名古屋港に行くのも随分と久しぶりだ。
大学時代の時の彼氏とも行くことはなかったし、友人も同じく。おそらくだが、中学生の社会科見学を銘打って、水族館に行く以来かもしれない。
高校になると、家族で出かけるのはそう多くなかったので。両親とわざわざ行くこともなかった。
それと火坑と界隈を歩いて地下鉄に向かう途中、美兎は彼にお願い事を言われたのだ。
「美兎さん。人間界にいる間は僕のことを香取響也と認識していただけませんか?」
「かとり、きょうやさん? ですか?」
「はい。閻魔大王が僕個人にお与えくださった戸籍の名前なんです。両親は死別と言うことになっています。親類縁者も同様に」
「じゃ、じゃあ。響也さん?」
「はい」
偽名とは言え、人間の姿の名前まであるとは驚きだった。しかし、それならいつもの火坑と言う名前よりかは人間らしいかもしれない。決して嫌とかではなく、不思議だと思うから。
それに、美兎が響也と呼んだだけで物凄く笑顔になってくれたのだから、こちらまで嬉しくなってくる。人間の姿でも、火坑は火坑だなと実感が出来た。
とりあえず、目指すは名古屋港の水族館。名物であるシャチのショーと、白イルカとして有名なベルーガにも会いに行く予定らしい。
デートなら定番中の定番だが、美兎が最後に行った水族館より、きっと様変わりしているだろう。だから、余計に楽しみだった。そこに二人で行けるから。
まず、行きに美兎も乗った紫が特徴の名城線に、美兎が来たのとは逆方向の線に乗る。名城線は十数年程前に路線が変更されて、ある意味東京の山手線と同じように円に近い形状になっているのだ。
他の路線はその円の途中で乗り換えが出来るように組み込まれている。美兎達は、栄から左回りの方向に乗り、金山駅に向かう。そこで、一度降りて名古屋港水族館に向かうための、名港線に乗り換えるのだ。
中学以来なのと、普段は仕事でも名港線を利用しないので乗り換えにはうきうきしていた。会社では、イベントの依頼などで水族館のポスター制作をすることはあるらしいが、あいにくと美兎の担当ではない。新人だし、下っ端なら現場に出向くことも多いが美兎が担当するのは主にショッピングモールだったからだ。今日はまだ休めたが、あと少しでクリスマスフェアが始まるので忙しくなる。
楽庵にもきっと行けなくなってくる。だから、今日は思いっきり楽しむつもりだ。
「僕も、この路線に乗るのは随分と久しぶりです」
金山から乗り換える前に、駅ナカの自販機でコーヒーや紅茶を買ってから火坑が口にした。
「響也さんが電車を使われるのが、私には新鮮に見えます」
「そうですね。普段、柳橋に行くのも自転車なので」
「名駅近くのですよね? 聞いたことはあったんですが、個人的に敷居が高いなと思ってて」
「ふふ。そんなことはありませんよ? 一般公開もしていますし、東京の市場ほどではありませんが飲食店もありますよ? 時間が出来た時なんかにご案内しますね?」
「ありがとうございます!」
次の約束。
まだ今日の目的地に着いてもいないのに、次の約束が出来て嬉しくなった。
思わずはしゃいでしまいそうになったが、人にぶつかりそうになったので避けようとしたら。
「……火坑?」
ぶつかりそうになった相手、しかもカップルの男性の方が火坑の実名を知っていたのだ。
「おや、翠雨さん?」
「やはり、お前でござったか?」
「ご、ござ?」
今時、ござる口調。とてもレアな言葉遣いだったが、顔を見た途端そんなのが気にならなくなってしまった。
アイドルや俳優顔負けの美形。以前一度だけお会いした大神かと思いかけたが、顔が違った。切れ長の瞳に、スッと通った鼻筋。長いが艶のある黒髪は後ろでひとつにくくっている。
透けそうなくらい透明感のある白い肌にはシミひとつない。とても美形な男性だった。
お連れらしい女性は彼の体格に隠れてよく見えないが、美兎が声を上げた後にひょっこりと出てきた。
「すーくん、お知り合い?」
「ああ。男の方だが」
「そーなの? 人間? 妖怪?」
「声が大きいでござるよ、紗凪」
お相手は、人間の女性のようだ。ふわふわな茶髪が印象的で、顔も綿飴のように可愛らしい雰囲気だった。他人事でも、その愛嬌を分けて欲しいと思うくらい。そして美兎と目が合うと、にっこりと笑ってくれた。
「あ、はじめましてー。すーくん、翠雨君の彼女の栗栖紗凪でーす!」
「あ、どうも。その……こちらの火坑さんとお付き合いしてます。湖沼美兎です」
「じゃ、美兎ちゃんだー」
「え、あ、はい?」
「おい、紗凪。女同士でも抱きつきに行こうとするな」
「だって、可愛い子じゃなぁい? 歳も近そうだし」
「そうは言ってもな?」
「あの。大変失礼ですけど、翠雨……さんと火坑さんとのご関係は?」
「ああ。某の本性は烏天狗。妖だ」
「常連さんのお一人ですね?」
「最近は行けなくてすまなかった」
なるほど、と思っても烏天狗と言われても妖の種類はまだまだ勉強中の美兎にはよくわからなかった。
すると、翠雨は察してくれたのか苦笑いしてくれたのだった。
「美兎さん。普通の天狗の場合は白い翼を持つのですが、烏天狗は烏のような黒い翼を持つ種族なんですよ」
と、火坑が教えてくれたのだ。
「ところで、わざわざ人化してまで。……しかも、某が疎遠になっていた間に。番まで作るとは」
「つがい?」
「奥さんのことだよ、美兎ちゃん」
「お、おく!?」
