ここは、名古屋の錦町と呼ばれる夜の街。

 東京の歌舞伎町とはまた違った趣があるが、広小路町特有の、碁盤の目のようなきっちりした敷地内には大小様々な店がひしめき合っている。

 そんな、広小路の中に。通り過ぎて目にも止まりにくいビルの端の端。

 小料理屋『楽庵(らくあん)』と呼ばれる小さな店が存在しているのだった。







 湖沼(こぬま)美兎(みう)は疲れきっていた。

 名古屋でも、かなり大手の広告代理店に入社出来て、早数ヶ月。

 夢ではあったけれど、現実は夢のようにはいかない。だから、多忙な雑務処理に追われてしまっても、やりたいことにいずれ繋がると信じて、美兎なりに取り組んではいた。

 だけど、現実はいつまでも雑務ばかり。

 いつになったら、自分のやりたい広告デザインなどの仕事が出来るのか。まだ研修中ではあるのに、思わずにはいれない。

 なので、今日は錦町に来て、飲みなれない酒を飲んで気分を変えようとしたのだが。


「お……え。気持ち悪!」


 今は、吐きそうな一歩手前で錦町の界隈を歩いていたのだった。


「……慣れない日本酒飲みまくるんじゃ……なかった」


 味は悪くないのだが、喉で焼けるように感じるアルコールの症状が苦手だ。

 けれど今日みたいに、仕事に嫌気がさしてしまった時は飲みたい気分だった。だが、酒に不慣れな美兎の場合、吐く手前まで飲んだことについては失敗した。

 ビルの壁伝いになんとか歩いてはいるが、誰も声をかけてくれないほど酷い状態であることは理解出来た。

 でも、少しでも、誰かの温かさに寄り添いたくなってしまう。辛い時こそ、誰かに。

 すると、肩を誰かに叩かれたのだった。


「……お姉さん、顔色が悪いようですが。大丈夫ですか?」


 ゆっくり振り返ると、美兎の後ろにいたのは一人の男性。ホストでもなんでもなく、割烹着を着た料理人のような男性。

 顔はイケメンというよりかは、見ていてほっとするような柔和な感じ。けれど今は、体調の悪い美兎を本当に心配してくれているのか、困ったような表情でいた。


「……あ。いえ……う!」
「大丈夫ですか? 吐くようでしたら、うちの店のトイレ使ってください」
「……す、すみま……せん」


 ここは遠慮せずに、彼の言葉に甘えることにした。

 店は、偶然にも美兎が寄りかかりそうになってたビルの中にあり。狭いが、トイレで遠慮なく胃の中身を吐き出してから、彼に改めてお礼を言うことにした。


「……助かりました。あの、湖沼と言います」
「よかったです。見たところ、お酒があまり強い感じではないようだったので」
「いや、ほんとにもう。お兄さんには感謝してます!」
「大したことはしてませんよ? よかったら、胃に優しい料理を作ったので、召し上がりませんか?」
「いいんですか?」


 実は吐いた原因のひとつに、空きっ腹で飲みすぎたせいもあったのだ。大学時代に仲の良かった先輩からは、つまみでもいいから食べながら飲むように言われていたのに、すっかり忘れていた。

 なので、カウンターに座らせてもらい、その料理をいただくことにした。


「はい、お待たせ致しました」


 カウンター越しに出された料理は、質の良さげな陶器に盛られた卵の雑炊(おじや)

 ただ、ネギ以外にも何か薄ネズミ色の欠片が混ぜ込まれていた。

 だが、それが気にならないくらい、出汁の良い香りと卵の火の入れ方。普段のランチでも早々お目にかからないくらいの、ふわとろ加減に見えた。


「……いただきます」
「熱いので気をつけてくださいね?」
「はい」


 和食用の、朱塗りの(さじ)を手に雑炊をすくってから息を吹きかける。そして、ゆっくりと口に運ぶと、出汁の旨みが美兎の口の中で広がった。


「……ふふ。お口にあったようでなによりです」
「すっごく、美味しいです……! こんなにも美味しい雑炊食べたの初めてですよ!!」
「そこまで特別な材料は使っていませんが。……いえ、ひとつ特殊な材料はあります」
「なんですか?」
「スッポンはご存知ですか?」
「え、はい」


 食材に詳しいわけではないが、ことわざにあるような『月とスッポン』と言う程度しか知らない。けれど、実際に食べたことがないのだが、あのグロテスクな亀に似た生き物がこんなにも美味しいとは。


「さばいたスッポンの骨や肉から出汁を取って、肝の部分を叩いて加えた雑炊なんです」
「こんな優しい味がするんですね……?」


 つまり、薄ネズミ色の粒の正体がスッポンの肝。

 それだけ食べても、鳥のレバーのような臭みは感じられない。少しほろ苦いが、優しい味わいだった。


「僕の店では、柳橋(やなぎばし)で手に入る食材の他に。地方の猟師さんから仕入れたジビエ肉などで調理するんです。けど、凝った料理と言うよりかは、家庭的なのがほとんどですが」
「けど、臭みとか気にならないです! あ、お代は……」
「いいですよ。僕の夕飯のつもりで、残り物とかで作った賄いのようなものですから」
「じゃ、じゃあ! 次来た時はちゃんと食べに来ます!」
「ふふ。どうもご丁寧に。……おや?」
「へ?」


 小さく笑った店主が、ふいに美兎に手を伸ばして。

 最近染め直していない、茶髪のてっぺんに触れると何かがついていたのか取る素振りをしたのだ。


「……おやおや。お客様は、妖に好まれやすい体質なんですね?」


 美兎から手をどかした瞬間。

 優しい笑みを浮かべていた男性の顔が、少しずつ歪んでいき。やがて、白い体毛と青い瞳を持つ猫に変化していった。

 その光景に、美兎はまだ酔いが覚めていないのではと、勘違いしたのだがいくら目をこすっても店主の顔は猫のままだった。


「お、お兄さん……!?」
「申し遅れました。僕は元地獄の補佐官の一人であった、猫の端くれ。名を火坑(かきょう)と申します。お嬢さんから、『心の欠片』をいただきましたので……正体がバレただけです」
「じ……地獄? え、猫?」
不喜処(ふきしょ)と言う地獄の役人だったんですよ? 今は、現代に転生して役割をこなす輩です」
「へ、はひ!?」
「大丈夫ですよ。僕の食事は、妖に好かれやすい体質を持つ……湖沼さんのような心の持ち主がこぼす『心の欠片』と言う魂の欠片です。お代はこちらで結構ですよ?」


 そして肉球のない人間のような手で、もう一度美兎の髪に触れた。優しい手つきに、美兎のパニックになってた心も落ち着いていく。


「…………夢、じゃないですよね?」


 美兎がゆっくり問いかけると、火坑と名乗った猫の店主は人間の顔の時のようににっこりと微笑んだ。


「ここは錦町ですが、妖との境界の隠れ家になるんです。僕が湖沼さんに声をかけていなければ、今頃鬼とかに連れて行かれていましたよ?」
「ふぇ!」
「ふふ。僕でよかったです。この心の欠片、ちょうだいしますね?」


 そう言って、火坑が手にしていた心の欠片とは。

 どう見ても、ゾウのバッチだった。