シェアハウスの君と

 ねえ、本当にごめんね。
 こんなことになるなんて君とであったとき思ってもみなかった。
 君とすごした時間はとってもキラキラして信じられないくらい幸せだった。
 今までの人生の中での一番って言ってもいいくらい。
 嫌なことも忘れられた。
 正直に告白します。
 わたしは君のことが大好きでした。
 だから、あの事件。弟の事件のことの話を聞いたら、またいつも通りの生活を送ろうと思っていたの。
 二人で商店街でデートをしたり、庭でピクニックをしたり、そうね、旅行にもいってみたかったな。あとは、普通に映画とか。
 映画といば、あなたは昔映画館でアルバイトをしていたんだっけね。あの、今はない鳥居の向こうにある映画館で。わたしも行ったことあったよ。あの映画館。
 今は神社の駐車場になってしまっているけれど。
 もしもう一度二人でデートできるなら、夜に二人でこっそり映画をみてもよかったかもね。海外の映画であるみたいに、車にのって映画の上映を見るやつ。それを二人きりでやってみてもよかったな。
 そのときは、わたしがピクニックの準備をするね。
 わたしが編んだモチーフのブランケットにあなたの為に魔法瓶にあつあつのコーヒーを詰めて。寒い季節ならあのケーキ屋さんのチェリーのチョコレートボンボンを用意して。たっぷりのブランデーに漬けられた丸ごとのチェリーを薄いチョコレートの膜が包んだやつ。とっても美味しいんだから。あと、もちろんアーモンドケーキも。こってりとバターがたっぷりのスポンジ生地の上に砕いたアーモンドとキャラメルがカリカリになって敷き詰められているの。香ばしさを固めたみたいなそのケーキは誰だってコーヒーが一口欲しくなる。苦いコーヒーを飲んだらケーキをもう一つ欲しくなる。
 君は意外なくらい甘いものが好きだったから、ホールで用意するね。

 ねえ、なんでわたしたちうまくいかなかったのかな?



 決まっている。君が嘘をついたから。
 君が嘘さえつかなければこんな思いをしなくてよかったのに。
 君だってこんな目にあわなくてすんだのにね。
 嘘をついちゃいけませんって小さい頃習わなかったの?

 ねえ、なんでよ。
 なんで、嘘なんてついたの?

 あの事件のことしっているなんて、どうして嘘をついたの?

 あのね、あの事件の犯人のことしっている人なんているわけないんだよ。
 だって、犯人なんていないから。

 弟を殺したのはわたしだから。

 そう、あの小さな弟を殺したのは小さな女の子だったわたし。
 いま考えてみれば事故だったといえるかもしれない。
 だけれど、あのときのわたしには明確な殺意があったの。
 弟なんていなくなればいいなんて思っていた。
 え、兄妹がいる人ならみんなそう思うものだって。
 じゃあ、これならどう?
 わたしは弟がいなくなればいいじゃなくて、弟なんて死んでしまえばいいのにって思っていたの。明確な殺意があったの。

 あの弟の小さくて妙に熱っぽくてべたべたした手が離れればわたしは自由になれると思った。

 だから、わたしはあの時弟にささやいたんだ「かくれんぼしよう」って。
 ちいさな弟はコクンと頷いて、遠く遠くにかけていった。

 タッタタとちいさな足が地面を蹴っていく音が忘れない……目隠しをして、数を数えていたにも関わらずに、わたしはその小さな足音から生み出される砂ぼこりまで手に取るように思い出すことができるの。夢にも見るの。ううん、夢だけじゃない。昼間でもあの時のことを思い出してわたしは何度も繰り返しているの。
 何百回、何万回とわたしはあの時のことを繰り返している。

 ちくちくと熱くなるようなあの感覚。
 ちいさな弟の手はお菓子を食べた後手をあらっていないのかべたべたしていた。
 そして、赤ちゃんみたいな甘いミルクの匂い。
 なんだかその匂いを嗅ぐととっても懐かしい気持ちになるの。ふしぎよね、あのときはまだ年端もいかない子供だったのに、懐かしいなんて言葉も感覚も持っているなんておかしいわよね。でも、なんだか無性に懐かしくなって胸が詰まって泣きたくなるの。

