「夏姫! 夏姫! 大丈夫か?」
大きな体のわりに小さな声の、普段の彼はいったいどこへ行ってしまったのか。
うずくまる夏姫の前にしゃがみこんだ玲二君の声は、離れた所からもはっきりと聞き取れるくらいに大きかった。
「足どうした? 見せて!」
何も言葉は返さないままで、俯いた頭をただ激しく横に振る夏姫を宥めるかのように、玲二君は何度もゆっくりとくり返す。
「とりあえず保健室に行こう。大丈夫か?」
「大丈夫じゃない! ……筋か腱を痛めたかもしれない!」
ちょっとかすれた声で、いかにも悔しそうに小さく叫んだ夏姫の細い体を、玲二君は次の瞬間、両腕で軽々と抱え上げた。
両膝から背中までがすっぽりと腕の中に収まってしまう、いわゆる『姫様だっこ』である。
「ち、ちょっと玲二……!」
大慌てする夏姫と、ちょっと怯んだ周囲の人間のことなんてまるで気にせずに、大股でさっさと保健室に向かって歩きだす彼は、本当に玲二君なんだろうか。
疑問に思わずにいられない。
(まさか諒みたいに、何かにとり憑かれてるってことはないわよね……? 本当に玲二君だよね?)
自分の横をすり抜ける背中にも、なんとなく声をかけられないまま黙って見送る私に、背後から話しかけてくる人がいた。
「たいしたことないといいね」
ふり返らなくても、それが誰だかはすぐにわかった。
貴人だ。
ゆっくりとふり返ってみて、案の定そこにあった顔が穏やかな笑顔だったから、私はホッと息をつく。
(貴人がこんなに落ち着いてるってことは、きっと夏姫の足はそんなに酷くないんだ……)
勝手にそう結論づけて、少し安心した。
「私……あとでちょっと様子を見に行ってみる……」
「ああ……そうして。話しこんで遅くなるようだったら、帰りは俺がちゃんと家まで送るから……」
ハッと驚いて、思わず、綺麗によく整った貴人の顔を凝視した。
本気なのか冗談なのか見極めのつかない笑顔に動揺して、両手と顔をぶんぶんと勢いよく振りながら、ついつい後退りしてしまう。
「い、いいよ! まだ全然早いし! 体育館にはきっとまだ可憐さんも残ってるし!」
同じ方向に帰る仲間はちゃんといるからと、訴えたつもりだったのに、効果はまるでなかった。
「たまには俺にだって……琴美の時間をちょっとくれない……?」
少し悲しそうな顔で、他ならぬ貴人にそんなふうに言われれば、私じゃなくたってきっとドキドキするに違いない。
その上――。
「実は頼みたいこともあるしね……」
茶目っ気たっぷりに首を傾げながら、続いて今度は笑顔になられれば、尚更である。
「た、頼みたいことって何?」
ドキドキと高鳴る胸を静まらせようと、必死に無駄な努力をしながら問いかけてみたら、貴人は私に向かってパチリと片目を瞑った。
「内緒だよ。まずは夏姫と話をしてみて……それが琴美への第一の指令!」
冗談めかした笑顔のまま、キリッと敬礼のポーズをとった貴人につられ、思わず私もピシッと右手を自分の額の前にかざしてしまった。
「了解!」
いつも『秘密行動』と称してみんなをビックリさせてくれる貴人の仕事を、ひょっとしたら手伝わせてもらえるのかと、とってもワクワクしていた。
文化祭に向けてやらなければいけない事は山積みで、ほんの少し前までは心の中で悲鳴をあげていたはずなのに、そんな思いはすっかりどこかへ吹き飛んでしまっている。
私って人間は、なんて現金なんだろう。
(だって……夏姫の容態は気になるし……玲二君の片思いは応援したいし……! その上これが貴人の頼みならば、まずは何よりも先にこの事に全力を尽くすのは当然でしょ?)
保健室に向かって意気揚々と駆け出した私の姿は、確かに自分でも滑稽だったと思う。
「はははっ、気をつけて琴美! よろしく!」
案の定、貴人は大笑いしながら私の背中にエールを送ってくれた。その声が、尚更私に元気を与えてくれた。
(思わず走って来ちゃったはいいけど……今、入っていいもの……?)