「恋人にもなると言ったでござろう……」
「けど、あたしはすーくんとそうなる予定だもん!」
「はぁ……」
とりあえず、びっくりすることばかりで美兎の頭はパンクしかけたが。彼らの行き先も、同じ水族館だったので。
初デートがいきなりダブルデートになってしまったのだった。
いきなりのダブルデートになってしまったが、場所が一緒なのは水族館だけらしいので。そこだけ一緒に回ることになった。
チケット代は、それぞれの彼氏様が既に購入済みだったから、美兎と紗凪は名港線に乗り換えてからそれぞれの彼氏様にお礼を言ったのだ。
「さっすが、すーくん!」
「……大したことではござらん」
すーくん、こと烏天狗の翠雨は照れたのか、耳だけ赤くすると言う器用な照れ方をしていた。
そして、その彼女である紗凪は人前でも平気でハグしに行く大胆さ。美兎がもし真穂とかにしろと言われても響也に抱きつくなど無理だ。
告白された時に火坑から抱きつかれはしたが、びっくりし過ぎて思わず気絶したくらいだ。
ちょっと、ほんの少し、紗凪の大胆さは羨ましく思えたが。
「しかし。驚きましたね? あなたも人間の女性とお付き合いなさっていらっしゃったとは」
「……そっくりそのまま、貴殿に返す」
「ふふ。僕と美兎さんはまだ最近ですよ?」
「……楽庵に行けなかった間、だ」
「いえーい! もうすぐ五ヶ月記念だよ!」
「……はしゃぐな」
どう言う経緯があったかは聞きたいが、あと少しで水族館の最寄りにある駅に着く。
話は中断され、電子カードでそれぞれ改札を通って行く。美兎や紗凪はともかく、妖も現代の文化を受け入れているのが未だ不思議に思う。火坑とLIMEでやり取りするようになったのに、今更ではあるが。
とりあえず、水族館までは少し距離があるのでそれぞれの彼氏と並ぶかと思いきや。
紗凪はどこが気に入ったのか、美兎の手を取ってまるで子供のようにはしゃぎながら先を歩いた。
「んふふ〜んふふ〜、美兎ちゃんと〜」
「あの……栗栖さん?」
「さ〜なっ!」
「えっと……紗凪、ちゃん。年近いって言ってたけど。いくつ?」
「二十三!」
「あ、ほんとに同じだ」
なら、遠慮なくタメ口でもいいだろう。
紗凪も、自分の予想が当たったのが嬉しかったのかニコニコしていた。
「ね〜? 私の勘は結構当たるんだー!」
「そ、そうなんだ。あ、あのさ?」
「うん?」
「せっかくのデートなのに、私達も一緒でいいの?」
「もちもち! それに彼氏が妖怪同士の友達とか、初めてだし。嬉しい!」
「そ、そっか」
出会ってまだ一時間も経っていないのに、もう友達とは。紗凪の行動力は同い年であれど見習いたいくらいだ。
「ねーねー? かきょーさん? って、本性なんなの?」
「えっと……猫の頭の妖さん?」
「え、猫?」
「今は、変身されているから人間だけど。翠雨さんの烏天狗の姿ってどんなの?」
「んふふ〜〜! 超超超かっこいいんだよ!? 髪と同じくらい綺麗な黒い翼とか! 艶々なのに、触るとふわふわしてるんだよね? あ、顔とかはあのままだよ? 天狗でも鼻が長いとかはなくて、時々赤い天狗のお面はかぶっているけど」
「へ〜?」
顔はそのまま。経緯はまだ聞けてはいないが、実に面食い。
は、言うと怒られるか盛大に惚気られそうだが、と思っていると。紗凪の方からくいくいと握っている手を引っ張られた。
「かきょーさんは、今の見た目普通の人だね? 妖怪はほとんど美形ばっかりって聞くけど。美兎ちゃんは違うんだ?」
随分と直球な言葉を投げかけられた。が、嫌ではない。
「……うん。元の姿の優しい笑顔とか。気遣いとか。とにかく、あの人の全部が好き」
「いや〜ん! ラブラブなんだね!! 今美兎ちゃん、いい顔になったよ?」
「そ、そうかな?」
「うん! そっか〜。うん、私もすーくんの全部が大好き! 助けてもらったことの恩返しもあったけど、今は全部好き!」
「助けて……?」
「私ねー? 今は抑え込んではあるけど。かなりの霊力の持ち主らしいんだ〜? それで、ちっちゃな頃から妖怪とか悪霊に狙われまくって。それを助けてくれたのがすーくんなの」
助けてもらった恩。
美兎とは違い、紗凪は本当に命を狙われていたのだろう。なのに、なんてことのないように美兎に話してくれるし、終始笑顔。
きっとそうなれたのは、翠雨のお陰だろう。
「……そうなんだ」
「うん! あ、先にLIME交換しよ? あとでだと私が忘れそうだから!」
「いいよー」
IDを交換している間に、翠雨達も追いついてきて。紗凪は彼から軽く頭を小突かれてしまったのだった。
「まったく、社会人になったとは言え。湖沼殿のように落ち着きを持て!」
「いった〜い!」
「本気で殴ってなどおらぬ!……すまない、湖沼殿」
「あ、いえ。大丈夫です」
「ふふ。もうお友達になられたのですね?」
「あ、はい」
とりあえず、今度はカップル同士で目指すことになり。美兎は、さりげなく掴まれた手を握り返したのだった。
ほんの少し前。
常連だった、烏天狗の翠雨の恋仲だと紹介された栗栖紗凪に。恋人の湖沼美兎を連れて行かれてしまったが。
然程、遠くない距離を先に進む程度だったので。火坑は大きなため息を吐いている翠雨の肩を軽く叩いた。
「元気なお嬢さんですね?」
「……すまない。そちらの番を勝手に」
「まあ。妖を恋人に持つ人間の女性はいるようで少ないですからね? 僕は大丈夫ですよ?」