 わたしはいつだって、記憶の中で「かくれんぼしよう」っていう。わたしと弟は何度も何度もかくれんぼをくりかえしているの。あれだけ、弟といっしょにあそぶのがいやでいやでしかたなかったのに何度もかくれんぼを繰り返しているの。あんなにやりたくなかったことを何度もくりかえしているの。

 鬼になったわたしは、「いーち、にーい、さーん」と数えながら考えるの、弟は忘れていないだろう昨日の夜に話してあげた水の中の王国の物語を。
 水の中には虹色の水晶でできたお城があって、緑色の海藻がゆったりと揺れている。
 人は地面に足をつけずに、手足をふわふわと動かしながら前に進む。
 色とりどりの魚がいて、きれいな石をくれたり一緒に音楽を奏でて遊んでくれる。
 そうそう、水の中だからいつもぎゃんぎゃん泣いて枯れた声をしている弟でも大丈夫だよ。なんて教えてあげた。全部、わたしの作り話なのに。
 弟はわたしの話を聞きながら目をキラキラさせていた。
 ――ぼくはどんなおさかなのともだちがいるの?
 ――ぼくはなにいろのきれいないしをもっているの?
 ――おしろにはおひめさまがいるの?
 ――ぼくは、おひめさまとおともだち?
 ――ぼくはみずのなかでだってはやくはしれるんだよ。
 ――ぼくはおそらもあるいたことがあるんだよ。
 ――ぼくは
 ――ぼくは
 ――ぼくは

 いつもいつも、「ぼく」ばっかり。
 お父さんもお母さんも「弟なんだから、ちゃんとめんどうをみてあげて」というばかり。
 わたしは好きでお姉ちゃんになったわけじゃないのに。みんな弟ばかりに注目する。わたしのことなんて後回しだし、我慢ばかり。
 つまんない。
 だから、わたしは彼に囁いたのだ。「ほら、水の中にはいってみたくない?」きっと、お友達がたくさんできるよって。

 弟はきっと飛び込むだろうと思っていた。

「ごー、ろーく、しーち、はーち、きゅーう、じゅうっ!」

「もういいかい?」

 わたしは、そういいながら走り出した。
「まーだーよ」と舌っ足らずで甘えん坊の弟がきちんと言えていない返事を待つことなくわたしは弟がいるべき場所に向かった。
 どきどきした。わたしは自由になれる。わたしの世界が取り戻せる。走っているせいだけじゃなくて、どんどん胸が高鳴り始める。
 走るとほっぺは冷たいけれど、わたしの身体を作る一つ一つの小さな部品が息をして、脈打った。クリスマスの朝みたい。
 サンタクロースが来るのは分かっているけれど、本当にきていることを見つけるまで安心できない。わたしはちゃんとおとうとの世話もお手伝いもするけれど、もしかしたら、心の中で悪いことを考えていることがサンタクロースにはばれてしまっているかもしれない。
 そんなドキドキ。
 そして、証拠を見にいくのだ。
 今年はツリーの根元にはプレゼントの包み紙がきちんと並べられている。金色の包装紙に包まれて銀色の星がてっぺんに飾られたプレゼントが一番大きかった。
 プレゼントの包みは全部で五個だった。

 指先が震える。

 わたしは、一番大きなプレゼントに付けられた星をそっとなでる。つるつるとしてとても冷たかった。この星だけでも一つのプレゼントになりそうだ。表面は丁寧に磨かれ鏡みたいにわたしの顔を映している。
 まるで本当のお星さまを手に入れたみたいだ。