第一校舎に連なる教務棟の一階にある保健室の扉の前まで来て、足を止めた私は少し迷っていた。
玲二君が夏姫を運んで行ってからまだそんなに時間が経っていないし、夏姫より先に保健室を利用していた生徒がいたとしたら、先生の手当てだってまだかもしれない。
そこにのこのこと入って行ったって、邪魔なだけだ。
思い立ったらすぐに行動せずにはいられない自分の性分を少し恨めしく思いながら、掲示板に貼られた保健便りなんかを見るともなしに眺めていたら、いきなりガラッと保健室の扉が開いて、中から人が出て来た。
玲二君だった。
「それじゃ……あとはよろしくお願いします。夏姫……しばらくしたら迎えに来るから、それから一緒に帰ろう……」
入り口近くのパーテーションの向こうで絶句している夏姫の返事も待たず、保健室に背を向けると、玲二君は私がたった今やって来たばかりの道のりを、さっさと帰り始める。
「琴美。ありがとな。しばらく夏姫についててあげて……」
呆然と立ち尽くしていた私にもちゃんと一声かけて、鮮やかに去って行く彼は――しつこいようだが――まるでいつもの彼らしくない。
その証拠に、保健の先生に足に包帯を巻いてもらいながら座っている夏姫は、心なし頬を薄っすらと染めながらプウッと頬を膨らまし、まるで照れ隠しのように悪態をつく。
「なによ……! 一人で勝手に決めて、さっさと行っちゃうんだから……! 玲二のくせに!」
最後の一言を別にすれば、これはもう玲二君は、夏姫が好きな人の条件の一つにあげていた「頼りになって」の部分まで楽々クリアしているんじゃないかと、私は心の中で大きく頷いた。
(それに夏姫のところに駆けつけた時のあの速さ! ひょっとしたら玲二君って……足だって相当速いんじゃない?)
私の予想は大当たりだった。
足の怪我は軽く捻っただけでたいしたことなかったと教えてくれた夏姫は、その報告の何倍も熱をこめて、玲二君の脚力について語った。
「当たり前よ! 玲二は中学までは陸上部だったんだから。なのに高校では陸上はやらないなんて宣言して……なのに何故かサッカー部には入部するんだもん……あのバカ!」
言い方はかなり酷いものがあるが、玲二君の足の速さには夏姫も一目置いていることだけは確かだった。
「中学の頃からの知りあいなの?」
確か二人の出身中学は違ったはずだがと首を捻る私に、夏姫は気をつけて見ていなければわからないくらい、ほんの僅かに頬を赤く染めた。
「大会とかでたびたび会うから、お互いに顔と名前ぐらいは知ってた……その程度よ……」
建て前じみた説明のわりには、放っとくと時間が過ぎるのも忘れてしまうぐらい長々と、中学時代の玲二君の活躍について語ってしまっている自分を、夏姫は気がついていないんだろうか。
なんだか私のほうがドキドキして、息が苦しくなってきた。
(どうしよう……これって、もしかしなくっても夏姫も玲二君のことが好きっぽいよね……?)
