「諒! 諒!」
叫びながら駆け寄った窓の桟をつかみ、遥か遠い地面を見下ろす。
そこにもし、見るも無残になった諒の姿があったら――と背筋が凍るような思いだったのに、窓から勢いよく上半身を乗り出した私とおでこがくっつきそうなほど近くに、諒の顔はあった。
「やあハニー……」
「きゃああああ!」
何が起こったのだか、よくわからない。
諒がいきなり窓から飛び下りて。
ここが特別棟の四階である以上、そんなことをしたらとんでもないことになるはずで。
なのにその諒は、私の目の前で、何事もなかったかのように元気に手を振る。
目の前の可愛い笑顔からゆるゆると彼の足元に視線を下ろして、私はようやくことの真相を知った。
諒は、三階の窓の上に幅1メートルくらいの広さで造られた庇の上に立っていた。
外から見たら真四角で、どこを見ても窓の外には何もないと思っていた特別棟だったが、どうやら三階の南向きの窓にだけは、庇があったのらしい。
(三階は……ええっと、視聴覚室? そうか……暗室を作る時のために、あらかじめ庇で光を遮ってあるのかな?)
いつのまにか悠長にそんなことを考えている自分を、私はハッと追い払う。
(いや……そうじゃなくって!)
キッと鋭い眼差しを諒に向けた。
「あのね……急に何を……!」
「するのよ! ビックリするじゃない!」と大声で怒鳴りつけたかったのに、そうは出来なかった。
私とほぼ同時に窓に駆け寄っていた三年生のまどかさんが、私の隣で両手で顔を覆って泣き出したのだ。
「柿崎先輩……!」
そのまどかさんに向かって、諒は下から手を差し伸べた。
「泣くなよ澤上……」
聞こえて来たのは確かに諒の声だったのに。
差し伸べられた手も確かに諒の手だったのに。
ちょっと悲しそうな表情で彼女を見上げる顔はとても諒には見えなかった。
諒の体であるにもかかわらず、そこに立っていたのは、明らかに他の『誰か』だった。
「俺ってほんっとバカだよな……この庇が付いてるのは、南側の窓全部だと思ってたんだ……だからちょっと驚かしてやろうと思って、空き部屋の掃除をしてた時に、友達の前で今みたいに飛んで見せたんだ……」
苦笑いのような表情から、彼はキュッと唇を噛みしめた。
「でも、一番西端の部屋の下には庇がなかった……」
私の心臓がドキリと跳ねた。
(一番西端って……今、私たちが『HEAVEN』として使ってる部屋じゃないのよ……!)
驚きの事実に息をのむ。
「だから澤上が言ってくれたみたいに、自殺なんかじゃないから! 絶対に違うから!」
キリッと彼女を見上げる諒に向かって、まどかさんは頷いた。
「うん。うん」
泣きながら何度も何度も頷いた。
「コンクールの本選に残って……ようやく澤上も同じ学校に進学して来るって時に、俺が自殺なんてするはずない……!」
「うん……うん……!」
「ごめんな……俺、ほんっとバカでごめん……」
まどかさんは俯きながら長い髪を揺らして、何度も何度も首を横に振った。
その場にいて二人の話を聞いているのは、なんだか違うような気がして、私は自然と後ろに下がった。
まどかさんと一緒に来た三年生の男の人も、廊下から教室の中に入って来たところで、呆然と立ち尽くしている。
彼も今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「裕太、そこにいるだろ? ……ごめんちょっとここから引き上げて」
窓の外から呼びかけられて、ハッとしたように裕太さんは動き出した。
まどかさんの隣に立って手を伸ばし、真っ暗な窓の向こうから諒を――いや、諒の中にいる『柿崎さん』という人を引き上げる。
「ありがとう」
再び音楽室の中に帰って来た柿崎さんは、にっこりと笑ってそう言ってから、三年生の二人に向かって深々と頭を下げた。
「話ができてよかった……どうしても二人にだけは伝えたかったんだ……俺が俺だってわかってくれて……話を聞いてくれてありがとう……」
「先輩!」
ポロポロと涙を零すまどかさんの隣で、裕太さんもこぶしを握り締めて深く俯いた。
「やあ……なんだか恥ずかしいところを見せちゃったね……」
しばらく話をした後、三年生の二人が音楽室を出て行ってから、諒の中の『柿崎さん』は、おもむろに私に向き直った。
「学年的には君より三つ上になるのかな……? 柿崎真也です……」
ペコリと頭を下げられたので、私も思わず頭を下げる。
「あ……近藤琴美です……」
中身は別の人だとわかっていても、私の名前なんてあきあきするぐらいに知っている諒相手に自己紹介しているみたいで、なんだか妙な気分だった。
「話はだいたいわかったと思うんだけど……そういうわけで、君にも、この『諒君』にも迷惑をかけた……あとでよろしく言っといてね……」
パチリと片目をつむって見せられて複雑な心境になる。
「それって……もう先輩は諒の中からいなくなるってことですか……?」
柿崎先輩は笑いながら小首を傾げた。
「うーん。確信があるわけじゃないんだけど……こういう場合は心残りが解消されたら成仏するもんなんじゃないの……? だから多分、もうすぐお迎えが来るんじゃないかなあ……?」
「そうですか……」
沈んだ声を出した私に、先輩はニッコリ微笑んだ。
「何? ひょっとして寂しくなっちゃった……?」
「そんなことはないです!」
憤然と顔を上げたら、冗談ぽく肩を竦められた。
「ただ……本当に、もうこれでいいのかなって思って……」
先を促すように私の顔をじっと見つめている視線から目を逸らさずに、私はさっきから考えていたことを彼に告げた。
「だって先輩……まどか先輩たちと昔話で盛り上がっただけで、肝心なこと言ってないじゃないですか……」
「肝心なこと……?」
「はい……好きだったんじゃないんですか? まどか先輩のこと……それなのにそんなこと一言も……」
先輩はすっと人差し指を伸ばして、私の唇に当て、「それ以上は言わないように」という意志を示した。
「俺はもう死んでる人間なんだ……今さら言ったってどうにもならないこともある……」
「でも……!」
真っ暗な音楽室の中に射しこんでくる月の光を背に受けて、先輩は寂しそうに笑った。
「伝えたって悲しくさせるだけの想いなら、伝えないほうがいい……」
「………………」
それ以上食い下がることは、私にはできなかった。
柿崎先輩とまどか先輩と裕太先輩は、幼馴染だったんだそうだ。
二つ年下の二人を、柿崎先輩は同じぐらい大好きだと笑った。
「裕太が俺と一緒で、まどかのことを好きなのは子供の頃から知ってた……いつかは殴りあいでもするかななんて、冗談みたいに考えてた……こんなことになって、すごく悔しくもあるけど、ホッとしてもいる……どうしたって俺に遠慮しちゃう裕太相手じゃ、ほんとは喧嘩だってできなかっただろうし……だからいいんだ。もう余計なことは何も言わなくていい……」
「先輩……」
彼は寂しそうに切なそうに、でも本当に綺麗に笑った。
「大切なのは、できる時に精一杯のことをやっておくことだよな……変な意地張ったりしないで、プライドなんか捨てて、正直な気持ちを相手に伝えておくことなんだって、今だからわかるよ……だから体を貸してもらったお礼に、この『諒君』を俺なりに手伝ってやったつもりなんだけど……」
「…………?」
首を傾げる私に向かって、先輩は一歩ずつ近づいてくる。
全身から漂うなんだか変な雰囲気と、たった今聞かされたばっかりの意味深な言葉に、どうしようもなく胸がドキドキする。
「だからハニー……」
背中がむず痒くなるようなセリフも、こんな幻想的な月光の中じゃ、あまり場違いには思えないのはなぜだろう。
でも人選がまちがってる。
こんな素敵なシュチュエーションで、見つめあっているのが私と諒だってのが、どう考えてもおかしい。
「あの、先輩……?」
恐る恐る呼びかけた私の両肩を、先輩がガシッとつかんだ。
「アイラブユー。ハニー」
(この上なく真面目な顔で諒が私にそんなことを言うなんて、絶対に違うから!)
さっさと逃げ出そうとするのになかなかそうはできない。
小柄なくせに諒のやつ、結構力がある。
「ちょ、ちょっと待って!」
必要以上に近づいてくる可愛い顔に心底焦って、私は諒の体を押し戻そうとするのだが、ピクリとも動かない。
「先輩! 先輩ってば! ぎゃああああ!」
自分のすぐ目の前で目を閉じた諒の長い睫毛を見つめながら、私は悲鳴を上げた。
その瞬間、私と諒の顔の間に大きなてのひらが割って入った。
「ストップ。さすがにこれはやりすぎでしょ、先輩」
諒の顔を大きな手が押し戻す様子を、呆然と見つめる私の耳に、よく知る声が聞こえてくる。
(これってまさか……!)
ガバッと背後をふり返った私は、色素の薄い綺麗な瞳とバッチリ目があって、慌ててその広い背中の向こうに逃げ込んだ。
「貴人!」
ギュッと上着の背中の部分を力任せにつかむと、貴人が小さく息を吐く。
「すっかり恐がっちゃってるじゃないですか……遊ばないで下さいよ……」
諒の中の柿崎先輩は、貴人の右手一本で後ろに下げられて悔しそうに手足をバタバタさせていた。
「遊びなんかじゃないさ。ほんとに、お礼にと思ったんだ……! だってこの『諒君』の頭の中って、彼女のことでいっぱいなんだよ……?」
「だけど実際……諒と琴美は恋人同士なんかじゃないです……」
「えっ? まさか片思い中だったの? ……じゃあ悪いことしたかな……?」
「……先輩」
深々とため息をついた貴人の声が、いつもより棘があるような気がするのは気のせいだろうか。
うしろ姿しか見えない私には、なんとも判断がつかない。
「そういうことは、本人にしかわからないんだし……もしたとえそうだとしても、先輩だったらそれを他の人に代弁して欲しいですか?」
「絶対に嫌だね」
「でしょう……? だったら少し察してあげて下さい……」
柿崎先輩はハッとしたように瞳を瞬かせると、貴人に向かって頷いた。
それからおもむろに私に向かって頭を下げた。
「ごめん。今まで俺が言ったことは全部忘れて下さい」
私だってそんなことはわかってる。
諒が私のことで頭がいっぱいなんて、悪口を考えてるのか、今度の試験でも勝ってやるぞと闘争心剥き出しなのか、おおかたそんなところだ。
(だけど散々私を振り回しておいて、『全部忘れて下さい』はないでしょう!)
「じょ、冗談じゃないわよ!!」
叫ぶ私の声を背中に聞きながら、貴人の肩が小刻みに揺れ出す。
「ちょっと、貴人……?」
つかんでいた上着を軽くひっぱりながら訝しげに問いかけたら、声に出して大笑いを始められた。
「もう! 貴人っ!」
彼が現われた瞬間、どんなに嬉しかったかなんてことも忘れて、肩を揺すって大笑いする貴人に、私は抗議の声を上げた。
「で? 何がどうなって、俺は音楽室のピアノの前で寝てたんだよ?」
無理な体勢で寝たためにすっかり凝り固まってしまった首をコリコリと鳴らしながら、諒は私たちにそう問いかけた。
『七不思議合宿』二日目の朝。
みんなで朝食を食べながら、今日これからの解散式について話を詰めていた『HEAVEN』のみんなは、全員がキッと寝不足の目を諒に向けた。
「いいよ、知らなくて! ……っていうか知らないほうがいいんじゃないの?」
夏姫に冷たく言い放たれて、諒は不審げに首を捻る。
「なんだよそれ……どういう意味だよ?」
「だから! あんたは何も知らなくっていいってことよ!」
力の限りに叫んだ私に向かって、諒はこの上なく嫌な顔をしてみせた。
「なんでお前にそんなこと言われなきゃなんないんだよ!」
態度は劣悪そのものだったのに、不覚にもぐっと来た。
(あっ……いつもの諒だ……!)
そう思っただけでホッとして、思わず気が緩んだ。
「げっ! なんで泣くんだ? お、おかしいだろ、おい……お前らしくないぞ……?」
「うるさい! なんとでも言って! あんたなんて……あんたなんて……!」
涙が止まらない。
悪態つかれて嬉しいなんて、自分でおかしいと思うけれども、しょうがない。
約二週間ぶりに、本当の諒が帰ってきたようなものなんだから仕方がない。
「琴美……」
隣に擦り寄ってきたうららを抱き締めて、私はポロポロと涙を零した。
「おい……」
諒はすっかり気をそがれてしまったらしく、それ以上はもう文句を言わなかった。
貴人が音楽室へと来てくれたあの後、待てど暮らせど『その時』は来なかった。
――本望を遂げた柿崎先輩が天に召され、諒の体から出て行ってくれる瞬間。
「おかしいな……なんでかな……?」
首を捻る先輩に、貴人はニッコリ笑って提案した。
「先輩。ピアノ弾いたらどうですか? 参加出来なかったコンクール本選だって、かなり心残りだったんじゃないですか?」
「そうか! そうだな」
嬉しそうにピアノの前に座った先輩の演奏は、夜が明けるまでずっと続いた。
とっくに終わった『七不思議検証』の持ち場から、ピアノの音に惹かれて音楽室へと集まって来た『HEAVEN』の仲間たちは、私と貴人に付き合って、先輩のピアノを一緒に聞いてくれた。
しかし先輩の膨大なレパートリーがなくなっても、諒の体にはまだ何の変化もない。
(ま、まだかしら……?)
窓の向こうから眩しい朝日が射しこむようになった頃、じっと耐え続けているみんなの辛そうな様子を見ながら、智史君が口を開いた。
「どうですか……? もう、心残りはないですか?」
額に汗を浮かべながら、肩で大きく息を繰り返している諒(中身は柿崎先輩)は、うんうんと頷いた。
「そんなもの、もうとっくにないよ!」
智史君はニッコリと微笑んだ。
いつもは天使のようなその微笑みが、今日は眼鏡をかけていないにも関わらず、ちょっと黒いような気がしたのは、私の気のせいだろうか。
「じゃあ、そろそろ時間なんでうららを起こしますね」
(それが先輩といったいどんな関係が?)
首を捻る私の目の前で、智史君は大事に腕に抱えていたうららの耳に口を寄せ囁いた。
「うらら。朝だよ……起きて」
ピクリとうららの真っ白な頬が震えたかと思うと、パッチリと目も開いた。
「おはよう、うらら」
「おはよう、智史」
あまりにも良すぎるうららの寝起きだが、完全な二人の世界を邪魔する気は私にはない。
いつものことだと思って見て見ぬフリをしていた私の前を通り過ぎ、立ち上がったうららは真っ直ぐに柿崎先輩に近付いて行った。
ピアノの前の椅子に座る先輩をチラリと見下ろし、智史君をふり返る。
「もう帰してもいいの?」
「ああ。本人がそう言ってたから」
笑顔で答えた智史君に、うららは小さく頷くと、すっと柿崎先輩の額に手を当てた。
「帰りなさい。本来あるべき場所に」
フッと諒の体から力が抜けるのが、見た目にもよくわかった。
崩れるように床に倒れそうになった体を、剛毅が抱き止める。
同時のに倒れたうららも、いつの間にか再び目を閉じ、智史君に抱きかかえられている。
「ごくろうさま……」
眠るうららに向けられた智史君の笑顔が実はちょっと恐くて、私は言いたかった言葉を何ひとつ言えなかった。
(う、うららがお祓いみたいなことができるんだったら……最初っからそう言ってよ! 私の苦労はなに……? お小遣いはたいて買いこんだお守りと護符は、いったいなんだったの!)
