意した。
(ち、ちょっと待って……待ってよ?)
私は必死の思いで、まだ賛成を表明していないメンバーの顔を見回す。
明らかに青い顔をしている玲二君は、きっと私と同じ思いのはずだ。
助けを求めるような視線に小さく頷き返す。
同盟成立。
隣で石になってしまっている諒は、私の記憶が確かなら、中学時代、修学旅行の旅館で酷い目にあってから、確かそっち系はまったく駄目なはず。
その証拠に、もうどうしようもなく硬直している。
そして部屋の入り口に近い席で俯いている美千瑠ちゃんに目を向けた。
見るからにおとなしくて恐がりのような美千瑠ちゃんに、この企画はそうとう辛いはずだ。
(そうよね……百歩譲って私たちは我慢するにしたって、やっぱり美千瑠ちゃんが可愛そう……ここは心を鬼にして貴人に異議を唱えないと!)
勇気をふり絞って私が声を上げようとした時、俯きっぱなしだった美千瑠ちゃんが顔を上げた。
私の予想に反して、その顔は喜びに満ち溢れ、女神のような笑顔だった。
「すごく楽しそうな企画ね。私、恐い話とかお化け屋敷とか大好きなの……! とっても楽しみだわ!」
コロコロと声を立てて笑いながら、拍手まで送っている姿を見て、正直、
(終わったわ……)
と思った。
悲しげな表情で私を見ている玲二君と頷きあう。
これはもうしょうがない。
最後の砦だと思った美千瑠ちゃんが、あっち側の人間だった今、私たちに反旗を翻すチャンスはなくなった。
(我慢しよう……)
不本意ながらそう気持ちを固めた時、隣で諒が動いた。
まるで力が抜け切ったかのように、受身も取らないでそのまま顔面から机に突っ伏しそうになるから、思わず腕を伸ばして抱き止める。
「ちょっと諒?」
まさか気を失うほど肝試しが恐かったんだろうか。
一瞬そんな考えが頭に浮かんだが、私はすぐにそれを消し去った。
抱き止めた諒の体は、驚くほどに熱かった。
「ちょっと諒! 熱があるんじゃないの!?」
私の叫びにみんなはガタガタガタと椅子を鳴らして立ち上がったけれど、当の本人は身動き一つしなかった。
腕の中でピクリとも動かない諒に、私はこっちまで血の気が引く思いだった。
剛毅の手によって保健室へと運ばれた諒は、電子体温計が故障しているんじゃないかと疑うぐらいの高熱をマークした。
「よ、四十度!?」
さすがにそれはマズイんじゃないかと焦る私たちの目の前で、ウンウン唸っていたかと思ったら、しばらくすると安らかな寝息をたててすやすやと眠り始めた。
さっきまで真っ赤だった顔があっという間にいつもの顔色に戻ったことを不審に思い、諒の額に触ってみて、思わず驚きの声が出る。
「さ、下がってる……!」
次々とみんなも諒の額に触れた。
「……本当だ」
「なんで……? ねえ、おかしくない?」
「おかしいよ……! もちろんこの上なくおかしいよ!」
ざわめくみんなの中で、私は必死に記憶の糸を手繰り寄せていた。
(待って……待ってよ……? なんかこれって、前にも覚えがない? ……多分中学時代……それもきっと私ができるだけ思い出したくないようなことに関係しているような……?)
意識の深いところで、考えることを拒否しようとする自分の心と戦いながら、私は懸命に思い出そうと努力する。
(なんで突然倒れたんだろ? 確か今日、『HEAVEN』に集まったばかりの頃は、諒だって普通だったよね……私に喧嘩を売る余裕があったんだもん……そのあと何があったっけ……?)
順を追って考えてみたら、答えはすぐに見つかった。
(まさか……!『肝だめし』の話……?)