誰かが誰かを好きだという気持ちが、双方からピタリと重なる確率なんてどんなに低いものなのか。
実際にすれ違う気持ちを経験した私だからこそよくわかる。
(嬉しい! すっごく嬉しい! ……でもこれって、私の口から言っちゃっていいことじゃないよね? ……ううう……それが苦しい……)
諒の言ったとおり『余計なお世話』にならないためには、気をつけなければならない。
「そっか……それにしても玲二君って、いざとなったら頼りになるんだね。私、見直しちゃったよ……」
それでも少しでも、夏姫の中の彼の評価を上げておこうと、今日一番の驚きを素直に伝えてみた私に、夏姫はなんとも言えない不思議な表情を向けた。
「琴美……失恋の痛手から立ち直って新しい恋を! って思ってるんだったら、気の毒だから先に教えておくわ……玲二はやめたほうがいい……」
「ど、どうして……?」
もちろんそんなつもりはさらさらないのだが、ひょっとして夏姫が自分の気持ちを口に出すのではないかと思って、私は心持ち、彼女に向かって身を乗り出した。
「なんで? なんで玲二君はやめたほうがいいの?」
期待に胸を膨らませてドキドキと待ち受ける私に、恋心をうち明けるには少々困ったような顔で夏姫は告げた。
「琴美は全然、玲二の好きなタイプからはほど遠いから……ゴメン。私は琴美の思いこんだら一直線なところも、元気で前向きなところも大好きなんだけど、玲二のタイプは大人しくてお行儀のいいお嬢さまなんだよね……それでどうやらそんな子を、ずっと好きらしいんだ……」
「は…………?」
あまりに予想外の話に、私の唯一の自慢の頭が、一瞬活動停止してしまった。
しかしすぐに――。
「えええええええっ!?」
保健の先生からギロリと睨まれるほどの叫びと共に復活した。
(だって待って! 玲二君が好きなのは夏姫だよ? ……本人からちゃんと聞いたんだからまちがいない! じゃあ何? 夏姫が『大人しくて行儀のいいお嬢さま』だっていうの?)
ちょっと憐れむような困ったような顔で私を見ている夏姫を、私もしげしげと見返した。
夏姫の言葉を反芻するわけではないが、夏姫だって『大人しくて行儀のいいお嬢さま』からはほど遠い。
『健康的で、笑顔が輝いてる女の子』っていうんなら話は別だが――。
「夏姫。私、別に玲二君のことを好きなわけじゃないから……」
とりあえず誤解されないうちにと訂正しておくと、かすかに――ほんのかすかにホッとしたような表情がうかがえる。
(やっぱり……好きなんだろうな……)
だったら夏姫は大きな思い違いをしていることになる。
本当は両思いなのに、玲二君には他に好きな子がいると思いこんでしまっているのだ。
「それに、玲二君の好きなタイプ……それってちょっと違うと思うんだけど……」
途端、今度はうって変わって激しい視線を向けられた。
「違わないわよ! もうずっと前に本人の口から聞いたんだから……それに、その条件にピッタリ当てはまる『玲二の好きな人』だって、私、ちゃんとわかってる……!」
半ば開き直りぎみに語る夏姫には、取り付くしまがない。
(だって玲二君が好きなのは夏姫だよ?)
思わず叫びたくなる気持ちをぐっとこらえながら、勤めて冷静なふうを装って、私は夏姫に尋ねた。
「誰? 玲二君の好きな人……」
夏姫はためらうようなそぶりを見せたけれど、結局声をひそめて、私の耳元に口を寄せた。
「琴美だってよく知ってる子よ……誰にも言わないでよ? ……………美千瑠」
「ええええええっ!」
力の限りに叫んで、また保健の先生に睨まれたので、私は夏姫の陰に身を潜めた。
そのついでに、さっきまでよりもっと近い位置から夏姫の顔を見つめる。
「夏姫……それって違うと思うよ?」
「違わないわよ。まったく往生際が悪いなあ」
「いや……そんなことじゃなくってね……」
思っていること、知っていることをはっきりと言えないというのは、なんてもどかしくて難しいんだろう。
私は特にいつも心のままを率直に口に出しているものだから、きっと他の人にとっての何倍も難しい。
「うーん、なんて言ったらいいんだろ……とにかく違うのよ……!」
なんの進展もしない私のセリフに、夏姫は呆れたように肩を竦めた。
「いつもくっきりはっきりものを言う琴美にしては、ずいぶん歯切れが悪いわね……? でも言っておくけどこっちだって、本当にまちがいないの!」
(ダメだ! これ以上はもうお互いに堂々巡りになるばっかりだ!)