「……しかし。わずかだが、妖気を感じたな? 本人は知っているのでござるか?」
「……いえ。彼女の守護につかれている、座敷童子の真穂さんからもまだのようです」
「!? 真穂様が?……そうか。そちらの界隈に行くことが減ってしまったからか。わざわざあの方が守護につかれるとは」
紗凪達に置いていかれないように、歩きながらの会話だが結界は怠らない。今は人間に化けてはいるが、火坑は元地獄の獄卒であり補佐官だったのだ。現世に長い翠雨には劣るが、まあまあ出来る妖ではある。
だから、まだ真穂が守護につく前の美兎にも。心の欠片をもらう代価として、ほんの少しの呪いをかけてはいたのだ。好意を恋慕と自覚する前とは言え、随分とした高待遇。
今も、彼女の霊力に惹かれる妖がいないか気を張ってはいるが。
それを翠雨にも伝えれば、なるほどと頷いてくれた。
「と言うわけで。僕は随分と鈍いようでした」
「貴殿が、自身の気持ちに気づかれぬ以前から……か。たしかに、某も鈍かったでござる。紗凪が今の年頃になるまで、見守っていたのだから」
「……もしや。以前おっしゃっていた、巫の素質を持たれていらっしゃるお嬢さんが?」
「ああ、紗凪だ」
「……なるほど」
俗に、シャーマンなどとも呼ばれている、人間でも稀有中の稀有である存在の呼称だ。美兎もそれに近いくらいの霊力のはあるが、わずかに含まれている妖の血族のお陰か、それは表立ってはいない。
だが、紗凪は。
今はあれだけ明るい表情でいられるのも、翠雨との縁があったお陰だろう。
惚れたのか、と聞けば。彼は、是と答えてくれた。
「……最初はただの、幼い人間の赤子のように思っていたでござる。しかし……まあ、あれだ。あの性格だから、違う、本物だと言い張ってな? 押しに押されて……某も気づいたわけだ」
「ふふ。僕もいろんな方からお節介をいただきましたよ?」
「……火坑は、なんだか放っておけないからな?」
「そうですか?」
だが、閻魔大王に亜条。真穂に宝来、盧翔に辰也。師匠の霊夢達。さらには、ぬらりひょんの間半。
随分と、お節介をかけられたものだ。翠雨の言葉通りかもしれないと、火坑は軽く息を吐いた。
「しかし。偶然とは言え、同じ場所で逢引きでござるか。しかも、そちらは初めてなのだろう? やはり」
「構いませんよ? こちらだけのようですし……それに美兎さんも今はいい表情をなさっています。偶然でも、似た境遇のご友人が出来て良かったと思っていますから」
「……そうでござるか」
嘘ではない。
美兎は、気持ちを自覚する前から。社会人としてひとり立ちしたばかりを理由に、他の人間達との縁を薄めていた。
たしかに、常連仲間の美作辰也はいたが。同じ会社ではないし、そうしょっちゅうは会えていない。
だから、火坑は美兎がヒトとの縁を薄らいでいるのではと少し心配だった。
なので、今回の件は火坑よりも美兎にとって良いことだと思っている。
そうこう話しているうちに、美兎達がLIMEのIDを交換するのに立ち止まり。追いついたので、翠雨は紗凪に軽く拳骨をお見舞いしたのだった。
「さて、改めてエスコートさせていただきますよ?」
「はい!」
美兎に手を握り返されると、火坑も嬉しくなったがひとつ思い浮かんだことがあり、軽く美兎の手を離したが。
「失礼しますね?」
「……え?」
手を絡めるようにして握った、いわゆる恋人繋ぎ。
わざとにっこり微笑むと、美兎は盛大に顔を赤くしたので、計算通りだと火坑は嬉しくなったのだ。
口もあわあわし出した美兎にもう一度声をかけてから、彼女の手を引いた。
「さあ、翠雨さん達に置いていかれますよ?」
「は、は、はい!」
事前に、人間界のコンビニで購入したチケットを受付に渡してから二組は水族館に入り。
ダブルデートを、始めることになったのだった。
水族館。
水槽に展示されている魚などを見る以外は、イルカショーを見るようなイメージしかないと思われているが。
しばらくぶりに訪れた、名古屋港の水族館は。美兎の予想をはるかに超えるくらい、綺麗に綺麗に改装されていた。
入ってすぐの受付もだが、館内に入ってからも幻想的で。適度な照明と落ち着いたBGMが、気分を落ち着かせてくれる。
「……気に入られましたか?」
キョロキョロしていたのか、火坑がくすりと笑っていた。
「あ、すみません。思った以上に綺麗で」
「ふふ。喜んでいただけて何よりですよ。ここは数年前にリニューアルされたようなので、美兎さんの知っていた世代とはだいぶ様変わりしているはずです」
「そうなんですね! 私、動物だと東山にある動物園ばっかりでしたから。あそこもリニューアルしてから行っていないんです」
「ふふ。また約束が出来ますね? 僕でよければ一緒に行きませんか?」
「行きます!」
また新しい約束。
客と店の主人との関係以上に、恋人として色々約束出来るのは嬉しいことだ。
先に行っている、紗凪と翠雨はとっくに自分達の空間になっているのか。紗凪がメインであっちに行ったりこっちに行ったりしている。元気なことだ。
「思っていた以上に、元気なお嬢さんですね?」
火坑もあちらに気づいたのか、ニコニコと笑っていた。
やはり、特別美形ではないがほっと出来る顔立ち。それに、元は猫の頭であるのだから美兎はこちらの方は好ましく思えた。
大学時代の彼氏は、顔はよくても性格に難有りだったから。昔と違い、今は男運が上がったのだろうか。人間ではないけれど。