ハッとしながら、ベッドに眠る諒の顔を見た。
長い睫毛をピッタリと閉じて眠る顔はどちらかと言えば童顔で、中学時代とそんなに変わってはいない。
中学時代もずっと諒と同じクラスだった私は、忘れもしない修学旅行での事件を思い出した。
――諒の巻き添えとなってクラス全員、いや、学年全員がどんなに酷い目にあったのかを。
まるで眠る諒から逃げようとするかのように、自然と私の足は後退る。
ふとベッドを挟んで向こう側にいる繭香と目が合ったので、すがるように叫んだ。
「ま、繭香! お祓い! お祓いはできないの?」
「は?」
何を言われたのかわからないとばかりに、文字どおり繭香は目が点になった。
そして次の瞬間――。
「……私がやるのは占いだけだ! お祓いなんて……そんなもの、出来るわけないだろう!」
大きな瞳でグワッと睨まれて、私は小さく飛び上がった。
「そ、そうだよね……できるわけないよね! ……ごめん……なんか混乱してて……」
しどろもどろに言い訳を始めた私に、貴人が歩み寄って来た。
「琴美、どうしたの? なにか……お祓いをお願いしたいようなことがあるの?」
努めて真剣な顔で尋ねてくれるけれど、目が笑ってる。
本当はどうしようもないくらい大笑いしたいのを、必死に我慢してるってことが、ありありと顔に書かれている。
「確かに笑い話みたいだけど……これは本当に切実な願いなのよ……!」
私の叫びにやっぱり予想どおり、貴人は肩を揺すって大笑いし始めた。
中学生の修学旅行と言えば、その行き先はたいてい決まっている。
名所遺跡めぐりや、歴史の教科書に出てくるような建造物の見学など、およそ普段は家族でも友達同士でも行きそうにない所に行くのが、お約束だ。
私が卒業した中学でもご多分に漏れず、三日間の行程中、バスに詰め込まれて、たくさんのお寺や古墳を見て回った。
その途中で諒が倒れたのは、二日目の夕方だった。
ちょうど今日みたいに突然の原因不明の高熱に倒れた諒は、一人別行動となって旅館に連れ帰られるとすぐに、熱も引いたのだそうだ。
なんだ、たいしたことはなかったのかと、担任らが安心したのも束の間、目を覚ました諒は、およそ人間業とは思えないスピードと身のこなしで、旅館中を駆け巡りだしたらしい。
『こら勝浦! なにやってんだ!』
『やめなさい! 何がしたいんだ……? とにかく止まりなさい!』
担任や学年主任の声をまったく無視して、壁と言わず床と言わず四つん這いになって無茶苦茶に走り続けた諒は、二時間ほどが経つと、またコロッと丸くなって眠り始めた。
その姿は、まるで野生の獣のようだったという。
おかしな奴だと呆れながらも、ひとまずホッとした担任たちの思いを裏切って、きっちり二時間後にまた諒は起き上がった。
その後どうなったのかだったら、実際に私もその場にいて見て聞いていたのだから、少しの恨みをこめてもっと詳細に説明することができる。
私たち他の生徒が旅館に帰って来た時は、ちょうど諒の三回目の走り回りが始まったところだった。
四つん這いでもの凄いスピードで走り続ける諒は、小さく息を弾ませながらもまるで疲れているようには見えなかったが、髪振り乱して追いかける担任や学年主任や旅館の従業員は、それはそれは可哀相なことになっていた。
『ま……待て……待ちなさい……!』
息も絶え絶えの大人たちを気の毒に思った陸上部員や他の運動部員らが捕獲役をかってでて、諒を追い込もうとしたが、それでも捕獲することは無理だった。
結局、二時間後に電池が切れたように丸くなったところを捕らえ、次はもう起き上がれないように縛っておいた。
なのに、さらに二時間後に目を覚ました諒は、自分の体にぐるぐるに巻かれたその縄をなんなくスルリと解いてしまい、また走り出したのだった。
『なんなのよ、もう!』
『いつまで続くんだよ、これ!』
驚くばかりの思いはとっくに通り越して、次第に疲れで、みんなのイライラが増していく。
二時間ごとの全力疾走は旅館内をくまなく廻るので、男子も女子も、夜中になっても誰一人眠りにつくことができない。
旅館を貸切っていたことが幸いだったとはいえ、先生方の疲労と困りようは、見ているほうが気の毒になるほどだった。
いったい何が起こっているのか。
訳もわからないまま夜は明け、ほとんど寝ていない修学旅行生を乗せたバスは、諒が眠りについた隙をついて、最後の観光地めぐりに出発した。
行き着いた先のお寺で、死んだように眠りこんでいるバージョンの諒を見たお坊さんが、
『これはいけません! 今すぐ除霊しなければ!』
と顔色を変え、そこでようやく私たちは、諒に何が起こっていたのかを知ったのだった。