 そういえば、お友達の宝物でこれよりきらきらしていなくて小さな星を自慢げに見せてくれたこがいた。みんなとってもうらやましそうにするけれど、もったいぶってあの子はだれにも触らせてくれなかった。
 あとで「ひみつだよ」っていってわたしに触らせてくれたけど。ざらざらしてちょっとだけべたべたしていた。だけど、「秘密だよ」って言葉はすごくて、わたしだけ特別になったみたいで触れたことだけでとてもうれしかった。なんだか飛び跳ねたいような。
 あとで、その子はみんなに秘密だよっていって触らせていたことをしったときはショックだった。いろんなこが触ったからちょっとだけべたべたしていたんだ。
 でも、あの子はいまでも人気者だ。あのこの「ひみつだよ」って言葉を信じている子がたくさんいるから。
 だけど、この星を見たらきっとみんなあの子のことを忘れてしまうだろう。
 あの子がないて友達皆に星を触らせて歩く姿が見たいとおもった。でも、誰にも相手にされないの。それで、あの子もわたしの星を触る列に並ぶの。
 考えただけでぞくぞくする。だれもが、わたしの言うとおりにきちんとならぶのだ。
 わたしはあの子と違うから、すました顔で「じゅんばんだよ」っていってみんなにいうことをきかせるの。
「ひみつだよ」なんてうそはつかない。この前、読んだ本に書いてあったもの。お姫様はうそをつかないし、みんなにびょうどうだって。
 わたしはお星さまを手に入れてもちゃんと正しい行いをする。いつもいじめられているあのこにだってさわらせてあげる。もちろん、「手をあらってからね」ってあのこにいってからだけど。
 だけれど、お星さまはわたしのモノじゃなかった。一番大きな包み紙は弟へのプレゼントだった。
 お星さまが欲しいってお願いしたのはわたしなのに。
 わたしへのプレゼントはワンピースだった。あつい布でできていてチクチクして重い。しかも襟が大きいから小さな子供みたいで気に入らない。色だって灰色だ。「長く着られる本当にいいものよ」ってお母さんは笑うけど、わたしは納得できなかった。
 しかも、唯一可愛かった箱に結ばれていた虹色のリボンは気が付いたときには弟がよだれでべちゃべちゃにしてしまっていた。わたしがなきそうになっていると、「弟は小さいんだからしかたないんでしょ」そういって両親は弟をかばう。本当は頭を叩いてやりたかった。あんまりあたまがよくないあの子のことだから、きっと軽くていい音がするだろう。いや、ひっかいてやってもいい。爪をぎってたててあの子のやわらかそうな肉に食い込ませたい。あの頃薄くて白い皮膚をちょっとだけはがしてやりたいと思った。
 両親に必死に訴えると「どうして、そんなことをいうの?」と悲しそうな顔をされた。
 わたしは自分の権利を主張しただけなのに。どうしてわたしはこんなに蔑ろにされるんだろう。
 全部弟のせいだ。
 弟なんだ嫌いだ。
 弟なんて大嫌い!



 *


 その水面はいつだって静かだった。
 冬になるとすました顔で白鳥が泳ぐけれど、その姿はとても優雅で気持ちがよさそうだった。生まれ変わるなら、魚じゃなくて白鳥がいいなとおもった。だって、魚は水の中でしかいきられないし、泳ぐことしかできない。
 だけれど、白鳥なら泳ぐこともできるし、空を自由に飛ぶことができる。
 弟は水の中で死ぬから魚に生まれ変わると思う。ちょっとかわいそうな気もするけれど、いい気味だ。
 わたしは次生まれるときは、白鳥のお姫様になるんだ。
 お姫様だからたくさんの家来や召使がいて、なにもしなくていいの。キレイなドレスをきて、優雅に踊るの。そして、王子様と結婚して幸せに暮らすの。

 いつだって、そんな想像をするけれど、たいてい途中で弟に邪魔をされる。

 カシャカシャと小さな靴が雑草を蹴っていく。
 ああ、死んでなかった。わたしはちょっとだけ落胆しほっとする。

 わたしはすぐまたあのべたべたしたミルクくさい手のひらにがっしりと捕らわれるんだ。

 わたしは幼い子供なのにも関わらず自分のことを体と年齢以外は大人と変わらないと思っていたから、軽い絶望を感じていた。
 絶望なんて大げさな言葉を知っていた。

 わたしは捕らわれるのが嫌で、だるくて仕方がなくて、池を足音が向かった方向と反対側に一周することにした。

 ちいさな足音がパタパタパタパタと追ってくる。
 だけれど、わたしは振り向かない。だって、わたしは弟に腹を立てているから。
 弟の足音が追い付けないようにわたしはいつもより急いであるく。
 あのべたべたした手に捕まらないように。
 だけれど、あの小さな熱っぽい手がわたしを捕まえることはなかった。

