名古屋港に行くのも随分と久しぶりだ。
大学時代の時の彼氏とも行くことはなかったし、友人も同じく。おそらくだが、中学生の社会科見学を銘打って、水族館に行く以来かもしれない。
高校になると、家族で出かけるのはそう多くなかったので。両親とわざわざ行くこともなかった。
それと火坑と界隈を歩いて地下鉄に向かう途中、美兎は彼にお願い事を言われたのだ。
「美兎さん。人間界にいる間は僕のことを香取響也と認識していただけませんか?」
「かとり、きょうやさん? ですか?」
「はい。閻魔大王が僕個人にお与えくださった戸籍の名前なんです。両親は死別と言うことになっています。親類縁者も同様に」
「じゃ、じゃあ。響也さん?」
「はい」
偽名とは言え、人間の姿の名前まであるとは驚きだった。しかし、それならいつもの火坑と言う名前よりかは人間らしいかもしれない。決して嫌とかではなく、不思議だと思うから。
それに、美兎が響也と呼んだだけで物凄く笑顔になってくれたのだから、こちらまで嬉しくなってくる。人間の姿でも、火坑は火坑だなと実感が出来た。
とりあえず、目指すは名古屋港の水族館。名物であるシャチのショーと、白イルカとして有名なベルーガにも会いに行く予定らしい。
デートなら定番中の定番だが、美兎が最後に行った水族館より、きっと様変わりしているだろう。だから、余計に楽しみだった。そこに二人で行けるから。
まず、行きに美兎も乗った紫が特徴の名城線に、美兎が来たのとは逆方向の線に乗る。名城線は十数年程前に路線が変更されて、ある意味東京の山手線と同じように円に近い形状になっているのだ。
他の路線はその円の途中で乗り換えが出来るように組み込まれている。美兎達は、栄から左回りの方向に乗り、金山駅に向かう。そこで、一度降りて名古屋港水族館に向かうための、名港線に乗り換えるのだ。
中学以来なのと、普段は仕事でも名港線を利用しないので乗り換えにはうきうきしていた。会社では、イベントの依頼などで水族館のポスター制作をすることはあるらしいが、あいにくと美兎の担当ではない。新人だし、下っ端なら現場に出向くことも多いが美兎が担当するのは主にショッピングモールだったからだ。今日はまだ休めたが、あと少しでクリスマスフェアが始まるので忙しくなる。
楽庵にもきっと行けなくなってくる。だから、今日は思いっきり楽しむつもりだ。
「僕も、この路線に乗るのは随分と久しぶりです」
金山から乗り換える前に、駅ナカの自販機でコーヒーや紅茶を買ってから火坑が口にした。
「響也さんが電車を使われるのが、私には新鮮に見えます」
「そうですね。普段、柳橋に行くのも自転車なので」
「名駅近くのですよね? 聞いたことはあったんですが、個人的に敷居が高いなと思ってて」
「ふふ。そんなことはありませんよ? 一般公開もしていますし、東京の市場ほどではありませんが飲食店もありますよ? 時間が出来た時なんかにご案内しますね?」
「ありがとうございます!」
次の約束。
まだ今日の目的地に着いてもいないのに、次の約束が出来て嬉しくなった。
思わずはしゃいでしまいそうになったが、人にぶつかりそうになったので避けようとしたら。
「……火坑?」
ぶつかりそうになった相手、しかもカップルの男性の方が火坑の実名を知っていたのだ。
「おや、翠雨さん?」
「やはり、お前でござったか?」
「ご、ござ?」
今時、ござる口調。とてもレアな言葉遣いだったが、顔を見た途端そんなのが気にならなくなってしまった。
アイドルや俳優顔負けの美形。以前一度だけお会いした大神かと思いかけたが、顔が違った。切れ長の瞳に、スッと通った鼻筋。長いが艶のある黒髪は後ろでひとつにくくっている。
透けそうなくらい透明感のある白い肌にはシミひとつない。とても美形な男性だった。
お連れらしい女性は彼の体格に隠れてよく見えないが、美兎が声を上げた後にひょっこりと出てきた。
「すーくん、お知り合い?」
「ああ。男の方だが」
「そーなの? 人間? 妖怪?」
「声が大きいでござるよ、紗凪」
お相手は、人間の女性のようだ。ふわふわな茶髪が印象的で、顔も綿飴のように可愛らしい雰囲気だった。他人事でも、その愛嬌を分けて欲しいと思うくらい。そして美兎と目が合うと、にっこりと笑ってくれた。
「あ、はじめましてー。すーくん、翠雨君の彼女の栗栖紗凪でーす!」
「あ、どうも。その……こちらの火坑さんとお付き合いしてます。湖沼美兎です」
「じゃ、美兎ちゃんだー」
「え、あ、はい?」
「おい、紗凪。女同士でも抱きつきに行こうとするな」
「だって、可愛い子じゃなぁい? 歳も近そうだし」
「そうは言ってもな?」
「あの。大変失礼ですけど、翠雨……さんと火坑さんとのご関係は?」
「ああ。某の本性は烏天狗。妖だ」
「常連さんのお一人ですね?」
「最近は行けなくてすまなかった」
なるほど、と思っても烏天狗と言われても妖の種類はまだまだ勉強中の美兎にはよくわからなかった。
すると、翠雨は察してくれたのか苦笑いしてくれたのだった。
「美兎さん。普通の天狗の場合は白い翼を持つのですが、烏天狗は烏のような黒い翼を持つ種族なんですよ」
と、火坑が教えてくれたのだ。
「ところで、わざわざ人化してまで。……しかも、某が疎遠になっていた間に。番まで作るとは」
「つがい?」
「奥さんのことだよ、美兎ちゃん」
「お、おく!?」
「恋人にもなると言ったでござろう……」
「けど、あたしはすーくんとそうなる予定だもん!」
「はぁ……」
とりあえず、びっくりすることばかりで美兎の頭はパンクしかけたが。彼らの行き先も、同じ水族館だったので。
初デートがいきなりダブルデートになってしまったのだった。