混みあった街の一角に、少し大きめの敷地を持つ神殿がある。建物自体はそれほど大きくはない。破壊と創造の神ロキスを奉るその神殿は、十年前に再建されたものだ。
 石造りの神殿が多い中、ロキスは木造の神殿である。破壊と創造を繰り返すその神の神気を取り込むために、およそ五十年の間隔で立て替えられているからだ。ラウルたち大工にとって、『創造』を意味するこの神は重要な神の一人である。特に、この再建された神殿はラウルの亡き父が中心になって建設したものだ。ラウルにとっては信仰以上に、想い入れの深い建物である。
「メイサさんは、大火と関係があるのでしょうか?」
 降り止まぬ雨に濡れながら、ラウルは神殿を見上げた。
「わからないわ」
 アリスティアは呟くように答えた。
「姫様」
「アリスでいいわ」
「アリスさま。メイサさんはどんな人なのですか?」
 ラウルの中で描き出される女性は、あまりにも憐れな女性だ。
「気の強い子よ。いつも強気で、しかも才能にあふれていたわ」
 神殿の門を静かにくぐりながら、アリスティアは答える。
「正直言うと、私、彼女に嫌われていたの」
 ラウルは驚く。当たり前のように友達だと思っていた。
「私を露骨に、あそこまで嫌悪するひとなんて、どこにもいなかったわ。みんな『公爵の娘』に気に入られたくて、私を好きなフリをしていたから」
 アリスティアの顔に自嘲めいた笑いが浮かんでいた。
「変な話だけど、だから私はあの子が好きだった」
 彼女は間違っている。と、ラウルはアリスティアを見ながら思った。
 彼女が公爵の娘でなくても、男であれば、彼女に好かれたいと思うはずだ。現に絶対に届くはずのない宝玉とわかっていてさえ、ラウルの胸は騒いでいる。 
「一度、二人で共同研究をしたことがあるの。仲良くはなれなかったけれど、あんなに頼れるパートナーはいなかったわ」
 アリスティアは神殿の扉を開き、フードに溜まった水気を軽く手で払うようにして、中に入った。
 天井の高い広いホールだ。
 板張りの床には、緋色の絨毯が扉から祭壇まで延びている。既に夕刻を過ぎているため、信者はおろか神官の姿さえみえない。ホールは、たくさんの燭台にともされた灯りで照らし出され、祭壇の奥には、逞しいロキス神の木彫りの神像が奉られていた。右腕に、水竜、左腕に火竜を絡ませ、破壊と創造を意味する大きな斧を構えている。表情は静かで知性を感じさせた。やや煤けた色をしているのは、大火の名残だ。
 あの時、神殿そのものはほとんど焼けてしまったが、この神像はほぼ無傷であった。そのことに人々は恐れ、おののいた。火事はロキス神の怒りではないかとも言われた。全てに先駆けて再建されたのは、一刻も早く神を鎮めるためだった。
「神官長にお話を聞きましょう」
 アリスティアは、神官の私室につながる扉をノックする。
 ほどなく足音がして、白髪交じりの老神官が顔を出した。
「あの、お話をお聞きしたくて」
 言いかけたアリスティアを制して、ラウルは久しぶりです、と挨拶をした。
「ええっと。ノルグさんの息子さんの?」
「ラウルです。ご無沙汰しております。クラウド様」
 クラウドは懐かしそうに目を細め、二人を部屋に招き入れる。
 飾り気のない古ぼけた椅子、使い込まれたテーブル。清貧という言葉がふさわしい部屋であった。
「知り合いだったの?」
「はい。この神殿を再建したのは父だったものですから」
 びっくりしたように見つめるアリスティアに、なんとなく決まり悪げにラウルは説明をした。
「クラウド様、こちらは」
「レキサス公の娘、アリスティアです」
 アリスティアは優雅に頭を下げる。
「なんと、お姫様でいらっしゃいましたか」
 クラウドは目を向くように驚いて、あわてて礼を返した。
「それにしても、不思議な組み合わせですね。どうぞ、おかけになってください。何もおもてなしはできませんが」
「お構いなく。私たち、お話をお伺いしたかったの」
 勧められた椅子に腰掛けながら、アリスティアは微笑した。
「さて。私でお役に立てればよろしいのですが」
 水差しから水を注ぎいれ、クラウドは二人に勧めた。
「十年前の大火のことなんですけど」
 アリスティアと軽く目配せすると、ラウルは口を開いた。
「火事の当日、ここに一人の女の子が来たと聞いているのですが、そのことでお伺いしたいのです」
 クラウドの優しい笑みを浮かべた目が、厳しくなった。
「何故、そのような昔のことをお知りになりたいのですか?」
「導き手でいらっしゃるラバナス様が亡くなったのは、ご存知ですわね?」
 アリスティアが静かに口を開くと、クラウドは無言で頷いた。
「その死に、少女が関わっている可能性があるのです」
「まさか……」
「信じられないのは私も同じです。だからこそ、彼女のことを教えていただけませんか」
 身を乗り出さんばかりのアリスティアとは対照的に、クラウドの顔に深い皺が刻まれたようにラウルには思えた。
「毎日のように、神に祈りを捧げに来る少女がいました。そう、あの日もひとりで、彼女は祈っていたのです」
 言葉を選びながら、重々しくクラウドは語り始めた。
「火事が起きたと知らせが聞こえたとき、私はあわててホールに駆け込みました。場合によっては、ご神体を担いで避難しようと思ったからです」
 小さく息をつぎ、思い出すように瞼を閉じた。
「私が見たのは、床に倒れ、炎に包まれて、なお燃えない少女の姿でした」
 クラウドの声が畏怖に震える。
