バイトを始める為に必要な諸々の手続きを済ませて一週間後……いよいよ凛太の勤務初日がやってきた。
初対面の誰かに悪い印象を与えないようにするため、凛太は家を出る前にお風呂に入っておく。湯には浸からず、シャワーだけで頭と体を綺麗にした。
普段は外へ出るときにお風呂に入ったりなんかせずに、髪を濡らして整える程度だが今日は特別だ………とは言っても、シフト時間は22時から翌日の午前4時まで。家を出る時間は、凛太がいつもお風呂に入っているような時間なので汚れを落とすにはちょうど良い時間だった。
今後もこの時間にお風呂を済ませてから出勤することになるだろうか……どうしようか。夕食も食べてから行こうか、帰ってきてから食べようか……そんなことは深く考えていなかった。これからバイトに合わせて生活習慣を変えていくという自覚は無い。
なにしろ、バイト先の「とまと睡眠治療クリニック」はやはりどこかおかしい。
どこかというか、明らかに悪夢治療を専門にしていて治療法が夢の中に入るというところが奇怪すぎる。
雇用関連の書類や、見せてもらったバイトのシフト表にも特におかしなところは無かったし、クリニックのホームページもちゃんとしたものがあった。
診療時間から医師の実績に睡眠障害の簡単な説明。どれも普通で病院のホームページとはこんなもんかという内容だった。少し気になったところを挙げるとすれば、診療は完全予約制で行っているというところだが、これも睡眠治療クリニックという特殊な形態なら頷ける。
しかし、今のところ馬場の口から以外は悪夢治療専門という言葉は出てきていない。あれはいったい何なのか……。考えたり、それについて調べてみても答えは得られなかった。
とにかく、馬場に言われた通りにおかしな場所だったらすぐにやめるつもりだった。怖いもの見たさ半分で、とりあえず一回シフトに入ってみる――。
静かになってきた夜の街の中、両隣のビルは明かりが消えていたが、とまと睡眠治療クリニックの赤い看板は怪しく光っていた。凛太は裏口に回り、その中へ入る。
廊下を進みながら、バイトの準備室へ真っ直ぐ行っていいのか、院長室の馬場に挨拶しに行ったほうが良いのか考える。
そもそも今の時間に馬場は院長室にいるのか……頭をかいて歩いていると前方の扉が開いた。出てきたのは院長の馬場だ。
「あ、こんばんは」
「おう。草部君おはよう。早いじゃないか。勤務初日だね」
「はい。えっと……まずはどうすればいいですか?」
「バイトの子の準備室行って。この前場所は教えてあげたよね」
「はい。分かります」
「そこにたぶんもう増川君って子が来とるから、その子に仕事のこと教えてもらって。今日は教えながら一緒に仕事してって伝えとるから」
「はい」
話が終わると、馬場はさっさと歩いて行ってしまった。
凛太はノックをして準備室に入る。その中には一人男がいて、ロッカーに背中を預けてスマホをいじっていた。おそらく、紹介された増川であるらしい男は凛太が部屋に入るとすぐに会釈して手を挙げる。
「おはよう。……君が新人の草部君?」
「おはようございます。はい草部です」
病院でも前にやっていた他のバイトと同様に初めの挨拶は「おはようございます」なんだと思いつつ元気よく声を出す。
「初めまして。前からここでバイトしてる増川です。今日は一緒にやるように院長に言われてるからよろしくね」
「よろしくお願いします」
「じゃあ、まずは着替えて。草部君のロッカーそこだから。……制服はこれね」
増川はロッカーの鍵やタイムカードの書き方等の準備室に来たらやることから、室内の照明スイッチやごみ箱の位置まで丁寧に説明した。
背は凛太よりも少し低く、黒縁の眼鏡をかけた増川は説明するのに慣れている様子で、次々と余すところなく話す。
「……鍵はかけたら無くさないように注意してね。スペアキーとか無いから」
「はい」
「草部君は大学生?」
一通り説明を終えると増川が肩の力を抜いて、やれやれといった様子で聞いてきた。
「はい。一宮大学の今3回生です」
「そっか。俺は今23歳で隣町の大学行ってるんだけど、恥ずかしい話留年しちゃってんだよね。ははっ」
「ああ。そうなんですか」
「それでまあギリギリの留年だったもんで暇だからこんなとこで深夜バイトしてんの」
「へー。ここのバイトは長くやってるんですか?」
「うん。まあ去年からやっててちょうど1年くらいかな。長いっちゃ長い。けど、今日もう一人くる子とかのほうが長いよ」
増川はたれ目でいかにも気の良さそうな雰囲気を身にまとっていた。初対面で勝手ながら滅多なことがないと怒らなそうだし、ミスをしても助けてくれそうだと思った。
「今日もう一人いるんですか?」
「うん。今このクリニックのバイト4人いるんだけど、基本的に毎日2人来ることになってるのね。たまに忙しいときは3人シフトに入るから大体皆週四日勤務で、今日一緒なのは女の子だよ」
「へー」
「そろそろ開始5分前だしもう来るんじゃないかな」
良い意味で普通な増川を見て凛太は確かめてみることにした。気になっていることを……。
「ここって、その……悪夢治療専門の病院って本当ですか?」