 ちいさな靴がずっと池の側に転がっていたんだ。
 それは紛れもなく弟の靴だった。


 **

 わたしは、大人たちに弟のことを何度も何度もたくさん聞かれた。
 わたしは慎重にいつも同じ答えを繰り返した。
 わたしは決して間違ってはいけないそれらの質問を確実にできるだけゆっくりとした言葉ではなした。
「弟は勝手にどこかにいっちゃいました」
「わたしはすぐに弟をさがしました」
「誰かがにげていきました」
 わたしは余計なことを言わずに同じセリフを繰り返す。
 言葉って不思議だ。何度も、何度も話していくうちにどんどん滑らかになっていく。
 最初は、冷蔵庫から出したばかりのバターみたいに角があって冷たくてとても重かった言葉が、なんどもなんどもはなすことによって、じんわりと温まって角が取れてまったりとしたクリーム状になっていく。
 わたしは、滑らかな口調でよどみなくしゃべる。
 わたしは決して悪いことをしていないから。
 そして、最後にこう付け加えるの。
「わたしは、今日も弟をさがしたの」
 って。
 たぶん弟は死んでいる。
 だけれど、わたしはそんなことないふりをする。
 弟がいきていると信じているふりをする。

 大人たちはわたしいうことを信じるだけでなく、わたしのことを偉いとほめるようになった。
 小さいのになんていじらしく弟おもいなんだろう。
 わたしってとっても弟おもいの素敵な姉なのだ。
 ほら、今日は弟の絵を描いたチラシまでつくったよ。
 この間お友達のカナリアが逃げてしまった時もこうやって探していますっていう、チラシやポスターを作っていた。

 だから、わたしは弟を探し続けなければいけない。
 だって、わたしはいいお姉ちゃんなんだもの。
 あのときと比べて随分立派になった弟を探していることが描かれたチラシをわたしはコンビニでコピーする。

 わたしはいいお姉ちゃんだから、今日も一日齢をとるけど、弟のためにつかったよ。

 ねえ、満足?
 わたしっていいこだよね、お父さん、お母さん?

 ***

 わたしの日課は弟の捜索のためのチラシをコンビニでコピーするところから始まる。
 近くにある大学のコンビニのコピー機をつかう。
 最近のコンビニコピー機はなんだかいろんな機能を使って難しいし、大学のコピー機ならコピーカードを買うとちょっとだけ割安だからだ。

 わたしはコンビニで印刷したチラシをもって、ふらふらと街をあるく。気が向いたら大学の掲示板とかにも貼ることがある。
 もう古い事件だから、大学に来るような人は誰も知らないはずだけど。
 別にわたしは弟を見つけることが目的なのではないので構わない。
 探していることを世の中に見せたいだけなのだから、なんとなく掲示板に張り付けて見たりする。

 大学の掲示板はカオスだ。新しいものから古いものまで貼られ、いくつもの層ができている。

 そこにあの男がいた。
 あの男はだれもろくに見ることがないその掲示板をじいっと見つめながら、勝手にはがしては貼りなおすを繰り返す。

 色とりどりの色褪せた紙たちを整然と掲示板に貼りなおす。
 なにか彼なりのルールがあるのだろうか。
 そんな風にして眺めていると、彼は一枚の用紙をじっと見つめる。
 わたしが手に持っているものと同じものだ。
 何だろう。
 彼は何かしっているのだろうか?
 わたしは、彼を観察する。
 メガネをかけている顔は真面目そうだ。場合によってはその真面目さが人に冷たいという印象を与えてしまうくらいすべてを見透かしそうな瞳をしている。
 だけれど、時々その眼鏡をくいっと持ち上げて文字を見つめる様子はちょっと間が抜けていてとても可愛らしい。
 そして、ちょっとだけほころんだ口元は優し気だ。