怒りの言葉は、一言も口には出せなかった。
「まあいいか……準備段階から全然覚えてないんだけど、企画が一つ終わったんだったら、それでいいってことで……」
誰にも詳細を教えてもらえない諒は、どうやら開き直ることにしたようだ。
「キャンプだとか、旅行だとか、肝試しとかって希望はもう聞いたことになるんだろ? だったら結構、数も減っただろう……よしよし」
腕組みする諒の目の前に、貴人が一枚の用紙を取り出した。
「それにこれもね……」
用紙を貴人から受け取った諒は、声に出して読み上げる。
「なんだよ……『柿崎先輩に会いたい……』って……なんだこれ?」
「………………!」
私は思わず貴人の顔を仰ぎ見た。
貴人はニッコリと笑いながら頷いてくれた。
「叶ったよ……ね?」
「そうね……本当に良かったわ……」
美千瑠ちゃんの呟きに、あちこちから賛同の声があがる。
「そうね……」
「そうだね」
しみじみと言葉を交し合う仲間の中で、諒だけがムッと口を尖らす。
「なんだよ! 俺だけ仲間外れかよ!」
繭香がチラリと諒に視線を向けた。
「どうしても知りたいんだったら琴美に聞け! それ以外の人間は教えることを禁じる!」
いったいどんな権限での発言なのだろう。
冷静に考えればおかしな話なのに、『HEAVEN』のみんなは繭香に逆らう気はない。
――それはグッと息をのみこんだ諒も一緒。
「わ、わかったよ!」
クルリとみんなに背を向けた諒を大きな声で笑いながら、貴人は私に囁いた。
「いつか話してあげてよ」
「うん……」
寝不足の頭は重く、体はクタクタだけれど、いつもどおりの貴人の笑顔と、いつもどおりの諒のむくれた顔が、妙に眩しい、爽やかな夏の朝だった。
夏休みとは名ばかりの、課外授業の毎日。
一日四時間の授業は、クーラーのない真夏の教室が殺人的な気温に到達しないうちに、朝早い時間から開始され、昼には終わるように計画されている。
なのに私は毎日、授業が終わるとお昼ご飯を持って、結局午後からは『HEAVEN』にいるのだから、今がまだ休み中であるという感覚はほとんどない。
「あーあ……結局プールにも海にもいけないまま、夏休みが終わるのか……」
窓際の自分の席で、いつものように開けっ放しの窓から頭だけ外に出してため息をつくと、隣の席で机に突っ伏していた諒が、チラリと冷たい視線をこちらに向けた。
「プールならお前……合宿の時にも泳いでただろ……」
「学校のプールの話じゃないわよ! こういう場合のプールは、ちょっと大きな遊泳施設に決まってるでしょ! 波のプールやウォータースライダーなんかがあるところよ……!」
私がすかさず反論すると、むっくりと頭を起こして、諒は顔ごとこちらを向いた。
「とかなんとか言いながら……合宿二日目の日は散々昼寝したあとに、ガンガン泳いでたじゃないか。波もウォータースライダーもありゃしない学校の二十五メートルプールで……全力遊泳!」
皮肉たっぷりの言葉に、私はこぶしを握り締めた。
「いいじゃないのよ! あれはあれでスッキリしたかったの! 思いっきり体を動かして、きれいさっぱり忘れたいことが……私にだってあるのよ!」
「だいだい全部諒のせいじゃないのよ!」
とは、今は言わないでおく。
合宿の夜に諒の身に何が起こったのか。
まだ本人には何も話していない。
繭香が「琴美以外の人間は教える事を禁じる」宣言をした以上、教えてあげられるのは私だけなのだが、諒の方が聞いてこないのでそのままにしている。
夏休みに入る前から記憶がほとんどないことなんかを考えて、諒も自分でおおかた見当はついているのだろう。
あまりそういう関係の話が得意じゃないのはお互いさまだ。
もう蒸し返す必要もないだろうと、私は諒の心理を勝手にそう解釈している。
「別にいいじゃないか、また学校のプールででも泳げば……部活の連中だって、たまには練習のあとに泳いでるぞ? 見つかったら水泳部と先生に、二重で怒られるけどな……」
部屋のほぼ中央の席で汗を拭き拭き領収書の整理をしていた剛毅が、淡々と言ってのけた。
私はがっくりと肩を落とす。
「そうじゃなくって……」
そう。
私が言いたかったのはそういうことではないのだ。
プールや海というのは、言わばものの例え。
本当に言いたかったのは――。
「なあ……特にすることもなくって毎日暇じゃねえ? 新しい企画、まだかな? 貴人は何も言ってなかった……?」
毎日『HEAVEN』に顔を出しているわけでもない順平君の、アイスクリームを食べながらの問いかけに、「そう! それよ!」と駆け寄って握手したい気分だった。
なんとなく集まって、なんとなくこの間の企画の事務処理を続けてはきたが、そろそろこの部屋で、暑さにうだりながらやる仕事もなくなってきた。
(何かやることないのかなー。何もないんだったらみんなで遊びに行くんでもいいんだけど……)
その思いが、きっと私に、海とかプールとかいう言葉を出させたのだ。
しかし――。
『HEAVEN』に今日集まっているのは、私と諒と剛毅と順平君と玲二君だけ。
いつも以上に参加人数が少ない上に、肝心の貴人まで珍しくまだ来ていない。
順平君の問いかけにみんなが首を横に振って、貴人からは何も聞いていないと返事する様子を確かめてから、私はガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。
「暑いから暴れんな……」
隣で呟いた諒の頭は、一発殴っておく。
「繭香だったら何か知ってるかも……! 私、ちょっと聞いてくるね!」
やること発見、とばかりに歩き出した背中に、諒の声がかかった。
「あまりにも暑いからってお前……自分だけ繭香のいる保健室に涼みに行こうとしてるんじゃないだろうな?」
「違うわよっ!」
ふり向きざまに叫んだら、ちょうど部屋に入って来た人物とドシンとぶつかった。
「ごめん! ……あれっ、琴美? どこ行くの?」
貴人だった。
両手で肩をつかまれ、顔を覗きこまれた格好のまま、私は静かに首を振る。
「いや……どこにも行く必要はなくなったわ。たった今……」
プッと吹き出した貴人が大笑いを始めないうちに、さっさと背を向けて自分の席に帰る。
「残念でした」
諒が嫌味に笑いながらこちらを見るので、もう一度殴ろうとしたが、今度は上手くかわされてしまった。
そんな様子を微笑んで見ながら、貴人は部屋の最奥の自分の席についた。
「夏休みもあと一週間なわけだけど、そろそろ文化祭の準備を始めたほうがいいと思って……」
言いながらバサバサと大量の書類を机に積み始める貴人に、みんな一斉に驚きの声をあげた。
「文化祭!!」
私ももちろん、一番大きな声で叫んでいた。
「だ、だってまだ二ヶ月も先の話だろ?」
玲二君の言葉に、同意の意味でみんながうんうんと頷く。
文化祭がおこなわれるのは、例年十月の終り。
しかも我が星颯学園の文化祭は、文化祭とは名ばかりの、自由参加の文化部発表会なのだ。
各教室に展示されているのは、美術部や写真部の作品か、科学部や○○同好会の活動報告なんかだけ。
各クラスごとの取り組みはないから、お化け屋敷はもちろん、模擬店だってない。
舞台発表のほうも、吹奏楽部や演劇部や合唱部ぐらいしか参加しないから、午前中で終わってしまう。
観客は、自分も舞台に立つ文化部員だけ、という悲しさ。
生徒の多くは無欠席の記録を残すために学校に来るには来るが、自分の教室か図書室で勉強をしているという実に意味のない文化祭を、実は私も去年は過ごした。
しかし――。
「うん。せっかくだからこれまでとはいろいろと変えようと思って……そうすると準備に時間がかかるから、早めに始めなくちゃね……!」
楽しげな貴人の声に、諒がむっくりと体を起こした。
剛毅も玲二君も順平君も姿勢を正して、貴人の次の言葉を待ち構えている。
私だって、待ってましたとばかりに期待の目を向けた。
貴人はそんなみんなの顔を見渡して、満足げに微笑む。
「今年は各クラスごとに展示を一つ、舞台発表を一つやってもらおうと思ってる。せっかく二日間もあるんだから、一日交代でできるだろ? 舞台発表は有志の参加も受け付けて……それから後夜祭。そこでダンスパーティー。告白タイムを設けてくれって意見もあるな……ミスコンにミスターコン。学校中使ってのトレジャーゲーム……ってこれを、生徒会の展示にすればいいか……後は仮装行列……これは来年の体育祭にまわすとして……」
延々とどこまでも続きそうな話に、私は恐る恐る途中で口を挟んだ。
「あ、あの……貴人? 今、言ったやつ全部やるの? 二ヵ月後の今年の文化祭で?」
「ああ」
さも当然だと言わんばかりに、貴人は力強く頷いた。
手には例のアンケート用紙が何枚も握られている。
「まだまだあるよ。『美千瑠さんのドレス姿が見たい』とか、『智史君の写真が欲しい』とか個人に的を絞った希望もかなり寄せられてるから、それを全部含めて、生徒会の舞台発表は劇をしようかと思ってる……」
「ち、ちょっと待って……!」
ざっと聞いただけでも、完全に私の行動可能範囲を越えている。
私の人よりちょっと回転の速い頭が、フルスピードでまわり始めた。
(つまり……何?『HEAVEN』として文化祭の準備をしながら、自分のクラスの展示と舞台発表にも参加し、その上『HEAVEN』でも展示と舞台発表をするってこと? ……無理! 何よりもまず、学校一クラスの仲が悪い二年一組がみんなで何かを作り上げるってことが、絶対に無理!)
心の動揺はいつもどおり、すっかり顔に出てしまっていたようだ。
「大丈夫だよ」
貴人は笑い、諒はため息をついた。
「俺だって嫌だよ……お前がクラスの連中ともめるのを仲裁してまわるのは……」
「毎回毎回そんなことしないわよ! 失礼ね!」
私は憤然と諒を睨みつけた。
(私だっていつも柏木たちともめてるわけじゃないわよ! あっちが何もしてこなかったら、大人しくしてるわ……きっと……多分……)
だんだん自分で自分に自信がなくなっていく心理も、どうやら余すことなく顔に書いてあったらしい。
貴人は肩を揺すって大笑いを始めた。
「大丈夫だよ、琴美……ハハハッ、大丈夫」
お腹を抱えて大笑いされると、いかに貴人の言葉とは言え、あまりにも信憑性がない。
ムッとむくれる私に、貴人は涙を拭き拭き謝った。
「ごめんごめん……『HEAVEN』でやる劇の内容だったらもう決めてあるから、そんなに大変じゃないと思うよ。『白雪姫』をベースにアレンジして、お姫様や王子様が出てくる童話チックな話をやるんだ。主役の姫は夏姫に決定……!」
「夏姫!?」
叫んだのは私ではない。
剛毅と玲二君が同時だった。
「無理! ……無理無理! っていうか、それ……本人が聞いたら怒り狂うぞ?」
「なんで夏姫? いかにも『姫』が似合いそうな女子が、うちには他に何人もいるじゃないか……!」
部屋の中を見回そうとして、玲二君はそれをやめて、もう一度貴人に視線を戻した。
確かに今日は女子の出席率が悪いが、私だけはここにいるのだが――。
口に出して言うと虚しくなりそうな言葉は、心の中だけに止めておいた。
「ちゃんと理由はあるよ。でも例によって俺の秘密行動の分野だから、それはまだ教えられない……夏姫の説得はちゃんと俺がやるから……」
自身満々に貴人は笑うけれど、夏姫の嫌そうな顔は私にだって見える気がした。
「ひょっとしてそれも……例のアンケートに関係あるのか?」
諒の問いかけに、貴人は悠然と微笑んだ。
「だからまだ内緒だよ。……美千瑠は文化祭実行委員長として、もう学校側との話し合いに参加している。智史は各文化部に連絡を取り始めた。うららはポスター作成。今回はいろいろと作るものが多いだろうから、みんなも手伝ってやって……順平は『HEAVEN』の展示・トレジャーハントの担当。後夜祭は可憐。剛毅と玲二が舞台のタイムスケジュールを組んで、仕切って、展示の方の場所の割り振りは琴美と諒。繭香はいつもどおり、総監督。俺は秘密行動。そして今回、夏姫は……舞台に向けての練習と役作りに集中。……これでいいかな?」
次々と述べられた鮮やかな役割分担に、条件反射のようにうんうんと頷き続けていて、今回はうっかり「なんでまた諒とペアなのよ!」と声をあげそびれてしまった。
隣に座る諒も、それどころではないような表情でため息をついている。
「絶対に嫌だって言うと思うぞ……夏姫……」
「大丈夫。きっと説得してみせるから」
貴人はもう一度自信満々に言って、瞳を煌かせた。
貴人の笑顔で「何もすることない」という不満が吹き飛んだ途端、とけそうな暑ささえ気にならなくなり、ドキドキするような期待と不安がいっぺんにやって来た八月の午後だった。
「は? なんであたし? ……冗談でしょ?」
翌日、部活に行く前にちょっとだけと『HEAVEN』にやって来た夏姫に、二ヵ月後の文化祭で劇の主役に決まったと伝えたが、怒り狂うどころか、ちっとも信じてもらなかった。
「だってお姫様でしょ? 美千瑠は? 繭香だって可憐だっているじゃない……うららだっていいし……あたしなんかお呼びじゃないわよ!」
(どうしてそこで私の名前だけあげないの……!)
口に出すと虚しさだけがつのるセリフは、心の中だけで叫ぶ。
「でも貴人はそう決めたって言ってたよ? ……まあ確かになんかわけはありそうな感じだったけど……貴人が決めたんなら決定でしょ?」
「いやよ」
夏姫の拒否の言葉は極めて速く、なんの迷いもなかった。
「そんなこと言ったって……」
口ごもる私の肩を、トントンと剛毅が叩く。
「いくら言ったって無駄だって……貴人が自分で説得するって言ってたんだから、任せとけばいいんだよ……」
「なんて言って頼まれたって、絶対にあたしはやらないわよ!」
肩を竦める剛毅に向かって、夏姫がキリッと眼差しを強くした瞬間、部屋の入り口のほうから声がした。
「でも……頼みじゃなくって取り引きだったら、夏姫は応じるだろ?」
貴人だった。
いつものように余裕の笑顔で、トゲトゲに態度を硬化させている夏姫にも、なんのためらいもなく歩み寄る。
「夏姫が劇で主役をやったら、来年のインターハイ予選に俺も参加するよ」
「ほんとにっ?」
拒否が速かった夏姫は、食いつきも速かった。
「水泳部のほうに……とか、サッカーの試合が……とか言わない?」
「ああ。今度はちゃんと陸上部に参加する。だから……」
「わかった」
「ええええっ?」
私は思わず驚きの大声を上げてしまった。
(あ、あんなにきっぱりはっきりと断ってたくせに、いいの? こんなに簡単にひき受けちゃうの?)
