灯矢と言う妖怪の少年は、未体験だったことに驚きを隠せなかったのか。はじめての山葵と醤油を卵焼きにつけるだけで、黒と青の目をぎゅっと閉じてしまい、涙を堪えていた。
たしかに、寿司でもさび抜きをするくらいの年頃だから、美兎にもよくわかった。
山葵は、食べたことがないとなると、人間の子供でもああ言う表情になってしまう。美兎も幼い頃、初めて山葵を口にした時は、もう絶対食べないなどと固く誓ったものなのに。
大人になった今では、なくてはならない薬味のひとつとなってしまっている。
「灯矢、お水をお飲み?」
「う……うん」
母親らしき妖怪の女性は、随分と綺麗だった。人間によく似ているが、たとえて言うなら料亭の女将さんのような感じ。
髪も丁寧に和風でまとめているし、着物もとても上品に見える。着物に詳しくない美兎でも、思わず見惚れてしまいそうだった。そして、旦那の代わりに子供である灯矢を連れてきた兄の方も、これまた美青年だった。
妖怪についてはまだまだ詳しくない美兎だが、いったいどう言う妖怪なのだろうか。気になりつつも、まだ手元に残ってた卵焼きを山葵醤油でいただくことにした。
「ほんと、美味しいです!」
「お粗末様です」
ここの店主が作る料理は、相変わらずどれも逸品揃い。
丁寧に焼かれた卵焼きは、はじめて食べた出汁巻とは違ってカツオ出汁が強いわけではなく、逆にめんつゆとみりんの甘みが強い。
そこに、醤油と山葵でアクセントを添えただけなのに、後味がさっぱりしていて無限に食べられそうだった。
これは、ご飯が欲しくなる味だと思っていたら、火坑が猫手でお茶碗を差し出してきた。
「火坑さん?」
「ふふ。湖沼さんのお顔に、白ご飯が食べたいと書いてあったもので」
「さすがです!」
どうしてこうも美兎の心情を読み取るのがうま過ぎる妖怪なのだろうか。
もちろん、拒否する理由はないので両手で受け取ってからもう一度卵焼きと一緒に食べた。
「白焼きの方ももうすぐ出来ますので」
そう言って出してくれた、うなぎの白焼き。添えてあるのは先程の心の欠片の残りの山葵に、醤油ではなく塩だった。
白焼きを教えてもらえた、教育係の先輩にランチで一緒になった時は山葵はあったが醤油で食べたのだ。
けれど、火坑の逸品に間違いはないと、箸でほぐして山葵と塩を少量のせて口に運んだ。
「お、おいひい!」
うなぎは蒲焼きなどでは脂っこいイメージが強いのに、先輩に教えてもらった白焼きよりも脂身が少なく、皮からも脂っこい感じがほとんどない。
身はあくまでふんわり感を保っていて、塩の味と山葵で食べてるだけなのに、ほのかに甘みを感じる。単純に蒸して焼いただけの調理工程ではないのだろう。
「お粗末様です。お気に召しましたか?」
「もう、もうもうもう! 火坑さんの料理はいつだって美味しいです!」
「ふふ。それはありがとうございます」
まだ灯矢達が卵焼きを食べているのに、何故だか火坑と二人でいるような空間を感じた。はじめて手を伸ばしてくれたあの青年姿にも親しみを持てたが、今の猫人姿も凛々しくて素敵だ。
大学から彼氏もずっといないし、こんな人間の男性と付き合いたいなと言う理想体ではあるが、彼は妖怪だ。そんなの無理だ。
などと、心に少し痛みを感じたのだが、せっかくの白焼きが冷めてしまうのでスッポンのスープが出るまで、ゆっくり堪能することにした。
「よう、邪魔するぜぃ?」
「あ、宝来さん!」
ここで知り合えた妖怪でも、恩人のもうひとり。夢喰いの宝来がやってきた。
相変わらずマレーバクのような小さい体なのに、高めの椅子に難なく座れるのが不思議だ。