貴人に頼まれた第一の指令――夏姫と話をしてみる――は、とても上手くいったとは思えなかった。
ところが、しばらくして夏姫を迎えに来た玲二君と前後するようにして私を迎えに来てくれた貴人は、私のしどろもどろの説明を聞くとひどく満足そうに頷いた。
「失敗なんてことはないよ、それでいいんだ。玲二がどんな女の子を好きだって夏姫が思っているのか……俺が知りたかったのはそこだからね……」
「そうなの?」
単に私を慰める為だけとは思えない笑顔を、私はふり仰いだ。
「ああ。だから大丈夫。お勤めご苦労様、琴美。次は第二段階だ」
楽しげに宣言されて、心からホッとした。
貴人の役に立ちたいと思って行動を起こした私にとっては、それが達成されただけでもひと安心だ。
たとえ肝心な玲二君の恋を成就させるって目的のほうは、なんだかややこしいことになってしまっていたとしても――。
(全部包み隠さず話せるなら簡単なことなのに……うーん……どうしたいいの?)
『余計なお世話』にならないように、夏姫の気持ちも玲二君の気持ちも私の口から相手に告げてはならない。
尚且つ、完璧に勘違いしてしまっている夏姫に玲二君の本当の気持ちを気付いてもらえる方法とは――。
首を捻る私の脳裏に、ふいに繭香の怪しげな表情が思い出された。
(そうだ! 繭香が玲二君を占った時に出た言葉!『かん違い』って……あれって、こういうことだったんだ!)
改めて繭香の占いの的中率に舌を巻いたはいいものの、だからと言って、事態は何ひとつ好転しない。
いつの間にか私は、よほど難しい顔をして考えこんでしまっていたのだろう。
それまで黙って隣を歩いていた貴人が、ふいに口を開いた。
「大丈夫だよ……俺にちゃんと考えがあるから」
「えっ?」
何も口に出しては言っていなかったのに、例によって私の考えていることは全部顔に書いてあったんだと自覚した。
「今回は琴美っていう助っ人もいるし、いつもより更に上手くいくと思うよ……ね?」
眩しいような笑顔で笑いかけられれば、それまでどんなに眉間に皺が寄ってたって、私だって笑顔にならずにはいられない。
難しい問題に直面して挫けそうだった心だって、貴人といれば自然と前向きになる。
「うん」
貴人の言葉だったらなんだって信じられる気がする単純な私は、彼が同じ方向を向いて隣を歩いてくれているだけで、きっと無敵だった。
大きな体のわりに小さな声の、普段の彼はいったいどこへ行ってしまったのか。
うずくまる夏姫の前にしゃがみこんだ玲二君の声は、離れた所からもはっきりと聞き取れるくらいに大きかった。
「足どうした? 見せて!」
何も言葉は返さないままで、俯いた頭をただ激しく横に振る夏姫を宥めるかのように、玲二君は何度もゆっくりとくり返す。
「とりあえず保健室に行こう。大丈夫か?」
「大丈夫じゃない! ……筋か腱を痛めたかもしれない!」
ちょっとかすれた声で、いかにも悔しそうに小さく叫んだ夏姫の細い体を、玲二君は次の瞬間、両腕で軽々と抱え上げた。
両膝から背中までがすっぽりと腕の中に収まってしまう、いわゆる『姫様だっこ』である。
「ち、ちょっと玲二……!」
大慌てする夏姫と、ちょっと怯んだ周囲の人間のことなんてまるで気にせずに、大股でさっさと保健室に向かって歩きだす彼は、本当に玲二君なんだろうか。
疑問に思わずにいられない。
(まさか諒みたいに、何かにとり憑かれてるってことはないわよね……? 本当に玲二君だよね?)