心の中で叫んだだけだったのに、夏姫は私に向かっていとも簡単にこっくりと頷いてみせた。
「来年の夏の貴人を今から予約できるんだったら、これくらい安いものよ……ほんとは嫌だけど、しょうがないから受けてたつわ!」
「受けてたつって……」
頼もしい言い回しに微妙に不安にならずにいられない私に向かって、夏姫は右手をL字型に曲げ、細い腕に出来た立派な力こぶをポンポンと叩いてみせる。
「姫でもなんでもやってやろうじゃない! 気合いでやり切ってみせるわ!」
「うん。頼むよ」
笑顔で頷く貴人以外は、その場にいた全員、微妙に不安にならずにはいられない夏姫の意気ごみだった。
夏休みが終わるとすぐに文化祭の計画は全校生徒に発表され、まだ二ヶ月もあるというのに、すでに学校中が文化祭一色の雰囲気だった。
「後夜祭もあるんだって」
「ついに模擬店も出るんだね……楽しみ」
「初代ミス星颯は誰だと思う?」
聞こえてくる声はどれも今回の計画を喜んでくれているようで、やることは多くてたいへんだが、私の心も浮き立つ。
しかしワクワクとする気持ちも、一歩自分の教室に踏みこむと、穴のあいた風船みたいにシューッとしぼんでしまうのだった。
「なんで全クラスが参加しいないといけないわけ?」
「文化祭なんてやりたい奴らだけやればいいんだよ」
「図書室で勉強してるほうがよっぽど有意義だ」
嫌味ったらしく私の近くで囁かれる否定的な意見に、バアアンと机を叩いて立ち上がったり、「あんたたちねぇ!」と叫び出したい思いを私は必死でこらえていた。
隣の席の諒があからさまに「大丈夫か、お前?」と言うような目を向けるので、なおさらここで自分の短気に負けるわけにはいかない。
「だ、大丈夫よ……」
引きつった笑顔を向けたら、ブッと吹き出された。
まったく失礼な奴だ。
「とりあえず……展示のほうは何か簡単に調べられる物を教室に展示して、舞台のほうは歌でも歌っておけばいいんじゃないか?」
文化祭での出し物を決めようという話し合いでも、おざなりに誰かが提案したもの以外には他に意見もなくて、我が二年一組の演目は、実にやる気のないものに決定しようとしている。
(あのねえ……いくらなんでもそれはないでしょ!)
やっぱり我慢できなくて、満を持して立ち上がろうとしたのに、諒に先を越された。
「あらかじめ参加者を募っておいて、当日、舞台でクイズ大会でもやれば? そこで優勝した奴が、この学園で一番知識多い人間ってわけだ……まあ与えられる称号はクイズ王でも雑学王でもいいけどさ……」
キラーンと、二年一組三十六名中三十名以上の目つきが変わった気がした。
「この学園で一番……! 王……!」
とにかく周りよりも一つでも成績の順位を上げることに余念がない我がクラスで、みんなが注目せずにはいられない言葉の使い方を、諒はよくわかっている。
クラス委員をしている柏木一派の黒田君も、まるでもうそれが決定事項であるかのように、黒板にでかでかと『クイズ大会』と板書する。
「予選はやっぱりペーパーテスト?」
「もちろん俺たちだって出場できるようにするよなあ?」
「希望者ばかりじゃなくて、こいつはって奴には出場を打診することにすれば?」
途端に活発に交わされ始める意見。
放っておいても、どうやら熱のこもった舞台発表ができそうだ。
(やるじゃない……!)
素直に功績を称える気持ちで視線を向けると、諒は偉そうに顎をつんと上向けて胸を反らした。
「俺は出場者にまわるからな……お前も出ろよ? 絶対に貴人も出場させてやる!」
「諒……前回、一学期の期末テストで負けたもんだから、ひょっとして自分が貴人と勝負したいだけ……?」
まさかと思って尋ねてみると、諒はただでさえ大きな目をくわっと見開いて、私を睨んだ。
「悪いか?」
「…………別に悪くは無いわよ……」
諒の本来の目的を知る由もなく、クイズ大会の細かな内容を詰めるための話し合いは、どんどん進んでいくのだった。
お昼休み、三組からふらっとやって来たうららと佳代ちゃんと共に、繭香も誘って、中庭の芝生でお弁当を食べた。
九月になったばかりでまだまだ陽射しは暑く、じっとしているだけで汗ばんできそうなのは、教室にいたって外に出たって同じ。
だったら外のほうが風が吹くだけましなんじゃないかと移動してみたのだったが、正解だった。
木陰に入っていればかなり涼しい。
「だけど良かった……舞台発表が合唱にならなくて……」
佳代ちゃんの呟きに繭香が訝しげに首を傾げる。
佳代ちゃんはちょっと困ったように、照れたように小さく笑った。
「私、よくピアノ伴奏を頼まれるから……でも大きな舞台に上がると緊張しちゃうし、今回はもう別のところでやらなきゃいけないことがあるから、いくつもいっぺんに練習するのは難しいし……」
納得したようにコクコクと頷く繭香の横で、私は何気なく尋ねた。
「へえー、もう何か決まってるんだ……どこの手伝いをするの?」
佳代ちゃんは私の顔と繭香の顔とうららの顔を順番に見た。
「本当は関係者以外には秘密って言われてるんだけど……三人とも『HEAVEN』のメンバーなわけだから、各クラスの出し物は結局把握するんだもんね……」
「ああそうだな」
繭香の言葉を聞いて、ホッとしたように佳代ちゃんは続けた。
「二年五組よ。吹奏楽部の部員が多いから、生演奏でミュージカルをやるんだって……」
(なるほど……)
納得した。
きっと渉づての依頼なのだろう。
頬をちょっと染めて、そのくせ私のことを気にして表情をひき締めて、佳代ちゃんは早口で簡単に告げた。
「ミュージカル? しかも生演奏? そんなものやるのか五組……?」
呆れる繭香に向かって佳代ちゃんはニッコリと笑う。
「うん。主役は杉浦さんだって言ってたよ……」
「美千瑠! そうか……私たちの劇では主役を張らなくていいわけだからな……」
「うん」
「それにしたってたいへんだと思うよ? 美千瑠ちゃん、文化祭の実行委員長なんだし……」
私の心配に答えるように、これまで話を聞きながら黙々とお弁当を食べていたうららが突然口を開いた。
「美千瑠だけじゃない。六組のバンド演奏は順平が中心。三組のゲーム喫茶は智史が監修。きっと二組も……」
クルリと首を向けたうららに対して、繭香は忌々しげに頷いた。
「ああ、もちろん貴人を中心に展示も舞台もやるだろうな。とうの本人がノリノリだからな」
「凄っ!」
みんないったいどこにそんな余裕があるんだろう。
私なんて『HEAVEN』の出し物のほうも、クラスの出し物のほうも、その他大勢として参加するだけでいっぱいいっぱいなのに。
「でも今のところ一番凄いのはうららだ。ポスターもパンフレットも、一人で全部の原画を描いている……」
繭香の指摘に、思わずビックリしてうららの顔をマジマジと見てしまった。
「そ、そうなのうらら?」
「うん。だからあまり寝ていない。今朝起きたのは四時」
「四時!」
夜八時には眠ってしまううららのことだから、せめて早く起きて作業しようということなのだろうが、それにしても四時は早いと思う。
思わず叫んだ私の顔を真っ直ぐに見つめるうららの瞳には、実際には何が映っているのかよくわからない。
それぐらいに綺麗で不思議な色をしている。
「琴美……眠い……」
ガックリと細い首を折って、うららが私の肩の上に頭を乗せてきた。
いつでもどこでも寝れる特技を、今この場所で実行するように決めたようだ。
「ち、ちょっとうらら?」
とまどう私に繭香は言った。
「寝かしてやれ。起こすのは簡単だ。智史が声をかければ、それでいい。わざわざ呼びに行かなくても、うららがどこにいるのかだったらきっと把握してるだろう」
促されるまま第一校舎の二階を見上げると、三組の窓から智史君がニコニコと手を振っている。
(ほんとだ……)
私も手を振り返して、うららはしばらく休ませてあげることにした。
すうすうと軽い寝息をたてる彼女の頭を、不思議なことに私はいつだって重いと感じたことはなかった。
「違う! 違う! ちっがーう!!」
体育館の舞台に上がっての立ち稽古の真っ最中。
ようやく形になりつつある劇の雰囲気をぶち壊しにするような声が、もう何度目か、私たち『HEAVEN』の『白雪姫』の劇の練習を中断させる。
叫んでいるのは、脚本と演出を一手に引き受けた貴人ではない。
主演女優の夏姫――その人である。
「そうじゃないのよ! 白雪姫ってのは、絶対にこんなキャラじゃないのよ!」
主役である自分の役柄がどうにも納得いかないらしく、頭をガシガシとかきむしりながら、今日何度目かわからないセリフを必死で叫ぶ。
「ねえ……白雪姫ってもっと可愛らしくて女の子女の子した姫でしょ? 小人と一緒に畑で鍬を奮ったり、訪ねて来た継母を素手で撃退するような姫じゃないわよね?」
夏姫の戸惑いと困惑はもっともだった。
劇の台本と言って貴人がみんなに手渡した冊子には、こと細かにセリフが書いてあるわけではない。
その場面に誰がいるのかの人物名と、話の流れだけが大まかに記してある。
ページのほとんどに「セリフと動きは個人の判断で」とか「その場の雰囲気で」とか書かれており、出演者の解釈次第でどうとでもなる内容だ。
書かれたとおりに自由にやった結果、思った方向とはどんどんかけ離れていくようで、夏姫のイライラは募り続けている。
「ねえ……小人がもっと優しく守ってくれたら、私の姫だってもっと可愛らしくなるんじゃない?」
七人の小人に扮した私たちに向かって、夏姫は仁王立ちで腕組みをしながらそんなことを言った。
(いや……そのポーズからして『可愛らしい』にはほど遠いから……)
面と向かって突っこむ勇気がなく、さり気なく目を逸らす私とは真逆に、隣にいた順平君は素直な声を上げた。
「だってさあ……例え森の中で熊に襲われたって、腕の立つ殺し屋が家に忍びこんできたって、絶対俺らより夏姫のほうが強いぜ?」
(こ、この正直者!)
夏姫はちょっと目尻の上がった勝気そうな瞳を、ずらりと横一列に並んだ私たちに順番に注いだ。
「確かに……私の白雪姫より頼りになりそうな小人なんていないわね……」
七人の小人の役になっているのは、右から順に美千瑠ちゃん、可憐さん、順平君、私、うらら、智史君、諒。
繭香を除いて身長の低いほうから七人を選んであるので、私たちに囲まれると、ただでさえ等身が高くて背が高く見える夏姫は、なおさら大きく見える。
しかも小人の七人はほとんどが文化部系なので、順平君の言うとおり、よく日に焼けた夏姫が一番腕っぷしが強く見えるのは確かだった。
「しかも王子まで……体だけ大きくって赤面症の内気王子だし……」
舞台袖で、ドキドキする胸を押さえながら出番を待っている玲二君に目を向けて、夏姫は大きな大きなため息をついた。
「ねえ貴人……やっぱり……」
「ダメだよ。キャスト変更も脚本変更も受けつけない。夏姫が主役を降りたら、その時点で俺との約束もなしだから……!」
舞台正面に置いたパイプ椅子に深々と座り腕を組んで、まさに『監督』というようなポーズで私たちの稽古を黙って見ていた貴人は、夏姫の不満をニッコリ笑いながら一刀両断にした。
「うっ……」
貴人ととりつけた、来年の夏陸上部に参加するいう約束だけは、どうやら夏姫にとってどうしても譲れないものらしい。
気分を変えようとするかのようにブンブンと肩を回して、再び私たちに向き直った。
「しょうがない……もう一度、最初からやるわよ……!」
「う、うん……」
慌てて所定の位置に移動しながらも、こんな調子で本当に文化祭にまにあうのかと、不安にならずにはいられない私だった。
『白雪姫』の劇をやるに際して、貴人は設定をいじったり、特に話の筋を変えたりはしないと言った。
「同じ役でも、誰がやるかによって自然と違ってくるものだからね」という言い分は確かに正しいが、夏姫が気にしているとおり、話がだんだん原作からズレていっているのは確かである。
物語の序盤で、剛毅扮する猟師に姫が殺されようとする場面でも、当の姫が恐がっている様子はない。
それどころか猟師を返り討ちにしそうな貫禄である。
繭香扮する継母が姿を変えて訪問しても、妙に落ち着いてどうどうとしている夏姫の姫は、とてもそんな変装に騙されそうには見えない。
あっさりと継母の企みを看破してしまいそうだ。
「違うってば! こうじゃなーい!」
夏姫の叫びを笑いながら見ている貴人は、すでに肩を揺すって大笑いを始めている。
「いいんだよ。夏姫は夏姫らしく姫を演じれば……それで……!」
そのため、一見良いことを言ってそうな言葉にも実に信憑性がない。
「もういいっ! 今日は終りにするっ!」
夏姫が怒って舞台から降り、体育館を出て行ってしまうまで、結局私たちは何も為す術がなかった。
「なあ貴人……」
涙を拭き拭きようやく笑うのを止めた貴人に、今日はとうとう出番のなかった玲二君が歩み寄る。
「怒ってるようにしか見えないだろうけど……あれって結構困ってるんだよ、夏姫は……できるならもうちょっと、助けてあげてもらえないかな……?」
貴人はふっと真顔になって、真っ直ぐに玲二君を見つめた。
「それはきっと俺の仕事じゃないと思うよ……どう?」
逆に尋ねられて玲二君はとまどったような顔をしている。
「どうって……」
「誰が見たって怒っているようにしか見えない夏姫の様子を、『困ってるんだ』と言い切ってしまえるんだね、玲二……助けてあげられるのはきっと俺じゃないと思うよ……どう?」
途端に玲二君は顔から火が出そうなくらいに真っ赤になった。
「ど、どうって……」
いつも以上に動揺して、立派なスポーツマン体型にそぐわずうろうろし始めながら口ごもってしまう。
(あれれ? ひょっとして……?)
ピンと来たのはどうやら私だけではなかったようだ。
可憐さんと美千瑠ちゃんは何事かを囁きあっているし、繭香はさも嬉しそうに大きな瞳を爛々と輝かせて玲二君を見ている。
「玲二……もし良かったら私が占って……」
滅多に良い結果が出る事のない繭香の占いによって、玲二君がショックを受ける前に、私は急いで救済に出た。
「とりあえず夏姫を追いかけてみよう! ね、そうしよう玲二君!」
王子のマント代わりにと、玲二君が首に巻いていた長い布を引っ張りながら叫ぶと、背後で諒が小声で呟いた。
「出た……! これぞ余計なお節介……」
「なんですって?」
一発ゴツンと殴っておきたいところだけど、今は無理だ。
ぐずぐずしてたら玲二君が繭香につかまってしまう。
「とにかく……今は行くわよ玲二君! ……諒! あとで見てなさいよ!」
バタバタバタと体育シューズの音を響かせて走り去る私の背中を見送りながら、
「人のことには敏感なくせに、なんだって自分のこととなるとあんなに鈍感なんだ……? ……あーあ……なんかまた疲れてきた……」
諒が呟いた言葉は、息せききって走る私の耳には届かなかった。
「夏姫!」
姫のスカート代わりに腰に巻いていた長い布を取って、すでに部活用の短パン姿になってしまっていた夏姫は、軽い準備運動をしながら、グラウンドまで追いかけてきた私と玲二君をふり返った。
「何?」
別に悪気があってぶっきらぼうに答えているわけではないと、私も玲二君もわかっているから気にしないが、知らない人だったら話をする気もなくなってしまいそうなくらい、夏姫の返答はつれない。
「何って……」
特に今言いたいことがあったわけではなく、繭香の呪いまがいの占いから玲二君を救い出すためだけに夏姫を追ってきた私は、一瞬返答に困った。
「やっぱりもうちょっと……劇の練習したほうがよくない……?」
苦し紛れに言葉を搾り出すと、夏姫はぷいっと顔を背けた。
「時間の無駄よ。どうせやるたびに違う内容になるんだし、どんどんもとの話からは遠ざかって行くんだし……もう、本番さえちゃんとやればいいって気がする!」
それはもっともだと納得する自分の気持ちを奮い立たせて、私は言い募った。
「でもほら……まだ練習してない部分だってあるでしょ? 王子が登場してからの場面とか……?」
ふり向いて見てみたら、急に話を振られた玲二君が青くなっていた。
赤くなったり青くなったり、彼は実に心理状態がわかりやすい。
考えていることが顔に書いてあるといつもみんなに言われる私は、ついつい親近感が湧いた。
「やっぱりちょっとくらいは練習しとかないと……ね?」
助け舟を出すように、玲二君の気持ちを代弁したつもりだったのに、彼は青い顔のまま、ブルブルと首を横に振っている。
(え? 何? 違うの?)
