「なんかね……困ったなって思いよりも、うらやましいなって思いのほうが、先に心に浮かんじゃった……」
 放課後の帰り道。
 並んで歩きながら可憐さんはそう言って、それはそれは綺麗に笑った。

 空を仰ぎながら彼女が語った言葉は、きっとさっきのうららの行動に対する感想だと思ったので、素直に「私も」と同意する。

『智史は譲れない!』と言い切ったうららに、あの後、貴人は何も反論しなかった。
 にっこり笑って「わかった」と頷いて、それでもう、その話は終りになってしまった。
 自分の隣に帰って来たうららの頭をそっと引き寄せた智史君が、この上なく幸せそうな顔をしていたのが忘れられない。

(希望書に関してはちょっと困ったことになったけど、きっと貴人がいい方法を考えてくれるはず……! それにしても……あんなに大好きな相手がいて、それをあんなに堂々と言い切ってしまえるうららが……やっぱりうらやましい……)
「いいな……うらら……」
 思わず口をついて出てしまったら、可憐さんにクスリと笑われた。

「琴美ちゃんはこれからよ。これから先、いつそんな相手が現われるかもわからないし……本当はもう、すぐ近くにいるのに気がついていないだけかもしれないし……私はダメだ……もうきっとダメだな……」
「えっ? ……可憐さん?」
 途中、私に関してなんとなく引っかかる表現もあったが、私が思わず問い質してしまったのは、やっぱり可憐さん自身に関する言い回しのほうだった。

「どうして? だって……」
 大人っぽくて綺麗な可憐さんには年上の恋人がいるんだと、それぐらいは、いくら他人の情報に疎い私だって知っている。
 話の中でよく彼とのデートの話題が出て来るし、車でお迎えに来てもらっている様子を、時々遠目に見ることもある。

 実際に会ったことはないけれど、かなり長い交際で、ずっと仲良くしている恋人なんだとばかり思っていた。
 だから、まるで上手くいってないような言い方をされて、ひどく意外だった。
 可憐さん自身も、思わず言ってしまってから自分でもまずかったと思ったのだろう。
 慌てて私に向かって手を振ってみせる。

「ごめんなさい。変なこと言っちゃって……忘れて忘れて……!」
 急に歩く速度を上げて毅然と前を向く横顔は、いつものようにうっとりするほど綺麗だ。
 以前よりはだいぶ化粧っけがなくなっているが、やっぱり私なんかとは比べものにもならないほど、白い肌もつやつやの唇も長い睫毛も綺麗。
 でも形よく整えられた眉が、ほんの少し困ったように寄せられている気がした。

「可憐さん……」
 先に立って歩き出した彼女を、慌てて追いかけることはせず、私はただ呼びかける。
 私の声に足を止めた彼女が、それでもふり返ろうとはしないので、もう一度呼んでみる。
「可憐さん」
 
 一呼吸置いた後、彼女は肩を竦めて私をふり返った。
 長い巻き髪がフワリと揺れて、ちょっぴり俯いた白い顔の表情を隠す。
「まいったな……琴美ちゃんってば、容赦ない……」

 可憐さんが震える両手で顔を覆ってしゃがみこんだ途端、私は走り出していた。
 彼女と私の間のほんの僅かの距離を、全力疾走していた。


「別に上手くいってないわけじゃないの……でもここのところお互いに忙しくて、すれ違いが続いてる……そんな感じかな……」
 近くの公園のベンチに並んで座ったら、可憐さんはそんなふうに口火を切って、艶やかに笑った。

 だけどなぜだか私には、その笑顔が彼女の精一杯の無理なんだと、すぐにわかってしまう。
「可憐さん」
 諭すように、問い質すように名前を呼ぶと、彼女は大きな目をギュッと瞑って、観念したかのように空を仰いだ。

