程なくして、宝来もやって来たので、美兎は彼用にと持ってきた菓子を差し出した。
「礼の礼をもらうのは性分じゃねぇが、嬢ちゃんの気持ちだ。ありがたく頂戴するぜぃ?」
「私の昔馴染みのお店のなんですが」
「いやいや。こいつは嬢ちゃんの夢がまたえらく詰まった逸品だなぁ? けど、ひとついただくぜぃ?」
小さなバクの手で器用に包装紙を剥がした彼は、箱を開けていっぱい詰まったジャムクッキーをひとつ手に取った。
「おや。中身はジャムクッキーだったんですか?」
「あ、火坑さんにはフィナンシェの詰め合わせです。勝手ながら、甘過ぎるものは苦手かなと」
「お気遣いありがとうございます。実は、フィナンシェは大好物でして」
「それならよかったです!」
あとで食べると言ってくれた火坑とは対照的に、宝来は手にしたジャムクッキーを貪るように食べていた。
「うっめ、美味いぞ、このクッキー! 旦那の料理にも負けず劣らずの吉夢! 蕩けるようなジャムの食感もたまんねぇぜ!」
「気に入ってくださって、よかったです」
「嬢ちゃんからの礼とは言え、もらい過ぎだな。…………よし!」
宝来は席から降りると、ズボンのポケットを探り出した。
「……なにを?」
「嬢ちゃんに吉夢をやろう! この菓子全部じゃ礼と言われても大き過ぎる!」
「え、吉夢っていい夢なんじゃ!?」
驚いていると、宝来は美兎の前に青色のビー玉のようなものを取り出してくれた。
「ほう、大聖夢とまではいきませんが。かなりいい夢ですね?」
「おう。俺っちのとっておきだぜ!」
「け、けど、私はこの間の御礼にお菓子を買ってきただけで」
「いえいえ、湖沼さん。あなたの持つ心の欠片や吉夢は夢喰いや僕なんかにはとてつもないご馳走なんです。ただ、渡し過ぎも不可もいけない。なので、宝来さんは自分の持つ夢の一つをあなたに差し出したんです」
「渡し、すぎもいけない?」
「人間達でもあるだろ? もらい過ぎなのをなんらかの形で返してくれる。俺っちもそれをしただけさ」
だから、受け取ってくれ、とビー玉を差し出してくれたので、美兎は恐る恐るそれを手にした。
ビー玉なのに、温かくて、でも不快に思わない。
ぎゅっと手で掴むと、あったはずの感触が消えてしまった。
「これで、嬢ちゃんはいい夢……現実にでも転機が見出せる。だが、俺っちのせいじゃねぇ。自分で掴み取った結果になる。成果は、おいおいだけどよ?」
「私が……ですか?」
「宝来さん以外の夢喰いと出逢う機会もあるかもしれませんが。湖沼さんの霊力に、もっと惹かれる妖も出てくるでしょう。さて、この間と似た食材になりますが。スッポンの唐揚げでも作りましょうか?」
「お! つまみにゃ最適だ!」
「唐揚げですか!」
雑炊もだが、実に家庭的な料理の一つ。
カウンター越しに調理の様子も見れるので、美兎はわくわくしながら待っていると。
「おお、いきのいいスッポンじゃねぇか!」
「こ、これがスッポン……!」
出されたのは、生きた食材だった。
亀にも似た、亀ではない生き物。
今日、先に出されたのはアナゴの蒸し物や天ぷらだったが、どれもこれも逸品揃い。捌くところも先に見たが、まさかこのスッポンまでも目の前で捌いてしまうとは。
「湖沼さん、結構えぐい光景になりますので目をつむっててもいいですよ?」
「そうします!」
それから、どんだんとか、だだんなどの音が聞こえてきて、鍋にぽちゃぽちゃと入れる音がしてから火坑に目を開けてもいいと言われた。
「さあ、腕の見せどころです」
ただの肉に解体されたかと思いきや。皮付き、しかも爪が残ったままの状態で調理するのかと、美兎には想像しにくかった。しかし、この元地獄の補佐官だったらしい猫人は、いきいきとした表情で調理していく。
出来上がった頃には、美兎の目の前には鶏肉に似た美味しそうな唐揚げが出来上がっていたのだった。
「臭み抜きは生姜とニンニクのみ。味は鶏肉と似てます。皮もコラーゲンの一種なのでどうぞ」
「いただくぜぃ!」
「い、いただきます……!」
唐揚げだが、見た目は竜田揚げによく似ていた。けれど、揚げ物の種類がいまいちよくわかっていない美兎には食べる選択肢以外ない。
爪付きじゃないのを口に運ぶと、生姜と醤油のパンチが効いた、鶏肉のような弾力を兼ね備えた美味しい唐揚げに出会えた。
「美味しいです! ちょっともちもちしてるんですけど、臭み抜きのお陰で本当に鶏肉みたいで。スッポンのお肉って、こんなにも食べやすいですね!」
「喜んでいただけて何よりです」
「この新鮮さと味に香り。いいもんが柳葉で手に入ったんだな?」
「ええ。いい雌が。卵もどうです?」
「卵?」
「新鮮なのを生姜醤油で和えただけだが。珍味だぜぃ?」
それから美兎に出された珍味は、どれもが初めてなのに美兎の舌を驚かせる逸品ばかりだった。
さらに、一週間後。
「嘘……!」
研修期間の終了後、配属された美兎の部署は。
希望通りの広告デザインのところであった。あの吉夢のお陰かはわからないが、美兎にとっては夢のようで。
またさらに御礼になってしまうかもしれないが、楽庵に行く前に高島屋でお高いお菓子を買っていこうと決めたのだった。
ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
「世知辛い世の中でやんすわー……」
本日のお客は、少々酒に酔い潰れていたいのか。冷やかかん酒などなどを色々呑み漁っていた。
だが、一点。その客は店主である猫と人の間のような姿を持つ火坑同様にヒトではない。
細長い胴体が特徴的。ツバ帽子を被っているが小さな顔はよく見えて。尻尾も少し長い、全体的に茶色の毛に覆われている。服装はだらしないスーツを着ている。
カワウソのような姿ではあるが、言葉もしゃべれる妖の一種ではあるのだった。
「ヒトを驚かして、怪我させても薬塗れば治るとか。……民間伝承も各地にあれど、最近のヒトはてんで驚かんから、わてら兄弟も商売上がったりでやんす……」
「……お疲れ様です」
「かまいたちも、世に必要とされてませんわー……兄者達も、今日は別々で飲んでいるでやんす」
「それで、水緒さんだけが本日ご来店されたのですね?」
「兄者らと飲むと騒がし過ぎちまうからなあ? 旦那には迷惑かけられんし」
「ふふ。私は楽しいと思いますけど?」
「おおきに」
ただ、妖とはいえ飲み過ぎはいけないことに変わりないので。つまみにと火坑は水緒にほうれん草の白和えを出した。
「軽くつまめる物でも、挟みましょう?」
「おおきに。たしかにちゃんぽんして、明日から倒れていたら意味ないでやんすし?」