訝しく思う私の顔を、それまで背を向けながら柔軟を続けていた夏姫がふり返った。
その表情は、気のせいばかりではなく本当に、かなり怒っているように見えた。
「それこそ、練習の必要ないわ。いくら練習したって上手くいきっこないもの!」
言うが早いか、クルリと背を向けてさっさと走って行ってしまう身軽な背中。
「夏姫!」
さらに言い募ろうとする私を、玲二君がそっと制止した。
「いいよ琴美……今はいくら言ったって意地になるだけだ……」
「そうなの……?」
やっぱり玲二君はかなり夏姫のことを理解している気がする。
(それってやっぱり……そういうこと?)
思った事を口に出さずにはいられない私は、思い切って本人に問い質してみることにした。
「玲二君って……夏姫が好きなの?」
グラウンドの隅に置かれたベンチに並んで座り、販売機で買ったジュースを片手に、部活に励む夏姫の姿を見ながら、私は単刀直入に玲二君に切り出した。
彼は口にしかけていたジュースをブッと吹き出して、かわいそうなくらいに赤くなった。
「そ、そ、そんなことはないよ」
「ごめん。そう言われても、もうとても信じられそうにない……」
真正直に答えた私の言葉を聞いて、玲二君はガックリと肩を落とした。
「いや、謝らなくってもいいよ……俺も別に秘密にしてるわけじゃないし……」
「そうなの?」
「うん。ただまったく気付いてもらえないだけだから……」
「まったく?」
「そう……まったく……」
言いながらしゅんと肩を落としていく姿がかわいそうで、それ以上はなんだか聞きづらい。
夏姫とその手の話はしたことがないが、はたして玲二君のことをどう思っているのかと、自分の頭の中だけで考えてみる。
(体だけ大きくって頼りないって、いつも叱ってばっかりの気がするなあ……)
あまり相手に気を遣わず、言いたい事を言ってしまう夏姫だが、玲二君には特にそれが顕著な気がする。
(でも……『私が玲二だったら、もっとこうするのに!』って悔しがってるところを見ると、もともとの能力の高さは買ってるのかも? それが上手く発揮されないことにイライラしてるわけで……)
パチンと答えが出た。
(うん。これは望みがないわけじゃないわね。きっと玲二君の努力次第だわ!)
すっくとベンチから立ち上がった私を、玲二君が驚いたように見上げた。
「な、なんだよ……急に……?」
「大丈夫! 私にまかせておいて!」
どーんと胸を叩く私の姿を、見つめる玲二君の目は途端に不安に揺れ始める。
「いや……特にどうにかしたいってことはないんだけど……」
迷子のように頼りなげな視線に、ちょっと夏姫の気持ちがわかるような気がする。
玲二君は背だって高いし、サッカー部では不動のストライカーだし、もっと自信を持ってプレイすれば、プロになるのも夢じゃないなんて言われているらしい。
なのに弱気な性格が災いして、学校生活じゃほとんど目立たないし、試合中でも競り合いになったらちょっと引いてしまうところがあるのだ。
(あれ? ちょっと待って……私が知ってるこの情報って、ほとんど夏姫から聞いたものじゃない……)
ピンと何かが心に響いた気がした。
(いける気がする! 私の腕次第では!)
「こ、琴美……なんか企んでそうな凄い顔してるけど……」
本当に人の様子を観察することにおいては、玲二君は一流だ。
「俺は別に、今のままでも……」
おろおろと意思表明されてしまう前に、私はガバッと玲二君を真正面から見据えた。
「後夜祭のダンス! 夏姫が他の人と踊ってもいい?」
「…………!」
瞬間息をのんだ玲二君に素早く頷いて、先に言葉を継ぐ。
「OK。私が協力するわ!」
「お、おい……」
遠回しに断られる前に、体育館に向かって走り出す。
(やっぱり誰かに協力してもらわなくっちゃ……私が気付くくらいだから、きっと他のみんなだって気付いてるはずだもんね)
さて誰がいいのだろうと思案する頭の中に、諒の呟きが甦る。
『出た……! これぞ余計なお節介……』
ムッとして、その声を頭からふり払った。
(絶対あいつにだけは知られないようにしなくちゃ!)
決意を込めて力強く走り続ける私には、
「おおーい琴美! 待てってば!」
玲二君の悲愴な叫びも聞こえてはいなかった。
壮大な決意を胸に秘めて駆け戻った体育館には、もうすでに数人の人影しか残っていなかった。
舞台を下りた真下の場所で、しゃがみこんでいる三人の女の子。
「美千瑠ちゃん……? 可憐さんに……繭香?」
恐る恐る声をかけると三人が一斉にこちらをふり返った。
「おっ、琴美! いいところに帰ってきた!」
とても満足そうに瞳を輝かせている繭香と、ちょっと困ったような疲れたような顔の美千瑠ちゃんと可憐さん。
繭香が大切そうに両手に抱えている小さな水晶玉を見れば、他の二人の心境はありありと想像できた。
(なるほど……! 本人がいなくなったからって諦めきれずに、勝手に玲二君を占ったのね……!)
良い結果が出る可能性はほとんどないとわかっているのに、他の人の恋の行方を意気揚々と語って聞かされたほうは、たまったもんじゃなかっただろう。
(心中お察しします……)
静かに頭を下げると、美千瑠ちゃんと可憐さんも繭香に見えないように私に頷いてくれた。
「いいところって……どうしたの……?」
繭香の機嫌を損ねない程度に早々に話を終わらせようと、自分から尋ねてみたら、繭香は長い黒髪を揺らしてすっくと立ち上がった。
「玲二の気持ちが夏姫に通じるかどうかを占ってみたんだ! なかなか興味深い結果が出たぞ!」
(玲二君……やっぱりもうみんなにバレバレみたいよ……)
隠しているつもりはないなんて本人は開き直っていたが、それでもこんなに公然と語られてしまうのはどうなのだろう。
ちょっと玲二君を気の毒に思いながら、私は黙ったまま繭香の次の言葉を待った。
「玲二の恋はズバリ『かん違い』だ。何がどうかん違いなのかはわからないが……少なくともその言葉だけははっきりと読み取れた!」
「かん違いって……!」
それはあんまりじゃないだろうか。
(どういうことだろ? 夏姫を好きだっていう玲二君の気持ちがかん違い……? それとも……?)
訝しげに首を捻る私を見て、繭香はちょっとムッとしたように顎を上げた。
「仕方がないじゃないか! 出て来た言葉はそれだけだ。あとは特に何もない……!」
「そう……」
以前、自分が占ってもらった時に、「『難題ばかり』しかもしばらくは恋愛以外の問題も山積み」なんて出た身としては、繭香の占いはまったく当たっていないとは言い切れない。
(わざわざ玲二君に教える必要は無いけど、記憶の片隅にでも残しておいて、今後気をつけるぐらいしたほうがいいのかな……?)
そんなことを考えた時、ふと思い当たった。
(……うん? そういえば私が占ってもらった時、他のみんなも自分はなんて言われたのかって教えあったよね? 確か……)
人よりちょっとだけ記憶力のいい私の頭が、フル回転で動き出す。
(美千瑠ちゃんが『成就困難』で、可憐さんが『まるで見こみなし』で……そして夏姫が……『前途多難』!)
ドキリと心臓が跳ねた。
(ちょっと待って? ……夏姫も占ってもらったってことは……それってつまり、夏姫には誰か好きな人がいるってことじゃない……!)
私は慌てて繭香ににじり寄った。
「繭香! 夏姫の好きな人って誰?」
繭香は心底呆れたような表情で、私の顔を見上げた。
「そんなこと、私が知るわけないだろ。知ってたらとっくに玲二に教えてる。私の占いはそんなことは見えないんだ……」
「そうじゃなくて! 前に夏姫を占った時、何か聞かなかったの?」
繭香はふっと目を細めて私の顔を見た。
憐れむようなその表情に、ちょっとムッとした。
「相手の名前を聞かなくたって占いはできる。だから誰を占う時でも、私は相手が誰なのかなんて尋ねたりしない。……だいたいそれだったら、琴美だって誰と占ってほしいのか、私に言わなければならなかったはずだろ?」
(そうだった!)
実際自分も、特に相手を誰とも想定せず、半ば強制的に繭香に恋占いをされたのだった。
「そうだね……ごめん」
しゅんとうな垂れた私の気持ちを取り成すかのように、可憐さんが笑いかける。
「夏姫ちゃんの好きな人が誰なのかはわからないけど……残念ながら玲二君じゃないことだけは確かよ」
自身たっぷりの声で囁かれるから、思いっきり彼女のほうをふり返ってしまった。
「ええっ! どうして?」
可憐さんは、この秋の新色だという口紅を綺麗に塗った唇を小さくすぼめて、人差し指を当てた。
「しーっ! 前に話したことがあるの。好きな男の子のタイプ……確か、頼りになって男らしいスポーツマン。自分が生意気なことを言ったって、逆にやりこめてしまえるくらい頭の切れる人。極めつけは、夏姫ちゃんより足が速くなくっちゃダメなんだって……! どう? これってどう考えても玲二君じゃ……」
困ったように眉根を寄せる可憐さんに、私は思わず叫び返してしまった。
「無理! スポーツマンってところ以外は……無理!」
「でしょう?」
なぜか自分が失恋したかのように、ガックリと肩を落としたのは私ばかりではなかった。
可憐さんも美千瑠ちゃんも繭香も、心底困ったような顔をしている。
「でも……夏姫って玲二君のことをいつも惜しい、惜しいって言ってるのよ……だからちょっとは望みがあるかなと思ったんだけど……」
体育館に駆け戻ってきた時の、やる気に満ちた気持ちを思い出す。
でもそんな思いはすっかり消えうせてしまった。
夏姫に他に好きな人がいると言うのなら、いくら「惜しい!」とは言っていても、玲二君に望みはないだろう。
「誰なんだろう……本当にいるのかな? そんな好条件に当てはまるようなパーフェクトな人物……」
何気なく呟きながら、自分で自分の言葉に、胸がドキリと跳ねた。
――完全無欠な学園一の王子様
どこを取っても出来すぎの貴人のことを、みんなはそんなふうに呼んでいるし、私自身だってそう思っている。
(まさかね……?)
ドキドキしながら目を向けてみたら、繭香もなんとも言えない複雑そうな顔をしていた。
どうしていいのかわからずに、私は目をもう一度可憐さんに戻す。
「何か具体的なヒントはなかった……? 例えば、この学校の人なのかとか……」
可憐さんは長い髪をかきあげてから、ゆっくりと腕組みをした。
「ううん。何も……ただ……条件を挙げていく口調が、よどみなくハッキリしていたし、かなり早口だったから、これはかなり以前から好きだったんだな……ってそう思ったくらい……」
「そう……」
そういえば、夏姫はいったいどういう経緯で『HEAVEN』に入ったんだろうかとか、それ以前から貴人と知り合いだったんだろうかとか、もう先の先を考え始めた私の肩を美千瑠ちゃんがポンと叩いた。
「私たちで考えるより、それとなく夏姫ちゃんに聞いてみるのが一番だと思うわ。ひょっとすると琴美ちゃんにだったら、何か教えてくれるかも……?」
「私に? ……どうして?」
訝しく眉を寄せる私に、美千瑠ちゃんは天使のような笑顔でニッコリ笑った。
「琴美ちゃんならきっと、変に遠回しに尋ねたりしないで、そのものズバリを聞いちゃうでしょう? そんなところを夏姫ちゃんは結構気に入ってると思うのよ……」
「そ、そう……?」
「うん」
私は根が単純なので、褒められると悪い気はしない。
ましてや、自分ではいつも短所なんじゃないかと思っている部分を、夏姫が認めてくれているのかもしれないと聞かされれば尚更だ。
「わかった。ちょっと行って来るね!」
ついさっき駆け戻って来た運動場からの道のりを、私はもう一度反対向きに歩き出した。
夕陽が大きく西の空へと傾いた夕暮れ。
昼間はまだ夏のように暑いままなのに、いつの間にかこの時間の風は、秋のものに変わりつつある。
高い空を、渡り鳥が鳴きながら飛んで行く姿なんかを見ていたら、ちょっと感傷に浸りたいような気分にさえなった。
(なんだか毎日があっという間に、飛ぶように過ぎて行くな……)
実際、文化祭の練習と準備に追われ、本当に時間がなくて始終走り回っているのだったが、そんな中でもこうして、誰かのために一生懸命になれる心の余裕はあるのだから、私はこれでいい気がする。
(勉強が! とか……テストが! とかって言うのは、今は全然考えられないけど……いいよね……?)
ふと不安にかられて、自問自答しながら目を向けた先では、たくさんの人たちが部活に頑張っていた。
ふり返れば図書室にはもう電気が点いている。
あそこではきっと、同じクラスの人たちが下校時間まで今日の復習と明日の予習に励んでいるのだろう。
誰にとって何が大切かなんて、そんなの人によって様々で、だから今の自分はこれでいいと思う。
(うん……夏姫と話をしてみよう……!)
陸上部の練習が終わるまで待っていようと、運動場とは少し距離のある中庭の芝生に腰を下ろした。
野球部は野球場を、テニス部はテニスコートを使っているので、実際運動場を使用しているのは、トラックを使っている陸上部と、その中にフィールドがあるサッカー部だけだ。
奇しくも夏姫と同時に玲二君の姿も見る事ができ、その上今日はサッカー部に顔を出す日だったらしい貴人の姿まで見える。
(うーん……これって夏姫の反応を見るには、好都合なのかな?)
