ひょっとしてHEAVEN !? 2

 壮大な決意を胸に秘めて駆け戻った体育館には、もうすでに数人の人影しか残っていなかった。
 舞台を下りた真下の場所で、しゃがみこんでいる三人の女の子。

「美千瑠ちゃん……? 可憐さんに……繭香?」
 恐る恐る声をかけると三人が一斉にこちらをふり返った。

「おっ、琴美! いいところに帰ってきた!」
 とても満足そうに瞳を輝かせている繭香と、ちょっと困ったような疲れたような顔の美千瑠ちゃんと可憐さん。
 繭香が大切そうに両手に抱えている小さな水晶玉を見れば、他の二人の心境はありありと想像できた。
 
(なるほど……! 本人がいなくなったからって諦めきれずに、勝手に玲二君を占ったのね……!)
 良い結果が出る可能性はほとんどないとわかっているのに、他の人の恋の行方を意気揚々と語って聞かされたほうは、たまったもんじゃなかっただろう。
(心中お察しします……)
 静かに頭を下げると、美千瑠ちゃんと可憐さんも繭香に見えないように私に頷いてくれた。
 
「いいところって……どうしたの……?」
 繭香の機嫌を損ねない程度に早々に話を終わらせようと、自分から尋ねてみたら、繭香は長い黒髪を揺らしてすっくと立ち上がった。
「玲二の気持ちが夏姫に通じるかどうかを占ってみたんだ! なかなか興味深い結果が出たぞ!」
 
(玲二君……やっぱりもうみんなにバレバレみたいよ……)
 隠しているつもりはないなんて本人は開き直っていたが、それでもこんなに公然と語られてしまうのはどうなのだろう。
 ちょっと玲二君を気の毒に思いながら、私は黙ったまま繭香の次の言葉を待った。
 
「玲二の恋はズバリ『かん違い』だ。何がどうかん違いなのかはわからないが……少なくともその言葉だけははっきりと読み取れた!」
「かん違いって……!」
 それはあんまりじゃないだろうか。
 
(どういうことだろ? 夏姫を好きだっていう玲二君の気持ちがかん違い……? それとも……?)
 訝しげに首を捻る私を見て、繭香はちょっとムッとしたように顎を上げた。
「仕方がないじゃないか! 出て来た言葉はそれだけだ。あとは特に何もない……!」
「そう……」
 
 以前、自分が占ってもらった時に、「『難題ばかり』しかもしばらくは恋愛以外の問題も山積み」なんて出た身としては、繭香の占いはまったく当たっていないとは言い切れない。
(わざわざ玲二君に教える必要は無いけど、記憶の片隅にでも残しておいて、今後気をつけるぐらいしたほうがいいのかな……?)
 
 そんなことを考えた時、ふと思い当たった。
(……うん? そういえば私が占ってもらった時、他のみんなも自分はなんて言われたのかって教えあったよね? 確か……)
 人よりちょっとだけ記憶力のいい私の頭が、フル回転で動き出す。
 
(美千瑠ちゃんが『成就困難』で、可憐さんが『まるで見こみなし』で……そして夏姫が……『前途多難』!)
 ドキリと心臓が跳ねた。
 
(ちょっと待って? ……夏姫も占ってもらったってことは……それってつまり、夏姫には誰か好きな人がいるってことじゃない……!)
 私は慌てて繭香ににじり寄った。
「繭香! 夏姫の好きな人って誰?」
 
 繭香は心底呆れたような表情で、私の顔を見上げた。
「そんなこと、私が知るわけないだろ。知ってたらとっくに玲二に教えてる。私の占いはそんなことは見えないんだ……」
「そうじゃなくて! 前に夏姫を占った時、何か聞かなかったの?」
 繭香はふっと目を細めて私の顔を見た。
 憐れむようなその表情に、ちょっとムッとした。
 
「相手の名前を聞かなくたって占いはできる。だから誰を占う時でも、私は相手が誰なのかなんて尋ねたりしない。……だいたいそれだったら、琴美だって誰と占ってほしいのか、私に言わなければならなかったはずだろ?」
 
(そうだった!)
 実際自分も、特に相手を誰とも想定せず、半ば強制的に繭香に恋占いをされたのだった。
 
「そうだね……ごめん」
 しゅんとうな垂れた私の気持ちを取り成すかのように、可憐さんが笑いかける。
 
「夏姫ちゃんの好きな人が誰なのかはわからないけど……残念ながら玲二君じゃないことだけは確かよ」
 自身たっぷりの声で囁かれるから、思いっきり彼女のほうをふり返ってしまった。
「ええっ! どうして?」
 
 可憐さんは、この秋の新色だという口紅を綺麗に塗った唇を小さくすぼめて、人差し指を当てた。
「しーっ! 前に話したことがあるの。好きな男の子のタイプ……確か、頼りになって男らしいスポーツマン。自分が生意気なことを言ったって、逆にやりこめてしまえるくらい頭の切れる人。極めつけは、夏姫ちゃんより足が速くなくっちゃダメなんだって……! どう? これってどう考えても玲二君じゃ……」
 困ったように眉根を寄せる可憐さんに、私は思わず叫び返してしまった。
「無理! スポーツマンってところ以外は……無理!」
「でしょう?」
 
 なぜか自分が失恋したかのように、ガックリと肩を落としたのは私ばかりではなかった。
 可憐さんも美千瑠ちゃんも繭香も、心底困ったような顔をしている。
 
「でも……夏姫って玲二君のことをいつも惜しい、惜しいって言ってるのよ……だからちょっとは望みがあるかなと思ったんだけど……」
 体育館に駆け戻ってきた時の、やる気に満ちた気持ちを思い出す。
 でもそんな思いはすっかり消えうせてしまった。
 夏姫に他に好きな人がいると言うのなら、いくら「惜しい!」とは言っていても、玲二君に望みはないだろう。
 
「誰なんだろう……本当にいるのかな? そんな好条件に当てはまるようなパーフェクトな人物……」
 何気なく呟きながら、自分で自分の言葉に、胸がドキリと跳ねた。
 
 ――完全無欠な学園一の王子様
 どこを取っても出来すぎの貴人のことを、みんなはそんなふうに呼んでいるし、私自身だってそう思っている。
 
(まさかね……?)
 ドキドキしながら目を向けてみたら、繭香もなんとも言えない複雑そうな顔をしていた。
 
 どうしていいのかわからずに、私は目をもう一度可憐さんに戻す。
「何か具体的なヒントはなかった……? 例えば、この学校の人なのかとか……」

 可憐さんは長い髪をかきあげてから、ゆっくりと腕組みをした。
「ううん。何も……ただ……条件を挙げていく口調が、よどみなくハッキリしていたし、かなり早口だったから、これはかなり以前から好きだったんだな……ってそう思ったくらい……」
「そう……」
 
 そういえば、夏姫はいったいどういう経緯で『HEAVEN』に入ったんだろうかとか、それ以前から貴人と知り合いだったんだろうかとか、もう先の先を考え始めた私の肩を美千瑠ちゃんがポンと叩いた。
「私たちで考えるより、それとなく夏姫ちゃんに聞いてみるのが一番だと思うわ。ひょっとすると琴美ちゃんにだったら、何か教えてくれるかも……?」

「私に? ……どうして?」
 訝しく眉を寄せる私に、美千瑠ちゃんは天使のような笑顔でニッコリ笑った。
「琴美ちゃんならきっと、変に遠回しに尋ねたりしないで、そのものズバリを聞いちゃうでしょう? そんなところを夏姫ちゃんは結構気に入ってると思うのよ……」
「そ、そう……?」
「うん」

 私は根が単純なので、褒められると悪い気はしない。
 ましてや、自分ではいつも短所なんじゃないかと思っている部分を、夏姫が認めてくれているのかもしれないと聞かされれば尚更だ。
「わかった。ちょっと行って来るね!」
 ついさっき駆け戻って来た運動場からの道のりを、私はもう一度反対向きに歩き出した。
 
 
 夕陽が大きく西の空へと傾いた夕暮れ。
 昼間はまだ夏のように暑いままなのに、いつの間にかこの時間の風は、秋のものに変わりつつある。
 高い空を、渡り鳥が鳴きながら飛んで行く姿なんかを見ていたら、ちょっと感傷に浸りたいような気分にさえなった。

(なんだか毎日があっという間に、飛ぶように過ぎて行くな……)
 実際、文化祭の練習と準備に追われ、本当に時間がなくて始終走り回っているのだったが、そんな中でもこうして、誰かのために一生懸命になれる心の余裕はあるのだから、私はこれでいい気がする。

(勉強が! とか……テストが! とかって言うのは、今は全然考えられないけど……いいよね……?)
 ふと不安にかられて、自問自答しながら目を向けた先では、たくさんの人たちが部活に頑張っていた。

 ふり返れば図書室にはもう電気が点いている。
 あそこではきっと、同じクラスの人たちが下校時間まで今日の復習と明日の予習に励んでいるのだろう。
 誰にとって何が大切かなんて、そんなの人によって様々で、だから今の自分はこれでいいと思う。

(うん……夏姫と話をしてみよう……!)
 陸上部の練習が終わるまで待っていようと、運動場とは少し距離のある中庭の芝生に腰を下ろした。

 野球部は野球場を、テニス部はテニスコートを使っているので、実際運動場を使用しているのは、トラックを使っている陸上部と、その中にフィールドがあるサッカー部だけだ。
 奇しくも夏姫と同時に玲二君の姿も見る事ができ、その上今日はサッカー部に顔を出す日だったらしい貴人の姿まで見える。

(うーん……これって夏姫の反応を見るには、好都合なのかな?)
 双眼鏡かオペラグラスでも欲しいくらいの気持ちで、私は三人の姿をじっと観察した。

 当たり前と言えば当たり前だが、練習中の夏姫は走る事に集中しているようで、玲二君のことも貴人のことも、まるで眼中にない。
 真っ直ぐに進行方向に目を向けて、全力で、風を切って走る。
 その姿は本当に綺麗で力強くて、しなやかな生命力に満ち溢れていた。

(いつも夏姫を追いかけ回して、きゃあきゃあ騒いでる下級生の女の子たちの気持ちが、ちょっとわかるわ……)
 ドキドキするような姿に目も心も奪われたように、しばらくただじっと夏姫を見たあと、私は今度はサッカー部へと目を移した。

 夏姫とは対照的に、玲二君は柔軟体操の最中も、走りこみの順番待ちの間も、よくチラチラと夏姫を気にしていた。
 気をつけて注目して見ていなければ、気づかないくらいの一瞬の視線。
 どうりで今まで気がつかなかったわけだ。
 でも、そうと知ってしまった今となっては、玲二君が夏姫を気にする様子は、あまりにもわかりやすい。

(うん……これはもう誰が見てもそうだってわかるよね……でも最初に気がついた貴人はやっぱり凄いな……)
 貴人があんなふうに言わなければ、私たちは誰もまだ、玲二君が夏姫のことを好きだなんて気がつかなかったかもしれない。

(いったいいつから気がついてたんだろう? まさか『HEAVEN』を作る前から? そんなことはないよね……)
 玲二君と共にフィールドを走りまわっている貴人の姿を見ながら、頬杖をついて考えた。

(でもわかんないな……貴人ってなんだか、なんでもお見とおしなところがあるから……)
 そんなふうに思った、まさにその時、他ならぬ貴人がこっちをふり返った。
「琴美!」
 私がこんな所にいることさえも、まるで当たり前のように、満面の笑顔で大きく手を振る。
 つられてついつい手をふり返してから、運動場にいたかなりの人数の視線を、自分が一身に浴びていることに気がついた。

(ひええええっ!)
 顔の横でヒラヒラと振った右手を、このあとどうしたものかと私が途方にくれている間に、貴人はクルリとこちらに背を向けて、反対方向に向かって走り出した。
 ざわざわっと、運動場にいた人たちがざわめきに揺れ、人並みが一斉に貴人が走り出した方向に向かいだしたので、私も座っていた芝生から腰を上げた。

(何? どうしたの?)
 2、3歩、運動場に向かって歩き出したら、何が起こったのかは見えた。
 陸上部の女の子が、トラックの途中でうずくまっている。
 右足を庇うように腕で抱えこんでいるから、ひょっとしたら足をどうかしたのかもしれない。

(大丈夫かな……?)
 さらに2、3歩進んで、全身から血の気が引く思いがした。
 短く切りそろえられた癖のない短い髪。
 よく日に焼けたスラリと長い手足。
 女の子としてはかなり背が高い細身の体。

「夏姫!」
 気がつけば私は大声で叫びながら、制服姿のまま、場違いな運動場の中に向かって走り出していた。

 先に駆け出していた貴人の背中が見える。
 そのさらに先には、貴人よりも速いスピードで彼を追い越して行った大きな背中が見えた。

(えっ? 玲二君?)
「夏姫!」
 近くにいたはずの陸上部員たちよりも速く、玲二君はうずくまる夏姫の元に駆けつけた。
「夏姫! 夏姫! 大丈夫か?」
 大きな体のわりに小さな声の、普段の彼はいったいどこへ行ってしまったのか。
 うずくまる夏姫の前にしゃがみこんだ玲二君の声は、離れた所からもはっきりと聞き取れるくらいに大きかった。

「足どうした? 見せて!」
 何も言葉は返さないままで、俯いた頭をただ激しく横に振る夏姫を宥めるかのように、玲二君は何度もゆっくりとくり返す。

「とりあえず保健室に行こう。大丈夫か?」
「大丈夫じゃない! ……筋か腱を痛めたかもしれない!」
 ちょっとかすれた声で、いかにも悔しそうに小さく叫んだ夏姫の細い体を、玲二君は次の瞬間、両腕で軽々と抱え上げた。
 両膝から背中までがすっぽりと腕の中に収まってしまう、いわゆる『姫様だっこ』である。

「ち、ちょっと玲二……!」
 大慌てする夏姫と、ちょっと怯んだ周囲の人間のことなんてまるで気にせずに、大股でさっさと保健室に向かって歩きだす彼は、本当に玲二君なんだろうか。
 疑問に思わずにいられない。

(まさか諒みたいに、何かにとり憑かれてるってことはないわよね……? 本当に玲二君だよね?)
 自分の横をすり抜ける背中にも、なんとなく声をかけられないまま黙って見送る私に、背後から話しかけてくる人がいた。

「たいしたことないといいね」
 ふり返らなくても、それが誰だかはすぐにわかった。
 貴人だ。

 ゆっくりとふり返ってみて、案の定そこにあった顔が穏やかな笑顔だったから、私はホッと息をつく。
(貴人がこんなに落ち着いてるってことは、きっと夏姫の足はそんなに酷くないんだ……)
 勝手にそう結論づけて、少し安心した。

「私……あとでちょっと様子を見に行ってみる……」
「ああ……そうして。話しこんで遅くなるようだったら、帰りは俺がちゃんと家まで送るから……」
 ハッと驚いて、思わず、綺麗によく整った貴人の顔を凝視した。

 本気なのか冗談なのか見極めのつかない笑顔に動揺して、両手と顔をぶんぶんと勢いよく振りながら、ついつい後退りしてしまう。
「い、いいよ! まだ全然早いし! 体育館にはきっとまだ可憐さんも残ってるし!」
 同じ方向に帰る仲間はちゃんといるからと、訴えたつもりだったのに、効果はまるでなかった。

「たまには俺にだって……琴美の時間をちょっとくれない……?」
 少し悲しそうな顔で、他ならぬ貴人にそんなふうに言われれば、私じゃなくたってきっとドキドキするに違いない。
 その上――。
「実は頼みたいこともあるしね……」
 茶目っ気たっぷりに首を傾げながら、続いて今度は笑顔になられれば、尚更である。

「た、頼みたいことって何?」
 ドキドキと高鳴る胸を静まらせようと、必死に無駄な努力をしながら問いかけてみたら、貴人は私に向かってパチリと片目を瞑った。
「内緒だよ。まずは夏姫と話をしてみて……それが琴美への第一の指令!」

 冗談めかした笑顔のまま、キリッと敬礼のポーズをとった貴人につられ、思わず私もピシッと右手を自分の額の前にかざしてしまった。
「了解!」
 いつも『秘密行動』と称してみんなをビックリさせてくれる貴人の仕事を、ひょっとしたら手伝わせてもらえるのかと、とってもワクワクしていた。

 文化祭に向けてやらなければいけない事は山積みで、ほんの少し前までは心の中で悲鳴をあげていたはずなのに、そんな思いはすっかりどこかへ吹き飛んでしまっている。
 私って人間は、なんて現金なんだろう。
(だって……夏姫の容態は気になるし……玲二君の片思いは応援したいし……! その上これが貴人の頼みならば、まずは何よりも先にこの事に全力を尽くすのは当然でしょ?)