「こんばんは〜!」
と、水緒と話していたら、最近常連となってくれた客人がやってきたのだった。
「いらっしゃいませ、湖沼さん」
「また来ちゃいました!」
ヒトなのに猫のような癖っ毛が愛らしい若い女性。
そして、最近常連になってくれたので、店主としての対価というか代金というか。ヒトの魂の欠片である『心の欠片』を提供してくれる大事な客人でもある。
妖からもまったく手に入らないわけではないのだが、ヒトの短命でありながらも、魂の輝きが眩しい。そんなヒトと出会えたらな、と火坑はヒトの世に生まれ落ちてからここに店を構えたかったのだ。
湖沼美兎と名乗っている、ヒトでも若い年の頃だが。心の欠片を定期的に提供してくれる彼女は大事な客人だ。もちろん、妖や他の人間も贔屓にはしているが、彼女は一線を画している。
美味なる心の欠片を落とす美兎の訪れは、火坑の日々の糧になりつつある。それに、彼女が来る時は必ずと言っていいくらい手土産を持ってくるのだ。
「じゃじゃーん! 今日は丸栄の最中でーす!」
「いつもいつもありがとうございます」
「火坑さんは恩人ですから。あ、えっとそちらのお客さんは?」
「かまいたち三兄弟が一員、水緒っていうもんでやんす。お見知り置きを」
「はじめまして、湖沼と言います」
「ふぅん。嬢ちゃんはヒトだが、ここにはよく来るのかい?」
「へへ。火坑さんと、あと宝来さんにはお世話になりまして。それに、ここのお料理は美味しくて!」
「ありがとうございます」
さて、美兎が来店する日は、仕事の関係で週に二回程度。
それでも、火坑からしたら不規則な妖相手をするより断然多い。妖からの微々たる心の欠片だけでは商売にならない。腹の糧にもだが、ヒトの町に繰り出す時に必要な貨幣なども。
それを手に入れる手段は今は置いておくが、美兎から出された最中は食後のデザートがわりに出すと決めて。まずは、美兎の胃袋を満たさなくては。
「湖沼さんは、キノコとこんにゃく以外は大丈夫でしたよね?」
「う。はい……その二つでなければ」
妖もだが、ヒトにも食べ物に好き嫌いは存在する。
美兎の場合は、女性だと好まれやすい食材を逆に苦手としているらしい。前に一度、キノコの煮物を出した時には平謝りされるくらい拒否したのだった。
「お腹の空き具合は?」
「結構……ペコペコです」
「ですと、そうですね……。スッポンのスープが出来ていますので、その間にカルボナーラを作っちゃいましょうか?」
「わ! 今日は洋食ですか?」
「ヒトには甘いねぇ、旦那?」
「ふふ。水緒さんはどうされます?」
「俺もちょうだいしたいでやんす!」
「じゃ、作りますね。その前に」
「あ、心の欠片ですね?」
初対面だったあの時とは違い、美兎の心の欠片を取り出すのは彼女の両手に触れてから。その上に、火坑の猫のようなヒトのような手を乗せれば。あっという間に光って火坑の手の上に出てくるのだ。
「ほう? こりゃ燻製肉かい?」
「ベーコン、ですよね?」
「今日は僕の望む形になってもらいました」
量は少ないが、たしかに豚肉のベーコン。
なんとなく、美兎がカルボナーラを好みそうだったので、有り合わせの肉よりかは、と火坑が顕現させたのだ。
顕現方法は妖によって様々ではあるが、火坑の場合はこの方法にしている。美兎と出会った当初は、心の欠片が髪についていたので、正体をあらわす時に利用させてはもらったのだが。
この女性の場合、肝が据わっているのか多少驚きはしても、自然と受け入れてくれたのだ。
「では、まずスッポンのスープをどうぞ」
「いただきます!」
自家製の梅酒と一緒に出したのは、美兎が来店する前に捌いたスッポンで作ったスープ。具材にはぶつ切りした頭や、足。甲羅などをニンニクや少量の唐辛子で煮込んだ、この楽庵では定番のスープ。
はじめて美兎に出した時は、頭部の状態に驚かれてしまったが、順応性の高い彼女はすぐに美味しさの虜になって。今は頭部が残っていると嬉しそうに手でしゃぶりつくくらいに。
「人間の嬢ちゃんも。そのスープが好きでやんす?」
「最初はすっごく驚ろいちゃったんですけど。今は大好きです! そこにこの梅酒!」
ちびちびと飲むように教えた梅酒は、ただ梅の実と氷砂糖だけでなく。漢方にも使われる高麗人参と杏も入れている。だから、少し薬のような風合いがするのだが、美兎の一番のお気に入りらしい。
さて、今のうちに大鍋を最大火力で湯を沸かし。
軽く塩を入れて湯がいてから、少しお高めの卵と生クリーム、パルメザンチーズでソースを作り。
心の欠片から取り出したベーコンを薄切りにして、カリカリに炒めたら。
アルデンテになったパスタが、のびないうちにソースを仕上げて。
皿に盛り付けたら、卵黄と黒胡椒、さらにパルメザンチーズを振りかけて。
「楽庵特製のカルボナーラです」
「うわぁ! 美味しそう!」
「旦那……早く食わせてくれぃ!」
「まあ、焦らず」
ここは、ヒトの習慣にあやかって、レディーファーストということで美兎から先に渡したのだった。
今日も今日とて、火坑の料理はどれも美味揃いだ。
定番となりつつあるスッポンのスープは言うまでもなく。胆汁の水割りや、生き血のポートワイン割りはまだ抵抗感を覚えてしまうが。美兎は妖怪が営むこの小料理屋の立派な常連客になっていた。
「うわぁ……美味しそう!」
今日の代金代わりである『心の欠片』になったベーコンで作ったカルボナーラは、名古屋各地のランチをまだ網羅していない美兎でさえ、顔負けだと思わずにはいられない。
皿とフォークを受けとって、改めて手を合わせた。
「いただきまーす!」
「どうぞ、お召し上がりください」
「いただくでやんす!」
今日出会ったばかりのかまいたちという妖怪の水緒もフォーク片手にカルボナーラへと目を輝かせていた。
美兎も、ゆっくりフォークに巻きつけてからひと口。
「美味しいです! ソースが濃厚ですし、ベーコンの塩気も邪魔しない! パスタに絡んで、よく合います!」
「ふふ。お粗末様です。湖沼さんの心の欠片のお陰でもありますよ?」
「けど、こんなにも美味しくなるんですね?」
「うめー!」
卵と、生クリームとベーコンにパルメザンチーズ。
どれもが主張しているのに、お互いを損なわないくらいの味わい。仕上げの黒胡椒もいいアクセントで、舌を休ませてくれる。
水緒もだが、美兎も夢中になって食べていくが。これには先に出してもらった特製の梅酒が合うのでは、とひと口飲もうとしたら。
「……あの、まだ席あります……か?」