 こんな、のんきそうな男が何かを、わたしの秘密を知っているわけがない。

 だけれど、わたしの秘密はぜったいなのだ。
 絶体誰にもばれてはいけない。
 誰かにばれたかもしれないとちょっと想像するだけでわたしは眠れないし食事も喉を通らなくなる。
 不安の芽は摘んでおかなければいけない。
 わたしは、彼が知らないことを確認するために彼に近づいた。

 ****

 木のテーブルに座り心地のよいちょっとおしゃれなソファーブース。
 店内には新しいものも古いものもちょっとだけお洒落で、家にはないような雑誌が飾られている。
 コーヒーの香りが優しく漂う。
 不思議なものだ。
 コンビニコーヒーが流行っている昨今、コーヒーの匂いなんて珍しくもない。むしろコンビニにちょっといるだけで、服や髪にコーヒーの匂いが染みつきそうなくらい、どこにでも広がっている。
 昔はコーヒーといえばちょっとだけ特別なハレの気分にさせてくれるものだったのに、気が付けばコンビニの匂いになっていた。
 おでんといっしょでいつでもどこでも庶民が楽しめるようになったのはいいことかもしれない。
 日本という国の国民が豊かな生活をもとめ、いつでもし好品を手軽に手に入れられるという証拠だ。
 だけれど、昔みたいに、ちょっと気取った喫茶店で、紅い別珍の張られた丸椅子に腰かけて、縁の金色のカップで味わうコーヒーはどこかに消えてしまった。
 だれかとの待ち合わせとか、デートとかそんなちょっとだけ、特別な日とともにあったはずなのに、いつの間にか誰でも彼でもいつでも手に入る、紙コップに入った飲料に成り下がってしまっている。
 コンビニコーヒーももちろんそこそこ美味しいと思う。
 あのハレの日のコーヒーはまだ若いわたしにとってはほろ苦く、ミルクや砂糖をこっそり足したものだった。いつのまにかわたしの記憶を浸食したコンビニのコーヒーはミルクや砂糖をいれなくてもあっさりと飲み込むことができる。わたしの舌が変わったのだろうか。
 だけれど、わたしはなんとなく記憶の中のハレの日がちょっとだけ汚されたみたいで面白くなかった。

 でも、いま目の前にある現実は紅い別珍ではないけれど、あのときに似た胸の高鳴りがある。
 そおっとテーブルをなでる。
 さらさらとしているのに、あたたかい木の手触り。思わず、木目を指でなぞってしまう。

 お洒落な飾りものである雑誌には今は手に入らない懐かしいものまであった。

 表紙にはあの輝かしい舞台から去っていった往年の映画スターが若いままの姿で当時の最新のファッションを身にまとって微笑んでいる。
 コーヒーは日替わりのものをたのんだ。ムーミンのカップはちょっと重い。けれど、こんな重いマグカップでコーヒーをのむアメリカの自立した女性になったみたいな気分でちょっとだけ嬉しい。なんだか、海外ドラマの登場人物にでもなったみたいだ。
 そして、その一口はとても苦かった。
 きゅっとほっぺたの内側を刺激するような酸味もあって、ちょっと飲みづらい。だけれど、それがとてもうれしかった。
 まるで、初めてコーヒーを口にした少女のように顔をしかめたいという欲求にちょっとだけかられた。
 カップについた口紅を拭うふりをして、わたしはちょっとだけ下を向いて顔をしかめる。初めてコーヒーを飲んだ時の苦みを感じたみずみずしい感覚がちょっとだけもどってきて、ずっと長いあいだぼやけていた視界がちょっとだけクリアになった気がした。
 全身に血がめぐり温かくなっていくのが分かった。
 ああ、人間てこんなに温かかったんだ。
 わたしはどれだけのあいだ凍っていたんだろう。
 気が付くと目の前の男がこちらをじいっとみていた。
 わたしはちょっとだけ困ったように微笑んだ。

 *****

 そうだ、わたしはこの男から危険の芽を摘まなければならない。
 さて、どうしよう。
 わたしはいろいろと考えを巡らせる。
 いろいろと考えながら、さっきよみがえったばかりの感覚もちょっとだけ味わう。
 目の前ののんきそうな男は一体何者なんだろう?
 なんで、大学生なんてしているんだろう。
 あまり脅威になりそうにないと判断してわたしは目の前の男に問いかけた。