それと、いくつか。
美兎は彼に聞きたいことがあった。
「……響也さん、聞いてもいいですか?」
「? はい、僕で良ければ」
「えと。地獄の偉い人だったのに、どうして現代……妖に生まれ変わったのかなって」
「ああ、その件ですか」
ふむ、と火坑は癖なのか空いている手で顎を軽くさすった。
「……聞きにくいことですか?」
「いいえ。ただ、初めてのデートでいきなり聞かれるとは思っていなかっただけですよ?」
「すみません……」
「謝らないでください。僕もあまり他人に話すほどのことではないと思っていただけですから」
「? そうなんですか?」
「美兎さん、人間もですが。輪廻転生はご存知ですか?」
「……名前しか」
「死んであの世に還った魂が、この世に転生することですよ? 世界各地の宗教にもこの考え方はありますが。僕はただの猫で、あの世では獄卒……地獄の役人の一人でしかありませんでした。閻魔大王より補佐官の一人に抜擢されなければ……おそらく、転生することもなく、美兎さんとお会いすることもなかったでしょう」
「…………」
人間ではなく、妖。
しかも、さらに前は地獄の役人。
彼がそこから転生していなければ、たしかに今美兎とも出会わずに恋人になることもなかった。
辛い思い出かと聞けば、そうではないと火坑は首を横に振った。
「名目は、修行ですね? 魂が肉体を持ち、俗世に触れてさらに己の魂を研磨させる。猫畜産だった僕が、亜条さんのような肉体を得て、現世に生まれ変わったんですよ。いきなり人間よりかは、交友のあった妖ですが」
「修行……って、お料理じゃなくて?」
「ふふ。それは転生の後に、師匠に拾われたからですよ? 転生直後、記憶はあれど僕の肉体は猫の頭以外も子供サイズでしたし」
猫の頭を持つ子供。
普通なら絶叫物だろうが、火坑に恋している美兎にとっては、絶対可愛いと連呼していただろう。けれど、今は今で素敵だから。
歩きながら話をしてたので、今美兎達が通っていた水槽はアジの大群が嵐のように遊泳しているところだった。
「霊夢さんにですか?」
「はい。妖への転生なので、両親などはいませんでした。別段珍しいことではありませんね? 妖気や瘴気から生じる妖は多いんです。親持ち……だと、例えば翠雨さんのような烏天狗が通常ですね?」
「へー?」
と感心していたら、いきなり目の前に紗凪がやってきて。ぷくっと可愛らしく頬を膨らませていた。
「水槽とかほとんど見てないじゃん! ずーっと二人で話してて」
「ご、ごめん?」
「紗凪。二人はまだ番に成り立てでござるよ? 積もる話もあるだろう」
「そーだけどー! あんまりゆっくり歩くから、置いてくとこだったじゃん!」
「……もともと逢引きなのだから、某達は邪魔では?」
「むー! シャチのトレーニングとか見逃しちゃうよ!」
「シャチ? 白イルカじゃなくて?」
「そだよ? 白イルカ以外にも、ペンギンとかシャチのが見れるらしいんだ〜」
触れ合うことは出来ないだろうが、可愛い動物達のパフォーマンス。
これは、たしかに見ておかなければいけない。
美兎も行く気が湧いてきたので、火坑には話をまたにしてもらうことにしたのだった。
まさか、いきなり聞かれるとは思わなかったが。
それだけ、美兎が火坑に興味を持ってくれていると思うと正直、嬉しかった。
ただでさえ、人間と妖の恋人関係と言う特異な関係であるのに。美兎は何も厭わずに火坑の話を真剣に聞いてくれていたから。
紗凪の提案で一時中断されたが、二人きりになったらもう少し掘り下げて話そうと決めた。将来の、翠雨と紗凪のように本当に番になるなどまだわからないが。
美兎の、嬉しいことになるのなら不安は多少でも押し除ける。火坑はそう決めた。
この縁も閻魔大王からの授かりものであるのならば遠慮する必要はない、と。
「響也さん! 行きましょう!」
美兎の嬉しそうな声に、火坑はハッと我に返った。
だが、考えていたことを悟られないように、得意の笑顔と恋人繋ぎの手を握り返すことで応えた。
「はい、行きましょう」
今は人間として、彼女の傍にいるのだから。人間らしく、もっと逢引きを楽しもうじゃないか。
元は猫畜生、今は猫の妖。
猫は、魚介類を多く好むとされているが。例に漏れなく、火坑もそうだ。だから、ではないが。育ての親でもある霊夢の生み出す料理には初回から随分と興味を持ったものだ。
けれど、今回のデートで名古屋港の水族館を選んだのは、火坑の個人的な主観だけではない。下準備は万全、美兎の食の好みはただの客だった時から少々把握はしている。
だから、錦の界隈にも協力をあおっているのだ。
「シャチって、おっきいですよね〜?」
そして、今は少し屋上に近い施設。イルカのショーや白イルカでお馴染みのベルーガとも隣接している、シャチの水槽の上部。
公開されている時間がちょうど合ったお陰で、サメ並みに巨大な魚類が飼育員に指示されながら、観客にパフォーマンスを見せてくれている。
シャチは肉食でも魚を主食にするのと、哺乳類であるアザラシやクジラ類を主食にするのと別れているらしいが。この水族館に生息するのはどうなのだろうか。
トレーニングを観覧している間に、美兎にこっそりと告げれば彼女は顔を輝かせたのだった。
「詳しいですね!」
「ふふ。普段から食材は主に魚類ですからね? と言っても彼らは哺乳類ですが」