 保健室に向かって意気揚々と駆け出した私の姿は、確かに自分でも滑稽だったと思う。
「はははっ、気をつけて琴美! よろしく!」
 案の定、貴人は大笑いしながら私の背中にエールを送ってくれた。その声が、尚更私に元気を与えてくれた。
 
 
(思わず走って来ちゃったはいいけど……今、入っていいもの……?)
 第一校舎に連なる教務棟の一階にある保健室の扉の前まで来て、足を止めた私は少し迷っていた。
 玲二君が夏姫を運んで行ってからまだそんなに時間が経っていないし、夏姫より先に保健室を利用していた生徒がいたとしたら、先生の手当てだってまだかもしれない。
 そこにのこのこと入って行ったって、邪魔なだけだ。

 思い立ったらすぐに行動せずにはいられない自分の性分を少し恨めしく思いながら、掲示板に貼られた保健便りなんかを見るともなしに眺めていたら、いきなりガラッと保健室の扉が開いて、中から人が出て来た。
 玲二君だった。

「それじゃ……あとはよろしくお願いします。夏姫……しばらくしたら迎えに来るから、それから一緒に帰ろう……」
 入り口近くのパーテーションの向こうで絶句している夏姫の返事も待たず、保健室に背を向けると、玲二君は私がたった今やって来たばかりの道のりを、さっさと帰り始める。

「琴美。ありがとな。しばらく夏姫についててあげて……」
 呆然と立ち尽くしていた私にもちゃんと一声かけて、鮮やかに去って行く彼は――しつこいようだが――まるでいつもの彼らしくない。

 その証拠に、保健の先生に足に包帯を巻いてもらいながら座っている夏姫は、心なし頬を薄っすらと染めながらプウッと頬を膨らまし、まるで照れ隠しのように悪態をつく。
「なによ……! 一人で勝手に決めて、さっさと行っちゃうんだから……! 玲二のくせに!」

 最後の一言を別にすれば、これはもう玲二君は、夏姫が好きな人の条件の一つにあげていた「頼りになって」の部分まで楽々クリアしているんじゃないかと、私は心の中で大きく頷いた。
(それに夏姫のところに駆けつけた時のあの速さ! ひょっとしたら玲二君って……足だって相当速いんじゃない?)

 私の予想は大当たりだった。
 足の怪我は軽く捻っただけでたいしたことなかったと教えてくれた夏姫は、その報告の何倍も熱をこめて、玲二君の脚力について語った。

「当たり前よ! 玲二は中学までは陸上部だったんだから。なのに高校では陸上はやらないなんて宣言して……なのに何故かサッカー部には入部するんだもん……あのバカ!」
 言い方はかなり酷いものがあるが、玲二君の足の速さには夏姫も一目置いていることだけは確かだった。

「中学の頃からの知りあいなの?」
 確か二人の出身中学は違ったはずだがと首を捻る私に、夏姫は気をつけて見ていなければわからないくらい、ほんの僅かに頬を赤く染めた。
「大会とかでたびたび会うから、お互いに顔と名前ぐらいは知ってた……その程度よ……」

 建て前じみた説明のわりには、放っとくと時間が過ぎるのも忘れてしまうぐらい長々と、中学時代の玲二君の活躍について語ってしまっている自分を、夏姫は気がついていないんだろうか。
 なんだか私のほうがドキドキして、息が苦しくなってきた。

(どうしよう……これって、もしかしなくっても夏姫も玲二君のことが好きっぽいよね……?)
 誰かが誰かを好きだという気持ちが、双方からピタリと重なる確率なんてどんなに低いものなのか。
 実際にすれ違う気持ちを経験した私だからこそよくわかる。

(嬉しい! すっごく嬉しい! ……でもこれって、私の口から言っちゃっていいことじゃないよね? ……ううう……それが苦しい……)
 諒の言ったとおり『余計なお世話』にならないためには、気をつけなければならない。

「そっか……それにしても玲二君って、いざとなったら頼りになるんだね。私、見直しちゃったよ……」
 それでも少しでも、夏姫の中の彼の評価を上げておこうと、今日一番の驚きを素直に伝えてみた私に、夏姫はなんとも言えない不思議な表情を向けた。

「琴美……失恋の痛手から立ち直って新しい恋を! って思ってるんだったら、気の毒だから先に教えておくわ……玲二はやめたほうがいい……」
「ど、どうして……?」
 もちろんそんなつもりはさらさらないのだが、ひょっとして夏姫が自分の気持ちを口に出すのではないかと思って、私は心持ち、彼女に向かって身を乗り出した。

「なんで? なんで玲二君はやめたほうがいいの?」
 期待に胸を膨らませてドキドキと待ち受ける私に、恋心をうち明けるには少々困ったような顔で夏姫は告げた。

「琴美は全然、玲二の好きなタイプからはほど遠いから……ゴメン。私は琴美の思いこんだら一直線なところも、元気で前向きなところも大好きなんだけど、玲二のタイプは大人しくてお行儀のいいお嬢さまなんだよね……それでどうやらそんな子を、ずっと好きらしいんだ……」
「は…………?」

 あまりに予想外の話に、私の唯一の自慢の頭が、一瞬活動停止してしまった。
 しかしすぐに――。
「えええええええっ!?」
 保健の先生からギロリと睨まれるほどの叫びと共に復活した。

(だって待って! 玲二君が好きなのは夏姫だよ? ……本人からちゃんと聞いたんだからまちがいない! じゃあ何? 夏姫が『大人しくて行儀のいいお嬢さま』だっていうの?)
 ちょっと憐れむような困ったような顔で私を見ている夏姫を、私もしげしげと見返した。

 夏姫の言葉を反芻するわけではないが、夏姫だって『大人しくて行儀のいいお嬢さま』からはほど遠い。
『健康的で、笑顔が輝いてる女の子』っていうんなら話は別だが――。

「夏姫。私、別に玲二君のことを好きなわけじゃないから……」
 とりあえず誤解されないうちにと訂正しておくと、かすかに――ほんのかすかにホッとしたような表情がうかがえる。

(やっぱり……好きなんだろうな……)
 だったら夏姫は大きな思い違いをしていることになる。
 本当は両思いなのに、玲二君には他に好きな子がいると思いこんでしまっているのだ。

「それに、玲二君の好きなタイプ……それってちょっと違うと思うんだけど……」
 途端、今度はうって変わって激しい視線を向けられた。

「違わないわよ! もうずっと前に本人の口から聞いたんだから……それに、その条件にピッタリ当てはまる『玲二の好きな人』だって、私、ちゃんとわかってる……!」
 半ば開き直りぎみに語る夏姫には、取り付くしまがない。

(だって玲二君が好きなのは夏姫だよ?)
 思わず叫びたくなる気持ちをぐっとこらえながら、勤めて冷静なふうを装って、私は夏姫に尋ねた。

「誰? 玲二君の好きな人……」
 夏姫はためらうようなそぶりを見せたけれど、結局声をひそめて、私の耳元に口を寄せた。
「琴美だってよく知ってる子よ……誰にも言わないでよ? ……………美千瑠」
「ええええええっ!」

 力の限りに叫んで、また保健の先生に睨まれたので、私は夏姫の陰に身を潜めた。
 そのついでに、さっきまでよりもっと近い位置から夏姫の顔を見つめる。
「夏姫……それって違うと思うよ?」
「違わないわよ。まったく往生際が悪いなあ」
「いや……そんなことじゃなくってね……」

 思っていること、知っていることをはっきりと言えないというのは、なんてもどかしくて難しいんだろう。
 私は特にいつも心のままを率直に口に出しているものだから、きっと他の人にとっての何倍も難しい。

「うーん、なんて言ったらいいんだろ……とにかく違うのよ……!」
 なんの進展もしない私のセリフに、夏姫は呆れたように肩を竦めた。
「いつもくっきりはっきりものを言う琴美にしては、ずいぶん歯切れが悪いわね……? でも言っておくけどこっちだって、本当にまちがいないの!」

(ダメだ! これ以上はもうお互いに堂々巡りになるばっかりだ!)
 貴人に頼まれた第一の指令――夏姫と話をしてみる――は、とても上手くいったとは思えなかった。
 
 
 ところが、しばらくして夏姫を迎えに来た玲二君と前後するようにして私を迎えに来てくれた貴人は、私のしどろもどろの説明を聞くとひどく満足そうに頷いた。
「失敗なんてことはないよ、それでいいんだ。玲二がどんな女の子を好きだって夏姫が思っているのか……俺が知りたかったのはそこだからね……」
「そうなの?」
 単に私を慰める為だけとは思えない笑顔を、私はふり仰いだ。

「ああ。だから大丈夫。お勤めご苦労様、琴美。次は第二段階だ」
 楽しげに宣言されて、心からホッとした。
 貴人の役に立ちたいと思って行動を起こした私にとっては、それが達成されただけでもひと安心だ。
 たとえ肝心な玲二君の恋を成就させるって目的のほうは、なんだかややこしいことになってしまっていたとしても――。

(全部包み隠さず話せるなら簡単なことなのに……うーん……どうしたいいの?)
 『余計なお世話』にならないように、夏姫の気持ちも玲二君の気持ちも私の口から相手に告げてはならない。
 尚且つ、完璧に勘違いしてしまっている夏姫に玲二君の本当の気持ちを気付いてもらえる方法とは――。

 首を捻る私の脳裏に、ふいに繭香の怪しげな表情が思い出された。
(そうだ! 繭香が玲二君を占った時に出た言葉!『かん違い』って……あれって、こういうことだったんだ!)
 改めて繭香の占いの的中率に舌を巻いたはいいものの、だからと言って、事態は何ひとつ好転しない。

 いつの間にか私は、よほど難しい顔をして考えこんでしまっていたのだろう。
 それまで黙って隣を歩いていた貴人が、ふいに口を開いた。
「大丈夫だよ……俺にちゃんと考えがあるから」
「えっ?」
 何も口に出しては言っていなかったのに、例によって私の考えていることは全部顔に書いてあったんだと自覚した。

「今回は琴美っていう助っ人もいるし、いつもより更に上手くいくと思うよ……ね?」
 眩しいような笑顔で笑いかけられれば、それまでどんなに眉間に皺が寄ってたって、私だって笑顔にならずにはいられない。
 難しい問題に直面して挫けそうだった心だって、貴人といれば自然と前向きになる。

「うん」
 貴人の言葉だったらなんだって信じられる気がする単純な私は、彼が同じ方向を向いて隣を歩いてくれているだけで、きっと無敵だった。
 
 眩しいくらいの晴天に恵まれ……なんて言ったら、まるで運動会の常套句のようだが、実際に文化祭当日は、十月も終りだというのに汗ばむほどの陽気だった。

 初日に行なわれた校内中を駆け巡っての『HEAVEN』主催のトレジャーハントで、途中リタイア者が次々と出たのも無理はない。
 けれど見事一番乗りでお宝にたどり着いた男子生徒――確か三年三組の委員長は、滴る汗も、疲れきった体も厭わないほどに、涙を流して大喜びした。

「だあってさあ……お金も手間もかからないのに、みんなが喜んでくれる副賞っていったら……やっぱこれしかないだろ?」
 トレジャーハントの責任者だった順平君は、表彰式の間中、悪びれもせずにそう言っていたけれど、傍から見ている私は、優勝者の隣に立つ可憐さんがいつになく怒っている様子がひしひしと伝わってきて恐かった。

「後夜祭のダンスパーティーで誰でもパートナーに指名出来る権利なんて……いくらなんでも事前に許可ぐらいとってて欲しかったわ……!」
 あとからやんわりと順平君を諌めた可憐さんが、まさに精神的に大人だったからこそ、成立できた副賞だった。

「大丈夫だと思ったんだよ! 頭脳よりも体力勝負のトレジャーハントで優勝する奴なんて、男に決まってるだろ? そんな奴らが指名するのなんて、おおかた美千瑠か可憐だろうし……二人とも彼氏はうちの学校の奴じゃないんだから、後夜祭で踊るくらいなんの問題もないじゃん?」
 あまりにも堂々と満面の笑顔で言いきった順平君に、可憐さんはハアッとため息をつく。

「それはそうだけど……順平……あなたひょっとしてその論理で自分も彼女とは別の子をダンスに誘おうとしてるんじゃないでしょうね……?」
「そ、そんなこと! 彼女命の俺がするはずないじゃん! はははっ!」
 乾いた笑い声を聞いたその場の全員が、可憐さんの言うとおりに順平君が他校生だという彼女には内緒で後夜祭を楽しもうとしていることを悟った。

「おい順平!」
 妙に凄みのある声で、諒が順平君の肩をバシンと力任せに叩く。
「大丈夫、優勝者は男に決まってるなんて言ってたけどな……実際に準優勝者はうちのクラスの斎藤だっただろ! あいつが優勝してたらどうするつもりだったんだよ!」

 そうだった。
 運動部所属の並み居る男子達をさし置いて、まさに努力と根性で準優勝の座を勝ち取ったのは、なんと我が二年一組きっての才女――斎藤さんだった。
 彼女が諒のことを好きなのは、当の本人も含め、うちのクラスの人間だったら誰もが知っている事実である。

「どうって……踊ってやればいいじゃん? お前だって別に決まった相手はいないんだし……」
「だーーーっ! もうっ!」
 飄々とした笑顔で言ってのけながらも、順平君は諒の傍から飛び退いた。
 その判断はまちがってなかった。
「勝手な事言ってんじゃねえ!」

 怒りに任せてつかみかかろうとする諒から、ヒラリと身をかわして、さっさと順平君は表彰式の場から逃げ出す。
「待てこら! 順平!」
 言葉だけは勇ましいが、しょせん運動なんてものとは無縁の諒からだったら、何もしなくても軽々と逃げられるだろうに、順平君はわざわざこちらをふり返って私の名前を呼んだ。

「琴美! 諒を止めろ! 早くっ!」
「は? なんで私?」
 瞬間、順平君を追いかける諒のスピードが段違いに跳ね上がった。

「順平!! ぜったい許さん!」
「ぎゃはははは! ごめんごめん!」
 遠くなって行く二人の背中を唖然と見送りながら、私は首を傾げた。

「なんなのよ……? 全然意味がわからない……」
 智史君が銀縁の眼鏡を取りながら、腕に抱えたノートパソコンを逆の手に持ち替えて、ふわりと笑った。
「わからなくていいと思うよ」
「……そう?」

 なんだか納得いかない気分の私の首に、うららが両腕を回して抱きついてくる。
「琴美……眠い……」
「う、うん。そうだね……あと一時間くらいしたらうちのクラスの舞台発表なんだけど……それまでちょっと休んでよっか?」
「うん」
 もう今すぐにでも瞼が閉じてしまいそうなうららに、智史君が囁く。

「うらら……行くんだったらうちのクラスの喫茶店……」
「うんわかった……琴美……二年三組へ……」
 耳元で囁かれた不思議な響きのうららの声に促されるまま、私は普段は滅多に足を踏み入れない、自分のクラスの隣の隣の教室へと向かった。

 しかしそこに広がっていたのは、もはやここが学校だということさえ忘れてしまうほどのビックリ空間だった。
 
 
「な、な、なにこれっ!!」
 窓という窓に暗幕を貼って真っ暗にした教室には、どうやって浮かべているのかわからないキラキラと光る小さな物体が、そこかしこに輝いていた。

「いらっしゃいませお客様」
 暗闇の中で顔さえ見えないウェイトレスに手を引かれて、まるで飛行機のシートのような椅子に座らされると、おもむろに注文を取られる。
「ご注文は何になさいますか? コーヒー? 紅茶? 緑茶? それともお水?」

 まさかメニューはそれだけしかないのかと私が突っこみを入れる前に、首にぶら下がったままだったうららが、さっさと答えてしまった。
「水でいい……」
「かしこまりました」
「み、水って! まさかお水でもお金取るの?」
「ううん……ただ……」

 ならばいいかと一瞬納得しかけたが、私は慌ててそんな自分を追い払った。
「せっかく喫茶店に来たんだから、せめてコーヒーぐらいは飲もうよ!」
 顔が見えないうららに、首に巻きついた腕の感触を頼りに抗議したら、いつものように抑揚のない声が返ってきた。

