ここは、錦町(にしきまち)に接する妖との境界。

 ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。

 たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。

 元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵(らくあん)』に辿りつけれるかもしれない。




 おかしい。

 湖沼(こぬま)美兎(みう)、広告代理店の新卒デザイナー見習いである。

 夏も盛りを過ぎた今日この頃、美兎は自分の周りがいくらかおかしいことに気づき始めていた。

 まずは、第一に仕事のことだが。新卒で、研修も終えて数ヶ月程度なのに、仕事がわんさか舞いこんでくる。それについては新人なのに文句は言えない。

 だが、おかしいのはそれではない。先輩や上司、同期達から手を差し伸べられて、までは普通だが。定時で帰りにくいと言われる世代の筆頭なのに、ここ一週間くらいは、何故か残業もせずに定時で帰れてしまっているのだ。

 新入社員だから。仕事がないから、と思っても。先月までの激務はいったいなんだったかと思えるくらいの静けさ。

 これは、絶対何かあるに違いない。業務内容の変更は特にないから仕事の量が減ったわけではないのだが。

 美兎は研修が修了してからも、業務は主に先輩や上司の補助だ。デザイナーのプログラムなども、大学時代に勉強した範囲内で行えている。

 なのに、入社半年未満で、いつも定時に帰れるのはおかしいと感じた。まだ手伝うと進言したりはしたが、その頃には手伝いにくい範囲ばかり。

 残業がないのは嬉しくもあるが、何も手伝えないのも寂しく感じた。けれど、休めるうちに休めと先輩には言われたので、仕方なく帰るしかないのだが。

 それともう一つ。退勤する時に、たまにだが幼稚園児くらいの子供の声が聞こえるのだ。が、姿を見たことはない。


「……考えられるのは。よう……じゃなくて、(あやかし)?」


 妖怪と勝手に呼んでるのは、基本的に視ることの出来ない人間の方だ。妖達はいつだって、自分達の部類を妖と呼んでいるらしい。

 美兎は、この春先からそんな妖達と関わることが普通になったので、彼らのことを疎むどころか好印象を持っている。

 特に、常連先になった錦の小料理屋である楽庵の店主には。

 今日は手土産を用意していないが、美兎が店主の火坑(かきょう)に食べてもらいたい気持ちだけで購入していたので、基本的に持ち込まなくても構わない。

 けれど、錦の境目に入る前に、可愛らしいマカロンのお店がオープンしたのが見えて、ついつい購入してしまった。


「こんばんはー!」
「おや、いらっしゃいませ。湖沼さん」


 手入れの行き届いた白い毛並み。

 涼しげな印象を持つ青い瞳。

 手の形だけは人間と同じで肉球のない細い手。

 先日の、雨女御一行の日を境に、想いを寄せてしまった美兎の意中の相手。

 元地獄の補佐官だったらしい猫人の妖である火坑だ。

 少しぶりに会えたが、相変わらず凛々しくも優しげな笑顔の男性だ。手土産のマカロンを渡すと嬉しそうに猫目を細めてくれた。


「ちょっと、相談に乗っていただきたいことがあるんです」
「僕にですか?」
「多分、なんですけど。妖と関係してるんじゃないかなって」
「ふむ。宝来(ほうらい)さんでしょうか?」
「いえ。あれ以来吉夢(きちむ)をいただいていないですし」
「ほう?」


 とりあえず、先付けの梅ときゅうりのたたき和えを食べながら話すことにした。


「仕事が順調過ぎるんです。ここ最近、新人なのに定時で帰れることが多くて。それ以外にだと、時々ですが。子供の声が聞こえて」
「子供の声?」
「笑い声だけなんです。姿も見たことがないんですが、中区で幼稚園児くらいの子供を見かけるのって。母親連れでもあんまりない時間帯ですし」
「ふむ。普通なら空耳かと思われるでしょうが。湖沼さんは、僕の店にも来れるくらいの霊力と心の欠片の持ち主。であれば、宝来さん以外の夢喰いではない妖に好かれたのでしょうね?」
「やっぱり、ですか?」
「ええ。失礼ですが、その勤務になられた以前に何か変わったことはありませんでしたか?」
「変わった、こと?」
「僕ら妖は、故意に動くこと以外。きっかけなどの(えにし)がなければヒトと関わりませんからね」


 子供に関連する変わったこと。

 会社勤めの美兎が、ふいに関わったこと。

 何かあるはず、と火坑に言われたので記憶をたぐり寄せてみた。しばらくうなっていると、わずかだが思い出したことがあった。


「えっと……最後にここに来た後、ですかね? 幼稚園児くらいの女の子が、お腹を空かせてたのか泣いてて。持ってたお菓子をあげたんです」
「子供の妖……お菓子、ですか。合点がいきました、おそらく座敷童子という妖ですね?」
「ざしきわらし?」
「僕なんかよりも、かなり有名な妖ですね。家に住み着く妖で大抵は子供の姿をしてます。おそらく、お菓子の恩返しとして湖沼さんを助けたかもしれないですよ?」
「恩返し、ですか?」


 ただ、お菓子をあげただけで、と美兎がこぼせば。火坑は座敷童子にとってはそれだけで十分だと。もともとヒトと縁が深い妖らしく、人間の絵巻物などや絵本物にも題材にされているそうだ。

 美兎は、広告関係が好きなので雑誌以外はあまり読まないが、少し勉強しようと反省するのだった。


「結構自由気ままな性格らしいですから、過ぎるまで待つしかないですね?」
「けど……贅沢過ぎます」
「……お姉ちゃん、ダメだった?」
「ダメ……というか。あ、れ?」


 突然声をかけられるこのタイミング。

 宝来で覚えがあったので、隣を見ればいつのまにか席に座ってたのは、あの時お菓子をあげた女の子。

 服装も、薄いピンク色のワンピースにおかっぱ頭。

 目も大きく可愛らしい顔立ちでいるが、これが座敷童子とは信じられなかった。人間に似た雨女達とは違い、目は人間とまったく同じだったから。


「……おや。噂をすれば……ですね?」


 美兎と違い、火坑はなんら驚いていなかったのですぐにおしぼりと先付けを彼女にも出したのだった。


「……真穂(まほ)の幸運、いらないの?」


 だが、真穂と名乗った座敷童子は気にせずに美兎にまた問いかけてきたのだった。