「見た目はサメくらい大きいですけど」
「サメは食用にもなっていますが、アンモニア臭が強いのでクセが強いんですよね? 魚肉でしたら、マンボウが美味しいですよ?」
「え、マンボウ!?」
「ちょっと〜、なんでトレーニング見てるのにご飯の話!? もうお腹空いたのー?」
「おや、すみません」
知識を少々披露していただけだが、紗凪にはつまらなかったのだろうか。トレーニングはたしかに惚れ惚れしつつも観覧していたのだが、美兎の疑問に答えていたらいつのまにか食材の話に。
少々悪い癖だったかと火坑は反省するのだった。
「……紗凪。二人の好きにさせていいのではないか?」
「すーくん、そうだけどぉ〜。なんか初デートっぽくないもん!」
「そうは言うが、恋仲の付き合い方は恋仲の数だけ違うとお前も言っていたではないか? 二人には二人の距離があるのだろう?」
「う〜〜……はい」
翠雨に納得させられてから、火坑が錦の界隈で小料理屋を経営しているのを改めて紗凪に告げたところ、なるほどと言ってくれた。
「だからか、食材の関係になるとどうしても考えてしまうんですよね? どう言う素材で美味しく調理出来るのか」
「わ〜〜! すーくんすーくん! 今度かきょーさんのお店に行こ!」
「ああ。お前をまだ連れて行ってやれていなかったしな?」
「うん! 美兎ちゃんもよく行ってるんだよね?」
「そうだね。会社の関係で、週に一回が限度だけど」
「えー? 毎日行かないの?」
「湖沼殿の都合もあるのに、勝手なことを言うな」
「そだね?」
新しい常連の予感も出来たが、イルカのショーやベルーガのトレーニングが始まるまで。一旦小休止しようと館内にあるレストランに行くことになったのだった。
「ところで、かきょーさん」
「あの、栗栖さん。今の僕の名前は香取響也なので」
「呼び名もダメ?」
「ややこしくないですか?」
「今の名前呼ぶ方がややこしいー」
「……わかりました。で、なんでしょう?」
「マンボウって食べられるんだー?」
「ええ。三重県や和歌山県だとこの辺りでは食べられていることが多いです」
「鶏肉のようで美味いぞ?」
「え、翠雨さん召し上がったことがあるんですか?」
「ああ、少しの衝撃で死んでしまうからな? 打ち上げられたものだけを食べるようにしている」
他の人間の目もあるので、翠雨は特徴的なござる口調を封じていた。
たしかに、漁で獲れる以外のマンボウもだが。繊細で死傷しやすいマンボウは、地域によっては食用されていることが多い。
海外だと、台湾は一般的だそうだ。日本では今旬ではないのだが、時期になればまた美兎にも食べさせてやりたいと思った。
マンボウ。
マンボウ。
美兎は彼氏である妖の火坑の口からマンボウが食べられる食材にもなると聞いて、気になってしまった。
一緒に水族館を回っている、本性は烏天狗の翠雨も食べたことがあるらしいし。その彼女である、栗栖紗凪は食べたことがないらしいが。
まだ美兎も食べたことがない、海のパイナップルとも言われている『ホヤ』も珍味だとは聞くが。
今向かっているレストランには、あるのだろうか。
あったら頼んでみようと思い、席に着いてから火坑の渡されたメニューを広げたのだが。
ごく普通のファミリーレストランにあるようなメニューしかなかった。
「美兎さん、どうされましたか?」
火坑が心配そうに声をかけて来てくれたので、美兎は正直に話すことにした。
「……響也さんが言っていた、マンボウがあるかなって思って」
「! ふふ。マンボウは扱いが難しいですからね? 通常の飲食店ではあまり出回っていないんですよ」
「……そうですか」
「じゃあさ? かきょーさんのお店に行けば食べられるの?」
「どうでしょう? 柳橋で卸しているのが有れば、仕入れますが。一度業者さんに聞いてみますね?」
「楽庵でですか!」
「都合がつけば……ですが。仕入れが出来たらご連絡します」
嬉しい。美兎のわがままでしかないのに、わざわざ仕入れてくれるなんて。
どんな料理になるか今から楽しみであるが、とりあえず小腹が空いてきたのでメニューを改めて見た。
「……某、近いうちに紀伊に行く機会があるでござる。ならば、某が持って来ようか?」
「え、すーくん。三重に行くの?」
「少々所用があるだけだが」
「……いいんですか?」
「構わない。が、ひとつ頼みがある」
「なんでしょう?」
マンボウが食べられるかもしれない。
その事実に胸が躍ってきたが、翠雨の言う条件とはなんなのか。美兎も気になったので、じっと待つことにした。
「……マンボウを使ったカレーを所望したい」
「カレー、ですか?」
「あっはは! すーくん、カレー大好きだもん!」
「! なるほど。僕の店ではわざわざ仕込みませんしね?」
「マンボウでカレーって出来るんですが?」
まず、どんな味なのかがわからない者には想像がつかない。つい先程、翠雨の口から鶏肉のような味だと聞かされていても、実際に食べてみないとわからないから。
なので、美兎が質問すると彼は小さく頷いた。
「左様。あちらの地元では店などでよくあったりもするが、海沿いでしか提供はないでござるな? レトルトでも販売はあるが、某は店で食べる方が好きだ。カツカレーは絶品でござるよ!」
「カツ?」
「ステーキ、串焼き。フライに竜田揚げもあります。地元ですと、腸の刺身もあったりするんです」