「コーヒーと言っても缶コーヒーを温めてカップに移しただけ……飲みたい、琴美?」
「……いいです……」
 いったいどこが喫茶店なのかと文句を言ってやりたかったが我慢した。
 たしかここの監修は智史君だったはず――。
 滅多なことを口にしたらあとが恐い。

(待って……でもここって普通の喫茶店じゃなかったはず? 確か……ゲーム喫茶……?)
 首を傾げた瞬間にすぐ隣で声がした。

「お待たせいたしました。ただの水です」
「ひえっ!」
 ついつい変な声が出てしまったのは、何も見えない状況で急に話しかけられたから。
 そして誰かが近づいてきた気配なんて、まるで感じなかったから。

「あ、ありがとう……」
 見えないウェイトレスにお礼を言って、手探りで受け取った紙コップには蓋がしてあった。
 どうやらそこに挿してあるストローで水も飲むらしい。

(変なの……)
 口に出すわけにいかない感想を、心の中だけで呟いた瞬間、かけていた椅子がグググッとリクライニングした。
「きゃあっ!」
 驚いて悲鳴を上げただけですんだのは、コップに蓋がついていたから。
 もしそうでなかったら、頭から水を被っていただろう。

(ということは……コップの蓋にもそれなりに意味があるってこと?)
 私の人よりちょっとだけ回転のいい頭が、超高速で動き始める。

(智史君のことだから、きっと素人離れしたもの凄いコンピューターゲームでもプログラミングして、大量にパソコンを持ちこんで、それを売りにした喫茶店をやるんだとばかり思ってたんだけど……なんだか予想外……だいたいなんでこんなに真っ暗なんだろ?)
 きっと私達以外にもお客はいるはずだし、ウエィトレスだってまだ近くにいるはずなのに、まるで人の気配がない。

 不気味なほどの真っ暗で静かな空間に背筋が冷えて、思わず手探りでうららの体を抱き寄せた瞬間、頭にカポッとフルフェイスのヘルメットのようなものを被せられた。
「えっなに? なんなの!?」
 焦って脱ごうとしてもなかなか上手くいかない。
「ちょ……ちょっと! ねえうらら!」
 このクラスの所属であり、この展示についても理解しているはずのうららを慌てて呼んでみた。

「大丈夫、琴美……目を閉じてないで開いて……」
 この真っ暗闇の中で、どうして私が目を閉じていることがうららにはわかったんだろう。
 疑問は尽きなかったが、驚いてギュッと閉じていた目を、私は恐る恐る開いてみた。

 途端――目に飛びこんで来た信じられない光景に、最大級の悲鳴が喉から飛び出す。
「なにこれええええええ!!!」

 ほんのついさっきまで真っ暗だった目の前の空間に、ものすごい速さで小さな光が飛び交っている。
 私の鼻先を掠めるようにして飛んで行ったものをよく見てみたら、なんと戦闘機型の小さな飛行機だった。
 背後に見えるのは巨大な惑星。
 そう、まるで映画のワンシーンのように、私の目の前には広大な宇宙空間が広がり、その中を無数の宇宙船が、光の速さで飛び交っていた。

「嘘でしょ? ねえちょっと……こんなの嘘だよねえ?」
 あまりにリアルな映像と、どうやらこちらに攻撃を仕掛けてくるらしい無数の宇宙船に、半泣きになりながら問いかける。
 うららはちっとも焦っている様子のない声で、いつものように淡々と説明だけをしてくれた。

「琴美、ここを握って……これが操縦桿。このボタンが攻撃ボタン。がんばって……」
「がんばってって……! がんばってって……!」
 衝撃のあまり言葉さえ上手く出てこない。

 いったいこれは何なのだろう。
(これってひょっとして……うわさのVR? 普通のヘルメットを被ったようにしか思えなかったんだけど……まさか智史君が作ったのっ!?)
 拒否権も質問する時間も与えられないまま、私はこれまで経験したこともない戦いの中へと突っ込んでいった。
 
 
「琴美……下手過ぎ……すぐゲームオーバーになったら、ちっともあそこでゆっくりできない……」
(こっちは、はなっからゆっくりできなかったわよ!)
 叫び返したいのに疲れ過ぎてて声も出ない。

 私はうららと二人で、二年一組の教室の真ん中に置かれたベンチにぐったりと座りこんでいた。
「どうだった? 僕の作ったリアルなシューティングゲームは?」
 フラフラと三組の教室を出た途端、待ち構えていた智史君には取りあえず、「凄かった!」と伝えたけれど、本当にそれ以外にはなんとも表現のしようがない。

(確かに……日頃からゲームをやってる人たちは、感動して大喜びだろうけど……そうじゃない私に、いきなりあんな高度なものをやれと言われても……!)
 散々に負けて、うららにすら愚痴られるような結果だった。

(よかった……うらら以外には知られなくて……)
 もしも諒や柏木なんかが、私の出したワースト得点を知ったらどうなるだろう。
 きっと鬼の首でも取ったように大喜びして、意気揚々と言いふらすに決まってる。
 そうしておいて、自分はもっと高得点を上げるんだ。

(くやしいっ! でももう本当に、あれ以上は上達するとも思えないっ!)
 あまりにもリアルな映像と動きに、ちょっと乗り物酔いにも似た症状に悩まされながら、フラフラと辿り着いた二年一組に誰も人がいなくて良かった。

『二学期の期末試験の山掛け予想』なんて、およそうちのクラス以外には興味さえ湧かないような展示を選んでくれていて良かったと、今だけは心の底からクラスメート達に感謝した。

「とにかく……少し休むわ……このままじゃうちのクラスの舞台発表にだって影響する……」
「うん……ごゆっくり……」
 しかしちょっとやそっとの休憩じゃ、心身ともに疲れ切った疲労感は抜けきれなかった。
 
 
「納得いかない !こんなのぜんっぜん嬉しくないっ!!」
 約一時間後。
 二年一組の舞台発表である『星誠学園初代クイズ王決定戦』の表彰式では、諒が苦虫を噛み潰したような顔で、優勝席に座っていた。

「貴人が出場していなくて、お前も体調不良の状態で勝ったって、なんにも嬉しくないんだよっ!!」
 頼むから隣で、そんなに大声で叫ばないで欲しい。
「そんなこと言ったって……貴人はこの時間どうしても展示のほうを外せないって言うし……私にだって具合の悪い時もあるのよ……」

 ぶつぶつと口の中で言い訳する私に、諒はただでさえ大きな瞳をカッと見開いた。
「午前中は元気だっただろ! 大喜びしながら五組のミュージカルを見てたじゃないか!」
「だって……」
 問題はそのあと連れて行かれた三組の『ゲーム喫茶』にあるとは言えなくて、黙りこむしかない。

 まだ目がぐるぐると回っているような状態で、それでも準優勝の座は保持したんだから、本当は褒めて欲しいくらいだ。
 寝る間も惜しんで勉強に励んでいたという噂の柏木は、三位の席で見る影もなく落ちこんでいる。

(お気の毒……)
 ちょっと申し訳ないような気持ちで舞台を降りた私は、そこに待ち構えていた智史君に天使の笑顔で告げられた事実に、気分の悪さも吹き飛ぶような思いだった。

「ごめんね琴美、無理させちゃって……どうぞゆっくり休んで……おかげで大勝ちさせてもらったぶんは、きっと後々違った形で琴美にも還元するから……」
「…………はい?」
 なんだか思いがけない言葉を聞いた気がする。

 訝しげに問い返した私を真っ直ぐに見つめて、智史君は眼鏡の奥でガラス玉みたいに綺麗な瞳を、意味深に輝かせた。
「本命の貴人と琴美の組み合わせをあえて外して、諒に勝負をかけてた人間はそう多くはなかったってこと……特に柏木を大穴だなんて言ってた連中はがっくりきてるだろうな……くくっ」
「智史……君……?」

 このクイズ大会が裏で賭けの対象にされていたことに、ハッと気がついた私の口の前に、智史君は右手の人差し指をすっとかざした。
「心配無用。元締めは教師だから……だから琴美はなんにも知らなかった顔をしてればいい……」

「そ、そんなこと言われたって!」
 考えていることがそのまま顔に書いてあるというので有名な私を、智史君は忘れてしまっているのだろうか。
「大丈夫。琴美は何も聞かなかった。しっかりと心に言い聞かせておけば、きっと平気だよ。案外これがポーカーフェイスの練習にもなるかもしれないよ?」

 口元には優しげな微笑を浮かべながら、その実、眼鏡の向こうの瞳はちっとも笑っていない智史君の笑顔は、いつもとは全然違っていて、背筋がゾクッとするほどに冴え冴えとした美しさだった。
 もし私のせいで秘密が漏洩したならば、その時はどうなるか――考えるだけで恐ろしい。

「わ、わかった! 努力してみる!」
「うん」
 腹黒な裏の顔を持つ『白姫』は、文化祭初日も元気に健在だった。
「琴美ぃー早くしなさーい……! お友達、もう二十分も待ってくれてるのよー?」
 階下から聞こえて来る呑気な母の声に、私は自分の部屋の扉越し、猛然と叫び返した。

「お友達なんかじゃないわよっ!!」
「えっ? ……何? …そのものズバリ言ったら悪いかと思って、せっかくごまかしてあげたのに……じゃあ彼氏って言ってもよかったのー?」
「か、彼氏なわけないでしょ! ありえないこと言わないで!」
 これ以上余計な事を言われたらたまらないので、大急ぎで旅行バックに詰めこんだ荷物をひきずって、階段を駆け下りる。

「じゃあなに……? なんて呼んだらいいのよ……」
 年甲斐もなく口を尖らせて不満を述べる母の横をすり抜けながら、急いで玄関の扉を開け、顔だけほんのちょっとふり返った。

「…………単なるクラスメート……いや……生徒会関係の知りあい?……」
「ええーっ? なにそれ、ひっどーい!」
 何が酷いんだか、大声で叫ぶ母の声を隠す為に、急いで後ろ手に扉を閉める。

 出来るだけ早急な対応をしたつもりだったのに、案の定、家の前で私を待っていた諒はこの上なく嫌な顔をしていた。
「いったいいつまで待たせるつもりなんだ! これじゃ早く家を出て来た意味がないだろ!」

 かなり怒ってはいるが、どうやら母とのとんでもない会話は聞かれずに済んだようだ。
 よかったと胸を撫で下ろしかけた瞬間、諒はクルリと私に背を向けて、盛大に毒づいた。
「しかも『単なるクラスメート』……『生徒会関係の知りあい』って……! 他に言いようはないのかよ!」
「………………!」
 私だってちょっとどうかとは思ったのだが、他に思い浮かばなかったのだから仕方ない。

 これが玲二君や剛毅たちだったら『生徒会の仲間』とすんなり答えていただろう。
 しかしどうやら私は、諒に『仲間』という言葉を使うことがしっくりこないらしい。

(別に『仲間』だと思ってないわけじゃないわよ……でもなんか……なんか違う……)
 スッキリしない気持ちの理由が自分でもよくわからなくて、思わず本人に問いかけてしまう。

「ねえ……だったらこういう時なんて言ったらいいの? ……あんたって私の何?」
 諒はただでさえ大きな瞳をカッと見開き、一瞬私の顔を凝視したかと思うと、次の瞬間には顔を背け、あからさまにハアッと嘆息した。

「知るか! …………自分で考えろ!」
 突き放すようなセリフと、実際私に背を向けて、私から取り上げた大きな旅行バックを自転車の後ろに載せ、さっさとこぎ出す背中に慌てる。

「ちょ、ちょっと! 待ってよ!」
 急いで自分も自転車のペダルに足を掛けながら、あっという間に小さくなって行く諒の自転車を必死で追いかけた。

「諒! 諒ってば! 待ってよもう!」
 気持ちほど早くは自転車がこげなくて、猛烈なスピードで疾走する諒になかなか追いつけない。
「待てーーっ!!」
 昨日の疲れが抜けきらないままに迎えた文化祭二日目の朝だった。


『衣装を運ばなきゃならないから、劇の当日は誰かが琴美を家まで迎えに行かないとな……』
 衣装係になっていた私に気を遣って、そう言い出してくれたのは玲二君だった。
 男子の中でどういう話しあいがなされて、諒が来ることになったのかはよくわからないが、家が一番近かったからという理由なのだろう。
 多分。
 きっと。

 前日の夜まで細々とした手直しを加えた衣装がぎっしりと入ったバッグを、私はひきずるようにしか持てなかったというのに、自転車から降りた諒は軽く背中に担いで歩くからビックリする。
 女顔な上に華奢で小柄で、てっきり非力だとばかり思っていたのに、どうやら力だけは平均的男子並みにあったようだ。

(やっぱり迎えに来てもらってよかった……)
 例え、外で待たせていたのと同じくらいの時間たっぷり嫌味を言われたとしても、そう思わずにはいられなかった。

「だいたいなんで……とっくに出来上がってた衣装を直前に直すんだよ……!」
 いまだにブツブツと言いながら歩く背中を、小走りで追いかけて返事する。
「ちょっと変更点が出てきたのよ……いいじゃない……貴人がそうしたほうがいいんじゃないかって言うんだから……」
「なるほど貴人か……」
 さも納得が言ったかのように呟かれて、なんだかムッとした。

「なによ」
「…………別に」
 諒の歩く速度が上がる。

「お前さ……今日の後夜祭……」
 しばらく黙々と歩き続けたあと、急にこちらをふり返って意を決したかのように口を開かれるから、必要以上に動揺する。
 ――いつもよりちょっと近過ぎる諒との距離に。
 いつもどおりの可愛い顔に。

「な、なによ……!」
 自分でも酷い対応だとは思ったが、諒もやっぱりムッと眉根を寄せてもう一度前に向き直った。
「……別に……きっと学校一の倍率だろうけど、ま、せいぜいがんばれよ……」
「…………は?」
 一瞬呆けた直後に気がついた。
 きっと後夜祭でのダンスのことを言われたのだ。

 それも『学校一の倍率』なんて言葉を持ち出して来たからには、おそらく諒の頭の中では、私が踊りたいと希望している相手は貴人だろう。
 そうに違いない。

(貴人と踊りたいなんて……! 私、別にそんなこと一言も言ってないわよ……?)
 正直に自分の心をふり返ってみれば、そんな気持ちがないことはない気もするが、なぜだか無性に腹が立つ。

 キッと諒の背中を睨みつけた私の顔は、きっと諒以上に不機嫌だったはずだ。
「…………あんたに言われたくないわよ」
 怒鳴り返すわけではなく、静かな怒りを込めて返した言葉にも、諒は何も答えなかった。
「…………バカ!」
 いつもだったら絶対にむきになって飛びかかって来る悪口にも、全然反応しなかった。
 そのことがかえって私の怒りを増幅させた。


「ねえ琴美……本当にこんなふうにしたほうがいいって、貴人が言ったの……?」
 まあるく膨らんだ袖のドレスに腕を通しながら、夏姫が何度目か私に念を押す。

「う、うん……確かにそう言ったんだよ……?」
 あまりにもしつこく確認されるせいで、自分でもだんだん自信がなくなってくる。

 夏姫の真っ直ぐな視線を正面から受け止めることに耐えきれず、あちらこちらと目を泳がせ始めた私に、繭香が助け船を出してくれた。
「まちがいない。私も確認済みだ。今さら四の五の言わないで覚悟を決めろ、夏姫……らしくないぞ?」
「うん。そうだね」
 
 めいっぱい上から目線の繭香の口調にも、夏姫は腹を立てたりはしない。
 かえってキュッと唇を真一文字に引き結んで、潔くドレスの中に頭を突っこんだ。
 すぐに私たちの目の前に現われたのは、かなり個性的なドレスに身を包んだお姫様。

「ねえ……おかしくない?」
 珍しく弱気になる夏姫の気持ちもわからなくはない。
 けれど、なにしろ『貴人が決めたこと』なのだからと、私たちはみんなで全力をあげて太鼓判を押す。
 きっとこれでいいはず。
 たぶん……。

「大丈夫。大丈夫!」
「うん。良く似あってるよ夏姫!」
 上半身はいかにもお姫様らしい夏姫のドレスは、下は超ミニスカート仕様となっていた。
 腿の中央辺りで終わったスカートからスラリと伸びる細くて長い足が眩しい。

(確かに夏姫の足は綺麗だもの……そこを思い切って出しちゃおうっていう案はまちがってはいないと思う……)
 私は貴人の決断を勝手にそんなふうに解釈していたけれど、実際の狙い目はそんなことではなかったんだとしみじみと思い知ることになったのは、まだちょっとあとになってからだった。