「ねえ、さっき見ていたこれ。あなた、何か知っているの?」

 そういって、今日コピーしたばかりの弟の捜索チラシを彼に差し出す。
 時間がピキッと固まる。
 ああ、なんて長い時間だったんだろう。
 男は背筋をピンとさせたままコーヒーのカップを片手に持っている。
 一ミリたりとも動かない。




 ああ、知っているのかもしれない。
 わたしのこめかみのあたりをちりちりとした汗がじわっと染み出し、肌の表面を焼いていく。

 そして、言葉は発せられた。

「僕は君の弟さんをしっている。犯人を見たかもしれない」

 わたしの頭の中はぐちゃぐちゃになる。
 野菜や果物を無造作にぶち込んでミキサーでがーがーとかき回されているみたい。
 レシピもなく放り込んで攪拌しただけではできあがるのはもちろんスムージーでもジュースでもない。
 そこに旨味や飲む人をいたわる気持ちなどないからだ。あるのは混とんとしたえぐみと青臭さだけ。
 わたしはこれをなんとかうまく調整しなければ、だいじょうぶ、りょうりは得意なんだ。
 混とんとした頭で彼について考える。

 男に続きを促しても答えない。
 もしかして、この男はわたしが犯人だといことをしっているのだろうか。

 彼の無言は空気を圧縮しているみたいで、苦しくなる。
 脳が酸素を求める。

 そして、わたしは決意する。
 この男を丸めこまねば。

 わたしは一つの大きなかけにでた。

「ねえ、よかったら一緒に住まない?」

 わたしはできるだけ妖艶に微笑む。そう、あなたに差し出しましょう。体でもお金でも、そう、わたしがあなたを支配して安心できる瞬間までね。

 ******

「おかえりなさい」
 わたしはエプロンを着けて彼を迎える。もちろん、エプロンの下は裸……ではなく、上品な服装を心掛ける。貞淑な妻というようなイメージだ。
 わたしは彼の為にベッドメイクをして、住み心地の良い環境を整えた。
 狭くてボロいアパートに住んでいると聞いているから、この心地よさに感動するだろう。

 ピンとはらせたシーツは冷たく清潔で気持ちがいい。我ながらその完璧さにはほれぼれする。
 もちろん温かな毛布も忘れない。

 さて、次は胃袋だ。

 わたしは腕によりをかけたブフ・ブルギニョンの仕上げにかかった。

 男はわたしの華麗なる食卓にさっきよりは少しマシな恰好で現れた。まあ、合格だ。
 もし、あんまりにもひどい恰好。例えば、パジャマとかえんじ色のジャージとかで現れたら、そのまま殺してしまうと思っていた。まあ、その方が死体の処理の手間はあるけど、いろんな手間が省けてよかったかもしれない。どうせ、あんなことになるならね。

 男は美味しい美味しいと言いながらわたしの料理を食べた。
 でも、わたしのブフ・ブルギニョンをビーフシチューといったことは失笑だった。
 まったく、これだから男というものは。
 幼稚で馬鹿で身勝手な姿が弟と重なる。
 わたしはなんとも言えない気持ちになり、涙があふれてきそうになる。
 わたしは涙の代わりにそっと彼に囁いた。
「シェアハウスへようこそ」

 *******

 それからわたしは彼を全力でもてなした。
 他の住人達もカナエからのお達しだといえば、素直に従った。
 彼にラッキースケベなシチュエーションを与えた。もちろん、わたしたちの休息の為にかれに「ルール」を教える。

 わたしたちはとてもうまくいっていた。
 あと、不思議なことに彼にもあの音は聞こえているみたいだ。
 弟がいなくなってから聞こえる。パタパタという音が。マチコやいちごはきこえないみたいなのに彼だけあの音が聞こえているみたいだった。

 彼はこちらを脅迫したり要求してくることはなかった。
 気が付くとわたしは彼との生活になじみ、彼もなじんでいた。
 演技で微笑んでいたはずなのにいつのまにか彼といるのが楽しくて仕方がなかった。