美兎が梅酒を飲もうとした時に、来客があった。
それは別段普通のことだが、妖怪ではなく美兎のような人間。しかも、同じ年くらいのサラリーマン男性だった。
「え、ここは……?」
「おう。わてとかが視えてるようだなあ?」
「え!? カワウソが喋った!?」
「わてはかまいたちでやんす!! 動物ならイタチだ!」
「え、え、え?」
美兎は慣れてしまっているが、どうやら望んでこの店と言うより、妖怪との境界線を越えた人間なのかもしれない。と言うことは、水緒はともかく、火坑の姿は人間に視えているのかも。
火坑の場合は、前世が地獄の役人だったらしくまやかしの呪術が色々扱えるので、通常は人間のように視えてしまう。
生鮮市場で有名な、名古屋駅近くの柳葉で仕入れに行く時はその呪法で人間に見せているらしい。
だからか、今入ってきた男性にはどう視えているのだろうか。
「あの……ここに通わせていただいています。湖沼と言います。私は人間ですが、どうやってこちらに?」
「あ、ご丁寧にどうも……。美作と言います。錦にやってきただけなんですが」
「あら」
「迷われたようですね? どうぞ、よければ座りませんか?」
「え、あ、はい……」
美作は狭い店内を少し見渡していたが、空いていた水緒の隣の席に座ると、ちょうど美兎の卓の上にあったものを見て声を上げた。
「ここって、和食よりも洋食メインなんすか?」
カルボナーラが好物なのか目を輝かせていた。
「いえ、基本的には和食ですが。材料が揃っていればなんでも作りますよ? パスタがお好きですか?」
「はい。貧乏学生の時は、腹にたまる理由ででしたが。栄とか久屋大通で飯食う時は、大抵選んじゃうんですけど」
「あの、美作さんのお勤め先は?」
「ん? 丸の内です」
「私もです」
けれど、オフィス街でもある名古屋中区界隈で、どの会社どの通りで出会うかもわからない。ひょっとしたら、通り過ぎているかもしれないが。少し興味がわくと彼は火坑に言われて手を差し出していた。
「こう、っすか?」
「ええ。……どうです? 僕は人間に見えますか?」
「へ? え、え、え!? 店長さんが猫!? でか!!」
「ふふふ。ヒトを食べたりはしませんよ? 今美作さんからいただいたこの心の欠片を主食にするのです」
「心、のかけら?」
ちょっと美兎も覗き見ると、ぱっと見はさっき美兎が出したのと同じ、ベーコンの大きな塊だった。
「……へ?」
「美作さんには何に視えますか?」
「……ピンバッジっす。昔無くした」
「そうですか。僕や他のお客様にはこう見えるんですよ?」
「……?」
また火坑が手をベーコンにかざせば、美作は目を丸くするのだった。
「え、ベーコン!?」
「よければ、こちらでカルボナーラをお作りしましょうか?」
「俺が食べてもいいんすか?」
「構いませんとも」
すると、環境の驚きよりも胃袋の限界が近かった彼はすがるように火坑に頼み込むのだった。
「ふーん。おたく、妖に好かれそうな体質のもんに見えんでやんすな?」
とうに、カルボナーラを食べ終えた水緒が、美作を見ながら小さく笑っていた。
「え、あやかし?」
「お前さんらが妖怪とか呼んでいる類の生き物さ。わてもそうやけど、そっちの旦那はちょいと特殊だがねぇ?」
「俺が、えと……」
「水緒さ」
「水緒……さんとかの妖怪に好かれやすい?」
「おう。あんたの周りに、風の妖気を感じる。おそらく、わてとは違う部類のかまいたちに好かれてんだろうなあ?」
美兎の場合は、夢喰いの宝来などに好かれやすいとは初回では言われたのだが。
美作は、かまいたちと聞いても。妖の勉強を始めたばかりの美兎にはまだよくわかっていなかった。
美作辰也は、どちらかと言えば不運な人生を今まで歩んできた。
よくつまずくし、転ぶし、傷はできるが血は出ない。
血は出ないのだが、傷痕は時々残ってしまう。シミになりにくい薬剤などを使っても、どうしても消えない。
だから、夏でも仕事では長袖のシャツを着ていることしかできないでいた。事情を聞かれる時は腕をまくったのだが、ディスカットかと思われることもあったがすべて違うと否定しても哀れんだ目で見られることも少なくない。
今日も今日とて、夏なのにTPOを考えた格好をしろとも赴任したばかりの先輩に言われたのだが、腕を見せたら哀れんだ目で見られてしまった。そして、少しぶりに転んでいつものような傷痕が新たに増えた。
慣れたつもりではいたが、哀しくなることに変わりないので、たまには酒でも飲むかとひとりで錦町の界隈に足を運んだら。
今いる、猫のようなヒトのような、妖怪らしい料理屋に迷い込んでしまい。一応先客に人間の女性はいたのだが、ずいぶんとこじんまりしているのに居心地のいい店だった。
だが、先客のもう一人。かまいたちと言う水緒と言うものが、辰也が妖、しかも自分とは違うかまいたちに好かれやすい体質だと言われて驚いた。
「風で転ばせ、鎌で傷を作り、秘薬で癒す。ってのが定番だが……あんさん、傷痕だけは残ってるような感じでやんすあ?」
「な、なんでそこまで!?」
「そりゃぁ、同族だからなあ? ちょうど良かった。同族のよしみでわてが治療するでやんす」
「へ、え?」
水緒がどこからか取り出した素焼きの壺をカウンターの上に置き、有無を言わせない勢いで辰也のきっちり締めていたシャツの袖をめくった。
「あーりゃりゃ。こいつぁ、若けぇ衆だなあ? 他の傷痕も出来はわるくねぇが、薬の担当だけが不出来だぜ」
湖沼と名乗った女性もいるから見られたくなかったのに。水緒は小さな手でも動物じゃない妖怪でいるからか、辰也が引っ込めようとした腕をびくともしない力で抑え込んでいて、壺の中にある水色の軟膏のようなのを空いてる手ですくった。
「すぐ治る。ちょいと我慢しな?」
そうして、その軟膏を塗られた瞬間。
辰也の腕が一瞬白く光ったかと思えば、消えてしまったと同時に、腕にあれだけあった傷痕が跡形もなく無くなってしまっていた。
「え、え、え!? み、水緒さんが薬塗っただけで!?」
「わてはかまいたち兄弟でも、傷痕を癒す担当だっただけでやんす。偶然な出会いやけど、今日わてがおって良かったなあ? 反対の腕も出しておくんなせえ」
「は、はい!」
同じように反対の腕にもその軟膏を塗っただけで、綺麗さっぱり傷痕が消えてしまったのだった。
「あんさんの担当になっているかまいたち兄弟には心当たりがあるでやんす。わてが口利きしとくんで、もう傷痕に悩むことはねーでやんす」
「あ、ありがとうございます!」
「良かったですね」
「そうですね」