 ちょっとふう変わりな『白雪姫』の舞台。
 ふてぶてしいくらいに落ち着いていて、殺そうとしたってとても死にそうにはない夏姫の『白雪姫』は今日も健在だったけれど、練習とは変わっているところもあった。
 
 それは、先日部活中に足を痛めた夏姫が、練習の時ほどは強烈なキックをくり出せなくなっていたこと。
 おかげで散々「頼りにならない」と言われていた七人の小人たちは、ようやく姫を守って戦うというシーンを演じることができた。

「ようやく……! ようやく俺たちの存在意義が発揮されたよ!」
 剛毅扮する猟師を初めて自分たちの手で撃退して、順平君はとても嬉しそうだ。
「くそっ! 足が本調子だったら負けやしないのに!」
 悔しがる夏姫を、
「まあまあ……そんなに良い所全部一人で持っていく必要ないじゃん?」
 とアドリブで慰めて、観客から歓声を貰っている。

 夏姫が足を痛めているということを観客にもわかってもらうという意味で、短いスカートは実に役に立っていた。
 最後まで長いスカートの裾さばきに戸惑っていた夏姫を、ほんの少し気楽にしてあげるという意味でも――。

(本当に貴人はなんでもお見通し……凄いな……!)
 私の感嘆の思いは、物語がクライマックスにさしかかり、ついに夏姫の姫が玲二君の王子に出会った時、さらに大きくなった。

 体育館の舞台の上。
 目の前には大勢の観客。
 ともすれば真っ赤になってしまって、セリフを言うことすらおぼつかないんじゃないかと心配していた玲二君だったが、今日の彼はまったくそんなものは眼中になかった。

 ただひたすら、足を痛めている夏姫に負担がかからないようにと、そのことだけに集中しているのが、傍目にもよくわかる。

 もともとが大きな体のわりに細かい気配りのできる人だから、怪我をしている女の子相手に抜かりはない。
 しかも相手は彼がずっと想いを寄せている夏姫なのだ。
 歩く夏姫に差し出される手の何気なさ。
 かけられる言葉の優しさ。
 そっと支えるように腰に回される腕まで、まるで自然だった。
 なんの演技もそこにはなかった。
 ありのままで――きっと玲二君は夏姫にとっては完璧な王子様だった。

 かなりの数の女の子たちが、ぽうっと舞台の上の玲二君を見つめていたのも頷ける。
 夏姫が心なし頬を赤く染めて、いつもよりしおらしい顔を見せていたのも無理はない。

(なんか……一緒に舞台に上がっててよかった……じゃなきゃ私まで気の迷いを起こしそう……)
 スポットライトの中の二人をすぐ近くで見ていても、熱に浮かされたような気分になる。

「ねえ……やっぱりあんなふうにお姫様扱いしてもらえるのっていいよね……」
 憧れを込めて、美千瑠ちゃんか可憐さんに言ったつもりだったのに、その時私の隣にいたのは諒だった。
「…………そうかよ」
「ぎゃっ!!」

 思わず飛び上がってしまって、左右から「しーっ!!」と小声でたしなめられる。
 物語は丁度佳境にさしかかったところ。
 玲二君と夏姫のいいシーン中だった。

「べべべ、別にあんたに言ったんじゃないわよ……!」
「わかってるよ、そんなこと…………バーカ」
 本来はムッとくるところなのに、思わずマジマジと諒の顔を見てしまった。

「なんだよ?」
 諒にとっても私の反応が予想外だったらしく、真顔で聞き返される。
「な、なんでもない。ほら……舞台に集中!」
「お前が言うな」
 私が慌てて目を逸らすのと同時に、諒も前を見てくれてよかったと思った。
 そうでなければついついにやけてしまう顔を見られて、いよいよ訝しがられたに違いない。

(なーによ……朝はあんなに怒ってたくせに、もう忘れちゃってんじゃない……!)
 諒がそんな奴だからこそ、自分がこんなにホッとしたなんてことはこの際どこかに置いておく。
(まったく自分勝手で、おこちゃまなんだから……!)
 そのまますっかり自分に当てはまりそうな表現も、あえて気にしない。

 心のどこかに引っかかっていた嫌な気持ちもすっかり晴れて、目の前でくり広げられる赤面もののクライマックスシーンを、私はたっぷりと心置きなく観賞した。
「きゃあああ!! 古賀せんぱーい! すっごくかっこ良かったですー!!」
 舞台のあと。
 衣装のまま控え室になってる体育準備室までの道のりを急いでいた夏姫は、あっという間に下級生の女の子たちにとり囲まれた。

 夏姫に女の子ばかりで編成された親衛隊があることは知っていたが、実際に目にしたのは初めてで、その勢いにも人数にも、私は軽く引く。

「ありがとう。みんな見てくれてありがとうね」
 爽やかこの上ない笑顔で女の子たちを見回す夏姫は慣れたもので、なんだか本物のスターのようだ。

「足! 足はもう大丈夫ですか?」
 ファンに問いかけられれば、「うん大丈夫だよ」と笑顔で応える様子も堂に入っている。
 思わず私までポッと頬染めてその光景に見入ってしまったが、それではいけなかったのだと、ハッとした。

「本当は、長い間立ってるのもあまり良くないんだ……本人がどうしてもって言うから劇には出てもらったけど……相当無理してるだろうから、出番が終わったらすぐに休ませてあげて」
 そっと耳打ちされた貴人からの指令を思い出す。

「あ、あの……みんな……そろそろ……」
 おずおずと夏姫の退場を主張しようとしてみるが、飛び交う黄色い声にかき消されて、誰も私の言葉なんか耳に届いていない。
「ちょっとっ……聞いて……!」
 大声には自信があったつもりだったが、平均的女子高生以下の身長しかない私じゃ、ここにいること自体、ひょっとしたら大方の子が気づいていないのかもしれない。

 笑顔ではあるが明らかに疲れた様子の夏姫が気になって、女の子の山をかき分けて私が前に進み始めた時、はるか頭の上から穏やかな声がした。
「ごめん。夏姫も疲れただろうから、ちょっと休ませてあげてくれないかな……?」
 いつもと同じ声なのに、ついさっきまで舞台の上にいたものだから、こんな場所でも玲二君の声はよく響いて、みんなの耳にもしっかりと届く。

「みんな後夜祭まで夏姫と一緒に楽しみたいだろ? だったら……ね?」
 自然と人垣が割れて、玲二君の前に進むべき道ができた。
 その道は夏姫の所まで真っ直ぐに続いていて、彼はあっという間に夏姫の真正面にたどり着く。

 玲二君が向かい合って立つと、夏姫は即座にプンと顔を背けた。
「余計なお世話よ!」
 そんな反応なんてまるで気にした様子もなく、玲二君はちょっと身を屈めて、すぐに夏姫を両腕に抱え上げる。
「ちょっと! 玲二!」
 夏姫が足を痛めたあの時と同じように、お姫様抱っこのまま、玲二君はその場から退場し始めた。

 抗議の声一つ上げずに二人を見送っている親衛隊の子たちの目が告げている。
「うん! あの人にだったら古賀先輩を託してもいい……!」と――。
(……やっぱり夏姫が羨ましい……いいなあ……)
 感動にも似た憧れを感じながら、私も遠くなって行く二人の姿を、黙ったまま見送った。
 
 
「中学を卒業する直前に足を痛めて、自分は陸上はできなくなったけど、夏姫にはずっと続けて欲しいから……なんて! そんなこと、これまで一言だって言わなかったくせに!」
 外はすっかり暗くなったというのに、明かりが燦々と輝く体育館。
 片隅に置かれたパイプ椅子に腰掛けながら、夏姫はぷうっと頬を膨らませた。

 視線の先を辿れば、劇で使った王子の扮装そのままに、あちらこちらと走り回っている玲二君の姿が見える。
「まあ、だけど……今回はそれを実際に行動で示したわけだろ? 普段は口下手だけど、いざとなったら譲れないところは頑として譲らない……ずい分男気のある奴だったんだと、私は感心したぞ……?」
 珍しく、絶賛と言ってもいいくらい彼のひととなりを褒める繭香と、まだ膨れっ面の夏姫に挟まれて、私は座っている。

 時刻は夕方。
 もうすぐ全校生徒お待ちかねのダンスタイムが始まるため、みんなパートナー探しに余念がないというのに、救護席と銘打った席に私が座っているのは、けっしてダンスの相手がいないからではない。

「せっかくだけど今日は見学だけにしておきなさい」と保健の先生からドクターストップがかかった繭香と夏姫に、付き添っているのだ。
 ちなみに、可憐さんはトレジャーハントの副賞として早々に連れ去られ、美千瑠ちゃんは体育館の反対側で黒山の人だかりを築いている。

(絶対に、誰も私を誘いに来てくれないからじゃないわよ!)
 自分でも虚しくなるような叫びは、心の中だけに止めておいた。

「あれだけ想われていれば言うことないじゃないか……まったく羨ましい限りだ……」
 口調はともかく、珍しく女の子らしい発想の繭香に、夏姫は大慌てで手を振る。
「ち、違うわよ! 玲二が好きなのは私みたいなんじゃないんだから!」
「夏姫……」
 前から散々思っていたことを、この際私もハッキリと口に出すことにした。
 そもそも奥歯に物が挟まったような言い方なんて、私にこれ以上続けられるものではない。

「あのね、それってきっと違うと思うよ……なんか『かん違い』だと思う……ねえ、いったいどんな状況でそう聞いたの?」
 『かん違い』の部分を強調しながら話すと、繭香が満足げに唇の両端を吊り上げて、同意するように頷いてくれる。

「えーっ……だって……」
 夏姫は軽く眉間に皺を寄せながら、人差し指を額に当てた。
 しばらくしてから、どこか遠い所を見るように目を眇めながら、一言一言やけにきっぱりと言い切ることには――。

「中学の時。市の記録会で競技場に行った時、ろくに顔も知らない他校生に呼び出されて、『好き』だの『つきあってくれ』だの言われたから、腹が立って私の理想のタイプをまくし立てた。そしたら、偶然そこに玲二が通りかかって……口から出まかせを聞かれたのが恥ずかしくって、『勝手に聞いたんだから、あんたのタイプも教えなさいよ!』って詰め寄ったら、答えてくれた。それが『大人しくって行儀のいいお嬢さま』……どう? これってまちがいないでしょ?」
 自信満々な夏姫には悪いが、私は軽く眩暈を感じた。

「いや……それって、きっと嘘だわ……」
「嘘おっ? なんで?」
 あきらかに、夏姫と同じように口から出まかせでしょうとか。
 夏姫が自分と全然違うタイプを並べたから、玲二君だって意地になったんでしょうとか。

(答えを言っちゃうのは簡単だけど……これって私が言ってしまっていいのかなあ……? だって『玲二君ってその頃からすでに夏姫を好きだったんじゃない?』なんて言ってるようなものじゃない……?)
 この期に及んで思案する私の目の前で、夏姫がその時、何の前触れも無くいきなりすっくと立ち上がった。

「玲二……!」
 思わず漏れた小さな悲鳴に、夏姫の視線の先をたどってみれば、何人かの女の子にとり囲まれた玲二君の姿が見える。
 頬を赤く染めた女の子たちの様子と、あきらかにとまどった玲二君の表情を見れば、このあとのダンスに誘われているらしいことは一目瞭然だった。

(ま、まさかOKしたりはしないわよね……?)
 玲二君が女の子たちに答えを返すよりも先に、ギョッとして見守る私の視界の隅で、夏姫が動き出した。
 体育館の出口に向かって、痛い足をちょっと引きながら駆け出す。

「ちょ……ちょっと! 今、走ったりしたらダメだよ。夏姫!」
 私が叫ぶのよりも、あまり早くはない足であとを追うのよりも、玲二君が私たちの所に走って来るほうが速かった。
 ずっとずっと速かった。

 夏姫がスピードを上げる前に、あっという間に腕をつかんで引き止めて、これ以上逃げられないように両腕に抱え上げてしまう。
 あまりにも軽々と。
「下ろせ! 下ろせっ!! 玲二のバカ!」
「うん。俺はバカでもいいけど……今は走ったらダメだよ夏姫。絶対に走らないって誓うんだったら下ろす。でも誓えないんなら下ろさない。ずっと下ろさない」
「なっ! バカッ!」
「うん……バカでも構わない……」

 体育館にいるかなりの人間が、二人の動向を固唾を飲んで見守っていた。
 もちろん、自分たちのことで一生懸命な人たちもいるにはいるが、まるで今日の『HEAVEN』の舞台を再現するかのような夏姫と玲二君のやりとりに、みんなが大注目している。

「……しんないっ……」
「……ん?」
「走んないわよ! だから下ろして、バカ玲二!」
「うん。わかった」
 真っ赤になった夏姫を玲二君が体育館の床に下ろした瞬間、体育館の床を揺るがすような地響きが起こった。

「うおおおおっ!」という大歓声が、体育館のあちこちから沸き起こったのだ。
 中には大喝采を送っている人たちもいる。 
 さっき玲二君を囲んでいた女の子たちだって、ちょっと羨ましそうにではあるが、夏姫と玲二君に向かってパチパチと手を叩き始めた。

「……え? ……え? なに……?」
 まるでこの状態にたった今気がついたかのように、玲二君はキョトンと目を瞬かせている。
 いや。
 ひょっとすると本当に、今初めて自分たちがこんなに大注目されていたことに気がついたのかもしれない。
 その証拠に、さっきまでの男らしい彼はどこへやら、真っ赤になってオロオロしてしまっている。

「なんだか、いつもの玲二君に戻った……?」
 私の呟きには、繭香がしっかりと答えを返す。
「どうやらそのようだな……今の今まで多分夏姫のことしか見えてなかったぞ……だとしたら相当のものだ……!」
 どこか笑みを含んだ物言いに、私は繭香のほうに視線を向けて一緒に笑った。
「すごいね! 本当に羨ましいや、夏姫!」
「…………だな」
 繭香も大きな瞳を和ませて微笑み返してくれた。

 その瞬間、私たちの背後でこの上なく魅惑的な声が響いた。
「何が羨ましいの?」
 ドキリと心臓が跳ねる。
 それはきっと繭香だって同じだろう。
 ふり返る前から、その人が誰なのかはわかる。
 わかりすぎるほどにわかる。

 ふり返って見て見れば、私と繭香のパイプ椅子のうしろには、やっぱりいつの間にか貴人が立っていた。
「夏姫と玲二君! ……いいなあって、そう思ったの……!」
 心に思ったままを素直に言葉にすれば、貴人も私に負けないくらいの笑顔を返してくれる。

「お望みとあれば、いつだって俺が琴美にもお姫様扱いくらいはできるよ?」
「馬鹿者! 好きな相手にやってもらうからいいんじゃないか! ……そんなもの……勝手に大安売りするな!」
 繭香の叱責にも、貴人の笑顔は崩れない。
「……俺じゃダメなの? 琴美……?」

 どうしようもないくらい焦った。
 花が綻ぶような貴人の笑顔は、まちがいなく本物の笑顔だ。
 なんでこんな顔で、私にこういう質問ができるんだろう。
(それはやっぱり……冗談だから……だよね?)
 そう思えば胸が痛む私も、確かにどこかにいる。
 だからと言って繭香の手前、『ううん。貴人でいい』なんてことは、口が裂けても言えない。

(どうしよう……なんて答えよう……?)
 本気で困る私の頭上に、バサッと黒い布のような物がかけられた。
「これ持ってろ! あとで取りに来るから絶対に死守しろよ!」
 視界を奪われた私の耳に聞こえてきたのは諒の声。
 それもかなり切羽詰って焦ったものだった。

 頭に被せられた物を取って見てみれば、諒が今日朝からずっと身に付けていたマント。
 確か、昨日行なわれた我が二年一組の舞台発表で、見事『星誠学園初代クイズ王』に輝いた諒が、副賞に貰ったもの――これを持っていれば学食一ヶ月無料の権利付き――だった。

「ちょ、ちょっと諒! なんなのよ! これ……! どうすんの?」
 体育館の入り口から走り出て行こうとしている諒を追いかけているのは、我がクラスの一部の女子と、大勢の男子だ。
「待ってぇ勝浦君! そうじゃないの! そうじゃないのよ! 私たちはただ……ダンスを!!」
 斎藤さんをはじめとする女の子たちの悲痛な叫びを聞けば、彼女たちのお目当てはこのマントではなく諒本人なのは一目同然だし。