「紛れもなく、ロキスの巫女でした。ロキス神は、真摯に祈る少女に火竜の力を与えていたのです。その証拠に、神像の腕に、火竜の姿はありませんでした」
「嘘、でしょ?」
 信じられない、というようにアリスティアは首を振った。
「だって、彼女は炎系の魔法はいっさい使えなかったのよ? それが原因で、誰よりも優秀な魔導師でありながら、宮廷魔導師になるのを反対されていて。ずっとそのことで、悩んでいたのに」
 哀しそうに、クラウドは目を伏せた。
「魔の乱れを感じとって、ほどなくラバナス様が駆けつけてくださいました。私が火竜を鎮める間に、ラバナス様は、封じの技を使い、彼女と火竜を切り離したのです」
 炎系の魔法の源は、ロキス神の火竜に発するものだ。封じの技は、魔との接触を遮断するためのものであり、それを施されたのであれば、炎の魔法は使えない。
「ラバナス様は、彼女を『知恵の塔』で教育すると言って、連れて行きました。そして、大火の原因は私とラバナス様だけの秘密にしようと決めました。彼女は火竜を呼んだことなど理解してはいません。もちろん罪は罪です。しかし裁くにはあまりにも憐れでした」
 沈黙が流れた。あまりにも話が突拍子もないようにラウルは感じる。
「では、この話は今日までメイサさんご本人にもされていないのですか?」
「はい。でも、一度だけ、どうしてもと言われ、ある方にはお話いたしました」
 ゆっくりと、クラウドは深呼吸をした。
「その方は、彼女、メイサさんの才能を高く買っておられ、宮廷魔道師にしたいとおっしゃってました。そのため、どうして炎魔法が使えないのかをお知りになりたいと、熱心に聞かれました。私は迷いました。しかし、彼女がその力を認められ、幸せになれるならお話すべきだと思い、他言はしないことを約束してお話しました」
「それは、どなたですか?」
「イルクート侯爵です。あの方はロキス神の熱心な信者でいらっしゃいます。信頼に足るお方です」
 クラウドは不安げに首を傾げた。
「まさか、そのこととラバナス様のことと何か関係があるのでしょうか?」
「わかりません」
 アリスティアは答えて、クラウドに礼を言った。
 そして、戸惑ったままのクラウドに微笑する。ラウルはアリスティアに連れられて、神殿を出た。
 既に夜の帳が降りており、お互いの表情はよく見えない。
 ラウルにはアリスティアが泣いているように感じられた。
 降り続く小雨のせいだろうか。二人はラレーヌ地区の子馬亭の近くまで無言で歩く。濡れた石畳が店や民家の灯りに反射して、鈍く光っていた。
「聞いた噂の中にね、メイサに、秘密の恋人がいた、って話があったの」
 ぽつり、と、アリスティアは呟いた。
「誰も、誰が相手か知らないんだけど、あの子が宮廷魔道師になりたいって思ったのはそのせいじゃないか、なんて言われててね。私、ぴんと来なかったんだけど、相手がイルクートだとしたら分かるわ」
「どういうことですか?」
「イルクートは、侯爵なの。名門中の名門よ。普通に考えたら、メイサは愛妾だって難しい。でも、宮廷魔道師なら、堂々と妻になれるわ」
 娼婦の娘で、孤児だった彼女には、遠い存在の男。その恋を叶えるために、出世を願ったということは考えられることだ。
「でも、それと、ラバナス様の事件はどう関係があるのですか?」
「ラバナス様は焼死だったの。火の魔法で」
 アリスティアは淡々と口にする。
「状況証拠は、全てメイサを指している。それでも、犯人と確定できなかったのは、彼女が火の魔法をまったく使えなかったから」
 つまり。それが覆ったということだ。
「でも、封じられているのですよね?」
「そうね、もう少し調べてみないと結論は出せないけど」
 もう一度、気を取り直すようにアリスティアは頷く。闇の中に、銀の髪が映える。彼女を美しいと感じるほど、ラウルの胸に寂しさがいっぱいになった。
「なんにしても、彼女がエレクーンにいる可能性はなくなったのではありませんか?」
 ラウルは、慎重に口を開いた。勇気が必要な言葉だった。
「辛い想い出しかない、そして知り合いもいない、エレクーンに、彼女が潜むとは到底思えない」
 エレクーンは彼女にとっては、忌むべき場所だ。そんなところに戻ってくるはずがない。
「もう、お手伝いできることはありませんね」
 興味がないといえば嘘になる。アリスティアの力になりたいとも思う。しかしラウルは騎士でも憲兵でもない。ただの大工なのだ。これ以上、何が出来るだろう。
「待って。地図を描いてってお願いしたのは、メイサの事と関係ないわ」
 アリスティアは、慌てたようにラウルの袖を引いた。
「地図は、憲兵隊で測量したほうがいいでしょう。メイサさんが関係ないとしたら、尚更、『知恵の塔』も否とは言わないはずです」
 闇の中でも彼女の深い藍色の瞳が自分を見つめているのを感じて、ラウルの心は揺れた。しかし、それゆえに決別の決意は固くなった。
「オルヴィズ様に」
 ラウルは、そっと彼女の手を振りほどく。
「あなたの大切な方が胸を病んで亡くなったとお聞きました。そのことで、同情してくださっているのはわかります。でも憐れみはいりません」
 夜の闇が、お互いの表情を隠していた。
「ごめんなさい。そんなつもりは」
 彼女を責めるつもりも傷つけるつもりもなかった。それでも、ラウルは己の矜持を守りたかった。
「失礼します。無事、真実にたどり着くことがかないますようにお祈りいたします。」
 ラウルは振り返らなかった。
 二人の間に、暗くて冷たい夜の雨が降り続いていた。