ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
ひと月。
たかがひと月、されどひと月。
もうすぐ、社会人になって一年目の冬を迎える、新人デザイナー見習いの湖沼美兎は困り果てていた。
想いを寄せている、猫人の妖であり、小料理屋の店主である火坑の店に行けず、約ひと月。
色々な人から背中を押されてはいるのに、勇気が出せず一歩前に進めない。
だが、出せない理由もある。
美兎の気持ちが、火坑にバレているんじゃないかと。その上で、美兎の気持ちを弄んでいなくとも、受け入れてはくれずに店主と客の間柄でいたいんじゃないかと。
そんな弱気な思いが先走り、美兎は前を進めずにいた。
守護についてくれている、座敷童子の真穂にも呆れられてしまっているが。基本的には見守ってくれている。
だけど、それなら何故。
何故。
「この前来れなかったお店に来ちゃうんだろう……?」
先日。
勘違いされたとは言え、火坑の妹弟子である雪女の花菜と出会い、友達になれた。
火坑がかつて過ごした店でもある楽養にも行けて、ほんの少しばかり彼らの師である黒豹の霊夢の料理も堪能出来た。
何か礼をせねばならないな、と冬に近づいた今日。
花菜と出会う直前に、行こうとしていたマカロン専門店に来てしまっていた。
だけど、考えるのは霊夢達のことよりも火坑のことばかり。
マカロンは砂糖が多く使われる菓子ではあるが、メレンゲのお陰ですっと口の中で溶けて、そして軽い食感が特徴的だ。
ひとつくらいなら、彼でも食べられるかもしれない。
だから、出来るだけ甘さを控えた種類を物色しようとしたのだが。
どれもこれも美味しそうで、目移りしてしまい。小一時間悩んでしまっている。客は他にも女性客が多いので、特に店員にも声をかけられなかったが。
「おやおや、お嬢さん。随分と悩まれているねえ?」
店員、にしては渋い声だ。
ぞくっと背筋が伸びるような、耳通りの良過ぎる声。
なら、店長さんだろうかと振り向けば、そこにいたのは少し明るめの色合いのスーツ姿の男性。しかも、かなりの高齢者だ。失礼だが、定年間近に見える年齢なのに異様に若々しい。
顔のシワもだが、髪は綺麗なグレーだ。染めているのかもしれない。初対面だと美兎は思うが、どこかで見かけたのだろうか。しかし、思い返しても見当がつかない。
「あの……失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
「! いやいや、お嬢さんとはある意味初対面だよ? おじさんが勝手に知ってるだけでね? この界隈……と言えば分かると思うけど」
「あ!」
もしかして、と思ったが。周りを見ても店の中のままだし、客足も途絶えてはいない。
けど、このご老人は自ら『妖』と告げてきたのだ。
なら、周囲には自分達の会話は聞こえていないのかもしれない。
だのに、今日は真穂も出て来ない。何故だろうか。
「ふふ。驚くのも無理はないけどね? おじさんは特殊な位置に部類されてる妖でねぇ? 真穂ちゃんもすぐには気づかないと思うよ?」
「真穂ちゃんを知って?」
「ああ。界隈では随分と噂されているとも。稀代の座敷童子がわざわざ守護につくほどの、吉夢の持ち主。夢喰いよりも先に目をつけるとは、あの子もやるねえ?」
「えっと……それで、あなたは?」
「おっと。歳を取ると前置きが長くなって仕方ない。おじさんの名前は、間半。ぬらりひょんと言う妖はご存知かな?」
「ぬらりひょん??」
聞いたことはあるようなないような。
正直にわからないと答えれば、間半はくすくすと笑い出した。
「人間に知られたのは、さほど古くはないからねぇ? 座敷童子とは違う、家妖怪の一種とされているんだ。そして、気配を住人などの人間達には悟らせない。またを、妖の総大将とも言われているのさ」
「え……では、えらい人なのですか?」
「はっはっは。おじさんを見てそう思うかい?」
「えっと……どこかの社長さんとかには見えます」
「ふふ。久しぶりにめかし込んで、正解だったね?」
けれど、なら何故美兎に接触してきたのかはわからない。
首を傾げていると、間半はまたくすくすと笑い出した。
「あの?」
「うんうん。妖の総大将と知っても、然程驚かない肝の据わった態度。うんうん、おじさん感心しちゃうよ」
「まなか……さん?」
「是非とも、お嬢さんが気に入りの楽庵に。一緒に行かないかい?」
「え!」
「お代はおじさんが奢ってあげるよ? 手土産のマカロンも一緒に選ぼうじゃないか! あ゛!?」
ペースに乗せられてしまうと、思いかけたら。
突如、彼の上から穴のようなものが出現して。何か出てきがと思ったら、本性の子供サイズの真穂だった。
そして、躊躇うことなく間半の脳天をかち割る勢いで、鉄拳制裁をお見舞いして彼を床に倒れさせてしまったのだった。
「何してんのよ、総大将が!?」
「う……ふ、ぐぐ」
「ま、真穂……ちゃん?」
「真穂が守護してる子に、勝手に声かけないの! このスケコマシ!」
「真穂ちゃん、古いよ……」
「いいの! こう言う色ボケじじいには!」
穴から降りてきた彼女は、そのまま倒れた間半の背中に乗ってしまい。彼が苦笑いしながら顔を上げるまで、ずっと仁王立ちしていた。