「待てよ諒! なぁ……ちょっとくらいいいだろ!」
 カラカラと笑いながら諒の名前を呼ぶ男子たちは、きっとこのマントを諒から奪うことが目的なのだろう。

 私は焦って、彼らの目に付かないようにマントをグルグルと畳んだ。
「自分とマント。二手にわかれて逃げるという作戦だな。なかなかいい手だが……遅い……もう気づいている奴がすでにいる……!」
 繭香のどこか愉快そうな声にふり返って見てみれば、私の現在の天敵とも言える奴とバチリと目があった。

「か、柏木っ!」
 一歩ずつこちらに近付いて来る気配を感じて、急いで椅子から立ち上がり踵を返す。
「なんで? なんで私が?」
 脱兎の如く私が逃げ出した背後では、貴人が大声で笑い出した声が聞こえた。
 そのいつも通りの大笑いにちょっとだけホッとした。

 結局、貴人の問いに答えを返さなくて済んだ。
 私の本心は、うやむやになったことになる。

(これって諒のおかげだ……おかげで貴人とも繭香とも気まずくならずに済んだ……でも……さすがにこれはないんじゃない?)
 鬼気迫る表情で追って来る柏木の姿を見て、思わず悲鳴を上げる。

「きゃああああ!!」
 華やかなダンスの音楽が流れ始めた体育館をあとにして、私は諒のマントをつかんだまま、真っ暗になった校舎に駆け戻った。
 
 
「だいたいなんで私がこんな目にあわなきゃならないのよ……! そりゃあ一緒に踊りましょうなんて約束してた相手がいなかったのは不幸中の幸いだったけど……ひょっとしたらなかなか言い出せない人だっていたかもしれないし……あそこに一人でいたら、本命と踊り終わった人が声をかけてくれたかもしれないじゃない……?」
 考えれば考えるだけなんだか虚しくなって来ることを、小さな声でブツブツと呟く。

「それに……繭香が先に踊ったあとだったら、私だってなんにも考えずに貴人の手を取れたんだから……!」
 一度は諒の行動によって、窮地から救われたと感謝した。
 だけどよくよく考えてみれば、私が貴人と踊れる僅かな可能性まで、これでなくなった事になるのだ。
 そのことに思い当って、だんだん腹が立ってきた。

「しかもあのバカ! どこまで逃げたのよ……私はいったいいつまでこんな所に隠れてなきゃならないの……?」
 真っ暗闇の中でひとり座りこんでいると、やっぱりだんだん恐くなってくる。

 二年一組の廊下の奥の扉から出た非常階段。
 私のいつもの隠れ場所は、体育館からそう遠くはなかったが、すぐに戻れるほど近くもなかった。
 楽しそうな笑い声と軽快な音楽だけはしっかりと聞こえてくるから、余計に惨めな気持ちになる。

「諒のバカ……!」
 不安のあまり滲む視界をごまかすために、膝頭に瞼を押しつけた時、背後でギイッと扉の開く音がした。

「なんだよ……やっぱりここか……」
 疲れ切ったような諒の声に、思いっきり文句を言ってやろうとふり返ったけれどできなかった。
 他の人では気がつかないかもしれないこの場所を、ちゃんと探しに来てくれたことが、不覚にも嬉しかった。
 しかも――。

「まったくワンパターンな奴だな……よく見つからなかったもんだ……」
 口調の割にかなり優しい顔で、小さく笑いながら見下ろされるからドキリとする。
 月の光を背に受けながら汗ばんだ前髪をかきあげている諒は、いつも以上に可愛かった。

「なんだよ……?」
 訝しげに尋ねられるから、慌ててそっぽを向く。
「別に……! 誰かさんのせいで、ダンスパーティーに参加できなかったなぁって、悲しくなってただけ……!」
 途端、諒の声が険しくなった。

「悪かったな」
 (ああ、またやってしまった!)と内心ため息をつく。
 私がわざわざ突っかかるような言い方をしなければ、諒だってこんなに態度を硬化させたりしないんだろうに、もうどうしようもない。

 いいかげんわかっているのだが、止められない。
 長年染み付いた悪意のこもった口の聞き方は、最近は諒の事を見直しつつあるからといって、そう簡単に改められるものではない。
 返事をしたらまた悪態になってしまいそうだったので、私はもう黙り込むことにした。
 膝を抱えたまま再び諒に背中を向けると、体育館から軽快な音楽が聞こえてくる。

「おい……」
 諒が呼びかけてくるけれど返事しない。
(もう、放っておいてよ……半分八つ当たりだってことは自分でもわかってるんだから……)
 ふてくされ気味に心の中でだけ考えていたって、相手に伝わるものではない。
 ましてや諒は、根本のところで私を誤解している。

「悪かったって言ってるだろ……なんだよ……そんなに貴人と踊りたかったのかよ……」
「………………!!」
 もう言い返さないでおこうと思っていたのに、やっぱりふり向いてしまった。

「別に『貴人と』とも、『踊りたい』とも言ってないでしょ! ただ私は、みんなが楽しそうにしてる様子を見ていたいの! ちょっと夏姫のことは羨ましかったけど……あんなふうに誰かを想って、その人からも想われることができたら、きっと幸せなんだろうなあって……そう思ったけど……!」
 これ以上ないほど強い口調で反論しながら、自分で気がついた。

 想ったり、想われたり。
 その方向と比重が上手くいかなかった苦しい恋をやっぱり私はひきずっている。
 もう平気だっていつもは思っているけれど、やっぱり心のどこかにひっかかっている。

 あの体育館のどこかで、きっと手を取りあってる渉と佳世ちゃんの姿を、目にする前にここに逃げて来れたのは、今考えるとラッキーだったのかもしれない。

 目に涙まで浮かべて熱く語った私に、諒は何も言葉を返さなかった。
 キッと睨むような視線で、いつまでも真っ直ぐに私の顔を見下ろしていた。
 そして不意に、黒いマントを抱きかかえていた私の腕を掴む。

「じゃあ帰るぞ……」
 思いがけないほどの力でひっぱりり上げられるからビックリする。
「あの場所にいたいんだったら、そうすればいい。俺はダンスなんて絶対しないし、お前と想いあってるなんてことも絶対ないけど、体育館の隅っこで高見の見物するのにはつきあってやるよ……貴人が女の子に囲まれてる所とか、他にも見たくない奴なんかがいたら、その時はちゃんとお前に喧嘩を売ってやるし……いつもの勢いで俺に文句言ってたら、いろんなこと気にしてる暇もないだろ……?」

 あっという間に立ち上がらされて、諒に手を引かれて歩かされながら、思いがけない提案をされる。
 目の前を歩く塗れたような黒髪を、私は驚愕の思いで見つめた。
「な、なんで……?」

 あとに続く「あんたがそんなことしてくれるのよ?」という棘だらけの言葉は飲みこんで正解だったと思う。
 諒はちょっとふり返って、まるで小悪魔のように魅惑的に瞳を輝かせた。

「決まってるだろ。俺がお前の『単なるクラスメート』で『生徒会関係の知りあい』だからだよ」
 絶句した私の顔を見て、ひどく満足そうに笑った顔から目が離せなかった。

 いつの間にか握っていた私の手を、ギュッと強く掴んで、
「行くぞ」
 と駆け出す諒にそのままついて行く自分が、自分でも意外なくらい自然だった。
 
「痛ッ……痛たたッ! ……お前なあ……もうちょっと気を遣って、優しくは出来ないのかよ?」
 怒りに頬を紅潮させて、諒がふり返りざまに私を睨み上げる。

 間近で煌く大きな黒い瞳に内心ドキリとしながらも、私は彼が痛いと言っている背中を、敢えてバチンと力いっぱい叩いた。
「うるさい! なんで私が優しくしなきゃならないの? ……手が届かないって言うから、仕方なく背中に湿布貼ってあげてるだけなのに……!」

「誰のせいで俺が、背中なんて変な所が筋肉痛になったと思ってるんだよ!」
「自分でしょ? 普通にダンス踊ればよかったのに、相手の女の子たちから常に逃げ腰になってたから、背中なんて妙な所が痛くなるんじゃない……!」
 ああ言えばこう言うの言葉の応酬は、いつまでも終りそうにはない。

 放課後の『HEAVEN』。
 珍しく諒と二人きりで、部屋の空気はこの上なく険悪なムードになった。
 諒はハアッと大きなため息をついて、首まで捲り上げていたTシャツを下ろす。
 目の前にあった裸の背中が見えなくなって、実は私は内心ホッとした。

「もういい……! いくら待っても誰も来ないからって、お前に頼んだ俺がバカだった……あとはもう次に来る奴に頼む……!」
「ああそうですか!」
 座っていた椅子から立ち上がった諒が、「痛っ」と小さくうめいてバランスを崩しながらも、私から離れようとする。
「大丈夫?」と本当は手を伸ばして助けたかったのに、それは出来なかった。
 どうにも強情で意地っ張りな自分が、自分で嫌になる。

 諒が遠くの席にギクシャクと腰を下ろした途端――。
「あーあ……やっぱり琴美と諒じゃ、そっからいいムードになったりはしないか……」
 ガラッと突然扉が開くと同時に、さっさと部屋に入って来る順平君の姿に、私は唖然とする。

「だから言ったじゃない……このまま二人きりにしてたって喧嘩になるだけだって……」
 順平君の後ろからは可憐さん。
 それから剛毅と美千瑠ちゃんも現われた。

「だいたい……ちょっとダンス踊っただけで筋肉痛って……どんだけ運動不足なんだよ、諒?」
「うるせっ! いいからこれ! 貼ってくれ!」
 すぐさま歩み寄って来た剛毅に、諒は投げつけるようにして湿布の入った袋を渡している。
 そうしておいてからあからさまに、私の方をチラッと睨んだ。
「勝浦君と踊りたい人は列を作って並んでくださーい。はい順番にーって、誰かさんに大安売りされたんだから仕方ないだろ?」

 クワッと目を見開いて、すかさず私も睨み返してやった。
「あの場はああするしかなかったでしょ? ただでさえクラスで居場所のない私が、これ以上敵を増やして、どうしろって言うのよ!」
「あーあ……とうとう開き直ったよ……どうよ剛毅?」
「うんうん。気の毒にな諒……」
 剛毅がよしよしと諒の頭を撫でてあげている仕草はともかく、そこからふり返って私に顔をしかめてみせる諒の態度が、なんとも腹立たしかった。
 
 
 後夜祭のダンスパーティーに諒と共に駆け戻った私は、途中で黒マントを隠していくことにぬかりはなかった。
 しかし敵はマントを狙う男子ばかりではなかったのだ。
 そのことを私も、そしてきっと諒も、すっかり失念していた。

 体育館に戻った途端、それまでしっかりと握り締めていた諒の手を私は慌てて放した。
 当たり前だ。
 入り口付近で斎藤さんを中心とする我が二年一組の女子が、大人数で私たちを待ち構えていた。

「か、勝浦君っ? 近藤さんと一緒だったの??」
 黙っていれば大人しくて品行方正なお嬢様にしか見えない斎藤さんは、諒のこととなると人相が変わる。
 それはもう般若のように――。

(まさか手を繋いでいるところは見られてないわよね……?)
 内心冷や汗をかきながら、私は諒を背中に庇うようにして女の子の群れに一歩近付いた。
「一緒なわけないじゃない! 偶然そこで会ったのよね、勝浦君……?」
 諒は大きな大きなため息をついて、上目遣いに私を睨むとそっぽを向いてしまった。

「そう……? でもさっきは勝浦君、『俺は絶対にダンスなんかしないんだから、後夜祭が終わるまでは体育館に近付かない!』って言ってたのに……?」
 なんだか納得のいかない様子の斎藤さんは、舐めるように私たちの様子を観察している。
 私は頭を抱えたい気分だった。
 すぐに諒を睨む。
(だったらなんで『体育館に帰るぞ』なんて私を引っ張って来るのよ!)

 もちろんそれは、「みんなと同じ所にいたかったのに!」と八つ当たりし始めた私をなだめる為だったのだが、あの時感じた感謝の気持ちなんて、そんなものはもう微塵も無い。
(ここはしばらく、体育館に近付かないべきだったんじゃないの……!)
 あきらかに、もうこちらを見る気もない諒の横顔を軽く睨みつけた。

(どうする……? 今さら、『やっぱりさようなら』って背を向けるには、さすがにもう無理があるわよ?)
 あてにならない諒のことは放っておいて、一人で考える。
 私の人よりほんのちょっとだけ回転のいい私の頭が、超高速で動き始めた。

(これ以上斎藤さんたちの機嫌を損ねるわけにはいかないわ……それでいて私も恨みを買わない方法っていったら……やっぱりここは、もうあれしかないわよね?)
 少しだけ――ほんの少しだけ諒に悪いなと思って表情を盗み見たのに、あからさまに嫌な顔されるからムッとする。

(別にいいんじゃない? 私だって諒の黒マントのせいで大迷惑を被ったんだから!)
 心を鬼にして、私は斎藤さんに向き直った。

「勝浦君、気が変わったって言うから、私がここまでつれてきたの……今からちゃんと後夜祭に参加するから、勝浦君と踊りたい人は列を作って並んでくださーい!」
 ニッコリ笑って手を上げたら、女の子たちの目の色が変わった。

「お、おい……?」
 すかさず逃げようとする気配を感じたので、背後の諒の腕を掴む。
 それはもう、絶対に逃がすもんかという強さで――。

「私が先よ!」
「いいえ私が!」
 互いに押し退けあおうとする女子の一団に、私はニッコリと営業スマイルを浮かべて宣言する。
「大丈夫。ちゃんとみんなと踊るから、順番に並んでねー」
 かくして体育館の一画に、美千瑠ちゃん、貴人に続き、諒とのダンスの順番を待つ長い列が築かれたのだった。
 
 
「でもさ……あんな簡単なフォークダンス踊っただけでそうなっちゃうんじゃ、諒って来月の『交流会』大丈夫なわけ……?」
 剛毅に湿布を貼ってもらって、ようやく机に突っ伏して一息ついた諒を見ながら、順平君が問いかける。

「何が?」
 顔だけこちらに向けた諒に、順平君は呆れたように肩を竦めた。
「何がって……ダンスに決まってるじゃん」
「またダンス!!」
 呪いでもかけられたかのように、諒は机の上にガックリと顔を伏せた。

「それも今度はフォークダンスなんかじゃないわよ。ちゃんとした本格的なダンス! 男子も女子も正装よ」
 語尾にハートマークが付きそうな声音でニッコリと言い切った可憐さんに、諒はキッと険しい視線を向けた。
「交流会の責任者は可憐だったよな……なんでダンスなんだよ? 去年は球技大会だっただろ……」

「何をやるかは、その年ごとに変わっても全く問題ないよ。今年は可憐も向こうの実行委員長も社交ダンスをやってるから、必然的に『ダンス』になったのかな……?」
 思いがけず返事が帰って来た方向に顔を向けてみれば、貴人が繭香と共に部屋に入って来たところだった。

「ええ、そう。この間話し合いに行ったらすっかり意気投合しちゃって……宝泉学園の体育館ってうちよりもっと広いのよ。舞踏会の会場みたいにあそこを飾り付けて、ドレスを着たら、女の子はみんなお姫様気分になれるかな……なんて……」
 うっとりと目を潤ませる可憐さんに、「いいねいいね」と順平君が相槌を打つ。

「楽しそうだね」
 ニッコリ笑った貴人に、諒が苦々しげに手を上げた。
「待て、貴人。女子がドレスってことは……男は何着るんだよ?」
 それには可憐さんが瞳を輝かせて即答した。
「もちろんダンスコスチュームよ! って言いたいところだけど……今回は社交ダンスと言うよりは、舞踏会の気分を楽しみたいから、男子もそんな服装を予定してるの……この間の文化祭の時の玲二を思い出してくれればいいわ」

「うえっ」
 諒は本気で頭を抱えた。
「勘弁してくれよ。あんな格好、俺、絶対にやりたくない!」
「俺だって喜んでやってたわけじゃないよ……!」
 ちょうど部屋に入って来たことろだった玲二君は、ムッと諒を見下ろした。
「今回はみんながあんな格好だっていうんなら、俺はちょっと嬉しいかな……みんな苦しめばいい……」

(玲二君?)
 いつも人のいい彼の顔が、一瞬この上なく悪そうに見えたのは気のせいだろうか。
「とにかく今さら諒が一人でどうこう言おうと、交流会の内容は変更されない。今度は筋肉痛になんかならないように、せいぜい今から鍛えておくんだな」
 繭香の鶴の一声で、諒の不満は文字どおり一蹴されてしまった。
 