双眼鏡かオペラグラスでも欲しいくらいの気持ちで、私は三人の姿をじっと観察した。
当たり前と言えば当たり前だが、練習中の夏姫は走る事に集中しているようで、玲二君のことも貴人のことも、まるで眼中にない。
真っ直ぐに進行方向に目を向けて、全力で、風を切って走る。
その姿は本当に綺麗で力強くて、しなやかな生命力に満ち溢れていた。
(いつも夏姫を追いかけ回して、きゃあきゃあ騒いでる下級生の女の子たちの気持ちが、ちょっとわかるわ……)
ドキドキするような姿に目も心も奪われたように、しばらくただじっと夏姫を見たあと、私は今度はサッカー部へと目を移した。
夏姫とは対照的に、玲二君は柔軟体操の最中も、走りこみの順番待ちの間も、よくチラチラと夏姫を気にしていた。
気をつけて注目して見ていなければ、気づかないくらいの一瞬の視線。
どうりで今まで気がつかなかったわけだ。
でも、そうと知ってしまった今となっては、玲二君が夏姫を気にする様子は、あまりにもわかりやすい。
(うん……これはもう誰が見てもそうだってわかるよね……でも最初に気がついた貴人はやっぱり凄いな……)
貴人があんなふうに言わなければ、私たちは誰もまだ、玲二君が夏姫のことを好きだなんて気がつかなかったかもしれない。
(いったいいつから気がついてたんだろう? まさか『HEAVEN』を作る前から? そんなことはないよね……)
玲二君と共にフィールドを走りまわっている貴人の姿を見ながら、頬杖をついて考えた。
(でもわかんないな……貴人ってなんだか、なんでもお見とおしなところがあるから……)
そんなふうに思った、まさにその時、他ならぬ貴人がこっちをふり返った。
「琴美!」
私がこんな所にいることさえも、まるで当たり前のように、満面の笑顔で大きく手を振る。
つられてついつい手をふり返してから、運動場にいたかなりの人数の視線を、自分が一身に浴びていることに気がついた。
(ひええええっ!)
顔の横でヒラヒラと振った右手を、このあとどうしたものかと私が途方にくれている間に、貴人はクルリとこちらに背を向けて、反対方向に向かって走り出した。
ざわざわっと、運動場にいた人たちがざわめきに揺れ、人並みが一斉に貴人が走り出した方向に向かいだしたので、私も座っていた芝生から腰を上げた。
(何? どうしたの?)
2、3歩、運動場に向かって歩き出したら、何が起こったのかは見えた。
陸上部の女の子が、トラックの途中でうずくまっている。
右足を庇うように腕で抱えこんでいるから、ひょっとしたら足をどうかしたのかもしれない。
(大丈夫かな……?)
さらに2、3歩進んで、全身から血の気が引く思いがした。
短く切りそろえられた癖のない短い髪。
よく日に焼けたスラリと長い手足。
女の子としてはかなり背が高い細身の体。
「夏姫!」
気がつけば私は大声で叫びながら、制服姿のまま、場違いな運動場の中に向かって走り出していた。
先に駆け出していた貴人の背中が見える。
そのさらに先には、貴人よりも速いスピードで彼を追い越して行った大きな背中が見えた。
(えっ? 玲二君?)
「夏姫!」
近くにいたはずの陸上部員たちよりも速く、玲二君はうずくまる夏姫の元に駆けつけた。
「夏姫! 夏姫! 大丈夫か?」
大きな体のわりに小さな声の、普段の彼はいったいどこへ行ってしまったのか。
うずくまる夏姫の前にしゃがみこんだ玲二君の声は、離れた所からもはっきりと聞き取れるくらいに大きかった。
「足どうした? 見せて!」
何も言葉は返さないままで、俯いた頭をただ激しく横に振る夏姫を宥めるかのように、玲二君は何度もゆっくりとくり返す。
「とりあえず保健室に行こう。大丈夫か?」
「大丈夫じゃない! ……筋か腱を痛めたかもしれない!」
ちょっとかすれた声で、いかにも悔しそうに小さく叫んだ夏姫の細い体を、玲二君は次の瞬間、両腕で軽々と抱え上げた。
両膝から背中までがすっぽりと腕の中に収まってしまう、いわゆる『姫様だっこ』である。
「ち、ちょっと玲二……!」
大慌てする夏姫と、ちょっと怯んだ周囲の人間のことなんてまるで気にせずに、大股でさっさと保健室に向かって歩きだす彼は、本当に玲二君なんだろうか。
疑問に思わずにいられない。
(まさか諒みたいに、何かにとり憑かれてるってことはないわよね……? 本当に玲二君だよね?)
自分の横をすり抜ける背中にも、なんとなく声をかけられないまま黙って見送る私に、背後から話しかけてくる人がいた。
「たいしたことないといいね」
ふり返らなくても、それが誰だかはすぐにわかった。
貴人だ。
ゆっくりとふり返ってみて、案の定そこにあった顔が穏やかな笑顔だったから、私はホッと息をつく。
(貴人がこんなに落ち着いてるってことは、きっと夏姫の足はそんなに酷くないんだ……)
勝手にそう結論づけて、少し安心した。
「私……あとでちょっと様子を見に行ってみる……」
「ああ……そうして。話しこんで遅くなるようだったら、帰りは俺がちゃんと家まで送るから……」
ハッと驚いて、思わず、綺麗によく整った貴人の顔を凝視した。
本気なのか冗談なのか見極めのつかない笑顔に動揺して、両手と顔をぶんぶんと勢いよく振りながら、ついつい後退りしてしまう。
「い、いいよ! まだ全然早いし! 体育館にはきっとまだ可憐さんも残ってるし!」
同じ方向に帰る仲間はちゃんといるからと、訴えたつもりだったのに、効果はまるでなかった。
「たまには俺にだって……琴美の時間をちょっとくれない……?」
少し悲しそうな顔で、他ならぬ貴人にそんなふうに言われれば、私じゃなくたってきっとドキドキするに違いない。
その上――。
「実は頼みたいこともあるしね……」
茶目っ気たっぷりに首を傾げながら、続いて今度は笑顔になられれば、尚更である。
「た、頼みたいことって何?」
ドキドキと高鳴る胸を静まらせようと、必死に無駄な努力をしながら問いかけてみたら、貴人は私に向かってパチリと片目を瞑った。
「内緒だよ。まずは夏姫と話をしてみて……それが琴美への第一の指令!」
冗談めかした笑顔のまま、キリッと敬礼のポーズをとった貴人につられ、思わず私もピシッと右手を自分の額の前にかざしてしまった。
「了解!」
いつも『秘密行動』と称してみんなをビックリさせてくれる貴人の仕事を、ひょっとしたら手伝わせてもらえるのかと、とってもワクワクしていた。
文化祭に向けてやらなければいけない事は山積みで、ほんの少し前までは心の中で悲鳴をあげていたはずなのに、そんな思いはすっかりどこかへ吹き飛んでしまっている。
私って人間は、なんて現金なんだろう。
(だって……夏姫の容態は気になるし……玲二君の片思いは応援したいし……! その上これが貴人の頼みならば、まずは何よりも先にこの事に全力を尽くすのは当然でしょ?)
保健室に向かって意気揚々と駆け出した私の姿は、確かに自分でも滑稽だったと思う。
「はははっ、気をつけて琴美! よろしく!」
案の定、貴人は大笑いしながら私の背中にエールを送ってくれた。その声が、尚更私に元気を与えてくれた。
(思わず走って来ちゃったはいいけど……今、入っていいもの……?)
第一校舎に連なる教務棟の一階にある保健室の扉の前まで来て、足を止めた私は少し迷っていた。
玲二君が夏姫を運んで行ってからまだそんなに時間が経っていないし、夏姫より先に保健室を利用していた生徒がいたとしたら、先生の手当てだってまだかもしれない。
そこにのこのこと入って行ったって、邪魔なだけだ。
思い立ったらすぐに行動せずにはいられない自分の性分を少し恨めしく思いながら、掲示板に貼られた保健便りなんかを見るともなしに眺めていたら、いきなりガラッと保健室の扉が開いて、中から人が出て来た。
玲二君だった。
「それじゃ……あとはよろしくお願いします。夏姫……しばらくしたら迎えに来るから、それから一緒に帰ろう……」
入り口近くのパーテーションの向こうで絶句している夏姫の返事も待たず、保健室に背を向けると、玲二君は私がたった今やって来たばかりの道のりを、さっさと帰り始める。
「琴美。ありがとな。しばらく夏姫についててあげて……」
呆然と立ち尽くしていた私にもちゃんと一声かけて、鮮やかに去って行く彼は――しつこいようだが――まるでいつもの彼らしくない。
その証拠に、保健の先生に足に包帯を巻いてもらいながら座っている夏姫は、心なし頬を薄っすらと染めながらプウッと頬を膨らまし、まるで照れ隠しのように悪態をつく。
「なによ……! 一人で勝手に決めて、さっさと行っちゃうんだから……! 玲二のくせに!」
最後の一言を別にすれば、これはもう玲二君は、夏姫が好きな人の条件の一つにあげていた「頼りになって」の部分まで楽々クリアしているんじゃないかと、私は心の中で大きく頷いた。
(それに夏姫のところに駆けつけた時のあの速さ! ひょっとしたら玲二君って……足だって相当速いんじゃない?)
私の予想は大当たりだった。
足の怪我は軽く捻っただけでたいしたことなかったと教えてくれた夏姫は、その報告の何倍も熱をこめて、玲二君の脚力について語った。
「当たり前よ! 玲二は中学までは陸上部だったんだから。なのに高校では陸上はやらないなんて宣言して……なのに何故かサッカー部には入部するんだもん……あのバカ!」
言い方はかなり酷いものがあるが、玲二君の足の速さには夏姫も一目置いていることだけは確かだった。
「中学の頃からの知りあいなの?」
確か二人の出身中学は違ったはずだがと首を捻る私に、夏姫は気をつけて見ていなければわからないくらい、ほんの僅かに頬を赤く染めた。
「大会とかでたびたび会うから、お互いに顔と名前ぐらいは知ってた……その程度よ……」
建て前じみた説明のわりには、放っとくと時間が過ぎるのも忘れてしまうぐらい長々と、中学時代の玲二君の活躍について語ってしまっている自分を、夏姫は気がついていないんだろうか。
なんだか私のほうがドキドキして、息が苦しくなってきた。
(どうしよう……これって、もしかしなくっても夏姫も玲二君のことが好きっぽいよね……?)
誰かが誰かを好きだという気持ちが、双方からピタリと重なる確率なんてどんなに低いものなのか。
実際にすれ違う気持ちを経験した私だからこそよくわかる。
(嬉しい! すっごく嬉しい! ……でもこれって、私の口から言っちゃっていいことじゃないよね? ……ううう……それが苦しい……)
諒の言ったとおり『余計なお世話』にならないためには、気をつけなければならない。
「そっか……それにしても玲二君って、いざとなったら頼りになるんだね。私、見直しちゃったよ……」
それでも少しでも、夏姫の中の彼の評価を上げておこうと、今日一番の驚きを素直に伝えてみた私に、夏姫はなんとも言えない不思議な表情を向けた。
「琴美……失恋の痛手から立ち直って新しい恋を! って思ってるんだったら、気の毒だから先に教えておくわ……玲二はやめたほうがいい……」
「ど、どうして……?」
もちろんそんなつもりはさらさらないのだが、ひょっとして夏姫が自分の気持ちを口に出すのではないかと思って、私は心持ち、彼女に向かって身を乗り出した。
「なんで? なんで玲二君はやめたほうがいいの?」
期待に胸を膨らませてドキドキと待ち受ける私に、恋心をうち明けるには少々困ったような顔で夏姫は告げた。
「琴美は全然、玲二の好きなタイプからはほど遠いから……ゴメン。私は琴美の思いこんだら一直線なところも、元気で前向きなところも大好きなんだけど、玲二のタイプは大人しくてお行儀のいいお嬢さまなんだよね……それでどうやらそんな子を、ずっと好きらしいんだ……」
「は…………?」
あまりに予想外の話に、私の唯一の自慢の頭が、一瞬活動停止してしまった。
しかしすぐに――。
「えええええええっ!?」
保健の先生からギロリと睨まれるほどの叫びと共に復活した。
(だって待って! 玲二君が好きなのは夏姫だよ? ……本人からちゃんと聞いたんだからまちがいない! じゃあ何? 夏姫が『大人しくて行儀のいいお嬢さま』だっていうの?)
ちょっと憐れむような困ったような顔で私を見ている夏姫を、私もしげしげと見返した。
夏姫の言葉を反芻するわけではないが、夏姫だって『大人しくて行儀のいいお嬢さま』からはほど遠い。
『健康的で、笑顔が輝いてる女の子』っていうんなら話は別だが――。
「夏姫。私、別に玲二君のことを好きなわけじゃないから……」
とりあえず誤解されないうちにと訂正しておくと、かすかに――ほんのかすかにホッとしたような表情がうかがえる。
(やっぱり……好きなんだろうな……)
だったら夏姫は大きな思い違いをしていることになる。
本当は両思いなのに、玲二君には他に好きな子がいると思いこんでしまっているのだ。
「それに、玲二君の好きなタイプ……それってちょっと違うと思うんだけど……」
途端、今度はうって変わって激しい視線を向けられた。
「違わないわよ! もうずっと前に本人の口から聞いたんだから……それに、その条件にピッタリ当てはまる『玲二の好きな人』だって、私、ちゃんとわかってる……!」
半ば開き直りぎみに語る夏姫には、取り付くしまがない。
(だって玲二君が好きなのは夏姫だよ?)
思わず叫びたくなる気持ちをぐっとこらえながら、勤めて冷静なふうを装って、私は夏姫に尋ねた。
「誰? 玲二君の好きな人……」
夏姫はためらうようなそぶりを見せたけれど、結局声をひそめて、私の耳元に口を寄せた。
「琴美だってよく知ってる子よ……誰にも言わないでよ? ……………美千瑠」
「ええええええっ!」
力の限りに叫んで、また保健の先生に睨まれたので、私は夏姫の陰に身を潜めた。
そのついでに、さっきまでよりもっと近い位置から夏姫の顔を見つめる。
「夏姫……それって違うと思うよ?」
「違わないわよ。まったく往生際が悪いなあ」
「いや……そんなことじゃなくってね……」
思っていること、知っていることをはっきりと言えないというのは、なんてもどかしくて難しいんだろう。
私は特にいつも心のままを率直に口に出しているものだから、きっと他の人にとっての何倍も難しい。
「うーん、なんて言ったらいいんだろ……とにかく違うのよ……!」
なんの進展もしない私のセリフに、夏姫は呆れたように肩を竦めた。
「いつもくっきりはっきりものを言う琴美にしては、ずいぶん歯切れが悪いわね……? でも言っておくけどこっちだって、本当にまちがいないの!」
(ダメだ! これ以上はもうお互いに堂々巡りになるばっかりだ!)
貴人に頼まれた第一の指令――夏姫と話をしてみる――は、とても上手くいったとは思えなかった。
ところが、しばらくして夏姫を迎えに来た玲二君と前後するようにして私を迎えに来てくれた貴人は、私のしどろもどろの説明を聞くとひどく満足そうに頷いた。
「失敗なんてことはないよ、それでいいんだ。玲二がどんな女の子を好きだって夏姫が思っているのか……俺が知りたかったのはそこだからね……」
「そうなの?」
単に私を慰める為だけとは思えない笑顔を、私はふり仰いだ。
「ああ。だから大丈夫。お勤めご苦労様、琴美。次は第二段階だ」
楽しげに宣言されて、心からホッとした。
貴人の役に立ちたいと思って行動を起こした私にとっては、それが達成されただけでもひと安心だ。
たとえ肝心な玲二君の恋を成就させるって目的のほうは、なんだかややこしいことになってしまっていたとしても――。
(全部包み隠さず話せるなら簡単なことなのに……うーん……どうしたいいの?)
『余計なお世話』にならないように、夏姫の気持ちも玲二君の気持ちも私の口から相手に告げてはならない。
尚且つ、完璧に勘違いしてしまっている夏姫に玲二君の本当の気持ちを気付いてもらえる方法とは――。
首を捻る私の脳裏に、ふいに繭香の怪しげな表情が思い出された。
(そうだ! 繭香が玲二君を占った時に出た言葉!『かん違い』って……あれって、こういうことだったんだ!)