 わたしは彼につくしつづけ、彼はそれを素直にうけとった。
 なんだかそれがとても自然であたたかかった。
 わたしはかれに差し出すことがたのしくなっていた。
 誰にもつかまりたくない、わたしはわたしだけのためにいきたいとおもっていたのに。
 だって、仕方がないじゃない。彼がわたしの秘密を握っているのだから。


 だけど、そんな日も終わりが突然やってきた。

 ある日、わたしの部屋の扉に小さなアイボリーの封筒が挟まれていた。なかなか上質な紙で、とても滑らかな触り心地だった。
『庭に来てください。伝えたいことがあります』
 それだけ、書かれたカードが入っていた。
 わたしはとうとう来たかとおもった。
 彼はわたしから何を奪い取るつもりなんだろう。お金だろうか。この家だろうか。それとも、わたしの人生だろうか。
 わたしは一生あの男に使え続けなければいけないのだろうか。

 わたしの心の中を炎が覆う。
 オレンジ色や青い光がわたしの身体の中を焦がす。
 わたしは覚悟を決める。

 飲めないような条件の時は死んでしまおう。

 死に装束なら白い服がいいだろうとわたしは白いワンピースを身に着けた。そのままでは寒いのでできるだけ、淡い色のストールを羽織る。
 このまま死んでも恥ずかしくないようにできるだけ、さりげなく自然な化粧を施す。特に血色に気をつけて、口紅だけでなく、しっかりとチークも仕込んでおく。
 わたしはお気に入りのメイソンピアソンのブラシで丁寧に髪を梳かす。髪がつやつやになる。

 少女のように小さな花の髪飾りを刺し、動きやすいようにぺたんこの白い靴を準備する。白い靴を履くなんて初めてかもしれない。だって白い靴って、絶対日常的なものじゃないもの。どんなに気をつけてあるいてもくつって汚れてしまうもの。
 綺麗だなとおもって買ったけれど、汚してしまうのが怖くてずっと履くことができなかった白い靴。小さな白いリボンがあしらわれているのがとても可愛らしい。可愛らしすぎるか心配になるけれど、まあ、死ぬときくらい好きにさせてもらう。

 部屋から直接庭に降りると、そこは知っているわたしの庭とは別世界だった。

 ちいさな電飾が飾られいるおかげで、庭中にちいさな金色の光がともり、妖精か何かがお祭りを開いているんじゃないかと思うくらい幻想的な雰囲気だった。

 庭の真ん中にはギンガムチェックの敷物がしかれ、そこには見たこともないようなごちそうがならんでいた。
 もちろん、見たことのないっていう表現は大げさかもしれない。だけれど、夜の庭が妖精の世界のように飾り付けられて、そのまんなかでのピクニックだ。ちょっと贅沢なサンドウィッチとサラダとペリエ。それに、生の苺をチョコレートでくるんだデザート。
 映画並みにロマンチックだ。
 ロマンチックさって、お金だけじゃ実現できない。これ以上ないごちそうだ。
 相手さえこの男じゃなければ。
 だけれど、彼はとてもやさしかった。
 お姫様にするみたいにわたしの手をとって、小さなクッションの上に座らせてくれた。
 そして、取り分けてくれたごちそうの数々はどれも驚くくらいわたしの好みにあうものだった。
 とくに、ストロベリーチョコレートというデザートが準備されていたのは高ポイントだ。チョコレートコーティングが施された苺が花束のようになっているのを差し出されたときは嬉しくて少女のような悲鳴をあげてしまったくらい。