湖沼や、店主の方もにこにこ笑ってくれただけで、哀れんだ表情とかが一切ない。
巡り合わせとは言え、今日は辰也にとってなんて幸運だったことか。祝い酒でも飲みたい気分になってきたが、先に例の心の欠片とやらで出てきたベーコンで作ったカルボナーラがやってきた。
「うわ、湖沼さんのもだったけど。美味そうっす!」
「心の欠片ごとに味が違うので、同じとまではいきませんが」
「い、いただきます!」
貧乏学生の頃は、うまく作れなかったカルボナーラだったが。この店は和食が多いらしいのに本当に美味しそうだった。
受け取ったフォークで迷うことなくベーコンとソースをよく絡めたパスタを巻きつけて口に運ぶ。
途端、頭を占めた感情といえば。
「うっま……すっげ、美味!?」
パスタのアルデンテ。黒胡椒のアクセントに負けない卵と生クリームの濃厚なソース。極め付けは、例のベーコン。燻製臭が少しきついが、そのフレーバーがパスタに絡まってなんとも言えないハーモニーを奏でていた。
「ふふ。お気に召していただけて何よりです」
すると、猫人の店主は頼んでもいないのにロックグラスに赤っぽい酒を入れて出してきた。
「……それは?」
「今湖沼さんにも召し上がっていただいていますが、うち自家製の梅酒です」
「へー? 梅酒って。もっと薄緑のイメージっすけど」
「杏と高麗人参とかを入れていますからね? まあ、ひと口」
「せっかくなんで、いただきます」
水割りではなく、ストレートのようだから一気に煽らずにひと口ずつ。すると、中身を先に聞いていたせいか、高麗人参の独特の癖に加えて杏の甘味がどっと押し寄せてきた。
「火坑さーん、私おかわり!」
「はいはい。あともう一杯だけがいいですよ?」
「はーい」
湖沼も気に入っているらしいこの梅酒。
梅の味もきちんとするが、甘さが際立っていくらでも飲めそうな味わいだった。だが、原材料の酒などの度数が強いのか、火坑と呼んだ店主はほどほどにと注意していた。
(けど、これ……)
洋食に和風の酒を合わせたら組み合わせが悪いのではと思ったが、もうひと口飲んでからパスタを口にすると。
「……うっま!」
高麗人参の癖が良い仕事をしたのか、パスタの燻製臭と上手いこと調和した。
パスタ、酒、パスタ、酒と交互に飲み食いしていたら、あっという間になくなってしまった。
「……美味かったっす」
けど、まだまだ若い辰也には少し物足りない。何か頼むかと思っていると、火坑が何か肉が入ったスープを差し出してきた。
「少し酔い覚ましにどうぞ?」
「これは……?」
「スッポンのスープです。滋養にいいですよ? うちの看板メニューなんです」
「へー?」
別の先輩とかと小料理屋に行く機会はあったが、いわゆる珍味を食べたことはなかった。よくて、猪肉程度。
しかし、いい匂いがするので器を持ってスープを飲むと。酔い覚ましに効きそうなくらい、優しい出汁と濃いスープの味付けに病みつきそうになった。
「美作さん、お肉とかも鶏肉みたいに美味しいんですよ? しゃぶるように食べるのがおすすめです!」
「そうなんすか?」
そして、湖沼に言われた通り。胡椒の効いた肉は本当に鶏肉のように美味だった。水緒にもだが、火坑達にもすっかり世話になった辰也は帰ろうとしたが普通に帰れるか自信がなかった。
「……帰り方か? わてが例の兄弟に会うついでに送っていくでやんす」
「い、いいんすか?」
「おそらく、わての注意に無断で会いにいくよりいいでやんす」
「え、はい? あ、お勘定」
「先ほど出していただいた、心の欠片で十分です。機会があれば、また」
「あ、はい?」
いまいちよくわからないシステムだったが、ただではなかったようなので大丈夫とわかれば辰也は水緒と一緒に店を出た。
心の欠片、らしいあのベーコン。
ベーコンになる前は、入社前に大学時代の先輩が祝いに贈ってくれたネクタイ用のピンバッジだったが。いつのまにか無くしてしまったあれはどこにいったのだろうか。帰ったら、探してみようと思った。
水緒に案内してもらった錦の界隈は行きに辰也が通ってきたのとほとんど変わりない。
だが、目の前で起きていることは、錦どころか人間のいるところでも滅多にない出来事になっていた。
『申し訳ありやせんでした、兄貴!!』
「謝罪するのはわてじゃねぇ! こっちの人間の兄さんに、だ!!」
『へぃいい!?』
カワウソ、じゃなくてかまいたちと言う妖怪の三匹が水緒に呼ばれて土下座しまくっているのだ。帰り道の手前、見つけたのとついでに辰也にも謝罪させねばと同席しているわけだが。
服装は水緒とは当然違うが、なんだか戦隊モノを意識したような風合いだった。
「鎌で傷をつけるのとかは、まだいいにしても……薬で癒すのが甘い! 好みの霊力が欲しいからって、ちゃんと癒せなきゃ今の世は通じねぇんでやんす!」
『……へい』
妖怪なのに、普通の会社員とあんまり変わらないような叱責の態度。いや、今も昔も住む世界云々で違わないのかもしれない。
とにかく、三匹のかまいたちの兄弟達は水緒に叱られてから今度は辰也の方に来て平謝りしてきた。
「ほんと……ほんと兄さんにはすんませんでした!!」
「ずっと昔っから、薬は調合は頑張っていたんですけど! 全然傷痕消せなくて!」
「あちきは長男ですのに、弟達を育てられなくてぇ!!」
『本当に、申し訳ありやせんでしたああああ!!』
「え、いや、その」
人間よりも小さい、しかも妖怪に謝罪される日がまさか来るとは思わず。おまけに、辰也が持ってるらしいかまいたちが好む霊力を欲しいがために、傷を作られた本人達とは言え。
正直、謝られても実感がわかなかった。
「……まあ、そこの兄さんはわてらかまいたちが好む霊力を持ってるでやんす。惹かれるのは仕方ないにしても、薬に出来が不十分なのは良くない。奈雲、あとでわての家にきな?」
『は、はぃいいいいい!!?』
コントかと思うくらい、見ていておかしくなってしまいそうだったが。真剣なことに変わりないので、辰也は膝を折ってかまいたち兄弟の前に目線を合わせた。
「俺の傷は治ったし。まあ、次から傷が残らないようにしてくれたらいいよ。その、俺の霊力っていうのが君達の飯になるんだろ?」
「飯……のようなもんでやんす。昔とは違い、霊力以外にも心の欠片で得る食いもんで腹は満たせられるが、妖気はそれだけじゃいけねぇ。ただ、短命の人間を殺してまでは御法度でやんす」
「けど……また兄さんを標的にしてもいいんすか?」
「転びますよ?」
「怪我しますけど、薬の調合頑張ります!」
「なら、いいよ」