――どうやら何か動物の霊に取り付かれていたのらしい。
「そんな事あるもんか」とか、「信じられない」といったセリフは、あの時の諒を見ていない人だから言える言葉だと思う。
見るからに霊験あらたかなお坊さんの言葉を、教師をまじえた学年一同、誰も疑いはしなかった。
大きな大きな安堵のため息でもって、しっかりと受け入れた。
その後の旅行の日程は大きく変更されて、何はともあれ、そのお寺で諒にとり憑いた霊の除霊が始まった。
お坊さんの唱えるお経と振り撒かれる清めの塩にのた打ち回る諒の姿は、確かに人間のものとは思えず、叫び声は両手で耳を塞ぎたいほど恐ろしいものだった。
私たちの昨夜の苦労はなんだったのかと思うほど呆気なく、諒の除霊は終わった。
いつもの状態に戻った諒が、
『なあ……なんだかすっごく体中が痛いんだけど……なんで?』
霊にとり憑かれていた間のことは何も覚えておらず、同級生一同がついつい殺意を覚えてしまったことと、
『どうやら霊に気に入られやすい方のようですので、今後もお気をつけください……』
というお坊さんの、ゾッとするようなアドバイスは、今でもハッキリと覚えている。
「だから……これは本当に、恐ろしい事態なのよ!」
放課後の保健室ですやすやと眠る諒を見下ろしながら、私は必死に叫んだ。
「うーん、そうは言われても……やっぱりそう簡単に、『はいそうですか』とは信じられないなよなぁ……」
腕組みしながら首を捻る剛毅を、私は敢然と見上げる。
「もちろんよ! 私だって、霊なんて信じたくないし、この上なく現実主義者なのよ! でもあの時の諒は、確かにもの凄かったの! なんて言うか……他には理由がつけようがないくらいおかしかったのよ!」
本当はさっさと諒のそばから逃げ出してしまいたい気持ちを必死にこらえ、私はみんなに訴える。
――今、ひょっとしたら私たちはかなり危ない状況にあるのかもしれないということ。
しかしみんなはなかなか、諒をそこに放っておいて逃げようという気持ちにまではならないようだ。
「まあとりあえず……諒が目を覚ましてからでもいいんじゃない?」
順平君の提案に、貴人がもう一度私の顔を見た。
「琴美……それでもいい?」
ダメだと叫びたいけれど、今この場でみんなの賛同を得ることは難しそうだ。
それに今回は私の思い過ごしという可能性もある。
「…………うん」
渋々頷いた瞬間に、諒が、
「うーん……」
と目を覚ました。
一瞬、緊張で身を硬くした私をよそに、ごそごそとベッドの上に起き上がると、
「あれ? みんな何してんだ?」
とぐるりと周りを取り囲んだ私たちを見回す。
「何してんだじゃないわよ……! 急に倒れたくせに! ……まあ、もう平気そうだからいいけど……じゃあ、これでもう私は部活のほうに行くから!」
夏姫がさっさと保健室から出て行くと、剛毅と玲二君もおもむろに動き始めた。
「俺も行くかな……貴人、例の件はまた後日計画を詰めよう……諒! 遅くまで勉強ばっかりしてないで早く寝ろよ!」
「……なんだよ、それ?」
諒は訝しげに首を捻っている。
『HEAVEN』に残っている智史君とうららに、諒が無事だったと教えに美千瑠ちゃんは向かい、順平君と可憐さんはそれぞれに今日はもう帰路についた。
「なんだ……なんでもないじゃないか」
ちょっと咎めるように私を見つめる繭香の視線が痛い。
「うん、そうだね……ごめん」
あまりにもあの時と状況が似ていたため、先走りしすぎてしまったのだろうか。
私の早とちりは今に始まったことではないけれど、さすがにこれはことがことだけに少し恥ずかしい。
「でも、中学時代の話は本当に本当なんだよ?」
「はいはい」
繭香の適当な相槌に貴人がクスリと微笑む。
「そういう事があったってことを、知っておくのは悪くないよ……大丈夫だよ。琴美」
「うん」
いつもながらに貴人の言葉に救われるような気持ちになり、ようやく私も笑うことができた。
「おい! なんだよ? 俺にもわかるように説明しろよ……」
ちょっと怒ったようにベッドから下りる諒に背を向けて、貴人と繭香は保健室の扉から出て行く。
「帰りながらゆっくり話すよ」
笑い含みの貴人の声を追おうとした途端、私はふいに諒に腕をつかまれた。
「待てよ、マイハニー」
「……………………はい?」
なんだか今、とてつもなくおかしな言葉が聞こえた気がする。
この場にそぐわないとか、私たちには似合わないとかいった次元ではなくて、ただもうひたすら有り得ない。
有り得なさ過ぎるセリフを諒が言ったような――そんな気がする。
(ええっと……なんの聞きまちがいかな?)