「もう! ……どうして騙されてくれないのよ……」
 拗ねたような口調がなんだか可愛かった。
 いつも自分よりかなり年上のように思えていた可憐さんが、年相応の高校生に見えて、私は小さく笑う。

「だって私は可憐さんの信奉者の男の子たちじゃないもの……ああ無理してるんだなってわかっちゃう……そして心配になっちゃう……友だちだから……」
 可憐さんは顔は空に向けたまま、視線だけを私に向けて笑った。
『信奉者じゃない』なんて宣言しながらも、それはやっぱり私だって魅了されてしまいそうな、本当に綺麗な笑顔だった。

「ありがとう……」
 顔ごと私に向き直った可憐さんは、最近恋人との間に違和感を覚えるようになったことを手短に話してくれる。
「どこがどうっていうような、決定的な何かがあったわけじゃないの……たぶんきっと些細なこと……そうね……例えば私が以前より学校が楽しくなって、彼との時間以外にも楽しい時間を見つけた……そんな小さな変化の積み重ねが原因なんだと思う……」

 そんなふうに自分で自分を分析できてしまう可憐さんは、やっぱり私よりずいぶん大人のような気がする。
 だって私は、渉との仲が決定的にダメになるまで、まるで気がつきもしなかったのだから――。

「うん。本当にそうかもしれない……楽しくなっちゃったのよね……こんなふうに彼以外の人と過ごす時間が……」
 自分の気持ちをしっかり見定めたことで、可憐さんの声に少し強さが戻る。
 それを嬉しく思いながら、私は呟いた。
「うん。わかる気がする」

 私だって、渉にフラレてもう行く意味なんてないと思っていた学校が、こんなに楽しくなるなんて、あの時は思いもしなかった。
 貴人に誘われて『HEAVEN』の仲間になって、みんなと知り合うまでは予想もしていなかった。

 いろんな出会いは人を変えていく。
 それは良い方向だったり、悪い方向にだったり。
 でも 『HEAVEN』の仲間たちとの出会いに関して言えば、それは私にとっては良いことに違いない。

(可憐さんにとっても、きっとそうなんじゃないのかな……?)
「いろんなことが変わっていったって……それはそれでいいんじゃないかな……?」
 恋愛に関するアドバイスなんて私にできるはずない。
 一番苦手で縁遠いと思っていたことを、気がつけば頭を捻りながら私は始めていた。
 懸命に言葉を紡ぎだしていた。

「お互いにどんな変化があったって、それで二人の関係が少しずつ変わっていったって、お互いのことを大事に思えるんならそれは本物だと思うよ……私はまだ見つけていない本物。可憐さんはきっと……それをもう持ってると思うよ……?」
「そうかしら……」
 自信なさげだった可憐さんの瞳に、私の言葉でちょっと光が宿り始める。
 安堵という名の光。
 その表情を見ているだけで、私自身が勇気づけられたし、大きな力をもらう気がした。

「うん。そうだよ。大丈夫」
「うん。ありがと……」
 顔を見合わせて笑いながら、私たちはベンチから立ち上がった。
 お互いの家がある方向に向かって、同時に一歩を踏み出す。
 と、その途端――。

「なにやってんだよ……日が暮れるぞ?」
 背後からよく聞き慣れた声が聞こえた。
 ふり返って見てみれば、自転車のペダルに片足をかけた諒が、私と可憐さんと自分の三人分の荷物を荷台に積んで、すこし離れた所で私たちを待っている。

「今日は用事があるから先に帰れ」と言った諒に、そういえば私たちは「後で追いかけて来てくれればいいから」と荷物を押しつけてきたのだった。
「間に合わなかったらいけないと思って急いで来てみれば……こんなところで引っかかってるし……!」
 大きなため息をつきながら自転車を押して歩き始めた諒に、私と可憐さんは慌てて駆け寄った。

