雨女、だからと言うわけではないが。灯里が灯矢を拾ったきっかけは本当に些細なことだった。
現代日本で雨を請われる神事は、余程の日照りがない限り減ってしまったが。それでも土地神に請う信仰の心はまだ消え去ってはいない。
灯矢を拾ったのは、そんな雨を請われた土地の一つ。愛知でも僻地に近い、田舎の端の端。
雨を降らせた後に、雨にうたれながらも空をじっと眺めていた幼児を不思議に思ったのだ。まだ幼いのに、服もレインコートを着ずに傘も持たない幼児。
ずぶ濡れになってしまっていることに、いくら妖でも不審に思い、視えずとも何か様子だけでもと近づいたら灯里に気づいたのだ。
よく見ると、身体は異常なほどまで痩せ細っていて。おまけにヒトでも凍える冬空の雨の中なのにシャツとズボン以外何も着ていない。
靴も、サンダルのようなものであった上に、ひどく使い古していたものだった。であれば、この少年はまさか。
『坊や。わたくしのことは視えて?』
『……お姉さん、だあれ?』
『わたくしは雨女。雨を降らせる妖……神様のようなものよ。ほら、目を見てごらん? 人間ではないでしょう?』
『この雨……お姉さんが?』
『ええ、そう。お前は、何故そんな格好でここにいるの? 寒いし、風邪をひくよ?』
『……いいの。僕、とーさんやかーさんからいらないって言われたの。だから……出てきた』
『親に……いらない、って?』
『うん。だから……動かなくして、出てきた』
それで防寒もせずに、ひとり呆けていたと言うことか。行先も特に当てがない子供を攫う雨女もいるとされているが、灯里の場合は違う。いわゆる、土地神の化身であり、主神に代わり雨を降らせる役割を担うだけの妖もどきだ。
だが、ここまで親に見離されるだけでなく、子育てを見放した親は許せない。しかし、言葉を濁したがこの子の親はもうこの世に無いのだろう。わずかだが、少年から血の匂いがしたのだ。
けれど、灯里は決めた。妖界隈に連れて、妖怪になってもいいかきちんと問うてから連れ出したのだが。
名を得て、子供としての自我もはっきりし出して。妖気を栄養分にして、普通の人間の子供でなくなった灯矢は、ある日母となった灯里に問うてきたのだ。
『おかーさんは、僕のおかーさんなのに。色々違うよね?』
『……そうね。お前とは、ちゃんとした血のつながりがないから』
『ううん。それだけじゃない。僕、ここにきてから。おかーさんがいない時とかじゃ雨降らない日があるの』
『え?』
雨女の社では常に小雨でも大雨でも雨が降るものだが。
たしかに、時折雨音がしない日もあった。であれば、灯矢は雨男になったわけじゃなく、晴れ男になったかもしれない。妖気を取り込んだことで、どんな妖になるなど灯里も分からずでいたから、この結果には驚きを隠せなかった。
『……僕。晴れは嫌いじゃないけど。ずっと雨男とか呼ばれてたから、どうすればいいのかわかんない』
『灯矢……』
灯里にも、どう声をかけていいのかわからなかった。自ら生んだ子供だからではない。慈しむ相手だからこそ、どう接していいのかわからなくなってしまったのだ。
とりあえず、今日は飲みたい気分になったので。灯矢を健康面などを診療してくれた妖の医者のところに一時的に預け、久しぶりに雨雲で橋を作って錦に来たわけである。
「……そうでしたか」
楽庵でだいたいの経緯を話してから、灯里は作ってもらった煮穴子と酢飯の碗をゆっくりと味わうことにした。
臭みも癖もない、柔らかく煮込んだ穴子がわずかに酢を加えた飯によく合う。
女の歯でもホロリとほぐれるくらいの柔らかさ。まさに絶品だ。たまに、土地神の宴などに呼ばれたりもするが、このような珍味にはとんと出会えたことがない。
あの世の出身だと言う店主の猫人だが、鍛えられた料理の腕前は本当に優しい逸品ばかりをこさえてくれる。
灯矢にも、是非食べてもらいたいと思ってしまうほどだったが、ふいに、店主の火坑に微笑まれた。
「?」
「いえ。灯矢君を思う笑顔になられていらっしゃるな、と」
「あ、あら」
「縁が結ばれただけの間柄とは言え、あなたも立派な母親です。偽らず、すべて話すのも通りとまでは言いませんが。灯矢君にとっては慈しむべき相手だからこそですよ。お母さんのことを知りたがらない子供はいません」
「……でも。まだ三月とは言え、あの子にすべてを話しても」
「難しいことでも。ゆっくりと紐解く時間も必要だと思いますよ。僕のような料理人の端くれの言葉では無理があるかもしれないですが」
「……いいえ。そうね」
逃げずに向き合うことも、また通り。
であれば、灯矢にもきちんと妖界隈について教えるべきだろう。きっと、お節介な医者の方から話しているかもしれないが、そうと決まればと、灯里は少し急いで残りの煮穴子を食べた。
「失礼。こちらに、雨女の灯里はいらっしゃいますか?」
勘定を言おうとした途端。
そのお節介な医者ーー自分の兄分である雨男の燈篭が後ろに見覚えのある着物の少年を連れてやってきた。
「おや、いらっしゃい」
「……どうも、お久しぶりです。ここにいたのか?」
「……兄さん」
「……おかーさん」
今から迎えに行こうとしていた相手と、もう出会えるだなんて思わず。感極まった灯里は、椅子から立ち上がって灯矢に向かって腕を伸ばした。