今までの不幸を全部帳消しに出来るわけでもないが。元々人が良すぎるとも言われてた辰也の性格上、誠心誠意謝罪してくれた相手を無碍な扱いには出来ないのだ。
三匹の頭を交互に撫でてやっていると、彼らの後ろにいた水緒は懐に入れてたタバコをふかし始めた。
「ひとが良すぎるぜ。美作の兄さん。ま、これだけの霊力を欲しがる他のかまいたちもいるかもしれないでやんす。なら、奈雲らと契約した方がいいかもしんねぇ?」
「え、契約?」
「守護霊とかは聞いたことはあるだろう? それのわてら妖がなるだけでやんす。奈雲、異論は?」
「ないっす! 辰也の兄さんが浄土に行くまで。俺ら三兄弟が兄さんの霊力を守るでぃ!」
「うっす!」
「おお!」
水緒の話に、異論を持たなかった三匹は。曲げてた腰をしっかりと伸ばして三匹それぞれ右手らしい前足を辰也の額に当てた。
「我らが守護」
「我らの誓い」
「我らの願い」
『今ここに開眼せん!!』
三匹の声が重なって、一瞬前足が光ったかのように見えたのだが、そのあとは何も起こらず。自分の髪を触っても変化はなかった。
「ご安心くださりませ、辰也殿」
「我らとの契約は辰也殿を守護せんがため」
「他所のかまいたちに群がれぬよう、誓約を課したまでです!」
「……じゃあ、俺が怪我するのは?」
『多少のご愛敬!』
「そこは否定しろでやんす!』
『あう!?』
またコントのような掛け合いが始まってしまったので、しばらく観戦状態になってしまったが。
守護すると言ってもついてくるわけではないらしいので、奈雲達や水緒とは錦の端まで一緒に歩いて。ただ、あの湖沼と言う女性や半猫人間のような妖怪の火坑にもまた会いたいとこぼしたら、水緒が奈雲達に頼めと言った。
「霊力をたんまり食わせてやっているんだ。道案内くらいお手の物でやんす」
「楽庵っすね!」
「了解っすね!」
「では、また」
そして、その日以降随分と久しぶりに半袖のシャツに袖を通せたり。
転ぶことがあっても、切り傷が出来ることはまったくなく。
奈雲達がきちんと水緒の指導を受けたお陰か、丸の内での生活も順風満帆に過ごすことが出来そうだった。
「うーん。やっぱり手土産持っていきたいなあ?」
会社の屋上で一人ごちてた辰也だったが、誰もいないのでちょうどよかった。新入からは遠ざかった社員ではあるが、暑さの酷い名古屋でわざわざ屋上に出る人間は少ない。
ただ、喫煙所は辰也が吸わない人間なので行きたくない。のと、せっかくのおろしたてのシャツに臭いをつけたくないからだ。
さておき、楽庵に行こうにもどう言った手土産を持って行こうか悩んだ。単純に水緒に会いに行くなら奈雲達を呼べば連れて行ってくれるだろうが。出来れば、楽庵にいる水緒に会いに行き、店主や湖沼にも感謝の意を込めて手土産を渡したかったのだ。その話を聞かれまいと、あえて屋上に来たのだがもう悩んでいる暇もない。
「……奈雲さん達〜?」
『はーい!』
こっそり呼んだら、本当に出てきた。
けど、時間もないので三匹に頼み事をしてから、その晩の仕事上がりの前に買った手土産を持って、辰也は三匹と一緒に楽庵に向かうことにした。
どうやら、思いの外はやくかまいたち兄弟の問題が解決したらしく、先日迷い込んできた人間の男が再来店する予定が出来た。
水緒とは違う別のかまいたち兄弟が、火坑が営む小料理屋の楽庵にやってきて。契約した美作辰也がまた店に来たい、ただし、水緒や美兎のいる日程に、と。
普通の店にそれを聞くのは、少々プライバシーに反しているのではと思うが。ここは妖が営む料理屋だ。
プライバシーもあったもんじゃないと言うわけではないが、常連となってくれたあの女性に声をかけるのは火坑には容易いことだ。
とは言え、学生の身分でない彼女への連絡方法は一つ。
昼休みの頃合いを狙って、人間に化けている時に使う携帯の端末、スマホで連絡を取るくらいだ。だいたい、二、三回目の来店で部署の配属が決まったと彼女から名刺を受け取ったから出来るだけで。
買出しとあらかたの仕込みを終え、昼休み以降に連絡をすると、美作の頼みに美兎は快く承諾してくれた。ただし、今日は手土産は無しと伝えて。
『なんでですか?』
「おそらくですが、僕や湖沼さんだけじゃ食べきれないかと」
『? 美作さんがお菓子とか持ってこられるんですか?』
「ええ、きっと。僕はともかく、水緒さんや他のかまいたち兄弟さんの分も合わせると結構な数でしょうし」
『ふーん。……わかりました。じゃ、今日も元気いっぱい心の欠片を作れるように、頑張ってきます!』
「ふふ、お待ちしております」
妖がヒトと良好な関係を築くなど、妖の界隈では滑稽に映るかもしれないが、それは火坑にとって逆だと思っている。
「妖がヒトに。ヒトが妖によって生かされている世の中なのですよね……閻魔大王」
店の掃除をしながら、妖に転生する前のことを思い返すのが少し楽しみでいた。
転生前の、地獄での生活も決して楽しいものだけではなかったが。不喜処の一員とは言え、地獄を治める大王の第四補佐官として猫畜生として働いていた日々。
それを誇りに思い、日々奮闘していたが。
現世、いわゆる現代社会で妖が生きにくいとされてきたこの時代、妖として生き、成就するまではヒトを、妖を助けろと、大王に命じられてはや十数年。なんとかやっていけてるものだった。
「外の掃除でもしましょうか?」
時計を見れば、もう十七時前。
人間達、というより、この錦町界隈では表向きも妖との境も飲食店が数多く。だいたいこの時間帯に店を開けるのが多い。外に出ると、ちらほらと客らしき妖達が店を吟味していた。
さりとて、火坑と同じような料理屋は意外と少ない。昔から妖にもあったそうだが、人肉を喰らうだけでなく酒をたしなむ要素の多い店。他キャバクラやホストなどなど。人間の真似をして店を持つ妖も多いのだ。
代金等々は、実際人間が持つ賃金だったり、魂の欠片でもある心の欠片と様々。
火坑の場合、心の欠片を得て、これを店の店賃などなど分配していく方法をとっている。もちろん、妖に転生してから師や先輩料理人からきちんと教わったわけで。
今では立派に楽庵の店主として働けている。
掃除を終えてから、美兎や辰也が来るまでは、まだまだ時間があるので。今日二人に出す料理を考えながら、いつもの常連達のお相手をさせていただくことにした。
「おや、お早いお着きで?」
濡女の一人を見送った後にやってきたのは、かまいたちの水緒だった。
「あの兄さんに呼ばれたとくりゃあなあ? 待つ時間、のんびり酒でも飲もうかと思ったでやんす」