「別にいいじゃないのよ。こうして一緒になったんだから……!」
 強気で言い返す私には、諒は嫌な顔をしてみせるくせに、諒は可憐さん相手だとまるで態度が違う。
「ごめんなさい諒ちゃん……でもちょうど良かったでしょ?」
 そんなふうに笑いかけられれば、「まあな」なんてまんざらでもない笑顔を返す。

 そのあまりの対応の違いにムッとすると同時に、私はあることを思い出した。
(そういえば諒って……可憐さんに対してだけは、妙に態度が優しいのよね……)
 前々からひょっとしてなんて思っていた疑問が、むくむくと頭をもたげる。
(やっぱり好きなんじゃないのかな……? 可憐さんのこと……)
 そう思った途端、ドキリと心臓が跳ねた。

(…………?)
 自分で自分の反応に、僅かに首を捻る。
 並んで歩きながら何事かを話している諒と可憐さんの姿をふり返れば、もう一度胸に湧き上るちょっと鋭い痛み。
 これはいったい何なんだろうと考えて、私はすぐにハッとひらめいた。

(そうか! 可憐さんには恋人がいる以上、諒が例え彼女のことを好きだとしても、最初っから失恋確定なんだわ……!)
 いくらいつも喧嘩ばかりしているいけ好かない相手でも、やっぱり気の毒にと思う。『失恋』は私にとっても一時期、世界が終わったかのような一大事だったのだから。

(手が届かないってわかってたって、好きになっちゃうことはあるもんね……可愛そうに……!)
 憐憫の情を込めて見つめていたら、諒にこの上なく嫌な顔をされた。

「何考えてるんだ、おい? ……有り得ない表情してるぞ、お前……」
 ここは仲間として、失恋確定のあかつきには一緒に辛い気持ちを分かちあおうとまで決心していたのに、あまりの言い草にカチンときた。
 私はムッとして諒を睨みつけた。
「失礼ね! たとえこの先悲しいことがあったって……あんただけは慰めてやらないわよ!」

「なんだよそれ! わけわかんねえ!」
 すぐに怒りに頬を染めて言い返す諒。
 いつもだったらここで、「まあまあ」と可憐さんの仲介が入るところだ。
 そうでなければこれまでだって、私と諒の喧嘩の回数は軽く二桁を越えていただろう。
 それなのに今日はそれがない。
 別にわかってて待ってるわけではないのだが,可憐さんの「待った」がいつまでたってもかからない。

 諒もそう思ったのだろう。
 今にもこちらに投げ返そうとしていた私の鞄からひとまず手を放して、可憐さんをふり返った。
 諒と並んで歩いていたはずの可憐さんは、いつの間にか私たちよりずっと後ろのほうにとり残されていた。

「可憐さん?」
「どうした可憐?」
 一触即発の状態だった喧嘩をひとまず保留にして、私たちは二人とも彼女に呼びかけた。

 大きな瞳を驚いたように見開いていた可憐さんは、何度か目を瞬かせて、ハッとしたかのように私たちを見た。
「ごめんなさい。なんでもないわ」
 しかしその白い顔は、遠目でもはっきりと分かるくらいに青ざめている。

 さっきまで彼女が見ていた方向には、白い車が信号で停まっていた。
 重心の低そうな流線型のフォルムにはなんだか見覚えがある。
「あれ? あれって……?」
 可憐さんを迎えに来る彼氏さんの車に似ているななんて思った瞬間、助手席に女の人が乗っていることに気がついてドキリとした。
 長い髪の女の人。

(で、でも同じ車なだけかもしれないし!)
 懸命に否定しようとする私の悪あがきは、他でもない可憐さんが車とは反対の方向に向かって走りだしたことで、結局全部無駄になった。

「可憐さん!」
 慌てて追いかけだした私を、自転車から降りた諒が追い越していく。
「可憐!」
 シャツを翻してあんなに夢中になって、そんなに好きだったのかとか。
 だったら自転車に乗って追いかければいいのに、らしくもなくかなり動揺してるなとか。