 
 交流会について、相手の高校との話し合いで決まったことを可憐さんが報告する間、貴人は胸ポケットから出した何枚かの紙片を熱心に確認していた。
(あ! あれって全校生徒の『希望書』!)
 行事ごとに、その中からいくつかの希望を貴人が実現していくことはわかっていたので、なんだかドキドキした。

(今度はいったいどんな願い事なんだろ……?)
 けれど貴人が今回選んだ一枚は、なかなか一筋縄ではいきそうにない内容だった。

「うん決めた。今回はこれを実現しよう」
 貴人が差し出した紙片を、私は受け取って一番にのぞきこんだ。

『一日でいいから、黒姫と白姫に恋人になってもらう!』

『もしあなたが生徒会長になったら、どんなことをしてみたいですか』という問いに対する答えとしては、ずい分個人的な欲望だなと、ちょっと呆れる。
 でも貴人に言わせれば、こういう内容のものはかなり多いのだそうだ。

「誰々さんとつきあいたいとか……誰々さんを恋人にするとか……それはもう驚くほどにたくさんあるよ。生徒会長って言っても、何でも思い通りになるわけではないのにね……現に俺はてんでダメだ……!」
 この上なく魅力的に笑われて、ドキリと心臓が跳ねる。
 思わず(何がてんでダメなの……?)と問いかけそうになる自分を必死にこらえて、私は貴人に違うことを尋ねた。

「黒姫って諒でしょ……? 白姫は智史君よね……交流会の日に二人に、その誰かの一日恋人をやってもらうってこと?」
「ああ」
 笑顔で頷いた貴人の背中に、同時に二つの声がかかった。

「俺は嫌だぞ!」
「僕は別にいいよ」

 その内容といい、声音といい、表情といい、全く正反対な二人には思わず笑みが零れる。
 きっと諒は嫌がるだろうが、二人セットにして並べていると絶対飽きないだろう。

(確かに……希望書の主の気持ちもわからなくはない……)
 うんうんと頷く私に、諒はチラッと怒った視線を向け、口を尖らせた。
「そもそも『舞踏会』なんてふざけたもの……俺は絶対に参加しないからな!」

「諒ちゃん!『HEAVEN』のみんなはもちろん全員参加よ!」
 可憐さんの悲鳴に、繭香が黒めがちな大きな瞳をついっと諒に向けた。
「我が儘を言うな、馬鹿者!」
 ぐっとそれ以上の言葉を飲み込んだ諒は、再び机に突っ伏した。

「うらら?」
 ふいに智史君の戸惑った声が聞こえて来て、私はそちらに視線を向ける。
 いつもの定位置。
 私とは反対の窓際に座った智史君の肩の上で、うららは早速夢の世界に旅立っていたはずだった。
 なのに突然すっくと立ち上がって、部屋の中央にいる貴人に歩み寄る。

「貴人……」
 耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな声は、いつもより強く貴人に語りかける。
「その希望書の願いは叶えられない」
「どうして?」
 貴人が片方の眉を上げて、優しい調子でうららの顔をのぞきこんだ。

 薄い色の前髪の向こうに見え隠れするやっぱり薄い色の瞳が、じっと貴人を見つめる。
「文化祭の時みたいに、大勢の人間が大勢の人間を相手にっていうのなら構わない……でも……智史がたった一人の誰かの恋人にって言うんなら、私は了承出来ない……」
「うらら……」
 智史君のうららを呼ぶ声は、困ったようにも聞こえたが、と同時にひどく嬉しそうにも聞こえた。

「私は誰にも……例え一日でも……智史は譲れない……!」
 聞いているこちらの方が思わず赤面してしまいそうな、いつもはあまり感情を吐露しないうららの、それはあまりにもきっぱりとした意志表明だった。
 
「なんかね……困ったなって思いよりも、うらやましいなって思いのほうが、先に心に浮かんじゃった……」
 放課後の帰り道。
 並んで歩きながら可憐さんはそう言って、それはそれは綺麗に笑った。

 空を仰ぎながら彼女が語った言葉は、きっとさっきのうららの行動に対する感想だと思ったので、素直に「私も」と同意する。

『智史は譲れない!』と言い切ったうららに、あの後、貴人は何も反論しなかった。
 にっこり笑って「わかった」と頷いて、それでもう、その話は終りになってしまった。
 自分の隣に帰って来たうららの頭をそっと引き寄せた智史君が、この上なく幸せそうな顔をしていたのが忘れられない。

(希望書に関してはちょっと困ったことになったけど、きっと貴人がいい方法を考えてくれるはず……! それにしても……あんなに大好きな相手がいて、それをあんなに堂々と言い切ってしまえるうららが……やっぱりうらやましい……)
「いいな……うらら……」
 思わず口をついて出てしまったら、可憐さんにクスリと笑われた。

「琴美ちゃんはこれからよ。これから先、いつそんな相手が現われるかもわからないし……本当はもう、すぐ近くにいるのに気がついていないだけかもしれないし……私はダメだ……もうきっとダメだな……」
「えっ? ……可憐さん?」
 途中、私に関してなんとなく引っかかる表現もあったが、私が思わず問い質してしまったのは、やっぱり可憐さん自身に関する言い回しのほうだった。

「どうして? だって……」
 大人っぽくて綺麗な可憐さんには年上の恋人がいるんだと、それぐらいは、いくら他人の情報に疎い私だって知っている。
 話の中でよく彼とのデートの話題が出て来るし、車でお迎えに来てもらっている様子を、時々遠目に見ることもある。

 実際に会ったことはないけれど、かなり長い交際で、ずっと仲良くしている恋人なんだとばかり思っていた。
 だから、まるで上手くいってないような言い方をされて、ひどく意外だった。
 可憐さん自身も、思わず言ってしまってから自分でもまずかったと思ったのだろう。
 慌てて私に向かって手を振ってみせる。

「ごめんなさい。変なこと言っちゃって……忘れて忘れて……!」
 急に歩く速度を上げて毅然と前を向く横顔は、いつものようにうっとりするほど綺麗だ。
 以前よりはだいぶ化粧っけがなくなっているが、やっぱり私なんかとは比べものにもならないほど、白い肌もつやつやの唇も長い睫毛も綺麗。
 でも形よく整えられた眉が、ほんの少し困ったように寄せられている気がした。

「可憐さん……」
 先に立って歩き出した彼女を、慌てて追いかけることはせず、私はただ呼びかける。
 私の声に足を止めた彼女が、それでもふり返ろうとはしないので、もう一度呼んでみる。
「可憐さん」
 
 一呼吸置いた後、彼女は肩を竦めて私をふり返った。
 長い巻き髪がフワリと揺れて、ちょっぴり俯いた白い顔の表情を隠す。
「まいったな……琴美ちゃんってば、容赦ない……」

 可憐さんが震える両手で顔を覆ってしゃがみこんだ途端、私は走り出していた。
 彼女と私の間のほんの僅かの距離を、全力疾走していた。


「別に上手くいってないわけじゃないの……でもここのところお互いに忙しくて、すれ違いが続いてる……そんな感じかな……」
 近くの公園のベンチに並んで座ったら、可憐さんはそんなふうに口火を切って、艶やかに笑った。

 だけどなぜだか私には、その笑顔が彼女の精一杯の無理なんだと、すぐにわかってしまう。
「可憐さん」
 諭すように、問い質すように名前を呼ぶと、彼女は大きな目をギュッと瞑って、観念したかのように空を仰いだ。

「もう! ……どうして騙されてくれないのよ……」
 拗ねたような口調がなんだか可愛かった。
 いつも自分よりかなり年上のように思えていた可憐さんが、年相応の高校生に見えて、私は小さく笑う。

「だって私は可憐さんの信奉者の男の子たちじゃないもの……ああ無理してるんだなってわかっちゃう……そして心配になっちゃう……友だちだから……」
 可憐さんは顔は空に向けたまま、視線だけを私に向けて笑った。
『信奉者じゃない』なんて宣言しながらも、それはやっぱり私だって魅了されてしまいそうな、本当に綺麗な笑顔だった。

「ありがとう……」
 顔ごと私に向き直った可憐さんは、最近恋人との間に違和感を覚えるようになったことを手短に話してくれる。
「どこがどうっていうような、決定的な何かがあったわけじゃないの……たぶんきっと些細なこと……そうね……例えば私が以前より学校が楽しくなって、彼との時間以外にも楽しい時間を見つけた……そんな小さな変化の積み重ねが原因なんだと思う……」

 そんなふうに自分で自分を分析できてしまう可憐さんは、やっぱり私よりずいぶん大人のような気がする。
 だって私は、渉との仲が決定的にダメになるまで、まるで気がつきもしなかったのだから――。

「うん。本当にそうかもしれない……楽しくなっちゃったのよね……こんなふうに彼以外の人と過ごす時間が……」
 自分の気持ちをしっかり見定めたことで、可憐さんの声に少し強さが戻る。
 それを嬉しく思いながら、私は呟いた。
「うん。わかる気がする」

 私だって、渉にフラレてもう行く意味なんてないと思っていた学校が、こんなに楽しくなるなんて、あの時は思いもしなかった。
 貴人に誘われて『HEAVEN』の仲間になって、みんなと知り合うまでは予想もしていなかった。

 いろんな出会いは人を変えていく。
 それは良い方向だったり、悪い方向にだったり。
 でも 『HEAVEN』の仲間たちとの出会いに関して言えば、それは私にとっては良いことに違いない。

(可憐さんにとっても、きっとそうなんじゃないのかな……?)
「いろんなことが変わっていったって……それはそれでいいんじゃないかな……?」
 恋愛に関するアドバイスなんて私にできるはずない。
 一番苦手で縁遠いと思っていたことを、気がつけば頭を捻りながら私は始めていた。
 懸命に言葉を紡ぎだしていた。

「お互いにどんな変化があったって、それで二人の関係が少しずつ変わっていったって、お互いのことを大事に思えるんならそれは本物だと思うよ……私はまだ見つけていない本物。可憐さんはきっと……それをもう持ってると思うよ……?」
「そうかしら……」
 自信なさげだった可憐さんの瞳に、私の言葉でちょっと光が宿り始める。
 安堵という名の光。
 その表情を見ているだけで、私自身が勇気づけられたし、大きな力をもらう気がした。

「うん。そうだよ。大丈夫」
「うん。ありがと……」
 顔を見合わせて笑いながら、私たちはベンチから立ち上がった。
 お互いの家がある方向に向かって、同時に一歩を踏み出す。
 と、その途端――。

「なにやってんだよ……日が暮れるぞ?」
 背後からよく聞き慣れた声が聞こえた。
 ふり返って見てみれば、自転車のペダルに片足をかけた諒が、私と可憐さんと自分の三人分の荷物を荷台に積んで、すこし離れた所で私たちを待っている。

「今日は用事があるから先に帰れ」と言った諒に、そういえば私たちは「後で追いかけて来てくれればいいから」と荷物を押しつけてきたのだった。
「間に合わなかったらいけないと思って急いで来てみれば……こんなところで引っかかってるし……!」
 大きなため息をつきながら自転車を押して歩き始めた諒に、私と可憐さんは慌てて駆け寄った。

「別にいいじゃないのよ。こうして一緒になったんだから……!」
 強気で言い返す私には、諒は嫌な顔をしてみせるくせに、諒は可憐さん相手だとまるで態度が違う。
「ごめんなさい諒ちゃん……でもちょうど良かったでしょ?」
 そんなふうに笑いかけられれば、「まあな」なんてまんざらでもない笑顔を返す。

 そのあまりの対応の違いにムッとすると同時に、私はあることを思い出した。
(そういえば諒って……可憐さんに対してだけは、妙に態度が優しいのよね……)
 前々からひょっとしてなんて思っていた疑問が、むくむくと頭をもたげる。
(やっぱり好きなんじゃないのかな……? 可憐さんのこと……)
 そう思った途端、ドキリと心臓が跳ねた。

(…………?)
 自分で自分の反応に、僅かに首を捻る。
 並んで歩きながら何事かを話している諒と可憐さんの姿をふり返れば、もう一度胸に湧き上るちょっと鋭い痛み。
 これはいったい何なんだろうと考えて、私はすぐにハッとひらめいた。

(そうか! 可憐さんには恋人がいる以上、諒が例え彼女のことを好きだとしても、最初っから失恋確定なんだわ……!)
 いくらいつも喧嘩ばかりしているいけ好かない相手でも、やっぱり気の毒にと思う。『失恋』は私にとっても一時期、世界が終わったかのような一大事だったのだから。

(手が届かないってわかってたって、好きになっちゃうことはあるもんね……可愛そうに……!)
 憐憫の情を込めて見つめていたら、諒にこの上なく嫌な顔をされた。

「何考えてるんだ、おい? ……有り得ない表情してるぞ、お前……」
 ここは仲間として、失恋確定のあかつきには一緒に辛い気持ちを分かちあおうとまで決心していたのに、あまりの言い草にカチンときた。
 私はムッとして諒を睨みつけた。
「失礼ね! たとえこの先悲しいことがあったって……あんただけは慰めてやらないわよ!」

「なんだよそれ! わけわかんねえ!」
 すぐに怒りに頬を染めて言い返す諒。
 いつもだったらここで、「まあまあ」と可憐さんの仲介が入るところだ。
 そうでなければこれまでだって、私と諒の喧嘩の回数は軽く二桁を越えていただろう。
 それなのに今日はそれがない。
 別にわかってて待ってるわけではないのだが,可憐さんの「待った」がいつまでたってもかからない。

 諒もそう思ったのだろう。
 今にもこちらに投げ返そうとしていた私の鞄からひとまず手を放して、可憐さんをふり返った。
 諒と並んで歩いていたはずの可憐さんは、いつの間にか私たちよりずっと後ろのほうにとり残されていた。

「可憐さん?」
「どうした可憐?」
 一触即発の状態だった喧嘩をひとまず保留にして、私たちは二人とも彼女に呼びかけた。

 大きな瞳を驚いたように見開いていた可憐さんは、何度か目を瞬かせて、ハッとしたかのように私たちを見た。
「ごめんなさい。なんでもないわ」
 しかしその白い顔は、遠目でもはっきりと分かるくらいに青ざめている。

 さっきまで彼女が見ていた方向には、白い車が信号で停まっていた。
 重心の低そうな流線型のフォルムにはなんだか見覚えがある。
「あれ? あれって……?」
 可憐さんを迎えに来る彼氏さんの車に似ているななんて思った瞬間、助手席に女の人が乗っていることに気がついてドキリとした。
 長い髪の女の人。

(で、でも同じ車なだけかもしれないし!)
 懸命に否定しようとする私の悪あがきは、他でもない可憐さんが車とは反対の方向に向かって走りだしたことで、結局全部無駄になった。

「可憐さん!」
 慌てて追いかけだした私を、自転車から降りた諒が追い越していく。
「可憐!」
 シャツを翻してあんなに夢中になって、そんなに好きだったのかとか。
 だったら自転車に乗って追いかければいいのに、らしくもなくかなり動揺してるなとか。

 冷静に考える頭とは裏腹に、私の心音はドンドンと鳴り響く。
 呼吸するのも苦しいくらい、ギュウッと胸が痛む。
(なんだ……諒のことは言えないな……私だってかなり運動不足だ……これからは適度な運動を心がけよう……)

 泣いたり怒ったり笑ったり。
 誰の前だって躊躇することなく、いつも激しい感情を表に出している自分がどんどん冷静になっていく異常事態に、私はまだ全然気がついていない。
 友だちの一大事だというのに、感情が高ぶるどころかどんどん冴えていっているということがどういうことなのか。
 全然わかっていない。

 ひょっとしたら彼氏が他の女の人と会っているところを目撃してしまったかもしれなくて、傷ついている可憐さんを早く捕まえなくちゃならないのに、本音を言えば、私はもうこちらの方向には走りたくなかった。
 夏姫の所に駆け寄るためなら、昔痛めた足だって全く無視でいつだって全力疾走だった玲二君のように、運動の苦手な諒が懸命に走っている姿を――

――ダメだ。これ以上見たくない。

「可憐! 待てってば!」
 私だって大好きな可憐さんを、必死に呼び止めようとする声を、これ以上聞いていたくない。

 そんな自分の感情にビックリして、私は駆ける足を止めた。
(やだ……これじゃ私がまるで諒のことを好きみたいじゃない……)
 そう思った瞬間に、ポロリと涙が零れた。
 思いがけず、本当に思いがけず泣いている自分に愕然とする。
(なによこれ……!)
 