「ふふ、それもいいでしょうね? 今日は何にしますか?」
「あちぃから、冷酒の辛口!」
「かしこまりました。少々お待ちを」
なら、つまみにはナスで贅沢に仕込んだお揚げとのおばんざいがいいだろう。おばんざいとは京都のお惣菜を指す言葉だが、愛知でも東京でも少しずつ言葉としては浸透している。それは妖界隈でも然り。
皮を剥いて、水で灰汁を抜いて。濃いめのカツオ出汁と薄口醤油で味を整えてからキンキンになるまで冷蔵庫で冷やした逸品。冷酒が合わないわけがない。
それを出すと、水緒は先に出した冷酒と一緒に旨そうに食べてくれた。
「他の店も悪くはねぇが、火坑の大将んとこの味を知っちまうとなかなか他所にいけねぇでやんす!」
「ふふ、ご贔屓いただいてありがとうございます」
「なーに。例の兄さんことも、先に心の欠片を頂いてたから大した手間賃じゃねぇにしても。妖とヒトとが生きにくい世の中になっちゃいけねぇでやんす」
「ええ、本当に」
妖であれ、人間であれ。
生きにくい世の中を少しでもいいので、楽しみに変えていく。そんな一日が、一日でも多く作られれば、あの世である幽世も落ち着くだろうが、世の中そんなにも甘くはない。
たまたま、この界隈の妖の大半が人間に少し優しいだけなのだから。
「さて。今日はスッポンフルコースに加えて、うなぎも調達出来たんですよ」
「おお! 祝い酒だねぇ!」
「いいことがあった日くらい、豪勢にしましょう」
そして、美兎と辰也。それと辰也が契約したかまいたち兄弟がやってきた時分には、狭い店内であれほぼほぼ貸し切りの宴会状態になった。
辰也からは、感謝の礼だと美兎が以前買ってきてくれたところと同じ高島屋の和三盆を持ってきてくれて。
締めにそれを食べるまで、火坑は祝いだからと辰也の目の前で店では定番のスッポンを捌いたのだが。美兎は、相変わらず目を閉じていて辰也もだが、かまいたちにからかわれていたのだった。
ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
「……おや、雨ですか」
天気予報で台風の予報があったわけではないのだが、油断は出来ない。遙か昔、厄災の一端と恐れられていた彼の天災は、ヒトにも妖にも何かしら害を与えてきたのだ。
とは言え、今の世となってからは、建物なども頑丈に拵えられてきているので、猫人の火坑が地獄に召される以前の世とは違い、祈りを捧げる必要はない。
だが、この雨の降り方には火坑も覚えがある。
その証拠は、店先の掃除を簡単に終わらせてから、あらわれた。
「……ご無沙汰しております、火坑さん」
日本傘を優雅にさしている一人の女性。
ただし、髪や肌は日本人形のように整ってはいるが、眼だけが異質。眼球は黄色く、白目の部分は黒。まさしく、彼女が人間でないことを模っている証だ。
だが、妖界隈の歓楽街にたたずむ小料理屋に、妖が訪れてよくない理由もない。それと、火坑と彼女との関係は、久しいとは言え店主と客で成り立っていた。
「おや、ご無沙汰してます。灯里さん」
妖の彼女の名を呼んだが、部類としては雨女と言う妖だ。
天気を左右する人間の呼称ではなく、妖としての雨女。産んだばかりの子供を雨の日に神隠しに遭って失った女性が雨女となり、泣いている子供のもとに大きな袋を担いで現れるとの説もあるらしい。
が、土地神のように雨を降らす女神とも言われているそうだが、火坑も妖としては端くれでしかないので詳しいことは知らないでいる。それに、ヒトでないにしても妖のプライバシーを聞きすぎるのもよくないとされているので。
とりあえず、久しい訪れに変わりないから、開けたばかりの店内に通すことにした。
「三月ぶりかしら?」
「そうですね。前回いらっしゃったのは、春の前でしたでしょうか?」
だから、夏なのでお手拭き用のおしぼりは、専用の消毒冷温機に入れていたのを手渡す。
雨でも化粧をほんのりとしている灯里は、丁寧に手を拭ってから、これまた丁寧に折って手元に置いた。
「以前はてっさの時期だったかしら?」
「そうですね。今は夏ですから、猪も難しいですし」
「でしたら、今日は穴子か鰻はあるでしょうか?」
「穴子ですと、焼きか煮るどちらで?」
「……では、煮るで」
「味付けはいかがいたしましょう?」
「夏らしいのもいいけれど。気分的に濃いめでいいでしょうか?」
「はい」
しっかり、食べたいのだろう。
なら、少し時間がかかるが握りなどでよく食べられる煮穴子にすべきか。寿司職人ではないが、猫人の火坑は師匠らにいくらか教わった経験がある。
無論、客に出せる技量になるまで仕込まれたものだ。なので、先付けの卯の花和えを出して、灯里に酒の種類を聞くことにした。
「そうですね……。冷やは穴子と一緒にしたいから。ひとまず焼酎のロックで。麦でいいでしょうか?」
「かしこまりました」
最近は忙しいヒトの客らである湖沼美兎や美作辰也もめっきり訪れないが。ヒトの場合、年中無休の妖界隈とも違う忙しさにまみれて、夏も結構な繁忙期だそうだ。美兎の場合は、研修も終わり新入社員とは言え仕事の担当も増えたらしく、訪れも週から月に一、二度に減ってしまった。
辰也の方も、お盆や夏休みがやってくるまでは忙しいらしい。職種は違うが、会社勤めに変わりない二人の訪れがないと、火坑にはいくらか寂しく感じた。
火坑の主食である心の欠片の提供者としてもだが、若い顔ぶれが遠ざかると、妖とてしんみりしてしまうのだ。
だが、手には今目の前にいる客の料理を優先して調理している。美兎とは違い、灯里は女性の妖でも生きた食材の調理に目を閉じることはなかった。
「元ヒトの子と言えど、成長ははじめヒトと変わりないから、大きくなるのも早いものです」
まだ穴子を煮る前に、灯里が酒を半分ほど飲んだ辺りでぽつりとそんな言葉を漏らした。
火坑は手を止めずに、彼女の言葉に耳を傾けることにした。
「……お子さんですか?」
「ええ。わたくしども、雨女の伝承はいくつかご存知でしょう?」
「多少は。……僕のような妖がお聞きしてもいいのですか?」
「少しばかり、聞いてくださらない?」
「あなたがよろしければ」
今日の来店は、少し愚痴りに来たのかもしれない。
だが、別段悪いことでもない。以前に、かまいたちの水緒もそうだったように、妖にも意志があり個性もある。ヒトと変わりなく、愚痴とてするものだ。
「……少し前。あなたのお店に来た後のことだったんです。ヒトの子を、拾ったの」
「その口ぶりからですと、攫ったわけではなさそうですね?」
「ええ。ヒトでも多い虐待に遭った子だったんです。五歳くらいの男の子。当時は痩せ細っていたわ」