自分の横をすり抜ける背中にも、なんとなく声をかけられないまま黙って見送る私に、背後から話しかけてくる人がいた。
「たいしたことないといいね」
ふり返らなくても、それが誰だかはすぐにわかった。
貴人だ。
ゆっくりとふり返ってみて、案の定そこにあった顔が穏やかな笑顔だったから、私はホッと息をつく。
(貴人がこんなに落ち着いてるってことは、きっと夏姫の足はそんなに酷くないんだ……)
勝手にそう結論づけて、少し安心した。
「私……あとでちょっと様子を見に行ってみる……」
「ああ……そうして。話しこんで遅くなるようだったら、帰りは俺がちゃんと家まで送るから……」
ハッと驚いて、思わず、綺麗によく整った貴人の顔を凝視した。
本気なのか冗談なのか見極めのつかない笑顔に動揺して、両手と顔をぶんぶんと勢いよく振りながら、ついつい後退りしてしまう。
「い、いいよ! まだ全然早いし! 体育館にはきっとまだ可憐さんも残ってるし!」
同じ方向に帰る仲間はちゃんといるからと、訴えたつもりだったのに、効果はまるでなかった。
「たまには俺にだって……琴美の時間をちょっとくれない……?」
少し悲しそうな顔で、他ならぬ貴人にそんなふうに言われれば、私じゃなくたってきっとドキドキするに違いない。
その上――。
「実は頼みたいこともあるしね……」
茶目っ気たっぷりに首を傾げながら、続いて今度は笑顔になられれば、尚更である。
「た、頼みたいことって何?」
ドキドキと高鳴る胸を静まらせようと、必死に無駄な努力をしながら問いかけてみたら、貴人は私に向かってパチリと片目を瞑った。
「内緒だよ。まずは夏姫と話をしてみて……それが琴美への第一の指令!」
冗談めかした笑顔のまま、キリッと敬礼のポーズをとった貴人につられ、思わず私もピシッと右手を自分の額の前にかざしてしまった。
「了解!」
いつも『秘密行動』と称してみんなをビックリさせてくれる貴人の仕事を、ひょっとしたら手伝わせてもらえるのかと、とってもワクワクしていた。
文化祭に向けてやらなければいけない事は山積みで、ほんの少し前までは心の中で悲鳴をあげていたはずなのに、そんな思いはすっかりどこかへ吹き飛んでしまっている。
私って人間は、なんて現金なんだろう。
(だって……夏姫の容態は気になるし……玲二君の片思いは応援したいし……! その上これが貴人の頼みならば、まずは何よりも先にこの事に全力を尽くすのは当然でしょ?)
保健室に向かって意気揚々と駆け出した私の姿は、確かに自分でも滑稽だったと思う。
「はははっ、気をつけて琴美! よろしく!」
案の定、貴人は大笑いしながら私の背中にエールを送ってくれた。その声が、尚更私に元気を与えてくれた。
(思わず走って来ちゃったはいいけど……今、入っていいもの……?)
第一校舎に連なる教務棟の一階にある保健室の扉の前まで来て、足を止めた私は少し迷っていた。
玲二君が夏姫を運んで行ってからまだそんなに時間が経っていないし、夏姫より先に保健室を利用していた生徒がいたとしたら、先生の手当てだってまだかもしれない。
そこにのこのこと入って行ったって、邪魔なだけだ。
思い立ったらすぐに行動せずにはいられない自分の性分を少し恨めしく思いながら、掲示板に貼られた保健便りなんかを見るともなしに眺めていたら、いきなりガラッと保健室の扉が開いて、中から人が出て来た。
玲二君だった。
「それじゃ……あとはよろしくお願いします。夏姫……しばらくしたら迎えに来るから、それから一緒に帰ろう……」
入り口近くのパーテーションの向こうで絶句している夏姫の返事も待たず、保健室に背を向けると、玲二君は私がたった今やって来たばかりの道のりを、さっさと帰り始める。
「琴美。ありがとな。しばらく夏姫についててあげて……」
呆然と立ち尽くしていた私にもちゃんと一声かけて、鮮やかに去って行く彼は――しつこいようだが――まるでいつもの彼らしくない。
その証拠に、保健の先生に足に包帯を巻いてもらいながら座っている夏姫は、心なし頬を薄っすらと染めながらプウッと頬を膨らまし、まるで照れ隠しのように悪態をつく。
「なによ……! 一人で勝手に決めて、さっさと行っちゃうんだから……! 玲二のくせに!」
最後の一言を別にすれば、これはもう玲二君は、夏姫が好きな人の条件の一つにあげていた「頼りになって」の部分まで楽々クリアしているんじゃないかと、私は心の中で大きく頷いた。
(それに夏姫のところに駆けつけた時のあの速さ! ひょっとしたら玲二君って……足だって相当速いんじゃない?)