「竜田揚げ!? 唐揚げの部類も出来るのでござるか?」
「あのー」
話が盛り上がってきたところで、お店のウェイトレスから声をかけられたのだ。
「はい?」
「お話中のところ申し訳ございません。ご注文は大丈夫でしょうか?」
「あ!」
「すみません! すぐに選びます!」
「私、海鮮丼のセットで!」
「そ……俺はカツカレー、大盛りで」
翠雨の貴重な一人称も聞けたが、美兎は和風おろしハンバーグ。火坑は鶏肉のトマト煮を選んだのだった。
「先に頼んでたらよかったよねー?」
「ごめん。……私がマンボウの話題出したから」
「いいっていいって! すーくんの好みがまたひとつ知ることが出来たんだもん! 美兎ちゃんやかきょーさんには感謝だよ!」
「…………その時同行するでござるか?」
「いいの!?」
やったー、と紗凪は翠雨の懐に飛びついて行った。彼女の勢いも凄かったが、慣れている翠雨もしっかり受け止めていたので凄いと思った。
美兎は、まだ火坑に対して気軽に好き好きとアピール出来ない。初心と言う年頃ではないのだが、気軽に触れ合うような大胆さを持ち合わせていないのだ。
だから、ひょっとしたら、その臆病さで過去の彼氏にも二股をかけられたのだろう。
火坑は絶対違うと信じていても、その不安は簡単に拭えなかった。
「お待たせ致しました。お先にカツカレー大盛りと和風おろしハンバーグです」
「……ああ」
「あ、ありがとうございます」
先に美兎と翠雨の注文が届いてきたので、火坑と紗凪には食べなよと言われたから食べることにした。
味はやはり火坑とは比べ物にならないが、ファミレスレベルならまずまずだろう。
だがしかし。
翠雨のカレーに対する情熱が凄いのか、彼は物凄い勢いで食べ進めていた。
「……お待たせ致しました。海鮮丼のセットと鶏肉のトマト煮です」
「はいはーい! 私が海鮮丼」
「ありがとうございます」
紗凪は慣れているのが全く動じていなかった。火坑もそうなのか、いつもどおりでいたし。
美兎も、ちょっとのことで動じないようにしようとは思うが。無理かな、と諦めるのだった。
レストランで空腹を満たしてから、またそれぞれのカップルは手を繋ぎながら展示を観覧し。
白イルカこと、ベルーガのところに到着したら。美兎と紗凪は自然とテンションが上がってしまった。
「きゃ〜〜! 美兎ちゃん見てみて、バブルリング見せてくれたよ〜!!」
「ほんとだ〜! 綺麗な泡の輪っか!」
人間に世話をされているせいか、手を振るだけで近づいてくるくらい人懐っこい。
ガラス越しではあるが、ガラスにぶよぶよとした大きな頭を擦り付けるのは愛らしい。普通のイルカとも違うが、初めてみた美兎も夢中になってしまいそうだった。
「白イルカは別名ベルーガ。海のカナリアとも呼ばれる程に、鳴き声も愛らしいそうですよ?」
「そうなんですか?」
「かきょーさん、詳しいね? 美兎ちゃんのために下調べしたの?」
「……お恥ずかしながら、その通りです」
界隈での猫の頭ではなく、人間の姿で照れるだなんてなんだか新鮮に見えた。
けれど、それだけ美兎を気遣っての行動だ。美兎も嬉しくなって頬に熱が集まりそうだった。
「……次は、トレーニングを見に行くのでござろう?」
「そだね! すーくん、行こ行こ!」
烏天狗の翠雨は下調べをしたのかは分からないが、恋人の注目を逸らされたことに拗ねたのか。実に見た目に反して愛らしい嫉妬の表現だ。
紗凪が腕にしっかりしがみついたら、突撃されても微動だにせずに体を支えてさっさとエレベーターに向かっていく。
美兎がくすくす笑うと、火坑も同じように笑った。
「仲が良いんですね?」
「ええ。ですが、烏天狗は種の存続のために、恋人を選ぶのは大変厳しいと有名です。けれど、紗凪さんはその条件に当てはまっているのでおそらく大丈夫だと思われますが」
「条件、ですか?」
なんだろうと思って聞いてみると、火坑はまた顎に手を添えた。
「稀に等しい、強力な霊力を保持する女性です。天狗も妖力よりは霊力をまとうことがほとんどなんですよ。山の神とも言われるほどの、神聖視された種族なもので。だから、出来るだけ高密度の霊力がないといけないそうなんですよ。翠雨さんに以前伺った内容ですが」
「……それだと。私は感じ取れませんが、紗凪ちゃんは大丈夫なんですね?」
「ええ。今は表に出にくいように、翠雨さんの霊術で抑えられているそうですから」
「……よかったです」
あれだけ仲の良い恋人同士を、引き裂く思いなんて紗凪もだが翠雨にもして欲しくない。
その心配がほとんどないのにほっとしていると、握っている手の力が少し強くなった。
「美兎さんもですよ?」
「え?」
なんのことだろうと振り向けば、火坑が真剣な顔をしていたのに思わず鼓動が高鳴った。
「あなたも、特異な霊力の保持者なんですよ? 何故、座敷童子の真穂さんがあれだけの条件であなたの守護に憑かれたかわかりませんか?」
「え……っと、美味しい霊力だから?」
「ふふ。その美味しい霊力自体が特殊なんですよ。けど、今は僕が恋人ですから尚のこと誰にも手出しさせません」
「ひゃ、ひゃい!」
そんな甘い言葉を紡がれてしまったので、美兎は体が溶けていくような不思議な浮遊感に襲われたのだった。
そのふわふわのまま、白イルカのトレーニングの展示場に向かったが。
指導員の指示で、可愛くパフォーマンスを見せてくれても。
