ここは、錦町(にしきまち)に接する妖との境界。

 ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。

 たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。

 元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵(らくあん)』に辿りつけれるかもしれない。




 12月(師走)に入り、だいたい二週間が経った今日。

 湖沼(こぬま)美兎(みう)、新人のデザイナー見習いは。本日は休日で、しかもいつもの出勤でのヘアメイクよりも気合を入れていた。

 昨夜も少々お高いフェイスパックで保湿もしたし、朝も念入りにお手入れしてからメイクに取りかかった。大学時代に彼氏がいた時ですら、ここまで頑張っただろうか。否、違うかもしれない。

 わずか二年程度なのに、もう忘れてしまっている。それくらい、今の美兎はあの猫人に夢中なのだ。

 まさか、新卒してすぐに彼氏が出来るとは思わなかった。しかも、お相手は人間ではなくていわゆる妖怪。

 だけど、美兎は惹かれてしまったと気づいてからずっと避けてしまうくらい悩んだのだ。自分は不釣り合い、種族の違いなどなど。

 けれど、種族違いでも恋に恋した気持ちは抑えようがなかった。結果、そのお相手である火坑(かきょう)からも想われているとわかり、お付き合いすることになったのである。

 が、普段の仕事とのすれ違いから、なかなかデートすら出来なかった。それを今日、火坑が叶えてくれる。だから、メイクアップに気合が入るのも仕方がない。


「ふふ。うふふ! よーし、行こうっと!」


 以前、界隈にあるデパートで綺麗にメイクしてもらったことはあるが、あれに及ばずとも美兎の出来る限りの技術でメイクを施した。

 きっと、火坑も褒めてくれるだろう。

 時間は迫っていないが、余裕をもって錦に向かうのに。美兎は地下鉄を使って(さかえ)を目指した。東京や大阪程ではないだろうが、名古屋の地下鉄も改修工事があったりでそこそこ入り組んでいるので、降りる駅ひとつ間違えたら大変なのだ。

 妖界隈の錦については、美兎は行く目的のお店以外ほとんど知らないに等しいので、火坑が案内してくれるのだろうか。

 とにかく、LIMEではエスコートするからプランは任せて欲しいとしか告げられていないので、美兎は美兎で火坑のために誕生日プレゼントを選んできた。

 もちろん忘れずに、お出かけ用のバックとは別におしゃれな紙袋に入れてある。準備は万全だ。

 待ち合わせは楽庵に来てくれと連絡があったので、地下道から上がり、昼の錦の裏通りを歩いていると。あと少しで楽庵に着く手前で座敷童子の真穂(まほ)と会った。


「気合十分じゃない? 頑張るのよ?」
「うん!……今日も守護についてくれるの?」
「まさか。恋人同士のデートまでご一緒するわけにいかないでしょ? ちょっとした激励」


 子供の姿なので、美兎の腰くらいまでしかないが。彼女は軽く美兎の腰を叩いてから、いってらっしゃいと見送ってくれた。

 だから、美兎も行ってきますと言ってから真穂に手を振った。

 真穂に守護についてもらってから、ひとりで楽庵に行くのは少し久しぶりだ。もう数ヶ月前のことなのに、随分と前のように思える。

 けれど、その前より今の方がずっと楽しい。雪女の花菜(はなな)とも知り合うきっかけが出来て、真穂以外の妖とも友達になれたのだから。


「あ、美兎さん」
「おはようございます、火坑さん!」


 楽庵の前では、既に火坑が待ってくれていた。以前に一度だけ目にした洋服。その時以上に、よそ行き用にめかし込んでいて。

 ああ、本当にこの人とお付き合いしているんだ。と実感するのだった。


「お早いですね?」
「火坑さんも」


 隣に立つと、改めて思うが美兎の方が彼の頭二つ近く身長が低い。バランスがとも思うが、美兎は人間の成人女性にしては高い方なのに。火坑の方が大きいのだ。多分だが、180cm近く。こうやって並んで立つ機会がなかったので、あまり気づかなかったのだろう。

 火坑は美兎が来てから、ずっとニコニコと笑っていたが。美兎が隣に立ってから笑顔を消して、肉球のない猫手で自分の頭を撫でたのだった。


「写し度、移し度、映し度。我が身を映せ」


 呪文か何かを唱え出すと、猫耳の方からちりちりと光が出てきて上から下に移動していく。

 そして、猫の頭から人間のような黒い髪が出てきた。


「え、え、え?」


 美兎が驚いているうちに変化は終わり。

 光が消えると、そこに居たのはひとりの人間の男性。端正とは言い難いが、笑顔が好印象を持つ男性が立っていた。その顔は、覚えがあった。本当に、最初に火坑と出会った時の彼の姿だったのだ。


「今日は人間界にも行きますからね? 妖術で人間の姿になったわけです」
「よう、じゅつ?」
「僕や真穂さんだけでなく。妖などが使う術の総称ですよ。わかりやすく言えば魔法です」
「妖って、魔法使いなんですか?」
「ふふ。まあ、人間ではないので使えるだけですよ」


 さ、行きますよ。と、手を取られたのだが。本当に猫の手ではなく人間の皮膚を感じ取れた。

 手を繋ぐのは、火坑が初めてではないのにすごく胸が熱くなってきた。


「えと。今日はどこに行くんですか?」
「まずは、人間界。美兎さんには申し訳ないですが、地下鉄に乗って名古屋港に行きましょう」
「名古屋港ですか!」
「はい。一緒に地下鉄に乗りたかったので」
「迷惑じゃないです!」


 ひとりじゃなく、二人で電車に乗れるのだから。きっと、絶対楽しいに違いない。

 だから、美兎は嬉しくなって彼の手をギュッと握り返すのだった。