私の予想は大当たりだった。
足の怪我は軽く捻っただけでたいしたことなかったと教えてくれた夏姫は、その報告の何倍も熱をこめて、玲二君の脚力について語った。
「当たり前よ! 玲二は中学までは陸上部だったんだから。なのに高校では陸上はやらないなんて宣言して……なのに何故かサッカー部には入部するんだもん……あのバカ!」
言い方はかなり酷いものがあるが、玲二君の足の速さには夏姫も一目置いていることだけは確かだった。
「中学の頃からの知りあいなの?」
確か二人の出身中学は違ったはずだがと首を捻る私に、夏姫は気をつけて見ていなければわからないくらい、ほんの僅かに頬を赤く染めた。
「大会とかでたびたび会うから、お互いに顔と名前ぐらいは知ってた……その程度よ……」
建て前じみた説明のわりには、放っとくと時間が過ぎるのも忘れてしまうぐらい長々と、中学時代の玲二君の活躍について語ってしまっている自分を、夏姫は気がついていないんだろうか。
なんだか私のほうがドキドキして、息が苦しくなってきた。
(どうしよう……これって、もしかしなくっても夏姫も玲二君のことが好きっぽいよね……?)
誰かが誰かを好きだという気持ちが、双方からピタリと重なる確率なんてどんなに低いものなのか。
実際にすれ違う気持ちを経験した私だからこそよくわかる。
(嬉しい! すっごく嬉しい! ……でもこれって、私の口から言っちゃっていいことじゃないよね? ……ううう……それが苦しい……)
諒の言ったとおり『余計なお世話』にならないためには、気をつけなければならない。
「そっか……それにしても玲二君って、いざとなったら頼りになるんだね。私、見直しちゃったよ……」
それでも少しでも、夏姫の中の彼の評価を上げておこうと、今日一番の驚きを素直に伝えてみた私に、夏姫はなんとも言えない不思議な表情を向けた。
「琴美……失恋の痛手から立ち直って新しい恋を! って思ってるんだったら、気の毒だから先に教えておくわ……玲二はやめたほうがいい……」
「ど、どうして……?」
もちろんそんなつもりはさらさらないのだが、ひょっとして夏姫が自分の気持ちを口に出すのではないかと思って、私は心持ち、彼女に向かって身を乗り出した。
「なんで? なんで玲二君はやめたほうがいいの?」
期待に胸を膨らませてドキドキと待ち受ける私に、恋心をうち明けるには少々困ったような顔で夏姫は告げた。
「琴美は全然、玲二の好きなタイプからはほど遠いから……ゴメン。私は琴美の思いこんだら一直線なところも、元気で前向きなところも大好きなんだけど、玲二のタイプは大人しくてお行儀のいいお嬢さまなんだよね……それでどうやらそんな子を、ずっと好きらしいんだ……」
「は…………?」
あまりに予想外の話に、私の唯一の自慢の頭が、一瞬活動停止してしまった。
しかしすぐに――。
「えええええええっ!?」
保健の先生からギロリと睨まれるほどの叫びと共に復活した。
(だって待って! 玲二君が好きなのは夏姫だよ? ……本人からちゃんと聞いたんだからまちがいない! じゃあ何? 夏姫が『大人しくて行儀のいいお嬢さま』だっていうの?)
ちょっと憐れむような困ったような顔で私を見ている夏姫を、私もしげしげと見返した。
夏姫の言葉を反芻するわけではないが、夏姫だって『大人しくて行儀のいいお嬢さま』からはほど遠い。
『健康的で、笑顔が輝いてる女の子』っていうんなら話は別だが――。
「夏姫。私、別に玲二君のことを好きなわけじゃないから……」
とりあえず誤解されないうちにと訂正しておくと、かすかに――ほんのかすかにホッとしたような表情がうかがえる。
(やっぱり……好きなんだろうな……)
だったら夏姫は大きな思い違いをしていることになる。
本当は両思いなのに、玲二君には他に好きな子がいると思いこんでしまっているのだ。
「それに、玲二君の好きなタイプ……それってちょっと違うと思うんだけど……」
途端、今度はうって変わって激しい視線を向けられた。
「違わないわよ! もうずっと前に本人の口から聞いたんだから……それに、その条件にピッタリ当てはまる『玲二の好きな人』だって、私、ちゃんとわかってる……!」
半ば開き直りぎみに語る夏姫には、取り付くしまがない。
(だって玲二君が好きなのは夏姫だよ?)