 だけれど、そんな素晴らしく素敵な時間は嘘だった。






「ごめんね、サクラ」

 わたしは彼の告白を聞いて真っ白になった。
 彼は嘘をついていた。
 弟のことなんて知らなかった。
 わたしは彼に尽くす必要なんてなかった。

 気が付くとわたしは彼のこと殺していた。
 よる、彼の部屋に忍び込んで、わたしは彼を殺していた。

 ********

 わたしは、ぼんやりと彼を見つめる。
 まるで小さな男の子が気持ちよくお昼寝しているみたい。なんだか、弟を思い出す。そういえば、子供のころは弟のことを嫌いだと思っていたけれど、今になってみるとわたしは結構弟のことが好きだったのかもしれない。
 特にお昼寝をしている弟をみるのは気に入っていた。
 ほっぺは食パンの真ん中の白いぶぶんよりやわらかくてほよほよだった。わたしは、なんとなくそれを指先でつつく。桃みたいな色をした皮膚にわたしの小さな爪の先の白い部分が食い込む。あんまりやると母に怒られるのでこっそりと優しい手つきでやる。
 ふにふにとあたたかい肌に冷たい爪がささって跡がつくのがなんとも言えず愉快なのだ。
 そんなとき、わたしはできるだけ意地悪な心を忘れようとする。弟のことが憎たらしいという気持ちも。
 できるだけ、わたしは今この瞬間に感じている感覚が楽しいのだと自分に言い聞かせた。
 ぷにっとしてそのあと跳ね返すよいうな弾力がある弟の皮膚を好奇心で試しているだけ。そんな風に思っているわたしになりきる。
 時々、目覚めた弟の頬に三日月形のあとが残ることもあったけれど、そんなときわたしは弟に特別やさしくする。お昼寝のあとのおやつはわたしの分を分けてあげる。そしてチョコレートクリームを塗りたくって、ほっぺの三日月が見えないようにする。
 弟は喜んでいるし、問題ないでしょ。

 でも、目の前にあるのは死体だ。
 余計なことはしない方がいいだろう。

 わたしはマチコの部屋の扉をたたく。
 曇りガラスをノックするとちょっとだけ手がキィンと痛くなる。骨の中で音が響き続けるみたいに。
 ギイと音を立てながら扉が開く。湿っぽい部屋。まったく、よくもここまで思い切った改装をしたものだ。ちょっと図々しすぎるのではないだろうか。そんなことを心のなかで思っても。フェイスパックを着けていて、なんとも不気味だ。最近は美魔女とかもてはやされているけど、過度にこんなアンチエイジングをするのってなんだかなさけない。でもわたしはこれらの心の中のざらざらした部分を見せないようににっこりと微笑む。
 わたしがにっこりと微笑むとマチコはなぜだかちょっとだけおびえたような顔をする。なぜだか、フェイスパック越しなのに分かる。正直、面白くない。心のなかのざらざらは今度はガラスが混ざった砂みたいに鋭くなる。マチコのことを削ってやりたいとおもった。じくじくといつまでも傷が治らず、血がにじむように。マチコの心を削ってしまいたい。わたしのなかではふつふつとそんな思いが湧き出てきた。
 だけれど、わたしは自分のなかで感情を上書きする。
 なんでだろう、わたしたちはとっても仲良しなのに悲しいな。
 秘密を分かち合った友達なのに。

 仕方がないので、わたしはできるだけゆっくり優しく発音する。
「お願いよ。マチコちゃん」

 マチコはあきらめたようにわたしを招き入れた。

 マチコの部屋はひんやりと冷たい空気で満たされている。植物の青い香りのせいでさらにその空間に独特の水の気配を感じる。ちょっとだけ森に似ているかもとおもった。昔行った、緑が深いあの森に。でも、それは20パーセントくらい。残りの80パーセントは冷蔵庫の野菜室に似ている。
 これも、アンチエイジングの一環だろうか。
 わたしはいじわるくマチコを値踏みする。
 つやつやとした白い肌は、ねっとりと吸い付きそうだ。皮膚の下にはうっすらと脂肪がのっていて、貧層に見えないので、露出がちょっと高めな服でもうまく着こなせる身体だ。まあ、性的な対象としてみるなら男はこういうタイプ好きだよね。
 あくまで、性的な意味でだけど。
 分かりやすい。

「ねえ、マチコ。わたしの秘密知りたくない?」

 マチコの瞳は一瞬、きらりと光るが、すぐに青ざめて首をぶんぶんとふる。遠くで、パタパタと足音が聞えた気がしてちょっとだけ寒くなる。
 人の秘密と不幸ほど甘いものはないというのに。

 わたしはマチコにそっとささやく、

「わたしね、人を殺しちゃったの」