昼下がりだというのに、雨のせいか人影はまばらだった。
 目深にかぶったフードが水を吸って重くなり始めている。
 ラウルは『エリアバートの薬屋』とかかれた小さな店の扉を開いた。
 泥落としで靴の汚れを落としながら、フードをおろす。水を吸って重くなった上着からしずくが滴り落ちる。
 店内を見渡すと、先客があったようだ。
 でっぷりとした人のよい親父は、銀色の長い髪の娘と談笑していた。
 人目を引く美しい娘だった。魔道師のマントを身にまとっている。深い藍色の大きな瞳が宝玉のような輝きをたたえていた。
「やあ」
 親父はラウルと目が合うと、にこやかに笑った。
「いつもの薬だね」
 ラウルは親父に軽くうなずいて、遠慮がちに口を開く。
「すみません、半分ツケでお願いできませんか」
 ラウルの心配とは裏腹に、親父はあっさり頷く。
「ああ、いいよ。今の時期、大工の仕事はたいへんだものなあ」
 春の初めのちょうど今頃、ルパーナ帝国は長い雨の季節に入る。
 毎日降るわけではないが、月の三分の二は降っているから、ラウルのような天候に左右される日雇いの職業に従事している者の収入は激減してしまうのだ。内職仕事を増やしたりはするものの、いつもの給金には到底及ぶものではない。
「ありがとうございます」
「いや、いつもお袋さんの為に感心だよ、君たち兄妹は」
 笑いながら、親父は薬の壷を取り出して、ラウルの持ってきた布袋に錠剤を入れてくれた。
「その薬……お母様は、胸を悪くしていらっしゃるの?」
 脇で見ていた娘が、親父の手元を見て、ラウルに問いかけた。ちょっと低めの凛とした張りのある声だ。
「そうです」
 突然、声をかけられて、ラウルはぎこちなく答えた。瞳を向けられただけで、ドキリとするほど娘は美しかった。
「ねえ、エレクーン地区って詳しい?」
 何かを思いついたような娘の唐突な質問に、ラウルは戸惑う。
 エレクーン地区は、娼婦宿に、異国民の多い貧民街、賭場などがひしめいていて、死体が野ざらしになっていてもさほど不思議でない場所だ。
「仕事で出かけることはありますが、詳しくはないです」
「ごめんなさい。悪意があって、聞いたわけじゃないわ」
 ラウルの表情に何を見たのか、娘はあわてたようだった。
「実はね、人を捜しているの」
「はあ……」
 娘の意図がわからず、ラウルは首をかしげる。
「その人、ある事件の大切な証人なの。早く見つけないと、命に危険が及ぶかもしれない」
「だったら、憲兵に」
「無理よ。憲兵に保護を求めてくるような人なら、エレクーンに逃げ込まないわ」
 娘は首をすくめた。
「だから、私が捜そうと思ったのだけど、なんだか目立つみたいだし」
 それはそうだろうとラウルは思った。こんなに美しい娘が歩いていたら、エレクーンでなくても目立つ。
「アリスさま、そんな無茶なことをなさろうとしていたのですか?」
 親父が目を剥いている。
「あそこはあなたのような方が歩く街ではありません」
 とがめようとする親父を、娘は困ったような顔でみつめた。
「この帝都で、歩いてはいけない場所がある、ということ自体が、私たちの不徳とすることだわ」
「いや、しかしですね」
 娘は親父の抗議を目で制する。
「ごめんなさい。あなた、大工さんなのよね?」
「一応は」
 ラウルはまだ大工としては下っ端であり、何かを任せてもらえる立場ではない。
「危ない場所だから、無理をする必要はないんだけど、おおまかでいいから、地図を描いて欲しいのよ」
「地図ですか?」
「そう。地図があれば、尋ね人の潜伏先を推理することが出来るもの。あの地区はね、もう二十年近くも新しい地図が作られていないのよ」
 エレクーンのような場所は、駐在する憲兵たちもいいかげんで、ろくに仕事をしていない。もっとも、まじめに仕事を始めたりしたら、悪党が多すぎて牢屋はいっぺんにあふれてしまうだろう。
「ひとつの通りにつき銀貨一枚。地区全体を完成させてくれたら、さらに十枚出すわ」
 破格の値段だった。ひょっとしたら、大工仕事より金になる。
「測量しろとか、住んでいる人を特定しろ、なんて言わない。街全体の雰囲気を知りたいの。期限は、雨の季節が終わるまでに。どう?」
 ラウルは頷いた。断る理由はない。
「でも、どうして俺に? それにあなたは一体?」
 娘はにっこりと笑った。
「私は、憲兵総監レニキス公の娘、アリスティア。あなたにお願いするのは、あなたのお母様のためよ」
 娘は手元からペンを取り出した。
「詳しくは、ラレーヌ地区の子馬亭っていうところの、ミリアって人に聞いて。これをもっていけば、わかるようにしておくわ」
 ラウルはまだこの時、その仕事を簡単に考えすぎていた。