美兎の頭には、ずっと火坑の言葉がリフレインしたまま、体を熱くしていくのだった。
それに気づかない火坑ではないので、美兎の体調を気遣い、残りの展示場を回らずに妖術で火坑の自宅に行くかと提案してくれたが。
「だ、大丈夫です! ちょ、ちょっと驚いただけで!」
「ですが」
「……女子が慣れぬ言葉をかけたら、そうなるでござろう?」
「……反省してます」
「あ、じゃあ。アイスで気分変えよ? 私とすーくんが買ってくるから!」
「いい提案でござる。湖沼殿、ソフトクリームなら平気か?」
「……はい」
「火坑もそれでいいな?」
「……ありがとうございます」
とりあえず、展示場から少し離れたベンチスペースで火坑に寄りかかる姿勢で楽には慣れたが。服越しでも、温かな火坑の体温に安心出来て。
やっぱり、この人と恋人になれてよかったと思うのだった。
随分と、特異な霊力の持ち主だと。烏天狗の翠雨は彼女──湖沼美兎と地下鉄ですれ違った時に思った。
己の番となった、栗栖紗凪とはまた違う人間風に言うのならば、不思議な霊力の持ち主だと。
わずかに妖気が混ざり、甘い匂いを漂わせているような。妖につけ狙われそうな霊力だが、契約している座敷童子の真穂のお陰で事無きを得ているそうだ。
加えて、将来的に番になるかもしれない、元地獄の補佐官だった猫人の火坑。
彼奴が側にいるのなら、安全も安全だ。妖気の一部を美兎に植えつけているくらいの執心でもあるようだから。
名古屋港の水族館をひと通り観て回り、次に翠雨達が行くのはテーマパークなので彼女らとはここで別れることになった。
紗凪は、また携帯で連絡し合おうと美兎と約束してから翠雨の腕に抱きついて来た。
「お待たせ〜!」
「……然程待っていないでござる」
「ふふ、ありがと」
火坑もだが、翠雨も人間ではないので人間の女性と懇意な関係になるのは正直言って恐れていた。
貧弱、虚弱な上に、寿命の差が大き過ぎて。妖とは違い、随分と儚くなってしまう。
医術が発達したとは言え、せいぜい百年も生きられるかどうか。
だが、それでも紗凪は見過ごせなかった。
巫と呼ばれる、百年どころか数百年にひとり見つかるかどうかと言う、山の神とも呼ばれる天狗族が重宝したがる女。
それが、大戦以前からさらに激減して子孫繁栄に困り果てていた天狗族でもある翠雨は。
彼女がまだか弱い幼少期の頃に、悪どい妖連中に連れ去られそうになったのを助けたのだ。巫であろうとなかろうと、人間、しかも女をかどわかすなど言語道断。
烏天狗の父に厳しく育てられた翠雨だからこそ、見過ごせなかった。
見目が愛らしいとかそう言う理由ではなく、国津神の一員として不当な輩を放っておけなかったのだ。
だが、そこから惚れられるとは予想していなかったが。そしてまた、己自身も成長した彼女に惚れてしまうことも。
烏天狗は特に、伴侶の選別が厳しいと有名な種族ではあったが。巫の素質を持ち、明るく朗らかな性格が何故か翠雨の父にも好印象を持たれたので。見事、番になったわけである。
「美兎ちゃんも、かきょーさんともっと仲良く出来るといいねー?」
紗凪の質問に、意識を現実に戻した翠雨はそうだなと頷いた。
「そう言えば〜、今日はかきょーさんの誕生日だって」
「……妖に転生した日、か」
「かきょーさんが猫ちゃんの妖怪だって言うのは聞いたけど、妖怪の姿ってどんなの?」
「毛並みは白。猫の頭を持った全体的に線の細い人間のような出で立ちでござるよ。手に毛はあるが、形なども人間と同じだ」
「へ〜? マンボウ届ける時に見れるかなあ?」
「錦の界隈に行くでござるから、見れるはずだ」
「んふふ〜、ちょっと楽しみ」
「それより、テーマパークに行くのでござろう?」
「あ、そだった! 観覧車絶対乗ろうね?」
「ああ」
実は、水族館からそう遠く離れていないテーマパークに行くのはいいのだが。
翠雨が紗凪を助けたきっかけで、彼女は妖怪の類に興味を持ってしまい。
人間達が作るパニックホラーの遊具などにどハマりしてしまったのだ。
逆に、翠雨はもう彼女にバレてしまっているがそう言う類が実は苦手で。作り物、ハリボテ、化粧で変化した人間とは言えど。
すべてが、翠雨の幼少期に跋扈していた魑魅魍魎の列に放り投げられた恐怖と重なり。異常な程のトラウマを蘇らせてしまうのだ。
しかし、紗凪はそんな翠雨を可愛らしいと言うので、未だに連れて行くのだ。
おそらく、今日も連れて行かれるだろうが。己に下す傷よりも彼女の笑顔が大事だと認識しているので。
不甲斐ないながらも、ついて行くのだ。
「ねーねー、すーくん!」
「ん?」
そんな心情を悟られないようにしていると、紗凪が腕を軽く引っ張ってきた。
「すーくんの誕生日、いつ教えてくれるの?」
「……今の暦ではわからぬと言ったでござろう?」
「えー? じゃあ、かきょーさんはすーくんよりも歳下なの?」
「それは聞いたことがないが」
言われてみれば、たしかに。
種族は違えど同じ妖。なのに、彼奴は自分の生誕日を知っている。となれば、現世でも比較的若い世代と言うことか。
なら、彼奴に聞いて翠雨自身の生誕日を聞くのもいいのかもしれない。
紗凪にそう聞けば、やったと声を上げた。
「やっと、すーくんの誕生日祝えるよ!」
「……それだけのために?」
「私に出来ることは、出来るだけしたいんだもん! お料理とかはまだまだ勉強中だけど、パーティーとかなら出来るし?」