雨女の雨を降らせた土地で、一人呆けていた男児を拾ったのがきっかけ。
親から虐待を受け続けて、甘えも泣きもしないその子供を不憫に思った灯里は妖の界隈に連れて行き、引き取って育てることにした。
しかも、その子供は名すらつけられていなかったために、灯里が母代わりとして『灯矢』と名付けたらしい。
そのあとは、妖の医者に頼んで傷などを癒して、ままごとかもしれない仮初の親子として生活し出した。
そこまではよかったのだが、妖の世界での空気を吸う度に、灯矢は芽生えかけてた自我を持ち始めた。そこから、母代わりである灯里に色々聞き出してきたのだ。
同じ目でないこと、この世界はヒトと同じようで違うこと。
「……良いことでは?」
「ええ。けれど、妖の大気を吸ったところで、同じ妖になるとは限らない。あなたもご存知でしょう?」
「はい。……まさか、それを?」
「あの子の場合、雨男にはならなかったのです。まだ不完全ではありますが、晴れ男の可能性が」
「ふむ。その差が出てしまったことにより、幼いながらも悩まれたと?」
「はい。……だから、どうしたものかと。せめて、気分転換に、と。あの子を今日だけ医者に預けて、ここに来ました」
「……僕の料理なんかで、あなたの心を癒せれるでしょうか?」
「ふふ。ご謙遜を。最近の噂も聞いてますのよ? 若くも活力のあるヒトから心の欠片を手に入れていらっしゃると」
「いい縁があったからですが」
そして、話の途中で灯里ご希望の煮穴子が完成して。一緒に軽めのお茶碗に米を盛りつけてからカウンターの上に出した。
雨女、だからと言うわけではないが。灯里が灯矢を拾ったきっかけは本当に些細なことだった。
現代日本で雨を請われる神事は、余程の日照りがない限り減ってしまったが。それでも土地神に請う信仰の心はまだ消え去ってはいない。
灯矢を拾ったのは、そんな雨を請われた土地の一つ。愛知でも僻地に近い、田舎の端の端。
雨を降らせた後に、雨にうたれながらも空をじっと眺めていた幼児を不思議に思ったのだ。まだ幼いのに、服もレインコートを着ずに傘も持たない幼児。
ずぶ濡れになってしまっていることに、いくら妖でも不審に思い、視えずとも何か様子だけでもと近づいたら灯里に気づいたのだ。
よく見ると、身体は異常なほどまで痩せ細っていて。おまけにヒトでも凍える冬空の雨の中なのにシャツとズボン以外何も着ていない。
靴も、サンダルのようなものであった上に、ひどく使い古していたものだった。であれば、この少年はまさか。
『坊や。わたくしのことは視えて?』
『……お姉さん、だあれ?』
『わたくしは雨女。雨を降らせる妖……神様のようなものよ。ほら、目を見てごらん? 人間ではないでしょう?』
『この雨……お姉さんが?』
『ええ、そう。お前は、何故そんな格好でここにいるの? 寒いし、風邪をひくよ?』
『……いいの。僕、とーさんやかーさんからいらないって言われたの。だから……出てきた』
『親に……いらない、って?』
『うん。だから……動かなくして、出てきた』
それで防寒もせずに、ひとり呆けていたと言うことか。行先も特に当てがない子供を攫う雨女もいるとされているが、灯里の場合は違う。いわゆる、土地神の化身であり、主神に代わり雨を降らせる役割を担うだけの妖もどきだ。
だが、ここまで親に見離されるだけでなく、子育てを見放した親は許せない。しかし、言葉を濁したがこの子の親はもうこの世に無いのだろう。わずかだが、少年から血の匂いがしたのだ。
けれど、灯里は決めた。妖界隈に連れて、妖怪になってもいいかきちんと問うてから連れ出したのだが。
名を得て、子供としての自我もはっきりし出して。妖気を栄養分にして、普通の人間の子供でなくなった灯矢は、ある日母となった灯里に問うてきたのだ。
『おかーさんは、僕のおかーさんなのに。色々違うよね?』
『……そうね。お前とは、ちゃんとした血のつながりがないから』
『ううん。それだけじゃない。僕、ここにきてから。おかーさんがいない時とかじゃ雨降らない日があるの』
『え?』
雨女の社では常に小雨でも大雨でも雨が降るものだが。
たしかに、時折雨音がしない日もあった。であれば、灯矢は雨男になったわけじゃなく、晴れ男になったかもしれない。妖気を取り込んだことで、どんな妖になるなど灯里も分からずでいたから、この結果には驚きを隠せなかった。
『……僕。晴れは嫌いじゃないけど。ずっと雨男とか呼ばれてたから、どうすればいいのかわかんない』
『灯矢……』
灯里にも、どう声をかけていいのかわからなかった。自ら生んだ子供だからではない。慈しむ相手だからこそ、どう接していいのかわからなくなってしまったのだ。
とりあえず、今日は飲みたい気分になったので。灯矢を健康面などを診療してくれた妖の医者のところに一時的に預け、久しぶりに雨雲で橋を作って錦に来たわけである。
「……そうでしたか」
楽庵でだいたいの経緯を話してから、灯里は作ってもらった煮穴子と酢飯の碗をゆっくりと味わうことにした。
臭みも癖もない、柔らかく煮込んだ穴子がわずかに酢を加えた飯によく合う。
女の歯でもホロリとほぐれるくらいの柔らかさ。まさに絶品だ。たまに、土地神の宴などに呼ばれたりもするが、このような珍味にはとんと出会えたことがない。
あの世の出身だと言う店主の猫人だが、鍛えられた料理の腕前は本当に優しい逸品ばかりをこさえてくれる。
灯矢にも、是非食べてもらいたいと思ってしまうほどだったが、ふいに、店主の火坑に微笑まれた。
「?」
「いえ。灯矢君を思う笑顔になられていらっしゃるな、と」
「あ、あら」
「縁が結ばれただけの間柄とは言え、あなたも立派な母親です。偽らず、すべて話すのも通りとまでは言いませんが。灯矢君にとっては慈しむべき相手だからこそですよ。お母さんのことを知りたがらない子供はいません」
「……でも。まだ三月とは言え、あの子にすべてを話しても」
「難しいことでも。ゆっくりと紐解く時間も必要だと思いますよ。僕のような料理人の端くれの言葉では無理があるかもしれないですが」
「……いいえ。そうね」
逃げずに向き合うことも、また通り。
であれば、灯矢にもきちんと妖界隈について教えるべきだろう。きっと、お節介な医者の方から話しているかもしれないが、そうと決まればと、灯里は少し急いで残りの煮穴子を食べた。
「失礼。こちらに、雨女の灯里はいらっしゃいますか?」
勘定を言おうとした途端。