 口を開けば喧嘩ばかりで、いつだって意地悪で、なのに私が困った時には、必ず助けてくれる諒。
 泣きたい時にはちゃんとそれをわかってくれて、誰の目からも隠してくれる諒。
 私が生意気な口を利かなければ、本当は私にだって優しくしてくれることはわかってる。
 あの可愛い笑顔を、私にだって向けてもらえると知っている。
 だけど――。

(全然素直になれなくて……! 顔を見れば、思わず嫌な言い方ばかりしちゃって……!)
 考えれば考えるほど、かなり重症な自分をまざまざと自覚する。
 人よりちょっと回転のいい私の頭が、自分の今の状況は、恋している以外のなんでもないと、全然納得のいかない結論を導き出した。

 なのに当の諒は可憐さんを追いかけて、もう背中が見えなくなるのだ。
(なんなのよこれ! …………自覚した瞬間にもう失恋?)
 全ての答えが出た途端に、嘆きとも怒りともいえる感情がドッと湧いた。
 止まっていた私の足が、再びのろのろと走り出す。

(冗談じゃないわよ! なんで私が諒相手に失恋しなくちゃならないのよ……?)
 長年慣れ親しんだ負けん気が、複雑に絡み合った感情の中で、その他の全てを凌駕した。
(冗談じゃないわ! 冗談じゃない!)
 呪文のようにくり返しながら、自分が再び可憐さんを追って走りだすことができて、私はホッと安堵した。

 どうしようもない恋なんかしているよりも、友だちのことで一生懸命になれる自分でいるほうがいい。
 ずっとずっといい。

(望みがあるっていうんならともかく……私と諒の場合は、それは絶対にないもの!)
 諒が私のことを好きになるなんて絶対に有り得ない。
 中学の頃からずっといがみあってきた相手なのだ。
 今さら恋愛対象として見てくれと思うほうがおかしい。
 きっと「バカか、お前?」といつものように呆れられるだろう。

(だからもういいから! 今はとにかく可憐さんよ! 可憐さん!)
 難し過ぎる問題から目を背けて、自分があきらかに現実逃避したことを無視して、私は懸命に駆けた。

 息があがるくらいに走っていれば、きっともう余計なことを考えている時間もないだろうなんて。
 賢さだけが自分の取り柄だと思っているわりには、あまりにもわかりやすい私のダメダメっぷりだった。
「おい! おい! 可憐!」
 三つ角を曲がった先で諒に捕まった可憐さんは、私が駆けつけた時には道路の端にしゃがみこんで、こちらに背中を向けていた。

「諒ちゃんは来ないで!」
 すぐ近くに立つ諒のことは拒絶しておいて、
「琴美ちゃん……!」
 私を呼ぶから、私と諒は無言で顔を見合わせて、入れ替わろうと移動する。

 すれ違う際、小さな小さな声で「頼んだぞ」と諒に囁かれた。
 やっぱりチクリと胸は痛んだけれど、私はしっかりと頷いて、可憐さんの隣に彼女と同じようにしゃがみこんだ。

「どうしたの……? 大丈夫?」
 言い終わらないうちに、ワッと泣き出した可憐さんに抱きつかれる。
 ふわりと香るいい匂い。
 華奢な背中を宥めるようにトントンと叩いて、嗚咽まじりの声に耳を傾ける。

「もう……ダメかもしんない……本当に、ダメかも……!」
 自信なさげな掠れた声が、半年前の自分の気持ちと重なってしまって、私まで涙が浮かんできそうだった。
 何か言って慰めてあげたくて。
 でも詳しい事情もわからないのに、「大丈夫だよ」なんて無責任なことはとても言えなくて。
 私はただ、彼女の背中を撫で続けた。
 激しい嗚咽が次第に小さくなって、可憐さんが落ちついて事情を説明してくれるようになるまで、ずっとずっと撫で続けた。
 
 
「最初に気がついたのは香水の香り。彼の車に乗った時、私とは違う香水が香ったから、あれっ? って思ったの……でもなんて聞いたらいいのかわからないし……どんな答えが帰ってくるのかも恐いし……聞けないまま……疑ったままだから、態度もなんだかぎこちなくなっちゃって……それで、なんだかおかしくなっちゃったのかもね……」
 結局さっきの公園まで戻って、もう一度ベンチに並んで座って、私は可憐さんから話を聞いた。

 もうそこにあるはずないのに、チラチラと道路のほうばかり見ている可憐さんが、どんなに彼氏の車を気にしているのかよくわかる。
 話し声が聞こえないくらい遠い所で、私たちが動きだすのを待っている諒が、いくらそっぽを向いてたって、本当はこちらに集中していることも。

 もどかしいような、やりきれないような気持ちを感じながら、私は私に言える最大限の言葉を口にする。
「とにかく……まだ何も本当のことはわからないんだから、まずは確かめてみるしかないんじゃない? ……彼氏さんとちゃんと話をしてみて、それから……」
 本当はこんなセリフ、渉の言葉に耳も貸さなかった私が、言えるようなものではない。
 そんなことは百も承知で、それでもあえて自分に鞭打って懸命に語っているのに、私の話が半分もいかないうちに、可憐さんはきっぱりと頭を左右に振った。

「嫌よ」
「はい?」
 思わず聞き返さずにはいられない。

 いぶかしげに首を捻った私の顔を、可憐さんは栗色の巻き髪を揺らしてガバッとふり返った。
「もういいわ! こんな思いするくらいなら、私のほうから終りにする! 疑ったり、不安になったり……こんなのまるで私らしくないもの……私がふり回すならともかく、相手にふり回されるなんて冗談じゃないわ!」
 まだ瞳は涙に濡れているのに、私を見つめる視線は凛としていて力強かった。

 可憐さんは、まるで余計なものを全部払い落とすかのように、肩に乗った髪を背中のほうへ流して、すっくと立ち上がる。
「こんな恋はもういらない!」
 夕陽を背に受けて、潔く顎を上げて、敢然と言い放った姿はまさに女王様のようだった。

「か、可憐さん……?」
 よくよく聞いてみれば、彼女が今宣言した言葉は、半年前の私の思いとほとんど変わらない。
 なのにこの違いは何なのだろう。
 誰の目から見たって、精一杯無理しているようにしか見えなかっただろうあの時の自分と、本当にこの恋を終わらせてしまっても、すぐに新しい相手が現れそうで、全然未練なんて残さずに済みそうな可憐さん。
 どこに違いがあるかと言ったら、本当に残念ではあるが、女としての魅力の大きさの違いそのものだ。

(やっぱり美人は得だ……)
『HEAVEN』に参加するようになって、美千瑠ちゃんや可憐さんと知りあって、確信を得た思いを今日もまた再確認する。

「そうと決まれば、もう悩む必要もないわ。今日から私はフリーよ!」
 数多い彼女の信奉者たちが聞けば、泣いて喜びそうなことを声高らかに宣言して、可憐さんは猛然と前を向いて歩き始めた。

「ちょ、ちょっと! ねえ、可憐さん?」
 やっぱりことの真偽ぐらいは確かめたほうがいいんじゃないかとか。
 別れるなら別れるで、ちゃんと彼氏さんにも了解をとらなくちゃとか。
 やっぱりがらにもないことを必死で叫ぶ私の声を無視して、可憐さんは早足で歩き続ける。
 そうしながら、どこからか取り出した携帯で、すでに誰かと連絡を取ろうとし始めた。

「可憐さん!」
 慌てて追い縋ろうとした私を制止するように、ふいに目の前に鞄がさし出される。
「悪い。ちょっと可憐と話があるから、先に行く……じゃあな」
 言うが早いか鞄を私の手に押し付けて、可憐さんを追って行ってしまう、自転車に乗った後ろ姿。

(……諒!)
 話ってなんだろうとか。
 私は邪魔なんだろうかとか。
 そんなこと、可憐さんを好きな諒にしてみたら当たり前なのに、その時の私には、ことの状況も、自分の感情さえもとっさに上手く理解することができなかった。
 ひとことも発することさえできずに、呆然と二人を見送るだけだった。
 
 
「良かったわね。絶対無理だと思ってたのに、最大のチャンスが到来して……!」
 寝不足の為に回らない頭を酷使して、必死の思いで捻り出したセリフを口の中でぶつぶつと呟いてみて、私はひとり首を傾げる。

(うん? これじゃちょっと嫌味ね……)
 それならばと、新たなセリフを考える。

「おめでとう。やっと彼女ができそうじゃない! それも大好きな可憐さん!」
(これもなんか嫌な感じ……すぐに目を剥いて怒る顔が目に浮かぶ……)
 そう思って、実際にその様子を思い浮かべてしまって、思わずクスリと笑みが零れた。
 そんな自分にとてつもない虚しさを感じ、私はガタンと机に突っ伏した。
(なにやってんのよ私!)

 早朝の学校。
 二年一組の教室では、いつもどおりみんなが予習に励んでいるというのに、一番前の席でひきつった笑顔の練習をしたり、思い出し笑いをしている私は、きっとかなり浮いているはずだ。
 ――いつも以上に。

 隣の席の諒はまだ登校してこない。
 それが嬉しいんだか悲しんだかさえ、もう全然わからない。

 昨日の放課後は、恋心の自覚やら二度目の失恋やら、自分のことだけでも実にいろんなことがあった。
 それに加えて可憐さんと彼氏さんの問題。
 さっさと可憐さんを追いかけて行ってしまった諒。
 あれからどうなったのか気になって気になって、昨日はとうとう一睡もできなかった。

 今までの私だったら、諒が登校してきた早々捕まえて、どうだったのかと根掘り葉掘り聞くところだ。
 上手くいったにしろ、ダメだったにしろ、徹底的にからかって、最終的には口喧嘩に突入するはず。
 
 でも表面上は憎まれ口でも、それは確かに仲間として、一緒に喜んだり悲しんだりの私たちなりのコミュニケーションだったのだ。
 でも今はもうとてもそんなことできそうにない。
 これまでと変わらないようなセリフを頭を使って必死に準備して、私の動揺を諒に悟られないようにするしかない。
 すっかり聞き慣れた足音が廊下を歩いてくることにさえ、もう体がこの場から逃げだそうとしている。

「……おはよ」
 ガラッと扉を開けた諒が教室に入って来た途端、私は反射的に、大きく椅子の音をたてて立ち上がっていた。
「佳世ちゃん!」
 とってつけたように名前を呼んだら、ニッコリと笑ってくれた親友が座っているほうへ向かって、逃げるように歩きだす。

「おい」
 背後から諒が声をかけてくるけれどふり向かない。
 心臓が爆発しそうなほどドキドキと鳴っているけれど、ううん、それだからこそ、絶対にふり向かない。
 
 強い意志を秘めて歩き去る私に、諒はもうそれ以上声はかけなかった。
 まるでお互いの間に見えない壁でもできたかのように、そのまま一日、私たちは一言も口をきかなかった。
 
 
「でも、授業が全部終わったからって、それで終りじゃないのよー!」
 心の叫びを実際に口に出して叫びながら、私は頭を抱える。

 放課後の中庭。
 嫌だと悲鳴を上げる自分の心を騙し騙し、『HEAVEN』に向かおうと特別棟の前まではやって来たが、ここが限界だった。
 とうとう動かなくなった足を諦めて、芝生の上に座りこみ、膝を抱える。

(もう嫌だこんなの! ……可憐さんじゃないけど、全部投げ出してしまいたい!)
 ほんの昨日までは毎日があんなに楽しくて。『HEAVEN』の次の催しである交流会の準備にもあんなにはりきっていて。
 なのに自分の諒に対する想いを自覚してしまった途端、その全てが後回しになってしまった。

(どうせダメだってわかってるんなら……こんな想い気がつかなきゃ良かった!)
 どんなに悔やんだってどうしようもない。
 そもそも誰かを好きになること自体、自分でそうしようと思ってなるものではないのだ。
 自分で思いどおりにできるものなら、私はもっと違う人を好きになっていたはず。
 そしてもっと楽しい恋をしていたはず。

(諒が悪いのよ! 性格悪くって意地悪ばっかり言うくせに、必ず助けてくれるから! いて欲しいなって思う時に、傍にいてくれるから! だから……だから!)
 抱えた両膝に額をくっ付けて、これでもかと言わんばかりに八つ当たりしていたら、背後から声をかけられた。

「琴美、どうしたの? 小テストの結果でも悪かったの?」
 これが諒だったら「そんなはずないでしょ!」と怒り狂ってふり返る所だし、渉だったら「大丈夫だよ」と無理して笑ってみせることろだ。

 でもこの声の主はきっと、私が落ちこんでいるところに現れて、決まって気持ちをひき上げてくれる人物だ。
 きっと彼だとわかっているから、今さら強がる必要もごまかす必要もない。

 とは言え、私が今落ち込む理由が、成績ぐらいだろうと思われていることはちょっと心外だった。
「テストは満点だったわよ……あとは最近トップをひた走っている誰かさんが、うっかりミスしてくれれば、それでOKよ……貴人」

「ハハハハッ。ゴメン。それは気が利かなかった……!」
 予想どおり聞こえてきた大笑いに、顔を上げてふり返って見れば、やっぱり貴人が私の後ろに立っていた。

「次回は気をつけるから、今回は機嫌を直して、俺と一緒に『HEAVEN』に来てくれるかな?」
 さし出された手に、どうしようかなんて迷う間もなく、私は貴人の手を握り返していた。
 
 もういったい何度、この手に引かれて私は立ち上がったんだろう。
 絶妙のタイミングで現われてくれる如才なさにも、思わずこちらまで笑顔になってしまう満面の笑顔にも本当に感謝している。
 ――大好きだ。

 何気なく考えて、私はハッとなった。
(えっ? ちょっと待って……私って貴人のことも好き……なの……?)
 思考と同時に一気に体も固まってしまって、貴人の手を取って立ち上がりかけた体勢のまま動けなくなる。

「琴美?」
 訝しげに首を捻った貴人がこれ以上近づいて来ないように、なんとか体を起こして立ち上がるには立ち上がったけれど、サッと引いてしまった手が、いつもよりふり払うようだったなんて、貴人は気がついただろうか。
 ちょっと面白がっている時に彼がする癖で、眉を片方上げて私の顔を見たあと、前に立って歩き始めた貴人が、何を考えているのかなんて私にはわからない。

 でもたった今、ふと気がついてしまった自分の気持ちに、私は驚天動地の思いだった。
(私って! 私って……! 諒のことが好きなくせに、貴人のことも好きなの……!?)
 まるで自分がとてつもなく悪い女になったような気分で、私はふらふらと特別棟の階段を上がり、呆然と『HEAVEN』の扉を開けた。
 扉を開けると同時に、部屋の中で何かを言い争っているような声が耳に飛びこんできた。
「だから! もう一度ちゃんと話してみろって!」
「いやよ! なんで諒ちゃんに、そんなこと指図されなきゃなんないのよ!」
「指図って……助言してるだけだろ!」
 まるでいつも私とやっているのと同じように、諒が可憐さんを相手に口喧嘩している。
 そんなことにさえチクリと胸が痛んで、まるで居場所を奪われたかのように感じてしまう自分が悔しい。

「とにかく嫌! 余計なお世話! もう彼とは別れるって決めたの! 今度の交流会のダンスだって、向こうの実行委員長の相川君と踊るし! ……私はもうあの人とはなんの関係もないんだから……諒ちゃんも放っておいて!」
 涙混じりで叫びながら『HEAVEN』を出て行こうとする可憐さんを追いかけて、諒もすぐにこちらへ向かって来る。
「放っておけるわけないだろ!」

 ダメだ。
 一生懸命な諒の言葉は、いちいち私の胸に突き刺さる。
(突き刺さり過ぎて……具合が悪くなりそう……)
 思わず両手で耳を塞いで、貴人の後ろに身を隠した私に、部屋を走り出ていった可憐さんは気がつかなかったが、諒はしっかりと気づいた。

 目があったのは一瞬。
 足を止めて何か言おうと口を開きかけた諒は、私がなおさら貴人の背中に隠れたのを見て、キュッと口を真一文字に結び直した。
「くそおっ!」
 何に対してだかハッキリしない憤りの声を残して、ドアを蹴破るようにして、そのまま可憐さんを追いかけて行ってしまう。

 息さえ止めてその様子を見送っていた私に、部屋の中央から繭香が問いかけてきた。
「琴美。追いかけなくていいのか……?」
「……なんで私が?」
 いつものように叫び返したかったのに、そうはできなかった。

 今にも泣きだしそうにひきつってしまった顔も、まったく覇気のない声も、理由は何故かなんて、繭香にはきっとお見通しだ。
 ――思っていることがそのまま顔に書いてあると言われる私の感情を、読み取ることにかけてはほとんど天才的なのだから。