「……そうでござるか」
抜けているようで、実はしっかりしている。
まったく、強かな女だなと愛しくなり、翠雨は彼女の髪に口づけを贈ったのだった。
ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
雪女の花菜は少しうきうきしていた。
雪女の本領発揮と言える、12月な理由もあるが、今日は少し違う。
料理人の端くれである自分の兄弟子にあたる、猫人の火坑と人間の友人となった湖沼美兎。
二人が先月末に目出たく付き合うことになったと知らせを受け、かつ、火坑からは楽養一同にお願いがあると告げてきたのだ。
花菜はまだまだ未熟者ではあるが、友人と兄弟子のために今日のデートのお手伝いはしようと張り切っている。自分自身、ろくろ首の盧翔とは何も進展がないのだが。それはそれ、これはこれ。
とりあえず、師匠である黒豹の霊夢に必要な材料を仕入れるように、と、お使いに行っていた帰りだ。
人間界の食材で作るらしいので、雪女の花菜の体温は零度以下。冷蔵食材などにはちょうどいい温度なので、空気中の温度とも相まって保冷剤要らずの移動式冷蔵庫状態になる。
今日は肉や魚を多く仕入れたので、鮮度は抜群。火坑が普段仕入れるのと同じく、人間界の柳橋にわざわざ仕入れに行ったので、ゆっくりと楽養に向かっている。
自転車の方が当然徒歩よりも移動は早いが、花菜は雪女なので空中に溶け込んで飛翔することが可能なのだ。だから、盆地特有の寒さを含んだ風に乗り、雪女の本性のまま飛んでいる。
人間で霊力が高い見鬼の才を持つ人間は、多いようで実は少ない。
時代の流れもあるだろうが、美兎や彼女の常連仲間である美作辰也のように。妖自らが守護につくことを望む才能はごく稀。
だから、本性のまま飛んでも大抵の人間の目には留まらないだろう。花菜は界隈に到着してから地面に降り、妖気を抑える人間紛いの装いに変化してから荷物を抱えて歩き出した。
「あんらぁ? 花菜じゃなぁいのん」
ちょっと歩いた先に、派手だがケバくないくらいに装いを整えている、女のように話すが女ではない。
ヒールを履いてはいるが、足の形がゴツい。
けれど、知り合いではある。
狐狸の一種で、通称化け狐とも呼ばれている男。BAR『wish』の看板バーテンダーである宗睦だ。
名前もゴツいので、普段はチカと呼ぶように言われているが。
「こ、こんにちは。チカ姐さん」
「こ〜んにちは〜。すっごい買い込んでいるけど〜? 鏡湖の袋じゃないわねん?」
「は、はい! 柳橋まで行ってきました」
「わざわざ人間界に〜? 火坑ちゃんもだけど、みんな好きね〜〜? ま、あたしもマスターに言われてたまに仕入れに行くけど」
シャランと鳴りそうな装飾品の数々は目を見張る程だ。花菜は基本的に防寒重視なのであまりお洒落はしないのだが。
けど、少し。
男ではあれど、女性のように着飾る宗睦が羨ましかった。彼は、盧翔とも飲み友達で仲が良く。むしろ、宗睦のお陰で盧翔と知り合えたのだ。
であれば、彼に相談すべきか。
だが、今はまだ仕事途中だ。それに、美兎と火坑のためにとびっきりの料理を作るのだから。
「あ、あの。すみません。仕事の途中なので、私これで」
「あら〜? 何も用がなくてあんたに声をかけたわけじゃないのよん?」
「え?」
「あたしも霊夢っちに呼ばれてるのよ〜。きょーちゃんの初デートに、ふさわしいカクテルを作ってくれないかって。だから、あんたを迎えに来たの」
「そ、そうだったんですか」
なら、出張バーテンダーと言うところか。
花菜はまだ片手で数えれるだけだが、バーテンダーの宗睦の装いを見たことがある。口調は変わらずだが、キリッとしたバーテンダーの出で立ちになると。女性の妖の注目を一度に集めるくらいの美形になる。
化ける、が専門分野の狐だが。人間社会に溶け込めるくらいにならないと人間のような職種にもつけない。
だから、普段はいわゆるオネエではある宗睦でも妖としては憧れの的になるのだ。
荷物は、花菜が袋に触れてるので霜焼けになるからと歩調だけは合わせてくれた。
「人間の女の子で、しかもあの真穂様が守護についたのがお相手でしょう? 具体的には聞いてないけど、どんな子なの?」
「えっと……その。物凄く優しくていい子です。私が……勘違いしたのに、責めてくることもなくて」
「勘違い?」
「えっと……」
花菜が美兎にしでかした事を告げれば、宗睦は腹を抱えるくらい大笑いしたのだった。
「あんたもあんたね〜? そんなに盧翔が好きなら、もう告白しちゃいなさいな?」
「け、けど……」
「盧翔そこそこ人気だから、誰かに取られちゃうわよ〜?」
「え、い、いやです!」
「ほらほら〜?」
「うう……」
たしかに、美兎もぬらりひょんの間半に背を押されたことで、楽庵に行けたし火坑からも思いを告げられたとダイレクトメールで聞いた。
次は、花菜の番だとも言われたが。正直言って、自信がない。
明るさの塊である盧翔は、元師匠で亡くなってしまったイタリアの人間の女性を思っているから。
それを知っているので、花菜は自分の想いを告げられないでいる。
宗睦もそれを知っているのか、軽くニット帽の上から頭を撫でてくれてそれ以上は何も言わなかった。
だけど、あと少しで楽養に到着しかけた時に。
正面から急いで走ってきた盧翔と鉢合わせたのだった。