「あの……それが、『心の欠片』と言うものなんですか?」


 美兎(みう)には、ごく普通のアニマル柄のバッチにしか見えない。それをどう食べるかも、半分人間のような姿をしている、この猫人とやらはいったい何をしたいのか。

 すると、青い猫目を柔らかく細めて、火坑(かきょう)と名乗った彼はバッチを美兎の前に差し出した。


「こちら、正真正銘湖沼(こぬま)さんの心の欠片です。あなたには違うものに視えているかもしれませんが、僕にとっては食材なんですよ」
「お……かきょーさんの?」
「ええ。気になるようでしたら、あなたにも視えやすい状態にしますね?」


 空いている手でバッチを軽く撫でると、緑色の卵になってしまった。

 手品、魔法、とかを見た気分になったが、試しに触らせてもらってもバッチではない。代わりに、鶏卵によく似た質感の、緑色の卵だった。


「あの、バッチは……?」
「おそらく、ですが。湖沼さんの記憶にあった印象深い記憶が、心の欠片に変換して目に見えた証です」
「印象深い……記憶、ですか?」


 火坑の言葉に、美兎はある広告を思い出した。

 今の会社が、動物園の勧誘のために作った大きなポスター。

 大きなゾウが、嬉しそうに鼻を上げて笑顔になっていたポップ調のイラストだったのだ。その広告をベースにしていたグッズの缶バッジを、美兎は幼い頃夢中になって服やバックにつけていたりした。

 いつだったかなくしてしまい、大人になるにつれて記憶の彼方に置いて行ってしまったのだった。


「思い出されましたか?」
「……はい。今勤めている会社に、入りたいきっかけになった思い出の……大切だったバッチでした」
「なるほど。大切な夢の証……。それに緑色の卵。と言うことは」
「……?」


 少し涙ぐんでしまっていたが、火坑は違うことを考えていたようだ。ぶつぶつ呟いているせいで声は聞こえにくいが、美兎をほったらかしにしているようには見えない。

 そして、何か結論を得たのか、卵をまな板の上に置いて。また、美兎の頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。


「湖沼さんは、『夢喰い』と言う妖に好まれたかもしれませんね?」
「ゆめ……くい?」
「人間の御伽話でも、いくつか存在してます。悪夢を喰らうことを糧に、良い夢を与える……そんな妖が存在するんですよ。夢を諦めていないあなたと、あなたの持つ霊能力に惹かれたのでしょうね?」
「夢……?」


 そんな妖怪がいると思われているのは、たしかに御伽話などの空想の物語でしかない。

 だが、今日。美兎は錦町で火坑と出会い、火坑の本性を知れた。であれば、夢喰いとやらの妖怪がいてもなんらおかしくはない。けれど、好かれている要素と言うのが、まだよくわかっていないのだ。


「ふふ。絵空事と思われるかもしれないですが。この店……楽庵(らくあん)を見つけただけでも、実は凄いことなんですよ? たいていの人間には、素通りしてしまう妖術がかけられているんです」
「けど、夢じゃないんですよね?」
「ええ。それと……少しお時間をいただきますが。心の欠片の料理は人間でも食べれるんです。ひと口召し上がって行きませんか?」
「い、いいんですか?」


 まさか、人間が食べても害のないものだとは思わず。けれど、人間が食べてもいいのなら、是非ご相伴に預かりたかった。まだ一品だけしか口にしていないが、美兎は火坑の作る料理の虜になってしまっていたのだから。


「手軽に……そうですね。卵の味を活かしたものであれば、出汁巻に」
「わあ!」
「俺っちも喰いたい!」
「ですよね!……え?」


 いつのまに、他の客が。と思ったら、美兎の隣に幼稚園児サイズのマレーバクが、スーツを着て手を上げていたのだった。


「おや、夢喰いの宝来(ほうらい)さんじゃないですか?」
「よぅ、火坑の旦那! 俺っちが導いた人間……この嬢ちゃんから良い心の欠片を受け取れただろう?」
「ええ、間違いなく。分配する形になりますが。おかけになってお待ち下さい」
「あいよ!」
「…………」


 この小さなバクが、美兎をこの店、楽庵に導いてくれた恩人。いや、恩妖怪、なのだろうか。

 しかし、可愛らしいのにずいぶんと男前な口調で話すな、と。火坑が調理している最中、ずっと凝視していると。さすがのバク、宝来も美兎の視線に気づいたようだ。美兎が見つめている間に出されたらしい、ビールを一気に煽った。


「お初にお目にかかるぜぃ。俺っちは夢喰いの類。宝来って名乗っているもんだ。あんた……嬢ちゃんは、一部の妖には人気なんだぜぃ?」
「あ、どうも。湖沼と言います。……人気、ですか?」
「おう。願望の強い夢……己の叶えたい夢でも、己のためでなく他人を笑顔にしたい夢さ。そう言う夢でも、己の力で叶えようとしてる人間の夢は、まさしく吉夢だ」
「きちむ?」
「縁起の良い夢のことですよ?……お待たせしました」
「おお!」


 宝来の言っている言葉は、いまいち頭に入ってこなかっだが。火坑の料理がもう出来たことに、一瞬で考え事がうつった。

 カウンターの上に置かれた出汁巻卵は、艶やかな黄色が美しく、ふんわりとした湯気からは香り高い出汁の匂いがした。

 ついさっき、卵の雑炊を食べたばかりなのに。もう胃袋がそれを食べたいと訴えてきた。


「では」
「ひとつ!」
「……い、いただき、ます」


 火坑が用意してくれた箸で、ひとつ出汁巻に手を伸ばす。

 切れ目から分かったが、白身がほとんど見えない黄色一色の柔らかい層が食欲を掻き立てる。

 取り皿に乗せて、少し香りを楽しんでからひと口。


「おっほー!」
「いい塩梅に出来ましたね……」
「お、おいひい!」


 食感は柔らかすぎず、硬すぎず。けれど、歯でほぐれる卵の層が舌の上で、まるで踊るようにほぐれていき。

 飲み込んで、食道を通る温かさと優しさが例えようもなかった。


「出汁の味は濃いのに、卵が負けてません……!」
「そりゃ嬢ちゃん。あんたの心の欠片だからだぜぃ?」


 宝来は食べ終えてから、また火坑に出してもらったのかジョッキのビールを煽ったのだった。


「そうですね。この卵の味になるのですから、相当な吉夢を湖沼さんはお持ちなのでしょう」
「けど、私会社ではまだまだ雑務ばっかで」
「いきなり大仕事を任されねーのは、妖でも人間でもねーぞ? けど、それでもがむしゃらに夢に向かって走ってる。でなきゃ、ここの旦那にもだが、店にも辿りつけなかったさ?」


 美味かっただろ、と宝来に肩を軽く叩かれて、美兎は急に涙を堪え切れなかった。