そのお節介な医者ーー自分の兄分である雨男の燈篭が後ろに見覚えのある着物の少年を連れてやってきた。
「おや、いらっしゃい」
「……どうも、お久しぶりです。ここにいたのか?」
「……兄さん」
「……おかーさん」
今から迎えに行こうとしていた相手と、もう出会えるだなんて思わず。感極まった灯里は、椅子から立ち上がって灯矢に向かって腕を伸ばした。
入っていいものか、どうか。美兎はとても悩んでいた。
どう見ても、妖怪の客だと言うことはわかるのだが。楽庵の入り口で、親子らしいがはじめて見る顔ぶれに、中に入っていいのかどうか迷った。何故なら、一人の女性が子供に抱きつきながら泣いているからだ。
修羅場、と言うよりは感動の再会、に近いのだろうか。
子供の方は泣いていないようだが、母親らしき女性の頭を撫でていた。
「……おや? 入り口を塞いでしまってすみません」
「あ、いえ」
父親か、と思った方の男性もやはり人間ではなかった。白目が黒く、金のような黄色の瞳孔。怖くはないが、他の動物のような妖怪達しか見て来なかったためか、店主の火坑とも違って随分と人間らしい妖怪に驚いたのだ。
「ほら、灯里。お客さんの邪魔になってしまってるよ? 私や灯矢も中に入れておくれ?」
「あ……ごめんなさい、兄さん。ほら、灯矢。こっちにいらっしゃい?」
「うん」
男性の妖怪は、父親ではなく女性の兄のようだ。顔が見えた時に、たしかに女性の目の具合も同じだった。子供の方は瞳孔が黄色ではなく青だったが。別に気にすることではなかった。
「おや、お久しぶりですね。湖沼さん?」
「お久しぶりです、火坑さん!」
とにかく、今日は楽庵で久しぶりにたくさん食べて飲みたい気分だった。配属された希望部署では、日々奮闘したり叱られたりすることはあったが、苦しくてもやりがいはあった。研修の頃に、夢喰いの宝来や火坑からもらったアドバイスを胸に日々動くお陰で、先輩や上司からも少しずつ仕事を任されてはいる。
その結果、楽庵への足が遠のいてしまっていたが、久ぶりの連休前夜に行こうと決めたので、終業後に今日は久屋大通で洋菓子を買ってきたのだ。
「お疲れ様です。おしぼりです」
「ひゃ、冷たい!」
「夏ですからね? 少しリフレッシュするには最適ですよ?」
「そうかも。気持ちいいです」
「それはよかった。さ、燈篭さんや坊ちゃんも」
「どうも」
「いーい、灯矢? 手をしっかり拭くのよ?」
「うん」
この店は、奥に小さな座敷席がある以外は数席のカウンターしかない、言わば隠れ家スタイルではあるが。満席近い今でも心地よい空気で満ち溢れている。
常連仲間の、美作辰也とも顔を合わせる機会がめっきり減ったが、職場は近いはずなのにランチラッシュのこの中区では出会ったことがない。けれど、仕事の愚痴を言い合うのも楽しいが、今日は久しぶりの来店を楽しもう。
まずは、お歳暮も兼ねて火坑に持ってきたお菓子を手渡した。
「久屋大通の途中にある洋菓子屋さんで買ってきました! 火坑さんのお好きなフィナンシェとマドレーヌです!」
「いつもありがとうございます。……こちら、皆さんの食後のデザートにお出ししても?」
「いいですよー」
皆で分け合うのが大好きなこの猫人は、今日も一度美兎に断りの言葉をかけてくれる。自分一人で食べるより、皆で分け合うことが好きな性格らしい。人間だったら、絶対モテて女性に引っ張りだこになる妖怪だが、人間に見えてたあの外見もなかなか好印象が高かった。
「……お、かし?」
「そうですよ、坊ちゃ……いいえ、灯矢君でしたね?」
「? ねこ……のおにーさん?」
「おや、僕をお兄さんとは。まあ、独り身ですので、おじさんでもいいですよ?」
「ううん。とーろーのおじさん以外のひと、あんまりおじさんとかおばさんって呼んじゃいけないって」
「おやおやおや」
「ふふ。私や灯里の言うことはよく聞くんですよ」
「そ、そうね」
小さいのに、しっかりした性格の子供だ。妖怪だからか、と美兎には推測することは出来ないが。他人の子供のことだから、あまり深く関わってはいけない。人間でも妖怪でも、プライバシーは大事だからだ。学生の頃、いやと言うくらい元彼のせいでひどい目に遭った美兎はそう思っているのだ。
つまりは、男運がないわけであるが。
「さて、湖沼さんは本日どうされますか?」
「! スッポンスープと雑炊は絶対! それ以外に今日のおすすめはありますか?」
「そうですね。先程、こちらの灯里さんには煮穴子を出しましたが。他にはうなぎもありますよ?」
「じゃ、うなぎ! タレじゃなくて白焼きって出来ます?」
「おやおや、通な取り合わせですね? では、先に」
「はいはーい!」
心の欠片を手渡すべく、手を差し出すと。ぽんぽんと肉球のない手を美兎のに重ねると。一瞬だけ手の中が光って、離した時にあらわれたのは。
「今日は山葵にしました」
テレビなんかのグルメ番組で見たような、綺麗な山わさび。お寿司や、美兎の頼んだ白焼きで使えなくもないが、他にどんな使い道があるのだろう。
「? それなーに?」
それと、山葵を見たことがないらしい灯矢は興味津々だった。
「山葵と言う食べ物なんですよ。灯矢君、お寿司はわかるでしょうか?」
「うん。とーろーのおじさんがたまに食べさせてくれる」
「……兄さん」
「だって、可愛い甥っ子がいるんだよ?」
どうやら、訳ありではあるらしいが家族仲は良好らしい。
「そのお寿司で、ご飯と魚の間に少しだけ載せる食べ物なんですよ。まだ灯矢君の年頃だと辛過ぎるでしょうか?」
「……食べてみたい」
「灯矢、あなた辛いの苦手でしょう?」
「うん。けど、気になるの」
「無理に背伸びしなくてもいいんだよ、灯矢?」
「……ちょっと、だけ」
「ふむ」
だいたい五歳くらいだと、好き嫌いは激しくても未知な取り合わせには興味を持つのだろう。
美兎はどうだったかと思い出しても、大嫌いなこんにゃくとキノコ地獄だった日々しか思い出せなかった。
「では、お寿司でがありませんが。卵焼きでしたら食べやすいので、その薬味にでも?」
「火坑さん、ありがとうございます」
「いえいえ。……おやおや?」
さあ、作るぞと意気込みかけていた火坑が灯矢の髪についていたらしい何かを取った。その仕草には、美兎も覚えがあった。
「……それ、なーに?」
「ふふ。灯矢君の心の欠片ですね?」
「ここ……かけら?」
「灯矢君の持ってるあったかい心の一部ですよ? 何に見えますか?」
「……ちっちゃいくまのぬいぐるみ」
ちょうど美兎からは向かい合わせな位置にあった灯矢の顔は。
どこか、辛い思い出を抱えた子供のように見えた。