そう問いかけようとして諒の顔を見て、私は全身が硬直した。
熱を帯びたように妙に色香の漂う瞳で、諒が真っ直ぐに私の顔を見ていた。
頬を薄っすらと赤く染めて。
優しげな微笑を唇に浮かべて。
(ちょ、ちょっと待って…………誰? この人?)
思わずそう思わずにはいられないほど、彼は今、普段の無愛想この上ない諒とはかけ離れた表情をしている。
「琴美……」
甘く名前を呼ばれて、鳥肌が立った。
(諒は私を名前で呼んだりしないわよ……!『お前』とか『おい』とかいつも適当に失礼な呼び方しかしないんだから……!)
いかにも美少年然としたキラキラの瞳で、私を真正面から見つめている諒に、恐る恐る尋ねてみる。
「諒……どこか頭でもおかしくなった?」
いつもなら絶対に怒るはずなのに。ほんのついさっき、みんなといつもどおりの会話を交わしていた諒だったらまちがいなく
「なんだと!」
と私にくってかかるはずなのに。
彼は微笑みを崩さないままに、やんわりと首を横に振った。
「いいや……俺はいつもどおりだよ?」
(いや……そのしゃべり方からしておかしいから! 私にそんな顔で笑いかけてる時点で、すでにおかしすぎるから!)
鋭い訂正の言葉を実際に口に出すより先に、諒がぐいっと私の腕を引き寄せた。
バランスを失って、ヨロヨロと諒のほうに倒れそうになった私を反対の腕で受け止めて、彼は私の頬にそっと唇を寄せた。
(……………………はい?)
すでに頭の中でまったく理解できないその行動と、
「アイラブユー」
耳元で囁かれた声に、私は我慢できずに悲鳴を上げた。
「ぎゃああああああ!」
驚天動地の私の叫びは、保健室がある第一校舎中に響き渡った。
「どうした琴美!」
「なんだ?」
さすがに保健室から出て行ったばかりの貴人と繭香は、駆けつけて来るのが早かった。
「な、なに?」
「どうかしたのか?」
ユニフォーム姿の玲二君と剛毅は、どうやら部活途中にグラウンドから走って来てくれたのらしい。
ということは、私の悲鳴は校庭にまで轟いていたということだ。
「ど、どうもこうも……諒が……!」
涙を浮かべながらみんなに訴えようとした私の目の前に、その諒が立ちはだかった。
「ちょっと悪戯したら、こいつがもの凄い悲鳴上げたんだよ……悪い……なんでもないから……」
肩を竦めながらそんなふうに弁解してしまったので、みんな「なあんだ」と言わんばかりの視線を私に向ける。
(悪戯って! 悪戯って……!)
怒りと驚きのあまり、口をパクパクさせるしかない私をふり返り、諒はひどく魅惑的に微笑んだ。
「なんだよ……そんなに騒ぐほどのことでもないだろ?」
(どこが? 私にとっては、もの凄く大騒ぎするべきことなんですけど!)