改めて繭香の占いの的中率に舌を巻いたはいいものの、だからと言って、事態は何ひとつ好転しない。
いつの間にか私は、よほど難しい顔をして考えこんでしまっていたのだろう。
それまで黙って隣を歩いていた貴人が、ふいに口を開いた。
「大丈夫だよ……俺にちゃんと考えがあるから」
「えっ?」
何も口に出しては言っていなかったのに、例によって私の考えていることは全部顔に書いてあったんだと自覚した。
「今回は琴美っていう助っ人もいるし、いつもより更に上手くいくと思うよ……ね?」
眩しいような笑顔で笑いかけられれば、それまでどんなに眉間に皺が寄ってたって、私だって笑顔にならずにはいられない。
難しい問題に直面して挫けそうだった心だって、貴人といれば自然と前向きになる。
「うん」
貴人の言葉だったらなんだって信じられる気がする単純な私は、彼が同じ方向を向いて隣を歩いてくれているだけで、きっと無敵だった。
眩しいくらいの晴天に恵まれ……なんて言ったら、まるで運動会の常套句のようだが、実際に文化祭当日は、十月も終りだというのに汗ばむほどの陽気だった。
初日に行なわれた校内中を駆け巡っての『HEAVEN』主催のトレジャーハントで、途中リタイア者が次々と出たのも無理はない。
けれど見事一番乗りでお宝にたどり着いた男子生徒――確か三年三組の委員長は、滴る汗も、疲れきった体も厭わないほどに、涙を流して大喜びした。
「だあってさあ……お金も手間もかからないのに、みんなが喜んでくれる副賞っていったら……やっぱこれしかないだろ?」
トレジャーハントの責任者だった順平君は、表彰式の間中、悪びれもせずにそう言っていたけれど、傍から見ている私は、優勝者の隣に立つ可憐さんがいつになく怒っている様子がひしひしと伝わってきて恐かった。
「後夜祭のダンスパーティーで誰でもパートナーに指名出来る権利なんて……いくらなんでも事前に許可ぐらいとってて欲しかったわ……!」
あとからやんわりと順平君を諌めた可憐さんが、まさに精神的に大人だったからこそ、成立できた副賞だった。
「大丈夫だと思ったんだよ! 頭脳よりも体力勝負のトレジャーハントで優勝する奴なんて、男に決まってるだろ? そんな奴らが指名するのなんて、おおかた美千瑠か可憐だろうし……二人とも彼氏はうちの学校の奴じゃないんだから、後夜祭で踊るくらいなんの問題もないじゃん?」
あまりにも堂々と満面の笑顔で言いきった順平君に、可憐さんはハアッとため息をつく。
「それはそうだけど……順平……あなたひょっとしてその論理で自分も彼女とは別の子をダンスに誘おうとしてるんじゃないでしょうね……?」
「そ、そんなこと! 彼女命の俺がするはずないじゃん! はははっ!」
乾いた笑い声を聞いたその場の全員が、可憐さんの言うとおりに順平君が他校生だという彼女には内緒で後夜祭を楽しもうとしていることを悟った。
「おい順平!」
妙に凄みのある声で、諒が順平君の肩をバシンと力任せに叩く。
「大丈夫、優勝者は男に決まってるなんて言ってたけどな……実際に準優勝者はうちのクラスの斎藤だっただろ! あいつが優勝してたらどうするつもりだったんだよ!」
そうだった。
運動部所属の並み居る男子達をさし置いて、まさに努力と根性で準優勝の座を勝ち取ったのは、なんと我が二年一組きっての才女――斎藤さんだった。
彼女が諒のことを好きなのは、当の本人も含め、うちのクラスの人間だったら誰もが知っている事実である。
「どうって……踊ってやればいいじゃん? お前だって別に決まった相手はいないんだし……」
「だーーーっ! もうっ!」
飄々とした笑顔で言ってのけながらも、順平君は諒の傍から飛び退いた。
その判断はまちがってなかった。
「勝手な事言ってんじゃねえ!」
怒りに任せてつかみかかろうとする諒から、ヒラリと身をかわして、さっさと順平君は表彰式の場から逃げ出す。
「待てこら! 順平!」
言葉だけは勇ましいが、しょせん運動なんてものとは無縁の諒からだったら、何もしなくても軽々と逃げられるだろうに、順平君はわざわざこちらをふり返って私の名前を呼んだ。
「琴美! 諒を止めろ! 早くっ!」
「は? なんで私?」
瞬間、順平君を追いかける諒のスピードが段違いに跳ね上がった。
「順平!! ぜったい許さん!」
「ぎゃはははは! ごめんごめん!」
遠くなって行く二人の背中を唖然と見送りながら、私は首を傾げた。
「なんなのよ……? 全然意味がわからない……」
智史君が銀縁の眼鏡を取りながら、腕に抱えたノートパソコンを逆の手に持ち替えて、ふわりと笑った。
「わからなくていいと思うよ」
「……そう?」
なんだか納得いかない気分の私の首に、うららが両腕を回して抱きついてくる。
「琴美……眠い……」
「う、うん。そうだね……あと一時間くらいしたらうちのクラスの舞台発表なんだけど……それまでちょっと休んでよっか?」
「うん」
もう今すぐにでも瞼が閉じてしまいそうなうららに、智史君が囁く。
「うらら……行くんだったらうちのクラスの喫茶店……」
「うんわかった……琴美……二年三組へ……」
耳元で囁かれた不思議な響きのうららの声に促されるまま、私は普段は滅多に足を踏み入れない、自分のクラスの隣の隣の教室へと向かった。
しかしそこに広がっていたのは、もはやここが学校だということさえ忘れてしまうほどのビックリ空間だった。
「な、な、なにこれっ!!」
窓という窓に暗幕を貼って真っ暗にした教室には、どうやって浮かべているのかわからないキラキラと光る小さな物体が、そこかしこに輝いていた。
「いらっしゃいませお客様」
暗闇の中で顔さえ見えないウェイトレスに手を引かれて、まるで飛行機のシートのような椅子に座らされると、おもむろに注文を取られる。
「ご注文は何になさいますか? コーヒー? 紅茶? 緑茶? それともお水?」
まさかメニューはそれだけしかないのかと私が突っこみを入れる前に、首にぶら下がったままだったうららが、さっさと答えてしまった。
「水でいい……」
「かしこまりました」
「み、水って! まさかお水でもお金取るの?」
「ううん……ただ……」
ならばいいかと一瞬納得しかけたが、私は慌ててそんな自分を追い払った。
「せっかく喫茶店に来たんだから、せめてコーヒーぐらいは飲もうよ!」
顔が見えないうららに、首に巻きついた腕の感触を頼りに抗議したら、いつものように抑揚のない声が返ってきた。
「コーヒーと言っても缶コーヒーを温めてカップに移しただけ……飲みたい、琴美?」
「……いいです……」
いったいどこが喫茶店なのかと文句を言ってやりたかったが我慢した。
たしかここの監修は智史君だったはず――。
滅多なことを口にしたらあとが恐い。
(待って……でもここって普通の喫茶店じゃなかったはず? 確か……ゲーム喫茶……?)
首を傾げた瞬間にすぐ隣で声がした。
「お待たせいたしました。ただの水です」
「ひえっ!」
ついつい変な声が出てしまったのは、何も見えない状況で急に話しかけられたから。
そして誰かが近づいてきた気配なんて、まるで感じなかったから。
「あ、ありがとう……」
見えないウェイトレスにお礼を言って、手探りで受け取った紙コップには蓋がしてあった。
どうやらそこに挿してあるストローで水も飲むらしい。
(変なの……)
口に出すわけにいかない感想を、心の中だけで呟いた瞬間、かけていた椅子がグググッとリクライニングした。
「きゃあっ!」
驚いて悲鳴を上げただけですんだのは、コップに蓋がついていたから。
もしそうでなかったら、頭から水を被っていただろう。
(ということは……コップの蓋にもそれなりに意味があるってこと?)
私の人よりちょっとだけ回転のいい頭が、超高速で動き始める。
(智史君のことだから、きっと素人離れしたもの凄いコンピューターゲームでもプログラミングして、大量にパソコンを持ちこんで、それを売りにした喫茶店をやるんだとばかり思ってたんだけど……なんだか予想外……だいたいなんでこんなに真っ暗なんだろ?)
きっと私達以外にもお客はいるはずだし、ウエィトレスだってまだ近くにいるはずなのに、まるで人の気配がない。
不気味なほどの真っ暗で静かな空間に背筋が冷えて、思わず手探りでうららの体を抱き寄せた瞬間、頭にカポッとフルフェイスのヘルメットのようなものを被せられた。
「えっなに? なんなの!?」
焦って脱ごうとしてもなかなか上手くいかない。
「ちょ……ちょっと! ねえうらら!」
このクラスの所属であり、この展示についても理解しているはずのうららを慌てて呼んでみた。
「大丈夫、琴美……目を閉じてないで開いて……」
この真っ暗闇の中で、どうして私が目を閉じていることがうららにはわかったんだろう。
疑問は尽きなかったが、驚いてギュッと閉じていた目を、私は恐る恐る開いてみた。
途端――目に飛びこんで来た信じられない光景に、最大級の悲鳴が喉から飛び出す。
「なにこれええええええ!!!」
ほんのついさっきまで真っ暗だった目の前の空間に、ものすごい速さで小さな光が飛び交っている。
私の鼻先を掠めるようにして飛んで行ったものをよく見てみたら、なんと戦闘機型の小さな飛行機だった。
背後に見えるのは巨大な惑星。
そう、まるで映画のワンシーンのように、私の目の前には広大な宇宙空間が広がり、その中を無数の宇宙船が、光の速さで飛び交っていた。
「嘘でしょ? ねえちょっと……こんなの嘘だよねえ?」
あまりにリアルな映像と、どうやらこちらに攻撃を仕掛けてくるらしい無数の宇宙船に、半泣きになりながら問いかける。
うららはちっとも焦っている様子のない声で、いつものように淡々と説明だけをしてくれた。
「琴美、ここを握って……これが操縦桿。このボタンが攻撃ボタン。がんばって……」
「がんばってって……! がんばってって……!」
衝撃のあまり言葉さえ上手く出てこない。
いったいこれは何なのだろう。
(これってひょっとして……うわさのVR? 普通のヘルメットを被ったようにしか思えなかったんだけど……まさか智史君が作ったのっ!?)
拒否権も質問する時間も与えられないまま、私はこれまで経験したこともない戦いの中へと突っ込んでいった。
「琴美……下手過ぎ……すぐゲームオーバーになったら、ちっともあそこでゆっくりできない……」
(こっちは、はなっからゆっくりできなかったわよ!)
叫び返したいのに疲れ過ぎてて声も出ない。
私はうららと二人で、二年一組の教室の真ん中に置かれたベンチにぐったりと座りこんでいた。
「どうだった? 僕の作ったリアルなシューティングゲームは?」
フラフラと三組の教室を出た途端、待ち構えていた智史君には取りあえず、「凄かった!」と伝えたけれど、本当にそれ以外にはなんとも表現のしようがない。
(確かに……日頃からゲームをやってる人たちは、感動して大喜びだろうけど……そうじゃない私に、いきなりあんな高度なものをやれと言われても……!)
散々に負けて、うららにすら愚痴られるような結果だった。
(よかった……うらら以外には知られなくて……)
もしも諒や柏木なんかが、私の出したワースト得点を知ったらどうなるだろう。
きっと鬼の首でも取ったように大喜びして、意気揚々と言いふらすに決まってる。
そうしておいて、自分はもっと高得点を上げるんだ。
(くやしいっ! でももう本当に、あれ以上は上達するとも思えないっ!)