 冷静に考える頭とは裏腹に、私の心音はドンドンと鳴り響く。
 呼吸するのも苦しいくらい、ギュウッと胸が痛む。
(なんだ……諒のことは言えないな……私だってかなり運動不足だ……これからは適度な運動を心がけよう……)

 泣いたり怒ったり笑ったり。
 誰の前だって躊躇することなく、いつも激しい感情を表に出している自分がどんどん冷静になっていく異常事態に、私はまだ全然気がついていない。
 友だちの一大事だというのに、感情が高ぶるどころかどんどん冴えていっているということがどういうことなのか。
 全然わかっていない。

 ひょっとしたら彼氏が他の女の人と会っているところを目撃してしまったかもしれなくて、傷ついている可憐さんを早く捕まえなくちゃならないのに、本音を言えば、私はもうこちらの方向には走りたくなかった。
 夏姫の所に駆け寄るためなら、昔痛めた足だって全く無視でいつだって全力疾走だった玲二君のように、運動の苦手な諒が懸命に走っている姿を――

――ダメだ。これ以上見たくない。

「可憐! 待てってば!」
 私だって大好きな可憐さんを、必死に呼び止めようとする声を、これ以上聞いていたくない。

 そんな自分の感情にビックリして、私は駆ける足を止めた。
(やだ……これじゃ私がまるで諒のことを好きみたいじゃない……)
 そう思った瞬間に、ポロリと涙が零れた。
 思いがけず、本当に思いがけず泣いている自分に愕然とする。
(なによこれ……!)
 
 口を開けば喧嘩ばかりで、いつだって意地悪で、なのに私が困った時には、必ず助けてくれる諒。
 泣きたい時にはちゃんとそれをわかってくれて、誰の目からも隠してくれる諒。
 私が生意気な口を利かなければ、本当は私にだって優しくしてくれることはわかってる。
 あの可愛い笑顔を、私にだって向けてもらえると知っている。
 だけど――。

(全然素直になれなくて……! 顔を見れば、思わず嫌な言い方ばかりしちゃって……!)
 考えれば考えるほど、かなり重症な自分をまざまざと自覚する。
 人よりちょっと回転のいい私の頭が、自分の今の状況は、恋している以外のなんでもないと、全然納得のいかない結論を導き出した。

 なのに当の諒は可憐さんを追いかけて、もう背中が見えなくなるのだ。
(なんなのよこれ! …………自覚した瞬間にもう失恋?)
 全ての答えが出た途端に、嘆きとも怒りともいえる感情がドッと湧いた。
 止まっていた私の足が、再びのろのろと走り出す。

(冗談じゃないわよ! なんで私が諒相手に失恋しなくちゃならないのよ……?)
 長年慣れ親しんだ負けん気が、複雑に絡み合った感情の中で、その他の全てを凌駕した。
(冗談じゃないわ! 冗談じゃない!)
 呪文のようにくり返しながら、自分が再び可憐さんを追って走りだすことができて、私はホッと安堵した。

 どうしようもない恋なんかしているよりも、友だちのことで一生懸命になれる自分でいるほうがいい。
 ずっとずっといい。

(望みがあるっていうんならともかく……私と諒の場合は、それは絶対にないもの!)
 諒が私のことを好きになるなんて絶対に有り得ない。
 中学の頃からずっといがみあってきた相手なのだ。
 今さら恋愛対象として見てくれと思うほうがおかしい。
 きっと「バカか、お前?」といつものように呆れられるだろう。

(だからもういいから! 今はとにかく可憐さんよ! 可憐さん!)
 難し過ぎる問題から目を背けて、自分があきらかに現実逃避したことを無視して、私は懸命に駆けた。

 息があがるくらいに走っていれば、きっともう余計なことを考えている時間もないだろうなんて。
 賢さだけが自分の取り柄だと思っているわりには、あまりにもわかりやすい私のダメダメっぷりだった。