シェアハウスの君と



 闇が僕を覗き込んでいる。

 耳の中では詰め込まれたソフトキャンディーでできたカタツムリたちが、僕の耳の中の渦巻きを独り占めしようとして、互いの殻をぶつけあいながらパリパリと音を立てながら脳に向かって進んでくる。

 ああ、もうだめだ。

 僕はその瞬間、自分の愚かさに気づいた。

 ずっと、逃げてきた僕には無理なのだ。
 ちょっと仲良くなったくらいで、ちょっと優しくしてもらったくらいで、調子に乗っていた僕は馬鹿だったのだ。
 僕には彼女の闇を照らせるような力なんてないのに。

 闇は僕を見つめ続ける。

 逃げたくても逃げられない。

「あ、あの、お茶。そうだ、お茶を淹れるよ」
 何でそんな言葉が出てきたかもわからないけど、僕はとっさにそんなことを言っていた。

 僕は台所に立って、ミルクパンを取り出す。
 台所にある他の大きな鍋とちがって、こじんまりとしたそのたたずまいは可愛らしく、また大失敗を呼び起こしそうにないから僕は迷わずその鍋を手に取った。
 ままごとみたいな小さな鍋で僕はゆっくりとミルクを温める。
 電子レンジを使わないで、焦げないように木べらでかき混ぜながらゆっくりとかき混ぜる。
 木べらはちょっとずつ重くなってくる。鍋の縁にはふつふつと小さな泡が生まれだす。
 昔誰かに、こうやってホットミルクを作ってもらった。
 その時、とても幸せになれたことを思い出しながら僕は、ミルクを温めることに集中した。

「はい、どうぞ。いつもありがとう」

 真っ黒な三日月がこちらを見ている。

 ミルクを温めている間に、逃げたいという思いはどこかに消えていた。

「ほら、冷めちゃうよ?」

 僕がそういうと、いちごちゃんはこちらをみてふうっとため息をつく。
 そこにはもう、真っ黒な三日月はなかった。そこには星のような微かな光を宿した、静かで温かな海があった。
 彼女の手が真っ白なマスクにかかる。
 震えているのが分かった。
 肌からすけて見える血管がピクピクと動いている。彼女の白い肌は彼女の血管を隠すことはできなかった。
 いつもはお菓子とパステルカラーでできているみたいな、作り物じみた彼女の中でその血管だけがやたらと生々しく、本物だった。
 その生々しい手が彼女と世界の間にある真っ白な壁であるマスクにかかる。
 ピンク色の綿菓子にいろんな色の金平糖をばらまいたみたいな爪がそうっと、白い紐をつまんだ。