あまりにもリアルな映像と動きに、ちょっと乗り物酔いにも似た症状に悩まされながら、フラフラと辿り着いた二年一組に誰も人がいなくて良かった。
『二学期の期末試験の山掛け予想』なんて、およそうちのクラス以外には興味さえ湧かないような展示を選んでくれていて良かったと、今だけは心の底からクラスメート達に感謝した。
「とにかく……少し休むわ……このままじゃうちのクラスの舞台発表にだって影響する……」
「うん……ごゆっくり……」
しかしちょっとやそっとの休憩じゃ、心身ともに疲れ切った疲労感は抜けきれなかった。
「納得いかない !こんなのぜんっぜん嬉しくないっ!!」
約一時間後。
二年一組の舞台発表である『星誠学園初代クイズ王決定戦』の表彰式では、諒が苦虫を噛み潰したような顔で、優勝席に座っていた。
「貴人が出場していなくて、お前も体調不良の状態で勝ったって、なんにも嬉しくないんだよっ!!」
頼むから隣で、そんなに大声で叫ばないで欲しい。
「そんなこと言ったって……貴人はこの時間どうしても展示のほうを外せないって言うし……私にだって具合の悪い時もあるのよ……」
ぶつぶつと口の中で言い訳する私に、諒はただでさえ大きな瞳をカッと見開いた。
「午前中は元気だっただろ! 大喜びしながら五組のミュージカルを見てたじゃないか!」
「だって……」
問題はそのあと連れて行かれた三組の『ゲーム喫茶』にあるとは言えなくて、黙りこむしかない。
まだ目がぐるぐると回っているような状態で、それでも準優勝の座は保持したんだから、本当は褒めて欲しいくらいだ。
寝る間も惜しんで勉強に励んでいたという噂の柏木は、三位の席で見る影もなく落ちこんでいる。
(お気の毒……)
ちょっと申し訳ないような気持ちで舞台を降りた私は、そこに待ち構えていた智史君に天使の笑顔で告げられた事実に、気分の悪さも吹き飛ぶような思いだった。
「ごめんね琴美、無理させちゃって……どうぞゆっくり休んで……おかげで大勝ちさせてもらったぶんは、きっと後々違った形で琴美にも還元するから……」
「…………はい?」
なんだか思いがけない言葉を聞いた気がする。
訝しげに問い返した私を真っ直ぐに見つめて、智史君は眼鏡の奥でガラス玉みたいに綺麗な瞳を、意味深に輝かせた。
「本命の貴人と琴美の組み合わせをあえて外して、諒に勝負をかけてた人間はそう多くはなかったってこと……特に柏木を大穴だなんて言ってた連中はがっくりきてるだろうな……くくっ」
「智史……君……?」
このクイズ大会が裏で賭けの対象にされていたことに、ハッと気がついた私の口の前に、智史君は右手の人差し指をすっとかざした。
「心配無用。元締めは教師だから……だから琴美はなんにも知らなかった顔をしてればいい……」
「そ、そんなこと言われたって!」
考えていることがそのまま顔に書いてあるというので有名な私を、智史君は忘れてしまっているのだろうか。
「大丈夫。琴美は何も聞かなかった。しっかりと心に言い聞かせておけば、きっと平気だよ。案外これがポーカーフェイスの練習にもなるかもしれないよ?」
口元には優しげな微笑を浮かべながら、その実、眼鏡の向こうの瞳はちっとも笑っていない智史君の笑顔は、いつもとは全然違っていて、背筋がゾクッとするほどに冴え冴えとした美しさだった。
もし私のせいで秘密が漏洩したならば、その時はどうなるか――考えるだけで恐ろしい。
「わ、わかった! 努力してみる!」
「うん」
腹黒な裏の顔を持つ『白姫』は、文化祭初日も元気に健在だった。
「琴美ぃー早くしなさーい……! お友達、もう二十分も待ってくれてるのよー?」
階下から聞こえて来る呑気な母の声に、私は自分の部屋の扉越し、猛然と叫び返した。
「お友達なんかじゃないわよっ!!」
「えっ? ……何? …そのものズバリ言ったら悪いかと思って、せっかくごまかしてあげたのに……じゃあ彼氏って言ってもよかったのー?」
「か、彼氏なわけないでしょ! ありえないこと言わないで!」
これ以上余計な事を言われたらたまらないので、大急ぎで旅行バックに詰めこんだ荷物をひきずって、階段を駆け下りる。
「じゃあなに……? なんて呼んだらいいのよ……」
年甲斐もなく口を尖らせて不満を述べる母の横をすり抜けながら、急いで玄関の扉を開け、顔だけほんのちょっとふり返った。
「…………単なるクラスメート……いや……生徒会関係の知りあい?……」
「ええーっ? なにそれ、ひっどーい!」
何が酷いんだか、大声で叫ぶ母の声を隠す為に、急いで後ろ手に扉を閉める。
出来るだけ早急な対応をしたつもりだったのに、案の定、家の前で私を待っていた諒はこの上なく嫌な顔をしていた。
「いったいいつまで待たせるつもりなんだ! これじゃ早く家を出て来た意味がないだろ!」
かなり怒ってはいるが、どうやら母とのとんでもない会話は聞かれずに済んだようだ。
よかったと胸を撫で下ろしかけた瞬間、諒はクルリと私に背を向けて、盛大に毒づいた。
「しかも『単なるクラスメート』……『生徒会関係の知りあい』って……! 他に言いようはないのかよ!」
「………………!」
私だってちょっとどうかとは思ったのだが、他に思い浮かばなかったのだから仕方ない。
これが玲二君や剛毅たちだったら『生徒会の仲間』とすんなり答えていただろう。
しかしどうやら私は、諒に『仲間』という言葉を使うことがしっくりこないらしい。
(別に『仲間』だと思ってないわけじゃないわよ……でもなんか……なんか違う……)
スッキリしない気持ちの理由が自分でもよくわからなくて、思わず本人に問いかけてしまう。
「ねえ……だったらこういう時なんて言ったらいいの? ……あんたって私の何?」
諒はただでさえ大きな瞳をカッと見開き、一瞬私の顔を凝視したかと思うと、次の瞬間には顔を背け、あからさまにハアッと嘆息した。
「知るか! …………自分で考えろ!」
突き放すようなセリフと、実際私に背を向けて、私から取り上げた大きな旅行バックを自転車の後ろに載せ、さっさとこぎ出す背中に慌てる。
「ちょ、ちょっと! 待ってよ!」
急いで自分も自転車のペダルに足を掛けながら、あっという間に小さくなって行く諒の自転車を必死で追いかけた。
「諒! 諒ってば! 待ってよもう!」
気持ちほど早くは自転車がこげなくて、猛烈なスピードで疾走する諒になかなか追いつけない。
「待てーーっ!!」
昨日の疲れが抜けきらないままに迎えた文化祭二日目の朝だった。
『衣装を運ばなきゃならないから、劇の当日は誰かが琴美を家まで迎えに行かないとな……』
衣装係になっていた私に気を遣って、そう言い出してくれたのは玲二君だった。
男子の中でどういう話しあいがなされて、諒が来ることになったのかはよくわからないが、家が一番近かったからという理由なのだろう。
多分。
きっと。
前日の夜まで細々とした手直しを加えた衣装がぎっしりと入ったバッグを、私はひきずるようにしか持てなかったというのに、自転車から降りた諒は軽く背中に担いで歩くからビックリする。
女顔な上に華奢で小柄で、てっきり非力だとばかり思っていたのに、どうやら力だけは平均的男子並みにあったようだ。
(やっぱり迎えに来てもらってよかった……)
例え、外で待たせていたのと同じくらいの時間たっぷり嫌味を言われたとしても、そう思わずにはいられなかった。
「だいたいなんで……とっくに出来上がってた衣装を直前に直すんだよ……!」
いまだにブツブツと言いながら歩く背中を、小走りで追いかけて返事する。
「ちょっと変更点が出てきたのよ……いいじゃない……貴人がそうしたほうがいいんじゃないかって言うんだから……」
「なるほど貴人か……」
さも納得が言ったかのように呟かれて、なんだかムッとした。
「なによ」
「…………別に」
諒の歩く速度が上がる。
「お前さ……今日の後夜祭……」
しばらく黙々と歩き続けたあと、急にこちらをふり返って意を決したかのように口を開かれるから、必要以上に動揺する。
――いつもよりちょっと近過ぎる諒との距離に。
いつもどおりの可愛い顔に。
「な、なによ……!」
自分でも酷い対応だとは思ったが、諒もやっぱりムッと眉根を寄せてもう一度前に向き直った。
「……別に……きっと学校一の倍率だろうけど、ま、せいぜいがんばれよ……」
「…………は?」
一瞬呆けた直後に気がついた。
きっと後夜祭でのダンスのことを言われたのだ。
それも『学校一の倍率』なんて言葉を持ち出して来たからには、おそらく諒の頭の中では、私が踊りたいと希望している相手は貴人だろう。
そうに違いない。
(貴人と踊りたいなんて……! 私、別にそんなこと一言も言ってないわよ……?)
正直に自分の心をふり返ってみれば、そんな気持ちがないことはない気もするが、なぜだか無性に腹が立つ。
キッと諒の背中を睨みつけた私の顔は、きっと諒以上に不機嫌だったはずだ。
「…………あんたに言われたくないわよ」
怒鳴り返すわけではなく、静かな怒りを込めて返した言葉にも、諒は何も答えなかった。
「…………バカ!」
いつもだったら絶対にむきになって飛びかかって来る悪口にも、全然反応しなかった。
そのことがかえって私の怒りを増幅させた。
「ねえ琴美……本当にこんなふうにしたほうがいいって、貴人が言ったの……?」
まあるく膨らんだ袖のドレスに腕を通しながら、夏姫が何度目か私に念を押す。
「う、うん……確かにそう言ったんだよ……?」
あまりにもしつこく確認されるせいで、自分でもだんだん自信がなくなってくる。
夏姫の真っ直ぐな視線を正面から受け止めることに耐えきれず、あちらこちらと目を泳がせ始めた私に、繭香が助け船を出してくれた。
「まちがいない。私も確認済みだ。今さら四の五の言わないで覚悟を決めろ、夏姫……らしくないぞ?」
「うん。そうだね」
めいっぱい上から目線の繭香の口調にも、夏姫は腹を立てたりはしない。
かえってキュッと唇を真一文字に引き結んで、潔くドレスの中に頭を突っこんだ。
すぐに私たちの目の前に現われたのは、かなり個性的なドレスに身を包んだお姫様。
「ねえ……おかしくない?」
珍しく弱気になる夏姫の気持ちもわからなくはない。
けれど、なにしろ『貴人が決めたこと』なのだからと、私たちはみんなで全力をあげて太鼓判を押す。
きっとこれでいいはず。
たぶん……。
「大丈夫。大丈夫!」
「うん。良く似あってるよ夏姫!」
上半身はいかにもお姫様らしい夏姫のドレスは、下は超ミニスカート仕様となっていた。
腿の中央辺りで終わったスカートからスラリと伸びる細くて長い足が眩しい。
(確かに夏姫の足は綺麗だもの……そこを思い切って出しちゃおうっていう案はまちがってはいないと思う……)
私は貴人の決断を勝手にそんなふうに解釈していたけれど、実際の狙い目はそんなことではなかったんだとしみじみと思い知ることになったのは、まだちょっとあとになってからだった。
ちょっとふう変わりな『白雪姫』の舞台。
ふてぶてしいくらいに落ち着いていて、殺そうとしたってとても死にそうにはない夏姫の『白雪姫』は今日も健在だったけれど、練習とは変わっているところもあった。
それは、先日部活中に足を痛めた夏姫が、練習の時ほどは強烈なキックをくり出せなくなっていたこと。
おかげで散々「頼りにならない」と言われていた七人の小人たちは、ようやく姫を守って戦うというシーンを演じることができた。
「ようやく……! ようやく俺たちの存在意義が発揮されたよ!」
剛毅扮する猟師を初めて自分たちの手で撃退して、順平君はとても嬉しそうだ。
「くそっ! 足が本調子だったら負けやしないのに!」
悔しがる夏姫を、
「まあまあ……そんなに良い所全部一人で持っていく必要ないじゃん?」
とアドリブで慰めて、観客から歓声を貰っている。
夏姫が足を痛めているということを観客にもわかってもらうという意味で、短いスカートは実に役に立っていた。
最後まで長いスカートの裾さばきに戸惑っていた夏姫を、ほんの少し気楽にしてあげるという意味でも――。
(本当に貴人はなんでもお見通し……凄いな……!)
私の感嘆の思いは、物語がクライマックスにさしかかり、ついに夏姫の姫が玲二君の王子に出会った時、さらに大きくなった。
体育館の舞台の上。
目の前には大勢の観客。
ともすれば真っ赤になってしまって、セリフを言うことすらおぼつかないんじゃないかと心配していた玲二君だったが、今日の彼はまったくそんなものは眼中になかった。
ただひたすら、足を痛めている夏姫に負担がかからないようにと、そのことだけに集中しているのが、傍目にもよくわかる。
もともとが大きな体のわりに細かい気配りのできる人だから、怪我をしている女の子相手に抜かりはない。
しかも相手は彼がずっと想いを寄せている夏姫なのだ。
歩く夏姫に差し出される手の何気なさ。
かけられる言葉の優しさ。
そっと支えるように腰に回される腕まで、まるで自然だった。
なんの演技もそこにはなかった。
ありのままで――きっと玲二君は夏姫にとっては完璧な王子様だった。
かなりの数の女の子たちが、ぽうっと舞台の上の玲二君を見つめていたのも頷ける。
夏姫が心なし頬を赤く染めて、いつもよりしおらしい顔を見せていたのも無理はない。
(なんか……一緒に舞台に上がっててよかった……じゃなきゃ私まで気の迷いを起こしそう……)
スポットライトの中の二人をすぐ近くで見ていても、熱に浮かされたような気分になる。
「ねえ……やっぱりあんなふうにお姫様扱いしてもらえるのっていいよね……」
憧れを込めて、美千瑠ちゃんか可憐さんに言ったつもりだったのに、その時私の隣にいたのは諒だった。
「…………そうかよ」
「ぎゃっ!!」
思わず飛び上がってしまって、左右から「しーっ!!」と小声でたしなめられる。
物語は丁度佳境にさしかかったところ。
玲二君と夏姫のいいシーン中だった。
「べべべ、別にあんたに言ったんじゃないわよ……!」
「わかってるよ、そんなこと…………バーカ」
本来はムッとくるところなのに、思わずマジマジと諒の顔を見てしまった。
「なんだよ?」
諒にとっても私の反応が予想外だったらしく、真顔で聞き返される。
「な、なんでもない。ほら……舞台に集中!」
「お前が言うな」
私が慌てて目を逸らすのと同時に、諒も前を見てくれてよかったと思った。
そうでなければついついにやけてしまう顔を見られて、いよいよ訝しがられたに違いない。
(なーによ……朝はあんなに怒ってたくせに、もう忘れちゃってんじゃない……!)
諒がそんな奴だからこそ、自分がこんなにホッとしたなんてことはこの際どこかに置いておく。
(まったく自分勝手で、おこちゃまなんだから……!)
そのまますっかり自分に当てはまりそうな表現も、あえて気にしない。
心のどこかに引っかかっていた嫌な気持ちもすっかり晴れて、目の前でくり広げられる赤面もののクライマックスシーンを、私はたっぷりと心置きなく観賞した。
「きゃあああ!! 古賀せんぱーい! すっごくかっこ良かったですー!!」
舞台のあと。
衣装のまま控え室になってる体育準備室までの道のりを急いでいた夏姫は、あっという間に下級生の女の子たちにとり囲まれた。
夏姫に女の子ばかりで編成された親衛隊があることは知っていたが、実際に目にしたのは初めてで、その勢いにも人数にも、私は軽く引く。
「ありがとう。みんな見てくれてありがとうね」
爽やかこの上ない笑顔で女の子たちを見回す夏姫は慣れたもので、なんだか本物のスターのようだ。
「足! 足はもう大丈夫ですか?」
ファンに問いかけられれば、「うん大丈夫だよ」と笑顔で応える様子も堂に入っている。
思わず私までポッと頬染めてその光景に見入ってしまったが、それではいけなかったのだと、ハッとした。
「本当は、長い間立ってるのもあまり良くないんだ……本人がどうしてもって言うから劇には出てもらったけど……相当無理してるだろうから、出番が終わったらすぐに休ませてあげて」
そっと耳打ちされた貴人からの指令を思い出す。
「あ、あの……みんな……そろそろ……」
おずおずと夏姫の退場を主張しようとしてみるが、飛び交う黄色い声にかき消されて、誰も私の言葉なんか耳に届いていない。
「ちょっとっ……聞いて……!」
大声には自信があったつもりだったが、平均的女子高生以下の身長しかない私じゃ、ここにいること自体、ひょっとしたら大方の子が気づいていないのかもしれない。
笑顔ではあるが明らかに疲れた様子の夏姫が気になって、女の子の山をかき分けて私が前に進み始めた時、はるか頭の上から穏やかな声がした。
「ごめん。夏姫も疲れただろうから、ちょっと休ませてあげてくれないかな……?」
いつもと同じ声なのに、ついさっきまで舞台の上にいたものだから、こんな場所でも玲二君の声はよく響いて、みんなの耳にもしっかりと届く。
「みんな後夜祭まで夏姫と一緒に楽しみたいだろ? だったら……ね?」
自然と人垣が割れて、玲二君の前に進むべき道ができた。
その道は夏姫の所まで真っ直ぐに続いていて、彼はあっという間に夏姫の真正面にたどり着く。
玲二君が向かい合って立つと、夏姫は即座にプンと顔を背けた。
「余計なお世話よ!」
そんな反応なんてまるで気にした様子もなく、玲二君はちょっと身を屈めて、すぐに夏姫を両腕に抱え上げる。
「ちょっと! 玲二!」
夏姫が足を痛めたあの時と同じように、お姫様抱っこのまま、玲二君はその場から退場し始めた。
抗議の声一つ上げずに二人を見送っている親衛隊の子たちの目が告げている。
「うん! あの人にだったら古賀先輩を託してもいい……!」と――。
(……やっぱり夏姫が羨ましい……いいなあ……)
感動にも似た憧れを感じながら、私も遠くなって行く二人の姿を、黙ったまま見送った。
「中学を卒業する直前に足を痛めて、自分は陸上はできなくなったけど、夏姫にはずっと続けて欲しいから……なんて! そんなこと、これまで一言だって言わなかったくせに!」
外はすっかり暗くなったというのに、明かりが燦々と輝く体育館。
片隅に置かれたパイプ椅子に腰掛けながら、夏姫はぷうっと頬を膨らませた。
視線の先を辿れば、劇で使った王子の扮装そのままに、あちらこちらと走り回っている玲二君の姿が見える。
「まあ、だけど……今回はそれを実際に行動で示したわけだろ? 普段は口下手だけど、いざとなったら譲れないところは頑として譲らない……ずい分男気のある奴だったんだと、私は感心したぞ……?」
珍しく、絶賛と言ってもいいくらい彼のひととなりを褒める繭香と、まだ膨れっ面の夏姫に挟まれて、私は座っている。
時刻は夕方。
もうすぐ全校生徒お待ちかねのダンスタイムが始まるため、みんなパートナー探しに余念がないというのに、救護席と銘打った席に私が座っているのは、けっしてダンスの相手がいないからではない。
「せっかくだけど今日は見学だけにしておきなさい」と保健の先生からドクターストップがかかった繭香と夏姫に、付き添っているのだ。
ちなみに、可憐さんはトレジャーハントの副賞として早々に連れ去られ、美千瑠ちゃんは体育館の反対側で黒山の人だかりを築いている。
(絶対に、誰も私を誘いに来てくれないからじゃないわよ!)