「よう、美兎の嬢ちゃん? 今日は酒じゃねーんだな?」
「卵焼きと白焼き食べてます!」
「ほう? 通な取り合わせじゃねーか?」
「ほんと、美味しいです!」
「ほー! 大将、俺っちにも白焼き!」
「かしこまりました。さて、卵焼きだけではお腹も膨れませんから。灯矢君にはうな丼を作ってみました」
白焼きだけではなく、蒲焼もお手の物とは。この猫人妖怪の料理の腕はどこまで精通しているのだろうか。
美作が来た時にも、カルボナーラとか洋食も得意としていたので。
「うな……どん?」
「美味しいんだよ、灯矢? 店主さんが心を込めて作ってくれたんだ。食べてごらんなさい?」
「うん」
伯父の方の妖怪に言われて、灯矢は拙い箸使いでゆっくりとうなぎと米を持ち上げた。ぱくりと頬張ると、さっきの山葵醤油とは違い、すぐに頬が赤く染まっていった。
「卵とも違うよ……! 柔らかくて、甘い! けど、美味しい!」
「ゆっくり食べなさいね? うなぎには小さな骨が入っていることもあるから」
「うん!」
大人しい子供が、子供らしく食べ進めていく姿は。美兎の目から見ても、人間も妖怪も変わらないんだなと思えた。
「美味しかった!」
特に、食べ終わった時の灯矢の顔は年相応らしい笑顔になっていたから。
「灯矢、お腹いっぱい?」
「うん。おかーさんは?」
「お母さんもだね? 火坑さん、今日のお代は?」
「灯矢君の心の欠片をいただいたので大丈夫ですよ? それと、あちらの湖沼さんからのお菓子。よかったらお持ち帰りください」
「本当にありがとうございます。湖沼さんも」
「あ、いえ!」
手土産とは言え、火坑の好きなものを選んだだけだが喜んでもらえて何よりだ。灯矢達は火坑にお菓子を袋に入れてもらってから帰り、すぐに雨音が聞こえてきたのだった。
「ほう? あのねーちゃん達は雨女達かい?」
「ええ。ですが、坊ちゃんの方は晴れ男だそうです」
「ほほー? んじゃ、珍しいもんが見れるかもしれねーぞ?」
「珍しいもの?」
なんだろう、といつもの梅酒を一口飲んでいたら、宝来にこいこいと言われたので。火坑も一緒に店の外に出たら。
「え、え?」
錦の夜中に近い時刻なのに、雨はもうない代わりに雲の切れ目からアーチ状の白い何かが光っていた。
雲の変形でもなく、これってまさかと美兎は思ったのだが。
「おや、月虹ですね。珍しい」
「げっこう、ですか?」
美兎が火坑に聞くと、彼は小さく頷いた。
「条件は色々ありますが、月の光で輝く虹です。おそらく、灯里さんや燈篭さんの雨女や雨男の妖気を受けて降った雨が……灯矢君の晴れ男である妖気の影響でにわか雨になったのでしょう。それで急激に月の光との反射現象が起こったかもしれません。久しぶりに見ますが、綺麗ですね?」
「月の、虹……」
歓楽街に近いこの町で見られるとは思いもよらなかった。
月虹は夜の暗闇の中だと、肉眼では白く見えてしまうらしいが。美兎の目には、ネオンの光も反射しているように見えて、昼と変わらない虹も混じっているなと思えた。
「よーし! 明日もお仕事頑張ります!」
「ほどほどに頑張れよ、嬢ちゃん? ここんとこあんまり来れてなかっただろ?」
「う……けど、人間の仕事もハードなので。自炊、あんまり出来てないです」
「ふふ。うちを贔屓していただきありがとうございます」
「はい! だって、火坑さんのご飯美味しいですもん!」
「いえいえ」
ああ、その微笑み。
とても温かで優しい笑顔だ。
思わず、きゅんと胸が高鳴ったことを、美兎は目を逸らすことが出来なかったのだった。