すぐに叫び返せなかった。
私を見つめる視線と真正面から向きあった途端、なにかピンとくるものがあった。
――これはきっと諒じゃない。
見た目にはどこをどう見ても諒だし、体は確かに諒のものに違いないが、『中身』が違う。
絶対に違うと思う。
(中身が違うってどういうことだろう……?)
自分で思いついた考えに自分で首を捻る。
その瞬間、ほんのついさっき他ならぬ自分が血相を変えてみんなに話したことが、脳裏に甦った。
中学の修学旅行の時にお坊さんがくれた忠告――。
『どうやらとり憑かれやすい方のようですので、今後もお気をつけください……』
(やっぱり! ……あの時みたいに、中に『何か』が入っちゃってんじゃないのよ! 諒!)
キッと睨みつける私に向かって、諒なのに諒ではない『誰か』は、ニコリと笑いかけた。
「帰るよ、琴美。そんなに怒んなよ……話は帰りながらでいいだろ……?」
あきらかにさっきの貴人の言葉を模倣したセリフ。
私はその人物に向かって敢然と顎を上げた。
「そうね。そうするわ!」
(まったく世話がかかるったらありゃしない! いっつも私を馬鹿にしてるわりには、自分だってこんな変な癖があるんだから……!)
クルリと私に背を向けて歩き出す背中を追う。
(もとに戻ったらたっぷり文句言わせてもらうわよ! 私のおかげで助かったんだって……ここは大きな貸しを作っておかなくっちゃ……!)
これまで自分が諒にさんざん助けてもらったことは棚に上げて、そんなふうに考える。
だけど淡々と歩き続ける諒じゃない誰かの背中を見ているうちに、ふと不安な気持ちが過ぎった。
(でも……どうやって助けるんだろう? 修学旅行の時みたいにお祓いしてもらったらいいのかな? どこで? 誰に?)
残念ながらそっち系の知りあいは私にはいない。
『HEAVEN』のみんなに助けを求めたいけれど、今この場で「これは諒じゃないわよ!」なんて突然言い出したら、この『誰か』に諒の体ごと逃げられてしまいそうだ。
少なくとも今はまだ、私が違和感に気がついたということを知られるわけにはいかない。
ここは油断させておいたほうが得策だと、私の人よりちょっとだけ回転の速い頭は結論づけた。
「待ってよ、諒!」
できるだけ普段どおりを心がけながら、背中に呼びかけた。
ニッコリと笑ってふり返る相手に、心の中だけで舌を出す。
(諒は私相手にそんな優しい反応はしません! もっとずっと失礼な態度で、いつだって半分怒ったような顔しかしないんだから……!)
そう、眉間に皺を寄せている顔か、目を吊り上げた顔しかとっさに思い浮かばない。
それぐらい私に対する諒の態度は失礼極まりない。
今向けられている美少年そのままの笑顔なんて、きっと私相手には一生見せることはないはずなんだ。
だけど――。
それでもなんでもいいから、もとの諒に戻って欲しいと、私は思う。
(だって……なんか調子狂うじゃない? ニコニコ愛想のいい諒なんて……)
ゆるい決意とは裏腹に、握り締めたこぶしは固かった。
諒をとり戻さなきゃと思う気持ちだって、本当はとてつもなく強かった。
一人の人間が他の人間に成り代わろうとする時、一番困るのはなんだろう。
おそらく、その人がこれから何をするところだったのかとか。
周りの人に対する接し方とか。
傍から見ているだけではわからない、感情に関わる心の機微だと思う。
なのに諒の中に入っている『何か』は、本当は本人なんじゃないかと疑うぐらい、そのあたりまで完璧だった。
『夏休みの学校に泊まって、七不思議を検証しよう合宿』――通称『七不思議合宿』の告知に共に廻りながら、女の子にニコニコと説明をする智史君に、いい顔をしないところまで完璧。
なのに、なぜかそこだけスコーンと抜け落ちてしまったかのように、私に対する態度だけが大間違いのままだった。
「琴美!」
ニッコリと笑顔で呼ばれて、始めは背筋がゾッとしていたのが、次第に慣れてきている自分が恐ろしい。
(まずいわ……このままじゃ、本物の諒をとり戻さなきゃって使命まで、そのうち忘れてしまいそう!)