「あれ、聞いてないの?今日もこれから俺たちは悪夢の中に入るんだよ」
初対面の誰かに悪い印象を与えないようにするため、凛太は家を出る前にお風呂に入っておく。湯には浸からず、シャワーだけで頭と体を綺麗にした。
普段は外へ出るときにお風呂に入ったりなんかせずに、髪を濡らして整える程度だが今日は特別だ………とは言っても、シフト時間は22時から翌日の午前4時まで。家を出る時間は、凛太がいつもお風呂に入っているような時間なので汚れを落とすにはちょうど良い時間だった。
今後もこの時間にお風呂を済ませてから出勤することになるだろうか……どうしようか。夕食も食べてから行こうか、帰ってきてから食べようか……そんなことは深く考えていなかった。これからバイトに合わせて生活習慣を変えていくという自覚は無い。
なにしろ、バイト先の「とまと睡眠治療クリニック」はやはりどこかおかしい。
どこかというか、明らかに悪夢治療を専門にしていて治療法が夢の中に入るというところが奇怪すぎる。
雇用関連の書類や、見せてもらったバイトのシフト表にも特におかしなところは無かったし、クリニックのホームページもちゃんとしたものがあった。
診療時間から医師の実績に睡眠障害の簡単な説明。どれも普通で病院のホームページとはこんなもんかという内容だった。少し気になったところを挙げるとすれば、診療は完全予約制で行っているというところだが、これも睡眠治療クリニックという特殊な形態なら頷ける。
しかし、今のところ馬場の口から以外は悪夢治療専門という言葉は出てきていない。あれはいったい何なのか……。考えたり、それについて調べてみても答えは得られなかった。
とにかく、馬場に言われた通りにおかしな場所だったらすぐにやめるつもりだった。怖いもの見たさ半分で、とりあえず一回シフトに入ってみる――。
静かになってきた夜の街の中、両隣のビルは明かりが消えていたが、とまと睡眠治療クリニックの赤い看板は怪しく光っていた。凛太は裏口に回り、その中へ入る。
廊下を進みながら、バイトの準備室へ真っ直ぐ行っていいのか、院長室の馬場に挨拶しに行ったほうが良いのか考える。
そもそも今の時間に馬場は院長室にいるのか……頭をかいて歩いていると前方の扉が開いた。出てきたのは院長の馬場だ。
「あ、こんばんは」
「おう。草部君おはよう。早いじゃないか。勤務初日だね」
「はい。えっと……まずはどうすればいいですか?」
「バイトの子の準備室行って。この前場所は教えてあげたよね」
「はい。分かります」
「そこにたぶんもう増川君って子が来とるから、その子に仕事のこと教えてもらって。今日は教えながら一緒に仕事してって伝えとるから」
「はい」
話が終わると、馬場はさっさと歩いて行ってしまった。
凛太はノックをして準備室に入る。その中には一人男がいて、ロッカーに背中を預けてスマホをいじっていた。おそらく、紹介された増川であるらしい男は凛太が部屋に入るとすぐに会釈して手を挙げる。
「おはよう。……君が新人の草部君?」
「おはようございます。はい草部です」
病院でも前にやっていた他のバイトと同様に初めの挨拶は「おはようございます」なんだと思いつつ元気よく声を出す。
「初めまして。前からここでバイトしてる増川です。今日は一緒にやるように院長に言われてるからよろしくね」
「よろしくお願いします」
「じゃあ、まずは着替えて。草部君のロッカーそこだから。……制服はこれね」
増川はロッカーの鍵やタイムカードの書き方等の準備室に来たらやることから、室内の照明スイッチやごみ箱の位置まで丁寧に説明した。
背は凛太よりも少し低く、黒縁の眼鏡をかけた増川は説明するのに慣れている様子で、次々と余すところなく話す。
「……鍵はかけたら無くさないように注意してね。スペアキーとか無いから」
「はい」
「草部君は大学生?」
一通り説明を終えると増川が肩の力を抜いて、やれやれといった様子で聞いてきた。
「はい。一宮大学の今3回生です」
「そっか。俺は今23歳で隣町の大学行ってるんだけど、恥ずかしい話留年しちゃってんだよね。ははっ」
「ああ。そうなんですか」
「それでまあギリギリの留年だったもんで暇だからこんなとこで深夜バイトしてんの」
「へー。ここのバイトは長くやってるんですか?」
「うん。まあ去年からやっててちょうど1年くらいかな。長いっちゃ長い。けど、今日もう一人くる子とかのほうが長いよ」
増川はたれ目でいかにも気の良さそうな雰囲気を身にまとっていた。初対面で勝手ながら滅多なことがないと怒らなそうだし、ミスをしても助けてくれそうだと思った。
「今日もう一人いるんですか?」
「うん。今このクリニックのバイト4人いるんだけど、基本的に毎日2人来ることになってるのね。たまに忙しいときは3人シフトに入るから大体皆週四日勤務で、今日一緒なのは女の子だよ」
「へー」
「そろそろ開始5分前だしもう来るんじゃないかな」
良い意味で普通な増川を見て凛太は確かめてみることにした。気になっていることを……。
「ここって、その……悪夢治療専門の病院って本当ですか?」
「あれ、聞いてないの?今日もこれから俺たちは悪夢の中に入るんだよ」