自分でも虚しくなるような叫びは、心の中だけに止めておいた。
「あれだけ想われていれば言うことないじゃないか……まったく羨ましい限りだ……」
口調はともかく、珍しく女の子らしい発想の繭香に、夏姫は大慌てで手を振る。
「ち、違うわよ! 玲二が好きなのは私みたいなんじゃないんだから!」
「夏姫……」
前から散々思っていたことを、この際私もハッキリと口に出すことにした。
そもそも奥歯に物が挟まったような言い方なんて、私にこれ以上続けられるものではない。
「あのね、それってきっと違うと思うよ……なんか『かん違い』だと思う……ねえ、いったいどんな状況でそう聞いたの?」
『かん違い』の部分を強調しながら話すと、繭香が満足げに唇の両端を吊り上げて、同意するように頷いてくれる。
「えーっ……だって……」
夏姫は軽く眉間に皺を寄せながら、人差し指を額に当てた。
しばらくしてから、どこか遠い所を見るように目を眇めながら、一言一言やけにきっぱりと言い切ることには――。
「中学の時。市の記録会で競技場に行った時、ろくに顔も知らない他校生に呼び出されて、『好き』だの『つきあってくれ』だの言われたから、腹が立って私の理想のタイプをまくし立てた。そしたら、偶然そこに玲二が通りかかって……口から出まかせを聞かれたのが恥ずかしくって、『勝手に聞いたんだから、あんたのタイプも教えなさいよ!』って詰め寄ったら、答えてくれた。それが『大人しくって行儀のいいお嬢さま』……どう? これってまちがいないでしょ?」
自信満々な夏姫には悪いが、私は軽く眩暈を感じた。
「いや……それって、きっと嘘だわ……」
「嘘おっ? なんで?」
あきらかに、夏姫と同じように口から出まかせでしょうとか。
夏姫が自分と全然違うタイプを並べたから、玲二君だって意地になったんでしょうとか。
(答えを言っちゃうのは簡単だけど……これって私が言ってしまっていいのかなあ……? だって『玲二君ってその頃からすでに夏姫を好きだったんじゃない?』なんて言ってるようなものじゃない……?)
この期に及んで思案する私の目の前で、夏姫がその時、何の前触れも無くいきなりすっくと立ち上がった。
「玲二……!」
思わず漏れた小さな悲鳴に、夏姫の視線の先をたどってみれば、何人かの女の子にとり囲まれた玲二君の姿が見える。
頬を赤く染めた女の子たちの様子と、あきらかにとまどった玲二君の表情を見れば、このあとのダンスに誘われているらしいことは一目瞭然だった。
(ま、まさかOKしたりはしないわよね……?)
玲二君が女の子たちに答えを返すよりも先に、ギョッとして見守る私の視界の隅で、夏姫が動き出した。
体育館の出口に向かって、痛い足をちょっと引きながら駆け出す。
「ちょ……ちょっと! 今、走ったりしたらダメだよ。夏姫!」
私が叫ぶのよりも、あまり早くはない足であとを追うのよりも、玲二君が私たちの所に走って来るほうが速かった。
ずっとずっと速かった。
夏姫がスピードを上げる前に、あっという間に腕をつかんで引き止めて、これ以上逃げられないように両腕に抱え上げてしまう。
あまりにも軽々と。
「下ろせ! 下ろせっ!! 玲二のバカ!」
「うん。俺はバカでもいいけど……今は走ったらダメだよ夏姫。絶対に走らないって誓うんだったら下ろす。でも誓えないんなら下ろさない。ずっと下ろさない」
「なっ! バカッ!」
「うん……バカでも構わない……」
体育館にいるかなりの人間が、二人の動向を固唾を飲んで見守っていた。
もちろん、自分たちのことで一生懸命な人たちもいるにはいるが、まるで今日の『HEAVEN』の舞台を再現するかのような夏姫と玲二君のやりとりに、みんなが大注目している。
「……しんないっ……」
「……ん?」
「走んないわよ! だから下ろして、バカ玲二!」
「うん。わかった」
真っ赤になった夏姫を玲二君が体育館の床に下ろした瞬間、体育館の床を揺るがすような地響きが起こった。
「うおおおおっ!」という大歓声が、体育館のあちこちから沸き起こったのだ。
中には大喝采を送っている人たちもいる。
さっき玲二君を囲んでいた女の子たちだって、ちょっと羨ましそうにではあるが、夏姫と玲二君に向かってパチパチと手を叩き始めた。
「……え? ……え? なに……?」
まるでこの状態にたった今気がついたかのように、玲二君はキョトンと目を瞬かせている。
いや。
ひょっとすると本当に、今初めて自分たちがこんなに大注目されていたことに気がついたのかもしれない。
その証拠に、さっきまでの男らしい彼はどこへやら、真っ赤になってオロオロしてしまっている。
「なんだか、いつもの玲二君に戻った……?」
私の呟きには、繭香がしっかりと答えを返す。
「どうやらそのようだな……今の今まで多分夏姫のことしか見えてなかったぞ……だとしたら相当のものだ……!」
どこか笑みを含んだ物言いに、私は繭香のほうに視線を向けて一緒に笑った。
「すごいね! 本当に羨ましいや、夏姫!」
「…………だな」
繭香も大きな瞳を和ませて微笑み返してくれた。
その瞬間、私たちの背後でこの上なく魅惑的な声が響いた。
「何が羨ましいの?」
ドキリと心臓が跳ねる。
それはきっと繭香だって同じだろう。
ふり返る前から、その人が誰なのかはわかる。
わかりすぎるほどにわかる。
ふり返って見て見れば、私と繭香のパイプ椅子のうしろには、やっぱりいつの間にか貴人が立っていた。
「夏姫と玲二君! ……いいなあって、そう思ったの……!」
心に思ったままを素直に言葉にすれば、貴人も私に負けないくらいの笑顔を返してくれる。
「お望みとあれば、いつだって俺が琴美にもお姫様扱いくらいはできるよ?」
「馬鹿者! 好きな相手にやってもらうからいいんじゃないか! ……そんなもの……勝手に大安売りするな!」
繭香の叱責にも、貴人の笑顔は崩れない。
「……俺じゃダメなの? 琴美……?」
どうしようもないくらい焦った。
花が綻ぶような貴人の笑顔は、まちがいなく本物の笑顔だ。
なんでこんな顔で、私にこういう質問ができるんだろう。
(それはやっぱり……冗談だから……だよね?)
そう思えば胸が痛む私も、確かにどこかにいる。
だからと言って繭香の手前、『ううん。貴人でいい』なんてことは、口が裂けても言えない。
(どうしよう……なんて答えよう……?)
本気で困る私の頭上に、バサッと黒い布のような物がかけられた。
「これ持ってろ! あとで取りに来るから絶対に死守しろよ!」
視界を奪われた私の耳に聞こえてきたのは諒の声。
それもかなり切羽詰って焦ったものだった。
頭に被せられた物を取って見てみれば、諒が今日朝からずっと身に付けていたマント。
確か、昨日行なわれた我が二年一組の舞台発表で、見事『星誠学園初代クイズ王』に輝いた諒が、副賞に貰ったもの――これを持っていれば学食一ヶ月無料の権利付き――だった。
「ちょ、ちょっと諒! なんなのよ! これ……! どうすんの?」
体育館の入り口から走り出て行こうとしている諒を追いかけているのは、我がクラスの一部の女子と、大勢の男子だ。
「待ってぇ勝浦君! そうじゃないの! そうじゃないのよ! 私たちはただ……ダンスを!!」
斎藤さんをはじめとする女の子たちの悲痛な叫びを聞けば、彼女たちのお目当てはこのマントではなく諒本人なのは一目同然だし。
「待てよ諒! なぁ……ちょっとくらいいいだろ!」
カラカラと笑いながら諒の名前を呼ぶ男子たちは、きっとこのマントを諒から奪うことが目的なのだろう。
私は焦って、彼らの目に付かないようにマントをグルグルと畳んだ。
「自分とマント。二手にわかれて逃げるという作戦だな。なかなかいい手だが……遅い……もう気づいている奴がすでにいる……!」
繭香のどこか愉快そうな声にふり返って見てみれば、私の現在の天敵とも言える奴とバチリと目があった。
「か、柏木っ!」
一歩ずつこちらに近付いて来る気配を感じて、急いで椅子から立ち上がり踵を返す。
「なんで? なんで私が?」
脱兎の如く私が逃げ出した背後では、貴人が大声で笑い出した声が聞こえた。
そのいつも通りの大笑いにちょっとだけホッとした。
結局、貴人の問いに答えを返さなくて済んだ。
私の本心は、うやむやになったことになる。
(これって諒のおかげだ……おかげで貴人とも繭香とも気まずくならずに済んだ……でも……さすがにこれはないんじゃない?)
鬼気迫る表情で追って来る柏木の姿を見て、思わず悲鳴を上げる。
「きゃああああ!!」
華やかなダンスの音楽が流れ始めた体育館をあとにして、私は諒のマントをつかんだまま、真っ暗になった校舎に駆け戻った。
「だいたいなんで私がこんな目にあわなきゃならないのよ……! そりゃあ一緒に踊りましょうなんて約束してた相手がいなかったのは不幸中の幸いだったけど……ひょっとしたらなかなか言い出せない人だっていたかもしれないし……あそこに一人でいたら、本命と踊り終わった人が声をかけてくれたかもしれないじゃない……?」
考えれば考えるだけなんだか虚しくなって来ることを、小さな声でブツブツと呟く。
「それに……繭香が先に踊ったあとだったら、私だってなんにも考えずに貴人の手を取れたんだから……!」
一度は諒の行動によって、窮地から救われたと感謝した。
だけどよくよく考えてみれば、私が貴人と踊れる僅かな可能性まで、これでなくなった事になるのだ。
そのことに思い当って、だんだん腹が立ってきた。
「しかもあのバカ! どこまで逃げたのよ……私はいったいいつまでこんな所に隠れてなきゃならないの……?」
真っ暗闇の中でひとり座りこんでいると、やっぱりだんだん恐くなってくる。
二年一組の廊下の奥の扉から出た非常階段。
私のいつもの隠れ場所は、体育館からそう遠くはなかったが、すぐに戻れるほど近くもなかった。
楽しそうな笑い声と軽快な音楽だけはしっかりと聞こえてくるから、余計に惨めな気持ちになる。
「諒のバカ……!」
不安のあまり滲む視界をごまかすために、膝頭に瞼を押しつけた時、背後でギイッと扉の開く音がした。
「なんだよ……やっぱりここか……」
疲れ切ったような諒の声に、思いっきり文句を言ってやろうとふり返ったけれどできなかった。
他の人では気がつかないかもしれないこの場所を、ちゃんと探しに来てくれたことが、不覚にも嬉しかった。
しかも――。
「まったくワンパターンな奴だな……よく見つからなかったもんだ……」
口調の割にかなり優しい顔で、小さく笑いながら見下ろされるからドキリとする。
月の光を背に受けながら汗ばんだ前髪をかきあげている諒は、いつも以上に可愛かった。
「なんだよ……?」
訝しげに尋ねられるから、慌ててそっぽを向く。
「別に……! 誰かさんのせいで、ダンスパーティーに参加できなかったなぁって、悲しくなってただけ……!」
途端、諒の声が険しくなった。
「悪かったな」
(ああ、またやってしまった!)と内心ため息をつく。
私がわざわざ突っかかるような言い方をしなければ、諒だってこんなに態度を硬化させたりしないんだろうに、もうどうしようもない。
いいかげんわかっているのだが、止められない。
長年染み付いた悪意のこもった口の聞き方は、最近は諒の事を見直しつつあるからといって、そう簡単に改められるものではない。
返事をしたらまた悪態になってしまいそうだったので、私はもう黙り込むことにした。
膝を抱えたまま再び諒に背中を向けると、体育館から軽快な音楽が聞こえてくる。
「おい……」
諒が呼びかけてくるけれど返事しない。
(もう、放っておいてよ……半分八つ当たりだってことは自分でもわかってるんだから……)
ふてくされ気味に心の中でだけ考えていたって、相手に伝わるものではない。
ましてや諒は、根本のところで私を誤解している。
「悪かったって言ってるだろ……なんだよ……そんなに貴人と踊りたかったのかよ……」
「………………!!」
もう言い返さないでおこうと思っていたのに、やっぱりふり向いてしまった。
「別に『貴人と』とも、『踊りたい』とも言ってないでしょ! ただ私は、みんなが楽しそうにしてる様子を見ていたいの! ちょっと夏姫のことは羨ましかったけど……あんなふうに誰かを想って、その人からも想われることができたら、きっと幸せなんだろうなあって……そう思ったけど……!」
これ以上ないほど強い口調で反論しながら、自分で気がついた。
想ったり、想われたり。
その方向と比重が上手くいかなかった苦しい恋をやっぱり私はひきずっている。
もう平気だっていつもは思っているけれど、やっぱり心のどこかにひっかかっている。
あの体育館のどこかで、きっと手を取りあってる渉と佳世ちゃんの姿を、目にする前にここに逃げて来れたのは、今考えるとラッキーだったのかもしれない。
目に涙まで浮かべて熱く語った私に、諒は何も言葉を返さなかった。
キッと睨むような視線で、いつまでも真っ直ぐに私の顔を見下ろしていた。
そして不意に、黒いマントを抱きかかえていた私の腕を掴む。
「じゃあ帰るぞ……」
思いがけないほどの力でひっぱりり上げられるからビックリする。
「あの場所にいたいんだったら、そうすればいい。俺はダンスなんて絶対しないし、お前と想いあってるなんてことも絶対ないけど、体育館の隅っこで高見の見物するのにはつきあってやるよ……貴人が女の子に囲まれてる所とか、他にも見たくない奴なんかがいたら、その時はちゃんとお前に喧嘩を売ってやるし……いつもの勢いで俺に文句言ってたら、いろんなこと気にしてる暇もないだろ……?」
あっという間に立ち上がらされて、諒に手を引かれて歩かされながら、思いがけない提案をされる。
目の前を歩く塗れたような黒髪を、私は驚愕の思いで見つめた。
「な、なんで……?」
あとに続く「あんたがそんなことしてくれるのよ?」という棘だらけの言葉は飲みこんで正解だったと思う。
諒はちょっとふり返って、まるで小悪魔のように魅惑的に瞳を輝かせた。
「決まってるだろ。俺がお前の『単なるクラスメート』で『生徒会関係の知りあい』だからだよ」
絶句した私の顔を見て、ひどく満足そうに笑った顔から目が離せなかった。
いつの間にか握っていた私の手を、ギュッと強く掴んで、
「行くぞ」
と駆け出す諒にそのままついて行く自分が、自分でも意外なくらい自然だった。