単純な自分の順応力に危機を感じて、他のみんなにそれとなく話をしてみようとするのだが、なんと言っていいのか私にはわからない。
諒は傍目には何の変化もないし、行動にもどこもおかしなところはない。
じゃあいったいどこがおかしいのかと言うと、それはもうただ一点――私に対する態度だけなのだ。
「琴美の気のせいじゃないの?」と言われてしまえば、私自身まで思わずそれで納得してしまいそう。
――でも違う。
サラサラの髪をかき上げながら、私に片目をつむり、「やあ、マイスイートハニー」なんて耳元で囁いてしまう諒は、絶対に諒じゃない。
「絶対に違うのよ!!」
頭の中だけでぐるぐると考えていたはずだったのに、いつの間にか声に出して叫んでしまっていた私に、『HEAVEN』中の視線が集まった。
「何が違うんだ……!」
怒りに満ち満ちて冴え渡る繭香の声。
どうやら『七不思議合宿』について、それぞれの持ち場など細かなことを決める会議の真っ最中に、私は完全に自分の世界に入ってしまっていたようだ。
「琴美は諒と二人で『夜中の音楽室でひとりでに鳴り出すピアノ』の係だ……一人で一つの場所を受け持つ者だっているんだから、二人いるだけでありがたいと思え!」
完全に、受け持ちが気に入らなくて異議の声を上げたとばかり思われている。
「い、いやそうじゃなくって……受け持ちは別にそれでいいんだけど……って……諒と二人!?」
「ああ」
無情にも繭香はコックリと頷いた。
「さっき諒が、琴美と二人で受け持つからって自分から言い出しただろ……まさか聞いてなかったのか?」
爛々と輝き始めた繭香の大きな瞳に恐れをなして、私は慌てて首を横に振った。
「ううん! 聞いてた! 聞いてた! まあそれでいいっか……ハハハ」
力なく笑う私にほんの少し体を寄せ、隣に座る諒じゃない諒は小さな小さな声で囁く。
「楽しみだねハニー」
夜中の学校。
七不思議に数えられる怪奇現象が起こる音楽室。
どうやら何かにとり憑かれているらしい諒と二人きり。
どう考えても『楽しみ』とは思えない状況に、心の中だけで、
(楽しみなはずないでしょ!)
と叫び、私は諒の顔を睨んだ。
ちょっと見慣れてきた可愛らしい笑顔の中に、なにやら押し殺したような別の感情が垣間見える。
――何かを決意しているような、意欲に満ち満ちた表情。
(な、何? ……まさか何かするつもり……?)
何の武器も持たず、対抗する術もない私には、拭い去りようのない不安だけが募った。
「それで……何がどうなったら、神社でお守りや護符を大量購入する気になるわけ?」
放課後、『HEAVEN』からの帰り道。
私は同じ方向に帰る可憐さんについて来てもらって、通学路途中の神社へと寄った。
財布の中にあったお小遣いを全部使って、最低限自分の身を守るための装備を購入した私を、可憐さんは綺麗に手入れされた眉をひそめて見つめる。
「そんなに嫌だったら、七不思議のところだけでも抜けさせてもらえばよかったのに……」
心配してくれる可憐さんには悪いが、これらの装備は、まちがっても『対七不思議』用ではない。
それよりもっと切実な『諒の中の何か』用なのだ。
お守りや護符を手にとって、裏返したり、持ち上げて日にすかしてみたり。
正直これが役にたつのか、たたないのかさえ私には半信半疑だが、途中まで一緒に帰っていた諒が、私が神社に寄ると言い出した途端、
『お、俺は用があるから……じゃあここで』
なんていなくなってしまったところを見る限り、どうやら少しは効き目があるようだ。
(何かが起こるって決まっているわけじゃないけれど……備えあれば憂いなしって言うもんね!)
まるで動物的としか言いようのない私の勘どおり、諒の中の『誰か』が行動を起こしたのは、やっぱり『七不思議合宿』の夜だった。