 自分でも虚しいとわかってる諒への気持ちを、口に出して言い当てられてしまうことが恐くて、私は俯いた。
 視線の先に横からスッと、ピンクの花模様のカップがさし出される。
「貴人も琴美ちゃんも自分の席に座って……ちょうどお茶が入ったところだったのよ」
「そうか。ありがとう美千瑠。行こう琴美」
 美千瑠ちゃんの天使の微笑みと、貴人の声に励まされて、私はようやくカチコチに固まってしまっていた足を踏みだすことができた。
 
 
「しっかし諒もわかってないよな……今いくら言ったって、可憐は意地になるだけだろ? そんなことぐらい、俺でもわかるんだけどな……」
 繭香の隣で大きな大きなため息をつく剛毅に、窓際の席で本を読んでいた智史君がゆっくりと顔を上げて、口を開いた。

「剛毅は意外と気配り人間だからね。わかるかもしれないけど……諒にはわかるはずないよ」
 穏やかな口調と裏腹に、言っていることは辛辣だ。
「まあ……当事者でもないのにあれだけ粘るってことは、よっぽどのわけがあるんだろうし……だとしたら熱くなるのも無理ないけど……」
 淡々と語りながら、薄い眼鏡越しチラリと、私のほうへ視線を向けられるのでドキリとする。

 まるで反応をうかがわれている気分。
 繭香ばかりではなく、『HEAVEN』には洞察力・観察力に長けている仲間が何人もいるから本当にまいる。

「な、なに?」
「……ううん。なんでもないよ」
 今度は正真正銘の笑顔を私に向けて、智史君は再び本の中の世界へ帰っていった。

「とにかく。日時も迫っていることだし、そろそろ交流会の話を詰めたかったんだけど……可憐があんな調子じゃ無理かな?」
 美千瑠ちゃんが淹れてくれたお茶を片手に、貴人が首を傾げた途端、さっき飛び出して行ったドアから、息を切らして可憐さんが駆け戻ってきた。

「大丈夫よ! 相川君とのうちあわせも、昨日の電話でだいぶ進んだの。決まったことだけでもみんなに報告するわ!」
 乱れた髪を撫でつけながら、あっという間に制服のリボンもキチンと直し、部屋の奥にいる貴人の前に歩み寄る可憐さんの姿を見ながら、私は首を捻る。
「……諒は?」

 思わず口に出して言ってしまったら、可憐さんは実に嬉しそうに、即座に私をふり返った。
「途中で撒いてきたわ! まさか諒ちゃんも、こんなにすぐ私が『HEAVEN』に帰ってくるとは思わないでしょ? これでしばらくは静かに仕事にうちこめる!」

 悠然と微笑む可憐さんの堂々とした姿を見ていると、諒が気の毒になってきた。
(諒……足の速さでも、体力でも、おまけに冷静な判断力でも可憐さんに負けてるよ……)
 あんなに想っているのにと思うと、複雑な自分の気持ちなんてそっちのけで、なおさら気の毒でならなかった。
 
 
「以前言っていたとおり、今回の交流会はダンスパーティーをおこないます。本当はみんな正装でって言いたいところだけど……それは嫌だって声も多いので、服装はカジュアルでもOKってことで。でも基本、ペアで揃えてはほしいかな……パートナー固定制ではあるけれど、せっかくの交流会なので、相手校の人たちとも仲良くなれるように、パートナーチェンジの曲も入れたらと思うんだけど……どうかしら? 貴人?」
 分厚い手帳をパラパラとめくりながら話し続ける可憐さんに、貴人は笑顔で頷いた。

「ああ。そのほうがいいと思うよ。ダンス曲の選曲は、可憐と相川君に任せていいのかな?」
「ええ。大丈夫よ」
 可憐さんが頷くと同時に、貴人は他のみんなにも仕事を割りふり始める。

「今回はうららのポスター描きが今からだから、智史はそこを手伝う……会場造りも意外と大掛かりになりそうなんで、剛毅と玲二はそっちかな? 順平は買い出し係。夏姫が出席者の出欠票を集めて、美千瑠が名簿作り……」
 次第にドキドキしてきた。
 貴人はきっと、これまでの行事の時と同じように私と諒を組ませるつもりだろう。
 このままいくと、また諒と一緒に何らかの仕事を受け持つことになる。

 口では嫌だと言いながらも、私はそのことをこれまで心からそう思っていたわけではない。
 でも今諒と二人きりになるのは、本当に嫌だった。
(とても今までどおりにはできない! 絶対にできない!)

「じゃあ琴美は……」
 貴人が言いかけた瞬間に、私は椅子を鳴らして立ち上がった。
「貴人! 私、夏姫を手伝うよ。全校生徒分、出欠を取るのはたいへんだと思うし……それか順平君の買出しの手伝いでも! 私って意外と力持ちだし……なんなら剛毅たちと会場造りでも……!」
 とにかく諒と一緒は避けたくて、かなり無茶を言っていることは自分でもよくわかっている。
 部屋中からみんなの視線が集まってきていることは、わざわざ確かめて見なくても、痛いくらいに感じていたし、順平君なんか吹き出しそうなのを必死にこらえている顔をしている。
 それでも――。

「この間の文化祭の時みたいに貴人の手伝いだって喜んでするし……それも無理なら繭香と一緒に全体の監督だっていいよ?」
「そんな閑職、何人もいたってしょうがないだろ!」
 繭香に一喝された私を、貴人はなんともいえない表情で見つめた。
 いつもだったらこんな時、お腹を抱えて大笑いを始めると決まっているのに、いったいどうしたのだろう。

 ニコリとも笑わないままに、貴人は私に向かって頷いた。
「いいよ。じゃあ琴美は夏姫と美千瑠を手伝って。諒は可憐のサポート……繭香はいつもどおり総監督で、俺は秘密行動。自分の手があいたら、今回はお互いを手伝うってことで……いいかな?」

「OK」とか「いいよ」とか次々と上がる返事を背中で聞きながら、私はどうにも気分が落ちこんでいく自分を感じていた。
(やだもう! こんなの本当に私らしくない! 可憐さんじゃないけど……もう嫌だ!)
 彼女と同じように、もう投げ出してしまいたいと思わずにはいられなかった。
 
 
「それじゃ、今日はこれで解散」
 貴人の号令と共に、みんな自分の受け持った仕事に向かって散り散りになっていく。
 人が少なくなった『HEAVEN』。
 それでも私は、また一歩も動きだせないでいた。

「ねえ……琴美……」
 一緒に仕事をすることになった夏姫がため息をつきながら私の名前を呼んだ瞬間、繭香が中央の席ですっくと立ち上がった。
 腰まである長い黒髪を靡かせて、鬼気迫る真剣な顔で真っ直ぐに私に歩み寄ってくる。
 夏姫も美千瑠ちゃんも自然と道を譲る中、繭香はあっという間に私の目の前にたどり着いた。

 鋭い光を放つ大きな黒い瞳に見つめられて、緊張しながらも私は口を開く。
「なに? ……どうしたの繭香?」
 繭香は、フンと私の耳にも聞こえるくらいに大きく鼻で笑って、私の手を掴んで部屋の外へ向かって歩き始めた。
「え? なに?」
 とまどう私をふり返りもせず、敢然と言い放つ。
「いいから! 黙ってついて来い!」
 なぜか怒りのこもったその声に、逆らうことのできる人間が貴人以外にいるんだったら見てみたいものだと、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
 
 
「思ったことは口に出さないと気がすまない琴美……嘘の吐けない琴美……」
 親愛の情をこめて貴人が私を呼ぶ時の呼称を、あらためて真剣な声でくり返されると、思わず泣きそうな気持ちになる。

『HEAVEN』からは最も遠い、廊下の突き当たりにある非常ドアの向こう。
 螺旋式の非常階段は、棟こそ違うとはいえ、日頃の私の緊急避難所とよく似ていた。

 すぐ隣に見えるのは、夏合宿の時にかなり恐い目にあった音楽室下の庇。
 嫌が応にもあの時の諒とのやり取りが思い出された。
(諒……!)
 思い浮かべるとやっぱり胸が苦しい。

「実にらしくないな……! らしくもなく溜めこんでるから、らしくもない行動に出る。その結果、全然動けなくなる。『よーし頑張るぞ!』って琴美が叫ばなかったら、貴人はあんなに、いつもどおり自信満々には笑えないんだぞ……どうだ、自分の偉大さを思い知ったか?」
「偉大なんて……そんなことないよ……」
 繭香のほうこそ尊大そのものといった感じで、腰に両手を当てて大威張りのポーズで突然そんなことを言われても、全然ピンとこない。

 小さく呟く私を、繭香は大きな瞳を見開いてクワッと睨みつけた。
「その卑屈な態度からして、いつもの琴美らしくないだろ! 自分で気づいてないのか?」
「気づいてないことはない……でもどうしようもない……」
 狭い鉄製の踊り場に膝を抱えて座りこんだ私の頭上から、繭香の大きな大きなため息が降ってきた。

「まあ、今さらながらというか……今頃やっとというか……自覚したのはめでたいことだが時期が悪かったな……何もこんな時にって、絶対全員思ってるぞ……」
「…………全員?」
 驚いて顔を跳ね上げた。

「そう全員だ。当の本人と、今は自分のことで手一杯の可憐以外の全員! 琴美がやっと自覚したかってホッとした。でもその反面、なんでわざわざこんなややこしい時にって呆れてもいる」
「ひええええっ!」
 驚き過ぎて再び立ち上がってしまった。

 自分でもほんのつい昨日自覚したばかりの恋心なのに、他のみんなはとっくに気がついていたというのだろうか。
 その上で、私が自分で気がつくのを黙って待っていたと――。

「なん、な、なんで……?」
 動揺のあまり上手く言葉が出てこない私を、繭香はちょっと意地悪そうに唇の端を吊り上げて笑う。
「誰にだってすぐにわかる……思っていることが顔にそのまま書いてある琴美! 自分が諒相手にどんなに活き活きしていたか、本当にこれまでまったく気づいていなかったのか? ……そんなことはないだろ?」

 確かに。
 言いたいことを言って、それでぶつかっても、共感できるところでは一緒に笑うことができる相手。
 気がつけばいつでも傍に居てくれる人。
 そのことがあまりに自然過ぎて、すっかり慣れっこになっていたけれど、自分が諒に惹かれているなんて、よくよく考えてみれば思い当る節はいくつもあったのだ。

「繭香……私って鈍い?」
「ああ。この上なくな」
「そうか……」
 再び落ちこんでいきそうになった瞬間、繭香がまたハアッと大きなため息をついた。

「琴美の悪いところは、その絶望的なタイミングの悪さよりも、むしろ思いこみの激しさだからな! 自分の頭の中だけでグルグル考えてないで、人の話も聞け! それができなくて失敗したことがあるだろっ!」
 大きな声で叱責されて、目が覚めた思いだった。

(そうだった! ……渉とダメになった時も、そのあと佳世ちゃんとぎくしゃくした時も、元はといえば私が相手の話をちゃんと最後まで聞かなかったのが原因だったんだ……)
 そんな自分を反省し、これからは改めようと思っていたはずだったのに、いつの間にかまた同じ過ちを繰り返しそうになっている自分に愕然とする。

(危なかった……このままじゃまた、何もかもを失うところだった……)
 そう気づかされて、感謝の思いいっぱいで繭香の顔を見つめた。
 私なんかとは比べものにならないくらい、綺麗に良く整った顔。
 でも繭香だって心の中では、私と変わらないくらい悩んだり葛藤したりしているということを、私はちゃんと知っている。
 一度腹を割ってとことん話し合った仲だからこそ、よく知っている。

「ごめん繭香……ありがとう……」
 殊勝に頭を下げた私を見て、ようやく繭香が厳しい表情をちょっと柔らかくした。
「わかったんならいい。後は琴美が自分の思ったようにやればいい」
 ちょっと突き放したような言い方は、繭香の照れ隠しと優しさの現れだということが私にはわかって、なおさら嬉しくなった。

 嬉しくなったついでに、繭香が言ったとおりにいかにも私らしく、単刀直入に聞いてみる。
「でもいくら自覚したからって、これって失恋決定でしょ? だって諒が好きなのは、可憐さんだもんね?」
 なぜか繭香はプイッと、あからさまに顔を背けた。

「繭香? ねえ、気を遣わなくっていいよ。正直に言っていいから……」
 繭香はますます体を捻って、必死に私の質問をかわそうとしている。
 なぜそうまでして避けられるのか。
 なんだかムッとした。

「ちょっと! ちゃんと言葉に出して聞けって言ったのは繭香でしょう!」
 繭香はストレートの黒髪を翻らせて、私のほうをふり返った。
「私に聞くな! 相手が違うだろう! 本人に確かめろ!」
「だって……!」
 いくらなんでもそれは難しいだろう。
 単刀直入にもほどがある。

「繭香だって、自分の好きな人に直接そんなこと聞きやしないでしょ!」と叫び返そうとして、私はハッとした。
 繭香の好きな人は、私の勘が確かならばきっと貴人だろう。
 その貴人に対しても、私はついさっき『大好き』と感じてしまったのだった。
 そして、そんな恋多き自分に、自分でビックリしたのだった。

(どうしよう! 私って、鈍感な上に移り気で……その上また友だちが恋のライバルなの?)
 予期せぬ事態に、おろおろと目を泳がせ始めた私を見て、繭香は再びハアッとため息をついた。

「今度はなんだ……かなり面白い顔になってるぞ……」
 どんなに言い繕おうとしたって、絶対に上手くいかない自信が私にはある。
 その上繭香は、きっと今この時だけは見逃してくれない。
 窮地に立たされた私は、仕方なく考えていたことをそのまま口にした。

「繭香……私って貴人のことも好きかも知れない……!」
 繭香は文字どおり絶句して、私の顔をしげしげと見つめた。
 しかし訝しげに寄せられた眉が、次第に緩んでいく。
「ああ琴美……それはきっと……」
 なんだかホッとしたように繭香が言いかけた瞬間。
 まったく予期していなかったほうから声がした。

「好きは一つじゃない。好きにはたくさんある。でも誰にも譲れない『好き』は? 他の人のものになってしまうと思っただけで、苦しくてたまらない『好き』は? 誰?」
 螺旋階段の一階分下の踊り場に、いつの間にかうららが立っていた。

 感情が読み取れない薄い色の瞳が、真っ直ぐに私を見上げる。
「絶対誰にも譲りたくない『好き』は?」

 うららが智史君のことを指して言った言葉そのままに、自分の心の中には誰が住んでいるのかを確かめて、私は確信した。
(もし貴人が、繭香のことを好きだって言ったら、私は祝福できる。自分も心から繭香の幸せを喜ぶことができる。でも諒は嫌だ……たとえ相手が大好きな可憐さんだって……こんなにこんなに嫌だもの!)
 口に出して言わなくても、私の思いはやっぱり繭香にもうららにも伝わったようだった。

 涙目で二人の顔を交互に見た私に、二人とも笑顔を向けてくれる。
「頑張れ」
「行って琴美」
 うららが細い人差し指を向けた先に、濡れたような黒髪の後ろ姿が見えた。
 いつものように自転車を押して、校門へと向かっている。

 いつも私の分と可憐さんの分も合わせて三人分の荷物が乗っていた荷台に、今日は諒の鞄しか乗っていない光景を目にして、私は精一杯の大声を張り上げた。
「ちょっと諒! 待ちなさいよ! なんで自分だけさっさと帰ろうとしてるのよ!」

 ピタリと足を止めた諒は、どこから声がしたのかなんて迷うこともなく、真っ直ぐにこちらへふり返り、私に向かって目を上げた。
「いつまで待ってたって、来ないからだろうが! さっさとしろよ!」

 言葉だけ聞いたら「なんなのよその言い方は!」とこぶしをふり上げるところだったが、視力のいい私には見えてしまった。
 遥か向こうでふり返った諒が、ほぼ一日ぶりに話しかけてきた私に対して、かなり嬉しそうに笑っている顔が見えてしまった。

 思わずポロリと零れそうになった涙をごまかす為にも、私は猛ダッシュで走り出す。
「今すぐ行くから待ってなさいよ!」
「早くしろ、バーカ!」
 まるで嬉しそうにしか聞こえない声音の悪口に、自然と頬が緩みながら、荷物を取りに『HEAVEN』へと帰る。

「頑張れ頑張れ」
「負けるな琴美」
 決してテンションが高くはない繭香とうららの応援の言葉を背中で聞きながら、私は懸命に走った。