思わず叫びたくなる気持ちをぐっとこらえながら、勤めて冷静なふうを装って、私は夏姫に尋ねた。
「誰? 玲二君の好きな人……」
夏姫はためらうようなそぶりを見せたけれど、結局声をひそめて、私の耳元に口を寄せた。
「琴美だってよく知ってる子よ……誰にも言わないでよ? ……………美千瑠」
「ええええええっ!」
力の限りに叫んで、また保健の先生に睨まれたので、私は夏姫の陰に身を潜めた。
そのついでに、さっきまでよりもっと近い位置から夏姫の顔を見つめる。
「夏姫……それって違うと思うよ?」
「違わないわよ。まったく往生際が悪いなあ」
「いや……そんなことじゃなくってね……」
思っていること、知っていることをはっきりと言えないというのは、なんてもどかしくて難しいんだろう。
私は特にいつも心のままを率直に口に出しているものだから、きっと他の人にとっての何倍も難しい。
「うーん、なんて言ったらいいんだろ……とにかく違うのよ……!」
なんの進展もしない私のセリフに、夏姫は呆れたように肩を竦めた。
「いつもくっきりはっきりものを言う琴美にしては、ずいぶん歯切れが悪いわね……? でも言っておくけどこっちだって、本当にまちがいないの!」
(ダメだ! これ以上はもうお互いに堂々巡りになるばっかりだ!)
貴人に頼まれた第一の指令――夏姫と話をしてみる――は、とても上手くいったとは思えなかった。
ところが、しばらくして夏姫を迎えに来た玲二君と前後するようにして私を迎えに来てくれた貴人は、私のしどろもどろの説明を聞くとひどく満足そうに頷いた。
「失敗なんてことはないよ、それでいいんだ。玲二がどんな女の子を好きだって夏姫が思っているのか……俺が知りたかったのはそこだからね……」
「そうなの?」
単に私を慰める為だけとは思えない笑顔を、私はふり仰いだ。
「ああ。だから大丈夫。お勤めご苦労様、琴美。次は第二段階だ」
楽しげに宣言されて、心からホッとした。
貴人の役に立ちたいと思って行動を起こした私にとっては、それが達成されただけでもひと安心だ。
たとえ肝心な玲二君の恋を成就させるって目的のほうは、なんだかややこしいことになってしまっていたとしても――。
(全部包み隠さず話せるなら簡単なことなのに……うーん……どうしたいいの?)
『余計なお世話』にならないように、夏姫の気持ちも玲二君の気持ちも私の口から相手に告げてはならない。
尚且つ、完璧に勘違いしてしまっている夏姫に玲二君の本当の気持ちを気付いてもらえる方法とは――。
首を捻る私の脳裏に、ふいに繭香の怪しげな表情が思い出された。
(そうだ! 繭香が玲二君を占った時に出た言葉!『かん違い』って……あれって、こういうことだったんだ!)
改めて繭香の占いの的中率に舌を巻いたはいいものの、だからと言って、事態は何ひとつ好転しない。
いつの間にか私は、よほど難しい顔をして考えこんでしまっていたのだろう。
それまで黙って隣を歩いていた貴人が、ふいに口を開いた。
「大丈夫だよ……俺にちゃんと考えがあるから」
「えっ?」
何も口に出しては言っていなかったのに、例によって私の考えていることは全部顔に書いてあったんだと自覚した。
「今回は琴美っていう助っ人もいるし、いつもより更に上手くいくと思うよ……ね?」
眩しいような笑顔で笑いかけられれば、それまでどんなに眉間に皺が寄ってたって、私だって笑顔にならずにはいられない。
難しい問題に直面して挫けそうだった心だって、貴人といれば自然と前向きになる。
「うん」
貴人の言葉だったらなんだって信じられる気がする単純な私は、彼が同じ方向を向いて隣を歩いてくれているだけで、きっと無敵だった。